ひどい記事タイトルだこと。
捻くれ者の穿った皮肉
あまり良い話題ではないので、重くならないよう軽めに語りましょう。
正直好みの芸風ではないのですが、一部のメディアやネット界隈の言動が少し気になるため、ある集団を俗的な意味でのカルト化させるにはどうすればいいかを批判的に書いていきます。
方法は簡単です。
■相手の教義や信仰、行動や存在を真正面から否定する
こちらが正しいと思っていることを正面からぶつけることはほとんどの場合で悪影響をもたらします。たとえそれが良心や善心からだとしてもです。相手は相手で自身の考えを正しいものだと信じており、それを否定してくるこちらが間違っているのだと考えてるためです。
互いの正しさをぶつけ合ったとしても双方の正しさがより先鋭化するだけであって、それは無益どころか相手がより教義に忠実な信者となる手助けをしているようなものです。
「正しいことを教えてあげないと。間違っていると説明してあげないと」という考え方はとても真面目で善良であり、決してその良心自体を否定したいわけではありません。
ただ、何かにハマり込んでしまう人というのは大抵の場合、真面目で、善良な、ただの一般人です。不真面目な人はそういった教義や信仰に熱中することなんてありません。しかしだからこそ、相手だって「正しいことを教えてあげないと」と、同じようにそう思っているかもしれないことを忘れてはいけません。
相手の考える正しさをこちらが同意できないように、こちらの考える正しさが相手に同意されると期待してはいけないのです。
■バッシング等で相手の社会的な繋がりを断つ
「あの人たちは問題がある」「あの集団は危険だ」と社会全体でバッシングをすると、その集団に属している人の味方はその集団内にしか居なくなります。そうやって社会との健全な関係性が断たれてしまうと、その集団への依存度が飛躍的に高まっていく結果に繋がりかねません。
社会全体でのバッシングというのは、悪い言い方をすれば、カルト集団の手口である「社会的な繋がりを断ち孤立化させて集団への依存度を上げる」と同じことをやっているようなものです。
確かに社会的圧力によって一部の構成員が逃げ出して、集団の規模自体は小さくなるかもしれません。しかしその分密度が高い頑強な集団へと変貌する危険があります。社会から否定されればされるほど教義に熱狂的で、社会的圧力に反発するために攻撃的な集団になり得るのです。
つまり、そのような集団にとって自分たちの集団に圧力を掛けてくる外の社会は、言わば敵です。よって必然的に社会から圧迫された集団は反社会性を持つようになります。
なんとも、実に簡単ですね。
カルト化を阻止するためには
俗的な意味での熱狂的狂信者やカルト集団を擁護する気なんてさっぱりないです。誰が何を信じたり考えていてもそれは自由ですが、公共の福祉、すなわち人や世間に迷惑をかけているのであれば無くなってもらった方が良いことは間違いありません。
むしろそういった迷惑な団体が無くなって欲しいからこそ、「正しい意見で説き伏せよう」とか「バッシングしてねじ伏せよう」という一部の路線が好みではないということです。それは洗脳されている人に対してやってはいけないことであって、効果が無いどころか悪化させかねません。
脱洗脳・脱カルトには専門家がいるように、素人にできることなどありません。素人にできるのは狂信者やカルト集団と距離を置くことだけです。まさに距離を置くというのは、近づかない、話を聞かない、というだけでなく、「説得しない」や「攻撃しない」ということも含まれます。
今回は昨今話題になっている宗教団体を念頭に書いていますが、別に熱狂的狂信者というのは宗教に限らず様々な事象で存在します。
例えば切手なりコインなり、何らかの収集家が世界中にいます。興味のない人からすればなんでそんなものを集めているのか、何が楽しいのか分からないでしょう。しかしそれを止めさせようと思って「そんなものを集めてどうするんだ、何の意味も無いだろう」「馬鹿なんじゃないか」と攻撃したらそれを止めるかと言えば、多くの場合でそうはならないわけです。
本当に止めさせたいのであれば時間をかけて興味関心を逸らし、単一への依存を解き、もっと別で、かつ複数の依存先を用意する必要があります。それに依存しなくても日々を楽しく問題なく生きていけるという状態を作らなければ、依存から抜け出すことはできません。
それはとても大変なことです。だからこそ家族ですらカルトや依存からの脱却には苦戦し、専門家に頼らざるを得ないのですから。
余談
まあ、現在各所で騒がれている宗教団体に関しては、それがカルトであるかどうかよりも別の、政治的目的のための道具として用いられていることは分かっています。
それはそれで別に構わないのですが、ただ、カルト化をより推し進めかねない報道や取り扱い方にはモラルブレイクの危険があり、まったくもって好みではないというだけです。