(クリックで拡大/PC)
パソコンのブラウザにもより
ますが、F11キーでモニター
大まで拡大できます。
パソコンに自動的に出てくる
季節ごとの壁紙。
この図柄は、夏の仄かな風を
感じさせる清涼感があって、
何だかとてもいい。
構図、色使い、遠近感と配置。
絵画のお手本のような構図で
はあるだが、基本的なものだけ
に返って写真にしても収める
のが難しい。
フォーカスの妙も利いている。
また、内輪の模様の浅黄色も
景色との静かな映えも見せる。
すべてが絶妙。
これ、大伸ばしにしてプリント
して壁に飾っておきたい程に
よい絵柄。
緑茶の冷茶もいい感じ。
これ、淹れ方簡単じゃないんで
すよね(笑)。
試しにダメな作り方として、
紅茶のアイスティーもそうだ
けど、水だけで出したり(この
方法は正式にもあるにはある)、
あるいはお湯で淹れてから冷蔵
庫で冷やしたりしたら、とても
まずい冷茶ができる。
高めの温度のお湯で濃く淹れて
から氷で急冷。これがポイント。
考えてみたら、喫茶店などは
皆そうやっている。
(というのを高校の時に神田
神保町の都営地下鉄階段前の
喫茶店のバイトで習った)
私のこのgoo日記のテンプレート
も似たような図柄のものを借りて
いる。
写真の面白いトコロ。
それは絵画の場合、大抵は肉眼
での焦点と同一化させるために
すべてをはっきりと描き過ぎて
いて、水彩画でも油絵でも遠近
によるぼかしが描かれる事は
少ない。
だが、写真の絵柄図柄は、あえて
フォーカスという物を視覚化し
て画像に落とし込む事ができる。
写真術の妙。一つの独立した芸
術性を持っている。
かといって写真を原図として絵を
描くのはよくない。実際に肉眼
で見た風景なり人物なりを描写
しないものは、それは本質的な
絵画とはいえない。中世近世の
宗教画のような空想画を除いて。
私が中学の時に県展で金賞を
二回取った時の水彩画は、一つ
は空想画で一つは写生の人物画
だった。モデルはクラスのT君。
空想画は反戦テーマの図。
当時は全く一般的ではなかった
ぼかし技法を多用した。
小学生の時に絵画教室に長年
通っていたのもあって、多少
絵は描けた。
金賞受賞の作品は作者の元に
返って来ない。
なんで?と思うが学校に保管と
の事らしい。
全学3学年1300人の生徒の前での
朝礼の時に表彰状授与なので、
ちとこっ恥ずかしかった。
校長は後年修学旅行の時に京都
の旅館の廊下でただ歩いていた
だけの私を難癖つけてしばき
倒した教員で、賞状授与の時、
苦虫を嚙み潰したような顔を
していた。木刀で武装して隣り
の市内の中学へ集団突撃を組織
したりする奴に栄典授与だから
だろう。かといって、スポーツ
では学校代表の選手だし、学力
成績は学内上位なのだから、
なかなか手を出せず、どうにか
して潰したかったのだろう。
私が起案した分化した新設校
の校章デザインまで採用という
「民主的な」採択にも不満が
あったのだろう。
だが、生徒たちは私だけでなく
皆が熱かった。
ただのツッパーではない。
「愛と誠」の時代の話である。
ちなみに、さすがに根拠なく
生徒をいきなり闇討ちのように
スボコはどうなの?と教育委
員会への報告の意思を告げたら、
校長教頭担任のお三方揃って
私の自宅に平謝りに謝罪に来た。
手をついて謝っていた。私を
京都の旅館の廊下に正座させて
自分は達磨の瓶をロックで椅子
に座って飲んでいた校長が。
酒持ってきてたんだね、修学
旅行に、教員が。まあ時代なり
なのだが。
廊下の非常扉を閉めてロック
アウトして、分化する前の
本校の私を可愛がっていた
二年時の担任英語教師と他の
教員たちが駆けつけて来た時
強制的に排除してやがった。
私の事はボコ殴りで正座させ
ている。
その二年時の担任には薫陶を
受けて、私は直接ゲバルトを
控えるようになったのだが。
自宅にまで招いて食事しながら
いろいろ教わった。(高校時
にも早大一文出身の担任が同じ
ような事をして自宅で奥様の
手料理をふるまっていろいろ
社会論、文学論を話してくれ
た)
校長以下がうちに詫びに来た
時、「先生、どうか手をお上
げください。それはいけません。
ただ、教育とはなんであるか、
もう少しは先生方も一からお
考え頂きたい。まして酒を
飲んで、理由なく生徒を殴る。
打擲ではなくグーで殴打ですよ。
暴行です。さて、これはどう
なのでしょう」と校長たちに
14歳の時に説諭しといた。
親が言ったのではない。私が
私の意思で私の言葉で言った。
事件後、「卒業式直後にお宮
参り(教員への集団暴行)を
するか」と仲間たちからは持ち
かけられたが、それはやめさせ
た。が、中学卒業式直後は思わ
ぬ襲撃を受けた。第二ボタンど
ころか前ボタンだけでなく学
生服の腕のボタンまで後輩女子
生徒軍団に全部取られた。てか
合意進呈だが、ありゃ半ば強奪
だろに。校章や学年章まで。
制服の学ラン素っ裸。
帰宅した時母親が制服見て大笑
いしてる。「なに?それ」と。
ま、4月からは高校の新制服
だからどうでもいいんだけど。
その頃からしばらくした高1時、
湘南の海。北鎌倉から浜辺を
散策した日。
時代である。昭和は戦前も戦中
も戦後も「暴力の時代」である。
「愛と誠」の時代を地で行って
いたのだ。現実世界で。
「傷つけあうのが怖かった昔は
遠い過去のこと
人には人を傷つける力が
あったのだろう」とたくろうが
『今古い船を動かすのは古い
水夫じゃないだろう』という
デビュー曲で歌ってからそう
年月は経っていない時代の事だ。
中学のバスケの部活などでは
女子などはひどかった。
生徒が指示通りのプレーを
しないと、監督教師Hがパンと
手を叩く。すると選手たちは
パントマイムのようにピタリと
そこで動きを止める。
そして、監督教師はつかつかと
歩いて来て女子生徒選手たちを
全員思いっきり平手打ちだ。
男子は返り討ちに遭うからか
男子部監督の教師Kは暴力は
たまにしか行使しなかったが、
「馬鹿野郎!」と平手打ちは
教師Kも時々やっていた。
法政出身の元新左翼だ。あとで
訊いたら白ヘルではなかった
ようだ。途中大学を休学して
工場占拠闘争に参加したが、
そこで職制を殴って労戦オルグ
介入に失敗して大学の戦線に
また戻った経歴を持っていた。
なお、バスケ部の女子はとん
でもなく強くなり、関東大会
準優勝をしていた。
女子バスケ部の不思議。
全員めちゃくちゃ可愛かった。
いや、これほんとに。私の代
だけでなく先輩も後輩も。
広瀬アリス&すず=バスケ部
の図は歴史的な現象なのか。
私はバスケのレギュラー時は
当時の言い方で零度、ゴール
下のパワーフォワードだった。
身長の伸びは中一終わりの時に
止まった。当時は中一で174
近くは背が高いほうだった。
私よりもう少し高いKという
一番仲が良かった親友は左の
零度、今でいうセンターだった。
あいつは177位あったのでは
なかろうか。某私大附属に行
き、大学でもゴルフ専門にな
ったようだ。高校時代もよく
学校帰りに待ち合わせて喫茶
店で会っていた。
奴は背が高かったね~。今の
時代は170超えというのは平均
なのだろうが。
だが、私たちの時代には草は
食ってなかった。
最近は若者の男は道草という
草を食う男だらけだと聞く。