灘校生は「目的と興味」で動く
授業以外でも、その傾向は強く見られます。
たとえば、ある方を招いての講演会が学内で開催されたときのこと。話の内容は、あまり面白いとは言えないものでした。そんなとき、生徒たちは「礼儀として聞くふり」はしません。非常に高い地位にいる方なのですが、お構いなしです。途中から明らかにだらけた表情になり、話が終わると「つまらんかったな」というアイコンタクトを隣同士で交わし合います。
相手がどんなに偉い人でも、内容が心に刺さらなければバッサリなのです。逆に、立派な肩書がない方でも、面白い話はちゃんと聞きます。そういうところは、良くも悪くも「目的と興味」で動いていると言えるでしょう。
そうした「灘カラー」は、社会人になったあと、周囲を戸惑わせることもあるようです。たとえばある友人は、私から見ればとても協調性のあるタイプなのですが、大学卒業後に就職した銀行で「協調性がない」と指摘され、ショックを受けていました。
四人で担当していたある業務で、二人が作業をし、もう一人がチェックをしていたので、「自分のサポートは要らない」と思って別の仕事をしていたら、怒られたのだそうです。
つまり、合理性を優先した結果のすれ違いです。どちらの言い分が正しいかは意見が分かれるでしょうが、私個人としては、彼の肩を持ちたいところ。協調性は大事ですが、意味のないところで同じ行動をとる必要はないと思うのです。
――という私の見解もまた、「灘らしい」考え方なのかもしれませんね。
灘でリスペクトされるのは「勉強外の強み」
そんな灘校生にはもう一つ、ユニークな価値観がありました。
勉強の「外側」に強みを持っている人が尊敬される文化があるのです。逆に、勉強ができること自体はさほど尊敬されません。
とくに、定期テストや模試の成績を自慢したり、順位を上げようとあくせくしたりするのは、カッコ良くない行為とされます。
学年トップの成績を取れば、それなりに「スゴイ」とは認識されますが、もしその本人が「トップを取るために頑張っている感」を出したら、きっと興ざめされるでしょう。
そこには、自分の能力を「試験」にだけ使うのはナンセンスだ、という考え方があります。せっかく能力があるのなら、外側から判定される点数や順位ではなく、自分自身がやりたいことで成果を出すべきだ、と考えるのです。