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今更ながら日蓮本仏論を補うことを多少述べておく。
長くなり過ぎるので、togetter( https://togetter.com/li/1235285 )
にも述べていなかった内容だ。
日蓮が末法の本仏であると日蓮が明らかに示した証拠はないと学者は言うが、それは実は間違い。さらっとだが、明らかにそれを示している真筆御書が二つあるので、今日はその一つを紹介しておく。次の御文が実はそうだ。
「本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表す」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
後の文に、「此の仏像出現せしむ可きか」とあるが、これは明らかに曼荼羅の御本尊を指した表現であり、いわゆる木で彫られた仏像ではないことに注意したい。
この御文は御本尊の相貌に関して述べているのは明らかだ。宝塔とは南無妙法蓮華経であり、釈迦多宝が宝中の左右に坐すと言う表現から明白だろう。あえて議論する必要なないだろう。
注目すべきは、「本師」という言葉。これは釈迦牟尼仏、すなわち本仏という意味である。御本尊の相貌を確認してもらいたい。「本仏」にあたる箇所にはなんと図顕されてるか。「日蓮」である。「南無妙法蓮華経 釈迦牟尼仏」ではないことに注目すべきである。「本門の教主釈尊」の真の意味がここに存在する。
百程度存在する大聖人の真筆曼陀羅は、全て、南無妙法蓮華経 日蓮 と図顕され、日蓮が欠けている曼陀羅は一つもない。すなわち、日蓮というサインは極めて重要な意味を持つ証拠といえるだろう。そして、「本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し」という御文は、「南無妙法蓮華経 日蓮」なる相貌を説明した唯一の御書と言える。本師=本仏=日蓮であり、意味は極めて明快だろう。
追加として、「此の事(観心の法門)日蓮身に当るの大事なり之を秘す」(観心本尊抄送状)と合わせて理解すれば良いと思う。
仮に釈迦が本仏ならば、「此の事教主釈尊が身に当るの大事なり」
となるはずである。
これらに非常に明快な日蓮本仏論が現れているのが読み取れるだろう。実はもう一つ日蓮本仏論を明解に示している真筆御書が存在するが、これはまたのちの機会に譲ろう。
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