日本国憲法制定の経緯


 日本国憲法が制定されたのは1947年です。当時の日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下にありました。日本の歴史上唯一の外国人による統治です。この状態は、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するまで、つまり約7年間続きました。

 

 GHQとは連合国軍による統治機関ですが、実質的にはトップのマッカーサーをはじめ、ほとんどがアメリカ人でした。
 当時のアメリカは、日本に対して明確な方向性を持っていました。それは、日本やドイツを再び立ち上がらせてはならないというものです。このことは、国連憲章の敵国条項 [1] からも読み取ることができます。
 

[1] 国連憲章の第53条第1項で、「第二次世界大戦中に連合国の敵国だった国」が侵略行為などを行った場合、他国とは異なり安保理の許可がなくとも軍事的な制裁ができると記されていること。いまだ変更されていない。

 

 日本国憲法も、この考えのもとで作られました。マッカーサーは日本人が作った憲法草案を受け入れず、自分の部下にわずか8日間で草案を作るよう命じました。部下はみな憲法の素人ばかりでした。

 

 実際に英語で書かれたGHQ草案と日本国憲法を比較すれば、ほぼ一致することが分かります。日本国憲法には「われら」という言葉が何度も出てくるので、あたかも日本人が自ら作ったような印象を与えますが、そのわれら自体もGHQによる指示だったのです。

 

 特にマッカーサーは部下に対して、日本が軍事力を持つことができない憲法にするよう指示しました。この命令は「マッカーサーノート」という文書で今も国会図書館に保存されており、以下のように書かれています。

 

 「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」

 

 驚くべきことにマッカーサーは「自衛権」すら否定していたのです。

 

 しかし、アメリカが朝鮮戦争を通して共産主義の脅威を認識するようになると、日本への対応が180度変わりました。日本を共産主義から守る防波堤とするために、軍事力を持つよう指示したのです。

 

 このように日本国憲法は、当時の国際社会の状況、特にアメリカの都合が如実に反映されて作られたものです。日本の憲法は、やはり日本人の手で作られるべきです。