※真空(マカーラ)とは、アラビア語で論考の意味

宗教信仰復興現象のなかの統一教会(世界平和統一家庭連合)と政治家   島薗 進

はじめに

 7月8日、参議院選挙で遊説中の安倍元首相が銃撃により殺害された。この許しがたい犯行の背後に、宗教教団への恨みがあることが露わになってきている。山上徹也容疑者の母親が世界平和統一家庭連合(統一教会)に所属し、多額の献金を行ったことで生活が破壊されたことへの報復の意図があったという。このような犯行はけっして許されることではない。
 だが、宗教教団がなぜそのような恨みの対象となったのか、また、それが安倍元首相という政治家を対象とする犯行となったのか、という問いが生じる。このような事件が2度と起こってはならないという思いは、自ずから犯行動機の理解へと向かう。それに対して、宗教信仰研究に取り組んできた立場から、統一教会などの新宗教を長年、研究しこれまで得てきた知見から、参考になる情報を提示したいと考える。

Contents
 これは、宗教信仰復興会議が行なってきている企てとも関係が深いことである。近代日本における宗教信仰復興は、新宗教の発展という形で顕著に現れてきた。世界平和統一家庭連合は長期にわたって世界基督教統一神霊協会、略称「統一教会」と名乗ってきた教団である。韓国では1994年、日本では2015年から世界平和統一家庭連合を名乗るようになっているが、1960年代以来、世界基督教統一神霊協会(統一教会)とよばれてきた教団なので、今も統一教会とよんだ方が理解されやすいことが多い。そこで、この稿では、主に統一教会という呼び名を用いることにする。
 ここでは、2つの話題について、関連情報を提示して、上記の問いへの答えを得る手がかりとしたい。

(1)なぜ安倍元首相という政治家を対象としたのか?
 宗教教団への恨みが、なぜ安倍元首相という政治家を対象とする犯行となったのかについて、以下の海渡雄一、小川隆太郎両弁護士による反訴状(2020年9月24日)を参照していただきたい。
https://socioanalysis.net/slapp/wp-content/uploads/2020/09/nakano_slapp_20200925_counterclaim.pdf?fbclid=IwAR2KXM0MLw2SlwMA72eiDI-To_uxhs0HCPVXiP_wnIFmEW1nHOE9liqCSdc
 この反訴状が出された訴訟について、『東京新聞』2020年9月25日号は、「「嫌がらせ目的のスラップ訴訟だ」自民・世耕議員の提訴に青学大・中野昌宏教授が反訴」との見出しを掲げて、次のように述べている。
「ツイッター投稿が名誉毀損だとして自民党の世耕弘成参院幹事長から提訴された、青山学院大の中野昌宏教授が25日、世耕氏に慰謝料など150万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたと発表した。世耕氏の提訴を「批判者をだまらせるなど、公共の言論空間の萎縮を目的とした人権侵害だ」としている。
 中野氏は2018年2月と昨年7月、世耕氏について「原理研究会(統一教会)出身だそうですね」などと投稿。世耕氏は昨年10月に中野氏を提訴し、「所属しておらず投稿内容は虚偽」と主張した。(中略)訴状では、世耕氏は中野氏の投稿へ否定や反論、削除要請をせずに提訴しており、どう喝や嫌がらせを主眼にした訴訟だと主張。」
 この反訴状の17-26ページを見ると、(1)自民党と統一教会の密接な協力関係の歴史、(2)1950〜70年代、(3)1980〜90年代、(4)2000〜2010年代:第1次安倍政権前後、(5)第2次安倍政権、と題して、およそ60年にわたる統一教会と自民党との「密接な協力関係」が示されている。

(2)統一教会という宗教教団はなぜ多大な恨みをかうことになったのか?
 次に、統一教会という宗教教団はなぜ多大な恨みをかうことになったのかについてだが、これについては、筆者が『新宗教を問う』(筑摩書房、2020年)に記したものを引かせていただく(240-243ページ)。詳しくは『新宗教を問う』そのものをご覧いただきたい。

統一教会の現世否定的な側面
もう一つこの時期に発展した新宗教のなかで取り上げるべきものに統一教会がある。統一教会もエホバの証人と同じように外国から入ってきた新宗教だ。その母国は韓国である。現世否定的な面と現世肯定的な面が混合している宗教で、世の終わりを強調しているところもある。世の終わりは現世が悪にまみれているという考えと結びついている。活動形態には出家的な傾向があり、若者がこの世の生活を捨てて共同生活をする。結婚も神の意志のままに行う。一般社会のモラルとは違うようなラディカルな宗教的生き方を勧める。悔い改めるべき罪を強調するのも特徴だ(櫻井義秀・中西尋子『統一教会』、参照)。
統一教会は世界キリスト教統一神霊協会の略称である。現在は世界平和統一家庭連合と称している(韓国では1994年、日本では2015年に改称)が、ここではよく知られている統一教会という名称を用いる。もともとキリスト教を名乗ってはいたが、キリスト教の来世思考、現世否定的な面を受け入れながら、韓国の土着的な儒教や道教が混ざったような現世肯定的な宗教性ももっている。
教祖、文鮮明(1920―2012年)は現在の北朝鮮の平安北道の生まれで、日本で苦学していたこともある。戦後、北朝鮮でキリスト教の布教にあたったが投獄され、南の軍隊(国連軍)によって釈放されたという。この時期、京城帝国大学医学部に学んだ劉孝元と出会い、その助力を得て、1954年、世界キリスト教統一神霊協会が発足している。聖典、『原理講論』も劉孝元の筆によってまとめられたものだ。
『原理講論』では、聖書の創世記を独自に捉え返して「堕落論」が引き出されている。天使であったはずの蛇がサタンとなってエバと姦淫し、続いてアダムも淫行に加わった。これが人類の堕落のもとである。人類は原罪を負い、サタンの血統を継承することになった。こうして堕落した人間が神に近づいていく復帰の歴史を推し進めていかなくてはならないとする。このように性が悪(罪)をもたらすとし、若者に性的禁欲を求めるとともに、神の導きによる正しい結婚を行うことが救いへの道であると説く。教祖の命じた相手との集団結婚(「祝福」とよばれる)を推し進めるのもこの教えにそったものだ。
罪を負った人間が復帰の摂理を完成するのはイエスの再臨である文鮮明によってだ。だが、その過程を推し進めるために、罪を減らしてこの世の資源を神の下へと復帰させていく必要がある。罪を清算することを「蕩減(とうげん)」といい、また「万物復帰」という。実際には教団に人的物的資源を惜しみなく投ずることを指すことになる。壺や多宝塔や印鑑などの物資を破格な高額で売りつける霊感商法も「蕩減」として正当化された。日本の統一教会が社会問題となったのは、60年代から70年代にかけてで、若い信徒を家族から切り離し共同生活をさせ、時に学業放棄に向かわせるからだったが、80年代には霊感商法と合同結婚によって厳しく批判された。

日本社会と対決した統一教会
 統一教会は世界諸国で活動を行ったが、霊感商法が激しく行われたのは日本だった。これは日本は堕落を引き継ぐ「エバ国家」であり、「アダム国家」である韓国に負債があり、日本が韓国に「侍る」、つまり人材と資金の供給を行うのは当然だという教えにのっとったものだ。韓国では約7000人の日本人女性信徒が、統一教会の「祝福」により韓国人男性と結婚したが、これは韓国の農村部の男性の結婚難が背景にあったとされる。
 統一教会は共産主義と戦うことを自らの使命とし、1968年に国際勝共連合を設立した。これによって韓国の軍事独裁政権だった朴正煕大統領の支持を得、日本の右派や反共主義者とも手を結んだ。1974年には世界平和教授アカデミーを組織し、大学教授などの支持を得ることにも力を入れた。選挙のときに自民党の政治家を助ける活動にも関わっており、2010年代にはそれが続いている。統一教会が日本人からの搾取を正当化する教えをもっていることが報道されたあとも、この事態は変わっていない。
 社会に害悪を及ぼす宗教教団を「カルト」とよぶ用語法は、オウム真理教事件によって広まるようになった(「カルト」の語の用語法の歴史については、井門冨二夫『カルトの諸相』参照)。しかし、一般社会の良識に正面から挑むような活動を行ったという点では、1980年代以降の統一教会が及ぼした影響も大きい。統一教会には現世の悪や人間の罪深さを強調し、それと対決することを促す性格があり、それ以前の現世肯定的な新宗教とはだいぶ異なる志向をもっていたといえる。それまでの新宗教では、中年の女性が信仰活動の主体となることが多かったが、統一教会の場合は、オウム真理教と同様に若者の、それも男性の入信が多いのも新しい特徴だった。
 創価学会も発展していく時期には一般社会と対立する局面があった。そういう局面が統一教会やオウム真理教に引き継がれていく。だが、その間に創価学会は一般社会と良い関係を保つ方向へといくぶんか転換していった。また、創価学会の教えには現世否定的な側面は乏しかった。これに対して統一教会は、新新宗教、つまり1970年前後から次第に目立ってくる、新しいタイプの新宗教の早い例といえる。

 以上、主に引用という形で、(1)なぜ安倍元首相という政治家を対象としたのか、(2)統一教会という宗教教団はなぜ多大な恨みをかうことになったのか、という問いに答えるための素材を提示した。オウム真理教がもたらした衝撃とは異なる形ではあるが、今回の安倍元首相殺害事件は宗教研究者や宗教者に問いを投げかけている。ここに提示した資料は、そのことを側面から証するものである。
 宗教信仰復興会議は現代における宗教信仰復興について考えていくことを主要な課題の一つとしているが、現代の宗教信仰復興がときにたいへん暴力的、あるいは抑圧的な形をとることについて考えていくことも、その課題の大きな一部であると考えている。今回の不幸な出来事を一つの契機として、さらにこの課題に深く取り組んでいきたい。

報道と参議院選選挙結果と「特定の宗教団体」 2022年7月11日夜に記す   鎌田東二

はじめに

昨日(2022年7月10日)20時、参議院選の投票が終わり、即日開票となった。予想どおり、自民党の圧勝だった(と言えるだろう)。前々日の7月8日に、安部晋三元首相が自製の銃からの発砲に被弾して倒れるという、青天の霹靂のような予想外のことが勃発し、国内外が騒然となったことも大きく影響しての結果である。

Contents
 事件直後から、テレビも新聞も各社ほぼその報道でもちきりだった。当然のようでもあるが、しかし、私にとっては極めて不自然な一項があって、疑念を持たざるを得なかった。
 それは、銃を撃って安部元首相を殺害した容疑者が恨みを持っているという「特定の宗教団体」名が各社報道ではほぼ明らかにされないままに投票日当日を迎えたことである。選挙が終わった7月10日くらいからそれが「統一教会」(現在は「世界平和統一家庭連合」)であると一般にも報道され始めた。
 もちろん、一部のネット情報や宗教情報に詳しい人たちの間では、事件当日から「特定の宗教団体」が「統一教会」であるという書き込みや認識はあったようである。が、それが各社報道で「特定」されることはなく、ただ抽象化されて「特定の宗教団体」とだけ報道されつづけた。ほぼ2日間。
 これは、もちろん、不確かな報道をしないという報道各社の自制もあったかもしれない。また、警察当局の情報公開の精度や抑制もあったかもしれない。
 細かく言えば、各種報道機関でも差異はあるだろう。しかし、当日からのTV報道を中心に見ている限りでは、「統一教会」という明確な「特定」はされなかった。
 この時、当然のことながら、新聞やネットニュースの読者やTV視聴者は、その「特定の宗教団体」がどこであるか、関心を持っただろう。しかし警察も報道各社もその「特定」化はしない。そこで、疑念を持ったり、関心を持ったりした人は、それがどの団体であるか、大手報道機関ではないところで流れているネット情報を検索したであろう。そしてそれが、「統一教会」らしいという情報に触れることになったと推測される。
 しかし、それは大手新聞社やTV各社で参議院選選挙が終わるまで固有名が明示されることはなかった。
 ちなみに、事件当日と翌日に朝日新聞電子版の記事の冒頭部を引用しておく。

<「特定の宗教団体に恨み。近い安倍元首相を狙った」 容疑者が供述 2022年7月8日 20時38分
 安倍晋三元首相が街頭演説中の奈良市で銃撃され死亡した事件で、現場で逮捕された山上徹也容疑者(41)が「特定の宗教団体に恨む気持ちがあった。安倍元首相が(その団体に)近いので狙った」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材でわかった。
 山上容疑者は8日午前、演説中の安倍元首相の背後から手製とみられる銃を発砲して殺害しようとした疑いで現行犯逮捕された。
 捜査関係者によると、逮捕後の調べに対し、特定の宗教団体の名称を挙げて「恨む気持ちがあった」と説明。そのうえで「安倍元首相が(その団体と)近いので狙った」という趣旨の供述をしているという。
 一方で、「(安倍元首相の)政治信条に恨みはない」などとも話しているという。>

<父は急死、母は宗教団体へ多額の金 安倍氏銃撃容疑者の生い立ち 2022年7月9日 21時08分
安倍晋三元首相(67)が銃で撃たれて殺害された事件で、殺人未遂容疑で奈良県警に現行犯逮捕された無職、山上(やまがみ)徹也容疑者(41)=奈良市大宮町3丁目=の親族が朝日新聞の取材に応じ、「山上容疑者は子どもの頃から、母親が入信していた宗教団体をめぐって苦労していた」と話した。
捜査関係者によると、山上容疑者は逮捕後の調べにこの宗教団体の名を挙げ、「恨む気持ちがあった」と説明。その上で、「安倍元首相が(その団体と)近いので狙った」という趣旨の供述をしているという。 
取材に応じたのは、山上容疑者の親族で大阪府内に住む70代の男性。男性によると、山上容疑者は建設会社を営む父と母の次男として生まれ、兄と妹の5人で生活していた。(以下略>

 問題は、報道各社がこの「特定の宗教団体」がどこであるか分かっていてそれを記事にするのを避けたのか、それとも奈良県警なり政府機関が報道各社に「特定の宗教団体」を明記しないように求めたのか、なぜ報道各社はこの不自然な表現をほぼ2日間も使い続けたのかである。
 これは、「事実」をいち早く読者に伝えるという報道機関の役割に即していない。もちろん、それが誤認報道であったとしたら、大問題である。だが、かなり精度の高い情報を知っていたにもかかわらず、それが抑制されていたとしたら、別の大問題が起こる。
というのも、もしこれが8日の午後以降の段階で、「特定の宗教団体」が「統一教会」だと報道されていたら、選挙結果は変わっただろう。少なくとも「自民党圧勝」とか「自民党大勝」という結果にはならなかっただろうということだ。
というのも、当然のことながら、浮動票をはじめ、投票自体、投票時(投票前後)の国民心理の反映ないし投影があるからだ。投票所に行ってから、その時のイメージで誰に投票するか、どの政党に投票するか、決めることもあるかもしれない。
 だとすれば、7月8日・9日の事前投票と、10日当日の投票は「特定の宗教団体」という曖昧な表現のままぼかされた情報を手がかりとしたイメージで、投票権者は、各社報道による一抹の不安と何らかの疑念を抱えたまま、その間の投票を行なったということになる。
 その結果が、「自民党の圧勝(大勝)」であった。そして、選挙戦最後の2日間、「議会制民主主義を守る」「暴力に屈しない」という合言葉が声高に叫ばれる中、それまでに事前投票を済ませていない国民は投票することになった。
もし、これがすでに分かっていて、2日間近く故意に隠されていたとしたらどういうことになるか? それこそ、国民の知る権利や信教の自由や政教分離など、民主主義の根幹に関わる大変な事態である。つまり、「事実」を知らされないまま、十分に吟味できないまま、曖昧な情報と不安定な心理で投票することになるからだ。
もちろん、多かれ少なかれ、そのような不安定さや流動的なイメージ作用は常にあるし、起こっている。だからこそ、米国大統領選挙に典型的に見られるようなネガティブ・キャンペーンなども選挙運動に利用されることになる。
国民が「安定した秩序」を求めて、とりあえず自民党に投票したというならば、この「特定の宗教団体」が明示されないままに行なわれた投票というのは、本当に「安定した秩序」構築になると言えるだろうか? むしろ、一層の疑心暗鬼を生むような「不安定さ」を事後にもたらず不自然な2日間だったということになるだろう。
この2日間の報道の「もやもや」が解消されず、「うやむや」になってしまうことを懼れる。報道と選挙・投票とその結果について、デリケートな相互関係があることを、改めて今回の事件で思い知らされた。

空気の色は何色?―見えないものごとの重要性   水谷 周

はじめに

空気の色は無色と思うのが普通です。しかし宇宙から見ると、「地球は青かった」ということになります。人は自分のいる所からは、どういった空気に取り囲まれているか、容易には判明ません。それと同様に、自分の生きている時代の特徴といってもはっきりはしないのが通常です。本論では、戦後日本社会の無宗教とも言われる時代の特徴を、しっかり把握することを目指します。

Contents
 空気の色は無色と思うのが普通です。しかし宇宙から見ると、「地球は青かった」ということになります。人は自分のいる所からは、どういった空気に取り囲まれているか、容易には判明ません。それと同様に、自分の生きている時代の特徴といってもはっきりはしないのが通常です。それは時間が経って、歴史家が振り返ってみて、時代の特徴づけをすることで判明するからです。
 一方、そのような時代の特徴に関しては、当然のように思っていたことが覆されるケースもあるから、興味は尽きません。ここではまずいくつかそのような、チャブ台返しのように日頃の常識が逆転させられた事例を取り上げます。それは歴史上有名な、「コペルニクス的転回」にも相当します。天動説が地動説に裏返させられたのですから、驚き以外何物でもありませんでした。

1.アンリ・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』 地中海を取り巻くローマ帝国は、北方からの蛮族の民族移動により、その繁栄を奪われたと見るのが普通でした。それが世界史に出てくる定説でした。しかしそれを覆したのが、この『ヨーロッパ世界の誕生』です。そこでは、7世紀以来イスラーム勢力が地中海の南半分を支配するに及び、地中海貿易を牛耳ることとなったことで、ローマ帝国の衰退は決定的となり、最後の崩壊を迎えることになったというのです。実にイスラームの進出が世界の成り立ちを変えてしまったということなります。

2.ロナルド・フィリップ・ドーア『江戸時代の教育』 日本の教育はレベルも高いし、謹直な姿勢は国民性として世界でも自慢できると考えている人は、少なくないはずです。日本の近代発展の上で教育の果たした役割は、確かに大きいものがありました。しかしそれは国民性というよりは、それ以前の江戸時代の教育に大きく依存していたというのです。藩校における教育の実態や寺子屋・郷学・教諭所での教化訓練のあり方を通して,江戸時代の教育がどれほど近代社会成立の基盤を準備したかを、綿密に跡付けています。これも人の常識を覆すものでした。

3.鈴木大拙『日本的霊性』 日本は仏教を取り入れましたが、それは鎌倉時代に浄土教と禅宗の発達をみることで、初めて国民に根付いたという見解です。それまでは別物と見られていた念仏と座禅によって日本人の宗教性が覚醒し、霊性が開花したというのです。それ以前は仏教といっても主として鎮護国家を目的とした支配者層のものでした。そして浄土教系と禅宗系の両派は、実は日本的霊性という視点からすると同根であるという点で、全く新たな見解となったのでした。仏教の日本定着に関する逆説的な見地を広めることとなりました。

4.ヨハン・ホイジンハ『ホモ・ルーデンス』 意味は「遊ぶ人」ということですが、遊びこそは人間の文化形成の原点であるというのです。通常は、遊びというのは仕事と対比されて、真面目な側面である文化や社会の創出と関連付けられるとは、あまりなかったと言えるでしょう。その点、真逆になりますが、遊びこそは文化創造の出発点だとしたのでした。遊びは人の自然で自由な営為であり、そこで働かされる想像力は人の創造力にも貢献してきたのでした。そのような諸例は、異なる文化文明や古今東西の地理的な条件に縛られない話です。つまり人類の法則といえるものなのでしょう。
 この他にも種々実例はあるはずですが、ここではこれで止めます。そしてここからは、どうしてこのようなチャブ台返しの諸例を見て来たか、その理由を記します。それは現代日本における宗教信仰を巡る状況は、やはり色の見えない空気なので、その実像はなかなか一筋縄では判明しないという問題を提示するためです。その難しさを浮き彫りにするために、自分の浸っている世界認識の「コペルニクス的転回」の諸例を列挙したということです。
 敗戦後の日本は、非常に特殊な時代に入りました。戦前の軍国主義を支えることとなった国家神道はじめ諸教に対する失望感は非常に大きなものがありました。「神も仏も助けてくれなかった」という実感です。そのために、新憲法で政教分離が掲げられたのですが、それは何の抵抗にも合わずに日本社会全体に浸透しました。いや、それ以上に宗教は社会の中で片隅に置かれる存在になりました。過敏なアレルギー症状を伴いつつ疎外されたと言っても過言ではありません。公的教育から追放されるだけではありませんでした。自らが特定の宗教に帰依することは避けるのをためらわず、また世界における宗教の精神的な役割に関する理解や共感も喪失してしまいました。「宗教」という言葉を見たり聞いたりするだけで、拒絶反応を示す様子を想像するのに手間はかかりません。
 物質的な繁栄だけを追い求め、それが人生すべてであるという亡霊に取りつかれたのです。これは感染病のようなものですが、ワクチンなど妙薬はありません。病気だと気が付いた人は、見えない敵と戦うしかないのです。それは社会全体の潮流にそぐわないので、広く理解と同情を集めることも全く期待外です。しかしいずれその清算を迫られる時は来ざるを得ません。自殺大国、援助をしても物中心で心が通じないので感謝されない日本、常に生きがいが大きなテーマになること、人生の最後に近づくと千々に乱れる心などなど、社会の歪みが精神的な泉の乏しさに起因している現象は、日常茶飯事です。そしてそれに薄々気づいてはいても、明確な警鐘が鳴らされず、さらにはほとんど手立てが施されずに時間が過ぎていることは、嘆かわしいとしか言いようがありません。
 今の日本でも折々の神社参りや墓参りは、それなりに熱が入っているようです。またお祭りが好きだという人は少なくありません。それらを見て、日本も捨てたものではないという結論を出して、それで一安心というのであれば、それは自分を慰めているに過ぎません。人間の歴史全体における宗教の意義を正しく認識して、それを公教育で教えることがまず求められます。さらに宗教の如何を問わず全国民的な黙祷や祈りなどの儀礼を確立し実施することも有効でしょう。しかしこのような具体論はこの小論の範囲を越えます。
 本論のポイントは、敗戦後日本社会の風潮となった宗教アレルギーという、特殊な時代的特徴を浮き彫りにして、それを見失わないという点にあります。

「現代京都藝苑2021」開催報告   秋丸 知貴

はじめに

始まりは、鎌田東二の霊感(インスピレーション)である。日本語の「もの」は、「物(モノ)」と「者(モノ)」と「霊(モノ)」を含意する。つまり、「もの」という一語に「物質的次元」「精神的次元」「霊的次元」が重なり合っている。この「もの」という言葉に込められた重層性を手掛かりとして日本の伝統的感受性の内容と意義を探るのが、鎌田の提唱する「モノ学・感覚価値」研究の主要な目的であった。

Contents

要するに、古来日本人にとって自然は、近代西洋科学が対象とする死せる無味乾燥な「材料」ではない。日本の伝統的感受性において、自然は全て人間と同類の「心」を持つ精神的存在であり、物質的にも人間と同等の価値を持つ「素材」である。なぜなら、本来人間を含む自然は全て、彼岸の「幽」界における「大霊(サムシング・グレート)」の分有であり、その個々の「霊」は此岸の「顕」界に物質化する際に「魂(アニマ)」となって宿るからである。古来、日本人はこの「霊魂」が顕幽両界を循環する死生観を育みつつ、自然においても人間においてもその「霊魂」の強い現れを神々として捉えてきた1)

従って、「もの」という日本語を手掛かりに日本の伝統的感受性を探る試みは、「幽」界の存在を否定し、「顕」界だけが全てと見なすことで、飛躍的に物質的発達を遂げた代わりに、致命的な人間疎外や自然環境破壊をもたらした、理性的男性原理を偏重する近代西洋文明のマイナス面に対する補完要素となりうる。それが、「モノ学・感覚価値」研究の今日的意義だったと言える。

この鎌田の「モノ学・感覚価値」研究は科研費に採択され、日本の伝統的感受性を最も色濃く残す千年の古都京都で繰り広げられることになった。なぜなら、鎌田の在籍する京都造形芸術大学(現京都芸術大学)で出発し、後に転任した京都大学こころの未来研究センターを拠点としたからである。2006年にモノ学・感覚価値研究会が発足し、2009年にはアート分科会も誕生した。モノ学・感覚価値研究会及びアート分科会が精力的に研究会・シンポジウム・展覧会等を行う中で、一つの集大成として2015年3月に開催されたのが「現代京都藝苑2015」であった2)

「京都藝苑」は、高橋博巳が提唱した学術用語である3)。つまり、18世紀後半の京都において大勢の文人達と画家達が一つの濃密な交流圏を形成したことを指す。現代の京都において、鎌田を中心として大勢の学者達と芸術家達が連携して展開したモノ学・感覚価値研究会及びアート分科会こそは正に「現代京都藝苑」と呼べるだろう。

この現代京都藝苑2015は、「悲とアニマ」展(北野天満宮)、「素材と知覚」展(遊狐草舎・虚白院)、「連続の縺れ」展(The Terminal KYOTO)、「記憶の焼結」展(五条坂京焼登り窯)という4つの現代美術の展覧会(5会場)から構成された。その美学・美術史上の意義は、次のようにまとめられる。

最も重要な点は、神社、町家、仕事場という日常生活に根差した空間で展示することにより、現代美術における日本の伝統的感受性の現れ方が浮き彫りになったことである。つまり、ゲオルク・ジンメル4)やアンドレ・ジイド5)が指摘するように、近代西洋の美術(ファイン・アート)は作品を人間理性の純粋な自律的完結物として自然や生活から切り離す。そのため、展示においては額縁や台座が強調され、日常生活上の機能連関が一切遮断された純白空間(ホワイトキューブ)が要請されることになる。これに対し、現代でも日本の美術作品は逆に自然や生活との連続的性格が強く、人と物と場の相互作用が生み出す雰囲気が重要な意味を持つことが多い。そこでは、近代西洋の美術(ファイン・アート)が切り捨ててきた宗教性や実用性が濃厚に漂うことになる。このことは、出品作家達が皆あくまでも近代西洋由来の美術(ファイン・アート)の枠組みで作品展示したからこそ明らかになった特色と言える。

それらの中でも特筆すべきは、従来現象学的観点からばかり論じられてきた1970年前後の現代日本美術を代表するもの派が日本の伝統的感受性を強く成立要因としていたことや、そうした日本の伝統的感受性を21世紀の現代日本の美術家達も数多く共有していることや、それらの現代日本美術が生花・茶道・能楽等の日本の伝統的な芸道と親近性を持つこと等である。すなわち、谷川徹三が近代西洋の美術(ファイン・アート)を基準として嘆いた「芸術的隔離性6)」の低さこそが、むしろ逆に現代日本美術の個性として、大西克礼の「パントノミー7)」や鼓常良の「無框性8)」の文脈で高く評価できるのである。

◇◇◇

そして、その6年後の2021年11月から翌年1月にかけて開催した「現代京都藝苑2021」は、これらの問題をより深め広く社会発信することを目指すものであった。主イベントである展覧会(会期:11月19日~28日)の出品作家については、存命作家は2015年の出品者から選抜し(池坊由紀・入江早耶・大西宏志・大舩真言・岡田修二・勝又公仁彦・鎌田東二・小清水漸・近藤高弘・関根伸夫・松井紫朗)、さらにもの派の吉田克朗と成田克彦を新たに加えた。

展覧会のタイトルは、「悲とアニマⅡ」とした。2015年の4つの展覧会の内、「悲とアニマ」を選んで続編としたのは、現時点においてそこに日本の伝統的感受性が最も現れやすいと考えたからである。つまり、感受性は本来自然であるために無意識的であり、それを意識的に表現しようとすると不自然になる。そこで、出品作家達には日本の伝統的感受性を直接表現しようと努めるのではなく、東日本大震災から10年後であり、新たに新型コロナウィルスという大災厄に見舞われた現在に感じていることをありのまま自由に表現してもらい、そこで自ずから立ち現われるものを提示することにした。

このことは、次のように言い換えられる。カール・ユング9)やエーリッヒ・ノイマン10)に倣えば、人は強烈なショックや絶望的な無力感を経験した時に、意識から無意識へ、さらに集合的無意識へと沈潜しやすくなる。もし日本の伝統的感受性が立ち現われるとすれば、それはこの集合的無意識の領域においてのはずである。また、集合的無意識は、彼岸へと繋がる聖なる領域であり、宗教や芸術を始めとするあらゆる創造力の源泉とされる。そこでは、人は様々な元型(アーキタイプ)を触媒として、此岸の自分や社会に欠けている要素を補償するイメージを獲得する。そうした元型の例として、共に「アニマ」と訳される「内なる異性」や「自然の魂」が考えられる。もし日本の伝統的感受性に基づいて近代西洋文明のマイナス面を補完する芸術的シンボルの創造を求めるならば、「悲」において「アニマ」と向き合うことはその有力な契機でありうる。これらが、「悲とアニマ」という詩的で抽象的な展覧会名を採用した意図であった。

この観点から、監修の鎌田東二の発案により、展覧会のサブタイトルは「いのちの帰趨」に決まった。鎌田はかねてより顕幽両界における霊魂の循環を「翁童論」として説いており11)、それを言い換えた「いのちの帰趨」によりこの展覧会が死生観における日本の伝統的感受性のあり方をテーマとする方向性がより明確化された。これを受けて、監修の山本豊津の提案により、展覧会の展示構成は、第一会場である仏教寺院の両足院を「彼岸」、第二会場である町家のThe Terminal KYOTOを「此岸」と位置付け、出品作家がそれぞれ両会場に出品するという方式が定められた。これは、両会場の間を流れる賀茂川が古来京都では彼岸と此岸を分け隔てる意味合いを有していたというサイト・スペシフィックな文脈を生かすものであった。

個々の展示作品の解説については、現在準備中の図録に譲る。本稿では、特に日本の伝統的感受性という点で注目すべき作品に焦点を当てて紹介しよう。

まず取り上げるべきは、展覧会初日前日の11月18日に両足院の本堂で本尊の阿弥陀如来に献華式を行った池坊由紀である。この献華式で、池坊は華道本流の次期家元として、生花の技法を用い、生花が仏への供花に由来するという文化的伝統に則りつつ、一人の美術家(ファイン・アーティスト)としてコンセプトを重視する《巡り――いのちが去り》(2021年)(図1)を展示した。作品構成上、これは黒く染めたシダレグワを∪型に設え、ツルウメモドキの無数の赤い実をあしらい、前に若松を立てたものであり、The Terminal KYOTOの床間で、白く脱色したシダレグワを∩型に垂らし、グロリオサの赤い花弁を一つ差し、アンスリウムの枯葉で飾った《巡り――いのちが生まれる》(2021年)(図2)と呼応するものであった。この一対で白黒や花実や老若を対比する円環構造について、池坊自身は「彼岸の作品は『命がもどっていくさま』、此岸の作品は『命が産み落とされるさま』を表現している12)」と説明しており、正に日本の伝統的死生観を顕著に表象する概念芸術(コンセプチュアル・アート)だったと言える。

ここで興味深い点は、この池坊の作品はどちらも他者との協同作業により完成するものだったことである。つまり、両足院の《巡り――いのちが去り》では、最後の若松は池坊の示唆により鎌田東二が差して完成した。また、The Terminal KYOTOの《巡り――いのちが生まれる》は、花器である近藤高弘の《白磁壷――カタチサキ》(2021年)(図3)と組み合わされて完成した。これは、近代西洋美術が個人の美術家による完結を基本原則とするのに対し、連歌的協働を本質的要素とする点で日本の伝統的感受性に基づくものだったと言える。

なお、鎌田はさらに11月21日にこの両足院の《巡り――いのちが去り》の前で本尊に鎮魂能舞を奉納した(演者:鎌田東二・河村博重・由良部正美)。これは、芸術における宗教的要素を重視する点でやはり日本の伝統的感受性を生かしたものだったと言える。

また、近藤の《白磁壷――カタチサキ》は、焼成の過程で偶然に生じた割目を造形上の本質的要素とするものである。これは、高階秀爾13)や山本健吉14)が指摘するように、近代西洋美術の原則が人為による自然の一方的支配であるのに対し、それとは異なり人為と自然を協和させるものであり、その意味で人間と自然を同類同等と見なす日本の伝統的感受性の一つの反映だったと言える。さらに近藤は、両足院が日本に禅宗と喫茶を導入した栄西が創建した建仁寺の塔頭であるという文化的伝統に則りつつ、同じく11月21日に境内にある茶室臨池亭で自作の銀滴碗《波》(2015年)(図4)、掛軸《真なる金》(2021年)(図5)、陶像《鎮獣十二支》(2021年)(図6)を用いて茶会を催した。これも、芸術における宗教的・実用的要素を重視する点でやはり日本の伝統的感受性を生かしたものだったと言える。

これに加えて、もの派の関根伸夫の両足院における展示において、初期の絵画《位相》(1968年)(図7)からもの派の出発点である《位相-大地》(1968年)(図8)への展開が、表現の重心における「視覚的観念性」から「触覚的実在性」への転換であることが示された。そして、11月7日に京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開催されたシンポジウム①「もの派の帰趨」において、その「触覚的実在性」の重視が自然を人間より下位の「材料」ではなく同類同等の「素材」と見なす日本の伝統的感受性に基づいていることが筆者により指摘された(登壇者:赤松玉女・小清水漸・吉岡洋・稲賀繁美・松井紫朗・近藤高弘・山本豊津・秋丸知貴)15)

また、もの派の小清水漸の両足院とThe Terminal KYOTOの展示において、《位相-大地》(1968年)の《垂線》(1969年)(図9)への影響が、やはり表現の重心における「視覚的観念性」から「触覚的実在性」への転換であり、それが日本の伝統的感受性への開眼に繋がっていることが、同じくシンポジウム①「もの派の帰趨」において小清水及び筆者により確認された16)。そして、生活性を切り捨てないために厳格な台座を必要としない日本の造形的伝統を生かした、小清水の《雪のひま》(2010年)(図10)に至る「作業台」シリーズが、近代西洋美術の脱構築の点でジャック・デリダの『絵画における真理』(1978年)17)における「パレルゴン」批判よりも早く実践されていることが、同じくシンポジウム①「もの派の帰趨」において稲賀繁美により指摘された18)

なお、11月21日に両足院で展示作品を前に開催されたシンポジウム②「宗教信仰復興と現代社会」では、人間の心身の健康においては宗教の果たす役割が大きいことが論じられた(登壇者:水谷周・島薗進・鎌田東二・加藤眞三・弓山達也・伊藤東凌)。また、11月23日に京都大学稲盛財団記念館3階大会議室で開催されたシンポジウム③「日本人と死生観」では、そうした宗教の中でも日本の伝統的死生観の持つ意義が大きいことが議論された(登壇者:やまだようこ・鎌田東二・広井良典・一条真也・秋丸知貴)。そして、2022年1月9日にZOOMで開催されたシンポジウム④「グリーフケアと芸術」では、宗教と共に芸術もまた人間の心身の健康において非常に有益であることが討論された(登壇者:鎌田東二・秋丸知貴・松田真理子・木村はるみ・大西宏志・勝又公仁彦・奥井遼)19)

「現代京都藝苑2021」企画者兼事務局長として、本イベント開催に当たり厚い理解をいただいた、共催の両足院、The Terminal KYOTO、上智大学グリーフケア研究所、シンポジウム①「もの派の帰趨」共催の京都市立芸術大学、協賛の株式会社サンレー、一般社団法人日本宗教信仰復興会議、京都伝統文化の森推進協議会、協力の村井修写真アーカイヴス(村井久美)、京都大学こころの未来研究センター、豊和堂株式会社に心よりお礼申し上げたい。

図1 池坊由紀《巡り――いのちが去り》

図1 池坊由紀《巡り―いのちが去り》

図2 池坊由紀《巡り――いのちが生まれる》 図3 近藤高弘《白磁壷――カタチサキ》

図2 池坊由紀《巡り―いのちが生まれる》

図3 近藤高弘《白磁壷―カタチサキ》

図4 近藤高弘《波》

図4 近藤高弘《波》

図5 近藤高弘《真なる金》 図6 近藤高弘《鎮獣十二支》

図5 近藤高弘《真なる金》
図6 近藤高弘《鎮獣十二支》

図7 関根伸夫《位相》 図8 関根伸夫《位相ー大地》

(撮影:成田貴亨)
図7 関根伸夫《位相》1968年
図8 村井修撮影《関根伸夫「位相ー大地」》1968年

図9 小清水漸《垂線》

図9 小清水漸《垂線》

図10 小清水漸《雪のひま》

図10 小清水漸《雪のひま》

 


脚注

  1. ^今なお日本では、地水風火等の自然力の強い現れは自然神として崇められ(巨石や巨木等)、偉業を成し遂げた人間は人格神として崇拝されている(菅原道真、徳川家康、明治天皇等)。
  2. ^現代京都藝苑2015以前のモノ学・感覚価値研究会及びアート分科会の活動内容については、以下を参照。『モノ学・感覚価値研究(年報)』第1号~第10号。鎌田東二編著『モノ学の冒険』創元社、2009年。鎌田東二編著『モノ学・感覚価値論』晃洋書房、2010年。モノ学・感覚価値研究会アート分科会編『物気色』美学出版、2011年。
  3. ^高橋博巳『京都藝苑のネットワーク』ぺりかん社、1988年。
  4. ^ゲオルク・ジンメル「額縁――ひとつの美学的試み」『ジンメル・コレクション』北川東子編訳、鈴木直訳、ちくま学芸文庫、1999年。
  5. ^アンドレ・ジイド『藝術論』河上徹太郎訳、齋藤書店、1947年。
  6. ^谷川徹三『茶の美学』淡交社、1977年。
  7. ^大西克礼『大西克礼美学コレクション3 東洋的芸術精神』書肆心水、2013年。
  8. ^鼓常良『日本藝術様式の研究』内外出版印刷株式会社出版部、1933年。
  9. ^カール・グスタフ・ユング『自我と無意識の関係』野田倬訳、人文書院、1982年。
  10. ^エーリッヒ・ノイマン『芸術と創造的無意識』氏原寛・野村美紀子訳、創元社、2021年。
  11. ^鎌田東二『翁童論』新曜社、1988年等を参照。
  12. ^「華道家元池坊次期家元 池坊専好 活動の記録」『華道』日本華道社、2022年3月号、5頁。
  13. ^日本文化会議編『東西文化比較研究――自然の思想』研究社、1974年における高階秀爾の発言を参照。
  14. ^山本健吉『いのちとかたち』新潮社、1981年。
  15. ^この内容は、2015年2月28日に京都大学文学部新館第3講義室で行われた、関根伸夫と秋丸知貴による現代京都藝苑2015プレイベント対談「日本的感受性と日本近現代美術」において確認された。次の拙稿も参照。秋丸知貴「モノ学・感覚価値研究会アート分科会活動報告2015・『現代京都藝苑2015』を中心に」『モノ学・感覚価値研究』第10号、京都大学こころの未来研究センター、2016年、40-47頁。秋丸知貴「自然体験と身心変容――『もの派』研究からのアプローチ」『身心変容技法研究』第6号、上智大学グリーフケア研究所、2017年、76‐84頁。秋丸知貴「現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相―大地》(一九六八年)から《空相―黒》(一九七八年)への展開を中心に」『比較文明』第34号、比較文明学会、2018年、131-156頁。
  16. ^この内容については、次の拙稿も参照。秋丸知貴「Qui sommes-nous? ――もの派・小清水漸の一九六六年から一九七〇年の芸術活動の考察」『身心変容技法研究』第8号、上智大学グリーフケア研究所、2019年、118‐130頁。秋丸知貴「現代日本美術における土着性――もの派・小清水漸の《垂線》(一九六九年)から《表面から表面へ‐モニュメンタリティー》(一九七四年)への展開を中心に」『比較文明』第35号、比較文明学会、2019年、169-190頁。秋丸知貴「現代日本彫刻における土着性――もの派・小清水漸の《a tetrahedron‐鋳鉄》(一九七四年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に」『比較文明』第36号、比較文明学会、2021年、137‐162頁。
  17. ^ジャック・デリダ『絵画における真理(上・下)』高橋允昭・阿部宏慈訳、法政大学出版局、2012年。
  18. ^稲賀繁美『接触造形論』名古屋大学出版会、2016年も参照。
  19. ^各シンポジウムの記録については、現代京都藝苑2021公式サイトの「開催概要」を参照。

絶体絶命の淵に立ちて   KOW(ミュージシャン・鎌田東二3rd.アルバム/プロデューサー・アレンジャー)

はじめに

「絶体絶命」と題された鎌田東二の3rd.アルバムに制作が始まりました。このアルバムは2003年にリリースされた前作「なんまいだー節」から今日に至るおおよそ20年の間に、鎌田東二が作詞作曲した神道ソングのなかからベストと言える楽曲を網羅したものになります。

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「絶体絶命」と題された鎌田東二の3rd.アルバムに制作が始まりました。このアルバムは2003年にリリースされた前作「なんまいだー節」から今日に至るおおよそ20年の間に、鎌田東二が作詞作曲した神道ソングのなかからベストと言える楽曲を網羅したものになります。

そもそも神道ソングとはなんでしょうか。鎌田東二が神道ソングを作り始めた初期における楽曲には、一度耳にすれば「これが神道ソングなんだ」とすぐに腑に落ちるような明快さがありました。例えば「神」や「君の名を呼べば」「弁財天賛歌」等はその好例と言えるでしょう。これらの楽曲の歌詞には、日本人にとっての神観、祈りの普遍性がストレートに表現されており、歌として直接「神」や「祈り」に触れるものが神道ソングであると、多くの方をすぐに納得させる魅力があります。

しかしもう一方には、宗教哲学者・鎌田東二の内面の吐露、問題意識の探求に関わる楽曲があり、さらに一歩も二歩も踏み込んだテーマが広がっています。そこには「人間にとって神とは、信仰とは何か」「祈りの本質とは何か」「今の時代の中で私たちは何を見失い、何を求めているのか」など、人間存在の本質に触れようとするものを多々見い出すことができるでしょう。この「人間存在の本質に触れようとする」という点が、今回、プロデュースとアレンジを担当する私の最大のモチベーションです。

グローバリゼーションがさらに進行し、ネットが世界を覆い尽くし、あらゆる情報が巨大サーバの中に集積化されていく現代社会は、即効性・合理性が最優先される世界でもあります。その中で「人間存在」はデータ化され、記号化され、曖昧なものは削ぎ落とされ、瑣末なこととして問題視されなくなる傾向にあるとは言えないでしょうか?物質主義時代の次に来るものは、本当に心の時代なのでしょうか?むしろ巨大サーバを中心としたサイバー官僚システムによって世界を運営する日が近づいているのではないでしょうか?人間のあくなき欲望の営みがこのまま続けば「人間存在の本質をわかりやすい記号だけに置き換えていく未来」の実現はすぐそこのように思えます。今回のコロナ騒動はその前駆をなすものとして捉えることもできるでしょう。そんな状況下にある今の世界において「人間存在の本質に触れようとする」ことは、人間が人間であり続けるために、ますますその重要度を高めているのです。今回のタイトル「絶体絶命」は、そんな人間世界の淵に立ち、ここから飛び降りるか、踏みとどまるかの瀬戸際にある、私たちの「今」を表現しているのです。

このように強い時代的危機感に立ち作曲作詞された鎌田東二の神道ソングによる3rd.アルバムを、私はその内容にふさわしいハードエッジなアレンジと演奏で形作っていくつもりです。

「かんながらたまちはえませ」「犬も歩けば棒に当たる」「北上」「夢にまで君ゆえに」 「探すために生きてきた」など、この20年の代表作10曲以上を収録します。

1st.アルバム「この星の光に魅かれて」を私がプロデュースした2001年、日本人の多くはまだ今よりは未来に対して楽観的だったように思います。音楽は時代を反映するもの。全ての真摯な表現がそうであるように、今の時代の危機感と絶体絶命の淵に立ち、絶える事なき祈りを胸に、多くの音楽仲間と友人のサポートを得て、この3rd.アルバムを完成させる決意です。

ご支援をよろしくお願いします。

宗教と信仰の差異?   水谷 周

はじめに

タイトルにある二つの言葉には、何も変わったことはありません。誰でもが使っているし、筆者も普通に使ってきました。ところが最近、いろいろの場面でそれら両者にはかなり異なった重みが感じられるなと思わされました。そしてその差異はそれなりに大きな問題を含んでいると思われたので、改めてここに記すことにしました。

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タイトルにある二つの言葉には、何も変わったことはありません。誰でもが使っているし、筆者も普通に使ってきました。ところが最近、いろいろの場面でそれら両者にはかなり異なった重みが感じられるなと思わされました。そしてその差異はそれなりに大きな問題を含んでいると思われたので、改めてここに記すことにしました。

一つの差異は、信仰が宗教の教義を信じることとするならば、宗教はその信仰以外にも儀礼、慣習や歴史などを含む、より広範な内容を指していると了解されます。そうすると宗教という言葉の方に、信仰よりも大きく重い意味合いが自然と与えられることになります。この事情は分かりやすくて、これ以上の説明は不要でしょう。

もう一つの差異は、宗教というと宗教学があり、他方信仰には信仰学が存在しないという点があります。それは実証に基礎を置く諸学の立場からすれば、当然の差異でしょう。信仰というこころの中の問題は、宗教学では扱いにくい代物ということになります。そこで信仰を巡る諸問題は、信仰論と称されるわけです。宇宙学という名称はなくて、宇宙論と呼ぶのと同様です。この第二の差異も、以上だけなら分かりやすくで、これ以上の説明は不要でしょう。

ところがこの第二の差異とも関係して、避けて通れない問題が付随しています。それが宗教と呼称する時ほどには、信仰と呼称する時は重みが感じられないという、冒頭に挙げた点です。これが問題であるという理由は、ただ用法上の印象として軽重の差があるというだけではなく、宗教について様々に考えているほどには、信仰に関しては頭が回っていないのではないかということです。つまり信仰に関しては、それほど思考もしていないし、時間もかけていないとすれば問題があるということです。

信仰は心の中の問題であるだけに把握しにくいし、把握したとしても個人的な側面が主となるので、他者とやり取りすることは限定されます。そこであまり思案のテーマになっていないものと了解されます。深みに踏み込んでいない信仰という事柄について語るときには、多くの熟慮と学習を重ねてきた宗教よりも、軽く聞こえるのは自然な現象です。しかもそのことに本人も気付くことなく、済まされてしまいます。

以上の指摘に関する具体策としては、信仰論の活発化ということになります。同時にその前提として信仰に宗教の本体として焦点を当てるべきで、その把握と理解にこそ主力が注がれて良いと改めて認識することです。このような指摘は少なからぬ人たちの思考を乱し、迷惑千万だと言われても仕方ありません。ただ少なくも一考する余裕は持ってほしいところです。信仰復興の原点でもあります。

写真展「3.11東日本大震災から10年の軌跡」を終えて   須田 郡司

はじめに

2021年12月2日から12月8日まで、港区南青山にあるgallery5610にて須田郡司写真展「3.11東日本大震災から10年の軌跡」を無事に開催することができました。その間、多くの方々に展覧会にご来場いただきました。また、会期中に二つのトークイベントを行いましたが、こちらも盛況のもと終えることができました。
12月3日は、島薗進氏、鎌田東二氏と須田郡司による「東日本大震災が問いかけたもの〜ケアのちからと自然のちから」をテーマにトークライブでは20人もの方々にご参加いただきました。12月5日は、音楽家のラビラビ、鎌田東二氏と須田郡司による「いのちの呼ぶ声を聴く」をテーマにトークライブでは15人もの方にご参加いただきました。
二つのトークライブでは、東北被災地での取材体験、東北への思いなどをお話しすることができたと思っています。

Contents

 

 

gallery5610私自身、巨石写真以外の写真展は、本当に久しぶりでしたが、今回5つの章にテーマを分けて展示しました。その内容を簡単に説明いたします。

 

一章 3,11から2ヶ月後の東北

 

東日本大震災が発生した3月11日から約2ヶ月後の5月2日、JR仙台駅で宗教学者の鎌田東ニ氏と合流し、東日本大震災後の東北被災地域を巡りました。仙台駅、浪分神社、荒浜、宮城県庁で行われた「心の相談室設立について」の記者会見、鼻節神社、七ヶ浜町、塩竈神社、石巻市の光景、女川町、雄勝町、葉山神社、石峰山の石神社、釣石神社、気仙沼、釜石市、大槌町、宮古などの光景。震災後の生々しい光景は、場所によっては見るのも心苦しいものがあります。まるで戦争の後のような、痛々しい光景は、見る人の目も背けたくなるような写真もあります。しかし、震災後の光景を忘れないためににもあえて記録として展示しました。

 

二章 復興への祈り

 

震災後、さまざまな復興へのイベント、お祭りが行われました。2011年12月17日、宮城県七ヶ浜町子育て支援センターにて音楽家のラビラビは「東北にアイとマニーを届けよう!part2」として被災者へのライブ&感・音・即興Workshopが行なわれました。私は、震災後9ヶ月後の2011年12月、石のカレンダーを届ける支援で宮城を訪ねました。その際、七ヶ浜町で行われていたラビラビのライブに駆けつけることができました。彼らのライブ&感・音・即興Workshopは、現地の方々に大きな希望と喜びを与えたと感じました。

2012年5月5日、宮城県石巻市雄勝町にある大須八幡神社祭典にて復興祈願のお祭りが行われました。被害の多かった雄勝町の中で、大須地区は高台にあったため、比較的被害は小さかったのです。この大須八幡神社での祭りには、地元以外の県外の多くの方々も駆けつけました。震災の復興への祈りに満ちた祭典が行われたのです。

2013年3月10日、宮城県気仙沼の地福寺本堂にて、「東日本大震災メモリアル、未来(明日)に向って」という祈りのイベントが開催され、各方面のアーティストが歌い、奏で、舞、あかりを灯し、亡き方々の鎮魂に真心をたむける催しが行われました。その他、石巻市の仮設住宅で行われた「モデルとして雄勝の再興を考える」シンポジウムが行われました。

 

三章 虎捕山・山津見神社と放射能

 

福島県飯舘村にある山津見神社は別名虎捕山・山津見神社。 虎捕山の山頂は巨石群が多く、山頂付近に山津見神社奥宮本殿が鎮座しています。 聖なる山ですが、登山道の放射線量は高い状態です。また、虎捕山仮置場には、震災直後からたくさんの除染土がありましたが、この10年でそれらは全て無くなっていました。

2014年5月、東京電力福島原発から近い浪江町にある清水寺を林住職のご案内で訪ねました。当時は、帰宅困難地区に指定され、放射線量はお寺で3.65マイクロシーベルト、お寺の前の道路で、6,28マイクロシーベルトもあったのです。

2021年11月、林住職の許可を得て清水寺を訪ねました。今、清水寺がある地域の避難指示を解除されていて、寺院の修復、墓地や霊園の整備工事が行われていました。放射線量は、寺院付近で0.38マイクロシーベルト、駐車場で0.96マイクロシーべルトほどありました。

東京電力福島原発事故の影響は、10年たった今も危険な状況にあることは変わりません。

 

四章 東北の石の聖地

 

私は、聖なる石・石の聖地をライフワークとして撮影をしています。四章では、私自身、最も興味のある東北地方の石の聖地をテーマに展示しました。、鹿島御子神社の要石(南相馬市)、現代イワクラ(丸森町)、石神社(石巻市)、石峰山の神籬(石巻市)、釣石神社(石巻市)、大島神社の磐座(気仙沼市)、道祖神(気仙沼市)、乙姫窟(気仙沼市)、天照御祖神社(大船渡市)、力石(山田町)、浄土ヶ浜(宮古市)、つりがね洞(久慈市)、夫婦岩(久慈市)、くじら石(八戸市)、蕪島(八戸市)など、東北には実に多くの石の聖地があります。

 

五章 防潮堤という壁

 

3.11から10年。東北を巡って、一番大きな変化は防潮堤の築造です。そして、今でも造り続けられています。津波を防ぐという大義名分の元、また復興予算を消化するため、各地で作られていますが、果たしてこの巨大な壁で、津波が防げるかは疑問です。防潮堤によって、海岸線で海が見えない場所が増えていることを危惧します。海が見えることで、漁師の人たちは、自然を感じていたからです。この防潮堤によって逆に、失われてしまうものがあるのではないかと思うのです。

今回の写真展に関して、ある友人がこんな感想を言ってくれました。東日本大震災の写真展というと、あまり思い出したくない、怖いイメージがあったそうです。実際、震災後2ヶ月後の風景は、自身も怖さを感じながら撮影しました。ただ、5つの章立を見て行くうち、特に四章の東北の石の聖地を見ると、どこか希望のようなものを感じたと言ってくれたのです。その言葉に、私自身も救われたように思います。

今回の展覧会に来てくださった何人かの方は、実際に東北へボランティアで訪れていた方が数人いました。彼らは、その時の体験談や、今の東北への思いなどを語ってくれました。10年一昔ではありますが、忘れずに語ることが大事だということを実感しました。それは、単に、東北の被災が過去のものになったのではなく、この日本列島はいつ何時、あらゆる場所で災害が起きても不思議ではないという現実があるからです。

防潮堤という現実も、賛否両論があります。これが作られたということを、今ここを認識しながら、今後、どうして行くのかも含めて考え、行動しなくてはならないと思っています。

今後、鎌田東二氏とのトークイベントを含めた写真展を金沢市のギャラリー椋(4/30~5/5)、那覇市の沖縄県立博物館・美術館県民ギャラリースタジオ(7/20~24)、10月頃に御殿場、ありがとう寺(町田宗鳳住職)にて開催する予定です。

尚、今年の展示は、東北被災地の写真と、日本と世界の石の聖地の写真の二本立で開催する予定です。今、コロナ禍で先が見通せない世の中ではありますが、地道に展示とイベント・パフォーマンスを続けてゆきたいと決意しています。

今回、東北被災地調査と写真展開催の経費、東北被災地訪問記録集の作成に関しまして、助成をしてくださった一般社団法人日本宗教信仰復興会議に深く感謝申し上げます。

注:観客の一人としての感想は、12月3日のトーク・ショーに参加してよかったということです。参加者全員惹き付けられるように、軽妙なトークに聞き入っていました。また会場内の巨石の写真に見入り、写真家須賀郡司氏が若い頃より自分の裸体の映像を取りその存在・本質を見極めようとされてきたことから始まり、そのような存在・本質究明の求道の精神が現在の巨石探索につながっている解説も分かりやすく、感動を与えるものでしいた。いずれは世界の巨石シリーズの映像を通じて、思索と分析を博士論文にまとめられる構想も紹介されました。とにかく、貴重で有意義なイヴェントであったと、筆者の率直な感想を申し添えます。 (水谷 周)

二つの「幾山河」   水谷 周

はじめに

以前の拙稿「「祈りの日」を思う」の最後には、自作の歌を取り上げさせていただきました。恥ずかしながら、感謝をする気持ちから恵みを授かるという因果を示しているので、文脈になじんでいると思われたからです。しかし文字通りお断りしたように、その出初めの「幾山河」は、人まねです。今回はこの辺りから始めます。

Contents

有名なのは、若山牧水(1885‐1928)という歌人のものです。

 「幾山河 こえさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」

何とも心寂しい、もの悲しい情景が目に浮かびます。かれは中世の西行のような、旅が人生という歌人でした。そして行く先々で多くの寂しさを歌ったのでした。次のは故郷の宮崎で歌ったものです。

 「ふるさとの 尾鈴の山のかなしさよ 秋もかすみの たなびきて居り」

そこで前の歌に戻りますと、筆者の拙稿に記したものと、二つの「幾山河」があることになります。このようなことを述べている理由は、それら両者に異なっている点があって、それは筆者としては読者方々に明確にしておきたい気持ちに駆られるからです。その差異というのは、この世の寂しさと、あの世の有難さと言ってもよいでしょう。しかしこれだけでは、いったい何を言おうとしているかは、ますます闇の中ということになるでしょう。

前者のこの世の寂しさは、あまり説明は必要としないと思われます。われわれが日常的に見聞きするケースは多々あるからです。それに比べると、後者のあの世の有難さは書き込む必要があります。この有難さというのは、この世のものとは異なって、寂しさや悲しさや、苦しみや痛みが有難いというのです。何とも逆説的と思われるかもしれませんが、あの世的にはそれらの苦難はやはり自分に与えられた定めであり、定めを与えていただいたことは、どう考えてもやはり恵みであり、それは感謝の対象になるという仕組みが説かれるということです。浄土教で有名な妙好人は、朝から晩までひたすら「ありがたや、ありがたや」と、繰り返していました。

こうなると災害も有難いし、病苦も有難いのです。他方、もちろん普通に言うところの幸福のさまざまな恵みも有難いことは間違いありません。ですから、この辺りのバランスは失念しないで、苦難の方がより有難いと言っているわけではありません。もっと極端に言うならば、死さえも有難いのです。昔、山中鹿介(しかのすけ、1578年没)は「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と言って祈願したそうです。

こうして定めを与えてもらったのは、何とも感謝、感謝です。それに一抹の文句もなければ、不満もありません。筆者流に解釈すれば、

 「幾山河 越え行く日々の ありがたさ  わが身と心 慈衣につつまれ」

ということになるのです。

もちろんこれでは、文学としての風情も感性もないと言われればその通りです。しかしあの世をこの世と同時に生きて、そしてそれらを両足の置きどころとする信仰の立場からすると、上記の歌いなおしをどうしても示したくなるのです。それが分岐点になっているとも言うべきポイントだからです。またそうすることで、信仰の心境と展望が明らかになれば、またまた感謝、感謝です。

随筆ー「祈りの日」を思う   水谷 周

骨子

大きな悲しみの日はとかく記念日になります。終戦記念日、大震災記念日、あるいはニュー・ヨークの9.11記念日などなど、枚挙に暇がありません。筆者が自然と思い至ったのは、そういった諸記念日を統合するような日があってもいいのではないかということです。それを今仮に「祈りの日」と名付けましょう。その日には、平和、安全、そして感謝の気持ちをすべて込めつつ、全員で祈りを捧げるという、人としての原点を取り戻す行為を共にしてよいのだろうと思います。

Contents

このHPの書籍欄でもよく紹介された鎌田東二著『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』を拝読して、なるほどと思わせられました。日本という国に関しては、実に多くの国家論や日本人論などを見てきたつもりですが、これほどまでに「悲」に包まれた国柄であったとは、ほとんど考えたこともなかったからです。しかし頭を巡らせると、本当に悲惨さの連続で、その焼け野原からよくも立ち上がってきたという気持ちを誰しも持たされます。しかもそれが多くの文学作品や芸術にも浸透しているという指摘は、説得的でした。

他方、同氏と筆者が共著という形でこの9月に刊行したのが『祈りは人の半分』という一書です。これも本HPに紹介記事が掲載されています。人間は想像の力を天賦の才覚として授けられていますが、そのために希望を持ったり、期待に沿わない場合には落胆したりするように創られています。こうして自然に誰もが持つその願望は祈りであり、それがまとまれば信仰に他ならない、というのが、同書の趣旨です。

以上の二書は期せずして、互いにかみ合った内容になっているということを最近はますます強く思わせられています。というのは、「負の感情」という悲しみは、人の期待に沿わない場合ですが、それは日本人だけではなく、人間には付き物だということにもなります。想像し、願い事をし、喜び、期待外れには悲しむというサイクルは、人間の生涯を貫く鉄則です。そこでは人の半分として、常に「祈り」が捧げられています。

こう考えてくると「祈り」という営みは、今の日本で見なされているよりはるかに大きな機能であり、社会的な意味も持つ重要な側面として扱われるべきだという認識に到達することになります。それは物質、科学、理性という近代合理主義の諸側面と対立するものではなく、あるいは否定するものではなく、それらと一体であり調和しつつ、それら諸力の総合として働きます。つまり人として当然な姿に戻るということになるのです。さらに言い換えれば、それは全き姿の人間復興です。

大きな悲しみの日はとかく記念日になります。終戦記念日、大震災記念日、あるいはニュー・ヨークの9.11記念日などなど、枚挙に暇がありません。筆者が自然と思い至ったのは、そういった諸記念日を統合するような日があってもいいのではないかということです。それを今仮に「祈りの日」と名付けましょう。その日には、平和、安全、そして感謝の気持ちをすべて込めつつ、全員で祈りを捧げるという、人としての原点を取り戻す行為を共にしてよいのだろうと思います。

もちろんその「祈りの日」は超宗教的で、超政治的で、ただひたすらに人間的で、原点的であるだけです。このような日はまず日本で現実味のある話として考案し、提案されてよいのでしょう。しかし将来的には例えば国連主導の世界的な規模に広がっても何の遜色もないだけの根拠があります。それはしきりに言われる持続可能な開発目標SDGsの推進とも連動します。

本文をここまで読まれた読者はほとんど必ず、何という夢うつつだ、戯言を、という印象を持たれても驚きではありません。夢を持って、それを語ることも少なくなった今日この頃ですので、敢えて批判を覚悟の上で記した背景です。

最近、人まねで下手な歌を詠みました。

「幾山河 越え行く日々の ありがたさ わが身と心 慈衣につつまれ」

何処でも(幾山河)、いつでも(日々の)感謝、感謝、そして自分の身も心も、慈悲の衣につつまれているようなものだ、という意味です。それはこうありたいという願いであり、祈りでもあります。このような厚かましい勝手な祈りも、「祈りの日」には許されます。各自各様の、祈りを考案するのは大きな楽しみであり、希望が膨らみます。それは自分を見直す機会にもなります。皆様も、自分の「祈りの日」に一度試されるよう、誘いたいと思われることです。

D・H・ロレンス『死んだ男』(1931年)と折口信夫『死者の書』(1939年)の関係性   鎌田 東二

要旨

D・H・ロレンスの『死んだ男』(1927年頃作、1931年出版、1936年日本で翻訳出版)と折口信夫『死者の書』(1939年作、1943年出版)とは関係があるのではないか? 折口信夫はロレンスの『死んだ男』を読んで大いに触発され、日本版『死んだ男』として折口信夫の代表作と目される『死者の書』を書いたのではないか? もしそのような指摘をすでに行なっている人がいたら、ぜひ教えてほしい。

Contents

最近、D・H・ロレンス(1885‐1930)に関心を持って、調べ始めた。

きっかけは、第82回身心変容技法研究会で同志社大学神学部教授の関谷直人さんと話をしていた際、D・H・ロレンスが『死んだ男(The Man Who Died)』という小説を出していて、死んで蘇って女性とセックスをして子どもをもうけるという内容だと聞いたからだった。

もちろん、『チャタレイ夫人の恋人』(伊藤整訳)の作者として名前は知っていて、学生時分に小説も読んだことがあり、それなりに面白かったが、心に響くというほどではなかった。日本で起きた、わいせつ性が問われた「チャタレー事件」のこともある程度知っていたが、読んでみて、どこがどのようなわいせつ表現なのか、また表現の自由とのかねあいについてもピンとは来なかった。

要するに、D・H・ロレンスも伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』も、わたし自身の人生に痕跡を残すほどの作家でも作品でもなかったということである。

ところが、最近になって、2つの補助線(一つが関谷直人同志社大学神学部教授、もう一つが吉村宏一同志社大学名誉教授)が引かれ、俄然、D・H・ロレンスに興味を持った。

第一に、『死んだ男』。これを、昭和11年(1936)2月5日昌久書房発行の織田正信翻訳で読んでみた。そしてたまげたのである。

何にたまげたか。イエスが蘇って女性とセックスして子どもをもうけるという、『ダ・ヴィンチ・コード』のような反カトリック的かつグノーシス主義的なモチーフもそれなりに興味深かったが、何よりも子どもをもうける相手というのがエジプトとのイシス神殿に仕える巫女だったことだ。これにはしんそこ驚いた。
つまり、D・H・ロレンスは、一神教の革命家イエスを蘇らせて、多神教の根拠地のエジプトのイシス・オシリス信仰と交配させたのである。イエスと神殿巫女との交わりも、それだけでキリスト教にとっては大スキャンダルな事態の表現であろうが、その身体レベルの交合のみならず、信仰上の交合とも言えるイエスとイシス信仰との交わりを設定した点で画期的とも革命的とも反逆的ともいえよう。したがって、さまざまな評価も批判も可能であろう。

『死んだ男』は二部構成で、第一部では、蘇った男は、イスラエルの近くの農家らしい夫婦の家にかくまわれることになる。その第一部の最後の方で、死んだ男=甦った男=イエスは、鶏の生態を通して性と生命の深奥にあるものを見出す。そして、「お前は自分の領土と、お前の肉体にそぐう雌を見つけた」(前掲同書50頁)との内なる声を聴く。

第二部では、ダマスカスから西に向かって歩き続けたその男が、フェニキアのシドン(現在のレバノンのサイダ)に行き着き、そこで、7年間、「探求のイシス」を祀るイシス神殿に20歳から7年間仕えてきた27歳の神殿巫女と出会い、結ばれることになる。その神殿巫女は、元々父がローマ帝国のシーザーやアントニオと懇意にしており、親交があったが、シーザーの死後ローマ皇帝になるアントニオと交わってもまったく何も感じることがなかった、言わば不感症の女性である。

そこで、彼女は、「世に類稀な女人は、再生の男を待つものぢや」(同62頁)との予言的な言葉のままに神殿巫女を続けて来て7年、終に、その運命の男「再生の男」と出逢うことになったのである。こうして男はイシスの神殿で神殿巫女の女人と交わるのだが、その前にこのように思う。「わしは熱狂の彼女を、女性の神秘に燃えた彼女を、独り居らせねばならぬ。」(同92頁)と。

これは、エジプト神話的文脈においては、「探求のイシス」が死んだ夫オシリスの肉片を探し求めて「再生」せしめるイシスの秘儀の物語と重なる。その秘儀の結果が、新たないのちの誕生であった。

彼女は男の「傷」を癒し、真に肉身を蘇らせる。その時男は自覚する。

「彼は静かに、おだやかに、全くの間であつた彼の生の深底から、何ものかゞ生まれ出るうごきを感じたのであつた。暁だ、――太陽の誕生だ。彼の内部の真の闇から、一つの新らしい太陽が、身内に登りはじめた。おそろしい希望に身をふるわせて、日の出を待つてゐた、……『今こそ過去の自我を脱した、私は新なある者だ……』」(同101頁)

そして死んだ男は、「われ甦れり!」(同102頁)と、生の甦りの頂点でイシス神殿の巫女と交わった。男は言う。「これこそ大いなる償ひ、――交感にひたることこそ。灰色の海と雨、――濡れた水仙と我が待つ女人、――眼に見えぬイシスと太陽との交流・合致」(同105頁)

こうして、子どもが生まれることになるのだが、それにより、死んだ男=甦った男=再生の男=イエスは去っていくことになる。このローマの怪作『死んだ男』の最後は、次のような死んだ男=甦った男の言葉で終わっている。

「わしはわしの生命と復活の種子を蒔いて来た。そして現世の選ばれた女人の上に、永遠の交感を及ぼして、わしの肉身に彼女の香を薔薇の精のやうにつけてゐるのだ。彼女はわしの生命の中核にある、こよなく尊いものだ。黄金色の肌なめらかな蛇が、またしてもとぐろを巻いて、わしの生命の樹根に眠つてゐるわ」(同112頁)

「小舟よ、わしを運べ。明日も亦日が輝るわ」(同112頁)

いやはや、D・H・ロレンスという作家は、なかなかの怪人アウトサイダーのようである。

実は、京都の我が家の近くに日本ロレンス協会の設立者の一人で、ロレンス研究者の第一人者の一人の同志社大学名誉教授の吉村宏一先生が住んでいる。その先生が毎日我が家の前を通ってよく散歩され、たまに話をすることがあるのだが、今日、我が家に寄ってもらって、『死んだ男』とロレンスについて、小1時間ほどいろいろとお話を伺ってみた。これが第二の補助線である。

1885年生まれのロレンスが、労働者階級の出身で作家となり、恩師の夫人のドイツ人貴族の女性フリーダと駆け落ちして、イタリアに逃亡し、エジプトやオーストラリアやアメリカなど世界各地を旅して回り、その間、推定では1927年に『死んだ男』を書き、最後に1928年に『チャタレイ夫人の恋人』を書いたことだろうということもだんだんとわかってきた。

つまり、『死んだ男』はロレンス最晩年の遺作に近い小説ということになる。吉村宏一先生にいろいろと訊ねてみると、ロレンスが独自の生命主義思想を持ち、ニーチェやドストエフスキーの影響を受けていたということも見えてきた。

なるほど、なるほど。確かに、『死んだ男』の主人公はニーチェの「超人」と似ている。キリスト教的終末論というよりも、ギリシャ的永劫回帰論に近しいものがある。このロレンスのキリスト教観というのも、異教的彩りを帯びた大変スキャンダラスなものにもなり得る独自のものであったようだ。

そのあたりも、さらに深掘りしたいところだが、わたしの目下の関心事は、実は、折口信夫がこのD・H・ロレンスの『死んだ男』を読んで、『死者の書』を書いたのではないか、という疑問であり、問いである。

言葉は悪いが、折口さん、あんたの『死者の書』はロレンスの『死んだ男』のパクリじゃないの! という問いである。

調べてみると、昭和11年に『死んだ男』の翻訳が織田正信訳で出ている。そして、折口信夫の『死者の書』が最初に『日本評論』に発表されたのが昭和14年(1939)1~3月号で、その後昭和18年(1943)年に青磁社から単行本として出版されたのだ。折口信夫が『チャタレイ夫人の恋人』などで評判を呼んでいるロレンスのこの『死んだ男』の翻訳を読んだ可能性は否定できないだろう。

そして、彼はエジプトの「死者の書」のイシス・オシリス神話と日本の古代史と中将姫伝説を踏まえ、日本古代の大津皇子と藤原南家の郎女との魂の交合との物語として『死者の書』を書いたのではないか。このように推測したのである。

折口信夫の『死者の書』がイシス~オシリス神話を踏まえていることは、すでに先学の研究によって明らかだが、しかし、折口のその発想のより直接的なインスピレーションとアイデアのソースは、ロレンスの『死んだ男』にあったのではないかというのがわたしの推測である。両者の共通点として、

①死者(甦った男)と巫女との交感が描かれる点(『死んだ男』ではイエスとイシス神殿の巫女、『死者の書』では大津皇子=滋賀津彦と藤原南家の郎女、また滋賀津彦は処刑される前に大織冠藤原鎌足の子の耳面刀自との間に子どもを欲していた)

②どちらもが太陽神格を持つこと(『死んだ男』ではオシリス~イエス・キリストの太陽神神格、『死者の書』では天若彦と阿弥陀仏との太陽神仏・光の神仏)を挙げることができる。

また、両者の相違点として、

①死者と巫女との交感が、『死んだ男』では肉身の交わりと妊娠につながること、『死者の書』では霊的交感としてそのヴィジョンが山越えの阿弥陀像の当麻曼陀羅として織られること。

②また、『死んだ男』では男が流浪の旅に出、『死者の書』では滋賀津彦は肉身では現実化せず霊的な面影(俤)としてのみ南家の郎女の霊感の中に現われること、などが挙げられる。

ちなみに、『古事記』でオシリスーイシス神話に対応するのが兄神たちに二度も殺されて甦るオホナムヂ=大国主神であるが、折口の『死者の書』十には、大国主神=八千矛神の歌う長歌「八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め)をありと聞(きこ)して……」とあり、『古事記』の中にエジプト神話と通じる神話素があることも興味深く、スサノヲ~大国主神の出雲神話とエジプト神話の類縁性をどう捉えるかも折口信夫だけでなく、異教的な習合の様相に関心を持っていたD・H・ロレンスにも通じる問題意識であったと思うのだ。

わたしも長らく折口信夫の『死者の書』に魅了されてきた一人であるが、その発想の先鞭者にD・H・ロレンスがいたということは、もちろん、折口さんの不名誉でも何でもなく、彼の発想のきっかけや源泉と、それをいっそうオリジナルな形に練り上げていく彼の文学的想像力の特徴と凄みを改めて感じさせてくれるよい機会となった。

わたしはこの推測を早速吉村宏一先生にぶつけてみたが、先生の反応は「ようわからんけど、おもろいな」という感じであった。その可能性はある。ないわけではない。そこで、もうちょっとこの推測を確証づける証拠を探してみよう、ということになった。

それが、今日の先ほどの話である。

D・H・ロレンスの『死んだ男』によって折口信夫の『死者の書』が甦り、わたしの中の世界神話熱が再度大爆発し始めたのである。

「信仰をもつ医療者の連帯のための会」の発足の経緯について   加藤 眞三

はじめに

2018年10月28日に第1回「信仰をもつ医療者の連帯のための会」年次大会が開催された。この会は、2016年2月より企画し10回余りの世話人会をもち、第1回の全体集会をもつことになった。「信仰をもつ医療者の連帯のための会」はわたしにとってのライフワークになるものであり、この会を起ち上げた経緯について述べたい。

On October 28, 2018 the 1st annual meeting of “An Association for Solidarity of Faithful Medical Professionals” was held. Since the beginning of February 2016, we have meetings of organizing committee, the first general annual meeting was held. I believe that the “An association for solidarity of medical professionals with faith” will be my life work. In this issue, I would like to describe the background of the association.

Contents

人間に対する医療とは

わたしにとっての医療を振り返ってみると、①「肝臓病教室」、②「AAメッセージ」、③「慢性病患者ごった煮会」、④「公開講座「患者学」」を開催してきたことが他の医師にはない大きな特徴である。これらを開始したそれぞれの時期において、現在の医療に欠けているものは何かを考え、それをどう解決するのかを求めて、行動してきた結果である。

65歳となり大学の定年退職を迎えた時点から振り返ってみると、それぞれの時点で目指してきたものは、①情報の提供、②スピリチュアル・グロース、③スピリチュアルケア、④医療者と患者の対話を推進することであった。そのことは、患者を単なる動物の一種とみなしてヒトに対して行う医療ではなく、言葉と魂をもつ人間に対して提供する医療はどうあるべきかを医師として悩み考えてきたことが底流にある。

科学的な医療から、医学の本流から外れること

大学病院に身を置き科学的な医療を一歩でも前進させることを最優先すべきと考えてきたわたしにとって、医学の本流からは外れていく一つの大きな転機があった。

それは、父親の代から信仰し、受け継いできた宗教の大本が、1997年から脳死反対運動を展開したことに発する。それまでのわたしは、大学病院で消化器内科学教室に入局し肝臓を専門とする内科医として勤務し、移植医療に関しても周辺で働いてきたが、脳死についてしっかりと考えた機会はなかった。脳死者から提供された臓器移植によって助かる人がいるのであれば、それは良いことではないかという漠然とした考えに支配されていた。だが、大本からの脳死反対運動が始まり、改めて脳死とは何かについて自分自身で調べてみることにした。すると、脳死は全脳の死ではないことに気付かされたのだ。

脳死の定義による全脳の不可逆性の機能停止の状態にあるならば、体温の恒常性は保たれないし、抗利尿ホルモン(ADH)も放出されないので尿崩症になり血圧も維持はできない。ところが、脳死を判定するときには深部温が32℃以下では除外するとしており矛盾が生じる。また、尿崩症になると大量に尿が出て血圧が維持できないはずなのに、血圧が保たれている状態で脳死と判定している。すなわち、脳死は定義と診断基準に矛盾が生じているのだ。それ以外にも様々の問題点はあるのだが、脳死臓器移植とは、結局死に直面している死の間際の患者を早々に見放して、その臓器を提供させ利用するということで、患者のいのちを天秤にかけてしまう行為であることが明瞭に解ってしまった。

このことは、わたしにとって衝撃的なことであったが、脳死臓器移植の構図が理解できてしまうと、その時点で脳死反対運動に参加することに躊躇することはなかった。大本の内部の集会で話したり、大本が主催する講演会で一般市民に脳死について講演したり、日本の脳死反対運動について英語の論文として発表するなど、脳死臓器移植に対して反対する活動を開始した。

今回、脳死反対運動について振り返ろうと、Googleで「脳死反対運動」と検索してみると、7万件以上の記事がでてくるが、わたしのブログの記事が第一位になっており、Wikipediaや臓器移植に反対する市民団体の記事よりも上位に置かれていることに驚かされた。

医学の本流を外れて得たもの

脳死反対運動へ参加することは、わたしがもはや医学界の中で本流にいることはできないことを意味した。しかし、そのことによりわたしが得たものはより大きいものであった。なぜなら、大学病院に籍を置く内科医でありながら脳死反対を唱えていることがわたしを特徴のあるものにしたからだ。このことが、わたしらしい道を歩むきっかけを作ってくれたことになる。

スピリチュアリティをテーマとするある講演会(神道国際学会)に招かれ、わたしは「脳死について」話をする機会を得た。そこで知り合った鎌田東二氏(元京都大学教授、現在上智大学教授)に誘われて、2003年6月町田宗鳳氏(元東京外国語大学教授、元広島大学教授)が主宰する「いのちの研究会」に参加させていただいた。「いのちの研究会」には、島薗進氏(元東京大学教授、現在上智大学教授)、上田紀行氏(東京工業大学教授)、粟屋剛氏(元岡山大学教授)などがメンバーとして参加しており、2ヶ月に一度の集会をもち濃厚な議論をすることができた。ずっと医学部の中で過ごしてきたわたしにとって、ここで出会った方々、人文科学系の有名な学者との出会いは、新鮮でわくわくするような体験であった。

2004年、東京大学教授であった島薗進氏より、本郷のキャンパス内で開催する講演会のお知らせをうけた。その講演会で、講演者を日本に招き通訳をされていたキッペス神父と名刺交換をすることになった。キッペス神父は日本の医療にスピリチュアルケアが欠けていることを憂い、スピリチュアルケアを日本で普及させたいと運動し尽力してきた方である。講演会の数日後に、久留米市の教会からキッペス神父からメールが送られてきた。わたしと会ってゆっくり話しがしたいと3つの候補日があげられていた。3候補日の中で唯一予定が入っていなかった日にキッペス神父と会うことになった。新宿の料理屋で会食し日本のスピリチュアルケアについて話しあった。

別れる間際に、キッペス神父は、「今日は私にとって特別の日であった。司祭になりドイツから派遣され神戸港に着いたのが今日だった」とつぶやかれた。実は、その日はわたしにとっても特別の日であり、わたしの誕生日であったのだ。しかも、後日になって知ることになったのだが、キッペス神父が紀伊水道を北上して神戸港に上陸したのは1956年であり、同じ年に、わたしは紀伊水道の西、徳島の地に生を受けたのだった。2つの魂が50年ぶりに再会し日本のスピリチュアルケアについて話をする機会をえたのだ。魂の兄ともいうべきキッペス神父の下で、その後スピリチュアルケアについて学ばせていただくことになった。

キッペス神父と出会った直後、慶應義塾大学看護医療学部の山下香代子教授より看護医療学部の教授に欠員ができるので、こちらに来ないかとの誘いがあった。山下教授とは大学内の終末期医療の疼痛コントロールの研究会などで知り合っていた。通常、教授の選考には半年以上の時間をかけておこなうのだが、急な欠員の発生のため2004年の年末から2―3ヶ月という短い期間の中で決めなければならないことになったというのだ。そんな縁で応募することになったのだが、選考委員会での面接をうけ、2005年4月から看護医療学部の教授になった。

看護医療学部では、慢性期病態学と終末期病態学という医学部にはない科目を担当することになった。医学部では臓器別に、専門分化された学問体系のもとで学ぶが、看護医療学部では慢性病・終末期病という分類がなされており、病気をもつ人を全体としてケアをするという医療に目を向けさせられる機会を得ることになった。

このような看護医療学部への異動の少し前に、実存療法の永田勝太郎氏、スピリチュアルケアのキッペス神父と出会っていたので、看護医療学部では実存療法とスピリチュアルケアの2つを研究テーマにすることにした。キッペス氏が引率するドイツを中心としてホスピスを見学する約一ヶ月のツアーに三度参加させていただき、スピリチュアルケアに対する考え方の基盤をえた。実存療法(ロゴセラピー)は「夜と霧」の著作で有名なV・フランクルが創設した療法であり、生きる意味や生きがいの喪失に対して行われる。わが国では永田勝太郎氏が研究会を主宰されており、わたくしも会の理事の1人としてメンバーにいれてもらった。

宗際活動との関わり

現在の世界的な戦争の多くにおいて宗教がその一因となっているが、一方で宗教は本来平和や平安を目指す活動団体でもある。大本は出口王仁三郎の「万教同根」の教えの下に、大正時代から諸宗教との協力・提携を続け、宗教間対話を積極的にすすめてきた歴史をもつ。世界平和のために宗教間協力が求められる中、様々な活動に参加してきた。1975年に世界連邦平和促進宗教者大会(亀岡)、1981年世界宗教者倫理会議、1986年にはイタリア・アッシジにおいて世界平和祈願の集い、1987年の比叡山宗教サミットなど、宗教間の対話・宗際活動が行われてきた。

わが国の国内における宗教間対話の促進をめざして教団付置研究所懇話会が設置され、2005年4月には増上寺にて第1回生命倫理部会が「脳死」をテーマに開催された。大本は幹事を努めていたこともあり、その会で私は「脳死について」を講演させていただく機会をえた。そして、その後も、この部会を通して、わたしは多くの宗教者とつながりを持つことができた。

ただし、この懇話会はそれぞれの参加者が教団をせおって発言しなくてはならないために、自由闊達な対話にはならないことを感じていた。教団という組織の一員としての立場からの発言であるためではないだろうか。

霊性研究-フォーラムへの参加

教団付置研究所懇話会生命倫理部会で知り合った本山一博氏(玉光神社権宮司)から2012年「霊性研究フォーラム」へ参加しないかとのお誘いをうけた。このフォーラムは、樫尾直樹氏(慶應大学・宗教学)、本山一博氏、小林正弥氏(千葉大学・政治学/公共哲学)、中川吉晴(同志社大学・教育学)、林貴啓(立命館大学・哲学)など主に人文科学系の学者が意見を交換する場として起ち上げられ、医学の分野からとしてわたしもその一因として起ち上げに参加してきた。

フォーラムの設立趣意書には、以下のような目標が記載されている。

「魂(スピリット)の実在性を仮説的に前提とした新しい科学/学問(=智)と生き方を確立する」

今までの学問は魂やスピリットがないことを前提に創りあげられ、そして、ある一定の成果を出してきた。一方で、魂やスピリットがないとしたことによって生じた弊害も少なくない。そこで、魂やスピリットの実在性を証明しようとするのではなく、実在性を仮説的に前提として新しい学問を創り出そうという大胆な試みであった。色々な分野の学者が様々な角度から霊性について対話をするという面白い会であった。

この会に参加している間に、魂の実在性を仮説的前提とした医療者の集まりをもちたいと考えるに至った。

他宗教の信仰をもつ医療者との出会い

普段、医療者は同僚と会っていても宗教について話す機会はほとんどない。特に、医療について話す時に、宗教が話題に出てくることはまずない。霊魂の存在は、医療者の世界ではむしろ話題にすべきではないタブーでもあった。医学は、科学的に実証されたものの上に構築され、実証されたものを基盤に行うべきであるという前提があるからだ。

しかし、現実の医療の場では、霊魂の存在を前提としなければ説明ができないような事例に遭遇することも少なくない。亡くなった人に出会うなどのお迎え現象や知人が亡くなった時刻に不思議な事象がおきたなどのお知らせもその例の一つである。もっとも、これらの事象も無神論者にとっては、幻想であるとか偶然の一致であるとして片付けてしまうことになるのだ。

MOAとの出会い

2011年のある日、信濃町にある大学の研究室にキッペス神父が訪れ、これからある診療所に招かれスピリチュアルケアについて講演するので一緒に行きませんかと誘われた。キッペス神父に同伴したのは品川にあるMOA(世界救世教の1団体)の診療所であり、わたしにも講演をする時間が与えられた。MOAの教祖である岡田茂吉は大本の出口王仁三郎の下にいた時期もある。普通、分派した宗教団体は仲が悪いものだが、世界救世教と大本は良好な関係にあった。わたしが大本の信者であることを打ち明けると、診療所の役員と話が弾み品川の診療所で月に2回診療のお手伝いすることになった。

診察日に診療所の鈴木清志所長と昼食時によもやま話をする時間をもつことが楽しみとなった。当然のこととして、医療と信仰についても話題となった。MOA診療所の医療者は、岡田茂吉氏が指導された手かざし療法を科学的にその効果を証明しようと研究活動を続け、欧米の英文の学会誌にいくつも投稿もしていた。また、品川の東京療院では食事療法やヨガや太極拳などの運動療法、生け花やお茶などの芸術療法、コミュニティーづくりに取り組んでいた。統合医療の推進のために積極的に政治家や官僚とも接触している。MOA会員である医療者が集う研究会を毎年もち、研究成果を活発に議論していた。医療の中で霊的現象を科学的方法で証明しようとする姿にわたしは心を動かされたし、このような医療者の集いをもっていることをうらやましいと感じた。

GLAとの出会い

2015年11月、慶應大学名誉教授の岡部光明氏に誘われて、GLA(教主;高橋桂子氏)という宗教教団の講演会に参加する機会をもった。高橋桂子氏の講演は、映像と音楽を駆使した、講話と会員の実践報告に驚かされた。40年以上GLAの教主である高橋氏は多くの会員の生きてきた歴史を書面と映像に記録し、1人1人の人生の歩みを解説するのだ。会場の会員の多くの方がその講演で感動をしていた。わたしは大本の信者であることを打ち明けた上でその研究会などにも参加させてもらうことになった。

GLAには多くの医療者が会員となっており、医療者の部会ももって活発に活動していた。年に一度の医療者の集う研究会をもち、人間を魂の存在としてとらえて行う医療について発表し活発に議論していた。MOAは組織内の診療所での医療が多いのに対して、GLAでは公的な病院も含めて組織外で働く医療者の報告があることも新鮮であった。

「信仰をもつ医療者の連帯のための会」の起ち上げ

わたしは、MOAとGLAの二つの教団で、医療者が自分のもつ信仰をベースに医療に向き合い真剣に取り組んでいる姿に未来の医療への可能性を感じた。そして、それを一つの教団にとどまるのではなく、宗派をこえて医療者が集まれば、新たな素晴らしい活動につながるのではないかと考えた。そのことをMOAの鈴木清志医師とGLAの馬渕茂樹医師に相談したところ、両者からも快い返事がえられたので「信仰をもつ医療者の連帯のための会」を起ち上げることなった。その趣意書を書き上げたのは2016年2月3日であった。

信仰をもつ医療者という表現は、一定の宗教に属していなくても神仏や霊魂の存在を肯定的にとらえているという意味で使った。また、信仰をもつ医療者の連帯に関心があるのであれば、医療者に限定するのではないこととした。

この名称にしたもう一つ重要な点は、本会が宗教宗派を代表して参加する会ではなく、信仰をもつ一個人として参加し発言することを前提とすることにより、自由闊達な対話が可能になると考えたからである。それぞれの個人は自分の宗教が一番よいと思っているかも知れないが、それを競い合ってもしようがない。自分の宗教を自慢するのではなく、その宗教をベースにどのように生きてきたが、活動してきたかが問われているのだ。その意味で、自分のもつ宗教ではなく、信仰の上に対話をする場を目指したのである。

精神科医師で林香寺住職の川野泰周医師、シュタイナーのアンソロポゾフィー医学の堀雅明医師、精神科医でその後出家し要唱寺住職となった斉藤大法医師など、多彩な顔ぶれで世話会を構成でき、約二年の準備期間にどのような会にするかについて議論をしてきた。そして、死生学の分野で多くの学者を育ててこられた上智大学グリーフケア研究所所長の島薗進教授にも顧問として参加していただくことになった。

世話人会では、お互いの宗教を理解するためには議論することから始めるのではなく、まずそれぞれの聖地の霊気に触れることも大切ではないかと、各世話人の聖地を訪問する企画もった。2017年春には箱根と熱海(MOA)に、2017年秋には亀岡と綾部(大本)に、2018年秋には建長寺と円覚寺(臨済宗)に研修旅行をした。2019年にはGLAの八ヶ岳いのちの里に訪れ、子供の研修会を見学させていただいた。

「信仰をもつ医療者の連帯のための会(信仰医連)」第1回大会について

2年半の準備の後、2018年10月28日に慶應大学信濃町キャンパスで第1回の信仰医連の大会を開催した。58名が集い、午前の部では、わたしがこの会の開催に至った経緯を説明し、次に、島薗進教授による「医療と宗教の複合領域の展開;1970年代から2010年代へ」の基調講演、鈴木清志医師の「個人的な趣味で行っている「宗教と医療」の研究 第1報」へと続いた。 昼食時には、ランチオン形式とし、仏教の斉藤大法医師、キリスト教の酒谷薫医師に、話題提供をしていただいた。

午後は、わたしが主宰している公開講座「患者学」でも使っているワールド・カフェ・スタイルでグループ対話を行った。約7名の7グループで「宗教と医療」、「信仰と医療」についてなどを話し合いました。グループ対話により、それぞれの参加者は自分の意見を話すこと、周りの人の話を直に聴くことができたため、理解と親睦を深めることになった。懇親会は、立食形式で自由にグループをつくりながら話し合うことができた。

後日に行われた世話人会では、全体として参加者の満足度が高く成功したのではないかとの意見であった。参加者からの言葉として、初めて他宗教の医療者と話し合うということで、最初は緊張していたがお互いを知り合うことで外の世界にも仲間がいることを実感したという感想が聞かれた。外の世界に自分と同じような考えをもつ医療者の存在を知ることができてうれしかったというだけではなく、他の信仰をもつ人と話すことができ、自分の信仰と医療の関係について振り返る機会になり、自分の信仰を相対化することに役だったなどの意見もあった。ワールド・カフェスタイルは連帯を高めるためにはよい形式であったが、発言を独占する人がいて対話が上手く進まなかったグループもあったとの報告もあり、今後の運営の改善などについて話し合った。また、仏教やキリスト教などの伝統宗教の医療者の参加者を増やしていきたいということが、今後の課題となった。

本会の展望について

本会の目標は、信仰心を持つ医療者だからこそできる真の人間に対する医療を実現し、それを社会に普及させることにある。真の医療には慈悲心が不可欠であり、それは信仰をもってこそ可能となるのではないだろうか。もちろん、信仰をもつ医療者が慈悲心を持てているのかと疑問を呈する人がいるかもしれないが、少なくとも、それぞれの宗教の教祖は慈悲心を体現した人であっただろうし、宗教では慈悲心をどのように獲得するかが教えられており、信仰者は慈悲心をもつことを目標に活動してきたとは言えるだろう。

本会の至近の目標は、信仰心を持つ医療者の連帯を促すことにあり、次に、信仰心を持つ医療者ができる医療を自分の周りに実現し、実現した医療を情報交換し、それを拡げることにあると考えている。将来的には、信仰心を持つ医療者からのメッセージを他の医療者にも届けることが可能だろう。

また、新しい宗際活動の一つのモデルとして社会に発信することができるだろうと考えている。医療という共通の分野で活動する医療者は、同じような現場をもち、そこでえられた経験を基に実践例を披露しあい対話をすることができる。宗教間協力(宗際活動)を実らせるために向いている職種ではないかと考えている。スピリチュアル・ケアの本質は、宗教や宗派を超えるというところにあるのではないだろうか。

“interfaith”あるいは「超宗教」について   鎌田 東二

要旨

緊急事態宣言下の東京オリンピック開催中の本年8月5日、ニューヨークに住む友人の龍村和子さんから「Hiroshima & Nagasaki Interfaith Peace Gathering」と題する案内状が届いた。この「Interfaith」を何と訳すかから始まって、「超宗教」や「宗教間理解・対話・協力」や「臨床宗教師」のありようについて考え、先行実践事例として、奥吉野の天河大辨財天社と柿坂神酒之佑宮司さんのことを思い浮かべたのである。

Contents

緊急事態宣言下の東京オリンピック開催中の本年8月5日、ニューヨークに住む友人の龍村和子さんから「Hiroshima & Nagasaki Interfaith Peace Gathering」と題する案内状が届いた。そこでわたしは、龍村さんにすぐに「Interfaith」は日本語にどう訳すのか、と訊いてみた。

その答えは、「Interfaithは、超宗教とかどんな種の宗教も入って、とかです。」というものだった。そこでわたしは、さらに次のように返信した。「ご教示、ありがとうございます。『超宗教』! 1994年に、春秋社から『天河曼陀羅――超宗教への水路』と題する本を出したことがありますが、これも“interfaith”でしたね、確かに。/ところで、わたしは、2016年2月に設立された「一般社団法人日本臨床宗教師会」の二代目会長を務めていますが、その「臨床宗教師」を Interfaith Chaplaincyと英語に訳しています。」と書き送り、「日本臨床宗教師会」のURL:http://sicj.or.jp/と、その二代目就任挨拶で次のように書いていると会長挨拶のURL:http://sicj.or.jp/greeting/を知らせた(ちなみに、当会は2016年2月に設立され、初代会長は本会議理事の島薗進氏である)。

龍村和子さんは、ニューヨークでヨーガの先生を長いことしているが、『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)』などで知られている映画監督の龍村仁さんの実姉であり、実家は京都西陣の龍村織である。わたしはたしか天河大辨財天社で龍村和子さんに初めて会ったと記憶する。そしてその天河大辨財天社のことを「超宗教」の現代的拠点であり世界モデルであると思っていたので、なるほど”interfaith”をそのように訳すことができるのかと膝を打った次第である。

ちなみに、”interfaith”を辞書で引いてみると、「異教徒間の」とか「異宗教間の」ととかの訳語が出てくる。また宗教が異なる者同士のカップルや結婚を“interfaith couple”“interfaith marriage”、また宗教間対話を“interfaith dialog(dialogue)、宗教間理解を”interfaith understanding“、さらには共通の原理や理念に基づいて宗教間協力をすることを”cooperate on an interfaith basis on common principles”と言うとある。

1984年4月4日に初めて天河大辨財天社を訪れて以来まもなく40年になるが、わたしは天河大辨財天社で、「超宗教」と「宗教間対話・宗教間協力・宗教間理解」の実になまなましくもやわらかな現場を垣間見てきた。柿坂神酒之佑宮司さんはその超宗教的対話や協力や理解し合いの最前線にして最深部にいたと思う。

それはなにゆえに可能となったのか? それは、天河大辨財天社が中世から「吉野熊野中宮」とも「男女冥会」とか「金胎両部」の霊地とかと呼ばれてきた伝統に育まれ、古来、水の女神を祀るその心があらゆるものに浸透し、吸いつき、出逢うものによって変幻自在に形を変えてゆく融通無碍の霊性を本性としてきたであろう。柿坂神酒之佑宮司さんはまさにそのような水の神弁才天の化身であり、エージェントであった。

その柿坂神酒之佑宮司さんとは『天河大辨財天社の宇宙――神道の未来へ』(春秋社、2018年)という共著も出したが、その共著の最後の方で、わたしは次のように述べた。――全国に約8万社ある神社と約7万近くある寺院が日本の地域共同体の自然・文化・社会的な安全安心の拠り所となることができれば日本社会の安定に寄与することははかりしてないだろう。藤田一照さんと山下良道さんは『アップデートする仏教』(幻冬舎新書、2013年)や『<仏教3・0>を哲学する』(春秋社、2016年)で、①仏教1.0(檀家制度に支えられた葬式仏教・コミュニティ仏教として形骸化していった日本の大乗仏教)、②仏教2.0(瞑想修行の実践的プログラムと実修を具体的に提示したテーラワーダ仏教)、③仏教3.0(テーラワーダ仏教による批判的吟味を踏まえて仏教本来の瞑想修行を取り戻した大乗仏教)と主張したが、その論法で神道の過去現在未来と可能性を見通すならば、①神道1.0(天皇制を頂点とした律令体制以降の神社神道や近代のいわゆる国家神道)、②神道2.0(天皇制以前から存在してきた神祇信仰や自然崇拝を中核とした自然神道や古神道)、③神道3.0(自然神道を核とし国家神道を内在的に批判突破した神神習合や神仏習合や修験道をも内包する生態智神道)と言えると主張した。

天河大辨財天社には、日本列島の多様性に基づく多層的な自然崇拝としての生態智神道があり、その上に、真言密教の即身成仏思想や草木国土悉皆成仏を謳った天台本学思想を内包止揚した惑星神道(地球神道、Planetary Shinto)という「神道4.0」の芽があるとわたしは思っている。そこには、「吉野熊野中宮」という地場を活かした宗教間対話と宗教間相互理解に基づく、新しい時代の「新神仏習合」ないし「新神仏習合諸宗共働」の宗教性が、その地を流れる天の川(下流に流れ落ちて十津川・熊野川となる)のうねりとなって息づき、この惑星の太平洋に流れ込んでいる、と。

その天河大辨財天社を一つの事例として、今後も、「一般社団法人日本宗教信仰復興会議」の「日本宗教信仰復興」のかたちと可能性を考えていきたい。ここ30年ほどの付き合いのある龍村和子さんから、東京オリンピックのさ中に、「Interfaith Peace Gathering」という案内を得て、「Interfaith=超宗教」についてさまざまに考えさせられたのである。

「悲とアニマⅡ――いのちの帰趨」展について   秋丸 知貴

要旨

エーリッヒ・ノイマンの『芸術と創造的無意識』を手がかりに「創造的人間」とはどのような存在か。、そしてそこで創造されてくる芸術とはいかなるものか、また創造行為や過程にかかわる男性原理と女性原理とは何かを考えてみる。閉塞し混迷した現代世界において、「内なる男性性」を確立するとともに、虐げられてきた「内なる女性性」(アニマ)を呼び覚まし統合することこそが求められているのではないか? 2015年に北野天満宮で開催された「悲とアニマ――モノ学・感覚価値研究会展」に続き、「悲とアニマⅡ――いのちの帰趨」展は、東日本大震災から10年目の2021年秋に京都の二会場で開催される。第1会場である建仁寺塔頭・両足院では「彼岸」を、第2会場であるThe Terminal KYOTOでは「此岸」を象徴する展示を行う。現代日本美術において、伝統的な日本の自然観や死生観がどのように表象されているかも本展の見所の一つとなる予定である。

Contents

ユング派分析心理学の重鎮エーリッヒ・ノイマンは、『芸術と創造的無意識』(1954年)で、社会における芸術家の役割について論じている。

まずノイマンによれば、創造的な人間は、個人的な無意識を超えて、全人類が深奥で共有している集合的無意識に通じている。集合的無意識は、宇宙の創造力の根源であり、「聖なるもの」(R・オットー)の源泉であり、様々な不可視の元型が司る領域である。

創造的人間は、この集合的無意識に沈潜し、元型を触媒として、彼の属する社会の求める「シンボル」(E・カッシーラー)を生み出す。シンボルは、精神的意味内容を感性的形式で表現し、認識と行為を支え、現実への適応を助ける。創造的な人間により可視化され具体化されたシンボルは、その社会に共有され、集合的意識を方向付け、それぞれの個人的意識に影響する。時代が移り変わり、社会の求めるものと既存のシンボルに齟齬が生じると、再び創造的な人間が集合的無意識に沈潜し、改めて元型を触媒としてその社会の求める新しいシンボルを作り出す。

こうした創造的人間は、宗教、思想、政治、経済、科学、技術、芸術等のあらゆる文化領域に存在するが、ある意味で最も重要で基礎的なのは芸術家である。なぜなら、シンボルの創出は、直観が論理に優越し、造形が言語に先行するからである。従って、文化社会はすべからく優れた芸術家を擁している。特に、造形芸術、音楽芸術、身体芸術は、言語芸術よりもより根源的な象徴的有意義性を有している。人類の文化的発達と洞窟壁画の成立が並行しているのは、故無きことではない。

ここで興味深いことは、ノイマンが西洋文明には二度の大きな転換期があると述べている問題である。つまり、中世から近代にかけては女性原理から男性原理への重心移行があり、20世紀以後は男性原理が過剰になり過ぎた揺り戻しとして再び女性原理が蘇りつつあるという。

ノイマンによれば、人類は「太母(グレート・マザー)」元型の強い中世までは無意識的領域にまどろんでいたが、次第に「太父」元型の強い近代に入ると意識を先鋭化し、合理的精神を発達させた。この合理的精神が、個人主義をもたらし、経済的資本主義や政治的民主主義を形成し、科学技術を誕生させた。これらにより、人類は無智蒙昧から解放され、飛躍的に物質的繁栄を謳歌することになった。造形芸術においては、主体的個人による客観的世界の把握を含意する、ルネサンス期における一点透視遠近法の成立がこれを象徴している。

しかし、次第に無意識から切り離された意識は肥大化し、世俗化を推進し、最高価値の喪失としてのニヒリズムを招来し、貧富の差を拡大し、自然環境を破壊し、機械化による人間疎外や破滅的な二度の世界大戦を発生させることになった。

この男性原理の過剰に対する補償として、戦前から戦後にかけて女性原理が再び強まりつつあると、ノイマンは見る。つまり、「太母」元型が再来することにより無意識的領域が活性化し、現世志向の強い近代精神により切り捨てられてきたアニミズム的・汎神論的心性が復興しつつあると説いている。まず、「恐ろしい母」の下で、キュビスムに代表される人体像の解体や、シュルレアリスムに典型的な悪夢的なイメージが台頭する。次に、そうした混沌と暗黒の中で、さらに「聖なる母」が顕現し、マルク・シャガールやヘンリー・ムーアに象徴されるような普遍的な慈悲や友愛の精神が目覚めようとしていると説明している。

ノイマンによれば、集合的無意識に内在する神聖性と向き合いつつ、個人的な意識と無意識を統合していく個性化こそが、今日あらゆる人間の課題である。

もちろん、こうしたノイマンの議論はやや強引なところがあり全てを首肯することはできない。それでもなお、私達が傾聴すべき部分も決して少なくはない。

新型コロナ禍や毎年発生する異常気象が、人新世における人類の自然コントロール願望に淵源を持つことを疑う者は、今や少数派であろう。ノイマンの用語で言えば、それは近代西洋的な男性原理の過剰による意識の肥大化の副作用である。そこでは、東洋、特に日本が古来大切にしてきた、森羅万象には魂(アニマ)が宿り、人間は大自然の一部に過ぎないという謙虚な自然観は見失われている。また、魂は此岸だけで消滅するのではなく彼岸との間で循環するのだから、この現世で傍若無人に振る舞うべきではないという深遠な死生観も忘却されている。いのちの帰趨は、母なる大地、母なる大自然、母なる大宇宙である。人間の力ではどうにもならない不幸な現実に強烈な悲哀を感じるとき、物質主義的価値観に目が曇る近代人にもそのことが思い出されるのかもしれない。

「内なる男性性」を確立すると共に、虐げられてきた「内なる女性性」(アニマ)を呼び覚まし統合することこそが、今求められているのではないだろうか?

2015年に北野天満宮で開催された「悲とアニマ――モノ学・感覚価値研究会展」に続き、「悲とアニマⅡ――いのちの帰趨」展は、東日本大震災から10年目の2021年秋に京都の二会場で開催される。第1会場である建仁寺塔頭・両足院では「彼岸」を、第2会場であるThe Terminal KYOTOでは「此岸」を象徴する展示を行う。

現代日本美術において、伝統的な日本の自然観や死生観がどのように表象されているかも本展の見所の一つとなる予定である。

「祈りのこけし」物語   水谷 周

要旨

「祈りのこけし」の由来と、本法人との連携の事始め。人を赦し、命を最重視し、正直に生きるという3点では、完全に両者の思いは一致している。このようなこころの輪の広がりは、他でもない信仰復興にも直結するものがある。

Contents

「祈りのこけし」には、目も口も鼻もありません。それは白木のこけしです。由来としては、水俣病の被害に遭い苦しみながら失われた人間、魚、鳥その他のすべての思いが宿っていると思われる水俣湾埋め立て地にある、実生(みしょう)の森の木の枝で彫られたものです。失われた全ての生命に祈りを捧げながら、「命の大切さ」に思いをいたし、二度と水俣病のような悲劇が繰り返されないよう願いを込めて彫り続 けられています。白木のままというのは、未完成の意味です。それは見る人のこころで完成させてほしいという製作者の気持ちからです。

その製作者とは、熊本の水俣市在住の緒方正実(おがたまさみ)さんです。彼は水俣病と認定されなかったので、10年余りの「孤闘」を経て、それを実現された方です。自然発生的に「いのりのこけし」は創作し始められて、この10数年の間に天皇皇后両陛下や国連議長、そして歴代の日本の環境大臣などに、約4000体が寄贈されてきました。

筆者はそのような活動を、NHKテレビの「こころの時間」を通して知りました。再放送も含めて、2回も見る機会を得ました。そしてその由来と簡素で淡泊な形象に、これこそ祈りを象徴し、祈りの力を引き出してくれるものだと深く感銘を受けたのでした。本年6月のことでしたが、その当時は拙著『祈りは人の半分』という著作の執筆も終わり、本の装丁に思いを馳せていたという偶然の一致がありました。すぐにこの「祈りのこけし」を同書のカバーに取り入れたいという想いに取りつかれたのでした。

そこでその想いを水俣の関係者とその知人である当法人の鎌田東二理事から、ご本人に伝えていただくこととなったのでした。そしてそれに対しては、緒方さん自身からすぐに承諾の回答を得ることができました。さらには、そういうことであれば、「一般社団法人日本宗教信仰復興会議」のために一体を新しく製作しましょうというお話まで頂戴することとなったのです。そしてそれは7月末には完成して、カバー写真として小著を飾ることができました。また今後もその「祈りのこけし」は当法人のシンボルのようにして、各種会合などでも壇上に登場して活躍するものと期待されます。

緒方さんは水俣病の直接の加害者である企業を責めるだけではなく、その後その事実を歪めて認めず、適時適切な施策も取らなかった国と地方行政の、虚偽、誤魔化し、隠ぺい、無責任な姿勢も同時に大いに糾弾されたのは、あまりに当然でした。しかしそれも、やがて各方面に「祈りのこけし」を配られて、称賛と支援の声が広まる中、考えは変化し始めました。行政も過ちを認め是正に努めることについては、赦す気持ちが高まり、また同時に命の重要性について改めて認識を深め、正直に生きることの大切さを確認されたのです。

人の過ちを赦し、生きるものの命を最大尊重し、正直に生きるということは、他ならぬ宗教心の核心でもあります。こうしていくつかの偶然も重なったのですが、結果としてはこけしの製作地である水俣と筆者が在住する横浜とが、思考と感覚の深いところで一本につながることとなったのでした。このような偶然は、本当は偶然ではなく、離れてはいてもいずれ繋がる宿命であったという気もします。

それはいわば、こころの輪が広がったといった感覚です。同胞を得た感覚とも言えます。こころの輪が広がることは、当法人の一番の眼目であるので、昨年夏の設立以来、最良の果実を得ることができたと言えそうです。今後ともこういったことを大切に育んで行きたいと願っているところです。

おわり


<いのち>とミュージック・サナトロジー   里村生英

要旨

2017年に京都大学大学院教育学研究科に提出した学位請求論文をこのほど春秋社から、『ミュージック・サナトロジー やわらかなスピリチュアルケア』と題して出版した。11世紀フランスのクリュニー修道院の看取りの慣わしと文化を淵源として持つ「ミュージック・サナトロジー」は、ベッドサイドでハープと歌声を使い、末期患者とその家族の、身体的・感情的・スピリチュアルなニーズに対し、「プリスクリプティヴ・ミュージック」で応じる実践運動としてシュローダー・シーカーが1990年代に提唱した。

Contents

私事で恐縮ですが、日本宗教信仰復興会議から出版助成をいただいて、この5月に『ミュージック・サナトロジー やわらかなスピリチュアルケア』(春秋社)を出版させていただきました。

死に逝く人のケアはどうあるべきか。シュローダー=シーカーが提唱した「ミュージック・サナトロジー(Music-thanatology)*」に着目して、死に逝く人と共にある「音楽経験を通したスピリチュアルケア」のありようを総合的に考察した研究書です。2017年に京都大学に提出した博士論文が元になっており、エンドオブライフケアとしての歴史的・今日的意味を探究しました。

(*「ミュージック・サナトロジー」とは、ベッドサイドでハープと歌声を使い、末期患者とその家族の、身体的・感情的・スピリチュアルなニーズに対し、いわゆる「プリスクリプティヴ・ミュージック」で応じる実践運動、及びそのやり方です。)

この原稿を書いているのは2021年8月第1週。新型コロナウィルス感染症対策の自粛的生活も2年目に入り、ここ連日は、感染急拡大と医療システムの限界・崩壊懸念が報道されています。誰もがどこか頭の隅で、「もしかしたら感染して亡くなるかもしれない」と思ったり、死を身近に感じたりしているのではないでしょうか。

しかしその一方、生活様式の様々な変化への対応・工夫が余儀なくされるなか、これまで当たり前にしてきたこと・なんでもなかったことが“炙り出されて”きているようにも思われます。それは、人間存在の根本、すなわち、<いのち>の(「愛おしさ・輝き・働き・尊厳・つながり」といった)類のことです。生物学的な、いつかは終わる命を、より強く意識したり経験するがゆえに、この世の命を<超えるいのち>を(誰かに教えられたり、強制されたりしたわけでもないのに)、“希求し”、“信じよう”としている。そういった人間本来の姿が、著作やメディア・SNS等で、以前より多く散見されるような気がします。

自著PartⅠではミュージック・サナトロジーの臨床実践を見ましたが、日本での応用実践・ハープ訪問において、患者と家族そして医療スタッフが経験していることは、まさしくこの<いのち>の顕現でした。彼らはそれを(生き生きと、堰を切ったように)「語り」、その存在を“確認”したことを伝えてくれました。それは例えば次のような表現です。

・「第三の眼がびんびんする感じです。」(逝去5か月前、40代女性)

・「元気が出た(意欲・希望が湧いてきた)。」(逝去14日前、20代男性)

・「魂に触れた感じだったのではないでしょうか。あんなに輝くあの子を見たのは久しぶりです。」(家族:末期患者の母親)

・「ええ、わかっとります、母は天国へ行くと思います。」(家族:危篤患者のご子息)

・「(患者さんが)静かに聴くかなと思っていたのが、すごく感じ始めているというのが分かってそれに驚きました。ハープの音は何か患者さんの中を満たすものだったのだろうと思います。」(照会看護師:がん専門看護師)

同じくここで取り扱った米国での実践報告においても、医療スタッフが(インタビューに際し)「神聖なスペース」などを用い、ミュージック・サナトロジーの場の<いのち>の働きについて言及していました。例えば次のようなものです。

・(ミュージック・サナトロジーは)神聖な空間を創り出します。そこに居る人は誰でもここが安全だと感じ、何か神聖なもの、寛ぎ、静けさを経験しています。(それは)非常に安全で私たちを護ってくれるものなのかなと思います。(ソーシャル・ワーカー)

・私は個人的には(医学的介入面よりも)、スピリチュアルな要素(美、希望)に印象づけられています。音楽は必ずしもすべてが前頭葉に入っていくわけではありません。音楽の要素が加わるということは、非常に希望に満ちた要素がそこにあるということだと思います。(医師)

・(患者さんに反応がない、聴くのが困難であるから、といって周りの人がミュージック・サナトロジーを断るとき、)それは何か日常の次元とは異なる、より深い次元に開かれていくことの可能性を逃すことになります。ミュージック・サナトロジーの根本意図は、表面的な音楽的関わりではありません。(ここで本当に起こること、)それは恩寵、神秘です。(チャプレン)

翻ってPartⅡでは、響き・音楽が死生(命といのちの両方)と関わるあり方のルーツが11世紀クリュニー修道院の看取りの慣わし・儀式の中にあることを突き止め、念入りに歴史的視点を検討し、ケアの本来性とスピリチュアリティのありようを浮き彫りにしていきました。そうして、クリュニー修道院で試みられたケアの精神は、現代のミュージック・サナトロジーへの架け橋として、こう整理されました。

①人間を身体と魂から成る統合的存在と捉える。②「死に逝く」から距離を置くのではなく、これを人生の重要な一部分として捉え、死に逝くその「ひと」、そして死に逝くに伴う「痛み」と「共にある」。③傍に「居る」という存在の仕方を鍛錬し、ケアのやり方とする。④死に逝く人と全人格的に関わり、また超越的存在とのつながりをとりなすために、“つなぐもの”として、ひびき・音楽を応答的に用いる。⑤「死をどう捉え、受け止めていくか」についての信念・信条は「死は終わりではなくはじまりである、永遠のいのちの世界に入ることである」。(160-166頁)

以上の五点が現代の私たちに示唆するのは、まさしく「肉体と魂の二重のケア」が死に逝く人へのケアには必須であること、そして、死を新たないのちの局面への転換点として捉えることにあるように思われます。
特に、いのちが宿るからだに、解剖学・生理学上の肉体とそこには見ることのできない魂を“見て”、さらに新たないのち(永遠のいのち)に入ることを“信じる”、その態度は“圧倒的”です。

クリュニーの死に対する態度は、ケアの本来の姿、すなわち当時彼らが懸命に取り組んでいた、内面的にも世界全体的にも「人間の調和状態」を目指すことへの立ち返りにほかありません。

このことは、PartⅢにおいて吟味したシュローダー=シーカーの創意にも覗われました。彼女はクリュニーの看取りを礎にして、「観想的修練(contemplative praxis)」を、現代の死に逝く人と共にあるケア者の第一要件としています。死に逝くという状況や死に逝く人と内面のレベルで“つながり”、そして心からその場に“居る”ためです。そのために、「習慣的に無自覚のまま身につけてしまった考え方やあり方を剝ぎ取っていく」訓練(「メタノイア修練」)を再構築し、それを「ファイン・チューニング」として表しました。

彼女によれば、無自覚にパターン化された自分のあり方(being)や考え方(thinking)に気づかされるようになると、心の奥(ハートと魂)の静かさと純粋さの場所を発見し、それを覆ってきたベールや仮面が剥がれ落ち、さらには何か強くて静かなものが芯の部分から放出され、その人全体を統合するといった工程で変容が進んでいきます。心の働きと存在の仕方の分断を、ハートと魂のエネルギーによって統合する、そういった意味での全体的調和へのプロセスを歩むことがメタノイア修練なのです。

そして、ここに音楽経験を通したスピリチュアルケア(いのちへのかかわり方)のありようが見えてきます。その詳細は自著に譲るとして、最後にシュローダー=シーカーの言葉を援用して終わりたいと思います。

「メタノイア修練としてのファイン・チューニングは、内面へと向かう静けさ、竪琴の伴奏で歌うときの静穏・静けさに心を合わせることです。それは深く聴き入り、この瞬間に求められていることを聞き、そして、自由に、喜んで与えることを可能にします。」

ケア・かかわりとは本来このようなものであり、このようなありようが“永遠のいのちの交わりにいる”と表現され得るのかもしれません。

こころの拠り所としての釣石神社(宮城県石巻市北上町)   須田郡司

骨子

東日本大震災が起こったその時、私はつくばの国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)の地質情報総合センターへ打ち合わせのため電車で移動中でした。その時の報道映像を見ていて、私は質としての命ではなくどこか量としてモノ扱いされている印象を強く持ちました。震災1ヶ月後ほどして、鎌田東二さんから連絡があり、一緒に東北被災地を訪ね、宮城県石巻市北上町の釣石神社に向かいました。そこで・・・

Contents

2011年3月11日14時46分,、東日本大震災が発生しました。

その日、私はつくばの国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)の地質情報総合センターへ打ち合わせのため電車で移動中でした。北千住駅からつくばエクスプレスに乗り換え10分も走ると突然、高架上に電車は緊急停車しました。電車は揺れに揺れ、周囲の電線も激しく揺れていました。大きな地震が来たことをすぐにわかりました。しばらくすると東北、関東に巨大地震が発生したと社内アナウンスで知ったのです。車内は比較的空いてましたが、立っているいる数人いました。結局、2時間ほど車内に閉じ込められ、電車を降りて線路沿いに最寄りの駅まで歩くことになったのです。100人近い人が、車掌の指示のもと三郷中央駅に着いたのは震災から3時間近く経っていました。それから満員バスを乗り継ぎながら、当時住んでいた市川市の自宅に帰ったのが深夜でした。妻は帰宅困難で当時働いていた職場に泊まり、翌朝帰宅しました。

震災の翌朝、透き通るような青い空でした。昨日の地震が嘘のように、穏やかな日差しが降り注いでいました。

震災当時、私は千葉県市川市にある7階建てのマンションの6階に住んでいました。震災から数日、余震が来るたびに生きた心地がしない状況で過ごしていました。インターネットでNHKのテレビ放送が見れるようになり、繰り返し流れる津波映像を見る度、どこか非現実的な世界を見ているようでした。映像の中であきらかに、多くの命が失われていたのです。くり返される映像では、質としての命ではなくどこか量としてモノ扱いされている印象を強く持ちました。何よりも東京電力福島原子力発電所が津波の被害で電源が喪失しメルトダウン、水素爆発が起こったのです。目に見えない放射能汚染により、命が失われようとしていました。ある意味、この世の終局を思わせるような出来事が迫っていました。

そんな中、ネット情報で宮城県の釣石神社の記事を見たのです。釣石神社は、日本石巡礼(2006年)の旅の途中に訪ねていました。宮城県石巻市北上町十三浜菖蒲田にある釣石神社は、大きな巨石を御神体としている神社で北上川の河口近くにありました。津波が来た時、何人かの人は釣石神社がある小山の階段を駆け上って命拾いしたということをネットの記事は伝えていました。

震災から1ヶ月ほど経った頃、宗教学者の鎌田東二さんから震災後の被災地の状況を見るため車で一緒に行かないかとのお誘いを受け、5月初旬、仙台で合流することにしました。仙台では、陶芸家の近藤高弘さんと奥様と合流し、東北大学の宗教民俗学者の鈴木岩弓さんを中心とし「心の相談室設立について」の記者会見が宮城県庁で行われ拝聴しました。その後、近藤さんの陶芸仲間の方から車をお借りし、鎌田さんと共に東北被災地巡りの旅が始まりました。我々は、できるだけ海岸線を走り、寝袋で車中泊をしつつ現地を見ながら北上することにしました。石巻市内の被害は、かなり深刻な状況でした。私は、ネット情報から釣石神社へどうしても行きたいと願い、鎌田さんと共に釣石神社へ向かったのです。しかし、その近くに行っても釣石神社を見つけることができませんでした。それもそのはず、周囲の地形は津波ですっかり変わっていたのです。巨石の前の社務所はもとより、周囲の民家がまったく見当たリません。釣石の前は、大きな水たまりとなっていました。2006年当時、釣石神社社務所の周囲は数十軒もの家が立ち並んでいました。10数メートル級の巨大津波は、社務所はおろか、数十件の家々全てを流し尽くしていたのです。

「釣石」由来の巨石を左側に174段の階段を昇ると、北上川河口から朝日差す釣石神社の社殿があり、大正3年に新築の奥ノ院にはご祭神の「天児屋根命」が鎮座されています。由緒書によれば、当追波地区は元来「舘ヶ崎」と称されていたそうです。その奥地の国有林鷹ノ巣山のうち産土沢と称する山上に祀られていたが、里人の便宜よく北上川沿いへの移動により、元和4年(1618年)現在地に遷宮したといいいます。明治初期、崖の中腹から突き出た周囲14メートルもの巨石があったことから、「釣山」から現在の「釣石」へ改められたそうです。舘ヶ崎は北上川門口のため、伊達藩領地の重要な要塞として伊達藩主が当地方を度々巡視されたようで、当地巡視の際に社側の丘に登って四方を眺望し、波の追い来たりを御覧になられて、次の一句を詠んだといいます。

「舘崎に 登りて見れば 朝日差し 綾に寄せ来る 追ひ波の浜」

昭和53年(1978年)宮城県沖地震にも耐えたことから「落ちそうで落ちない受験の神」として人気が上がり、更に平成23年(2011年)東日本大震災にも耐えたことから増々人気が上がり、全国から合格祈願者のお参りが続いているといいます。

震災から2年目、釣石神社を訪れた際、偶然、岸浪均宮司さんとお目にかかることができました。

宮司さんは、震災当時、石巻市北上町役場の職員をされていました。震災の日は、幼児を引率して命を守ることに懸命に仕事をされていたといいます。その後、東北被災地追跡調査の訪問の際は、何度も宮司さんから震災後の経過などのお話を聞かせていただいています。

今では、釣石神社の拝殿ができ、地元の人たちにとっての拠り所的な存在になっています。釣石神社は、ある意味、3.11東日本大震災の復興のシンボルとも言える神社です。これからも、東北の人たちの心の拠り所としての役割を担い続けてもらいたいと願っています。

巨石ハンター・写真家 須田郡司


思えば遠くまでやって来た   遠藤邦夫

骨子

生涯を振り返っての、信仰への道のりを語る。「『自分の意思の行方』が問われているのだと思います。・・・「鎌田さん(当法人理事)と良い縁があってよかったね。そう力こぶをいれて考えなくても、出会うべくして出会い、なるべくしてなったんだよ」と妻に言われた筆者遠藤邦夫の一文。

Contents

私が好きな中島みゆきの「命の別名」の歌詞の一節に、「・・・ 何かの足しにもなれずに生きていく 何にもなれず消えていく ・・・ 石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ 僕と生きてくれ ・・・」と、神ながらの道をさらりと歌っています。そんな歌に自分を重ね合わせている私に、妻は「高倉健や中島みゆきのようなかっこいい生き方をしてください」と、私を誰と思っているのか分かりませんが、そんなとんでもないことを口にします。

私は水俣病センター相思社の機関誌担当だった頃、1994年の秋だったと思うのですが、原稿を依頼するために大宮市櫛引町の鎌田さんの家を訪ねました。この町名、さすが神道学者が住んでいる町名にふさわしいなどと、どうでも良いことを思いながら行きました。その時のことで覚えているのは二つ。一つは、とても高価な牛肉を焼いていただいたことです。もう一つは、水俣病被害者の緒方正人さんが被害者団体を一人離脱し、本人曰く「狂った」ことです。テレビを庭に放り出し、車をわざと岩山にぶつけ、延々ともがき苦しんだ話をしました。鎌田さんは「その人は精神病だ。自分も同じ経験がある」、ある絵の下で2週間眠らずいたことがあると言われました。機関誌「ごんずい」25号に「場所の力、場所の霊 der heilige Punkt」を書いていただきました。

原稿依頼の前には、鎌田さんの本を何冊か読んでいました。宗教学者の鎌田さんの本を読むようになったのは、自分自身が不安に囚われていたからです。1989年にはベルリン壁が取り払われ、その後自称社会主主義国家のソ連・東欧圏は崩壊していきました。天安門では民主化を求める学生たちを、共産党政権が虐殺しました。ただこの時に、私は学生たちの民主化要求がよく理解できておらず、中国政府にも学生にも批判的だったような気がします。学生運動以来、自分を支えてきたマルクス・レーニン主義が、ソ連や中国の資本主義化で投げ捨てられていきました。まあソ連や中国の社会主義なんて、もともとインチキだったと言っても事態は何も変わりませんでした。 自分が関わっている水俣病事件でも、そうした思想が次の世界を導く理論とは思えなくなっていました。率直に言えば拠って立つものがなくなって、とても覚束ない気持ちになっていたのです。鎌田さんのどの本を読んだのかはっきり覚えていないのですが、人と自然と神の関係をこのように考えていいのか? まるで唯物論的思考じゃないかと思いました。ひょっとしたらこの人は、私の求めているものを持っているのではないかと思って連絡したのです。頂いた原稿「場所の力、場所の霊 der heilige Punkt」は、すとんと腑に落ちました。その後生まれた娘に、宮沢賢治の『狼森と笊森、盗森』は幾度となく読み聞かせました。

その次にお会いしたのは、鎌田さんに誘われた2018年の石牟礼道子追悼「死者と魂」のシンポジウムでした。四半世紀たっても覚えていただいていたことに驚きと感謝でしたが、とても刺激的なシンポジウムでした。私はそこで水俣病事件を歩む三つの道として、緒方正人の魂の道、あくまでチッソや政府の責任を問うファンダメンタルな道、水俣病被害者の利益を優先する俗世の道を初めて人に話しました。休憩時間に司会をされていた島薗進さんに、「若松英輔さんのハードな言葉を、これからどうされるのですか?」と聞いたのです。島薗さんは「まあ、あれは、若松さんのご意見ですから」と軽くいなされたことに改めて驚きました。

1987年に水俣にくるまでは、私はバリバリのマルクス・レーニン主義者で、宗教は粉砕対象でしかありえませんでした。今思うと恥ずかしくなるのですが、その頃は本気で考えていました。しかし水俣で神様を大事する人々にふれあう中で、また自分の内にある「神」経験が少しずつ開いていったようにも思います。ある時はJICA研修員たちの水俣フィールドワークで、農家の仏壇に祈りを捧げているイスラムの彼らを見て、それまでプレゼントすることを躊躇していた相思社絵葉書「路傍の神々」をあわててお渡ししたこともあります。

マルクス主義者の転向話と受け止めていただいてもかまいませんが、私の出自から少し話したいと思います。私の生家は、岡山県南部の低山に囲まれた小さな真戸止山(ルビ:まつばさ)という集落にありました。生家の隣が真戸止山(ルビ:まとべやま)神社で、我が家はその氏子でした。その集落で神道の家は、同じ苗字の我が家と本家と母の実家を含めて3軒しかなく、他の20軒ほどは仏教でした。子どもの私はよその家に盆提灯が下がっているのを見て、我が家にそれがないのは貧しいからだと思っていたのです。我が家は分家で水田が少なく、祖父も父も専売公社のサラリーマンでした。

祖父は祖母のことを前近代的だといって、やることなすこと文句を言っていました。「新聞紙で包むのは不衛生だ」「なんにでもゴマをかけるんじゃない」「今日は天理教、明日は金光教、その前はお寺に行くなんておかしなことだ」等々と、きわめて現代人的センスで祖母を卑しめていました。私は積極的に祖母を嫌ってはいなかったのですが、どうしてこんなに前近代的なことばかりやっているのか疑問はありました。私が大学生になって帰省した時には、ママカリを使ったバラ寿司を必ず作ってくれました。若いころは祖父がいうことが正しいと思っていたのですが、現在私は料理に結構ゴマをふりかけ、娘が帰ってくるとチラシ寿司をよく作り、てんぷらにも野菜を包むにも新聞紙は重宝しています。「これって婆さんの呪いだ」と思うのですが、なぜか祖母のほうがなつかしい思い出になっています。今思えば祖母の宗教に対する姿勢は、鎌田東二さんが言うように、日本人らしいプリミティブな神とのつきあい方かと思っています。

2021年8月に公刊された『水俣病事件を旅する MEMORIES AN ACTIVIST』は、昨年春から取りかかり、秋には最初の草稿が完成して、多くの出版社に依頼してきました。結果から言うとすべて断われて、今年になってからは自費出版を決意していました。たまたま鎌田さんから文章を紹介するメールが来た時に、「自分も本を書いているが自費出版する予定だ」と言いました。それに対して鎌田さんから、「自分の知り合いの出版社に紹介してみる」と言われ草稿を送りました。それから二日後に国書刊行会から出版することが決まり、同時に一般社団法人日本宗教信仰復興会議からの出版助成も決まったと伝えられました。ほんとうにびっくりしています。

私と鎌田さんの関係は、四半世紀ぶりに2018年のシンポジウムの呼ばれたとは言え、親密なお付き合いだったと認識はしていませんでした。さらに唯物論者の私が、「日本宗教信仰復興会議」から助成を受けることは、1990年までの左翼だった私にはありえないことでした。まさに驚天動地にふさわしく、この経過が人生の総括を迫っているといっても過言ではありません。左翼や右翼、唯物論や唯心論、有神論や無神論、こうしたラベリングが無効なものなり、まさに「自分の意思の行方」が問われているのだと思います。妻に言わせれば、「鎌田さんと良い縁があってよかったね。そう力こぶをいれて考えなくても、出会うべくして出会い、なるべくしてなったんだよ」と悟ったようなことをさらりと言います。

「無駄」のもつ重要性 効率では置き換えられない(『中外日報』、2021年4月23日) 弓山達也

要旨

教育界では1年間の遠隔授業の試行錯誤を経て、徐々に混乱が落ち着きつつある。当初、対面と同じような授業が模索されていたが、今では遠隔ならではの持ち味を生かした試みがクローズアップされている。しかしその利点の中心は「効率」にある。もちろん「効率」は重要だが、教育の根幹はそこにはないだろう。では同じように、この1年オンライン化が進んだ宗教行事がどうだろうか。

Contents

2021年4月17日の東京新聞に「コロナ禍全人的学び喪失」という見出しがあった。記事を書いた蒲敏哉社会部記者の意図は大学生の在籍延長と支援を求めるものであるが、彼は大学生にとって必要なのは既成概念を疑い、人間力を養うことで、それには友人との対話やサークル活動や人を好きになり悩むことだという。オンライン授業を評価しつつも、大学はそれだけではないだろうというのだ。

大学が全人的学びの場かどうかから議論が分かれそうだが、サークルや恋愛は別に大学でなくてもいくらでもできるという反論も予想される。そして各種アンケートを見るとオンライン授業への評価は意外に高い。早稲田大では有益なオンライン授業があったと回答したのは92%で、良い点として自分のペースで学習できる、復習に取り組みやすいがあげられている。東北大では今後も全て、あるいは主としてオンラインを希望する学生が23%で、対面との併用と合わせると68%がオンラインの意義を認め、内容理解・復習の容易さがその理由だという。

一言でいうとオンラインは効率がいいのだ。大学教員としては、いかに教室で非効率的な講義を展開していたかと耳の痛い結果でもある。ただ先の蒲記者ではないが、教育の意義をはかる物差しは効率性だけではないはずだ。翻訳があるのにあえて原書で読んだり、音読したり、教員の無駄に見えるおしゃべりや沈黙など、卒業してから、決して懐かしさだけではなく、その意味を判ることもある。

翻ってオンライン宗教行事はどうだろう。コロナ禍の自粛要請で宗教の現場も信者さんも大変なご苦労をされていることと思う。ただ懸念されるのは、当面自粛、やむを得なく中止・延期が、やがて習い性となって常態化することだ。私事で恐縮だが、実家の墓は愛媛県にあって親戚にお守りいただいている。墓参するにも親戚と連絡を取り、東京の家族と日程調整し、宿を予約してと大事となる。代行やオンラインで済むならどんなに楽だろうかと思わない訳でもない。

要はここでも効率なのだ。しかし先の教育でも宗教でも効率で置き換えられないものがある。かつて青森の松緑神道大和山に赴いた時、新幹線を使って6時間かかったとご挨拶したら、初代教主から昔は汽車で1日2日、その間、思いを寄せてあれを祈らせていただこう、これをお届けしようと思いつつ参拝したのだと強くたしなめられた。

立正佼成会で模範的な会員になるのに何年かかるかと質問をして、一生、いや一生でも無理かもしれないとの回答の前に不明を恥じたこともある。そもそも寝て起きて食べて効率よく済むのなら文化は要らない。教育や宗教のように文化の最たるものは一見無駄に見える何かが必要なのだろう。

最初の話に戻ろう。東工大の受験生向け広報誌のオンライン授業に関するインタビューで「無駄が必要」と述べたら、取材の学生から「なぜ?」という質問が来て、逆に面食らった。宗教もそうだろうが、いかに正確に大量に、そして早く処理するかということ以上に、集う空間やそこで過ごす時間、これらに対する意識の質が重要なのだ。

大重潤一郎監督作品 有料配信のお知らせ 鎌田東二

要旨

当法人鎌田東二理事の盟友だった故大重潤一郎(1946‐2015)監督作品の有料配信のお知らせです。ぜひこの機会にご観賞ください。withコロナの時代の今こそ、観てほしい映画です。映像の吟遊詩人が描き切った映像詩三部作です。水のように心に沁み込んでいきます。

Contents

【大重潤一郎監督作品 有料配信のお知らせ】

お正月に三が日限定で大重潤一郎監督のデビュー作「黒神」を公開し、おおくの皆様に観ていただき感謝します。コロナ感染拡大もあり、全国各地で上映ができないので、動画共有サイト「Vimeo」にて有料になりますが配信します。今回は『黒神』、『縄文』、『水の心』の3作品です。

1,『黒神』

大重潤一郎監督デビュー作、当時24歳の作品です。「労働とは何か…飯をくうとはなにか…愛するとは何か…生きるとは…人間とは何か!?」を岩波映画の仲間達と自主制作した劇映画。

2,『縄文』

これは縄文の暮らしを現代の眼で記録したものです。私たちはどう生きてきたのか何を失ってきてしまったのか。主演:西尾純、題字:梅原猛、撮影:堀田泰寛、音楽:岡野弘幹

3,『水の心』

ヒマラヤやインド、バリ島の水や風の流れを記録していった。人々が信仰する水の女神サラスヴァティーの気配を、自然と人が交歓する日常信仰を通じて描いた。

予告編は無料公開しています。

FacebookやTwitterなどで知り合いの方々にお伝えいただけるとありがたくおもいます。

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大重潤一郎プロフィール:1946年鹿児島市天保山生まれ。2015年、沖縄市那覇赤十字病院で逝去。山本薩夫監督の元助監督として映画界に入り、主に岩波映画で演出を学ぶ。劇映画『黒神』(1970年)で第一作を飾り、以降自然や伝統文化を主なテーマとして活躍。『小川プロ訪問記』で2003年国際ベルリン映画祭に招待される。「神の島」と呼ばれてきた久高島を舞台にドキュメンタリー映像『久高島オデッセイ』(2006年、2009年、2015年)三部作を遺作として残す。主な作品に、『未来の子ども達へ』『水の光』『風の光』『光りの島』『風の島』『縄文』『The Long Walk for BIG MOUNTAIN』他。

以下、参考資料です。

鎌田東二『世直しの思想』春秋社、2016年。 第五章 世直しと教育と霊性的自覚 第四節 坂本清治の久高島留学センターの教育実践と大重潤一郎の『久高オデッセイ』三部作

Contents

鳥山敏子の影響を受けながら、独自の学校教育に取り組んだのが坂本清治である。坂本清治は一九六〇年に神奈川県横浜に生まれた。食糧問題に関心を持ち、琉球大学農学部に進学。大学四年の時、一年間休学して、鹿児島県から山形県までの全国の農山村を見て回り、各地の研究者や行政の担当者から話を聞いたり、農家に住み込んで働いたりした。宮崎県児湯郡木城町では、武者小路実篤が開いた「新しき村」にしばらく滞在もした。一時は大学中退も考えていたが、沖縄に戻って、「帰農論――疎外の克服のために」と題する論文を書き、大学を卒業した。卒業後も、有機農業や創造的な活動をしている教育施設への関心と経験を深め、鳥山敏子の設立した「賢治の学校」に関わってゆく一方で、学習塾を営んでいたが、長年温めてきた「久高島留学センター」を二〇〇一年に設立し、代表に就任した。

この前年、久高中学校は在校生二名のみとなり、廃校の危機に陥っていた。坂本は全国から生徒を募集し、廃校寸前の久高中学校に十四名の留学生を連れてきて「久高島留学センター」を立ち上げたのである。久高中学校の存続はこの坂本清治が創設した「久高島留学センター」なしにはありえなかった。坂本はその後一時期、NPO法人久高島振興会の副理事長も務めたが、二〇一四年三月末に久高島を去った。

「久高島留学センター」は離島型の山村留学機関である。主に中学生を受け入れ対象にしているが、少数ながら小学生も受け入れている。全国各地から久高島に留学してきた子どもたちは、センター長の坂本清治の指導の下、共同生活を営みながら島の自然に触れ、漁やカヌーやシュノーケリングなどの海の活動、畑での野菜作り、三線・笛・太鼓・歌など沖縄の伝統芸能の習得、清掃や祭りなど地域の活動に参加しながら、久高小中学校に通い、勉学に、部活動に励む。島の中で規律正しい共同生活を営みながら、伝統的な人生儀礼や通過儀礼も経験し、子どもたち個々人が直面している課題に向き合い、地域の祭祀や行事などの協働作業にも参加し、地球規模で取り組まなければならない現代世界の課題にも目を向け、それに立ち向かっていける人材の育成を模索している。

坂本清治は、「”核”と”輪郭”をつくる」と題するインタビュー記事の中で次のように述べている。

「久高島留学センターは二〇〇一年にオープンしましたが、当初はここに来る子の八五%~九〇%が不登校の経験者でした。いまは三割くらいに減っています。おっしゃるようにこの島ならではの素晴らしい環境を求めてくる子もいますが、そんな子も不登校の経験のある子も、それぞれが課題を持っていて、不登校そのものは全く問題ではないと思っています。ここに来るきっかけは様々ですが、たとえ親御さんが熱心に勧めても、最終的には本人が『ここでがんばります』と言わない限り、受け入れはしません。しかし、今まで不登校で悩んでいた子ども達のほとんどが、ここへ来ると見違えるように生き生きしたり、農作業をがんばって地域のおばあちゃんたちからも可愛がられるようになります。その意味では、引きこもりタイプの子は結構大丈夫ですし、面白いですね。むしろ難しいのは、非常に粗暴な振る舞いをする子や、常に友達と群れたり、みんなの注目を浴びていないと気が済まない、つまり一人でいることができないような子です。」と述べている。

この「久高島留学センター」の活動を記録したのが奥野修司『不登校児 再生の島』(文藝春秋、二〇一二年)である。ここには、日本の全国各地から集まってきた中学生たちが共同生活をしながら、島の人々と交流し人間として変化し成長していく姿が描かれている。

前掲坂本のインタビューで述べられていたように、当初「久高島留学センター」にやってくる子どもたちのほとんどが不登校児であった。が、その九割以上の子どもたちが、ここでの生活の中で大きく変化し成長し再生した。

久高島は「神の島」と呼ばれてきた沖縄本島西南部の小さな離島であるが、この島にはコンビニもスーパーもない。本屋もゲームセンターもない。子どもたちはテレビやゲームから距離を置き、自然と地域の中に一個の「いのち」として身を置くことになる。そしてそこで、バーチャルなゲーム的世界ではなく、身体的な痛みと歓びを伴う身体知的現実世界に生きることになる。久高島ならではの追い込み漁体験やの飛び込み(オリンピック競技の高飛び込みなどとは全く異なる)、また島の年中行事の祭祀や久高大運動会での島内三〇〇〇メートル走への参加。日常生活も食生活も劇的に変わる。ジャンクフードを食べる暇も機会もなく、魚と野菜中心の食事に変わる。食が変わると体形も変わる。沖縄大学元学長の加藤彰彦はこの「久高島留学センター」を「現代版若衆組」と呼んでいる。

現在の「久高島留学センター」のHPには、次のように久高島と留学センターが紹介されている。「久高島は、珊瑚礁に囲まれた美しい海と恵まれた自然環境を有し、古くから琉球の始祖アマミキヨが降臨し、五穀を初めて伝えたという「神の島」として崇拝を集め、こころのふるさととして親しまれている所です。/この独特の風土、自然に育てられた久高島に留学生を受け入れ、かつて子ども達が大人に成長する過程で課せられた体験や人生の節目節目に通過する儀式(イニシエーション)などを経験する中で、子ども達が学び成長していくことを望んでいます。/また、地域伝統文化学習や自然環境学習を島ぐるみで行うことにより、学校児童生徒の確保、コミュニティ活動の充実、地域住民の連帯意識の高揚、他地域との交流活動、観光の推進、地域の経済振興などが図られ、地域の活性化に大きく寄与することを目指しています。」

この久高島は、沖縄本島東南部に浮かぶ人口二〇〇名ほどの小さな島で、琉球王朝時代から「神の島」として東方ニラーハラー(ニライカナイ)と呼ばれる他界信仰を保持してきた。そこでは十二年に一度、午年に神女(カミンチュ)になるための儀式「イザイホー」が行なわれてきたが、一九七八年以降、後継者難によりその伝統も途絶えている。本年二〇一五年一月五日は旧暦午年十一月十五日のイザイホー開催の日に当たったが、伝統的なイザイホーの祭りは行なわれなかった。が、久高島の聖所である久高殿神アシャギで切実かつ痛切な祈りが捧げられたを大重潤一郎監督のドキュメンタリー映画『久高オデッセイ第三部 風章』(二〇一五年製作)は記録している。

折口信夫は、一九二三年(大正十二年)に書いた「琉球の宗教」の「二、遥拝所―おとほし」の中で次のように書いている。「琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。/御嶽拝所は其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻に於ける久高島、国頭に於ける今帰仁のおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。」と。

この「お通し」が行なわれる最高至貴の聖地が世界遺産に指定されている斎場御嶽で、その斎場御嶽のサンゴ石灰岩の断層が造形した見事な神秘空間である「三庫理」が「神の島」と呼ばれてきた久高島を「お通し」する遥拝所である。

大重潤一郎は、一九四六年に鹿児島県南端の港町の坊津に海の一族の末裔に生れた。生涯海を愛し、海のエロスに感応しながら、「海人(ウミンチュ)」として享年六九歳の生をまっとうしたと言える。岩波映画で学び、一九七〇年に風変わりな劇映画『黒神』でデビュー。その独創的な作品は黒木和夫監督に「十年早い傑作」と称されたが、まったく大衆受けすることはなかった。このデビュー作『黒神』から、「大阪のチベット」と呼ばれた能勢町のミサイル基地建設の反対運動を記録した『能勢~能勢ナイキ反対住民連絡会議』(一九七二年)などを経て、『水の心』(一九九一年)、『風の島』(一九九六年)、『小川プロ訪問記』(二〇〇一年など次々に自然と人間と文明との葛藤と調和への希求を描く記録映画を発表し続けた。

二〇一一年の東日本大震災後、その『黒神』の真価が評価され始め、自然派である大重映画の徹底した表現と訴求力が若者や未来の生き方転換を模索する人たちに拡がり始めた。大重は遺作となった「久高オデッセイ第三部 風章」まで、一貫して大自然の中で慎ましくも逞しくけなげに生き抜いていくいのちの輝きと祈りと祭りとエロスを描いてきた。「気配の魔術師」大重潤一郎の映像のエロティシズムは澄明で永遠性を感じさせるリリシズムを横溢させている。「久高オデッセイ」という名称に物語るように、大重は「オデッセイ」という叙事詩を謳う吟遊詩人であり、映像の詩人であった。

その映像詩は、一九九五年の阪神大震災の経験で深められた。大阪に事務所を構えていた大重は震災後家族の住む神戸の自宅に向かって歩いた。高速道路がへし折れ、ビルも民家も倒壊し粉塵が上がり、無秩序な瓦解した黙示録的な終末世界のような光景が広がっていた。
その信じ難い廃墟の破局的光景の中でも、アスファルトからタンポポが芽を吹き出すいのちのいとなみがあった。大重は猛然と『光りの島』(一九九五年製作)の編集に取りかかり完成させる。このアスファルトの地面の下には縄文時代から続いているいのちが埋蔵されている。大重の野生の感覚はそのことを見逃さなかった。そのいのちを取り戻す!

『光りの島』は廃墟となった神戸とポジとネガの関係にあり、大重の死生観が表出されている。沖縄の無人島(新城(アラグスク)島)の島の光と風に晒され、見えないモノを視、聴こえない声を聴き、「いのちの帰趨」に触れて、その根源に響く「母の声」を聴く。母は死の間際に「死んだらなんにもならん」とつぶやいた。

島を訪れてきた主人公(独演:上條恒彦)はその「死んだらなんにもならん」という母の言葉を反芻し、問いかける。そして終に、次のような「いのち」観に到達する。

「母さん、そうじゃなかったでしょう。『死んだらなんにもならん。』なんて。死んでも生きているでしょう。生きる姿は変わってしまってけれど。しかし、母さんがどうしているか分かって良かった。 母さんよかったね。」

大重潤一郎の遺作となった『久高オデッセイ第三部 風章』においても、自然といのちの循環が言葉ではなく映像で悠久の時間を紡ぐように示されているが、この『光りの島』の中でも同様に主人公は次のように語る。

「この島の自然に始まりも終わりもない。くりかえしがあるだけじゃないか。 地球は生命のゆりかごであるという。しかしそれは生み出すだけではない。死をもひきとっている。そして眼には見えない。耳には聞こえないちがう次元へ導き、計り知れないいのちを生かしている。生も死も全てを包み込んで大きなうねりをくりかえしている。」

「全てが生きている。祖先や様々な霊たちが石の像(かたち)を借りて唄っている。」

ここには鳥山敏子が追求してきた素のままの「いのちのすがた」がある。

大重は処女作『黒神』以降、ワンパターンのように、自然といのちの偉大さとそれへの畏怖畏敬とその息吹に浸されて謙虚にかつ懸命に人々が生きていく姿を描き続けてきた。東日本大震災後、そんな大重映画が別の形で甦った。いのちといぶきといのりの覚醒の中で。「霊性的な自覚」を映像で示す作品群として。

大重は、坂本清治が「久高島留学センター」の設立準備をしていた二〇〇〇年に、『縄文』(福井県三方町縄文博物館常設展示映像)と、久高島に通い続けたカメラマンで民俗学者の比嘉康雄の遺言を記録した『原郷ニライカナイへ――比嘉康雄の魂」を製作した。続けて、二〇〇一年には『ビッグマウンテンへの道』(ナレーション:山尾三省)を製作し、これらを「古層三部作」を名付けた。その後、二〇〇一年に大重は沖縄に移住し、故比嘉康雄氏の遺志を受け継ぎながら久高島と那覇市に住み着いて『久高オデッセイ第一部 結章』の製作に取りかかった。

が、二〇〇四年十月に脳内出血で倒れ、再起不能の状態にまで追い込まれながらも、激痛に耐えつつ、半身不随の体に鞭打ち、二〇〇六年に『久高オデッセイ第一部 結章』を完成させ、さらに二〇〇九年に『久高オデッセイ第二部 生章』を、二〇一五年六月には『久高オデッセイ第三部 風章』を完成させ、同年六月二十一日に久高島で初上映会を開き、七月五日に東京両国の劇場シアターΧで島外初上映会を開催した。

長篇記録映画『久高オデッセイ』三部作は、「神の島」と呼ばれてきた久高島の祭祀=祈りと生活=暮らし(漁労・農耕など)を島の自然風土の中で繊細・丁寧にドキュメントするものである。この久高島を十二年間にわたって記録する『久高オデッセイ』三部作は大重映画の到達点であり集大成であり、前任未踏の「沖縄文化論」である。

『久高オデッセイ第一部 結(ルビ:ゆい)章』は、二〇〇二年から二〇〇六年まで撮影された映像を元に、二〇〇六年、国際宗教史宗教学会の学術大会において初上映された。久高島の祭祀と生活、日常(ケ)と非日常(ハレ)の両方を追いかけながら、島の年中行事の記録とともに、特に男性漁労祭祀の中心人物であった「ソールイガナシー」と呼ばれる男性最高神役福治友行の退任を記録している点で特色がある。

続く『久高オデッセイ第二部 生(ルビ:せい)章』は、二〇〇六年から二〇〇八年まで撮影された映像を元に、二〇〇八年六月に東京大学理学部小柴ホールで行なわれた東京自由大学設立十周年記念特別行事「地球温暖化防止シンポジウム~地球温暖化―宇宙からの視点」シンポジウムで初上映された。この第二部の特色は、「ハッシャ(法者)」と呼ばれる島の男性役職が定まり(ハッシャ代行の一人は第三部の副主人公的な内間豊)、「イラブー漁」と「イラブ燻製」が始まったことと、イザイホーによって「神女」(カミンチュ)となった女性神役三人の定年(七〇歳)による退任儀式「フバワク」が行なわれたことの記録である。

遺作となった『久高オデッセイ第三部 風(ルビ:ふう)章』は、二〇一二年から二〇一五年一月まで撮影された。この第三部では、島に誕生した内間豊(第二部のハッシャ代行)映子の長女内間菜保子の誕生と西銘亜希という「ファーガナシー」の魂を受け継ぐとされる若い神女(カミンチュ)の誕生が描かれている。二人の若い女性のいのちがどのように島の未来を変え、つなぐ力になるか、希望と期待と光明とともに映画は閉じられる。また、久高島を訪れた船上生活を営む谷龍一郎一家の暮らしぶり、ライフスタイルについての映像も、この『久高島オデッセイ』三部作という「海の映画」の核心を衝いている。

とりわけ第三部では、歌うような、あやすような、癒すような、せつないチェロの響きが奏でられ、荒れ狂う白馬の台風や無限を感じさせる朝日やノスタルジーと悲しみを湛えた夕日や島の子どもたちや神女たちや海人たちの日常が描かれる。その島のさまざまなるいのち。この映像が伝えているのは一貫して、「いのちのすごさ・とうとさ・ゆたかさ・おもしろさ」である。台風と海亀の産卵と植物や花のシーンがそれを証ししている。

この作品の最後に大重は自らナレーターとなって次のように語る。

「地下水脈がわき出るような歌声であった。 祭りは途絶えているが、祭りの命は息づいている。祭りは人間が生きている限り行われる。 生きていることの証が祭りである。 やがて、違った形で復活するだろう。十二年間待っていた島の姿を確認した。

東の海の向こうには、ニライカナイがあると言われている。 しかし、この島こそが、この地球こそが楽園ニライカナイではないか。地球の七割が海である。 陸地が海によって、繋がっている。海に育まれている久高島は、姿を変えながらも、脈々と命を紡いでいた。」

第三部冒頭では、坂本清治が「久高島留学センター」の子どもたちを含む久高中学校生徒を指導しながら追い込み漁をする場面が描かれている。坂本清治の貴重で未来的な教育実践は、『久高オデッセイ』三部作の中にしかと刻み込まれている。

『久高オデッセイ第一部 結章』の中に海亀が出てくる。その海亀はイノー(礁地)の中で海に戻れずどうしていいかわからず戸惑っているように見えた。そして遺作『久高オデッセイ第三部 風章』の最後に出てくる海亀は涙を流しながら産卵を終え、後ろ足で盛砂を固め、わが子である卵を保護して堂々と久高島の東の浜を後にした。

大重潤一郎はこの海亀のように『久高オデッセイ』三部作を産卵し、堂々と彼の好きな海に還っていった。鳥山敏子の教育実践や著作がそうであったように、大重の魂は、この映画の中に、彼の映画人生の全作品の中に一つ一つの卵=魂子として生き続け、後続する者に新鮮ないのちの水と風と空気を惜しげもなく絶やすことなく与え続けているのである。

心の復興と祈りの次元(『曹洞宗報』991号、2018年4月) 島薗進

要旨

東日本大震災では、宗教界の支援活動がこれまでになくよく報道された。伝統仏教の支援活動も注目される機会が多かった。これは一つには、阪神淡路大震災以後、宗教者側が災害支援活動に親しみ、支援の力を充実させてきたということがある。他方では、平常時から地縁や血縁の絆が弱まってきて、他者の支援を必要とする人々がますます増大しているということにもよる。水俣の経験は、「心の復興」や「人間の復興」において、人間生活の宗教的な次元が重要であることをよく示している。福島原発災害の被災地においても、このような祈りの側面の意義が今後ますます認識されてくるだろう。

Contents

東日本大震災と福島原発災害から七年を経て、新たな防潮堤が築かれたり、復興住宅が建ったり、産業が誘致されたりするなど物財の復興は進んでいるように見えるが、「心の復興」あるいは「人間の復興」となるとどうだろうか。

東日本大震災では、宗教界の支援活動がこれまでになくよく報道された。伝統仏教の支援活動も注目される機会が多かった。これは一つには、阪神淡路大震災以後、宗教者側が災害支援活動に親しみ、支援の力を充実させてきたということがある。他方では、平常時から地縁や血縁の絆が弱まってきて、他者の支援を必要とする人々がますます増大しているということにもよる。

行政や医療・ケア機関には「心の復興」や「人間の復興」のための施策を期待したいが、行政や医療・ケア機関にできることは限られている。地域住民や地域のさまざまな集団に、また外部からの支援団体や支援者に期待せざるをえないところが大きい。宗教や宗教的なものの役割が見直されているのは、こういう理由にもよっている。

注目すべきことの一つは、原発災害の被災者のストレスがとくに大きいと報告されていることである。一般に自然災害と比べて公害など人為的な災害の場合、ストレスが大きく長引きがちだ。企業や国が加害側である災害の場合、被害の実態の把握も原因究明もなかなか進まない。そのため、被害を実感している人とそうでない人との間の認識が大きくずれてしまう。立場が違うと話がしにくくなる。それがまたストレスになり、被害を受けた人、受けたと感じている人の苦渋は一段と大きくなる。

一九五〇年代に起こった日本最大の公害である水俣病では、まさにこうした事態が長期にわたって続いた。有機水銀の摂取に由来するさまざまな症状に苦しむ被害者と、加害企業であるチッソの存続を願う人々の間に対立が生じ、被害を認めるのに、また原因究明に長い時間がかかった。今もなお患者の認定をめぐる訴訟が続いている。

だが、水俣病では「心の復興」や「人間の復興」にあたる動きも生じた。「もやい直し」という漁師に身近な用語を用いて、絆を結び直す和解の動きが起こった。そこで大きな役割を果たしたのは故原田正純さんのような医師であったり、故石牟礼道子さんのような作家だったりした。石牟礼さんの作品では、『苦海浄土』以来、つねに祈りのトーンが基底を流れている。宗教性をたたえた表現が、和解への動きの牽引力となった。

一九九〇年代には石牟礼さんも交え、「本願の会」という集いができた。この集いでは、杉本栄子さんや緒方正人さんのような地元の漁師が大きな役割を果たしている。「本願の会」といっても浄土教の教えが直接、念頭に置かれているわけではない。だが、地域で昔から受け継がれてきた信仰心が強く意識されている。

水俣の経験は、「心の復興」や「人間の復興」において、人間生活の宗教的な次元が重要であることをよく示している。福島原発災害の被災地においても、このような祈りの側面の意義が今後ますます認識されてくるだろう。

自然に属する人間の位置(こころの未来60;2017年12月4日付徳島新聞朝刊) 鎌田東二

要旨

カトリック教会トップのフランシスコ教皇が2015年年5月に出した回勅『ラウダート・シ~ともに暮らす家を大切に』の中で、「総合的(インテグラル)エコロジー」と「エコロジカルな霊性」の必要を説いている。それと同様の主張を、イギリス在住の思想家であり社会活動家のサティシュ・クマールが『人類はどこへいくのか~ほんとうの転換のための三つのS〈土・魂・社会〉』の中で、「総合的(ホリスティック)エコロジー」として説いている。クマールは、そこで、「土と魂と社会の三位一体」のケア(世話・気遣い)サイクルを提唱している。最も重要な行動変容は「エゴ(ego)」から「エコ(eco)」への脱皮である。ギリシア語の「オイコス(oikos、「家」の意味)」から「エコロジー(生態学)」と「エコノミー(経済)」の2つの語が派生したように、本来同根であったエコロジーとエコノミーとを再結することが地球と人類の未来を持続可能なものとする。(本記事は、2017年12月4日に徳島新聞朝刊に掲載したものである)

Contents

エコロジカル・ディスタンスとフィジカル/メンタル/スピリチュアル・ディスタンスとソーシャル・ディスタンス(鎌田東二編『身心変容技法シリーズ第3巻 身心変容と医療の原点と展開』第二節、日本能率協会マネジメントセンター、2021年3月末刊行予定) 鎌田東二

要旨

新型コロナウイルスのパンデミックにより世界的に「ソーシャル・ディスタンシング」が推奨されるようになり、人間間のコミュニケーションや交流に深刻な変化が生じている。しかしこの「ソーシャル・ディスタンス」の前に「エコロジカル・ディスタンス」があり、それを基盤にしつつ人類は「フィジカル/メンタル/スピリチュアル」なディスタンスの構築をはかってきた。その関係構造をよくよく認識し、それに基づいた“new normal”な行動様式に行動変容しないかぎり、同じ過ちを繰り返すことになる。(本論考は3月23日に発売される『身心変容技法シリーズ第3巻 身心変容と医療/表現』(鎌田東二編,日本能率協会マネジメントセンター)第2節である)

Contents

新型コロナウイルスのパンデミックにより、「ソーシャル・ディスタンシング」(社会的距離を取ること)が奨励されるようになった。感染拡大を防ぐために、「密集・密接・密閉」という「3密」を避けて、車間距離を取るように、身体的・社会的距離を取るということである。ソーシャル・ディスタンスを守らない者は、罰せられないまでも、嫌がられ、距離を取るように指摘されるという社会情勢である。ウイルス感染を防ぐためには、「隔離」がもっとも効果的な方法とされるが、生命維持活動にとって、徹底した隔離も孤立もともに死を意味する。その隔離や孤立の反対が合一や密である。とりわけ、「三密加持・入我我入・感応道交・我即大日」などなど、宗教的思考も志向も、究極の「密」を求めてきた。

2020年に世界中で巻き起こった「ソーシャル・ディスタンシング」の奨励という思いがけない事態は、逆に、身心変容技法の一つの特質を露わにする結果となった。それは、特に密教の「三密加持」とか、あらゆる神秘主義が包含する「神秘的合一」とかの、「密」とか「合(融合・合体・融即)」とかが示している究極的境地(境涯)の特異性や独自性を露わにしたからである。

これまで、「身心変容」の究竟として挙げられてきたのは、神仏などの究極的・根源的・全体的存在と一体になるという境地であった。多くの宗教は合一や密集を重要な教義や儀礼の特色とする。つまり、できるかぎり、距離を縮めることが救済や身心変容につながるという思想や技法が一つの伝統として存在する。韓国での最初期の新型コロナウイルスの感染拡大が「新天地イエス教会」というキリスト教系新宗教での集団儀礼にあったという感染拡大の事例を例に出すまでもなく、密集・密接・密閉などの「3密」状態の創出は、祭りや典礼などの儀礼を活動の中核として持つ宗教の重要な特質である。フィジカル(身体的)・メンタル(心理的)・スピリチュアル(霊性的)な諸レベルでディスタンス(距離)をシフトすることにより、解脱や救済を得ようとしてきたのが宗教的な方法論であったと言うことも可能である。先に見た洞窟における獲物の動物に「成る」というシャーマニズム的儀礼もそのプロトタイプ的な事例であった。

そのことを順序立てて、考えてみよう。大きく捉えれば、地球上では、鉱物・植物・動物たちが相互に関わり合って、地球環境を形作っている。その相互依存性・相互関係性は、俯瞰的かつ総合的に見れば、エコロジカル・ディスタンスによって、絶妙なバランスを保っている。したがって、地球上のあらゆる存在者はこのエコロジカル・ディスタンスの均衡の中にある。

しかし、縄文時代のような狩猟採集時代はいざ知らず、弥生時代以降のような稲作農耕社会となり、定住的な村落を作ったり、都市文明を構築していったりすれば、必然的に「3密」状態が生まれる。人々が密集し、密接に関わり、密閉するさまざまな空間が創造されてくる。タワーマンションのような高層建築はその代表的な密空間である。

それをもう少し歴的な視点から俯瞰的に見れば、「ギルガメッシュ」の叙事詩にあるように、シュメール文明の英雄王となる超人的な能力を持つギルガメッシュは、森の神フンババを殺害して都市の王となった。つまり、森の破壊が「3密」空間を生み出す起爆剤となったということである。そして、原生林を伐採し、野生動物を殺害し、農耕を営んで大量の都市人口を養った。そして、その「3密」化していく社会を強力な接着剤としての王権神話と王権儀礼によって結束させた。こうして、アニミズムやシャーマニズムやトーテミズムのような原始宗教は、強力な王権によって階級化された都市国家宗教に取って替わられることになる。

ここでは、宗教を含む人間のいとなみはすべてエコロジカル・ディスタンスの侵犯を含むと言える。宮崎駿監督の映画『もののけ姫』(1997年製作)のように、シシ神は殺害され、原始の森は改変されて元に戻らない。その文明の発展ないし破壊的展開は、現代の地球温暖化を含む気候変動の大きな原因となっている。

だが、『もののけ姫』では、シシ神の住む森は、もともと神の棲む森として畏れられ、めったに人が入らないタブーの霊地・奥山とされていた。その原生林の森に銃を持った武士や権力者たちが押し入り、森林を破壊し尽くし、シシ神を殺害する。これは人気アニメーション『もののけ姫』の物語的筋書きであるが、大局的に言って、そのような事態が地球上で、人類史上に展開したということである。そのつけを、今、新型コロナウイルスのパンデミックという形で受け取っている。地球がいとなむバランスシート(貸借対照表・収支決算書)は、人間的欲望が作り出す人間的なバランスシートとは異なる。根本的に、エコロジカルなバランスの上に(中に・基に)成り立っているからだ。そのことを、安藤昌益や南方熊楠や宮沢賢治など、自然と人間との関係を問いかけた多くの先人たちは鋭く指摘してきた。

植物は鉱物から栄養を得、枯死して土に戻る。動物も多くは植物や天敵の動物を摂取して、死んで土に戻る。この循環過程は大変複雑で、バクテリア、地衣類、コケ類や枯死した植物や動物などの多様な生物の死骸の分解により有機物と腐植物が溜まり、さらに水や空気などの働きが加わり、複雑多様な混合物としての土(土壌)が生まれる。それらはすべて、エコロジカルなバランスを保ちつつ、絶妙のコンビネーションと安定的な循環と微妙な変化を生み出してきた。

ここまで議論の要点をまとめておくと、次のようになる。

①生きるということは、「距離(distance)」を持つ(保つ)ということである。

②哺乳類の場合、母の胎内から生まれてきて、原初的一から分離する。セパレートされる。

③そして、授乳など母子密着の時期を過ごし、徐々に距離を取ることを覚えていく。

④それが、社会化していくということである。

⑤社会化とは、個体化・個性化であり、自立の過程である(人間の場合、その過程に「実存的痛み」が生まれる)。

⑥したがって、「社会的距離」の形成の前に、あるいは下に、その基盤に、エコロジカル・ディスタンスがある。

⑦ソーシャル・ディスタンスの前に、生態学的距離がある。

⑧ゆえに、「社会的距離」は「生態学的距離」の上に成り立つ。

⑨エコロジカル・ディスタンスとは、棲み分けとか、テリトリーとか、共生とか、食連鎖とも言われている構造であるが、古代シュメール文明の『ギルガメッシュ』叙事詩における森の神フンババ殺害や宮崎駿監督『もののけ姫』(1997年)における「シシ神」殺害に象徴的に表現されているように、それを人間の創り出す「社会的距離」(「3密」も「3密」回避もその一例)が壊してきた歴史がある。

⑩20世紀末から顕著になってきた気候変動・地球温暖化やCovid19や新型鳥インフルエンザの流行などの事態は、社会的距離と生態学的距離の侵犯とフィードバック、すなわち生態系サービスの破壊である。

距離(ディスタンス)関係図

 こうした生態系サービスの恵みを、古代の宗教思想は独自の思想的命題として表現している。たとえば、日本天台宗は、平安時代以降、天台本覚思想と呼ばれる特異な即身成仏思想を生み出し、「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」という命題を主張した。仏の目から見れば、草木国土もみな本来ほとけであり、成仏している。これは、究極のエコロジカル・パラダイス(生態学的楽園・楽土)の思想である。

だが、事態も問題も単純ではない。そのような本来心を持たない「無情・非情」の存在者であるとされる「草木国土」もみな「成仏」する、いや本来成仏するまでもなく本来的に仏であるという意味で「不成仏」であると考えられるようになる「草木国土」とは違って、心を持つ有情の典型と言える人間は、ほぼ全員「煩悩」の塊であり、その煩悩はこうした絶妙のエコロジカル・パラダイスを成り立たせているエコロジカル・ディスタンスを破壊していく原動力にもなってきたという点に深刻な問題の在所がある。多くの宗教は欲望のコントロール(制御)を指示し、その方法を示したが、しかしながら、それが全体としてうまく守られ、実現することはなかった。

実際、仏教は五戒の第一に「不殺生」を掲げてきたが、しかし、人類史はさまざまな「殺生」の拡大再生産の歴史であったからである。日本の仏教僧で殺生を伴う「肉食」を避けている人はごく稀である。そして、今なおその「殺生」は拡大しつつある。その意味で、エコロジカル・パラダイスも、エコロジカル・ディスタンスも壊れ続けているのが人類史である。現今の「ソーシャル・ディスタンシング」という要請も、そのような「エコロジカル・ディスタンス」の破壊の上に成り立っている。

宗教はその破壊を止めようとした面もあるが、その反面で拡大・拡張した面もある。暴力や宗教戦争と結びついた点が拡大・拡張であり、その歯止めとなった思想や実践が破壊防止の動きである。後者における最近の事例を見てみよう。

たとえば、2015年にフランシスコ教皇の出した回勅『ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』(2015五年5月発表、日本語訳、瀬本正之・吉川まみ訳、カトリック中央協議会、2016年8月刊)は、カトリック教会の最高指導者自らがエコロジカル・パラダイスを求め、エコロジカル・ディスタンスを維持しようとする思想・実践運動であった。

そこで説かれているのは、「総合的(インテグラル)エコロジー」の思想と実践である。フランシスコ教皇は言う。われわれは地球という共同の「家」に兄弟姉妹として分かち難くつながりながら生きている。しかし、「自然は一冊の壮麗な本」であるにもかかわらず、それに対して畏怖と讃嘆を忘れ、つながりと分かち合いのバランスは崩れ、深刻な環境破壊と貧困・格差が進行し、負のスパイラルの悪循環に陥っている。そこで被造物(自然)の苦悩に向き合う「エコロジカルな霊性」の立場で痛みや苦しみを分かち合い、友愛と美と節制と気遣い(ケア)の心を以て、新しい普遍的な連帯と地球倫理に向かう新たなライフスタイルを築いていく必要がある、と。

この第一章「ともに暮らす家に起きていること」では、環境汚染、気候温暖化、水質低下、生物多様性の喪失という現代的状況が危機感を持って取り上げられ、それが貧困問題と密接につながっていることを指摘している。続く第二章「創造の福音」では、「創造」が根本的に見直される。いわゆる『旧約聖書』における天地創造の物語においては、天地すなわち自然も人間も共に神の「被造物」として「創造」される。神によって創造された自然も人間も、それぞれに固有の価値を持ち相互依存の関係にあるが、中でも人間は「神の似姿」として創造されたという点で、特別の「尊厳」を持ち、責任をもって他の被造物を配慮(ケア)する存在であるとされる。しかし、その「配慮=ケア」は失われていく。

第三章「生態学的危機の人間的根源」においては、近代の「人間中心主義」により「生態学的危機」に直面した。このような事態に至らせたものは、「技術主義的パラダイム」と「経済成長神話」である。がゆえに、この生態学的危機を脱するためにはそのようなパラダイムや「神話」からのシフトと小規模生産体制の形成を伴う「文化的革命」が必要であると主張される。

それに続く第四章で、回勅の根本的なメッセージである「総合的なエコロジー」が説かれる。また、第五章「方向転換の行動と指針」で、シフトのための具体的方策が示される。まず、環境と経済と社会を調和的に維持していくための「共通善」の共有と倫理の確立が必要であり、対話に基づく環境政策と地域政策が必要である。

こうして最終章に当たる第六章「エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性」において、未来社会と未来世代に調和的に接続できるエコロジカルな教育と霊性の育成が説かれる。そして、苦悩の中に沈んでいる被造物世界がそこから解放されて「永遠の安息日」に向かっていく希望とビジョンが示される。そして最後に、詩によって、「地球のための祈り」と「被造物とともにささげる祈り」が捧げられる。

フランシスコ教皇とほとんど同様の主張を、イギリス在住の思想家であり社会活動家のサティシュ・クマールは、『人類はどこへいくのかーほんとうの転換のための三つのS〈土・魂・社会〉』(原著、2013年、田中雅之訳、ぷねうま舎、2017年)において主張している。クマールはそこで、「土と魂と社会の三位一体」のケア(世話・気遣い)サイクルを提唱する。

クマールは最初「非暴力(アヒンサー)」を説いたガンディーに共感し、次に仏教哲学を学んだ後、ジャイナ教の僧となり、仏教とジャイナ教に共通する原理を「非暴力と自己抑制と自己鍛練の原理」に見出す。だが、「植物、動物、人々に対して、傷つけることなく非暴力を実行することは、自然界、内的世界、そして社会と私との関係を、直ちに強化する道」であることを悟り、「非暴力と自己抑制と自己鍛練の原理」を全体的(ホリスティック)に理解し、その統合の実現を図る、自己解放が社会解放となる「総合的(ホリスティック)エコロジー」の道を歩み始めるのである。

自己解放に至るには「自己鍛錬」が不可欠である。「自己鍛錬を行なわないかぎり、存在から生成への自己転換はできない」とクマールは指摘する。さらに、加えて、「すべての精神的な実践は、自己鍛錬のかたちをとりつつ、魂を強め、あらゆる不測の事態に対処できる、自身の弾力性を培う」と主張する。クマールが言う「すべての精神的な実践」や「自己鍛錬」こそ、身心変容技法の活用である。

そして、魂のケアと土のケアを両輪にしながら、自然の中に生きる人間社会のケアに取り組み、そこに、インドの詩人タゴールに倣って「詩的想像力」のはたらきを注入する。「土の世話をし、魂に養分を与え、社会を育むためには、詩の魔力、歌の呪文を通して現れてくる想像力の力なしでは、準備不足」であると捉えるからだ。

『ラウダート・シ』の巻末でローマ教皇は祈りの詩を表し、同様に、クマールも祈りを内包する詩を表現しつつ、「ソイル(soil土)・ソウル(soul魂)・ソサイエティ(society社会)」の「三S」の結節と具現化を図ろうとするのである。

こうして、「3密」回避ならぬ「三S」の結合によって、「エゴ(ego)」から「エコ(eco)」への道を歩むのである。「大規模経済」こそが、その実、総合的には「不経済」であると仏教やジャイナ教やシューマッハーの経済学に依拠しながらクマールは指摘する。グローバル化をはかる資本主義経済は大規模経済の不経済という矛盾を糊塗している。

もともと、語源的には、ギリシア語の「オイコス(oikos、「家」の意味)」から「エコロジー(生態学)」と「エコノミー(経済)」の二つの語が派生した。それゆえ、本来、エコロジーとエコノミーとは同根である。であれば、両者を再度接続し、合一させることは不可能ではないはずだ。だから、エコライフスタイルは、この水の惑星の全体を共通の「家」とするエコノミカルな生き方と暮らし方をうみだすことができるはずである。DNAからみても、水の惑星においては、「すべての種が親類縁者」である。そこで、「私たちの家に私たちを帰」し、「地球という身体と結合させる」必要がある。このクマールの主張はフランシスコ教皇の『ラウダート・シ』の提言とほとんど同一であると言っていい。

いのちを生み出したこの水の惑星においては、いのちが依拠する生態学的基盤の安定的循環が何よりも重要である。もちろん、隕石の落下による大規模な気象変動などが起こり、恐竜が絶滅したという証拠も挙げられているので、常に生態学的循環が安定的に維持されてきたわけではない。しかしながら、多様な生命種が食物連鎖や相互的な環境依存を通して共生的環境を生み出してきたことも事実である。そして、その共生を目指すとすれば、欲望の肥大を抑え、内的平和を実現してく必要がある。クマールは、「あらゆる種類の恐怖からの自由と内的平和の実現が、平和な世界への第一歩」であり、「生態系の平和は、世界平和のために必要不可欠」と述べている。そして、「瞑想は魂を癒し、世界に平和をもたらすための一つの方法」とも述べている。

ここに、瞑想と医療が結びつく切端がある。瞑想(meditaion)と医療(medicine)とは、実は相互に密接に関係し合っている。というのも、瞑想の根幹に呼吸法があるが、呼吸こそが身体と世界を繋ぎ、瞑想と医療を接続するはたらきであるからだ。近年、マインドフルネスを含め、瞑想が医療的効果を持つことがEBM(evidence based medicine)としても確かめられてきているのは、身心変容技法シリーズ第1巻『身心変容の科学~瞑想の科学』(サンガ、2017年)でも詳細に論じた通りである。

こうして、いのちのいとなみは、根本的にエコロジカル・ディスタンスに基づき、人間の場合、その上に、フィジカル、メンタル、ソーシャル、スピリチュアルなディスタンスの多層性を持つ。身体的なレベルでは、祭りとかの儀礼や性的交感のような密集・密接が起こり、それにより心理的な距離(メンタル・ディスタンス)も社会的な距離(ソーシャル・ディスタンス)も変容する。そしてもっともデリケートでありながら、強靭に距離を縮めるはたらきを持つのがスピリチュアル・ディスタンスのレベルである。

スピリチュアルな次元では、時間と空間を多層多重に縮約・縮減・圧縮でき、一体化する可能性を持つ。世界中に展開していった多様な宗教儀礼や宗教思想は、そのような一体化や合一化や「密」の世界を開示している。密教の三密加持も諸宗教の祈りも、距離を縮める手法である。そして、それによって、医療にもつながる活力の根源的なチャージや再生を果たすのである。宗教的な身心変容技法は、そのようなスピリチュアル・ディスタンスを自在に伸縮させる技法を内在させている。そして、そのスピリチュアル・ディスタンスは、エコロジカル・ディスタンスを侵犯しない回路を設定する。たとえば、真言密教の大日如来の身口意の「三密」と衆生の身口意の「三業」を合一に導く「三密加持」は、胎蔵生曼荼羅と金剛界曼荼羅の両界曼荼羅として描かれるような包摂と差異、あるいは全体と個体との調合・調和を企図しているからである。

Social Inclusion for Muslims in the Arab World and Japan (アラブ世界と日本のムスリム社会における共生問題)by Dr. Makoto Mizutani

Introduction

One can well say that a call for more mercy and spiritual care, with a heightened role of religions, has become a part of a modus vivendi in this twenty-first century. Hence, it may be that Muslims in Japan hope for the inclusion of Japan in this new march in the international arena.

Contents

Arab Responses to the Issue of Social Inclusion

Although “social inclusion” is a rather broad term, Arab responses to this issue have been articulate. The United Nations World Summit for Social Development in Copenhagen in 1995 promoted the idea of inclusive society as “a society for all,” in which every individual, each with rights and responsibilities, has an active role to play. Such an inclusive society is equipped with mechanisms that accommodate diversity and enable people’s active participation in their political, economic, and social lives. As such, it overrides differences of race, gender, class, generation, and geography and ensures equal opportunities for all to achieve their full potential in life, regardless of origin.

Enshrined in the UN 2030 Agenda is the principle that every person should reap the benefits of prosperity and enjoy minimum standards of well-being. This is captured in the seventeen sustainable development goals that are aimed at freeing all nations and peoples and segments of society from poverty and hunger and also ensuring, among other things, healthy lives and access to education, modern energy, and information. The agenda embraces broad targets aimed at promoting the rule of law, ensuring equal access to justice, and broadly fostering inclusive and participatory decision making.

Now let us turn to some of the main Arab Islamic responses to these issues.

Makkah Document of 2019

The Muslim World League convened an international conference titled “The Values of the Middle Way and the Moderation” in May 2019, gathering approximately twelve hundred participants from 139 countries. It issued the Makkah Document (Wathiqa Makkah al-Mukarrama, https://ar.wikipedia.org/wiki/Makkah_Declaration [in Arabic]), which contains the following points:

  • Religious diversification is rooted in Islamic heritage from its beginning.
  • Human beings are equal and share one origin.
  • The fight against terrorism and coercion should be continued.
  • Support of cultural and religious diversity.
  • Call for a dialogue among civilizations.
  • Call for female empowerment and social participation.
  • Call for a dialogue among youths, particularly young Muslims around the world.

The basic tenet for social inclusion, or in Arabic, al-Ta‘ayush, is evident in the document, though the term itself does not appear.

Doha Conference on Social Inclusion

The Ibn Khaldun Center for Humanities and Social Studies at Qatar University has been organizing conferences on a more local level, the most recent of which was convened in Doha in March 2019 under the title “Civilizational Inclusion or Harmonious Living among the Peoples of the Middle East (Mu‘tamar bi-al-Doha hawla al-Ta‘ayush al-Hadari bayna Qawmiyat al-Sharq al-Awsat).” Here the term “inclusion” may be understood as “harmonious living,” as the Arabic term al-Ta‘ayush can be construed in either way in this context.

Statement on Inclusion in Islam

The International Islamic Fiqh [Law] Academy (http://www.iifa-aifi.org/5002.html [in Arabic]), established by the World Islamic Summit held in June 2006, issued its “Statement on Inclusion in Islam” in November 2018. It presented twenty-six arguments claiming that Islam has been based on the concept and value of inclusion from its inception. Here the term al-Ta‘ayush is squarely employed in the title of the statement, and it is firmly codified in the context of Islamic law, as in the well-quoted Qur’anic verses, “I do not worship what you worship. . . . You have your religion and I have mine” (109:2, 6).

Piecemeal Responses to the Question by the Muslim Community in Japan

No major statement or declaration has been issued by native Japanese Muslims as of May 2020, as their number is only about twenty thousand, while the total number of all Muslims in Japan reaches around two hundred thousand, including non-Japanese residents. The primary objective in this section, then, is to review some of the main aspects of social inclusion among Muslims in Japan, both Japanese and non-Japanese.

1. International terrorism has worked to exclude the Muslim community in Japan, just as it has around the globe in some locations. Some have felt they need to defend themselves from any misunderstanding that Islam is the direct source of radicalism and direct action, which many terrorists themselves have claimed. Regarding this harassment among the Muslims in Japan, the Japan Muslim Association, for example, has issued a number of statements blaming the radicals and declaring that Islam as such has nothing to do with such actions or ideas. The reaction from the general public regarding terrorism has been rather modest toward the Muslims in Japan. The fact that the Muslim community is an absolute minority in the society may contribute to this mitigated reaction, though it may also be because the Muslims are trying to behave themselves in social relations. I, for one, have kept saying that the best policy for the Muslims in Japan is to try their best to be good citizens in this society.

2. What struck the Muslim community in 2010 was the leakage of Muslim information gathered in the police offices and publicized on the Internet, which was then published in book form (Ryūshutsu “Kōan Tero Jōhō” zen dēta [Leaked police terrorism info: all data], Daisan-shokan, 2010 [in Japanese]). This collection showed clearly that the police had been targeting Muslims in their security operations. No further details have been disclosed that indicate who did what. But without doubt, it alerted the Muslim community to be wary in dealing with the authorities, which kept sending staff officers into Muslim prayer facilities—with the consent of the facility managers, who thought it best to cooperate with the authorities and prove that they had nothing to hide. This can be rather ominous when one remembers the 2012 arrest of a non-Japanese man praying at a Christian church in Kawasaki City, who was convicted of not carrying his passport as required by law.

3. Special attention should be drawn to issues relating to the living conditions of Muslims in Japan, such as halal foodstuffs, education in public schools, funerals and graveyards, and medical treatment, among others.

  • We note that there has been a quick development of a halal food-supply system and a growing number of halal restaurants, which has eased the level of tension that once existed quite widely.
  • Some distinguished efforts have been made to introduce school texts and materials that cover the questions of international cultural divergence, and we hear some cases of preparing a separate room for fasting Muslim children during the month of Ramadan, while their classmates are taking lunch in an adjacent room.
  • Islamic graveyards have been newly constructed here and there as land lots become available. This might happen, for example, when Buddhist temples that suffer from a lack of funds also choose to sell some of their land. Although it is not problem at present, should the Muslim community expand quickly with an increase of Muslim immigrants, it is possible that this could become a topic of increasing concern among the Japanese people.
  • Medical treatment for female patients is a serious problem if one looks at it squarely. However, the dire need for medicine and the urgency of medical matters are usually what prevent them from becoming social problems on a large scale.
  • LGBT is a complex case, as Islam essentially stands against it. The LGBT population in Japan is said to be approximately ten million, far more than the number of Muslims (https://www.outjapan.co.jp/lgbtcolumn_news/news/2019/1/5.html [in Japanese]). It would be a test case if the Muslims were to choose to side with the minorities while suspending the position based on their own creed. This is yet to be seen, but a choice is in their hands.

Academic Research

It appears that academics are leading the discussion on social inclusion of Muslims in Japan. Although the Japanese term kyōsei refers to social inclusion, it is used primarily by researchers rather than activists on the ground.

The Japan Association for Middle East Studies was to have its annual general assembly on May 16, 2020, under the title “Human Inclusion and Religions,” but the project had to be canceled because of the untimely development of COVID-19. The meeting would have gathered both religious and nonreligious academics and activists and was intended to be held in a university where religious studies are much stressed. It would have taken place on the same date as the UN Peace and Inclusion Day, as the UN convener in Tokyo called it.

Mention should also be made of an organized study on the gender issue in Islam (https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16H01899/ [in Japanese]). The project—centering around nine designated areas: thoughts, laws, family systems, education, social development, politics, medical care, labor, and archives (recording of events)—was kicked off in 2016 with government subsidies. The intent of the research is to establish studies on gender questions as a vital aspect of justice in Islam, and it is administered mainly by the University of Tokyo and the Tokyo University for Foreign Studies.

The problem of social inclusion may increase among Muslims in Japan in the future; however, it is currently addressed primarily by individual Muslims, and even then it is rather uncommon, based on the spirit of hospitality among the Japanese public and because the Muslim community is yet too small to generate any major social voice. No hate speeches targeted against Muslims have been reported at this time, though quite a few publications by journalists and analysts blame Islam as a source of terrorism and claim that it may lead to a clash of civilizations.

Hope for a Religious Revival in Japan

What is perceived as a serious obstruction for Muslims in Japan is the low level of religious awareness among the public at large. Muslims, devoid of any missionary institutions, all have a desire to propagate Islam in new lands. However, they must find Japan not to be very promising, where secularism has prevailed for more than seventy years, since the end of the World War II. Now, since the nation has achieved economic recovery and after having suffered a loss of spiritual direction and a decay of morality, there is a genuine wish among many, Muslims and others, to see a religious revival in a new era. Some are even calling for an amendment to the constitution that would allow public schools to teach religion in the classroom. However, this goal is unlikely to be achieved at this time, given more eye-catching issues such as the defense policy.

Nonetheless, we may note a clear turn, around the whole world, toward more inclusion, conciliation, leniency, and mercy, and toward an increased spiritual approach to human life in general. As a clear sign of this, let us have a look at the two photos here. One is a scene of Muhammad al-Issa, Secretary General of the Muslim World League in Makkah, Saudi Arabia, praying at one of the holocaust sites in Germany on January 24, 2020, when he visited there on the occasion of the seventy-fifth anniversary of the release of Jewish detainees in Nazi camps (https://www.bbc.com/arabic/trending-51239625 [in Arabic]). And the other is Pope Francis giving an address at the Hiroshima Peace Memorial Park on November 24, 2019, when he visited Japan thirty-eight years after the last visit by a pope, the late Pope John Paul in 1981.

Although these two occasions were not orchestrated to take place sequentially, they reflect very well a new phase of human community. This increased inclination toward a change in religious roles resulted from the collapse of Communism in 1990 and the 9/11 disaster in 2001. Both events unleashed various dynamics affecting the whole world; in particular, they brought religions and politics closer together. One can well say that a call for more mercy and spiritual care, with a heightened role of religions, has become a part of a modus vivendi in this twenty-first century. Hence, it may be that Muslims in Japan hope for the inclusion of Japan in this new march in the international arena.

Author’s bio:

Makoto Mizutani has a PhD in Islamic Thought and has taught for fifteen years at the Arabic Islamic Institute in Tokyo as academic adviser and has published the ten-volume Works on Islamic Belief (in Japanese) and, most recently, a Japanese translation of The Qur’an in Easy Japanese. He enjoys an intimate understanding of both Buddhism and Islam and serves as an active executive director at the Japan Muslim Association. (This article first appeared in Dharma World, Rissho Kosei-kai International, Autumn, 2020. Vol. 47)

宗教信仰復興の二つの課題  水谷周

はじめに

戦後の宗教信仰の低調さの原因として、3点ある。第1に、諸宗教が戦前の軍国主義に同調しそれを支援したことについて、国民的な猛省と嫌気が広まったこと。第2に、政策的に政教分離が徹底されて、宗教は社会の片隅に置かれたこと。第3に、諸宗教は遠慮して、社会的な発言や参画を控えるようになったこと。しかし今や時代は大きな曲がり角にある。経済復興だけでは人は満たされず心の充足を求め。自殺大国では自慢にならず真の幸福と満足を希求する。それは心のバランスを取り戻す人間復興の欲求である。また同時に宗教自身の反省が求められ、能動的な社会参画の尽力を自らの責務として取り戻すことが促されている。

宗教信仰復興の二つの課題(詳細)

山あり谷ありの、80年に渉る長い「戦後」時代が転機を迎えつつある。「戦後」は戦前への猛省が出発点となったように、これからの指針は自然とこの「戦後」時代への猛省が基点となる。その中で宗教の占める位置と果たす役割はどう考えるべきなのであろうか。

一、宗教の低調さの主要原因

日本は無宗教であると、しばしば言われて久しい。外国の入国カードに宗教欄があり、何と書くか戸惑う人が大半であるほどに、宗教への意識も薄くなった。他方、戦後も幾多の宗教諸派が新たに興されてきたし、癒しを求める動きも少なくないので、いわば魂があちらこちらと徘徊し、蠢いていることが実感される。

宗教信仰の低調さの原因としては、3点挙げられる。

第1は、戦前の軍国主義に諸宗教が協力してしまったということである。「神や仏に随分仕えてきたのに、何もしてくれなかった。」という失望感や、嫌悪感が全国に広まった。それには多数の若者を前線に送らねばならなかった遺族の実感も背景にあった。

第2は、国策への協力は国家権力による強制の面が強く、政治と宗教は別だとの感覚も国民全体の実感となっていた。そこへ占領軍の政教分離政策が、徹底して実施された。その頂点は、憲法による公立学校における宗教教育の禁止と、公費の宗教活動への支出禁止である。この新政策を日本国民は、ほとんど抵抗なく受け入れた。そこで宗教はただ学校教育や公的補助金の分野で活動停止しただけではなく、社会的な疎外を受けるまでになっても反発は見せなかった。心の弱い人が信仰するとも言われるようになった。

以上の2点は、よく論じられてきたことであり、これ以上の詳述はここでは不要かと思われる。第3点は、それほどには指摘されていない側面である。

それはあまりに社会的な疎外にあって、宗教界はすっかり意気消沈し、委縮してしまったということである。確かに平和運動に参加するし、例えば安保法制については反対、ないしは慎重論を浮上させたケースはあった。しかしそれは珍しい事例として注目された。一般的には政治社会の動向に対しては、静かにやり過ごすのが穏当な対応と思われているようだ。そして冠婚葬祭などの儀礼に、粛々と従事するのが宗教人のあり方のようにさえ見られるようになった。しかしそれは、政教分離の行きすぎた裏面であり、宗教までが自粛することは憲法上も求められていないのである。やはり国民的な反発の感情を忖度してのことであろう。諸宗教は自信を失ったとも言えそうだ。

以上戦後日本の宗教離れの原因について触れたが、当然近現代社会の発展の基盤である科学が宗教と対立的な立場をとることが多かったという、世界的な状況も看過すべきではない。戦後社会とは、その中での日本の特殊事情である。いわばそれは世界基準を遥かに超えた速度と深度で、経済復興に特化して進むこととなったとも言える。

二、「戦後」の前半と後半

(一)前半の世相

「戦後」の80年という長い時間の全体は、宗教離れの一言で特徴づけられるとしても、その前半と後半ではかなり世相は異なったものであった。前半は拡大期であり、後半は縮小期と言える。その状況を特に若い人のために、ここで改めてはっきりさせておこう。ただし「戦後」の変動に関する社会科学的な書き物は市場に溢れているので、ここでは非常にミクロな観点として、筆者個人の回顧から始めることとしたい。私的なタッチは、それなりに読む方にとっても、身近で理解しやすい面があるのではないかと期待する。

筆者の生年は「戦後」の昭和23年であるので、戦前は未経験である。しかし敗戦後三年目という当時は、まだまだ戦時中の傷跡が町中に満ちていた。生まれは京都の西陣なので、子供の頃より神社仏閣に遊ぶことも多く、例えば近くの北野天満宮もその中の一つであった。そこは菅原道真公で有名な神社で、今も市内の観光スポットである。縁日にお参りに行くと、参道には戦地から復員した傷痍軍人たちが、寄付金集めのために大勢いた。小さな箱を胸にして、参拝客を取り囲むように列をなしているので、何か恐ろしい印象だった。またそれと同時にその様は、戦争の悲惨さを子供心にも十分伝えるものがあった。

この寸描が伝えようとしていることは、要するにまだまだ社会全体は戦時中の延長という調子であったということである。だから日々の世相により、そのまま戦争、敗戦、「戦後」という時代の変遷を身近に感じさせられる生活であった。小学校では「日本は、これからは民主主義の国になるのです、そしてスイスのような平和な国になるのです。」と先生が教壇から説いていたことを鮮明に記憶している。毎日の給食も脱脂粉乳という粉ミルクを溶かしたものと乾パンであった。学校でご飯やコロッケが出るようになったのは、小学校高学年になってからであった。配給の米では明らかに不十分だったが、その違法行為を自らに厳しく戒めた一裁判官が餓死したという悲惨なニュースも流され、子供心に寒いものが走った。

街中では保健衛生がまだまだ良くなくて、疫病予防のために市内を低空飛行で薬を撒くセスナ機が飛び交う音も耳に残っている。今なら農薬DDTの市中散布など、口にするかも知れずとんでもないことだろうが、そのような強硬策も問答無用とばかり強行される時代なのであった。しかしそれも空襲の爆音よりはまだましだと、多くの人は受け止めていたのかもしれない。

以上の実体験を通したものは、小さな窓から見た「戦後」の様子である、国や社会全体の観点から言えば、多くの記録や文献にあるように多様な変革が物語られている。その大半は、軍事占領をしている連合国軍総司令部GHQからの指令のよるものであった。ただし民主化への流れは大正時代からあったので、それが底流となってGHQが要求する新時代への身代わりが順調であった面も否定はできないようだ。そして何よりも、軍国主義から平和主義への大転換こそは、全国民上げての総意であり熱望するところであった。

詳述はもちろんここでは論外であるが、多岐に渉る大変革の諸側面として次のようなものが挙げられる。軍国主義とそれを支えた日本システムの解体としては、現人神であった天皇の人間宣言がまずあり、国家神道、軍隊、独占的な巨大財閥、大土地所有制などの解体と、それに続く農地改革があった。そして民主主義の導入、教育改革などが同時進行していった。

その中で日本人論や日本文化論争も非常に盛んになっていた。その背景は、やはり大きな猛省ということである。日本人の心はまだ封建的ではないか、あるいは内と外の意識が強すぎるのではないか、といったような論点もあった。また日本文化の基底は恥意識であるが、欧米のそれは原罪意識であるといった米国の文化人類学者の分析ももてはやされたのであった。こうしてアジア諸地域への軍事侵略を犯した戦前の大きな責任は、知識人や文化人にもあったという猛省が、彼らを突き動かした。

以上の変貌は大文化革命でもあったのは当然である。それは明治維新と同等の規模と震度と言えるだろう。そしてそれら両者に共通していたのは、新時代へのすがすがしい気運である。それは小学生の間にも強いものがあった。国全体では相当焦りの気持ちもあるが、一人一人が何とかしなければならないという決意を固めていたのであった。

(二)「戦後」の後半

平和と繁栄は、国民一体となれる目標であり、それはほとんど何も議論を必要としなかった。しゃにむに働くしかなかった。そうして1964年には東京オリンピックを成功裏に開催することができて、所得倍増計画も実現され、やがて気が付くとその経済力は世界第二位に上り詰めることとなっていた。終戦まもなくは世界銀行の融資を受けた日本であったが、今やその政府開発援助ODAは世界最大にもなった。

世界の面積の0・25%しかない国土と世界人口の3%(当時50億人とする)という自力によって達成したのであるから、それは真に短時間で実現できた奇跡に近かった。食料に困って配給制度に頼っていたのが、今や多くの途上国に支援する立場となった。日本製品は壊れやすい安物から、世界最高水準の技術の象徴ともなった。このような夢の実現は、1970年代に襲った石油危機も省エネルギーの努力により乗り越えることを可能とした。それほどまでに日本社会と経済は、強靭性を発揮することができたのであった。それは日本人の誇りともなった。

ところが山を登るのに比較すると転げ落ちるのは、容易であり早かった。大きな曲がり角は、一九九〇年当初に到来した。まずは膨れ上がる期待値は過剰な投資を招き、実需を伴わないバブル現象を引き起こしたが、それがもろくも崩壊したのである。膨らませすぎた風船が突然破裂した。経済と社会全体は大きな転換を強いられた。過剰の融資を続けることを許していた大蔵省は解体され、財務省と金融庁に二分された。社会の風潮は萎縮して、いわゆるデフレの時代が続くこととなった。初めは成長の夢をもう一度と願う人も多かったが、やがてそのような夢想は諦めることとなっていった。

という次第で、「戦後」時代の前半は焼け野原から米国に次ぐ世界第2位の経済大国となった成功物語であった。しかしそれに次いでは、膨れ上がった期待値と過剰投資によるバブルがはじけて、長期デフレの局面に入ってしまった。そして社会の勢いもそれ行けどんどんという時代から、足元を見直して、身の丈に正直な人生観がもてはやされる時代へと推移した。米国を買い占めるかという勢いのあった日本の大企業にも、縮み思考が珍しくなくなった。

そこへ襲ったのが、大津波と原発の瓦解であり、新型コロナ・ウィルス対策の問題である。これで一気に「戦後」前半の夢をもう一度といった幻想を持つ人もいなくなり、ますます足元を見直しつつ自らの将来像を模索し始めている段階に入っている。そして前半期には現世利益を目指した宗派の繚乱が目立ったが、この後半期にはいわば魂の徘徊が取り沙汰されることが増えて、過激な宗派や既成宗教に頼らず自らの安寧を模索する霊性(スピリチュアリティー)の重視も盛んになった。

三.「戦後」の負の遺産と宗教の課題

山登りを経て谷底へと下ってきた長い80年に渉る、「戦後」時代を振り返ってみた。そしてそれを猛省してみると、二つの課題が浮き彫りになる。

(一)宗教アレルギー

振り返ると、明治維新の時には廃仏毀釈という、反仏教の運動が起こされた。それは新たな国民統合の支柱として、神道にその思想上の役割を担わせるために、それまで徳川幕府に重用されてきた仏教を抑圧しようとするものであった。多数の寺院や仏跡が襲撃された。貴重な仏像なども、野原の雨風にさらされることとなった。そこでそれまでに何世紀とまんじりともせずに表舞台への好機を待っていた神道が、ここぞとばかり国家神道の道を辿ることとなった。

こうした中、日本の軍国主義政策は破綻をきたして、すべてがゼロの振出しに戻ることとなった。ただし宗教はゼロの振出しというよりは、遥かそれ以前のマイナスの地点に立ち戻ることとなった。なぜならば、「仏も神も助けてくれなかった」という実感が広く強く国民間にはびこっていたからである。要するにもうたくさんだという、宗教に対するアレルギー現象が大きく表面化することとなった。

アレルギー症状ということは、社会の各方面での宗教の疎外化にも繋がった。それは宗教信仰を持つ人は、心が弱いか病んでいる人だという感覚である。差別的な視線を浴びせてもおかしくなく、今で言うとLGBT(レズビアン、女性同性愛者、ゲイ、男性同性愛者、バイセクシュアル、両性愛者、トランス ジェンダー、性別越境者)の人たちに向けられがちな冷たい視線に似ていると言えばわかりやすいのかもしれない。このような症状が、全国を覆っていたのである。

それに対して国民文化として横溢したのは、物欲の横行と偏重、道徳の衰え、自殺の多発などがあった。総じていえば明治維新は欧州を目標としたが、「戦後」は米国を目標とした。そして経済復興の旗振りの下で追いつき追い越せのシナリオを、明治維新よりも急速に実行する羽目になったのだ。軍人や兵隊は、企業戦士として生まれ変わることとなった。

宗教に関する政策的な措置としては、まず制度的に政教分離の徹底が図られた。公立学校での宗教教育の禁止、宗教活動への公費の支出禁止などが憲法にも盛り込まれた。この方針はもちろんGHQ主導で推進されたことは他の諸分野と同じであったが、異なっていたのは、相当程度に宗教に対してはすでに国民的な反発、忌避、嫌悪感が先行していたという事実であった。この宗教アレルギーの下で、政教分離はほとんど国民的な異論もなく、むしろ当然であり新生日本の自然なあり方として受け止められたものでもあった。大日本帝国陸海軍の解体と同列の話しとも言えよう。

「戦後」を通じて宗教信仰が低空飛行を続けたことは、日本人に精神面の悩みがなく、また精神の迷走を食い止めたいという、人間として自然な要求が薄かったというわけではなかった。多くの宗派の活動は存続したし、特に70年代以降の成長疲れがさまざまな新しい宗教的余波を及ぼした。新宗教、あるいは新・新宗教とも形容された多様な教派―多くは仏教系か神道系であるが、より予言的で霊能的―が、雨後の竹の子のように出現した。従来の救済宗教と生産効率だけの合理主義の間を縫うように、もっと個人の立場からの魂の落ち着きどころを探る兆候もしきりに観察された。それは総称として、新霊性文化とも呼ばれた。国内の巡礼が一時は流行したこともあった。だがそれらは、二一世紀に入った今日、いずれも日本を覆う勢いを示しているわけではない。

疎外された立場からは、広く大衆を惹きつける運動は期待しがたいものだ。どうしても肩身が狭い感覚に縛られるからだ。アレルギーの状況が、「戦後」の日本の諸宗教を覆う国民文化の基調となっているということなのであろう。

(二)人間復興と祈り

「戦後」時代の一つの大きな負の遺産が、宗教アレルギーであることはこれ以上論じる必要はないだろう。その症状の一端は、80年後に「戦後」の起伏が一巡してからの方向性喪失ともなっている。その間、人心の動揺と確たる信条や道徳観の喪失が指摘され、すさんだ事件が目立つ自殺多発国となった。他方相次ぐ天災や原発事故は、慰霊・追悼の意味、祭りの力、宗教施設や宗教者の意義に目を開かせることとなった。またそれは命の尊厳に光を当てると共に、人の力と近代科学文明の限界を示し、新たに心の癒しの問題に関心が集まることとなった。

宗教信仰は人間の持つ生来の半面でもある。祈らない人はいないのだ。この半面が素直にもっと育成され涵養される教育と社会のあり方が求められているとも言える。それは人間復興でもある。しかし長年月に渉り疎遠にしてきた影響もあり、この問題はほとんど組織的には正面から取り組まれていないのが実情ではないだろうか。

そこで宗教信仰復興に期待することとなるのだ。困った時の神頼みも別に悪くはないが、それにしても困ったときには頼るべき存在が維持されているからこそ、できる技ということになる。だから何も困る時を待つことなく、恒常的に祈りを正面から人々の日常に組み込めないものだろうか。それは信教の如何を問う話ではなく、宗派間を越えたアプローチである。それは黙祷と呼んでもいい。

祈りをあげる習慣がもっと社会の前面に出されるようになれば、時間単位の生産効率は下がるかも知れない。しかし労働する人間の意欲や共同の精神は高まっているはずだ。またどこであれ必要とされる人間的な配慮を、いつも心放さずいるという、人として当然の心構えもより整ったものになっているだろう。どちらが好ましいのかは、あまり議論をしても始まらない。総合的な考慮と長期的な視野の問われている問題である。

祈りの方法はあまり問題ではない。究極のところ、心の中の整理の問題だからだ。また現世利益的な実現直結型の祈りは、本来ではない。祈るという心の傾きこそが祈りの狙いだからであり、結果にはあまり縛られるものではないからだ。

どれほどこの信仰の世界、信心の様子が、自由で平等で安寧に満ちたものかについては、このHPの諸宗教紹介コーナーに掲載の「信仰心蘇生のために」という拙論で説明している。今ここでは、それは何事にも代えがたい、下手な比喩を許さないほどに、貴重で希少な天性の心の飛躍であるとでも表現しておくことにしよう。

また人間復興の必要性と宗教信仰が連動していることを認めるとしても、それでも科学の優先性を信じる人は少なくないだろう。もちろん科学と宗教の関係を全面的に取り上げるのは、本論の枠組みを超える。しかし一言触れるならば、著名なイギリスの宇宙物理学者の一事例であろう。つまりステーブン・ホーキング(1942年―2016年)は、「創造や進化に関して、神は必要ない。」と言ったとして不敬の非難が飛び交ったことがあった。その顛末は、結局「…証明されるなら、」という仮定の上での発言であったとして、ローマ法王と和解したことがあったのは、忘れられない。

祈りは自由の世界だとはいっても、やはり教育によりその手順や中身が充実される方が良いことは間違いない。そこで家庭であるか、宗教施設であるかは別として、宗教も教育の対象として取り上げられるのが望ましいということになる。その究極は学校教育に組み込まれることであるが、それは現在日本では、憲法が禁じるところとなっているのである。

(三)不徹底な社会改革

「戦後」時代の前半期は貧しいながらも、向上心に溢れたすがすがしさがあった。国民全体に生きがいなどは、あまり問題にされなかった。そうでなくなったのが、後半期の特色と言えよう。これでは何とも非分析的な表現だとの誹り(そしり)を免れない恐れがないではないが、そのような直感的表現こそが、短い中に本質を言い当てていると考えられる。そして現在は不透明で何を頑張っていいのかはっきりしない、長いトンネルを抜けようとする転換期にあるのだという、時代認識を得ることともなる。

幸いにも高度成長を達成できたが、その後は何が国民的な目標なのか、羅針盤がないという新局面に突入することになった。太平洋戦争を食い止められなかった一端の責任は有識者にあったと猛省していたはずの人たち自身は、その半世紀後、国民を食べさせることが実現したのだから、その次は何を目指すべきかと議論を始めていた。しかし結局彼らは、開戦を阻止できなかったばかりか、明確な次の方向を提示することにも失敗したということになる。

さらにその直後に襲ったのが 1990年以降のバブル経済の崩壊とその深刻な後遺症であった。それは高度成長と表裏一体の面も多かったという意味では不可避なものであったし、また経済史上、バブル現象は世界でも決して例外的で珍しいものではなかった。しかし日本経済にとっては、ただただ驚きと悔やみの日々を迎えることとなった。

これで日本は平和と民主を掲げた諸改革よりは、日銭稼ぎに忙殺される身分となった。そして諸改革の多くは、遺憾ながら道半ばで途中下車となった。経済復興が一応達成されたという大きな事実は残っているので、政治社会改革の方面も一応達成されたという漠然とした誤解も広く持たれたままで時間が過ぎることとなった。しかし選挙というと金銭が飛び交い、人権や民意の尊重という基本的な課題もまだまだ旧態然とした側面を残している。頻繁に聞かれる国会などを中心とした説明不足の叫びも、このような社会の公明正大化の不徹底さがなせる業である。

さらに一例は、新設の自衛隊に対するシヴィリアン・コントロールの徹底など、軍の制度改革は衆目にもさらされやすく、当然避けて通れない分野であった。しかし日々の諸問題を扱い、社会に近い存在の警察や検察に対する制度改革はどうしても後手に回されてきた。小さな変更でも市民への影響が直接的となり、果断な変革が難しい面があるからだろう。圧倒的な検察優位の捜査システムは、戦前の特別高等警察やさらに言えば、江戸時代以来の岡っ引きの名残も多分にあるのではないか。取調室には弁護士の同席は許されないし、検察側は裁判以前から捜査内容をメディアに流して、世論を捜査側に有利に誘導することなどが、日常茶飯に行われている。それに向かう、対抗力は被疑者には一切与えられていない。融通無碍な拘留制度も、国内外の世論によって長短が操作される。カルロス・ゴスン元日産会長のレバノンへの逃亡劇は誰が見ても違法であることは間違いない。しかし彼が日本の相当人権軽視の旧態然たる検察手法を逃れたという意味では、何がしかの同情の声も寄せられたのは、不当ではないということになる。

バブル崩壊後の日本社会は、アガサ・クリスティーの推理小説『オリエンタル急行』を思い起こさせるものがある。乗客全員の役割は異なっていても、同一事案の共謀犯になっているとも表現できる。もちろん日本全体では善意の人も多いし、ほとんどは無辜の市民による日々努力の積み重ねであることは間違いない。そこに倫理道徳的な問題があるわけではない。しかしその日々の営みが、無意識な共同の箱舟となっているということである。外圧の下でしか国内改革に合意しにくいという国民性も変わらない。国民全体が同じ運命共同体で、同じレールを走っている。日本固有の同調圧力も相変わらず根強く働いている。

再度の徹底した社会改革への挑戦の呼び声は聞かれない。道半ばで途中下車してしまった改革は風前の灯火か、あるいはすでにその灯は消え失せてしまったのかもしれない。現時点で、経済の復調だけではなく、社会改革が不徹底に終わっている「戦後」を猛省の対象にすべしと言わなければならない。それ自身が次の指針であり方向性だと位置づけることもできる。

(四)社会改革への参画

自由と民主という旗振りの下で一応80年間が貫き通されたのは、大変に慶賀すべきことであった。それに伴い、人権の意識は相当定着しており、それが日々の生活にも生かされるまでに成長したと思われる。その大きな成果は、特に表舞台に登場する政治経済の制度や、社会の主要動向である報道、教育内容などでは顕著である。

このように言う時にすでに明らかだが、それらから落ちこぼれた多くの手つかずの諸側面があるということを示唆している。役所が市民に冷たいという苦情は長く続き、その改善は非常に進んだが、その後多数の外国人の移住が進み、そういった外国籍者への扱いはどうか、総じて社会的な弱者に対する態度はどうかなど、見落とされた面も多い。また司法制度における、市民と公権力側の公平さはどうかについては、すでに前述した。こうした具体的な諸事例は、枚挙すれば暇はないということになる。

くどいようだが萎縮する世相の中で、積み残しとなった諸課題が多数あることを、改めて付言しておきたい。それらはバラバラの形で取り上げられがちであり、全体像が提示されるシステムが存在しないだけに、一般の意識も後ずさりしがちなのである。順不同ではあるが、教育改革(討論やスピーチの民主主義向け学科)、男女格差、社会的な弱者・無権利者・権利執行困難者などの救済(ホームレス、失業者、困窮者、被災者、病弱者、外国人、刑期満了の出所者など)、新たな権利の確立による救済(ハンセン病患者、被疑者の扱いなど)等々枚挙に暇がない。

そこでそのような社会改革の前進に対する宗教の立場はどうであるかが、本論の取り上げるべき問題である。もちろん個々具体的な働きかけと手を取りながらではあるが、宗教では総括的な発想からの発言や活動が期待されるだろう。それは時に道徳的で抽象的な声となるだろうが、そういう全般的な精神界の判断と指針を鮮明にするところに宗教の一つの働きがある。誠実さ、正義、慈悲、忍耐、寛容さ、感謝などの徳目が重視される。弱者救済や権力の横暴への抵抗運動は、歴史的に見ても宗教が力を発揮してきた分野であった。

このような宗教の社会的機能は、アレルギーの症状ですっかり忘れ去られているかのようである。確かに2014年の安保法案決定の時には、国民的な抗議運動に加わり、多数の宗教団体から同法制反対の意思表明がなされたことはあった。しかしそれが珍しく映ったほどに稀なことであり、通常は腰を低くして矢面に立たないのがよく見られる姿勢である。これこそは社会の反発を避けつつ生き延びる術であり、それはアレルギー症状のもたらしているものである。本来は人間の半面である精神界を受け持つという誇りと責任感に満ちていておかしくないはずなのに・・・。

今日現在の風潮としては一層の改革よりは、日本の「民度」の高さ、個人よりは集団的価値の重視、「日本人は論理的でなくて良い」といったように、日本民族特殊論の視点から復古調が出回り始めている。中座してしまった改革をさらに推し進めるために自らに対して鞭を打つのではなく、途中下車した地点から何食わぬ顔をして再出発しようというのだ。歴史の展開としてはそのような選択肢もあるのかな、といった感覚を持たせられる。そして、これも転換期の一兆候である。

ところがまさしくこの時点で、一層柔軟な議論と当初に顕在であった公明正大さ志向の精神を忘れずに、自らに厳しい選択が望まれる。宗教は、人はいかに生きるべきかの指針を出している以上、具体的な問題の名称は何であれ、政治社会的な諸課題に口を閉ざすべきいわれはない。また社会参画をすることは、宗教信仰復興そのものに対しても大いに刺激となり、宗教信仰本来の姿を取り戻させてくれるものがあるはずだ。

(五)宗教と憲法改正

相変わらず根強い宗教アレルギーの他に現在の宗教状況の根幹を規定しているのは、現行憲法の政教分離条項である。本論で取り上げる趣旨は、一気にその改正の実現を図るというものでないことは、課題の大きさに鑑みてほとんど自明である。ここの意図は、論点の簡潔な整理とあり得る将来の可能性の示唆ということである。ただしそれを遠大なものとしてではあっても、宗教の社会参画の流れの中で明確に意識し、目標として掲げておく意義は大きいと考えられる。

ア.問題点:主たる争点は、宗教に関する教育のあり方及び宗教に関する財政措置という二点に絞られるだろう。ただしその背景としては、次の理解が必要である。宗教には個人的な側面と社会的な側面とがあるが、それらは時に重複し交錯する。一方個人的とはいっても、芸術同様に宗教が持つ情操涵養の側面は万人に対するものであり、それは人類的とも言えよう。またそれは実証主義に基づく近代主義とは相容れない直観による面が強いものでもあるが、人間の持つ本性からして芸術同様否定されえない。このような特性を踏まえた上での議論が必要である。

イ.教育面:現行憲法第20条には、次のようにある。

第1条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

第2条 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

第3条 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。」(教育基本法第15条)というこの規定振りはそのまま生かされる。しかし同法原案(昭和21年)にあった、「宗教的情操の涵養は、教育上これを尊重しなければならない。」を生かして、右の教育基本法第一五条は「一般的な教養や宗教的な情操」とすべきである。宗教は前述のように人の本性から出て来るものだとの理解より、芸術教育と少なくとも同列に扱うべき性格であるからだ。そこで以上の筋書きを憲法上も反映すべきである。

具体的には、憲法第20条第4項として、「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養や宗教的な情操及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。」と新たに追記する。

ウ.財政措置:宗教系私立学校への公金支出や宗教法人の減免税措置が課題となる。

宗教教育に対する姿勢が改められれば、自ずと宗教諸学校への補助金に対する基本姿勢にも前向きな変更が期待される。なぜならば公金による補助は、一般的な宗教教育の支持に他ならないからである。しかしそれは特定の宗派宗教を対象とするものでありえないのは言うまでもない。

具体的には、憲法第89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」の改訂が課題となる。

同様に、公益性の高い法人の活動を支持するところより来る減免税に関する特別措置はすでに実施されているので、改憲との関連性は今のところない。

エ.以上のほかに公民館などの使用を宗教法人には認めないことなども、如上のような改憲がなれば自ずと改善されうる。狭い意味の学校教育ではないが、公道での祭りを承認する場合と実質差がないという認識に至れるかどうかである。一般には宗教の持つ社会的な儀礼、情操涵養、文化の多様性と寛容性の育成などの効果を目途とし、日本における一段と高いレベルの社会常識の定着が前提となるであろう。

おわり