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概要 
「博多祇園山笠」は、700年以上続く櫛田神社の奉納神事で、福岡県にて毎年7月1日から15日まで開催される。その起源は、仁治二(1241)年に博多に疫病が流行した際に、承天寺の開祖・聖一国師が祈祷水を撒いて町を清め、疫病退散を祈願したことが始まりとされている(※諸説あり、後述する)。
当時の山笠は、高さ15メートル前後のものを担いて、街中をゆっくりと練り歩いていたが、明治末に電線が張り巡らされたことから、それまでの山笠を「飾り山笠」として残して、別に高さを抑えた山笠「舁き山笠」を作って担ぐようになったとされる。
歴史 
先述したように博多祇園山笠の起源には諸説がある。櫛田神社の社伝によると、祭神の一つ祇園大神(素盞嗚命)を勧請したのが天慶四(941)年。すでに都(京都)では現在の祇園祭につながる御霊会が行われており、勧請間もなく始まったという説。また、文献的初見である「九州軍記」に基づいて永享四(1432)年起源説もある。
諸説がある中で、博多祇園山笠振興会は一般に広く知られている聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説を取っている。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したというのだ。この1241年を起源として、2016年の本年は丁度775回目の記念すべき開催となる。
時代は鎌倉、室町から戦国時代。博多の町は大陸貿易の基地として栄え、それが故に戦国大名、豪族の争奪の場となって焼け野が原と化した。その復興を命じたのが豊臣秀吉で、「太閤町割り」「博多町割り」と呼ばれる。その間、博多山笠も隆盛、衰退を繰り返したに違いない。 山笠は、古くは高さ15メートル前後のものをゆっくりと舁いていたが、「櫛田社鑑」によると、貞享四(1687)年正月、竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町 (土居流)の花嫁が、花婿ともども里帰りしたところ、土居町の若者が余興として花婿に桶をかぶせるなどしたため、竪町の若者が怒って押しかけて一触即発に。この場は何とか収まったが、夏のお祭りの際、恨みが残っていた恵比須流が昼飯を食べていた土居流を追い越そうと走り出し、土居流も負けてはならじと走り、これが評判を呼び、「追い山」に発展したという。
明治維新後も何度かの危機を乗り越えて現在の博多祇園山笠がある。
見どころ 
- 7月1日 飾り山笠公開
福岡市内各所に大きな「飾り山笠」がお目見えする。
- 7月12日 追い山馴らし(開催時間 午後3:59~)
15日の追い山に向けた予行練習として約4キロのコースを走り、本番さながらのタイムレースが繰り広げられる。
- 7月13日 集団山見せ(開催時間 午後3: 30~)
呉服町交差点から中央区天神の市役所前まで1.2キロの道のりを走る。市長をはじめ地元の名士が台上にあがる。
- 7月15日 追い山笠(開催時間 午前4:59~)
午前4時59分、大太鼓の合図とともに一番山笠が櫛田神社の境内に舁き入る(担いで入る)。以降、二番山から七番山まで一定の間隔を置いてその後に続き、櫛田神社の境内から街中へと駆けだしていく。
様々な山笠 
飾り山笠 
左と中央の写真は2012年のもので、高さは10~15メートルに及ぶ。右の写真は2011年の博多駅見送りで、モチーフは「ワンピース」である。 |
「飾り山笠」は市内14カ所に設置され、多くの見物客が訪れる。表と裏で飾り付けのテーマが異なり、裏の「見送り」と呼ばれる飾りつけはアニメのキャラクターが用いられることもある。祭り期間が終わると取り壊されてしまうが、櫛田神社の境内と川端商店街内の川端ぜんざい広場には「飾り山笠」が常設されており、祭り期間以外でも見ることができる。また「舁き山笠」についても福岡空港で展示されており、いつでも見ることができる。
舁き棒が取り付けられているが、観賞用のため舁かれることはない=動かない山笠である(※ただし八番山笠 上川端通の”走る山笠”は除く)。しかし山笠を知らない人からは「これが動くのか」と勘違いされることが多い。外に飾られる場合は、風雨から守るため飾り山を取り囲むように山小屋が作られるが、屋内に展示される飾り山は山小屋が作られない。そのため山小屋に入る飾り山は側面は飾られないのだが、屋内の飾り山は四方共に飾り付けられた「四面飾り」の飾り山となる。
飾り山の飾りには伝統的な決まりがあり、(1)飾りは下から頂上まで「道」「橋」「水」などで繋ないといけない(2)山の番号が奇数の山はは勇壮な飾り付けの「差し山」、偶数は優美な飾り付けの「堂山」にする・・・という決まりに則って飾り付けがされている。
昔は「飾り山」は作られておらず、舁き山が飾り山と同じサイズの山だったのだが、明治の近代化により電線や路面電車の架線が町中に張り巡らされるようになると、背の高い舁き山が架線を切ってしまう事が大問題になり、それを受けて明治31年(1898年)当時の福岡県知事が博多祇園山笠の開催中止を提議されてしまう。それをきっかけに、舁くための背の低い『舁き山』と、据えて見物するための背の高い『飾り山』の2つの山笠に分離させる事になり、飾り山が登場する事となった。
舁き山笠 
左の写真は神輿であるが、高さ約3メートル・重さ約1トンのサイズを誇る。右の写真は2008年東流の舁き山「胡蝶天空舞」。 |
飾り山笠は鑑賞して楽しむ静の山笠であるのに対して、「舁き山笠」はまさに動の山笠。「大黒流」「東流」「中洲流」「西流」「千代流」「恵比須流」「土居流」の7つの流(ながれ)が存在し、それぞれ特徴的な舁き山笠を担ぐ。舁き山笠の上に飾られる人形は毎年標題が変わり、それを見るのも楽しみのひとつ。これまでに、戦国武将や三国志の英雄、七福神などの美しくも勇ましい人形が登場している。
他の祭の神輿と異なり曳く物ではないため、台足には車輪が付いていない。そのため必ず舁いて運ぶ事になる。台座の山笠台は釘を一本も使わず組み立てられ、山笠台に乗せる飾り人形も今もなお昔ながらの作成方法で作られている。元々は飾り山と同じサイズの山(高さ15メートル)を舁いていたのだが、明治の近代化により電線および路面電車の架線(高さ5メートル)が町中に張り巡らされるようになると、舁き山が電線を切ってしまう事が問題に。 明治31年(1898年)に当時の福岡県知事が博多祇園山笠の中止を提議したのをきっかけに、舁くための背の低い『舁き山』と、据えて見物する背の高い『飾り山』の2つの山笠に分離させる事になった。その舁き山・飾り山の分離前の舁き山を再現しているのが、八番山・上川端通の「走る飾り山」である。
「流」について 
十数か町(旧町)を束ねた組織の呼称。今では博多祇園山笠や博多松囃子といったお祭りで耳にするだけであるが、江戸時代を通して日常生活に密着した自治組織だった。現在の校区自治連合会に相当するといえるのではないか。
大陸貿易で栄えた博多は戦国時代、せめぎ合う大名、豪族の争奪の場となり、兵火に遭って焼け野原と化した。天正十五(一五八七)年、その復興を命じたのが太閤秀吉で、「太閤町割り」あるいは「博多町割り」と呼ばれる。当時も奇数の七は縁起がいいとされ、流も七つと決められた。(「七流」のほか「七小路」「七堂」「七番」といった言い方もある)現在も「七流」であるが、往時の二つ流が取りやめ、代わって戦後に生まれた二つが加わって多少異なる。
「流」という呼称の起源について福岡藩祖・黒田官兵衛(如水)が若い時代に家老として仕えた播磨・御着(小寺氏、姫路市)地方ではため池を流と呼ぶそうで、官兵衛が名づけたのではないか、との説もある。一方で、小川や旗の数える単位として「流(ながれ)」という言い方があり、道路を中心に長く延びた町の集合体を小川などに見立ててそう呼んだのではないか、との考えも捨てがたい。
追い山笠 
左上は2019年、左下は2016年、右は2018年の写真(流は異なる)。いずれも早朝に「追い山」で力強く清道を駆け抜けていく。 |
博多祇園山笠の最大の見所はなんといっても「追い山笠」である。祭りのフィナーレで、7つの流の舁き山笠と唯一の走る飾り山笠である上川端通の山笠が集結し、市内を勢いよく駆け回る。実際に「追い山笠」のメインイベントである「櫛田入り」は大勢の人で賑わう。「櫛田入り」とは、櫛田神社の境内(清道)に山笠を舁き入れて、境内にある旗(清道旗)を回ってから境内を出るまでのこと。距離としては約112メートルで、所要時間の計測があり、各流とも精鋭で臨む。境内(清道)で見学するための桟敷券(さじきけん)は6月下旬に発売されるが、発売開始後わずか15分ほどで完売してしまう人気ぶりである。
追い山笠を十二分に楽しむためには、櫛田入りしたあとの山笠が市内を巡るコースを事前にチェックし、見学するポジションをしっかり確保すること。見学の際には、道路沿いにいると舁き手と接触したり、勢い水(山笠が走るときに沿道から浴びせかけられる水)を浴びたりすることもあるので充分に注意して挑む必要がある。舁き山笠のスピード感や男たちの勇ましいかけ声は博多祇園山笠の最大の魅力であり、特に終点である須崎町の「廻り止め」は、山笠がスピードを増し、男たちのかけ声にもより一層熱が入るため、山笠らしさを味わえる絶好の見学ポイントである。
12日の追山ならし、15日の追山に櫛田神社に特設された清道で行われることが多い。追い山の山留め(スタート地点)から大太鼓の合図でスタートし櫛田神社の境内にある清堂旗を廻り玉垣を出るまでを言う。境内を出るときのタイムが玉垣の上の櫓で計測され記録され、櫛田入り後は追い山のコースへと飛び出していく。最初にスタートする一番山は午前4時59分に大太鼓の合図でスタート。清道を回ったところで一旦山を停止、能舞台に山笠を向け「祝いめでた」(博多祝い歌)を舁き手、観客と一体となって全員で大合唱する。これは一番山笠にのみ許された特権で、唄うのは1番のみ。祝い目出度を唄うタイム(約30秒)は除外される。山の出発が4時59分となっているのは、祝いめでたの斉唱時間1分のロスタイムを考慮しているからである。
子供山笠 
左の写真は福岡市立博多小学校の児童ら約300人による子供山笠(2017年)。右の写真のように子供山笠に限り少女も参加できるが、現在は小学校低学年までのみである。 |
舁き山笠行事のない祭りの前半を飾り山笠と一緒に盛り上げる。子供山笠は現在、博多小、千代小、新天町にあって地域の児童らが参加。かわいい山笠舁き姿に拍手が起こる。子供用といっても大人の三分の二の大きさで、結構、重い。また、地元放送局が一般を対象に「子供山笠教室」を開催。締め込み、法被などを貸与して実際に山笠を舁かせて祭りを体感してもらう企画もある。
1950年(昭和25年)より唐人町に飾り山笠を建て、さらに子供山笠4本を各町内会にて運営した歴史がある。寿通の子供山笠は子供たちに地域の伝統を理解させるために開始された。寿通子供山笠は現在の博多小学校子供山笠となっており、走る飾り山笠で有名な上川端通子供山笠を運営したことがある。現在、子供用の舁き山は3台有り、アニメや子供番組のキャラを題材にする場合が多い。何れも7月1~8日の間の金曜日から日曜日にかけて主に流れ舁きを行う。台上がりは8~10名で出来るだけ多くの参加者が台上がり出来るように停止中に台上がりが交代する場合が多い。
千代小、博多小、RKB子供山笠教室や中央区天神の新天町で行なわれる子供山笠は少女も参加できる。これらに参加する少年少女は大人と同様、水法被を羽織った締め込み姿になる。締め込みは大人用とは違い幅18センチ長さ3.5メートルの柔らかい白い布を締めこむ場合が多い。幼児は取り廻し(力士の廻しに付ける下がりに似た物)や伊達下がりを付ける場合がある。子供山笠の様子は新聞やテレビなどで紹介されている。
追善山笠 
日時は流によって異なるが、過去一年間に亡くなった流の功労者を追善供養する行事。例年、各流ごとに物故者の中から対象者を決めて行う。遺族が自宅前などに簡素な祭壇を設け、故人の写真や愛用した法被を安置する。そこへ舁き手が「オッショイ!」「オッショイ!」と山笠を舁き入れ、揺すりながら手拍子をとって「博多祝い唄」を歌う。「故人も山笠が好きやったけん、よろこんどるくさ」。香も焚くが、さらりとやってのけるのが博多流(りゅう)だ。
祭りの用語 
清道旗 
追い山笠のコースには三つの清道旗が立てられている。いずれも各流の舁き山笠が回るので、見物のポイントでもある。最初の旗は櫛田神社の清道にあり、“櫛田入り”のタイム(所要時間)はこの旗を巧く回るかどうかに左右される。もともと、何もなかったが、各流の回る位置 が微妙に異なり、紛議にもなるため、嘉永元(1848)年、旧下東町の提案し、採用された。今も旧下東町が管理、祭りが始まると立てる。二つ目が東長寺、三つ目が承天寺の前。東長寺は明治初めの神仏の分離まで櫛田神社を統治しており、承天寺は博多祇園山笠の発祥と深い関係にある。江戸時代 を通して現在と同じように門前まで舁き入れていたが、明治26(1893)年、ここも正式清道とし、土俵で支える「清道旗」を立てて各流が回ることを義務 づけた。
法被 
江戸時代の屏風絵などを見ると、博多山笠の舁き手は褌(ふんどし)一本で、上半身は裸。足元はわらじか、裸足とごくシンプルだった。しかし、明治 31年の紛議(県知事による中止の提議と妥協)で“半裸は野蛮”との批判を受けて以降、各町それぞれが独自の法被をつくり、身に着けるようになった。現在 もこの延長線上にあり、昭和41年実施の町界町名整理後もほぼ旧町名単位で参加する土居流、大黒流、恵比須流はそれぞれに異なる法被を着用。同整理後、新 町名ごとの参加に変えた西流は新町名の法被を採用、東流、中洲流、千代流は流の統一を図るため、流全員が同じ法被を着ている。どの形式にしろ、舁き手が自 分の法被に自負と愛着を持っていることは確かだ。法被の種類としては40数種で、戦前に比べるとやや少ない。
地下足袋 
土の上にそのまま、じか (直)に履く足袋(たび)という意味から“じか足袋”。「地下」は当て字とか。古くは「張り付け式ゴム底足袋」。発明は大正初期。今や世界的タイヤメー カーとなったブリヂストンの創業者の石橋正二郎氏(1889~1976年)だ。久留米で家業の足袋製造業に従事するとともに「地下足袋」を考案、炭鉱、旧 陸軍はじめ各分野で爆発的に普及したという。山笠の舁き手はもともとわらじか裸足。現在の地下足袋になったのは大正中期以降と想像される。わらじのように切れることがなく、足元がしっかりしたのでは ないだろうか。数年前から、スニーカーの履き心地に近い、底に発泡材を入れた「エアー入り」の人気が高まっている。時、場所などに応じて使い分けている舁き手もいるようだ。
直会(なおらい) 
「直会」の意味は「神事が終って後、神酒・神饌をおろしていただく酒宴」(「広辞苑」)。 舁き山笠行事が済んだ後、各町に戻った舁き手は直会に臨む。戦前までは日本酒に昆布、スルメ、青梅など簡素であったが、今はビール、焼酎にから揚げ、刺 身、煮物などと“メニュー”は豊富。これらを用意するのがごりょんさん(奥さん)たちで、祭りには出ることはできないものの、参加している意識はグンと高 まる。事前に相談して担当の日時や料理の内容を決める。直会も“教育”の場だ。長老やベテランが先に手をつけ、若手はビールや日本酒などを注いで回らなくてはならない。これが済んで、初めて若手の順番となる。危険を伴う祭りだから“秩序”が求められるといえよう。小学生の世話を任せられた中学生もしばらくお預け。
博多手一本 
博多では会合であろうと、宴会であろうと、締めの作法は決まっている。会合は他地域なら拍手で終わるところが、「博多手一本」となる。年長者や会のリー ダーが指名され、参加者の前に立つ。全員が立ち上がり、体の前で手を打つ態勢になると、「手ば入れまっしょ」と声を掛ける。「手一本」を活字で表すのは難 しいが、しいて書けば「よーお」(シャン、シャン)、「もう一つしょ」(シャン、シャン)、「よーと三度」(シャン、シャン、シャン)。シャンは手を叩く 音の表現と思っていただきたい。会合で結論が出ていれば「後日、異議はありません」の約束でもある。宴席の場合は、この前に「博多祝い唄」の唱和となる。指名された三人がリードして一番、二番、三番と順番に歌う。これで宴会はお開き。「手一本入れたら杯はもたぬ」という格言もある。だらだら飲まないのが博多のしきたりだ。
差し山と堂山 
一番、三番といった奇数の山笠を「差し山」と言い、二番、四番といった偶数山笠を「堂山」と呼ぶ。今は舁き山笠と飾り山笠の高さが抑えられていることもあって、その違いが分かりにくい。しかし、「差し山」は勇壮な人形を飾り、「堂山」は優美なものを飾るのが原則。そうして陰陽の調和をとった。よく見ると、「差し山」の頂上には「大神宮」「櫛田宮」「祇園宮」(櫛田神社の三神)の神額が掲げられ、「堂山」は頂上にお堂の作り物を配置してあるから区別はつくのでは?「櫛田社鑑」には「宝永5(1708)年春3月公命ありて一番、三番、五番を合戦山とし、二番、四番、六番を源氏模様などをつくらしめ給う」とある。これ以降、「差し山」「堂山」の形態が確立したようだ。
標題 
舁き山笠、飾り山笠を問わず、山笠には何を飾っているかを表現する、つまり、テーマを書いた標題が付いている。「牛若丸飛燕之誉」「弁慶五条橋之勲」といった具合に。流全部の標題を書いたものを番付といい、文献上、最も古いのは寛文9(1669)年とされる。現在は三、五、七と奇数で表す約束になっているが、当時は明確ではなく、「衣笠合戦」「義経鈴の御崎にて貝取」などと偶数のものもある。また、今は流と人形師が「牛若丸でいこう」「弁慶も勇ましい」と協議して決め、標題は古文に詳しいお寺の住職などに考えてもらうケースが多い。江戸時代には専門の絵師が下絵を二つ描き、藩と年行司に届けなければならなかったとい う。なお、山笠は表を櫛田神社の方向に、それがどうしても無理なら東に向けて建てるのも習わしである。
鎮めの能 
追い山笠(7月15日払暁)が済んだ午前6時から櫛田神社の能舞台で行われる。ついさっきまで騒然としていた境内にのびやかな笛、鼓の音が漂い、能楽師が 謡曲に合わせて静かに舞う。荒ぶる神を鎮める重要な儀式で、明治30年代までは、七流のうち一流が山笠行事を休んで奉仕した。現在は神社総代会が担当。能愛好者が増えているのか、鑑賞する人も多くなった。
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