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日蓮本仏論を大聖人が明快に示した御書第二弾をこれから論じるが、準備として、かつて身延に真筆が現存していた法蓮抄の
「若し上に挙ぐる所の二の法門・妄語ならば此の一経(法華経)は皆妄語なるべし」
を取り上げる。二の法門とな何かというと、前回述べたことだが、法華経の行者(日蓮)を末法において供養する功徳は、釈尊を供養する功徳の百千万億倍であり、同様に法華経の行者を誹謗する罪は、釈尊を誹謗する罪よりも百千万億倍勝るという驚愕的な内容のものだ。
次はこの御書
「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す、外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし」(開目抄)
すなわち、聖人とう言葉は、乱用されがちだが本来の意味は「仏」を示す言葉であると言うこと。
これを踏まえて再び法蓮抄に話を戻すと、「当に知るべし此の国に大聖人有り」なる一節が目に留まる。すなわち私たち学会員が使用している「大聖人」と言う言葉の意味は、教主釈尊よりも百千万億倍勝る仏、と解釈できる。
既にこの時点で、法蓮抄それ自体で日蓮本仏論を示していると言えるが、私が取り上げるのはこの御書ではなく、重要文化財に指定されている聖人知三世。
「不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」
と二の法門を述べた後、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」。即ち、自分は宇宙一の仏(大聖人)である、釈尊に優れること百千万億倍であると述べられている。全御書中最強の言葉だとさえ言える。
ここまでなら法蓮抄と同様の内容だが、この御書の更に重要なのは次の箇所。
「日蓮が尊貴なるに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり、身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経を蔑る」
ここに間接的だが、南無妙法蓮華経 日蓮 と大書された曼荼羅の本尊観、即ち人法一箇と、法勝人劣の思想が見て取れる。なぜ私がこの御書のみで日蓮本仏論を示しているかと考える理由はこうした理由だ。開目抄と観心本尊抄の簡略版とさえ言えるのではないかと思う。
なお念のために追加の議論として、法勝人劣は本尊問答抄のみならず、真筆の乗明聖人御返事「夫れ劣る仏を供養する尚九十一劫に金色の身と為りぬ勝れたる経を供養する施主・一生に仏位に入らざらんや」や、同様に真筆の宝軽法重事 「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり」に鮮明に現れている。
最後に、正法時代において、救世主を二人出さないための方便としての存在、上行菩薩、釈尊の御使い、釈尊の御子等(これはtogetterで論じたのでここでは避ける)に引っ張られて、大聖人を釈尊以下の存在(大菩薩)とか、釈尊と同様の存在(単なる仏)と取り扱うことが如何に罪が重いかこれでわかると思う。その罪は、ダイバダッタの大罪の百千万億倍勝に匹敵する。真筆は現存しないが、「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」という御書を心に留めるべきである。そのようなものは誰であれ、徹底的に破折していかなければならない。それが一国を守ることに繋がる。
以上で私の議論を終わる。
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