1982年8月。
日本海の島根の浜辺で親戚とキャン
プをした。いわゆる浜キャン。
海がめちゃくちゃ綺麗だった。
釣れた小さなチヌを出汁にして
味噌汁を作った。ちょいと味噌が
濃かったが殊の外美味かった。
夜、テントから出て砂浜に寝転び
空を見た。
渋谷のプラネタリウムのようだ
った。
こんな星を見たのは1976年の
八ヶ岳での高校合宿以来だ、と
思った。
ペルセウス流星群の時期で、もう
数えきれない程の流れ星がヒュン
ヒュンと降って来る。
かなり壮観だった。
山陰地方の日本海を見たのは生ま
れて初めてだったが、昼間の日本
海は、なんだか馴染みの太平洋と
は違った違和感があった。
多分太陽の位置ゆえだろう。
冷たい水の海であるのに、なんだ
か南洋の島にいるような妙な錯覚
を覚えた。
それにしても、夜の空が素晴らし
かった。
その前前年、新潟の柏崎の海岸で
学生仲間たちとキャンプをやった。
その時は星はさほど見られなかっ
た。
キャンプでは夜空を観られるのが
楽しみだ。
子ども時分から毎年行った富士山
麓のキャンプでは、星が数えられ
ない程に万天の星空が観られた。
そして、1969年8月30日の土曜日
の夜、河口湖のほとりのキャンプ
場で、集団で夜空にUFOを見た。
航空機とは異なる異様な動き。
空中で直線的にVターンをしてか
らピタリと静止する。
そのたびにキャンプ場でどよめき
が起きた。
私が現実的に未確認飛行物体を
直に目撃したのは、その69年8月
30日の夜が初めてだった。
私は腰には父が買い与えてくれた
鉈を下げていた。
その鉈は今でも持っている。
サブカトラリーは自分で研ぎ上げ
た肥後守だった。
正確にはカネ駒の肥後守ではなく、
肥後守風ナイフというやつ。
その69年夏富士キャンではたま
たま持っていなかった。携帯を失
念したのだった。
その翌年からは必携を心掛けた。
こんな感じの肥後守風ナイフ。
これは家にあった錆まみれの物
を錆切りして磨いた物だ。
小学生の時に所持していた個体
がこれだったかどうかは定かで
はない。
ただし、これそのものは45年以
上経っているのは確実。高校の時
に親の家で現認記憶があるので。
もしこれがあの時の1970年前後
の個体であるならば、横浜の通
学路途中の文房具屋で小学生の
時に買った物だ。買った時の事
は異様によく覚えている。
文具屋のおばちゃんは太った
おばちゃんで、薄いグリーンの
服にクリーム色ぽい前掛けをし
ていた。後年『ダメおやじ』で
出てくるおかみさんを見た時、
「あ!こりゃまるであの文房具屋
のおばちゃんだ」と思った。
何種類かあり、買ったのはなけな
しの小遣いをはたいて買った一番
高い物だった。めちゃくちゃ切れ
た。
その当時、肥後守は小学生必携で、
学校帰りに友人たちと雑木林や
空き地に「基地」を作る時には
必須道具だった。
男は全員肥後守を携帯していた。
文房具なので親も教師も警察官
も咎めたりはしない。武器では
ないからだ。
だが、71年以降は、肥後守の
常時携帯が学校で禁止されるよ
うになった。時勢の流れだろう。

史上最高のボーイズナイフが肥後
守(もしくは同タイプのナイフ)
だった。
日本にこれあり。
これが日本の刃物文化の象徴だ。
カッターナイフを完成させ全世界
に普及させたのも日本人だが、
この折りたたみノンストッパー
のスリップジョイント式ナイフも
日本人と共にあった。
私は今でも鉛筆を削る時には肥後
守を使う。マメ肥後だが。
時々研ぐが、いつも快調だ。
実は今もキャンプには数種類の
洋式ナイフと共に肥後守を持って
行っている。
万一の刃物切れ(紛失等の事態)
の時のお守りとして。普段まず
使わないが。
星空と肥後守。
これ、実は、私にとってはワン
セットなのだ。半世紀以上前から。