10 2022/06/22版
第10回 ポートレート 肖像写真の現在
ポートレート 肖像写真の現在
はじめに
肖像写真、今回は顔の話をします。ポートレートは古くから美術の重要なテーマ、題材でした。風景・肖像・静物と乱暴に分けられるくらい、そもそも美術の題材は限られていたといっていいでしょう。その三分の一が肖像というか人を題材にしています。もっと簡単に言えば、人か人じゃないもののどちらかにわけられます。
今回は肖像について、この授業の特性である「極論的にひとつの論点に集約」して進めていきます。
肖像、その中でも遺影についてです。というのも、写真、肖像の美術の特性である、人の記録とは、成立した時点、撮影されたその時から、肖像は過去へと追いやられ、すでにいない人ー個人は故人たりえるという宿命をかかえているからです。
写真は発明されたとたん人々をリアルに制止させてしまうメディア—死と結びつけてイメージされていました。写真を撮影すると、それだけ寿命が縮むという迷信さえあったのです。
これは興味深い話です。今回は肖像写真だけでなく、細密描写や
彫刻作品までを含めておりますが、リアルな像ほど、生気を感じる。まるで生きているみたいなのに、死んでいるみたいに動かない…という二曲反復のイメージが私たちに提示されるのです。
そのような事例について考えていくと、私たちが顔や他者の存在、しいては、生きているというものをどう認識して、思考しているかに関わる、今回の論考を越えた、もっと深い哲学的問題が含まれています。
とてもそれほど大きなテーマは扱いきれませんので、今回はまとめの部分にアーチストJRのTEDでのプレゼンテーション(日本語字幕付き)を貼っておきます。1つは初回2011年のも(24分)で、もう一つはそれから一年後の2012年の報告(6分)です。長いけど、ぜひご覧下さい。
1 肖像写真の現在形
・ポートレートの役割
表象メディアが果たしてきた大きな役割のひとつは、人物の顔を表した肖像ーポートレイトです。
証明写真、アイコン、肖像写真(ブロマイド)、写真術発明以前も肖像画は多面的な存在価値を持っていました。
肖像は政治・宗教において肖像が国家のシンボルとして用いられてきました。(お札のデザイン)
私たちはここにあげた何人もの顔を知っています。個人という特定の存在が、国、その威厳、紙幣の価値など様々なものを担保し、存在価値と結びついています。
最近では、平成両陛下の肖像画を洋画家の野田弘志氏が描きました。
これは、エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇の肖像画写真です。ん? 肖像画+写真とは? ある時代的な事情のため、大正天皇の肖像は写真ではなく写真のように描かれた絵画(御真影)が流布していました。
・新しい肖像写真 自己イメージの生成
セルフィー(自撮り)というのも、もちろん肖像写真に含まれます。それらは21世紀のメディアによって成立している新しい肖像写真といっていいでしょう。
多くの人が、写真イメージによる自己認識を行い、さらに自己イメージの記録が提示されるインスタグラムという新しいポートレート、新しい写真の世界に住んでいます。
そのような新しい自己撮影の写真文化は、変身画像や、コスプレ、すっぴん写真など、様々な社会的コンテキストとして自分を再配置する画像共有の文化を成立させています。
1995年に発明された「プリント倶楽部」は、デジタル写真の証明写真ボックスを利用し、シールをプリントする装置でした。この装置が街角、ゲームセンターに置かれてから25年以上が経過します。
現在では、デコレーションされたプリント、美白やデカ目効果などの画像加工をはじめとする、様々な効果が付けられています。
そのようなポートレイト文化は、SNOWや、SNAPCAMERAなど、多様なサービス、付加価値が付けられることで、今後も変わり続けていくと思われます。
自撮り+棒=自撮り棒というのも、実はここ10年に成立した、新しい肖像写真のひとつです。
さらにセルフィーの文化は、静止画から動画へとメディアを拡張して、マネキンチャレンジや、氷バケツチャレンジなど様々なブームが作られてきました。
・ETC
写真における肖像と身体のいくつかの例としては、次のような写真家の仕事があげられます。時間の都合もあるので、ここではURLで、画像を見て頂くだけに留めます。
〜ドイツの人々を階級や職種で分類して、博物学的的眼差しで肖像写真を編纂。
〜VOGUを初め、多くのファッション・ポートレイトを制作。サベージバックを使用するスタジオワークをアフリカの野外で敢行して撮影したドゴン族の写真は秀悦。
〜たぐいまれな人物描写の才能がヒトラーに見いだされ、いやいやドイツのプロパガンダ映画制作を担った、美しき女性映像作家。80年代にアフリカでヌバ族と暮らして撮影した写真集「NUBA」を見よう。
〜イオナは自分の娘をモデルとして嘆美的少女写真集を撮影した。のちに娘から虐待で訴えられたいきさつはドキュメンタリー映画になっている。
〜フェチ全快。ミステリー作家平山夢明は、変態はさげすまれ軽蔑されるが、異能・異常は、憧れや、畏怖されると書いていたが…
〜ポップアート、シルクスクリーンの作家だが、モンローの肖像がそうであるように、その判には肖像写真が使用される。
ウォーカー・エバンス
〜NYの地下鉄で隠し撮りした人々の肖像。よい子はマネをしないほうがいいかも…
〜人の身体が放つ怖さ、それは社会性とは別の、もっと自然の一部である人体が放つ怖くもある崇高さ。美しい花が本質的には生殖器的機能をもつように、生き物としての人間が放つ生命力や、威圧感を、強く感じさせる独特の作品群。
〜映画のなかの女性を自ら演じた初期シリーズなど、女性表象の社会性やジェンダー的視点で肖像写真を制作した。
〜はい人形。南仏プロバンスの光とか関係なく、少年時代の永遠の夏休みは、世界中の人々の琴線、あまずっぱい記憶に働きかけるます。
〜外界、自然光の中に同調するストロボ撮影を行い、人間が創造し、地域で温存されてきた妖怪やモンスターの形状を赤裸々なものとして提示する。
〜やなぎみわさんの写真は寓話的である。しかしそのおとぎ話は私たちが住むこの世界と地続きの場所で必ず起きる物語の断片のように思える。デパートガール・シリーズ、おばあちゃん、〜〜ババァ、すべての作品のテーマで女性が扱われる。自らの存在の未来や現在、あるるいは内在する精神に、どのような崇高さと、脆さ(フラジャイル)があるかを思う。(愛しさ半端ない。)
須藤 絢乃(すどう・あやの)「 幻影 -Gespenster- 」
〜失踪、行方不明の少女たちの写真を自ら演じるセルフポートレイト。写真を撮ると、写真を演じる行為は、21世紀において、模倣する他者をして、自らの思念を形成し、さらに、共感を作り出す行為となった。
〜セルフポートレイトとして綴られる身体の確認。我々は日々鏡を見る。養老孟司氏は、鏡を見るとは、昨日の私が、いまもここにいるという確認であると書いていた。セルフィーとしての写真は自己イメージと自身を反響させ、増幅させ、より強い意識を生成させるのか。あっというまに自己がかき消され、上書きされてしまう時代の中で、写真は我々個人のイメージを保つという新しい機能をもつに至った。
〜ラブドールという愛玩のための身体装置—人形、その対象をもっとも女性的である人間性の体現した妊娠という身体に代替えされる。我々はゆがんだ世界の中でも、いまだ残されている我々の両親や、崇高なる母体—聖母像に向けられる想いや眼差しが、自分にのこされているという救いを知る。あるいは本質的な身体のイメージ、女性とはどのようなものなのかを、高らかに宣言するアンチ・ジェンダー、いや、ポスト・ジェンダー時代の秀逸さを思わせる作品。(これは管美花さんの卒業制作)
〜永らくアイドル、時代が求め、消費されるアイコンや、ヌードを撮り続けてきて、商業写真家という理解が先行していた篠山紀信氏によりラブドールを被写体にした作品を見よ。現在の我々の目には、リアルな女性像とはことなる、もうひとつのエロティシズム、あるいは身体のイメージが、こおに立ち現れている。
〜密着された人々。ビニールに覆われたとたん、それは商品であり、新品という清らかさや清潔さを想起させる。我々の時勢的イマジネーションを知る。
〜中の人という言葉がある。組織、web、アイドル、様々なものを
我々は外装と内部で計る。日本の巨大ロボットにも中の人が乗っているけど、さて、橋本ルルの場合、我々はいったいナニを見ているのか、これは能面のような存在のロボットなのか、身体に人形の継ぎ目を書いただけで、我々はそれを人ではないもの、特異なものとして見るしかないのか?
〜合わせてメ芸の卒業制作2.5次元マスクを紹介しておきます。
〜橋本ルルさんの流れで、もうひとり紹介するこちらの作品は人物ではない、絵画のような写真。そこには絵画で描かれてきた絵画的花や静物が、写真となって提示されている。いったい我々の認識やm美的陶酔とはなんあのだろうか?
〜浮遊する私をセルフィーで。
〜同化する自己と愛すべき憧れの女性像の挾間。他人が覗く鏡の中に迷んだような作品群。
2 遺影と肖像
肖像写真についての論考で、2つめに扱うのは、遺影、いわゆるなくなった人、ここにはいない他者を撮影した写真。他者を祀るための写真についてです。
写真とは不思議なメディアで、いまこおで起きている事柄、人の様子を停止させます。その途端に、そろ大正は、もうないものなのです。季節も、時間も過ぎていくのだから、一瞬のでkごと、ちょっと前のことであろうと、それは過去で有り、未来においては失われてしまう。すなわち肖像写真に写された人は死んでしまう。その意味において、すべての肖像写真とは、過去に生きた人々の遺影といえるのではないか。
遺影の歴史
〜山田 慎也『現代日本の死と葬儀―』によると、 日本で最初に葬式に写真が飾られたのは明治13年(1880年)頃でした。
現在の環境が当たり前の私たちにしてみれば、葬式には個人の写真が飾られます。しかし、そんなのは写真が発明されて、広く一般に普及してからの話であって、まだ100年にもみたないくらいの風習なのです。 明治13年の葬儀写真なんて、ものすごいお金持ちの葬儀で取り入れられた話だったのです。
LIFEに掲載された「イヴリン マクヘイルの最も美しい自死体写真」(1947年)
〜この写真は世界でもっとも美しいとされ、雑誌「LIFE」に掲載された遺体の写真です。
この写真をアンディ・ウォホールはシルクにおこして作品にしています。
ピクトリアリズム(美しい過去)
〜ピクとリアリズムは19世紀半ばのロンドンから始まった、写真の芸術性の確立をめぐる動向です。すでに芸術としての地位を確立していた絵画を模倣することで、写真の芸術価値を高めようとした運動でした。
宗教・文学・歴史などの寓意的な主題、絵画的な構図を用いた画面作りを特徴とします。
オスカー・ギュスタヴ・レイランダー、ヘンリー・ピーチ・ロビンソンの作品が有名です。この作品では、お亡くなりになる娘さんと家族の哀しみなど、避けられない死の悲しみが描かれています。
・静止した顔 屍を描いた美術作品など
古く写真は生き写しのようにリアルで有りながら、死んだように制止しているため、死を想起させるメディアでした。
セーヌ川の身元不明少女(1880年代)
〜写真ではありませんが、このお話を紹介しておきます。1880年代にパリセーヌ川で見つけられた、少女の亡骸があまりに美しく可憐だったので、死体検視官がデスマスク(石刻)を作るんです。その顔は人を引きつける不思議な魅力を持っていて、死んだ少女の石膏像がものすごく売れてしまうのです。死人に口なし。著作権もないのですから複製されて延々と作られていきます。皮肉なことに、溺死したこの娘の顔は、現在世界中で使用されtれいる人工呼吸の練習人形に使われています。
『アンジェリカの微笑み』マルノリ・ド・オリビエラ
〜死人に恋してしまうお話は世界中に沢山あります。101歳のオリビエラ監督の遺作『アンジェリカの微笑み』もそんなお話です。美しい死人を演じたのはオリビエラの孫娘。
『ツイン・ピークス』ローラ・パーマー
〜一人の高校生の娘の死をめぐって、20話を越えるテレビシリーズの物語が作られました。デヴィッド・リンチ企画・監督によるドラマ「ツイン・ピークス」では、死体検視官が撮影した少女の写真一枚が、物語の終わりまでずっと登場します。
〜世界的に有名なミレイの「オフェーリア」。恋人ハムレットが死んだという嘘を信じて川に身投げした少女の姿を描いた作品です。
松井冬子作品
〜ほぼ美しい屍ばかりです。前に中世に関する講義で取り上げた九相図を現代の絵画として描いています。
〜みずみずしい水の潤いと、美しい少女の取り合わせは、前述のシェークスピアの「オフェーリア」や、「ツインピークス」、さらに「セーヌ川の少女」など、独特の題材として、取り上げられてきました。簡単には説明しがたい人間が抱えたタナトス的な深遠なイマジネーションを起動させるなにかが、これらのシチュエーションにはあるのでしょうか?
〜こも同様の題材が表されているように思います。
〜「ピースサイン」の回でも触れたハイデンマザー。興味深いです。子供の肖像写真というのは、親のためにあるといっていいでしょう。つまり子供が図になっていれば、他はいらない。おそらくこの装置と化した、亡霊のような母親たち、そして父親にしてみれば、出来上がった写真を見ても、そこにいる不気味な亡霊=自分は目に入らないのでしょうね。
ミイラ小河の美女 —世界一美しいミイラ
〜はい、私はこの世界でもっとも海から離れた都市といわれるウルムチの博物館に、この「小河美女」を見に行きました。
砂漠の芸術調査の一環です。我々にとってミイラは不気味ですが、写真がない時代、いや中世や古代の世界では、死はとなりにある、ごく当たり前のものでした。人間の身体や、魂、死者への尊厳が、ほんのちょっと違うと、肖像という概念も変わるということでしょうか…
〜同じく、イタリアのミイラです。カタコンベといい、ほんの100年前の時代で死はまったく異なる捉え方をしていました。
それにしても先に紹介した「セーヌ川の少女」といい。「小河の美女」といい、どうして美しい女性のミイラは、これほど崇高なものとして崇められるのか? そこには、死と正反対の清順さ、潤いや、張りのある生命をのものを体現化したような少女という生態と、ミイラという制止したまま永続的に失われない死がの両方がせめぎ合う怖さや、不可解さ、不条理、矛盾があるからでしょうか…
〜デスマスク、死を迎え、失われる人、形態を残す方法として考えられました。写真以前の写真術のひとつといっていいでしょう。
・浮遊と天使 あるいはドザエモン
死は土に戻るちいう表現があるように、重力に逆らえない現象です、しかし我々人類は天昇というイメージによって天空や神の国と結びつけて感上げてきました。
ロン・ミューイックの彫刻作品がそうであるように、リアルさは重みを感じさせます。それは細密画を含む具象的な絵画作品につきまとう重力でもあります。
〜十和田市現代美術館の巨大なばーちゃんもそうですが、ミュー一イックの作品は、大きさが醸し出す迫力や重厚感を味方につけて、さらに我々が知る様々な身体のディテールを強烈にアピールします。目の前にある像がデカいのか、それとも我々が小さくなったのか、そのような思考は、先の授業「怖いもの 大きいもの 怪獣と小さなもの」で語った人間の感覚に深く関与しています。
重力から解放された身体
〜天昇するイメージ、重力から解き放たれた人物のイメージをいくつかあげておきます。
「マトリックス」 バレッド・タイムとワイヤーワーク
・ハイパーレアリズム絵画
水のイメージ、どざえもん、水と死…
不思議なのですが、先に書いたとおり、ディテールが書き込まれるほど、もののリアルさとともに重さを感じるように思います。いわゆるアニメやマンガの抽象的であったり、単純化された表現と異なるこれらの絵画表現がもつ独特な魅力、訴求力、印象は独特です。リアルなほど、絵画に描かれている人物が生きていないことを宣言するような、このイメージはととも興味深いです。
池谷友秀 〜写真
・面(つら)の創造と霊性
次にポートレイトが顔を現す表象であるということに関連して、顔を表す、いや、顔の存在を大きく扱う芸術として、マスクや仮面劇について、いくつか紹介しておきます。
木偶(でく)とは、木彫りの人形。または人形。あやつり人形。転じて役に立たない人のことです。
副葬用につくられた木製の人形。エジプトでは古くから盛んにつくられ,古代ギリシアでも初期には用いられた記録があります。
木製の人形。木俑(もくよう)ともよばれ、明器(めいき)(副葬するためにつくられた器物)としてつくられたものである。中国では、戦国時代の楚墓(そぼ)出土の木偶がよく知られ、長沙(ちょうさ)左家公山1号墓、楊家湾(ようかわん)6号墓、仰天湖25号墓出土の木偶などがある。長沙馬王堆(まおうたい)1号漢墓からは、彩色を施した木俑、楽人木俑、着衣をつけた男女木俑などが発見され、これらは漢代木偶を代表する遺物である。木偶は戦国、漢代に盛行しているが、元、明(みん)に至るまで各種の木偶がつくられ、明代、朱檀墓(しゅたんぼ)出土の木彫儀仗(ぎじょう)俑群はその数も多く、木偶のまとまった資料として重要なものである。(飯島武次 日本大百科全書(ニッポニカ))
仮面劇と人形劇はかなり等しい性格をもっています。人形を動かして演じるか、人が人形となって演じるかといった捉え方が出来ると思います。
幽玄の世界を表す能では、能面を付けて登場する人々はみな死んだ人、魂の存在というか、生きていたときの物語を繰り返し舞うと言った作りで構成されています。
そのような仮面劇のルーツは古く、日本では伎楽面(ぎがくめん)の儀礼がもっとも古い仮面芸能として記録されています。
人形浄瑠璃(文楽)もそうですが、動かないものが動く、つまり魂がないはずのものが、動く、動かされるという芸術(パフォーミングアーツ)において面は、もっとも、重要な要素として扱われています。
面(マスク)は世界中の文化・芸術にその例を見ます・イエスキリストや仏陀の顔がなんとなく、イメージとしてあるのも同様です。それぞれの仮面は、それぞれの文化において、特殊な存在、象徴として、受け継がれています。
2つの展覧会のwebサイトを貼っておきますので、見てみて下さい。
3 ガイストと映像(イメージ)
・霊性とメディア
・ないという存在を描くこと
霊性—聖なるもの、ここにはないが、あるように思えるためにはどのようなイメージを作り出すか。あるいは「ないという存在」の概念をどのように表すか。それは、人間の価値感だけでは捉えられないものであり、感覚とともに神話的物語性を不可欠とするイメージです。
・崇高さと畏怖は道義的
幽霊—未明に向けられる恐怖、不気味さとして捉える感性も同時に機能します。しかし恐怖は崇高さに対する畏敬の念、崇拝的真理を生成するものであり、怒りではありません。怖いから起こるのではなく、怖さをまぎらわせるために怒るのです。少なくとも、幽霊や、化け物に対して、怒る人が登場する物語や逸話はないのではないか?
・宗教絵画とイコン
写真などによって表される生きているような、存在が確実と思えるリアルさ、生々しさは、反対に、それがリアルに、現存していないという、パラドックスを成立させてしまい、いない、ないという、リアルを立ち上げる。
・21世紀のポスト・イコン
saya-CG これらは新しいセーヌ川の少女であり、小河のミイラであり、イコンとなるものを表象しようとする試みなのかもしれません。
4 まとめ
私たちが他者を思うとき、それは顔を思う。足でもなければ、胸でもない。顔である。そうであるなら、人—他者とは顔であるといっていい。
今回遺影という特異な写真を中心として肖像(写真、画)について論考した。さて、それではデザインにおける顔の形のもの、アイコン、サイン、またはマンガやアニメーションにおける顔の役割、あるいはキャラクターデザインにおいて、このような論考から、なにが見いだせるか。それは今後の課題として、考えていただきた。
最後に、アーチストJRのTEDにおけるプレゼンテーションを見て頂きたい。(長いけどおもしろい!)
JRを写真家、肖像写真家と呼ぶのは正しいだろうが、その活動は肖像を撮ることより、掲げる、展示する方に、より重点が置かれているアーチストというべきだろう。
まるでグラフィティーやタギングのように、都市やストリートに顔が露呈したとき、我々はどのように、それについて捉え、考えるのか。ウイットとは最高の哲学的命題と等しい。
顔ー肖像が持つメッセージや存在感をもっとも強く意識した活動を続けるアーチストの仕事から人間の顔がもつ根源的な存在価値につい考えてみていただきたい。
— 8000文字
・出席(レポート)の提出に関して(内容、〆切、提出先)
今回配信分(6/22)の授業の、小レポートの提出をお願いします。
200文字以上で感想、質問、ご意見を書いて下さい。これで出席とします。
簡単な文章で構いません。
提出期限は、6/26(日曜日)24時までとします。
トップページにあるとおり、必ず、あなたの学籍情報を提出ファイルの冒頭に書いてください。
学籍番号+学科とコーズ名(メ芸か情デか)+学年+氏名+氏名のカタカナ表記+「授業が配信された日付」
「」は、—5/20 とか、そのデータが公開された日付です。
記載例 : 90417003-情報-情デ-1年-佐々木成明-ササキナルアキ-5/20
*提出先は グーグル・クラスルームに書いてあります。
次回予告
6/29㈬に、ジェンダーと映画(仮)を開催予定。
ハイデンマザー
ミイラ小河の美女
デスマスク
イングランド演劇では、黙劇(Dumbshow, en:Dumbshow)は仮面劇に似た無言のパントマイムの幕間劇
能
人形浄瑠璃(文楽)
顔
顔認証はAIのもっと重要な仕事といってよい。笑顔を捉えてシャッターを切るなども可能だが、これらはすべて軍事技術の応用によるもの。
モンタージュ写真、人の顔はバリエーションとして分類可能。
遺影写真
遺影写真
アーヴィング・ペン作品
アウグスト・ザンダー作品
昭和なブロマイド写真
証明写真
象徴性をはらんだ肖像写真
平成天皇の肖像画
明治天皇の肖像写真(御真影)
多くの国の紙幣では、肖像写真肖像画が通貨価値を担保しその人物の権威性を成立させる。
プリクラ
SNAP CAMERA
自撮り棒と使用禁止を告げるボード
氷バケツ・チャレンジ
アウグスト・ザンダー
アーヴィング・ペン
レニ・リーフェンシュタール
イリナ・イオネスコとルイス・キャロル