(鬱の自覚‐2からの続き)
彼はずっと無言でしたが、駐車場に着いたあたりでぽつりぽつりと話始めました。
「君に言われて、昨日の夜、ホテルをさがしたりもしたんだけど、どこも高くて、なかなか数日間も利用はできないと思った。
僕にはどこにも居場所がないよ。
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この間は英語が苦手だからなんて言ったけど、だんだん研究自体が無意味なものに思えてきて、やる気が起こらないんだ。
年齢の事を考えると、大きな仕事をしないといいポストが得られないと思うし。臨床しながらだったら前の教室に帰ればいいかもだけど、基礎系は無理だと思う。
でも今みたいに自分で考えた事はさせてもらえず、上から言われた事だけをやらなくちゃいけなくて、大学院の初めの頃にやっていたような事ばかりやらなくちゃいけなくて、そうしているうちに、研究に対する情熱がなくなってきたみたいだ。
今まで10年近く一生懸命研究してきて、研究費とかフェローシップとか獲って、ある意味競争に勝ち抜いてここまでやってきた。
ここのラボは、この世界ではかなりのトップラボだと思うけど、そこで働いてみて、研究のすばらしさだけじゃなく、腐った所とかもみてきて、もちろんそんな事ばかりじゃないんだろうけど、自分の中での意欲がなくなっていくのを感じる。
この世界にいると、どうしても人よりもいい仕事をしないととかいう気持ちになって焦って、イライラしちゃうけど……
でも、この間、教会に行ったとき、自分ではなく他人のために尽くす人達を話して、こういう世界もあるんだと思った。」
私は、今なら彼も話を聞いてくれるかもしれないと思い、カウンセリングを提案しました。
「私が行こうかと思っていたけど、一度大学のカウンセリングを利用してみない?
今までもたくさんのポスドクが利用してきたんだって。職員は無料なんだって。
詳しい人がいるから、その人にどうやったらカウンセリングを受けられるか聞いてみようよ。
今まで、あなたはなんでも1人で解決しようとする人だったし、実際そうしてきたと思っているかもしれないけど、やっぱり1人でできる事は限られているし、今までだってどこかで皺寄せがあったんだよ。少なくとも私とか、子供達とかには。
大統領だって総理大臣だって、たくさんの側近の助けを借りて色々な事柄を決定してきてるし、どんなに偉い人だって、他の人の助けがないと何もできないんだよ。
一緒に『助けて』って言おう。」
彼はしばらく沈黙していましたが、珍しく
「君がそうした方がいいと思うんだったら、いいよ。」
と言いました。
「でも、いま色々話していて思ったけど、僕はもう研究をやめた方がいいのかもしれない。
研究をガツガツしなければ、仕事の時間がとれないと焦って家でイライラしたり、子供達にきつく当たらなくてもすむようになるし。
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うん、僕は研究をやめるよ。
今すぐにプロジェクトを投げ出してというつもりはなくて、言われた事はちゃんとやるけど、自主的に研究に没頭するんじゃなくて、言われた事だけこなす事に決めた。
そして、休日は仕事の事は考えず、できるだけ子供達と一緒にいる時間を増やすようにする。
日本に帰ったら臨床医として赴任させてくださいって頼んでみようかな。」
そう話しながら、彼の表情や声のトーンはだんだん穏やかになっていきました。
「やっぱりそうするよ。そう考えたら、気持ちが楽になった。
……そして、今日から僕は電車で帰ることにします。」
急に話が展開したので、私は思わず聞きました。
私「それはさっき私がお願いしたから?」
彼「うん。」
私は彼が本当は今までも一緒に通勤したかったのではないかと思いました。
私「あなたが私と一緒にいるのが嫌だと思っていたからそう言ってきたけど、あなたが一緒に車で通勤した方がいいんだって思っているんだったら、私は一緒に通勤するよ。」
私がそういうと、彼は目を伏せながら
「じゃあ、一緒に通勤した方がいいと思います。」
と言いました。
相変わらず、「僕が一緒に通勤したいと思っているから。」のような言葉は口にしませんが、今はその言葉から推測するよりありません。
「じゃあ、帰りはいつものように4時半にそっちのオフィスにくるね。」
と言い、車のドアを開けました。
出勤時刻を大幅に過ぎ、友達から
「今日はラボに来ないの?大丈夫?」
というメールが来ていましたが、
「諸々あって遅くなっちゃった。でも、今から行くよ。」
と返信し、彼と2人で歩いて研究室へ向かいました。