塾はわからないことがあったときだけ利用

こうしたやり方のおかげで、家では軽い復習だけで十分でした。中高時代は塾にも、ほとんど通ったことはありません。

ただし例外が二つだけあります。

一つは高2のとき、有機化学が苦手でどうにも興味が持てなかったときのこと。ある塾に、有機化学を教えるのが上手な先生がいると聞き、有機化学の単元の間だけ受講しました。噂通りの面白さで、苦手意識も解消。問題が解決したので、その時点で退塾しました。

もう一つは国語がスランプになった時期のことでしたが、こちらはあまり成功しませんでした。ある予備校の、評判の良い授業をとったものの「これなら参考書を読むのと同じだな」と思って撤退しています。

本棚と積み重なった本
写真=iStock.com/Mercedes Rancaño Otero
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このように、私の塾の活用法は、問題が生じたときの「単発の解決策」でした。学校と家だけで勉強を完結させるスタイルが、やはり私には合っていたように思います。

灘校生が授業を聞かない理由

灘校生は授業をあまり熱心に聞かない、という話に意外さを感じた人もいるでしょう。

灘には教える側・教わる側の双方に、一種の緩やかさがあります。先生方は、生徒に「勉強しなさい」とは言いません。そこは本人が判断すべき領域であり、その結果も本人の責任である、という考えがあるのでしょう。

そもそも先生方が個性派ぞろいで、オーソドックスな授業スタイルの人は少数派。雑談好きの生物の先生もそうですし、国語の先生も、やたらと古文の比率が高い方でした。おそらくご本人の興味がそちらに傾いていたのでしょう。

英語の先生は、今や『ユメタン』の著者として有名な、「キムタツ」こと木村達哉先生。「英語なんて、50分も使って6年間も教えるもんやないやろ」とおっしゃって、やはり授業は雑談多め。「飲み屋でぼったくられた話」などをよく聞かされたものです。

生徒は生徒で、授業は聞くべきだと判断すれば聞く、というスタイル。「聞くべき」の基準は人それぞれですが、だいたいは「教科書に書かれていること以上」の要素があるかどうか、が分かれ目でした。

より有用な知識や、効率的な学び方・解き方を教えてもらえるならば興味を持ちますが、「自分でやったほうが早い」と思ったら即スイッチオフ、という調子です。