「元寇」について、対馬が被ったむごい「被害」と、神風の真実などを、わかりやすく解説します。
元軍と高麗軍による虐殺が行なわれた「対馬」と「壱岐」。その仕打ちがむごい!
「神風で元軍が撃破された」といわれているが、実は「神風でなくては困る人達」がいた!
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この記事を短く言うと
- 「元寇」によって「対馬」や「壱岐」の人々、特に女性や子供たちは、船に立たされて盾にされたり、「奴隷」として扱われたりと、かなり酷い目にあっている
- 元軍を撃破したのは「神風」「台風」ではなく、武芸に優れた武士、「御家人」「鎌倉武士」たちだった。
- 「神風」という噂が広まったのは、「お祈り」「祈祷」をしていた寺社勢力が、「褒美」をもらうために、大げさに「神風」をアピールしていた
【元寇】対馬・壱岐での女子ども・住民への仕打ちがむごい
元寇(げんこう)
「元(げん)」とは、日本に攻め込んできた「フビライ・ハン」を王とする巨大な帝国の名前。
「寇(こう)」とは、外から侵入して害を加える「賊」「敵」のこと。
1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」の二つをあわせて「元寇」と呼びます。

《元寇》
「引用元ウィキペディアより」
「アンゴルモア 元寇合戦記」という漫画・アニメが人気を集めていました。
1274年「文永の役」における最前線「対馬」での戦いを題材とした漫画です。
「対馬」・・・九州と朝鮮半島の中間に位置する島で、長く日本と朝鮮半島の架け橋となった地。地理的な事情で、朝鮮半島との戦いでは、しばしば「前線基地」としてあつかわれています。
この「対馬の戦い」で、現地の人々はかなり「むごい」被害をこうむっています。
1274年10月5日、「元」の軍団1000名が、対馬の「小茂田浜」という地に上陸。
対馬をおさめていた守護代「宗資国(そう すけくに)」は、騎馬兵80人ほどで応戦。
しかし「宗資国」は戦死し、対馬は踏みにじられたのでした。
この時の凄まじい状況を、「日蓮宗」の開祖で、「蒙古襲来」を5ヶ月も前に予言していたという僧侶「日蓮」は、被害を受けた関係者から話を聞いて、戦いから2年が経過した「1276年」に記録しています。
その記録には、「宗資国」を討ち破った元の軍団は、島の住人を次々と虐殺し、または捕虜として捕獲。捕らえた女性の手に穴を開けて縄を通し、船に並べて立てた・・・・と記されているのです。船のへりに立たせることで「盾」にしようとしたのです。同じ日本人を盾にされては、鎌倉武士たちは攻撃できないだろうと考えたのでした。
対馬の次に侵略された「壱岐」も、同じような目にあっています。
捕らえられた人たちはどうなったか?
当時「元」の軍団は、侵略した土地の人間を「戦利品」「奴隷」として連れ帰っています。
実際に、この時連れ去られた「奴隷」は、「褒美」やら「贈り物」として利用されています。
この「文永の役」から帰還した元軍の総司令官「クドゥン」という将軍は、捕虜「200名」の男女を、高麗王に贈呈しています。
想像を絶する虐殺と乱暴狼藉が行なわれたことでしょう。とてつもない破壊行為を、モンゴル軍はしたと考えられます。
鎌倉武士の凄まじい実力!彼らは恐るべき戦闘民族だった
1274年「文永の役」で、日本の武士たちは「神風(偶然上陸した台風)」によって敵を撃退した・・とされてきました。または「元軍の目的が、もともと偵察だったので、短期間で退却してしまった」という説もあります。
しかし真実は違います。
実際には、鍛え抜かれた「武士」「御家人」たちの活躍によって、「元」の軍団は撃退されたのです。
元寇では、九州の武士たちがおもに戦っています。特に「文永の役」では、鎌倉に知らせが届いたときには、すでに元軍は撤退したあとでした。「元」軍の九州上陸を聞いて、九州の武士たちは、ぞくぞくと博多へ集結。博多、赤坂、鳥飼潟などで次々と敵を撃破しています。
1274年11月11日から始まった「文永の役」、開戦後わずか15日で、元軍は撤退したのでした。
弘安の役でも、武士たちの活躍で元軍は上陸を阻まれ、最期には台風で大打撃を受けています。
鎌倉武士の強さ
ユーラシア大陸の半分、世界の4分の1を制覇した「元軍」・・・その元軍を「鎌倉武士」は、2度も撃破しているわけです。
当時の「武士」たちは、おそるべき技を持つ「戦闘民族」でした。
鎌倉武士たちは「いざ鎌倉」を合言葉に武術の訓練にはげみまくっていました。「いざ鎌倉」とは、「鎌倉の将軍から命令があれば、即座に鎌倉へ駆けつけて、いつでも戦ってやる」という意味。
「文永の役」で元軍は、全軍「約4万人」のうち実に「13500名」もの人的被害をこうむっています。
この数字をみると、鎌倉時代の武士たちの強さが、伝わってきます。
神風の真実!実は神風ではなく、狙ったものだった?
1274年「文永の役」では、「神風」つまり「台風」で元軍が撃破されたわけではありません。
1281年「弘安の役」における「台風」は事実です。しかしこの台風も、年に2~3回は「台風」が起こるのが普通であり、それほど「奇跡的な台風」ではありませんでした。
つまり「弘安の役」での「台風」は、3ヶ月にわたって元軍の上陸を防ぎ続けた日本軍の努力が実ったものなのです。
もしかすると鎌倉武士団には、「台風の季節まで上陸を阻止できれば、台風をヤツらに直撃させることができる」という計算があったかもしれません。
元軍は「4000隻」の船の95%を喪失し「200隻」まで船の数を減らしています。
気になるのは、どうして『神風』がおこっていない「文永の役」でまで「神風がふいた」と言われていたのか、ということ。
実は「元軍」が襲来したとき、日本中の神社やら寺やらで、「元軍撃退」の「祈祷」・・・つまり「お祈り」がされていたのです。
この「お祈り」をした寺社は戦後、こぞって鎌倉幕府へ「褒美をくれ」と訴えて、自らの功績を誇っています。
中には「祈りの効果により、菩薩の化身が現れて、元軍に矢をあびせかけた」なんて荒唐無稽なものまであります。
「神風が吹いたということにしないと、ご褒美がもらえない」・・・・「神風が吹いた」と主張した人たちの目的は、あくまでも「ご褒美」だったようです。
『元寇』について「ひとこと」言いたい!
神風という噂が広まった理由は、「ご褒美が目的」というものの他にも、もう一つあると思います。それは、当時の「朝廷」が関係しているのではないでしょうか。
神風が吹いたということにしないと、困る・・・。と申しましたが、「神風が吹いた」ことにしないと、困る方々が他にもいました。
「朝廷」・・・・。つまり「天皇」を中心とする京都の勢力のことです。
当時、「元」という外敵への対処は、「北条時宗」をトップとする「鎌倉幕府」が行っていました。
それにたいして「朝廷」は、元軍が降伏するように・・・と祈ることくらいしか出来ていません。
朝廷はかつて「鎌倉幕府」に「承久の乱」で敗北。さらに「二月騒動」で「後嵯峨天皇」の息子「宗尊親王」を出家させられています。「鎌倉幕府」は「朝廷」に、その存在を良く思われていなかったのです。
元軍が「鎌倉武士」の力によって撃退された・・・となると日本国民たちは、朝廷よりも「鎌倉幕府」を信頼し、幕府の体制は更に盤石となるでしょう。
それを恐れた「朝廷」は、「神風」の力を過度にアピールしたのではないでしょうか。
朝廷の存在意義をひろめるため、有りもしないことまで「でっちあげ」て、鎌倉幕府の権威をおとしめようとしたと考えられます。
鎌倉幕府への朝廷の不満は、「弘安の役」から約50年後に爆発します。
「後醍醐天皇」
この後醍醐天皇が、「楠木正成」「足利尊氏」「新田義貞」らを従えて、「北条時宗」の孫「北条高時」がひきいる「鎌倉幕府」を滅ぼすこととなるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「元軍」に攻め込まれた「対馬」「壱岐」の人々は虐殺されて、連れ去られ、「奴隷」とされた
- 「元寇」は、神風・台風によって撃破されたのではなく、戦闘力の高い「鎌倉武士」「御家人」たちの活躍によるものである
- 神風は、「文永の役」では吹いておらず、「弘安の役」では台風が上陸したが、突発的、または奇跡的なものではなかった
以上となります。
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よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
コメント
コメント一覧 (2件)
確かに鎌倉武士たちは強かったと思うけど、苦戦しまくったのは向こうのもつ武器ですよ。「火薬」や「燃える水」があり、炸裂弾やもののけ姫にあるような石火矢みたいなものを使ってきたんです。(発掘・保存されている)
剣の心得がある人ならわかりますが、刀に対してマグナム弾並の威力と言われている石火矢に対抗は無理なんですよ。せいぜい、遠距離の弓矢が来たらたたっ斬るくらいです。なので、神風とかはまぁ、置いとくとして、地形や対馬の潮流などを利用してなんとか撃退したんです。台風はモンゴル帝国の人は未経験ですし、海での戦闘では幕府軍が強かったですが、やはり炸裂弾には相当手を焼いたでしょう。
わかりやすい例でいえば、騎馬最強の武田VS鉄砲の織田信長です。それに9mmやマグナム弾なら日本刀で斬れるらしいですが、そんな技量もった化け物は歴史上いないです。ましてや石火矢らしきものの弾は「直径16-20cm」くらいです。鋼鉄盾でも貫通します・・・。刀で弾いても折れるか、骨が折れます。。。
元寇軍が何故これほど残虐だったか?!
それは主力部隊が朝鮮人で構成されていたからであり、あの民族の下劣さはベトナム戦争をはじめとして全世界の知るところである!!