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藤花
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望むらくは、うつつを共に(下)

望むらくは、うつつを共に(下) - 藤花の小説 - pixiv
望むらくは、うつつを共に(下) - 藤花の小説 - pixiv
39,150文字
花魁・蛍ちゃんと呉服問屋の若旦那・魈様の話
望むらくは、うつつを共に(下)
魈蛍ちゃんの遊郭パロ三話の後編になります!
(pixiv上では第四話の扱いですね)

めーーーっちゃくちゃ疲れました……。
教養のない頭で教養の必要そうなネタを書こうとして、見事に自分で自分の首を絞めまくりました。
でも自分的には最後書きたかった場面がしっかり書けたので、頑張って良かったなぁと一人満足しています。
見どころは、若旦那魈様の鉄壁の理性VS積極的な蛍ちゃんです。
楽しんでもらえましたら幸いです!!

いっぱい頑張ったので、気の向いた方がマシュマロを投げてくださったりすると大変嬉しいです。
プロフィールにマシュマロのリンクがあるのと、Twitterにも固定してるので、良かったら!!!(強欲)
これまでの作品にマシュマロやコメント、ブクマなど反応くださった皆様も、本当にありがとうございます。
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2021年9月12日 11:26

「望むらくは、うつつを共に生きることを」

 自分の命が貴重などとは、考えたこともなかった。  初めて、生きねばと思った。

 ■ ■ ■

 君がため、惜しからざりし命さえ。  三千世界の鴉を殺さず、主と昼寝をしてみれば。  請いて乞いては果てもなし。  恋と欲とは紙一重にて、さもありなん。

 ■ ■ ■

 花街に夜の帳が下りて、数刻。夜四ツの頃だ。  通りには、遊女を品定めする男たちの影。見世の格子には、艶やかに並んで手招きを繰り返す、傾城の美女たち。

 群玉楼の小さな座敷では、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。  そこは蛍と魈の二人だけで過ごす、静かな空間だ。外界の喧騒など知らぬかのように、互いの息遣いと衣擦れの音しかしない。その沈黙に、居心地の悪さは微塵もない。  ただし、今日の沈黙は常と少しばかり様子が違っていた。

「この甘味は口に合わなかったか?」

 魈の言葉で、蛍はハッと顔を上げた。  いつの間にか、視線を下げて甘味を持ったまま手を止めてしまっていた。意味もなく、畳の目をぼんやりと眺めていたことに気付く。  明日は大切な突き出し道中を控えているというのに、数々の異変がじわりじわりと蛍の心を蝕んでいた。そのためか、今もせっかく魈が来て一緒に過ごしているというのに、無意識に気を散らしてしまう有様だ。

「そ、そんなことないよ!」

 蛍は慌てて笑顔を作って、返答した。  物言いたげに魈に手を握られたあの日以来、蛍は少しずつ嘘の微笑みを浮かべるのが上手くなっていると自負している。この笑顔も、我ながらかなり自然だと思っている。  実際、魈はあれから蛍に問いかけるような視線を送ってくることもないし、何かあったのではないかと追及してくることもない。冷静な璃月屋の若旦那の顔をして、蛍だけに見せる柔らかい表情を、時折その白面に浮かべるだけだ。

 大丈夫、これで良い。  魈の顔を見るたびに、自分に言い聞かせるように蛍は心中でそれを繰り返した。  なぜそんなことをするのかと言えば、理由は単純で。水揚げでもらった着物のことや嫌がらせの数々について魈に真実を話せずにいることについて、蛍の中で罪悪感が日に日に膨れ上がっていくからだ。  魈が何ひとつ気付いていない様子であれば、これほど気を揉むこともなかっただろう。蛍の手を取って何かを言いかけた魈の姿が、何度も脳裏に過る。  薄々ながらも、やはり魈は何かに勘付いていると思わざるを得ない。

 では魈に洗いざらい話してしまえば良いではないかと言われると、そういう訳にもいかない。  相反する思考の中で感情を天秤のようにゆらゆらと揺らして、言う、言わない、と悩む時間がないとは言わないが、行き着く答えはいつも同じなのだ。  何度思考を巡らせても、群玉楼の面々に迷惑や心配をかけたくないという気持ちと、魈を悲しませたくないという気持ちが何よりも優る。

 ゆえに何ともずるいことに蛍は、口を開かない魈に甘えて、このまま何も言わなくても良いではないかと自分を正当化し続けた。そこにある後ろめたさを誤魔化すように、これで良い、と自分に言い聞かせる。  すべてを自身の心の奥底に仕舞い込んで、ともすれば溢れ出しそうな感情に無理矢理蓋をして。蛍はそれをぎゅっと力任せに押さえつけた。出てくるな、と必死に言い聞かせて、念入りに縄で蓋を縛り付けるような感覚で。

 そもそも両親が死んで以来、唯一の肉親である兄が相手であっても、蛍は手放しに頼ることができなくなっていた。兄とは言え双子なのだから、一方的に寄りかかるのではなく、共に支え合っていくべきだと、蛍なりに考えたのだ。  そのせいか、昨今の蛍はすっかり甘え下手になっていた。強がるのが癖になっている、とも言えるかもしれない。  群玉楼に来てから蛍の面倒をよく見てくれている刻晴だって、親しくはなれども弱みを見せる相手にはなり得ない。  当然ながら、魈に自身の脆さを開示して助けを請うような真似など、蛍にできるはずもなかった。

「あんまりおいしいから、驚いちゃっただけ」 「……」

 不自然なほどに鮮やかな笑顔を見せる蛍。魈は平素と変わらない乏しい表情で、それを黙って見つめ返した。  毎日顔を合わせているからこそわかる程度の、微細な差だ。楼主や遣手くらいの距離感であればまず気付けないような、ほんの僅かな違和感。  魈はすでに、蛍の様子がおかしいことを確信している。先日、蛍の手を取ってじっと見つめていたのも、何があったのか話してくれないかと期待してのことだった。

 蛍は強い人間だ。それは、魈が十年前に蛍と初めて出会ったときも、この廓で邂逅したときも、水揚げのときも変わらない。  しかし人である以上、蛍にも少なからず弱さはあるはずで。再会した夜に懸命に隠していた涙や、水揚げの日の朝に襖を隔てて声もなく震えていたことを、魈は知っている。  だからこそ、何か力になってやりたいと思うのに。蛍の意思を何よりも尊重してやりたいという思いもあって、最終的に魈は何も言うことができずにいた。

 それに、今回の蛍の様子はどこか今までと異なっていた。何かに怯えているような印象を受けるのだ。  自ら辛い運命に立ち向かうことも厭わない蛍が、怯えるという挙動を見せたことなどこれまで一度としてなかった。そもそも怯えるというのは、本来外的要因によって引き起こされるものだ。  そうした断片的な情報から推測するに、蛍は何かに神経をすり減らしているものと思われた。だがそれが何かはわからず、もどかしい。

 口下手で不器用な魈が適切な言葉を思い付けずにもたもたとしている間にも、無情にも時間は過ぎていく。  せめて今日はこれだけでも、と思いながら袂に忍ばせたものに手を触れさせてみたものの、存外緊張しているのか、いつ渡したものかと躊躇してしまう。

「本当に、すごくおいしいよ」

 魈の内心などまったく想像していないのであろう、蛍は甘味を口に運んでにこにこと褒めた。  今日の甘味は、近頃人気の歌舞伎役者の好物として急激に人気になたっという酒饅頭だった。  酒饅頭は米麹と餅米を使い、甘酒を自然発酵させて作られた饅頭で、その甘さが人気の理由だ。  古くから『酒を呑めば笑い栄える』という言葉があるように、その酒を利用して作る酒饅頭はおめでたい縁起物である。商人たちの間では特にその認識が強く、祝い事によく使われる。

 一商人である魈もその考えで、いよいよ明日突き出し道中を迎える蛍の祝いにと、酒饅頭を持ってきたのだ。  突き出し道中を終えれば、蛍は正式に遊女の扱いを受けることになる。もちろん、魈の心の一番奥底には、複雑な気持ちもある。そうなる前に、身請けしたかったというのが本音だ。  けれども今日まで数々の努力を重ねてきた蛍の姿も知っているので、そこは素直に祝おうという心持ちで、今宵を迎えているのである。  簡単に言えば、魈も大人の対応をしているのだ。ここで声を荒げて身請けをさせろと凝光に詰め寄ったところで、得られるものが何もないことは想像に難くない。

 蛍はぼんやりしていたのを誤魔化すように、再び勢いよく饅頭にかぶりついた。年頃の少女にしてはいくらかはしたないくらいの様子で、もぐもぐと頬張っている。  生家が甘味処だったためか、蛍は甘味が好きなようだ。何を手土産に持って来ても、幸せそうな顔をして食べる。

 ようやく笑顔を見せて饅頭を食べ進める蛍に安堵しつつも、やはりその表情に魈は違和感を覚えたのだが、蛍が相変わらず何も言わないので特にそれには触れなかった。  話してくれるときが来たら聞いてやろう、と自己完結した形だ。  魈はしばらく、微笑ましそうに饅頭を食べる蛍の様子を観察していた。胡座をかいて頬杖をつきながら、ほんの少し口端を上げている。

「どうかした?」

 魈があまりにも微動だにせず見つめてくるので、さすがに視線が気になって、蛍は手を止めて聞き返した。

「慌てずとも、誰も取らない」

 そう言ってくすりと笑うと、魈は蛍の口元に手を伸ばした。  そして、口の端に付いていた饅頭の欠片を拾い上げると、自分の口に放り込んだ。

「ふむ、酒の風味がなかなか」 「……へ?」

 饅頭の感想を述べる魈に対し、蛍はお得意の間抜けな声を上げてしまった。  そしてすぐに顔を熟れた果実のように真っ赤にして、口をぱくぱくさせる。

「……な、何するの!?」 「何か問題でもあるのか?」

 蛍はやっとの思いでなんとかひと言絞り出したものの、その意図は魈に伝わっていない。そちらもお得意のすっとぼけた回答を返してくるだけだ。  目玉が飛び出そうなほどの大量の金子を群玉楼に持参したあの日も、そんなことを言って魈は蛍の問いかけをはぐらかした。が、本当に問題だと思っていなかったのかもしれない。鈍感、と言うべきか。

 蛍からすれば、今回の件も問題大有りだった。  先ほどまで自分の唇に付いていた饅頭の欠片が、魈の口に入ってしまったのだから。間接的ではあれど、そういうことになるわけで。

「だって、さっきの欠片は私の口に……」

 今にも頭から湯気でも吹き出しそうな面持ちで、蛍は消え入りそうな声でそれだけ言った。それ以上は、恥ずかしすぎて言えなかった。  もしも傍観者がいれば、こんなにも初心な様子で、本当に彼女は明日一人前の遊女になるのかと問いたくなることだろう。

 魈は蛍の言葉でやっと自身の行いを理解したのか、驚いたように瞬きをした。  そして、蛍に釣られるように、同様に頰を赤くしてそっぽを向いた。

「……その程度のことで、いちいち狼狽えるな」

 自分のことは高く高く棚上げして、魈はそんなことを宣う。  だがその表情には、欠片も説得力がない。  本当にここは遊郭なのかと不思議になってくるほど、二人のやり取りは初々しい。

 魈はその空気に耐えられなくなったのか、自分も饅頭をひとつ手に取った。それをひと口、ぱくりと口にして咀嚼する。  蛍とは違って食べかすひとつこぼさず、育ちの良さそうな食べ方である。  やっぱり魈は璃月屋の若旦那なんだなぁ、などとのんびり考えながら、蛍は自分の情緒を落ち着かせようとした。  何をしていても絵になるとはまさにこのこと、という惚気も良いところな考えまで浮かんでくるあたり、蛍の頭はかなりおめでたいことになっているが。

 そうして蛍に観察されながら、魈は続けて二口目を食べた。  と思いきや、魈は食べかけの饅頭を蛍に向けて、そのまま蛍の口に宛てがった。  未だに若干面映ゆそうな顔のまま饅頭を食べる手を止めていた蛍は、突然のことにむぐっと変な声を上げながらも、反射的に今度は小さく饅頭を頬張った。

「これでお相子だろう」

 そう言って、蛍がしっかり饅頭を食べているのを確認すると、魈は饅頭を自分の口元に戻して、またぱくりと噛み付いた。  別に直接口同士が触れたわけでもないのに、蛍はもう限界とでも言いたげな顔をして、少々涙目になりながら魈を睨み付けた。

 その顔ではまったく恐ろしくも何ともないし、むしろ愛らしいくらいなのだが、蛍は至って真面目である。  何も言葉が出てこないのか、口を固く引き結んで、饅頭を持った魈の手の甲をぺしんと軽く叩いた。残念ながらまったく効果はなく、魈は楽しそうに笑っているだけだ。  照れ臭いものの、陰鬱な気持ちはいくらか消えたようで、蛍の顔には本来の笑顔が戻っていた。

 二人とも饅頭を食べ終わったあたりで、魈がおもむろに切り出した。

「……その、今日はお前に渡すものがある」

 魈はごそごそと袂を漁ると、文と思しきものを取り出し、蛍に手渡した。  これをいつ渡そうかと、魈は機を見計らっていたのだ。

「これは……?」 「お前の門出に、言葉を贈りたいと思った。我は仕事以外で文を書いたことなどないから、拙い内容だろうが……」

 珍しく自信なさげな様子で、魈は言い訳をするように説明している。  そんなに予防線を張らずとも、蛍は魈からもらったものであれば何だって嬉しいというのに。  たぶんそれを言ったらまた手拭いで顔を隠してしまう気がするので、学習して蛍は何も言わなかった。せっかく共に過ごす時間なのに、顔を見られなくなるのは勿体ない気がした。

「明日の突き出し道中が終わったら、読んでくれ」

 間違ってもそれより前には開くなと念を押して、魈は重々蛍に言い含めた。  蛍はそれに素直に頷くと、嬉しそうに顔を綻ばせて、もらった文を大事そうに懐に仕舞い込んだ。  先日は差出人不明の脅迫状が届いて気が沈んでいたが、まさか本当に魈から文をもらえるとは思わなかった。何が書いてあるのかはわからないが、きっと蛍の心が明るくなるようなことが書いてあるに違いない。

 一方、蛍は魈に宛てた歌を、まだ何も詠めていなかった。  少し前にも刻晴に歌の調子はどうかと聞かれたが、何ひとつ書けていないので項垂れる他なかった。  そんな蛍を見て刻晴は、口元に手を添えてくすくすと笑いながら、難しく考えなくても良いのにと言っていた。  別に難しく考えているつもりはないのだが、生まれてこの方恋文さえ書いたこともなければ、毎日顔を合わせている相手にいざ改まって何を伝えるかと考えると、なかなか言葉が浮かばないのだ。

 結局魈に先を越されてしまったかと思うと、やはり落胆する気持ちもある。  けれども魈とのこの時間は、まだ続くはずで、焦ることはない。魈の手紙を読んでから、ゆっくりと考えよう。  そう結論付けて、この日も蛍は変わらぬ夜を魈と過ごした。甘味を頬張って、碁盤を引っ張り出して、小さく笑い声を上げながら遊びや雑談に興じる。そんな穏やかな夜だった。

 ■ ■ ■

 翌日。蛍の突き出し道中が行われる日が、ついに来た。  花街の中央を貫く大通り、仲ノ町を中心に、着飾った蛍が花街を練り歩くのだ。  今日から蛍は正真正銘の遊女となり、夜光太夫と呼ばれることになる。

 道中のための準備は、座敷に出る支度とは比べものにならないほどに忙しない。  真新しい翠色の振袖を着付けて、黒地の帯を胸の前で華やかに結ぶ。髪結いを呼んで頭髪を整えると、豪華絢爛な髪飾りをこれでもかと言うほど髪に挿して、黄金色の髪を彩る。顔には白粉をはたいて、目の覚めるような深い朱色の紅を唇に点す。  昼七ツの頃に準備を始めたはずなのに、身支度が終わる頃にはとっぷりと日も暮れて、花街の華やぎが最高潮になる時間だった。

「夜光。いえ、夜光太夫。今日からようやく、(ぬし)は前に進みんす。わっちは以後も変わらず、主の行く末の多幸を祈っていんすから」

 蛍と共に道中の準備をしていた刻晴、もとい紫金太夫は、すっかり仕上がった蛍にそう声を掛けた。  今日まで三月(みつき)近く、親身に蛍の指導にあたってくれた姉女郎は、今日の晴れ舞台を共に歩いてくれるのだ。

「姐さん、ありがとうござりんす。これからも、どうか力添えをお願いいたしんす」 「水くさいことを。妹分の面倒は、最後まで責任を持つのが当然でござりんしょう」

 今は人目があるので、二人は形式張った話し方で言葉を交わした。  紫金太夫は飄々とした、感情の一切読めない表情をしている。それなのに指一本の動きすらも流麗で、見る者を魅了する。花街一の花魁らしい、まさに高嶺の花と呼ぶにふさわしい振る舞いを見せていた。

 しかし蛍には、紫金太夫の内心が手に取るようにわかる。面倒臭くて堪らない、と思っているはずだ。そういうことがわかる程度には、紫金太夫と蛍の仲は深まっていた。  紫金太夫の考えを察した蛍が笑いを堪えるように唇を震わせたのを見て、紫金太夫もまた、僅かに目を弧にする。二人だけの秘密のやり取りがどうにもおかしくて、また互いに必死に笑いを噛み殺すというようなことを繰り返した。  そんな他愛ない時間を噛みしめる度に、やはり異変のことを吹聴しなくて良かったと、蛍は思うのだ。

 そうして、いよいよ突き出し道中の時間が訪れた。  時刻は宵五ツ、花街の客足が最も盛んな頃合いだ。  花街一の大店と名高い群玉楼の突き出し道中とあって、多くの見物人が仲ノ町を中心に花街の通り沿いに詰め掛けていた。道中の開始を今や遅しと待ち受ける人々の騒めきが、月のない真っ暗な夜空に上っていく。

 大門をくぐって花街の中に入ること自体は、男であれば誰でも可能だ。金のない貧乏侍やしがない町人などは、見世の格子に並んだ遊女を冷やかしに来るだけということも多い。  そんな彼らにとって、極上の遊女を間近で見物できる道中というのは、またとない機会と言える。  普段であれば顔を見ることすら叶わないような上玉の女を見られるとあれば、有象無象が押しかけてくるものまた然り。今夜の花街には、様々な身分の者たちがやんややんやと集っている。

 特に今日は、これまた天下一の呉服問屋と名高い璃月屋が後ろ盾となっている遊女の新造出しである。人々がより一層期待に胸を膨らませるのも、見物客が常より多くなるのも頷ける。  ゆえに各妓楼から駆り出された下男たちが、見物人たちを整備し、道中を妨げないよう注意して回っている。すでに酒の入った客も多いため、一筋縄ではいかない悶着も見受けられた。  あまりに態度の悪い者がいれば、下男たちは客であっても容赦なく摘まみ出す。花街は客に媚を売るだけの場所ではない。そして、とりわけ金子を持たない人間に対して厳しい場所なのだ。

「群玉楼、夜光太夫のおねーりー!」

 開始地点となる群玉楼から、男衆による掛け声が上がった。道中開始の合図である。  一呼吸置いて、群玉楼の重厚な正面玄関ががらりと開く。  提灯と錫杖を持った男衆が、堂々たる風情で表へと歩みを進めた。白地に藍色の七宝文様の入ったの着流しをまとい、頭にはほっかむりをしている。錫杖をしゃらんしゃらんと鳴らしながら、ゆったりとした足取りで仲ノ町に向かって歩いていく。

 続いて、年の頃は十代前半であろうかと思われる年若い禿が二人。袖に鈴を付けた赤い振袖を揺らしながら、通りに姿を見せた。  片方は黒々とした漆塗りの箱を持ち、もう一方は華やかな風呂敷包みを抱えている。いずれも道中を彩る道具である。  そうして満を辞して、本日の主役がお目見えする。

「おねーりー! おねーりー!」

 先頭を歩く男衆による掛け声が繰り返され、ようやく玄関から蛍がその姿を見せた。  蛍のすぐ背後には大きな蛇の目傘を掲げた男衆がいて、道中を小粋に盛り立てている。  今宵の花街は、いつも以上に明るい。通りのあちらにもこちらにも提灯がぶら下げられ、煌々と道を照らしている。また他の妓楼も皆、燦然と明かりを灯しており、辺り一帯がまるで昼間のように明るく照らし出されている。

 蛍は黄金色の髪を夜風に靡かせ、提灯の明かりに煌めかせた。そしてずっしりと重い髪飾りにも眩いばかりに提灯の光を反射させ、同じく黄金色の瞳には観衆を映し出した。  白粉をはたいた(おもて)は白く輝き、紅を引いた唇は果実よりも赤い。  その紅白を引き立てるように、蛍は深い翠の振袖を着こなしていた。細やかに舞う桜吹雪と、流水文様。その中に豪華絢爛な御所車が映えていて、繊細な図柄を見れば一流の品であることは一目瞭然だった。  見物客たちは皆、内心で感服した。あれが璃月屋の仕立てた着物か、と。

 また、鮮やかな振袖を引き締めるような黒地の帯には、金糸で緻密に織られた唐草模様。それが四方八方から注がれる光によって、明滅するように輝いていた。  足元では高さ六寸はあろうかという漆塗りの三ツ歯下駄が存在感を放ち、花魁の威厳を醸し出している。  まるで夜の闇の中に大輪の花が咲き誇るかのようなその様に、人々は思わず息を飲んだ。

 蛍は通りに集う見物人たちを目だけでさらりと見渡すと、力強い外八文字でもって歩き出した。  外八文字は外側に下駄を蹴りだすような歩き方で、下駄の裏面が見えるように勇ましく歩く。特殊な下駄と歩き方ゆえに、習得するのはかなり大変である。  この日のために、蛍は懸命に練習を重ねてきたのだ。刻晴に見守られながら、群玉楼の裏庭で何度も転びながら覚えた。  道中で転んだりしては、蛍だけでなく群玉楼も赤っ恥だ。練習したことを思い出すように深呼吸して、片足ずつ慎重に正確に、蛍は足を進めていく。

 その流れるような動きと眩いばかりの美しさに、観衆はすっかり感心していた。

「さすが、群玉楼は違うな」 「あの貫禄でようやく新造とは、恐れ入る」 「璃月屋が後ろについているという噂は本当かい?」 「その噂、俺も聞いたぞ。しかも旦那じゃなくて、若旦那の方だと言うじゃないか」 「璃月屋の若旦那と言えば、美丈夫のくせに女に一切興味なしと噂の堅物だろう。まさかねえ」 「いやいや、噂は誠だよ。ほら、あそこを見なせえ」

 最後に口を聞いた男が、指で示した。  そこにいるのは、翠髪の年若い男。腕組みをして、仏頂面で立っている。藍色の着流しに黒の紋無し羽織を来た、眉目秀麗という言葉が相応しい見た目をしていた。  言わずもがな、魈のことである。

「あの人がそうなのかい?」 「ああ。隣にいるのは旦那の鍾離殿だ」

 魈の隣に立つ、鳶色の着流しと黒の紋付を着た男を示して、先ほどの男が得意げに説明した。  少しばかり商人たちの事情に詳しいらしいその男は、ぺらぺらと薀蓄を傾けている。

「アハハ! 言われてるよ、若旦那」

 鍾離と魈の陰に立っていた詩人は、ぷるぷると肩を震わせている。一応笑いを堪えようとしながら、例によって魈にちょっかいをかけ始めた。  魈の噂話をしている男たちの会話が笑壺に入ったらしい詩人は、性懲りもなく魈を小突いている。どんな反応が返ってくるのかが楽しみなようで、網代笠の下でにやにやしていた。  何か言わせたくて堪らないと考えているのを隠しもせず、仕舞いには魈の顔を覗き込んでくる始末だ。

「別に放っておけば良いでしょう」 「だって、堅物って……ふふっ」 「……」 「あんな小商人にまで噂されるほどって、君は一体どれだけお堅い人生を歩んできたんだい?」

 魈は詩人を相手にすることなく無言で呆れた顔をしているが、詩人はお構いなしだ。  今じゃすっかり見る影もないって言うのに、と続けながら、ついに詩人は腹を抱えて笑い転げ始めた。  いつものことながら、鍾離の知人である詩人にあまり強く出ることもできず、魈は横目でその様を鬱陶しそうに見るだけだ。  なので魈の気持ちを代弁するように、鍾離の方が黙って詩人の網代笠をぼすんと押した。傾いた笠によって前が見えなくなった詩人は、不機嫌そうな声を上げている。

「ちょっとじいさん、せっかくの道中がよく見えないじゃないか」

 魈を揶揄うのに夢中でまったく見ていなかったくせによく言う、と思ったものの、言い争うのも面倒でこの件について鍾離は何も言い返さなかった。  詩人は頬を膨らませてぶちぶちと文句を垂れながら、いそいそと網代笠の角度を整えている。

「夜光殿の……いや、夜行太夫の晴れ舞台だ。余計な口を叩かず静かに見られないのか」

 食い入るように道中を見守っている魈に気を遣うように小声で、嘆息しながら鍾離は詩人を諌めた。最低限、これだけは詩人にわからせるべきだろう。  本来ならば、とにもかくにも空気を読め、と声を大にして言いたいところだが仕方がない。

 しかし今度は、鍾離の顔馴染みである大店商家の旦那が近寄ってきた。  鍾離が軽く手を上げて挨拶するのに倣って、魈も道中から一瞬目を離して会釈をした。そしてまたすぐに、蛍に視線を戻す。  そのまま耳だけで、鍾離と旦那の会話を聞いた。

「鍾離殿、今回の道中は璃月屋が世話をしたとか」 「ああ。うちの若いのがさせてもらった」 「左様で。なるほど、夜光太夫の振袖の色、あれはまた随分と……」

 旦那は魈の髪色と蛍の振袖を見比べるように視線を彷徨わせ、口元を袂で覆いながら小声で言った。心持ち、魈に配慮したらしい。周囲に大勢人がいる状況で、大きな声で言うのも無粋だと思ったようだ。

「ははっ。お気付きの通りだ。自分のものを他人に触られるのが嫌いな質でな」

 鍾離の言葉に魈はぴくりと片眉を上げたが、他でもない鍾離の言なので何も言わない。

「いやはや、すっかりご執心というわけですか。柄もまた素晴らしい」

 大店商家の旦那ともなれば、当然物を見る目も肥えている。  蛍の振袖の文様に込められた魈の想いをすぐに察したようで、顎に蓄えた立派な髭を上から下にするするとなぞりながら、しみじみと評した。

「普段の愛想は知っての通りだが、存外、うちのもまだまだ可愛げがあるだろう」

 鍾離は上機嫌で魈の頭を軽く撫で回しながら、完全に息子自慢の様相で旦那と談笑している。  鍾離の商人仲間に対して、当然魈は最低限の礼儀は尽くしている。しかし愛想が良いか悪いかと言われれば、どちらかと言うと後者なのである。

 そんな会話を聞きながら、魈はつらつらと思考を巡らせた。無論、視線は蛍に固定したまま。  自分が見立てた振袖を身にまとった蛍は予想通り、否、予想以上に美しかった。  その姿に歓声を上げ、目を釘付けにしている者たちを見るのは、実に気分が良い。自分の見込んだ女はどうだ、もっと褒めそやしてみせろという心境ですらある。

 だが一方で、不快感もあった。こんなにも綺麗な姿の蛍を、なぜ衆目に晒さねばならないのかと。  平素であれば群玉楼の遊女の尊顔など、一部の金持ちしか見られないのだ。それを庶民供が下卑た目で見ているというのは、どうにも許し難い。  過激な考え方だという自覚はあるものの、奴らの目玉をくり抜いてやりたいとすら思う。言うまでもなく、鍾離の手前そんなことは実行しないが。

 そうした煩悶の末に、自覚する。自分もまた、金子がなければ蛍の顔を拝むこともできない、憐れな男なのだと。  蛍のために金子を注ぎ込むことに、躊躇いはない。それで解決することであれば、いくらでも注ぎ込む心算だ。  それでも、早くしなければ何かの拍子に誰かに取られやしないかという不安は、常に付きまとう。水揚げのように、避けては通れない壁がまた立ちはだかるかもしれない。

 一刻も早く蛍を身請けをしたいという気持ちは、日増しに募るばかりだ。  この腕におさめて、二度とどこにも行けないようにしたい。そんな恥も外聞もない情けない感情が、魈の中で膨れ上がっていく。  端的に言えば、どろどろとした独占欲、とでも呼ぶべきものだろう。

「おねーりー! おねーりー!」

 男衆の声が、漆黒の空高く、花街の夜に響く。  蛍はその掛け声に合わせ、厳かに歩みを進めている。  その後ろには姉女郎である紫金太夫も続いており、蛍と互いを引き立て合うようにして歩いていた。  やはり花街一の花魁と言われるだけあり、紫金太夫の歩みは優雅で無駄がなく、その場に居合わせた者たちの目線を一瞬で集めてしまうほどだ。  これほどの道中はそうそう見られない、しかと目に焼き付けねばと、観衆は声高に賞賛を繰り返している。

 紫金太夫と共に、楚々として舞うように下駄を鳴らして歩く蛍。  その姿を見ていると、先ほどまで心を占めていた浅ましい独占欲を恥じ入る気持ちも生まれるものだから不思議だ。いっそ笑えるほどに矛盾しているが、蛍には自由が似合うだろうと思うのだ。  閉ざされた廓の中から抜け出して、広い外の世界で生きてほしい。そのために、自分は心を砕きたい。何に変えても、その身と心を守ってやりたい。  そういう、純粋な想いもまた、魈の中に確かに存在している。

 最初は、かつて蛍を守れなかったことを償おうと思っただけのはずだった。十年前の一件だ。  蛍が覚えていなくとも構わない。それは魈の勝手な考えで、個人的な意志だった。淡い自分の思慕など、見せるつもりはなかった。  それなのに群玉楼で相見えた夜に、昔と変わらない気高い精神を見せつけられて、焦がれた笑顔を見てしまった。  金子で廓という籠の鍵を開けてやるだけのつもりだったのに、蛍が魈の手を掴んでしまった。あの日と変わらない、否、あの日よりも大人びた照れ臭そうな顔で。  その瞬間、今度こそ蛍を自分の手で守りたいと思ったのだ。

 初心(しょしん)を思い出したような心持ちで、魈だけが覚えている懐かしい記憶に胸の奥を少しだけつきりと痛ませて。魈はただ静かに、目を細めたくなるような眩しさの蛍の道中を見守った。

「いよっ! 花魁、国一番!」

 囃し立てるような掛け声が、聞こえる。  秋波を送るような艶やかな目をして、蛍は花街の通りを練り歩く。

 ふと、蛍が観衆の中にいる魈に視線を寄越した。  蛍の顔など毎日見ているはずなのに、魈は我知らず心臓をどきりと跳ね上げた。なんだか妙に面映ゆい感覚がして、顔に熱を集めそうになる。  この場にいる誰よりも自分と蛍は過密な間柄のはずなのに、初めて見る着飾った姿と、花魁らしい色気のある表情に、そわそわとしてしまう。  小さな座敷で二人きりで過ごすときのような、あどけない姿が好ましいと思っていたが、こういう蛍の顔も悪くないなと思ってしまう。

 そんな魈の心中を知ってか知らずか、蛍は明け方の三日月のようにゆるりとした仄かな表情を浮かべて、魈に笑いかけた。  その微笑みに、道を囲む見物人たちは大いに騒めく。

「小野小町や楊貴妃にも負けず劣らずではないか」 「是非とも一晩、お相手願いたいものだ」

 彼らの発言に、見るな愚民ども、という怒りが魈の中に湧き上がったものの、ご多聞に漏れず口には出せない。実際は怒りというより嫉妬に近いのだが、魈にとっては大差のない感情だった。  ただ、そういうことを口にしたら鍾離に注意される、ということだけが体に染み付いている。  ああ見えて鍾離は、言って良いことと悪いことには口うるさいのだ。商人たるもの、言葉は金子と同じくらいに重いものと心得よと言われて育った。  鍾離に引き取られた当初、口数が少ない上に口の悪かった魈は、それでよく窘められたものだ。

 どちらにせよ、魈の胸中に吹き出した毒気は浮かんだ瞬間に雲散霧消していた。  誰が何と言おうとも、今の蛍の笑みは自分に向けられたものなのだ。他のどんな感情をも差し置いて、その喜びが何にも勝る。  我ながら単純だと思いつつも、否定する気も起きない。

 ゆえに魈もまた、ほんのりと口角を上げて笑顔を見せた。  一般的な感覚からすれば、それは笑顔と呼んで良いのか悩ましいくらいの淡い笑みだった。けれども普段能面のように感情のわかりにくい表情で過ごしている魈からすれば、すこぶる立派な笑顔だった。  いつか殺意を孕んだ焔を瞳の奥に揺らしていたことが嘘のように、魈の双眸は柔らかく提灯の明かりを反射している。透き通るような金色が、まるで夕暮れのように暖かな色をしていた。

「おお、若旦那が笑ってる……!」 「黙っていろ」

 また茶化しかけた詩人に、鍾離は短く釘を刺した。再び詩人の網代笠をぱしっと叩いて、先ほどよりも強めに歪めてやる。  しかし詩人が食いつくのも、無理もないことなのだ。  基本的に魈は日常生活において、ほとんど笑わない。魈自身も気付いていないのだが、実のところ、魈が笑みを見せるのは蛍の前だけだと言っても過言ではない。それほどまでに、魈がそういう表情を作るのは珍しい。  よって内心、鍾離も舌を巻いていた。

「璃月屋の若旦那様、素敵だわ」 「まだ独り身なんでしょう。私、立候補しようかしら」

 女たちは道中そっちのけで、魈を見ている。  道中の夜には、多くの女性客も花街に見物に訪れる。然るべき手続きを踏めば、女性であっても花街に出入りすることは可能なのだ。  花街で催される道中というのは、当世の人々にとっては娯楽の一つと言えよう。

 そんな風に誰も彼もが己の思惑を口々に呟いて、蛍の突き出し道中を見守っていた。  蛍が粗相をすることもなく、その足取りはしっかりとしている。  突き出し道中は、文句の付けようもなく順調に進んでいた。  群玉楼の名声もまさに鰻上りという様で、見物する男たちの多くが、自分もいつかは登楼してみたいという憧れを強くしたことであろう。

 一瞬たりとも蛍から目を離したくないとでも言い出しそうな真剣な面構えで、魈はその寛雅な歩みをじっと見つめていた。  けれども、なぜかふと、何の気なしに蛍から視線を外した瞬間があった。  それは、かつて白刃を握っていた頃の本能とも呼べるもののせいかもしれない。

 そして、花街にひしめき合ういくつもの妓楼のうち、ひとつの屋根の上に黒い影を見た。影が何かを鈍く反射させる朧げな煌めきを、確かに捉えた。  暗い空間を見据えて、無意識に瞳孔が開く。頭の中に雷霆のような痺れが走って、意思に関わらず心臓が早鐘を打った。  その刹那。

「蛍!!!」

 外向きに夜光と呼ぶのも忘れて、魈は叫びながら道中の中に身を躍らせた。  鈍色の塊が提灯の明かりを反射しながら夜の闇を貫くのが、魈の目には見えていた。遅れて破裂音が聞こえて、それが蛍の肩口に到達する間際、魈は自分の体を蛍の前に滑り込ませた。

 瞬きひとつの間の出来事に、その場にいた誰一人として反応できなかった。  人々が我に返ったときには、璃月屋の若旦那と夜光太夫が、鉄臭い真紅の海で溺れていた。観衆には、それだけしか認識できなかった。

「夜光太夫!」

 一番に、紫金太夫の悲鳴のような声が上がった。  大きく息を飲んで目を見開いて、着物の袂で口元を押さえている。

「魈!」 「若旦那!」

 続いて、鍾離と詩人の色を失った声が響いた。  やがて群衆の騒めきや狂乱、怒声が辺りを包み込む。誰も彼もが、何が何だかわからずに混乱していた。

 だが時間の経過と共に、徐々に見物客たちは何が起こったのかを理解していった。  どこからか飛んできた鉛玉。南蛮渡来の短銃が放ったのであろうそれが、あと一歩で蛍を貫くところだったのだと。  しかし鈍色の玉が蛍に傷を付けるようなことはなく、代わりに蛍の前に飛び出してきた魈の血潮を辺り一面に撒き散らした。  蛍の左肩口に向かってきた弾丸は、魈の左胸と肩の間に当たったようだった。心臓は外しているように見えるが、動脈を傷付けたのか、大量の血が流れ出て、みるみるうちに血溜まりを大きくしていく。

 弾丸をその身で受け止めた魈は、倒れる寸前の須臾の時間、蛍を振り返っていた。蛍の身が無事であることを確認して、ほっとしたように笑った。  蛍はなぜか時が止まったような感覚になって、水揚げの翌朝に見た魈の寝ぼけた笑みを思い出していた。満開の桜が花弁を散らすようだと思った、あの柔らかな笑みを。  どうかまだ散らないでほしいと思うのに、無情にも無常にも散っていく、春の花。

 蛍が永遠のようにさえ感じたその時間は、当然ながら実際にはほんの刹那のことだ。  ずるりと蛍の方に倒れこんできた魈の、力の抜けた人体の重さを嫌でも感じさせられる。生あたたかくぬるりとした血が、蛍の両手を真っ赤に染め上げた。  そうしてやっと、蛍は理解した。魈が自分のために、命を散らしかけているということを。

 その衝撃はあまりにも大きく、ざあっと血の気が引いた。  今すぐ魈を介抱しなければと思うのに、頭がついていかない。それどころか次第に目の前が暗くなっていき、視界が奪われる。  ついに蛍は魈と共に、血の海に倒れ込んだ。むせ返るような鉄の香りに包まれながら、蛍の意識は遠のいていく。  意識を失う間際、蛍は無意識に呟いていた。

「なんで……?」

 不思議だった。なぜ、魈はここまでして自分を助けてくれるのか。  たかだか三ヶ月前に知り合っただけの間柄のはずなのに。あくまでも、自分たちの関係は遊女と客なのに。  金子だけでなく、その命までも投げ打つようなことは、通常であれば考えられない。

「……あの日の恩と償いを、果たしたまでだ」

 完全に意識が途切れる寸前、蛍は自身の呟きに答えた、掠れ声を聞いた。  しかし魈の言葉の真意を知る前に、蛍の意識はそこで途切れた。

 ■ ■ ■

 凝光は、群玉楼の二階にある自室の窓から突き出し道中を見守っていた。煙管を片手でくるくると弄びながら、歓声を上げる人々を満足げに見下ろす。  無数の提灯の明かりに煌々と照らされた通りを威風堂々と歩く蛍は、凝光が見込んだ通りの逸材だった。すでに紫金太夫に勝るとも劣らない一人前の花魁の風格を醸し出しており、楼主として鼻が高い。  やはり自分は良い買い物をした。改めてそう思いながら、ゆるりと口の端を上げて、凝光は蛍と出会った日に想いを馳せた。

 だが、突如として響いた銃声と、真っ赤に染まる路上。そこに倒れ臥す二人の人間の姿に、凝光は一気に現実に引き戻された。  突然起こった惨劇に、さすがの凝光も一気に顔面を蒼白にした。  まさか、と小さく声が漏れていた。

 過日詩人と密談を交わした通り、これだけの人出と人目の中で何かが起こるようなことはないだろうと、どこかで凝光は高を括っていた。その考えのなんと愚かなことか。  一度だけ蛍の部屋が荒らされるという事件があったものの、以降は何事もなかったはずだ。平穏無事に今日という日を迎えられて、心底安堵していたというのに。  それがどうだろう。最悪の形で覆されてしまった。

 驚いたことに凝光は、瞬時に窓の桟に足を掛けたかと思うと、窓から通りに向かって飛び降りた。そしてすぐに、道中の中心へと駆け寄る。  どろりとした赤色の海に浮かぶ蛍と魈の前で、凝光は浅く息を吐き出した。  まだ心のどこかで、夢や見間違いであれば良いのにと思っていた。けれどもそんな都合の良い話があるはずもなく、目の前の現実を静かに受け止める他ない。  この場にいる誰よりも早く、凝光は思考を玲瓏に研ぎ澄ませて、次に自分はどうすべきかを考えた。

 騒ぎの渦中に舞い降りてきた美貌の楼主の姿に、観衆は自然と注目した。しかしどよめきが収まることはなく、相変わらず人々はがやがやと喚き立てている。  凡人たちが騒ぐのも尤もだ。このような事態を、誰が想像しただろうか。  それに加えて、犯人がいつ何時、次の一撃を放たないとも限らない。何が目的で凶行に及んだのか、誰も知り得ないのだから、恐ろしさもひとしおだろう。

「甘雨、早急に医者を呼びなさい!」 「……は、はい!」 「男衆はすぐに大門の封鎖を! 犯人を逃してはだめよ!」 「し、承知しました!」

 凝光は群玉楼の玄関先にいた甘雨に指示を出すと、次いで男衆に、花街の唯一の出入り口である大門の封鎖を命じた。  さらに凝光は騒めく群衆に向かって、声を張り上げた。びりりと空気を震わせるような、有無を言わせない声音で。

「落ち着きなさい!」

 凝光の叱声で、辺りは水を打ったようにしんと静まり返った。  それほどまでに、凝光の声は力強く、威厳があった。

「楼主殿……!」

 柄にもなく血の気の引いた顔をした鍾離も、観衆を掻き分けて凝光の元へ走り寄ってきた。その横には、詩人もいる。  凝光はほんの一瞬だけ、詩人と視線を交わした。  口を真一文字に引き結んで丸っこい目を細めた詩人の言いたいことは、手に取るようにわかった。凝光とて同じ思いだ。悔しいという単純な言葉で済ますことなど到底できないが、本当に悔しかった。  凝光も詩人もぎりぎりと奥歯を噛んで、平素であれば余裕たっぷりの涼しげな(おもて)を、それぞれ微かに歪めている。  自分たちの油断が招いたことだ、という悔悟の念が、嵐の海で荒れ狂う波のように二人の胸中に押し寄せているのだ。

「凝光……」

 真っ青な顔をした紫金太夫が、消え入りそうな声で凝光を呼んだ。彼女は一歩引いて、蛍と魈の様子を窺っている。  そのさらに後ろには、錫杖や蛇の目傘を持った男衆や、漆箱や風呂敷包みを持った禿がいる。いずれも今にも倒れてしまうのではないかと心配になるほどの面持ちで、事の成り行きを見守っている。

 首を巡らせて観衆の無用な騒ぎが沈静化したのを確認すると、凝光はその場で膝を折った。蛍と魈の怪我の具合を確認するためだ。  続いて鍾離も同様に膝を折って、二人の状態を確認しようとしている。  詩人は一歩下がったところで、凝光と鍾離の様子を黙って見ていた。

 二人を下手に動かさないように注意しながら、凝光と鍾離で容体を観察した。尋常ではない量の出血を見れば、事態の深刻さは火を見るよりも明らかだった。  一瞬のことだったが、凝光にも鍾離にも、魈が蛍を庇ったように見えていた。  実際、蛍の方には傷ひとつなく、赤く染まっていたのはすべて返り血だった。蛍はただ単に気を失っているだけのようだ。  逆に言えば、今もその面積を広げている血の海は、すべて魈から流れ出た血であることが証明されてしまった。

 状況を整理するに、何者かが蛍を狙って短銃の引き金を引いたらしい。魈の左肩と左胸の間辺りを貫通したと思しき銃弾が、赤黒い水溜まりに浮かんでいる。  どういう反射神経をしているのか、誰一人として気付いていなかった弾丸の存在に魈はいち早く気付き、自らを盾にして蛍を守った。そういう風に推察できた。

「本当に、呆れるほどの御仁だわ」

 凝光は青白くなった魈の顔を見遣りながら、眉を寄せて、隠しもせずに顔に苦痛の色を浮かべた。  過日、蛍の水揚げに際して必死になっていた姿を知っているからこそ、憐れみとも同情ともはっきりと名状し難い、えも言われぬ感情が湧き上がる。

 鍾離はそんな凝光の表情を横目に、目を伏せた。絶望と哀愁がない交ぜになったような、こちらもまた何とも言えない顔をしていた。  いくら大商人であれども、鍾離も一人の人間なのだ。養子とは言え息子同然に可愛がっていた魈がこんなことになって、動揺しないはずがなかった。

 かつて白刃を握り締めて返り血を浴びていた幼子は、鍾離の願い通りの若者に育った。その手を、人を守るため、人を幸せにするために使ってほしいという願いだ。  だが、こんな形は望んでいなかった。

「言葉は金子と同じくらいに重いが、命はそれよりももっと重い」

 世間知らずなこの子に、何りもまず命の重さを説くべきだっただろうか。人を守り幸せにするためには、大前提として自分が無事であることが必要なのだと。  今さらながらに、鍾離はそんなことを考えた。くだらない現実逃避だ。  自身の大切な存在を守った魈を褒めてやりたいし、夜光太夫を恨んでいるわけでもない。ただただ、行き場のない無念があるだけなのだ。

 鍾離もまた、蛍のために尽くしていた魈の姿を知っているからこそ、余計に己が無力さを感じてしまう。指を咥えて見ている事しかできない自分が、嘆かわしい。  天下の璃月屋が何だと言うのか。金子で解決できないこともあるのだと、改めて突き付けられた気分だった。

 しかし今は、感傷に浸っている場合ではない。救命と犯人の確保が何よりも急がれた。

「先生をお連れしました!」

 苦しそうに息を切らした甘雨が、花街の医者を伴って現場に戻ってきた。  一同の目に、僅かばかり希望の光が灯った。  医者の指示のもと甘雨を中心に、紫金太夫、鍾離、詩人、禿たちは魈と蛍の介抱に努め、凝光は男衆と共に犯人の追跡に徹した。  悪夢のように凄惨な夜は、そうして瞬く間に更けていった。

 ■ ■ ■

 眼下の混乱を尻目に、二つの黒い影は屋根伝いに移動して、警戒を強める花街を抜け出した。  凝光の指示に従って男衆が大門の往来を制限したのと同じ頃、人目を忍んで花街を囲む塀を乗り越え、紙一重で脱出した形だ。

「あと一歩で、蛍に当たるところだったんだぞ!」

 花街からいくらか離れたところで足を止めた公子に向かって、空は声を荒げた。  先ほど魈と蛍を襲った鉛玉は、公子が引き金を引いた短銃から放たれたものだったのだ。  空と公子は共に夜の闇に溶け込むような黒装束を身にまとい、とある路地裏の物陰で息を整えている。

「相棒がいつまでも引き金を引かないのが悪い。妹を救いたいという覚悟は、そんなものだったのかい?」

 憤怒と恐怖に打ち震えている空の姿にすら何も思わないのか、公子は冷めた目で吐き捨てた。  本来であれば、その引き金は空が引くはずだった。そういう話になっていた。  それなのに、空はいざという場面で引き金を引かなかった。短銃を握り締めたまま手を震わせるばかりで、このまま待っていても進展は望めないと、公子は判断を下した。  そして空の手から銃を奪い取ると、空が止める間もなく、少しの躊躇もなく。公子は耳の奥が痛くなるような破裂音を引き起こして、あっさりと鈍色の玉を無月の夜に放った。   「何も俺は殺せなんて言ってないだろう。ちょっと傷物にしてやれば良いだけなのに」

 今回のことは、何も蛍の命を狙ったわけではなかった。  公子の言う通り、怪我をさせて傷物にすることで商品価値を下げれば、用済みだと蛍は群玉楼を追い出されるかもしれない。そうでなくとも、空が小金で身請けできる機会が巡ってくるかもしれない。そういう算段で予定していた作戦だった。  かなり強引な手ではあるものの、年季という花街の掟を破って女を外に連れ出すというのは、生半可な覚悟でできることではないのだ。金子を持たない者に残された道は、武力行使のみ。

「だからって、妹の腕を短銃で一本取れだなんて、俺にはやっぱりできない……」 「意気地無しめ。借金取りの首を狙った君は、何だったんだい?」

 突き放すような口調で言い捨てる公子に、空は何も言い返せなかった。意気地なし、という評価は否定のしようがない。

 そもそも、当初の予定では突き出し道中を迎える前に方を付けるはずだった。  蛍の部屋に侵入して座敷に出るための着物や紅を傷付けたのも、水揚げの時と同様、空の仕業だ。妹が毎夜妓楼の座敷に出されるなど、考えたくもなかった。物理的にも精神的にも、なんとかそれを否定したくて行動に及んだ。  しかしそれはまったくもって浅はかな考えだった。当然、替えの着物や紅などすぐに用意されてしまうし、蛍は何事もなかったかのように日々自身の仕事を全うした。

 この件に関して、公子は手引きなどしていないし、ほぼ空の独断だ。止める理由がなかったので、好きにさせておいたに過ぎない。  反面、その後の脅迫状と付きまといの件については、公子も関与していた。何か興が乗ったのか、手を貸そうと自ら申し出た。

 蛍に届いた不恰好な文字の手紙は、実は公子の直筆だった。  公子がこの国に来てから、もう十年以上になる。言葉や暮らしにはすっかり慣れたものの、未だ箸の持ち方も怪しければ、書く文字もいまいち歪だ。しかし空の筆跡では蛍にばれてしまうだろうと考えて、公子が筆を執った。  また、蛍の後を付け回したのは、公子の配下の者だ。万が一空が顔を見られてしまえば、一貫の終わりだからである。公子自身も花街ではそこそこ顔を知られている身なので、怪しい行動を白昼堂々取るわけにはいかなかった。

 そうしてじわじわと蛍を追い詰めていけば、いずれ楼主や遣手に泣きつくものと思っていた。やがて役立たずの烙印を押された蛍を、空が実力行使なり何なりして連れ出せば良いと考えていた。場合によってはこちらが手を下さずとも、群玉楼を着の身着のままで追い出される可能性さえもあると踏んでいた。  けれどもさすがは空の妹と言うべきか、蛍は誰にも相談することなく、一人で耐え忍んでしまった。  それに加えて、凝光は公子の想定以上に自分の買った遊女たちを大切に扱っているようだった。蛍を疫病神のように厄介者扱いするでもなく、常にその身を案じているように見えた。  はっきり言って、手を出しづらいことこの上なかった。

 結局、細々と仕掛けたことは何ひとつ実らなかったというわけだ。  よって最終的に、蛍を傷物にするという手荒な手法を取ることになった。これもまた、今し方失敗に終わってしまったが。

 先ほどから黙ったままの空を前に、公子はふうっと長く息を吐き出すと、終わり良ければ全て良しとばかりに言い放った。

「君が憎む璃月屋の若旦那は、あの出血なら遅かれ早かれ死ぬだろう。俺としてはまだ殺すつもりはなかったから、少し残念だけどね」

 もう一度戦いたかったのになぁ、と空に聞こえないよう小声で呟いて、公子は再び足を動かし始めた。  釣られて、空も公子の後に続いて歩き始める。  今ここでこれ以上言い争ったところで、何の意味もない。それは互いにわかっていたので、ひたすら無言で前進した。

 公子が知る限り、凝光は腕の良い情報屋との繋がりを多数持っている。彼女が本気を出せば、今回の事件を仕出かしたのが自分たちだとばれるのも時間の問題だろう。  それどころか既に愚人楼に目を付けていたとしても、何ら不思議はない。あちこちで公子の暗殺業の噂が広まりつつあるのは確かなのだ。空に関しても、気に入って四六時中連れ回している自覚はある。  少々、楽しみすぎてしまったかもしれないと反省した。

 次の手をどうしたものかと、足早に歩を進めながら公子は考えた。  璃月屋の若旦那が消えれば、相当動きやすくなるだろう。  公子は彼のことも少なからずよく知っている。ここ十年は平凡に商人として過ごしているようだが、先ほど蛍を庇った動きと言い、殺気には未だ敏感に反応するらしい。  そうだ、それがお前の本能なのだと言ってやりたくなるほどに、俊敏な動作だった。  しかしあの若旦那がいなくなれば、もう蛍を守る者はいなくなる。妹を救い出したいという空の悲願も、遠からず成し遂げられるだろうと思われた。

 そして、公子の望みもだ。  暗殺者として腕を磨いた空と戦いたいというのは、個人的には一番願うところなのだが。さすがにそうした戦闘の趣味のためだけに妓楼を経営しているわけではない。  本国にいる然るお方と、自分の家族のためにやっていることだ。そのためならば、花街一の妓楼と名高い群玉楼を潰すという難題であれ、遂行してみせる。

 そういう決意と信念が、公子にもある。空はその目的のために、非常に都合の良い時機に現れてくれた。能力も申し分ない。  妹が絡むと非情になりきれないところが玉に瑕だが、そこはもう少し長い目で見るとしよう。

「相棒、今日はこの街で一泊だ」

 花街とは異なった賑やかさを見せる外の街。その大通りの喧騒を路地の暗がりからちらりと見遣って、黒装束を脱ぎ捨てながら公子は軽快に言った。  さすがに今夜の花街は、警戒が強いはずだ。すぐに戻るのは危険だろうと思われた。一度花街の外で体勢を整えてから帰る方が得策なのは明白だ。

 公子の冷たかった声音は、いつも通りの朗らかな声音に戻っていた。  空は驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに公子に倣って黒装束を脱いだ。街中でこの格好は、逆に怪しい。  ころころと態度の変わる公子は掴みどころがなく、本心が見えない。とは言え、ここまで空を助け導いてくれたのが他の誰でもない公子であることは、紛れもない事実だ。  公子のそういう奇天烈な性格にも、空はそろそろ慣れてきた。ゆえに空も切り替えて、黒装束を小さく丸めて小脇に抱え込んだ。

「俺は敗者に優しいからね」

 敗者、というのは恐らく空のことだろう。今回の計画を実行できなかった空は、公子の中ではそういう扱いらしい。  軽薄そうな口調でさらりときついことを言ってのける公子を、空は半眼で見た。

「いま一度考えると良い。君にとって、最も重要なことは何かをね」

 それは、空の覚悟を問うていた。  蛍を助けたい、そのために強くなりたいと切望する一方で、人を傷つけることをひどく恐れる空の矛盾への指摘だ。  空はこの三ヶ月、公子直々に手ほどきを受けて武芸の腕を磨いてきた。練習で刃を交える分には、公子に引けを取らない動きも十分できる。

 しかし、空は公子の殺しの仕事には一切手を貸さなかった。自分が依頼されたわけでもなければ、この腕は蛍を救うためにしか使わないと宣言して。  公子としては、そういう意志の強さも悪くないと思っていた。そも、二人が交わした契約に、空が公子の仕事を手伝うという取り決めはなかった。何も間違ってはいない。  それに、公子の希望通り空は毎日手合わせに応じてくれている。その点に関しては満足していた。

 けれども今一歩、足りないのだ。出会った日に垣間見えた、目的のためならば他者の命にさえも手を掛けるような、獣のようにぎらついた殺意が。  花街の決まりを無視して妹を連れ出すには、それくらいの強い意思が必要だ。  だから空は、考えなければならない。自身の一番大切にしたい信念が何であるかを。そのためならば他のものをすべて投げ打つくらいの覚悟を決めなければ、何をしようともまた今日のように仕損じるだろう。

「案外俺って、人情派だな」

 頭ひとつ分ほど身長差のある空を見下ろしながら、公子は嘯いた。  公子の問いかけを受けて、空は深刻そうな顔で考え込んでいる。

 別に空のことなど放っておいて、自分一人で任務を遂行すれば良いという考え方だってできるはずなのに。もしかしたら、本国にいる弟妹のことを無意識に思い出して、妹のためにと奔走する空に自らを重ねていたのかもしれない。  だが、空に絆されて優しさなんぞにかまけていては、公子自身も足元を掬われかねない。  空に問うと同時に自身の気を引き締めながら、公子はきょろきょろと辺りを見回して、手頃な宿屋を探し始めた。

 ■ ■ ■

 突き出し道中で起きた事件の後、魈は群玉楼の一室に運び込まれた。ひどい傷と出血で、とても花街の外には連れて行けなかったのだ。  魈が寝かされている部屋は、蛍と魈がいつも使っている小さな座敷だ。  惨劇からすでに三日が経ったが、そこに横たえられた魈は未だに目覚めなかった。

 表面上は、一応落ち着きを取り戻した群玉楼。  凝光の自室に呼び出された蛍は、追及を受けていた。仁王立ちになった凝光の前で、縮こまって正座で俯いている。  例によって、甘雨は凝光の斜め後ろに静かに控えている。

 道中の前に一度だけ蛍の部屋が荒らされたことがあったが、それ以降は何事もなく順調だったと凝光は認識していた。それなのに急にこのような事件が起こったのだ。当然、凝光はまた詩人をはじめとした情報屋たちを使って可能な限り調べ尽くした。  そして凝光はすぐに知った。群玉楼の夜光宛てに謎の文が届いていたという情報と、昼間街を歩く蛍の後ろに何者かの影を見たという情報を。また、それらの異変が一度や二度でないことも。  蛍が隠していた事象は、情報屋たちの手腕によって瞬時に白日の下に晒された。

「これらはすべて真実かしら?」

 数々の証拠を提示した上で、凝光は蛍に詰問した。  さすがにこうなってしまっては、身の回りで起きた不審な出来事の数々を、蛍自身の口で正直に話す他なかった。  脅迫状めいた手紙のこと、怪しい人物に後をつけられたこと。それら一切を、観念したように蛍は凝光に詳らかにした。  蛍の話に耳を傾ける凝光は、今日は煙管も扇子も手にしておらず、明らかに余裕のなさそうな様子だった。

「……いたっ!」

 バシンッと乾いた音がして、蛍は声を上げた。  やや間を置いて、凝光の平手に頰を強かに打たれたと理解した。遅れてじんじんと痛んでくる頰を片手で押さえながら、蛍は呆然としていた。  ただでさえ魈の意識が戻らないことで神経を擦り減らしていた蛍にとって、その痛みの衝撃はあまりにも大きかった。涙を流すようなことこそなかったが、目頭がじわりと熱くなった。

「一遊女の分際で、奢りも甚だしい」

 凝光は眦を釣り上げ、肩を怒らせていた。  思わず身を竦ませてしまうほどの凝光の怒気に、蛍は何も言えない。ただ、頰を押さえ続けることしかできなかった。  苛烈な瞳で蛍を見下ろす凝光は、言葉を続けた。

「遊女全員の生活と生命に責任を持つのが、楼主である私の本懐よ。今後余計な気を回すようなことをしたら、折檻も辞さないわ」

 言われて、蛍はハッとした。  凝光の言い分は尤もだった。蛍が一人で抱え込んだところで、むしろ周囲の人間を危険に晒しただけだったのだ。  下手をすれば、道中で一緒だった刻晴や禿、男衆にも被害が及んでいたかもしれないことに、ようやく思い至る。沿道の観客たちも、無傷だった保証はない。あの晩、誰が傷ついても、誰の命が失われてもおかしくなかった。  自分の居場所を守りたいという身勝手な感情に現を抜かしたことで、蛍は多くの人の命を脅かしたのである。

「……申し訳、ありんせん。わっちが間違っていんした」

 蛍は俯いたまま、声を絞り出した。

「私はあなたたちを道具のように思ったことは一度もないわ」

 それだけ言って、凝光は部屋を出て行ってしまった。  後には静かにやり取りを見守っていた甘雨だけが残された。  甘雨はひとつ嘆息すると、口を開いた。

「凝光様はああいうお方です。どのようなことが起ころうとも、決して屈しません。あなたにとって、頼りになる人ではありませんでしたか?」

 甘雨の声音は、先ほどの凝光とは真反対だった。厳しい仕事人間であるはずの甘雨の口調が、いつになく柔らかい。  脅迫状に気付かず蛍に手渡してしまったことの罪滅ぼしなのか、甘雨なりに蛍を気遣っているのか。  いずれにせよ、今の蛍にとって甘雨の口から紡がれる音は心地良かった。

「昔話になりますが……」

 蛍の返事も待たず、甘雨は出し抜けに滔々と話し始めた。  そうして甘雨が語ったのは、こんな話だった。

 かつて凝光と刻晴は、同じ日にこの群玉楼に売られてきた。凝光もまた、この群玉楼の遊女の一人だったのだ。  正確には、群玉楼という名は凝光が楼主になってから改名したそうで、以前は違った名前だったそうだが。  近い年頃で同時に過酷な環境に放り込まれた二人だったが、両者が打ち解けることはなかった。どちらかと言うと相手に負けてなるものかと、闘争心を燃やしていたらしい。  いずれも食うに困った親によって、花街に売られてきたということだ。

 凝光は特に負けず嫌いで、成り上がってやるという根性が強かった。あらゆる芸事をその明晰な頭脳とたゆまぬ努力によって身に付け、あっという間に最上級の花魁へと上り詰めた。  そしてこっそりと大金を溜め込んでいた凝光はついに、ある日反旗を翻した。金子と謀略の末に、元の楼主をここから追い出したのだ。その上、自分が楼主となって、妓楼の名を群玉楼と改めた。

 当然、凝光一人だけ花街から逃げ出すこともできた。当時の彼女の財力と能力で、それは十分可能だった。  けれども凝光は、共にこの夜の街を生き抜いてきた者たちを見捨てなかった。自身が上に立ち、この廓を率いるという選択をしたのである。

 刻晴は、途中から凝光のその考えに気付いていた。必要以上に馴れ合うことはなかったが、その姉御肌を生かして遊女たちをまとめ上げ、天下一の妓楼を作り上げる一助となった。  いつしか刻晴も、自分がこの街を抜け出すことよりも、後から後から売られてくる女たちの行く末を案じ、その身を助けてやることに心血を注ぐようになった。

 明確な言葉を交わさずとも、二人は群玉楼をもってしてこの花街を変えようという意思を共有していた。この街が地獄から、せめて人並みの場所に変わってくれればと祈って。

 だから群玉楼は遊女の待遇が良いのだ。  だから刻晴は凝光の名前を呼び捨てにするのだ。  だから二人は蛍を、助けてくれたのだ。

 そうした事情を知らなかったとは言え、蛍の行為は二人の思いを裏切ったも同然だった。自分だけが壁を作って、誰のことも心から信じられていなかった。  その結果が、誰よりも大切だと思っていた魈を失うかもしれない事態になるなどとは、思いもしなかった。  言い訳をしたところで、今となってはどうにもならないことは百も承知だが、本当に考えが及ばなかったのだ。何もかもが裏目に出て、こんなことになるなんて。

「夜光太夫、私も彼女たちと同じですから」

 放心したようにぼんやりしている蛍に、甘雨は穏やかに声を掛けた。かと思えば、相変わらず蛍の返事を確認することなく、さっさと退室してしまった。  言外に甘雨は、少しばかり考え直してみるようにと言っているのだ。この群玉楼における、蛍自身の在り方を。

 一人ぽつねんと残された蛍は、唇を震わせながら青白い顔をして、心臓を握り潰されるような感覚に耐えた。  後から悔いるから後悔と言うのだと、そんな当たり前のことを思い知る。  誰に言うともなく、ごめんなさいと弱々しい声で繰り返して。群玉楼の面々の顔を順番に思い浮かべ、最後に魈の淡い笑みを思い出した。  どうかどうか、あの花を散らさないで。もう二度と、こんな愚かな真似はしないから。  体には傷ひとつないのに、胸の奥も頭の中も、全部が痛かった。

 ■ ■ ■

 蛍の突き出し道中から、一週間が経過した。  刻晴は昼日中の群玉楼の廊下を、しずしずと歩いていた。  すると、まさに目指していた部屋から出てくる人物がいる。孔雀緑の長髪をゆるく首の後ろで結って、眼鏡を掛けた男だ。  その姿を認めた刻晴は、ちょうど良かったとばかりに話し掛けた。

「白先生、どうでありんすか?」

 刻晴が目指していた部屋、というのは魈が寝かされている座敷のことだ。そして、どう、と尋ねたのは魈の容体についてだ。  刻晴が問いかけた相手は花街の医者で、その名を白朮と言う。

「残念ながら、今日も変わりありませんね……」

 眉を下げて、白朮は自身の無力さ痛感するように表情を曇らせた。  白朮は花街の中に常駐する唯一の医者であり、薬師である。その類稀なる知識と手腕により、これまで多くの人間の命を救ってきた。  そんな白朮でも、これ以上はどうしようもないとしか言えないのが今の魈の状態だった。

 事件後すぐに、白朮は魈の傷口を止血した。とにもかくにも、血が流れすぎることが一番危険だった。  白朮の努力の甲斐あってか、なんとか魈は一命を取り留めた。幸か不幸か、弾丸は貫通していて体内に異物が残るということもなかった。  あとは傷口を小まめに消毒して化膿しないように努めたり、調合した漢方薬を決められた時間にきっちり飲ませたり、できることはその程度だった。  そうして一週間、治療を続けたものの、変化はない。魈の意識が戻らないのだ。

「目が覚めるかどうかは、あとは運と本人の気力次第でしょう」 「そうでありんすか。今日もご苦労様でござんした」

 刻晴が礼を言うと、白朮は軽く頭を下げてから、玄関に向かって廊下を進み始めた。  しかしふと足を止めて、刻晴を振り返って言った。

「このままでは、彼女も倒れてしまいますよ。どなたか止めて差し上げられませんか」

 困ったような、憐れむような面持ちでそれだけ言って、白朮は今度こそその場を去った。  彼女、というのが誰を指すのかは、言われなくともわかる。  刻晴は目の前の閉ざされた襖をほんの少しだけ開いて、魈が寝かされている部屋の中の様子を見た。

 部屋の中央には褥があって、どう見ても顔色の良くない、生きているのか死んでいるのか怪しい状態の魈が横たわっている。すっぽりと掛けられた夜着から覗く肩口には、痛々しく包帯が巻かれていた。

 そして魈の枕元には、蛍が座している。  刻晴がいる入口の方に背を向けているので、その顔は見えない。けれども、見えなくても蛍がどんな表情でいるかは手に取るようにわかる。  この一週間、蛍はずっとそこを動かない。一瞬たりとも目を離してなるものかとでも思っているのか、ずっと視線を魈に据えたままだ。  蛍の顔には生気がなく、この世のあらゆる悲しみを集めたかのように陰鬱な表情をしているのに、一滴の涙もこぼさない。ただただ、色を失った暗い瞳で魈を見つめ続けていた。

 その調子でろくに睡眠も取っていないので、刻晴が代わりに魈の様子を見ると何度か申し出たこともあったのだが。  蛍は、そこを離れたくないと。自分が見るのだと言って聞かない。  たまに魈の枕元で丸くなって仮眠を取るだけで、事件が起きた日以来、蛍はきちんと横になって休んでいないのだ。

 また、香菱も心配して蛍に食事を運んでくるのだが、あまり食べている様子もなかった。  さすがに手付かずは申し訳ないと思っているのか、二、三口食べているようだったが、それだけだ。  毎回、香菱はしょげた顔で膳を下げている。

 こうして蛍の痛々しい背中を観察するのは、今に始まったことではない。毎日、こんな調子だ。  しかし刻晴は今日、初めて気が付いた。蛍が魈の枕元で、筆を執って何かを書いていることに。  蛍の手にあるのは、歌を書き付けるための短冊のようだった。

 そっと襖を開けると、刻晴はそろりと蛍の背後に歩み寄った。  刻晴が来たことに気付いているのかいないのか、蛍は何も反応しない。ただひたすらに、短冊に何かを書き付けている。  書き終わった短冊が、乱雑に辺りに何枚か散っていた。

 落ちていた短冊のうち一枚を、刻晴は手に取って拾い上げてみた。  通常であれば、人の歌を勝手に読むというのは如何なものかと考えることだろう。  だが今は、蛍が何を思っているのか理解して寄り添ってやりたいという気持ちが優って、刻晴はつい文字を目で追ってしまった。

『連子の() 鴉ひとつぞ 殺さぬは 誰がためなるか 翠緑の君』  廓の格子の向こう側、その端に留まった鴉の一羽さえも殺さないのは、一体誰のためでしょうか。私のために鴉を殺してくれると言ったのに。親愛なる翠髪の美しいあなたよ。

 僅かに息を飲んで、刻晴はまた、別の短冊を拾い上げた。

『主がため 我が玉の緒も 惜しからず されど共寝を 廓の朽草(くちくさ)』  あなたのためならば私の命など惜しくはない。私をかばったあなたの心はわかります。けれども一緒に眠ってくれると言ったではありませんか。廓の中の蛍と共に。

 刻晴の目頭に、じわりと熱いものが滲みそうになる。  けれども手を止めることができず、また短冊を拾った。

『愛し君 其の金色は 何処へと 今ひとたびの 逢瀬を望まん』  愛しいあなたの金色の瞳は、一体どこへと消えてしまったのでしょうか。もう一度会いとうございます。

 蛍の歌は、痛いほどに刻晴の心を揺らした。  その背中に声を掛けてやりたいのに、言葉が浮かばない。

『月は欠け 主の心も 欠けたまま 疾くと願うは 君の目覚めよ』  まるで月が永遠に欠けたままのように、私の心もずっと欠けたままです。早く早くと一心に願うのは、ただただあなたが目覚めることです。

 この世には、神も仏もないのだろうか。  確かに、そんなものがいれば自分も蛍も、花街なんぞに身を落とすこともなかっただろう。  それでもどうか、この妹女郎のために、慈悲を見せてはくれないだろうか。  普段そんなものに祈りを捧げたりしない、自分の道は自分で切り開くと考えている刻晴でさえ、そう願わずにはいられなかった。

『褒むれども 君のいませぬ 袖の色 何の意味をや 見出さん』  どんなに人が私の着物を美しいと褒めたところで、あなたがいなければ何の意味がありましょうか。あなたがいて初めて、この袖が色付くのです。

『花守や 主の桜花を 散らさんと 夏に抗い 春に生きんと』  私は桜の花の番人なのです。あなたの満開の桜の花のような笑顔を散らすまいと、夏が来ることに抗いましょう。私はずっと春に生きましょう。そうすれば、あなたはまた私に笑いかけてくれるでしょうか。

 結局、刻晴は何も言えなかった。  蛍の気持ちは痛いほどにわかったのに、こういう場面で何と声を掛けるのが良いのか、刻晴は知らなかった。花街一の花魁が聞いて呆れる、と自嘲することしかできない。  短冊をまとめて静かに魈の枕元に置いてやると、蛍の肩口に一粒、涙をこぼして。刻晴はそのまま部屋を出た。

 あんなにも歌が詠めないと頭を抱えていた蛍がやっと詠んだ歌が、こんなにも悲しい内容だというのが耐えられなかった。  短冊片手に筆を持って難しい顔をしていた蛍を見たのが、もう随分と昔のことのように感じる。冷静に考えてみれば、ほんのここひと月の話だというのに。  水揚げの翌朝、幸せそうに玄関先で別れを惜しんでいた二人の姿が、鮮明に刻晴の瞼の裏に浮かんだ。

 ■ ■ ■

 また、一週間が経った。つまり突き出し道中から二週間が過ぎた。  鍾離は魈が抜けた穴を埋めるため、璃月屋の呉服業の仕事に忙しくしていた。  その一方で、夜毎群玉楼に足を運ぶことも欠かさなかった。  蛍ほど表情に出てはいないまでも、鍾離も疲れた顔をしている。蛍と一緒になって一晩中魈の枕元に張り付いて、その色の失せた(かんばせ)をじっと見守っているのだ。

 蛍と鍾離は、特に何を話すわけでもない。互いに望むことはひとつだけだと、わかり切っていたからだ。  ただ、目の前の人物に目覚めてほしい。それ以外に何もないので、取り立てて会話することなどないのである。

「すまない、時間だ。夜光太夫、魈を頼む」

 事態が事態なので、明け六ツになったからと言って鍾離を群玉楼から追い出す者は誰もいない。  単純に、鍾離がいなければ璃月屋で雇っている者たちの生活が立ち行かなくなるので、戻らざるを得ないだけだ。  ゆえに鍾離は今日も、後ろ髪を引かれる思いで腰を上げる。

「どうぞ、後のことはわっちにお任せくだしゃんせ」 「見送りは構わないから、何か変化があれば知らせてくれ」 「わかりんした」

 短くそんな会話を交わすと、鍾離は部屋を出て玄関に向かった。  鍾離にとって魈は、戸籍上の養子というだけでなく、本当に息子も同然の存在だった。その魈が生死の境を彷徨っているという状況は、大商人である鍾離の精神をもいとも簡単にぐらつかせた。ともすれば、商いに支障を来しそうなくらいに。

 本来ならば、片時も離れずそばにいてやりたかった。けれども鍾離は、そういう無責任な真似をできる立場でもない。  それに、鍾離が魈のために仕事を放っぽり出していたなどと知ったら、魈は呆れ返った顔をするだろう。そういう呆れ顔を見るのも和むだろうが、魈が目覚めて顔を合わせた暁にはやはり、さすが鍾離様という目で見られたい。

 また、鍾離はこの半月ほど蛍と共に魈の看病をしてきた。その過程で、魈が惚れ込む彼女のことを知った。  蛍は本当に慈悲深く、損得勘定抜きに、献身的に魈の世話をしていた。魈が想う相手を疑っていたわけではないのだが、大店商家という立場上、金目当てに近づいてくる人間も少なくない。蛍がそういう類の人間ではないとわかって、心底安心した。  何も心配せず、日中の世話を任せておけるのは有り難かった。  だからこそ、鍾離は自身の責務を全うできている。今の璃月屋が回っているのは蛍のおかげだと言っても、実は過言でないのだ。

 鍾離は群玉楼を出ると、朝日に照らされた群玉楼を何度も振り返りながら、仲ノ町をとろとろと歩いた。  今日こそ、魈の意識が戻らないだろうか。  もう何百回、そう思ったかわからない。ほとんどのことを金子で解決できる鍾離にとって、わざわざ願うようなことなど他にないので、仕方のないことだった。

 この日の昼間も、白朮は群玉楼に顔を見せた。  慣れた手つきで一通り魈の傷口を診察すると、丁寧に消毒をして包帯を巻き直した。

「緩やかですが、傷口も塞がりつつあります。心音と呼吸も安定していますし、そろそろ目覚めてもおかしくないと思うのですが」 「……左様でござんすか」 「状況は悪くありません。気長に待ちましょう」

 白朮は穏やかな微笑でもって、蛍を安心させるように笑った。眼鏡の奥に見える垂れ目の目尻がさらに下がって、柔らかく弧を描いている。  そして、また明日も来ると言い置いて、白朮は荷物をまとめると立ち上がった。  しかしちょうどやって来た甘雨が襖から顔を覗かせ、白朮を呼び止めた。

「白先生、よろしければお茶でもいかがですか?」

 ここのところ毎日群玉楼に通って魈の治療にあたっている白朮への、群玉楼からの心遣いだった。  あと、ほんの少しの打算もあった。花街で唯一の医者である白朮との繋がりは、非常に大切だ。いざというときに白朮の後ろ盾と助けがあるかどうかで、天と地ほどの差が生まれる局面もあるのだ。

 心身ともに過酷な労働を強いられる花街は、死と隣り合わせの世界と言える。体調を崩す者は後を絶たないし、自らの命を断つことでこの世の地獄から逃れようとする者もいる。  遊女は妓楼の経営者にとって財産も同然なので、基本的に楼主たちは遊女をやすやすと見殺しにしたりしない。  とりわけ凝光に関しては、財産どころか遊女たちを一個人として尊重し、大切にしている。必然的に、白朮を頼る機会は少なくなかった。

「では、お言葉に甘えて」 「ご案内します」

 甘雨に連れられて部屋を出ていく間際、蛍を顧みて白朮は声を掛けた。

「あまり無理をなさいませんよう。遣手殿のお言葉に甘えてもうしばらくここにいますから、あなたも体調が優れないなどあれば言ってくださいね」

 静かに襖が閉まる音がして、甘雨と白朮が去ると、部屋の中はしんと静まり返った。

 白朮は医者として、蛍のことを案じていた。  蛍がこの二週間、昼夜を問わず魈の傍らに付き添っていることは、白朮も知っている。また、誰が何と言おうとも蛍が頑としてそこを動こうとしないことも、甘雨や刻晴から聞いていた。  白朮が諭したところで、蛍はやはり休もうとしない。しかし医者として、せめて言葉を掛けるくらいはと思って、定期的に何かあれば言うようにと伝えているのだ。  医者にとって一番困った患者というのは、こういう頑固者だ。すべてを諦めて後ろ向きになった患者よりも、よほどたちが悪かった。

 蛍とて、白朮の気遣いがわからないわけではないのだ。  ただ、譲れないだけだ。自分のせいでこのような事態になったのだから、魈が目覚めるまで、自分は片時も離れてはいけないと思っている。  いや、そんなものは建前で、本当はただ純粋に魈のそばに居たいというだけだった。蛍と何の関係もないところで魈が怪我をしたとしても、きっと同じことをしたはずだ。

 蛍は魈の枕元に、書き溜めた歌の短冊を並べてみた。  まるで何かの呪いの儀式でも始まりそうな光景がおかしくて、少しだけ笑みがこぼれた。  けれども瞬きひとつのうちに、その力ない笑みは消え失せて、瞳から光が失われる。暗澹とした色が立ち込めた目は、腐食した金属のような色合いをしていた。

 蛍は懐から、突き出し道中の前夜に魈からもらった文を取り出した。手紙を読むような気分には到底なれなくて、ずっと内容を確認できずにいたのだ。  何となく、目を通してみようという気持ちになって、開いてみた。  手紙には達筆ながらも角ばった、魈らしい文字が並んでいた。

『お前のことは我が守る』

 道中が終わってから読めなどと勿体ぶっておいて、書いてあるのはそのひと言だけだった。  その文字の意味を理解すると、魈が銃弾に倒れてからの半月、耐え忍んでいた涙が溢れた。湧き上がる雫は上質そうな紙の表面にぱたぱたと落ちて、墨を滲ませていく。

「本当に、守ってくれたんだね……」

 でも、自分の命を投げ打ってまでそうしてほしいとは、思わないのに。  なぜこの人はいつも、蛍のために手を差し伸べてくれるのだろうか。  ぽっかりと抜けた記憶の穴に、もしかしたら魈がいたのではないかと、何の根拠もないのに思ってしまう。血に濡れた魈が呟いた、あの日、というのはその抜け落ちた日々のことではないだろうか。  恩と償い、それらの意味はまったくわからない。だが過日、杏仁豆腐を食べていた魈の言葉がどこか耳に残ったのも、ずっと引っかかっていた。  なぜだか、ずっと前から魈のことを知っている気がするのだ。

 蛍が失っているのはほんの数日間の記憶だけで、これまでの人生に大きな支障はなかった。だから特に思い出そうと努力したことはなかった。  それに、一度兄に尋ねてみたことがあったが、なぜか兄はとても辛そうな顔をしていた。今にも泣き出しそうな、一方で見たこともないような殺伐とした目で、無言で蛍を見返して来た。どう見ても、その話には触れたくなさそうにしていた。そんな兄を見て、それ以上言葉を重ねることなどできなかった。  そうした経緯があって、一部の記憶がないという異常なことから、蛍はずっと目を背けていた。

「目を開けて、教えてよ……」

 あの日のことを、いつも蛍を助けてくれる理由を。

 握り締めていた文が、蛍の手から滑り落ちた。かさりと音を立てて、畳の上で動かなくなる。当然だ。窓も襖もぴっちりと閉じているこの部屋に、空気の流れはない。

 蛍は短冊に囲まれて眠り続ける魈の顔を覗き込むと、その頰に触れた。  確かに体温を感じる、生きている。あとはその瞼を開けるだけではないか。早く、早く。  急く心のままに、魈の頰を撫でた。

 しかしどれだけ待っても、魈の瞼はぴくりとも動かず、その双眸が何かを映すことはなかった。  微かな浅い呼吸が繰り返されるだけだ。

「……窓、開けようかな」

 気が付くと、蛍はもう泣いていなかった。否、泣けなくなっていた、の方が正しいかもしれない。涙は枯れ果ててしまったようだ。  蛍は立ち上がると、締め切られた窓へと歩み寄った。ガタガタと音を立てて、窓を開け放つ。  たまには空気を入れ替えなければ、良くなるものも良くならない。これは白朮の受け売りだが、蛍は日々真面目に実行していた。

 窓の外にはいっそ腹立たしいくらいに晴れ渡った青空が広がっており、白い雲がぽっかりと浮かんでいる。  風の凪いだ水面が、漣ひとつ立てないように。蛍はもはや無感情にも見える空虚な目で、空を見上げた。  穏やかな空と、静かな部屋。それらは何も変わらないように見えて、確実に変化している。太陽は空を跨ぎ、雲は流れ、空気は風となってどこかへ旅立つ。  魈だけが、止まった時の中に取り残されているようだった。過去に取り残された魈と、否応なしに先の時間に連れて行かれる自分。  ああなんと虚しいことだろう、と思った。

 窓から通りを見下ろせば、どこかの妓楼の下男が使いか何かで走り去る姿が見えた。また、姉女郎に頼まれて買い出しに向かう途中と見受けられる禿もいる。  皆、いつも通りの日々を過ごしている。  当たり前だが、皆魈のことなど知らないのだ。蛍の悲しみなど知らないのだ。  どうにも苦しくて、ついに蛍はくしゃりと顔を歪めた。ぐっと唇を噛んで、眉根を寄せて、みっともない表情になる。

 刹那、一陣の突風が部屋の中に吹き込んだ。  それが蛍の金糸のような髪をぶわりと煽るので、蛍は思わず両目を瞑ってしまった。  と同時に、背後でばさばさという音がした。

「あ、短冊が……!」

 蛍は振り返ると、思わず声を上げた。  魈のそばに並べていた歌の短冊と、畳に落としたままにしていた文が風によって舞い上がり、部屋の中を舞っていた。  まるで白と黒の桜吹雪のように、烈風に煽られて舞い踊る短冊と文。  反射的にそれらを捕まえようとして、蛍はまろぶようにして魈が眠る布団に駆け寄った。

 すると、舞い散る短冊の中に、金色が覗いた。

「……ほ、たる?」

 血の気のない薄い唇が、蛍の名を紡いだ。

 蛍は魈の褥の前でぴたりと足を止めて、声を詰まらせた。そして何も言えないまま、魈の枕元に崩れ落ちるようにへたり込んだ。  その金色を、その声音を。ずっと待ち望んでいた。  魈が確かにその目を開けて、透き通る瞳に蛍の姿を映している。確かに今、蛍の名を紡いでいた。

「しょう……!」

 ぼたぼたと大粒の涙をこぼしながら、蛍はやっとのことで魈の名前を呼んだ。どうやら涙はまだ、枯れていなかったらしい。  ようやく風がおさまって、ひらひらと舞い落ちてくる短冊の中に横たわる魈。その未だ青白い面差しに生気が戻ったのを認めて、蛍は両手でその頰を包み込んだ。  確かに温度を感じる、確かに瞬きをしている、と。ひとつずつ確認するように。

「存外、地獄というのも悪い場所ではないらしい」

 魈はまだぼんやりとした様子で、そんなことを言った。  蛍には、言いたいことがたくさんあったはずなのに。息が詰まって、胸が苦しくて。言葉が出てこなかった。  けれども、少なくともここが地獄でないということには気付いてほしかった。

「……魈は、生きてるよ」

 光る雫をはらはらとこぼしながら、蛍は呟いた。  魈に触れていた手を引っ込めて、それを拭おうとするのだが、追いつかない。  涙を流し続ける痛切な蛍の様に、自分の置かれた状況を徐々に思い出したのか、魈は瞬きを繰り返しながら目を丸くして蛍を見つめた。

 自分はまだ、生きている。  魈はようやくそのことを理解した。  あの世に行っても蛍がいるとは、随分と都合の良い死後の世界だと思ったのだが、そういうわけではないと気付く。

「……お願いだから、一緒に生きて」

 蛍は止めどなく落涙しながら、嗚咽混じりに言葉を紡いだ。  自分一人が生きながらえたところで、嬉しくなどなかった。魈が隣にいなくては、意味がなかった。魈のいない世界など、それこそ地獄だった。  それほどまでに、魈の存在は蛍にとって大きくなっていた。

 切に訴える蛍を、魈は褥の中からしばし黙って見上げていた。  蛍を守れさえすれば、この身はどうなっても構わない。そう思っていたのに、この考えは単なる自己満足だったのかと思い知る。

「……望むらくは、お前と共にうつつを生きることを」

 自分の命が貴重などとは、考えたこともなかった。  初めて、生きねばと思った。  それにこうなって初めて、やっと気が付いたのだ。蛍を守るだけでなく、蛍と共に今生を生きたいと思う自分自身に。幸せになりたいなどという俗な欲が自分にもあったのかと、今さらながらに驚く。

 鍾離に拾われて養子にしてもらったことは、言うまでもなく、魈にとって感謝してもしきれないことだった。鍾離との穏やかな生活は、悪くなかった。  自分のために心を砕いてくれる鍾離に対しては、いつだって恩を返したいと思っている。ゆえに魈は、鍾離の幸せのために、璃月屋の繁栄のために、自分のすべてを捧げるかのように働いてきた。  しかし蛍に対する感情は、それとは明らかに違った。この手で蛍を幸せにして、その横で自分も不器用そうに笑っている。そういう未来を想像した。

 蛍のためならば死んでも良いと思う一方で、身請けをして手元に置きたいと思う。他の者に渡したくないと思うのに、廓という籠の外で自由に生きてほしいと思う。  矛盾しかないこの感情を、どうして良いのかわからない。  だが、許されるのならば共に生きたいと思った。

 蛍を守る。それは、魈が十年前に果たせなかったことだ。  だから蛍は不甲斐ない自分のことを少しも覚えていないのだろうと、魈は考えている。  現場に駆けつけた蛍の兄が鋭い視線を自分に向けていたことも、昨日のことのように覚えている。  そうだ、守れなかったなどという言い方は生ぬるい。自分が蛍を殺しかけたのだ。自分のせいで、あの日蛍は真紅の血の海で溺れた。後々、蛍が生きていることを知るまでは、本当に殺してしまったと思っていた。  その罪の意識は、ずっと消えない。

 それでも、奇跡のようにもう一度縁を結んで、共に刹那の時を過ごして。今度こそ蛍を守ろうと決めたのだ。  そのためならば、自分の命など惜しくはないと思っていたのに。  蛍を守って自分も守らねばならないとは、難儀なことだった。

 しかし少し考えてみれば、当たり前のことなのだ。  魈がいなくなれば鍾離は嘆くだろうし、詩人もああ見えて悲しげな顔をするだろう。飄々として見えて、詩人は情に脆いところがあるのだ。だから蛍の水揚げのときも、ぽろりと情報を漏らしたに違いない。  それに何より、蛍が泣かないはずがないではないか。自分の見込んだ女は、そんな薄情な人間ではない。

 蛍を守れたことに悔いはないが、蛍を悲しませたことはいただけないなと思った。そこだけは、多少反省の余地があると認めざるを得ない。

「お前のために生きよう」 「うん……」

 涙声で、蛍は短く応答した。  そんな蛍に手を伸ばそうとして、魈はぐっと息を詰めた。蛍の涙を拭ってやろうと思うのに、弾丸を受けた傷口がずくずくと痛んで体が軋む。  傷を作ることには慣れている。十年前にはいつも、大なり小なり傷にまみれていた。耐えられない痛みではない。  けれども久しぶりの感覚に体が驚いているのか、指一本動かそうとするだけでも、傷口を中心に全身にびりびりと痛みが走る。  それに、どれほどの時間かはわからないが随分長いこと寝たきりだったようで、あちこちの筋肉も落ちていそうだった。

 どのようにして、蛍の溢れる雫を止めてやろうか。  気掛かりなのは、その一点のみだった。

「まだ寝てないとだめだよ」 「身を起こすだけだ」

 結局、魈は根性論で無理矢理にでも起き上がることにした。  寝ているべきだと諌めてくる蛍を制して、病み上がりとは思えない力強い声音で言い返す。  仕方なく、まだ動き回らないことを念押ししてから、蛍も魈の背中を支えて手伝ってやった。  未だに情緒が不安定なのであろう、蛍の瞳からはまた、涙の粒がつーっと流れ落ちた。

「傷口、痛むよね? すぐに白先生を呼んでくるから」

 魈は白という人物を知らないが、蛍の口ぶりからして医者だろう。恐らく自分の命を救ってくれた者だろうと察する。  しかし痛々しいほどに涙をこぼし続ける蛍を、そのまま行かせるつもりはなかった。

 多少の痛みは相変わらずの精神論で無視して、腰を上げかけた蛍に今度こそ手を伸ばした。ぎしぎしと、体中から妙な音が聞こえてもおかしくないような感覚がする。  太陽のように鮮やかな、蛍の黄金色の髪。それを魈は、右手で一房取り上げた。傷を受けたのは左側なので、なんとか問題なさそうだった。

 魈の動きに釣られるように、蛍は腰を上げるのをやめた。  そして魈がくいっと軽く蛍の髪を引っ張ってくるので、蛍はほんの少し前のめりになって魈に近付いた。

「笑ってくれ」

 金色の瞳で蛍を見つめながら、魈は言う。蛍の焦がれた、穏やかで安心する色だ。  魈は蛍の髪を大切そうに口元に寄せると、そこに口付けを落とした。  ついさっきまで精彩を欠いていたはずなのに、魈は余裕そうにゆるく口端を上げて、微笑んでいる。蛍を元気付けようと、実は男の矜持にかけて頑張っているのだが、そんなことはおくびにも出さない。

 いつしか、蛍の涙はぴたりと止んでいた。されども頬を伝っていた水滴はまだ乾ききっておらず、開け放たれた窓から差し込んでくる陽光を反射している。  柔らかく微笑み返す蛍の(おもて)は、きらきらとして見えた。

「いきなり言われても、難しいよ」 「上出来だ」

 やっと涙を流さなくなった蛍を見て、魈は安堵の色を浮かべた。  蛍のこういう顔を見たかったのだ。  正確にどれほど意識を失っていたのかは定かでないが、恐らく数週間ぶりに見る蛍の笑顔は、何も変わらなかった。魈の焦がれた、好ましい表情だった。

「ねえ」

 蛍がぽつりと声を発した。  引き続き蛍の髪を弄びながら満足そうにしていた魈は、その呼びかけに反応して軽く首を傾げた。  蛍は自分の髪に触れている魈の手をじっと凝視していたかと思うと、意を決したように真正面から魈を見た。

「……ここには、してくれないの?」

 蛍は自身の口元を指差して、少々恥ずかしそうに頰を赤く染めながら言った。  今の蛍は、座敷に出るときのような化粧をしていない。紅を引いていないので、淡い桜色の唇をしている。  蛍の仕草に魈は一瞬目を見開いたものの、すぐに平静を装うように仏頂面になって短く返した。

「無理を言うな」

 あっさりと断られてしまい、蛍は気恥ずかしさと悔しさを滲ませて、口をぎゅっと引き結んだ。  水揚げの件からして、こういう反応をされる可能性は覚悟していたものの、改めてそう言われてしまうと寂しかった。せっかく勇気を出したのに、と思わずにはいられない。女に恥をかかせるなんて、とも。

 穴が空きそうなほどに睨み付けてくる蛍の視線を、魈は黙って受け止めた。  その鋭さに、たじろがないと言えば嘘になる。恐ろしいとは思わないが圧は感じるし、なんだかんだ上目遣いになっていて可愛らしいとすら思ってしまう。  そんな蛍の表情に、魈は困ったように眉を下げて、僅かに逡巡するような素振りを見せた。  そうして何か心に決めたのか、口を開く。

「歯止めが効かなくなると、まずい」

 言葉と共に、魈はずっと手の中で弄んでいた蛍の髪を一房、春の花のような蛍の唇に宛てがった。綺麗な色合いだな、と思いながら。  それから、蛍の唇に咲いた黄金色に自身の唇を重ねた。唇同士はぎりぎり触れていない。髪を介した、口付けと呼んで良いものかもわからないような接触だった。  やがて、はらりと蛍の髪が滑り落ちると同時に、淡すぎる温度が離れていく。

「続きはいずれ」

 切なそうに、愛おしそうに目を細めて、魈は小さく呟いた。  蛍は自分から誘っておきながら、視線を下げて俯いている。口元を袂で押さえて、言葉も出ない様子だ。ただし、魈と同じく幸せそうな様子で、眩しそうに目を細めている。  蛍の顔は耳まで真っ赤になっていて、伏せられた視線はゆらゆらと揺れていた。先ほどまでとは違う意味で、感情が揺さぶられているらしかった。まさかこんな形で手打ちにされるとは、思ってもみなかったのだろう。

 そうしてついに限界になったのか、蛍は一度ぎゅっと目を閉じたかと思うと、弾かれたように顔を上げて目を開けた。

「……白先生を、呼んできます!」

 なぜか敬語になってそれだけ言うと、蛍は勢いよく立ち上がって部屋を出て行ってしまった。  どうやら恥ずかしさに耐えられなくなったらしく、白朮を読んでくる名目で逃げ出したようだ。これでよく、水揚げの日に腹を括れたものだなと、魈は内心で思った。  しかし魈の方も、蛍のことをとやかく言える状態ではなかった。

「……これは、逆に歯止めが効かなくなるな」

 蛍が去ってピシャリと閉められた襖を見遣りながら、結局魈も朱色を頰に乗せてしまっていた。蛍がいなくて良かった、と逃げ出した蛍に思わず感謝した。  この部屋にはもう誰もいないのに、誤魔化すように片手で口元を覆って、なかなか冷めない熱をやり過ごす。

 しかしながら、まだ思うように体が動かないというのに、この昂りをどうしたら良いのだろうか。  せっかく必要以上に触れないよう、注意しているというのに。毎度愛らしい反応を見せられて、心乱される側の身にもなってほしいものだった。  つい先日、蛍でなければ意味がないなどと言っておいて。果てさて、自分の理性はどこまで保ってくれるだろうか。  苦悩ではあるが、嫌な悩みではない。端から見ればきっと、愚かで幸せな悩みだろう。

 考え込む魈の意識を現実に引き戻すように、ざあっと音を立てて、開け放たれた窓から風が入ってきた。  よくよく見れば、魈の周囲には大量の短冊と、蛍に渡したはずの文が散らばっている。  それらが風に煽られて、ふわふわと辺りに漂った。  うち一枚の短冊を手にとってみれば、こう書き付けてある。

『望むらく 其は常しえを 君と生き 鴉を殺さず 共に昼寝を』  私が望むことはただひとつ。永遠にあなたと共にあることです。それが叶うのならば、三千世界の鴉など殺さなくても構いません。ただ、共に昼寝でもしましょう。

「白とやらの診察が終わったら、昼寝でも決め込むか」

 ふっと口元を緩めて穏やかに笑いながら、魈は機嫌良さそうにひとりごちた。  真昼間の花街で昼寝をできるような男は、そうそういないだろう。  傷口は相も変わらずしつこく痛みを主張してくるが、正直役得としか思えなかった。こんな役回りができるのならば、もう一発くらい弾丸を受け止められるような気さえする。

 もちろん、そんなことは蛍も鍾離も許さないだろうし、口にすればしこたま怒られるだろう。  そしてそこに詩人がいればきっと、それならば自分がもう一発入れてやろうと笑いながら言って、あの細腕で鳩尾目掛けて拳を叩き込んでくるに違いない。痛くも痒くもないだろうな、と思うと笑えてくる。  本当になったとしたら、どんなに愉快だろうかと思える光景だ。皆で過ごす一場面を想像して、自然と顔が綻ぶ。  ああやっぱり、その輪の中に自分もいたいのだ。

「柄ではないが、返歌を用意してやらんこともない」

 古来より、歌をもらったならばそれには歌でもって返さねばならないという決まりがある。  今は近くに筆もないので、口ずさむ。

『君がため 惜しからざりし 命さえ 鴉を殺さず 恋に溺るる』  お前のためならば少しも惜しくはないと思っていた命であったのに。三千世界の鴉を殺すこともなく、こうして恋の淵に溺れていくのだな。けれどそれは、ひどく心地良い息苦しさであることよ。

 やがて、襖の向こうから蛍の声が聞こえてきた。白朮を連れて戻ってきたようだ。  魈は短冊と文をまとめて枕元に置くと、常の乏しい表情を急いで取り繕って、二人を出迎えた。

 窓から吹き込んでくる風は、いつの間にかただのそよ風に変わっていた。ゆるゆると吹き込んで、もう短冊を散らしたりしない。

 診察を終えた白朮が帰ったのち、気まずそうにしていた蛍を褥に引きずり込んで、魈が昼寝を楽しんだのは言うまでもない。  体が痛いと嘯けば蛍が強く抵抗できないことは、計算尽くだった。嘘を言ったわけではないが、我ながらずるいことをしたと思う。  だが魈は少しも悪びれることなく、何の趣もない昼の鴉の鳴き声を子守唄に、穏やかな午後の花街で微睡んだ。

望むらくは、うつつを共に(下)
魈蛍ちゃんの遊郭パロ三話の後編になります!
(pixiv上では第四話の扱いですね)

めーーーっちゃくちゃ疲れました……。
教養のない頭で教養の必要そうなネタを書こうとして、見事に自分で自分の首を絞めまくりました。
でも自分的には最後書きたかった場面がしっかり書けたので、頑張って良かったなぁと一人満足しています。
見どころは、若旦那魈様の鉄壁の理性VS積極的な蛍ちゃんです。
楽しんでもらえましたら幸いです!!

いっぱい頑張ったので、気の向いた方がマシュマロを投げてくださったりすると大変嬉しいです。
プロフィールにマシュマロのリンクがあるのと、Twitterにも固定してるので、良かったら!!!(強欲)
これまでの作品にマシュマロやコメント、ブクマなど反応くださった皆様も、本当にありがとうございます。
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2021年9月12日 11:26
藤花

藤花

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