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「蛍」
若旦那は静かに名前を呼んで、目を伏せた。それは、一番好きな声音で紡がれる、一番大切な音だ。 だが、若旦那は視線を逸らしても手を離さなかった。
■ ■ ■
君がため、惜しからざりし命さえ。 三千世界の鴉を殺さず、主と昼寝をしてみれば。 請いて乞いては果てもなし。 恋と欲とは紙一重にて、さもありなん。
■ ■ ■
東の空が白み始める頃。相変わらず騒がしい、朝鴉の声。 花街に生きる者たちを嘲笑うかのように、数多の鴉が甲高く鳴いている。
「うーん……?」
けたたましい鴉の鳴き声に起こされたのか、蛍はぼんやりと意識を浮上させて、小さく声を上げた。まだ眠気が勝って、瞼を上げることはできない。 今日の布団はやけにあたたかくて、ここから抜け出したくないという気持ちになる。ぽかぽかとして、心地良い。このままずっと眠っていられたら、どんなに幸せだろうか。 しかし徐々に覚醒してくると、否が応にも現実を思い出す。ここは廓という籠の中、自分には成すべき事柄があるのだということを。
なぜか今日は、兄の夢を見なかった。離れ離れになったあの日の光景に苛まれながら重い瞼を開けるのが、お決まりの一日の始まりだったはずなのだが。 考えてみれば、朝に目覚めるというのはかなり久方ぶりのことだった。なぜなら花街に来てからというもの、夜は仕事の時間なので、そんな時間に床に就くことはまずないからだ。 それなのに朝鴉の声で目を覚ますとは、一体どういうことだろうか。
次第にはっきりしてくる意識の中で、蛍は自分がおかしな状況に置かれていることを認識し始めた。 そうしてようやく重い瞼を持ち上げて、蛍は目の前に広がる光景を見た。
「あ……」
蛍は驚きのあまり、ぽつりと声を漏らしてしまった。 それが小声でおさまったのは、偏に目の前ですやすやと眠る人物がいたからに他ならない。起こしてはいけない、と反射的に思って、何とか声を抑えた。
眼前いっぱいに飛び込んできたのは、さらりとした翠髪を湛えた、端麗な寝顔。その持ち主は他でもない、璃月屋の若旦那である魈だ。 未だ夢の世界にいるらしい彼は、平素の仏頂面とは異なり、随分とあどけない。安心しきった顔をしているように見えた。 そしてその腕は、昨夜からずっとそのままなのか、蛍をきつく抱き締めたままである。蛍が寝心地の良い夜着だと思っていたのは、魈の腕だったらしい。
今の自分に何が起こっているのか、蛍はやっと合点がいった。 昨夜蛍は水揚げを控えていて、色々な巡り合わせの末に、その相手が魈になった。けれども魈は、遊女である夜光との房事を望まなかった。蛍という人間が相手でなければ、意味がないと言ったのだ。 それなのに、眠いからと強引に蛍を褥に連れ込んで、まるで抱き枕のようにしてあっという間に寝てしまった。 よくわからないが、純粋に共寝をすることは、魈の中では許容範囲のようだ。
まだどこか夢見心地のようなふわふわとした気分で、蛍は魈の目鼻の整った顔立ちを眺めた。初めて会ったとき、無意識にその美貌に見とれてしまったことを思い出す。 やはり何度見ても麗しい顔の作りだと納得するが、今となってはそれ以上に、魈の内面に惹かれていることをはっきりと自覚する。 蛍の名前を呼んでくれたことも、涙に気付かないふりをしてくれたことも。突然大量の金子を持参して蛍を身請けすると言い出したことも、蛍のためにいつも手土産を持ってきてくれることも。何より、水揚げに際しても何ひとつ変わらず、蛍を蛍として扱ってくれたことも。 魈が蛍に与えてくれる全部のことが嬉しくて、この人のそばにいたいと思わされる。どんなに些細なことであっても、蛍の心をあたたかくしてくれる。
魈とのこれまでを考えていると、蛍の心中に充足感のような、安心感のような感覚が広がっていく。それはひどく穏やかなのに、同時にどきどきと心臓が高鳴ってくる。 気持ちは通じていれども、自分たちがしたことと言えば、こうした抱擁程度。 蛍は覚えず、目と鼻の先にある魈の唇を見つめてしまった。
「そんなこと……」
自分の頭に浮かんだ考えを打ち消すように、蛍は呟いた。 当然、いつか触れてみたいとは思うものの、まさか寝込みを襲うわけにもいかない。そんなはしたないこと、できるはずがない。 蛍は誤魔化すように視線を逸らして、別のことを考えようと努めた。
その甲斐あってか、少しして蛍は気付いた。締め切られた窓の外で鴉が騒いでいるのを聞くに、恐らくそろそろ明け六ツが近い。 基本的に花街では、この時間になると客を送り出さねばならない。つまり、そろそろ魈を起こして帰る時間だと伝えなければいけないということだ。 普段は一晩中起きていて、囲碁で遊んだり他愛もない話をしているので、こうして魈を起こすというのは初めてのことだった。なんだかこそばゆい感じがするものの、決まりは決まりである。未だ魈が目覚める気配がない以上、蛍が起こす他ないのだ。
まずは自分自身が身を起こそうと、蛍は自身をがっちりと抱え込んでいる魈の腕を押してみた。 しかし眠っているのになぜこんなに力が入っているのか、びくともしない。身を捩ってもぞもぞと動いてみるも、抜け出せない。 あまりもたもたしていると、甘雨あたりが声を掛けにくるかもしれない。
それに今さらながら考えてみれば、水揚げをしていないことがばれると良くないのではないだろうか。 蛍の座敷の独占権は魈のものなので、他の客の相手をすることはないし、現実的には何の問題もない。だが、ここはしきたりにうるさい花街であり、しかも状況が散々二転三転した上で実現した水揚げだ。凝光をはじめ、骨を折ってくれた者たちからすれば、ふざけるなと言われてもおかしくない。 つまり、どのように口裏を合わせるかを魈と話しておく必要がある。 そのことに思い至った蛍は、先ほどまでとは別の意味でどきどきしてきた。罪悪感と呼ぶべきそれは、蛍と魈が周囲に対して背負っていかねばならない業だ。
とにもかくにも、魈を早く起こさなければ始まらない。
「魈、起きて。もう朝だよ」
段々と焦りが募ってきた蛍は、気持ち良さそうに眠っている魈に遠慮するのをやめて、ぐいぐいと胸板を押して揺り動かした。 声も掛けて、目覚めを促す。 意外にも朝に弱いのか、眉間に皺を寄せるだけで魈の瞼は上がらない。
「ねえ、起きてってば」 「……」
何度か呼び掛けていると、魈は黙ったまま、やっと金色の瞳を覗かせた。ぼんやりとした様子で、腕の中の蛍を見遣っている。 良かった、と安堵して蛍はほっと息を吐き出した。
「おはよう」
朝の挨拶をするというのがなんとなく照れ臭くて、蛍ははにかんだように顔を綻ばせながら挨拶した。 そんな蛍の顔を、魈はしばらくぽやぽやとした気の抜けた顔で見つめていた。本当に朝が苦手な様子だ。魈の珍しい表情を観察しながら、蛍は挨拶が返ってくるのを待ってみた。 すると、やっと魈の薄い唇が動いた。 今日という一日の始まりに何を言ってくれるのだろうか、と期待して蛍はその言葉に耳を傾けた。
「……ここは夢路の果てか」
そんなことを呟いて、魈がふわりと笑って蛍の頭を撫でてきた。 柔らかく儚い、まるで満開の桜の花が花弁を散らすような笑みだった。それは夜桜を彷彿とさせ、闇の中に浮かび上がる淡い薄紅色と重なった。 蛍は思わず息を飲んで、その憂いを帯びた温顔を見た。 麗しい尊顔で、そのような表情を浮かべるのはもはや罪と言えるだろう。本人は無自覚なのか、破壊力抜群の白面を惜しげもなく蛍に向けている。 しかも蛍と迎えた朝を夢の続きのようだと宣うのだから、殺し文句にも程がある。
朝一番から刺激が強すぎて、蛍は一人顔を真っ赤にしてしまった。 何も言葉を紡げず、機嫌の良さそうな魈の寝ぼけ顔を見返すことしかできない。
今の魈には、大店商家の若旦那らしい威厳など微塵もなかった。 相変わらず蛍を力強くその腕に抱き込んだまま、満足げに蛍の黄金色の髪に頬擦りまでし始める始末である。 蛍はもう限界だった。昨夜この若旦那と枕を交わすことを望んでいたのは確かだが、それとこれとは別問題だ。こんな事態に耐えられるほど、残念ながら蛍には経験値がない。 混乱のせいか、横になっているのに目の前がぐるぐるして、目眩のような感覚に襲われた。心音は、魈の耳にまで届いてしまうのではないかというくらいに煩い。 この空気に耐えられず、ついに蛍は叫んだ。
「魈、いい加減に起きて!」
気恥ずかしさを誤魔化すように、蛍はついでに魈の肩もバシッと叩いた。 その衝撃でようやく意識がはっきりしてきたのか、魈は何度か瞬きをして、すっと目を細めた。
「……なんだ」
魈は不快そうな声を発して、真っ赤な顔をした蛍をじとっと見た。 先ほどまでのある意味呆けた面持ちは消えて、すっかり平素の感情の乏しい顔に戻っている。
「……さっきの」 「……」 「寝ぼけてたの?」 「……さあな」
蛍の問いにはっきり答えることなく、魈ははぐらかした。 ほんの少し耳が赤くなっているあたり、夢現で気の抜けた言動を晒したことを思い出して、なかったことにでもしようとしているのだろう。 しかし人間、そういう状態の時の方が本性が出ると言う。案外、魈の本来の性格というのは、素直な性質なのかもしれない。 いつもそうでも良いのに、と思ったものの、蛍はすぐにその考えを否定した。そんなことになったら、蛍の方が先に降参してしまいそうだった。心臓が破裂するかもしれない。
余計なことを考えるのはやめて、まだ蛍を抱え込んだままの魈に、蛍はやっと用件を伝えた。
「もう朝だから、魈は帰らないと」 「……」
魈は明らかに不服そうに、だんまりを決め込んでいる。何なら腕の力を強めているくらいだ。 蛍の言葉が聞こえていないはずはないのに、無視しようと言うのだろうか。 もちろん、蛍とて魈が帰るのが寂しくないはずがないし、そうした魈の反応が嬉しくないわけもない。 けれども決まりというものは、守らねばならない。花街の住人である以上、従うしかないのだ。
「三千世界の鴉を殺し、か」
ぼそりと、魈が口を開いた。
それは有名な都々逸だ。 三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい。 解釈については諸説ある歌だが、遊女と客という間柄の男女が、共に朝寝をできないことを嘆く心情を表現しているという。 煩く鳴く世界中の朝鴉を殺してしまえば、ゆったりとした朝寝を邪魔する者はいなくなるとか。鴉さえいなければ、朝が来たことに誰も気付かずずっと二人で過ごせるとか。 また、鴉とはすなわち遊女を廓に縛り付ける契約の喩えで、年季が明けるか身請けをされて廓を出られれば、外の世界で夫婦となって朝寝ができるという話を表しているとか。 どれであっても、結局はあらゆる面倒事から解放されて、ただただ二人水入らずで過ごしたいという、それだけの話だ。
「……それならいつか、私のために鴉を殺してくれる?」
魈の意を汲んで、蛍は問いかけた。 別に何も、蛍は本当に何かを消してほしいと思っているわけではない。これまでの魈の誠意を疑っているわけでもない。 だが、ほしかったのだ。自分のために鴉を殺すという、重く心地良い言葉が。
「殺戮は我の専門分野だ」 「ふふ、変な冗談」
魈の答えがおかしくて、蛍はころころと笑った。 飽きもせず、抱き合ったままで笑い合う。 こうして廓の中で微笑みあって朝を迎えることができるだけでも、この上ない幸福を感じるというのに。もしも朝寝ができたら、もしも本当に外の世界で共に無邪気な日々を送ることができたとしたら、それはどんなに幸せなことだろうか。
結局、意志薄弱な二人はもたもたと身なりを整えて、ぎりぎり朝五ツになる間際の頃に正面玄関に辿り着いた。 離れがたくて、どちらが先に寝床から抜け出すかの意地の張り合いのようになってしまったのだ。当然と言うべきか、最終的に行動を先に起こしたのは蛍だったが。 それに加えて、魈が見繕ったという蛍の藍染の着物は、案の定いくらか皺がついてしまっていた。それを蛍は手で引っ張って伸ばそうと試みたが、一晩眠って付いた跡は消えなかった。 魈が洗い物屋を手配してやると言い、それで話は落ち着いたものの、せっかくの着物に皺を付けてしまったことが気になって仕方なく、身支度にもたついてしまったのだ。
玄関先で魈を見送ると、蛍はついつい顔を緩ませた。 昨日の朝、どん底のような気持ちで別れたことが嘘のように、今朝の別れは清々しい。もちろん、多少の寂しさはあるものの、また変わらない日々を送れることが嬉しくて堪らなかった。
「蛍」
ようやく魈の姿が見えなくなると、背後から凛とした声に呼ばれた。 群玉楼において、蛍を夜光と呼ばない人物は一人しかいない。
「刻晴さん、おはようございます」 「……お疲れ様、と言いたいところだけど」
振り返って爽やかに挨拶する蛍を、なぜか刻晴は気難しそうな顔で見つめている。口元を着物の袂で隠しながら、言いたいことがあるのに言いにくい、というような様子だ。 自分の客の見送りなどとうに済んでいるはずの刻晴がここにいることも不思議だったが、その上何とも言えない表情をしているので、ますます謎が深まる。 蛍は小首を傾げながら、刻晴の話の続きを待った。
実のところ、刻晴は蛍が心配で、自分の客の見送りが終わっても玄関近くをうろうろしていたのだ。 水揚げ用の着物を切り裂かれるという事件に、水揚げ相手の変更。怒涛のような一日を送った蛍を、姉女郎として、友人として心配していたのだ。 ゆえに朝一番で蛍の顔を確認して何か言葉を掛けてやろうと思っていたのだが、労いの言葉よりも先に言いたいことができてしまって、刻晴は複雑な顔をしていた。
「……璃月屋の若旦那様って、不能なの?」
とんでもない言葉が刻晴の口から紡がれて、蛍はぴしりと石像のように固まった。 そしてすぐに頰を紅潮させて、黙って刻晴を見返した。もちろん、刻晴の言葉の意味がわかっているからだ。ぱくぱくと口を開閉させることしかできず、何も言えない。 どういうわけか、刻晴は蛍と魈の間に昨夜何もなかったことに気付いている。隠さなければと思っていた矢先にこれである。困惑するなという方が無理な話だ。
「……な、何のことですか? なぜそんなことを?」 「なぜって……」
蛍はやっとの思いで返答したものの、その声音は随分と頼りない。 疑問に疑問で返すという回答で誤魔化せるはずもないのに、蛍はその場凌ぎのように刻晴に問いかけた。
刻晴は僅かに口籠ってから、念のため周囲に視線を巡らせるような様子を見せた。一応、他の者に聞かれないようにとの配慮らしい。 近くに誰もいないことを確認すると、刻晴は蛍と距離を詰めた。次いで蛍の耳元に唇を寄せて、白魚のような手で自身の口元を覆って。こそこそと理由を述べた。
「君の歩き方、とても水揚げの翌朝の女には見えないわよ」
その指摘に、蛍は相変わらず頰を赤く染め上げたまま、目をぱちくりさせた。 さらに刻晴は続けて言う。
「しかも間夫を相手にしておきながら、平然と顔を見て見送れるほど、君は図太い女じゃないでしょう」
間夫、というのは要するに、遊女にとっての本命の男のことだ。この場合、蛍にとっての魈のことを指す。 刻晴の言うことを総合すると、つまり。 好いた男と関係を結んだとは思えない蛍の様子と、新鉢を割られたとは思えない蛍の足取りで、二人が昨夜関係を結んでいないことを刻晴は察したのだ。
刻晴は花街一の花魁なので、ある意味当然の洞察力ではあるのだが、まさかこれほどまでにあっさりと見破られるとは思っておらず、蛍は狼狽えた。 しかも魈の方に問題があるように誤解までされてしまっている。魈の名誉のために弁解しておくべきか、勘違いを利用して隠し通す方向で頑張るべきか。 残念なことに、実は結局口裏合わせがまったくできていないのだ。寝床を抜け出すのに時間をかけてしまったせいで、そんな時間はどこにもなかった。
適当な言い訳で誤魔化したとしても、後で魈に話を合わせてもらうのに気まずいことになってしまう。それならいっそ、刻晴ならば信用できるだろうし一切合切打ち明けてしまおうか。しかし、もしも凝光や甘雨の耳に入ったら。 頭の中で高速で思考を巡らせて、最終的に蛍が出した結論は。
「その、実は」 「まあいいわ」
話を切り出そうとした蛍を遮って、刻晴は踵を返した。
「君、大事にされてるのね」
ちらりと見えた刻晴の横顔は、慈愛に満ち溢れていた。 どうやら、刻晴はその持ち前の勘の良さで、二人が互いに納得済みの上でこうした形で水揚げを済ませたことを理解したようだ。
「凝光と甘雨には、しっかり隠すのよ」
あっさりとした調子でそれだけ言って、刻晴は自室へ向かってしずしずと歩いていく。 刻晴が廊下の曲がり角の向こうに消えるまで、蛍はその背中を黙って見送っていた。 だが、ふと曲がり角の手前で足を止めると、振り向きざまに刻晴は言った。
「君も遊女なら、歌のひとつでも送ってあげたら?」
悪戯っぽく微笑んで、刻晴は片目をぱちりと瞑って見せている。 蛍は思いも寄らなかったその言葉に、両目を瞬かせた。 もうすでに、刻晴の姿は見えなくなっていた。
遊女にとって、客の心を掴むために最も重要な手法のひとつが歌だ。 いかに客を大切に思っているか、本気であるかを歌にして、男に送る。そうすることで、しっかりと自分の客を捕まえておくのである。 もちろん、蛍もその道の師にある程度の手ほどきは受けている。歌を詠めない、ということはない。 ただ、囲碁に比べればあまり自信がなかったのと、わざわざ歌を詠まずとも魈は毎日必ず来てくれるので、あまり必要性を感じていなかった。
とは言え、改めて言われてみれば、そういう可愛げのある行動も大切なのかもしれない。急に魈に捨てられるとか、そういった心配をしているわけではないのだが、自分がいかに魈を大切に思っているかは表現しなければ伝わらないだろう。 何より、蛍は自他共に認める口下手だ。歌にした方がまだ想いを伝えられそうな気もした。 何か良い歌は思い浮かぶだろうか。つらつらと考えながら、蛍も禿たちの大部屋である自室へと引き上げた。
■ ■ ■
同時刻、群玉楼にほど近い路地の物陰に、佇む者がいた。
「……話が違うじゃないか!」
ダンッと、空気を震わせるほどの激しい音がした。 少年が、右手の握り拳で手近な建屋の壁を叩いたのだ。そんなに目一杯力を込めては、むしろ自分の手の方が痛かろうという勢いで。 その少年は長い黄金色の髪を首の後ろで三つ編みにしており、年の頃は十六くらいと見える。丈の短い着物に股引を履いた身軽な町人風の格好で、腰には脇差を佩いていた。
しかし少年は、その年齢に似つかわしくないような、憎しみに染まった鋭い目付きをしていた。髪色と同じく黄金色の瞳の奥には、復讐の炎とでも呼べそうなものが、めらめらと燃えている。 少年は、道行く一人の男を睨んでいた。 その男が、この世の何よりも憎くて堪らなかった。今すぐにでも走り出して腰にある脇差で貫いてやりたくて、気が狂いそうになるほどに。
「落ち着きなよ、相棒」
ぎりぎりと唇を噛んで、今にも男に襲いかかりそうな状態の少年に、もう一人いた人物が嗜めるように声を掛けた。 この国では珍しい、紅鬱金の髪をした青年だ。南蛮風の衣装に身を包んだ青年は外套から腕を出すと、それを胸の前で組んで、背後の建物の壁にもたれた。
「……公子」 「空。俺は殺気立った目をしたやつは嫌いじゃないよ」 「それなら……!」 「でも、世渡りを考えるなら今は弁えるべきだ」
公子と呼ばれた青年は、飄々とした口調で空という少年を諭している。空の殺意などどこ吹く風なのか、空とはまるっきり正反対の、冷静沈着な様子だ。 空は憎しみの対象から視線を逸らすと、公子に向き直って苦しそうに声を発した。
「妹の……蛍の水揚げの着物を駄目にすれば、水揚げは中止になるんじゃなかったのか?」 「ああ。俺はそうなると踏んでいたよ」 「結局、水揚げは行われた。しかも、相手があいつだなんて……!」
公子は空の言葉を聞きながら、先ほどまで空が睨んでいた方向に視線を遣った。 目に留まるのは、翠色の髪。藍色の着流しと黒い羽織をまとった男の背中が、小さくなっていくのが見えた。件の男は花街一と名高い群玉楼を出て、大門へ向かって歩いていくところだ。
昨日まだ日の高いうちに、空は公子の指示のもと、群玉楼に忍び込んだ。昼間の妓楼というのは、客もおらず遊女たちも思い思いに休んでいるため、案外入り込むのは簡単だった。 そして公子が事前に下調べをしていた情報を元に家捜しすれば、すぐに空の双子の妹である蛍の水揚げ用の着物は見つかった。 空は脇差を取り出すと、衣桁に掛けられた鮮やかな着物を千々に切り裂いた。なんとしてでも水揚げを中止にして蛍を守りたいという、その一心で。
それなのに、空の努力も虚しく、無情にも水揚げは敢行された。ゆえに空は、話が違うと憤っていたのだ。 しかも空にとって、急遽変更された蛍の水揚げ相手は最悪の人物だった。こんなことなら、まだ最初の旦那が相手の方が数百倍ましだったと思うくらいに、許し難い相手だ。奴が大切な妹に触れたと思うだけで、虫唾が走った。
「あいつは……」
未だ消えない殺意に耐えているのか、空はぶるぶると肩を震わせている。その上、関節が白くなるほどに強く握り締められた拳は、死人のように色を失っていた。 感情が昂りすぎて、空はそこから先の言葉が出ないようだった。
「くそっ……!」
空の呻くような声で、公子は再び視線を空に戻した。その双眸に、同情のような生易しい感情は宿っていない。無機質な目で、淡々と空を見つめているだけだ。 ようやく口を開いた空は、叫ぶように言った。
「あいつは十年前、蛍を……殺そうとしたんだぞ!」
血を吐くような空の声音に、公子は僅かに瞠目したものの、すぐに愉快そうに目を細めた。相変わらず気だるそうに背後の壁にだらりともたれかかりながら、少しだけ興味を引かれた様子を見せている。 公子にとって、強い衝動に突き動かされた者の振るう白刃ほど、唆るものはなかった。空と知り合ったのはほんのふた月前のことだが、彼はこの短い期間で目を見張るほどの成長を見せてくれた。 こういう者と命のやり取りができたらどんなに楽しいだろうかと考えると、笑いそうになるくらいの愉悦を感じた。
「君の過去には、少しも興味なんてないよ。でも」
公子はそこで言葉を切って、再度大門の方を見た。 そこにはもう、翠髪の男の影はなかった。
「俺も彼には用がある。まさか俺を裏切った挙句、璃月屋に拾われて、こんなところでお楽しみだったとはね」
裏切られた、という物騒な言葉を使いながらも、公子は目を弧にして舌舐めずりをしている。 空にはその言葉の意味するところがわからなかった。だが空もまた、公子の事情には興味がなかった。 よって、空が公子に何かを問いかけることはない。ただ黙ったまま、公子と同じく、すでに誰もいない大門を眺め遣った。
公子の言う通り、今すぐに状況を打破できる現実的な手段は何もないと悟ったのか、空は一度ゆっくりと瞬きをして、深く息を吐き出した。昂った感情を宥めるように。 そうしてようやく落ち着いた様子の空を見てひとつ頷くと、公子は壁にもたれるのをやめて背筋を伸ばした。さらに組んでいた腕を解いて力を抜くと、体の横でぷらぷらと振って見せた。 公子はどこか嘘くさい、人の良さそうな顔でにぱっと爽やかに笑うと、空の肩に腕を回してばしばしと叩く。
「さあ、相棒。朝食にしようじゃないか。蕎麦でもどうだい?」 「……公子の奢り?」 「もちろん、俺が払うよ。俺はこの国の食べ物の中で、蕎麦が一等好きなんだ」
少し前までの張り詰めた空気はどこへやら。まるで単なる友人同士のように軽い調子で会話を交わしながら、どちらからともなく歩き始める。恐らく、行き先は蕎麦屋だろう。
「蛍の身請け金を公子が出してくれれば、もっと簡単に全部解決するのに」 「それは駄目だよ。そんなことをしたら、相棒は強くなる理由をなくしてしまうだろう? 男たるもの、願望は自分の力で叶えないとね」
空は恨めしそうに背の高い公子を見上げるものの、公子はからりとした笑顔で却下するだけだ。 徐々に東の空高くに昇っていく太陽によって、ぼんやりとした影を地面に落としながら。ふらりふらりと歩みを進めて、やがて二人はどこかへ消えて行った。
■ ■ ■
空と公子が出会ったのは、ふた月前だった。
蛍が借金の形にと連れて行かれ、すっかり荒れ果てた家で、空は一人呆然としていた。 蛍を連れて行かれまいと、ずかずかと土足で踏み込んできた体格の良い男たちと争ったのだ。そのため、数少ない調度品は薙ぎ倒され、土や埃が舞って、部屋の中はとても暮らせるような状態ではなくなってしまっていた。 だが、唯一の肉親を失った空に、そこを片付ける気力が湧くはずもなかった。飲まず食わずで、いつ寝たのかも覚えがないような状態で。空は抜け殻のようになって過ごしていた。
そして蛍がいなくなってからどれほど時間が経ったのか、いよいよ空の意識は朦朧としてきた。このまま生を終えて、妹を守れなかったことを償おうかとまで考えた。 しかしあの世で待っている両親は、きっと良い顔をしないだろう。どこかへ売られていった妹をこの世に残して、自分一人だけ冥土に逃げるなど。
少なくとも、蛍はまだ生きている。過酷な環境に身を置いているかもしれないが、生きている。それだけが空の唯一の希望だった。 だから自分も生きて、蛍をそんな場所から助け出さなければいけない。そんな使命感だけが、空っぽになった空の中に最後まで残っていて、ぎりぎりのところで命を繋いでいた。
「おい、まだ金が足りないようだぞ」
どすどすという遠慮の欠片もない足音と共に、蛍を連れ去った借金取りたちが再び土足で家に踏み入ってきた。
「蛍を、妹を連れていったじゃないですか。俺の大切な妹を奪っておいて、まだ足りないと言うんですか?」 「あんな小娘一人で足りるものか。お前にもきつい仕事を用意してやろう」
空は瞳の色を絶望から怒りに変えて、男たちを見据えた。思わず、手近にあった調度品の破片をぐっと握り込む。 借金取りたちは空の憤怒の形相が見えていないのか、下卑た笑い声を上げていた。何がそんなにおかしいのか、大口を開けて楽しそうに笑い合っている。 その男たちの顔に、ふつふつと憎しみが募った。
この借金自体、空と蛍に非などなかったというのに。まるで仕組まれたかのように、空は何もかもを奪われたのだ。 両親が死んでからというもの、空は蛍と二人で両親の残した甘味処を切り盛りしていた。稼ぎは多くなくとも、食うに困らない程度の生活はできていた。平凡な暮らしながらも、十分幸せだった。 それなのに、なぜこんなことに。とにかく許せなかった。
瞬間、空は握り込んでいた調度品の欠片を、一人の男の顔面目掛けて力一杯放った。 それは尖った陶器の破片で、鋭利な切っ先が男の喉笛に向かって、弓矢の如くまっすぐに空を切る。 自身に向かってくる鋭角の断片を認めた男は、笑みを引き攣らせ、瞠目して硬直した。周囲の男たちもまた、その光景にかっと目を見開いている。 ほんの一瞬の出来事なのに、空の目にはすべての動作がのろのろとして見えた。そのままその男の首を搔き切ってしまえ、と強く思った。
「そこまでだ」
凛とした声が、室内に響いた。それは空のものでも、ましてや借金取りたちのものでもない。 どこから降って湧いたのか、いつの間にやら室内には一人の青年がいた。今まさに命の瀬戸際に追い詰められていた借金取りの前に、青年は威風堂々と立っている。
「俺が払うよ」
青年はひと言、そう言った。 あっさりと言ってのける青年の手は、空が投げた破片を掴んでいる。男の喉をその欠片が搔き切る間際に、青年が止めたのだ。 命拾いした借金取りは、恐怖のあまりうまく息ができないのか、ひゅうひゅうと妙な音を立てて呼吸している。 青年は陶器の断片を床に放ると、一同を見渡して再び口を開いた。
「この少年の借金とやら、俺が代わりに払うよ。その代わり、今後一切、口出しは無用だ」
正体不明の青年は第三者でありながらも、その場を取りまとめるように勝手に話を進めていく。 その口調も表情も朗らかそうに見えるのに、相反するように有無を言わせない空気をまとっていた。明らかに凡人とは異なる、見る者を自然と緊張させるような雰囲気があった。 借金取りたちも空も、誰も口には出さないものの、口答えをすれば身の危険を感じるような、そういう印象を受けて何も文句を言えなかった。
「お、俺たちは別に払うもんさえ払ってもらえれば、細かいことは構いやしねぇ。そう言うならあんた、この借用書の金額分、きっちり納めてくれよ」
青年に間一髪で命を救われた借金取りは未だ動揺した様子のまま、それだけ言って、青年に借用書を押し付けた。 急に反抗を見せた空の殺気に驚いたのに加えて、青年の放つ独特の威圧感に圧倒されていたのだ。 また、常人離れした青年の武芸の腕を察したのもある。青年は誰にも気付かれずに家の中に入り込み、尖った陶器の破片を寸前のところで受け止めた。それも素手でだ。 そんな芸当を難なくこなす者に楯突いたところで、勝ち目などないことは明白だった。借金取りをやっていれば、勝てる人間とそうでない人間の区別くらいは付く。
青年は借用書の内容にさらっと目を通すと、借用書をひらひらと振りながら、家から転がるようにして飛び出していく借金取りたちの背中に声を掛けた。
「こんな端金、明日には払うよ」
青年の声が聞こえているのかいないのか、借金取りたちは情けない悲鳴を上げながら姿を消した。
そうして、部屋の中には空と青年だけになった。 空は突如として現れた青年を、警戒心丸出しの顔で睥睨している。味方なのか何なのか、今の段階では何とも判断がつかなかった。 青年はそんな空の様子を面白そうに眺めていたが、ふと自分の足元を見下ろして瞬きをした。
「ああ、ごめんごめん。この国では家屋の中は土足厳禁だったね」
そう言って、いそいそと履物を脱ぐと、入ってきた場所と思われる窓から外に放り投げた。 紅鬱金の髪をした青年はその口振りからもわかる通り、南蛮風の装いをしていて、どう見ても外国人だった。だが、流暢にこの国の言葉を話していて、かなり慣れた様子に見受けられた。
「お前は一体、何なんだ……?」 「俺? そうだな……公子、と呼んでくれ」
青年はどう考えても名前ではない、肩書きのようなものを名乗った。 けれども、空にとってはそれよりももっと重要なことがあった。一番知りたいことは、目の前の青年の名前などではない。
「なぜ、俺の借金を肩代わりなんてしてくれるんだ? 何が目的だ?」
借金を背負わされるまでにあったあれこれのせいで、空はすっかり人間不信になっていた。 まさか無償で他人の借金を肩代わりするような者が、この世にいるはずがない。場合によっては、借金取りよりも問題のある人間に捕まってしまった可能性さえある。 そうした疑心が、空の警戒心をますます強めた。捨てる神あれば拾う神ありなどという言葉は所詮綺麗事で、真心で助けてくれるものなどいるものかと、頭の中でがんがんと警鐘が鳴っている。 みすみす利用されて堪るものか、妹を助けに行く邪魔をするな。そう内心で自身を鼓舞しながら、空は眼前の怪しすぎる人物を見極めようとした。
「俺が君を助ける理由? そうだな……君の殺気に、惚れたからかな」
公子は薄い唇の端を上げて、嘘くさい笑顔を浮かべながら答えた。 回答を得たはずなのに、空はますますわけがわからなくなった。
「俺は強いやつと戦うのが好きなんだ。見たところ君はしがない町人のようだけど、さっきの殺意を孕んだ目と、あいつの喉元にこれを放った気概、なかなか気に入ったよ」
これ、というのは空が借金取りに向かって投げた陶器の欠片だ。公子は自身の足元に転がった破片を指差している。
「俺が君の借金をどうにかする代わりに、君は俺のために強くなってくれ。そしていつか、俺と戦おう」
異常な言動を真顔で繰り返す青年。普通ならば、話など聞かずに逃げるべき場面のはずだ。 それなのに、いっそ純粋な眼差しで空を見据える瞳から、空は逃れられなかった。危険な香りがするのに、そこに見え隠れるす強さが、自分もほしいと思わずにはいられない。 蛍を救うには、今の空はあまりにも無力だった。強くなりたかった。そのためならば、この妙な男の言い分に乗ってやろうと思えた。
「俺が妹を助けるために、力を貸してくれるなら」 「それで君が強くなるのなら」
公子はうっそりと目を細めて、瑠璃色の瞳の奥に赤々とした闘争の色を浮かべた。しかしそれは一瞬のことで、すぐにその火はちろりと揺れて消えた。 公子はただ静かに空を見遣って、満足げに深く頷いた。 そして空も、目の前の奇天烈な南蛮人を見据え、口角を上げた。 契約は成立した。
■ ■ ■
朝五ツ、魈は鍾離と暮らす自宅へと帰宅した。 大店商家ながらも最低限の使用人のみで簡素に暮らしている家は、静かだ。鍾離が必要以上に華美に暮らすことを好まないため、もうずっと、こんな感じで生活している。それは魈がこの家に来てから、少しも変わらない。 魈自身、人に世話を焼かれるのはあまり好きではないし、人が少なく静かな方が落ち着く。こういう暮らしぶりはかなり気に入っていた。
昨夜は鍾離に何も言わず群玉楼で夜を明かしてしまったので、心配をかけたかもしれない。しかも急ぎの仕事だと言われた群玉楼の案件の首尾も、何ひとつ報告していないままだ。 もちろん、鍾離は群玉楼に起きた異変や水揚げ相手の変更のことなど、当然知っていただろう。その上で魈に仕事を割り振ったのだから、ある程度のことは予想しているはずだ。 それでも、顔を合わせたら礼と謝罪と、鍾離に伝えたいことが山ほどある。いつも血も繋がらない自分のために心を砕いてくれる鍾離は、魈にとって親であり恩人であり、非常に大切な存在なのだ。
そっと門扉を押し開いて敷地に入ると、魈はまっすぐ玄関へと向かった。小鳥の囀りを聴きながら前栽の間を抜けて、昨日ぶりなのに随分と久しぶりな気がする我が家に至る。 木製の玄関扉をガラリと開けて、魈は奥に向かって小さく声を掛けた。
「戻りました」
しんとした玄関には、誰の姿もない。まだ早朝なので、厨に詰めている使用人くらいしかいないのだろう。厨は屋敷の最奥にあるので、魈の声が届かなくても当たり前だ。 別段、珍しい光景ではない。蛍の座敷を買い占めてからと言うもの、毎日朝帰りを繰り返しているので、こうして一人静寂に包まれた屋敷に帰ってくることがほとんどなのだ。
だが、今日はどうも勝手が違った。魈が履物を脱いで玄関に上がろうとすると、奥からドタドタと品のない足音が聞こえてきた。 聞き慣れない音に魈が目を丸くしていると、その足音の主がすぐに姿を見せた。
「おかえり、若旦那!」
それは鍾離の知人である、詩人だった。どうやら昨夜は例によって、ここに転がり込んで一泊していたらしい。 詩人は片手で、鍾離の袖口を引っ掴んでいる。それをぐいぐいと引っ張って、半ば引きずるようにして鍾離を玄関まで連れてきたようだ。 眉を寄せて少々不快そうにした鍾離が、詩人の後ろに立っていた。
「魈、戻ったか」
鍾離は詩人にがっちり掴まれていた袂を引き剥がすと、皺を整えながら魈に声を掛けた。 すべてわかっているのであろう、その顔には温和な笑みを浮かべている。
「はい、ご心配をおかけしました」
魈もほんの少し口元を緩めて、鍾離に返答した。とうに親離れして大人になったつもりでいたが、やはり鍾離の顔を見ると安心した。 しかしふと、鍾離の手元に目が釘付けになった。なぜか、重箱を大事そうに抱えている。漆塗りのしっかりとした作りの箱だ。 見慣れないその箱をわざわざ持ったまま玄関に出てきた鍾離が不思議で、魈は我知らず鍾離と重箱を交互に見つめてしまった。
「鍾離様、それは……?」 「まあまあ、それは部屋に入ってからゆっくりと」
詩人は鍾離が答える暇も与えずそう言うと、履物を脱ぎ掛けたままの中途半端な体勢で固まっていた魈の腕を強引に引っ張った。 魈は仕方なく急いで履物を脱ぐと、行儀良く玄関に揃えた。詩人はそれすらも焦ったいのか、頻りに魈を催促している。 詩人に従っていつも鍾離と朝食を取っている居間に着くと、詩人は主役はこちらと言いながら魈を座らせ、鍾離には謎の重箱を机に置かせた。 家主を差し置いてその場を取り仕切る詩人は、随分と楽しそうな様子だ。
そもそも、寝坊助の詩人が朝からきちんと起きていること自体、珍しいことだった。詩人は大抵、屋敷の一室を占領して昼頃まで我が物顔で寝こけているのだ。 なんとなく、魈は嫌な予感した。
そんな魈の心配など、詩人は露ほども考えていないのだろう。 ようやく場が整ったのか、詩人はひとつ咳払いをしてから、いやに畏まった雰囲気で声を発した。
「さあ、じいさんから君へのお祝いだよ」
急に祝い、と言われても何のことやらさっぱりわかっていない魈は、怪訝そうに詩人と鍾離と重箱を順番に見遣った。しかし見たところで何の情報も得られないので、次の展開を待つ他ない。 そして、詩人に促されるままに鍾離が重箱の蓋を開いた。すると中からほわりと蒸気が立ち上り、柔らかな小豆の香りが鼻腔をくすぐる。
「赤飯……?」
とりあえず目の前に鎮座する物の名前を口に出してみるも、何が起こっているのかとんと状況が掴めない。魈は目を瞬かせながら、眼前の赤飯を無言で見つめた。 対して鍾離は、なぜか少々得意げに口を開いた。
「ふむ、こうしためでたい日には赤飯と相場が決まっているだろう」 「……めでたいとは、一体何の話でしょうか?」 「若旦那ってば、すっとぼけちゃって!」
にやにやと笑いながら、詩人が魈を小突いてきた。朝から鬱陶しいことこの上ないが、未だ二人の意図がわからないので、魈は胡乱げな視線でもってして、詩人に問いかけた。 すると、詩人はやれやれといった風情で肩をすくめて、無粋なことはあまり言いたくないんだけどと前置きをしてから口を開いた。
「昨夜は夜光と情を通じたんだろう?」
詩人の言葉で、魈はようやく理解した。何を祝われているのかを。 しかしこんなことでお祝いなどされたくもなければ、実際は何もしていない。気まずいことこの上ない祝いの品である。 だが、鍾離は眩しいくらいの良い笑顔で魈を見遣っている。赤飯を喜んでもらえると、信じて疑わない顔で。
考えてみれば、据え膳食わねば男の恥という言葉もあるし、昨夜のことは他言しない方が良いだろう。契りを結んだ間柄だということで話を進めた方が、何かと都合が良さそうだ。 そう思い至ったので、魈は何も言わず赤飯を茶碗によそうと、箸を取ってぱくりと口に含んだ。 鍾離自ら用意したというその赤飯は、少々乾燥気味で口の中の水分が持っていかれる、ばさばさとした口当たりだった。不味くはないが、美味しいかと聞かれると悩ましい。
恐らく、鍾離はまた詩人に揶揄われている。 この詩人はたまにこうして、鍾離に余計かつ誤った知識を教えて、おちょくるのだ。 女子の初潮を祝っての赤飯という文化ならばあるが、男子の筆のあれこれに、そんな文化は存在しない。 璃月屋という一大商家を築き上げながらも、たまにどこか抜けているのが鍾離だ。今回もそんな抜けた知識につけ込まれて、赤飯を用意する流れになったのだろう。
「じいさん、ボクにも赤飯よそってよ」 「それくらい自分でやれないのか、この呑兵衛詩人め」
詩人が鍾離をけしかけて赤飯を用意させる様が、目に浮かぶようだった。そして騙されたことに気付いた鍾離が無言で激怒して、詩人を追い出す未来も。 魈がこの家に引き取られた頃から、すでに鍾離は詩人と知り合いだった。たまに食事と宿を求めて転がり込んでくる詩人は、当時から鍾離への悪戯に励んでいた。 ゆえに、鍾離と詩人の小競り合いなど魈にとっては日常茶飯事だ。
「ボクの言った通り、やっぱり祝い事には赤飯だろう」 「確かに、それは一理あったな」
とにもかくにも、これが誤った祝いであることは鍾離に伝えねばならないのだが、魈はひとまず黙って二人の好意を受け取ることにした。 詩人は悪ふざけが過ぎる節があるものの、根は良い人なのだ。魈が童の時分から、よくこの屋敷に顔を出しては、善悪は別として魈に何かと構ってくる。詩人はそういう人だった。 魈はあまり子供らしさのない子供だったので、取り立てて詩人と遊んだりした覚えはないし、鍾離の知人ということでずっと一線を引いた付き合いをしているつもりだ。それでも、詩人の存在はある種親戚のような感覚に近かった。
偶然にも様々な事象が重なって、数多の人間の計らいによって、今朝の自分は穏やかな心持ちで赤飯なんぞを頬張っているのだ。 それがわかっているからこそ、魈は何も文句を言う気など起きなかった。 いつ嘘がばれるだろうかと口角を上げている詩人と、にこにこと魈を見つめる鍾離。何ということのない、もう十年も続く璃月屋の日常の風景だ。
物心ついて以来、もしかしたら一番穏やかな心持ちで過ごしているのかもしれない朝は、この上なく平和だった。ずっとこんな日々が続けば良いと、口には出さずとも思った。 ここに蛍が一緒にいてくれたらもっと素晴らしい日々になるだろうと、無意識にまた蛍のことを思い浮かべてしまうあたり、魈はすっかり蛍に惚れ込んでしまっている。 魈は口の中に張り付く水気の少ない赤飯を順調に口に運びながら、鍾離と詩人の戯れを眺めた。微笑ましそうに、表情を緩めながら。
■ ■ ■
蛍の水揚げの翌日、昼日中の群玉楼。 楼主の私室にて、凝光は文字のびっしりと書き込まれた両紙をばさばさと捲りながら、素早く目を通していた。白百合色の髪を鬱陶しそうにばさりと掻き上げながら、僅かに眉間に皺を寄せる。 凝光が読み込んでいるのは、昨日取り急ぎ馴染みの情報屋たちに調べさせた資料だ。蛍の着物を切り裂いた犯人について、少なからず思い当たる節があった凝光は、そこを徹底的に洗わせたのである。
「夜光の着物を台無しにしてくれたのは、やはりあそこかしらね。……収穫はあったのかしら?」
凝光の眼前には、網代笠をかぶり旅芸人風の装いをした者が胡座をかいて座っている。凝光の問いかけは、その芸人に向けられたものだった。 この者は、いつも群玉楼にとって要となる情報を運んでくる。どんな情報屋よりも確実な情報をもたらすこの芸人に関しては書面で済まさず、凝光はわざわざ直接招いたのだ。 芸人はかぶっていた笠を手に取ると、萌葱のような鮮やかな瞳を覗かせた。そして笠を指先で器用にくるくると回しながら、凝光の視線を受け止める。
「君の予想通り、犯人は愚人楼だろうね。十中八九、間違いないよ」
軽い調子で話すのは、璃月屋の主人・鍾離と親しい間柄である詩人だった。 今朝方、璃月屋で魈の帰りをを出迎えて和気藹々と食卓を囲んでいたものの、最終的に魈によって鍾離を謀った嘘がばらされてしまい、怒髪天を衝いた鍾離に追い出されてきたところだ。 もう一週間は泊めてやらんと鍾離に宣告されたのだが、また一週間後にとへらへら笑いながらお暇してきた。
情報屋の一面を持つ詩人は、利のあるところどこにでも現れる。 実のところ詩人は以前から、群玉楼の凝光とも繋がりがあった。何を隠そう、蛍の水揚げに関する情報も凝光本人から聞いた話だったのだ。 それを魈や鍾離に漏らしたのがうっかりだったのか、意図的にだったのかは定かではないが。恐らく後者だろうと、凝光は踏んでいる。
「夜光の水揚げの件で璃月屋の若旦那様を焚き付けてくれたんだもの、お返しは弾んでもらうわよ」 「またまた、結果的にはそのお陰で無事に水揚げが済んだんだろう」
二日前、水揚げの相手を自分にしろと文句を言いに来た魈を思い出したのか、凝光は苦々しげな顔をした。詩人が余計な情報を漏らしたせいで、あの若旦那の無粋な申し出を聞く羽目になったのだ。 一方で詩人の言う通り、それがあったお陰で、蛍の水揚げを予定通り進めることができたというのも否定できない。 ゆえに凝光は何とも言い難い複雑そうな色を顔いっぱいに浮かべながら、扇子を取り上げて広げると、それで口元を隠した。 それ以上凝光が何も咎めないのに気を良くしたのか、詩人は手で弄んでいた網代笠を放ると、本題に話を戻した。
「愚人楼の楼主殿は最近、良い手駒を手に入れたみたいだね。噂では、黄金色の長髪が特徴的な少年だそうだよ」 「……今回の件と、どう関係があるのかしら?」
本筋と関係なさそうなことを話し始めた詩人を、凝光は切れ長の目で胡乱げに見た。 花街というのは人の出入りが激しい。新しい人員が増えるくらい、日常茶飯事だ。下男か何かの少年が一人愚人楼に加わったところで、何が変わると言うのか。
「その少年を、楼主殿はかなり気に入っているらしい。珍しいこともあるものだよ」
確かにそれは、稀有な話だった。 愚人楼の楼主は、ひと言で言えば軽薄な男だ。腹の中で何を考えているのかまったく読めず、あまり他人に執着しない。他人の能力を簡単に評価もしなければ、容赦もしない。 そういう変わり者だという印象が、凝光の知る彼のすべてだ。それ以外はむしろ謎に包まれている。彼は滅多に表に顔を出さない。 そんな愚人楼の楼主が、一人の人間を気に入ってそばに置いているという話は意外と言う他なかった。
「少年の噂とほぼ同時に起こった、今回の夜光の水揚げの妨害。何か関連があると考える方が自然だと、ボクは思うよ」
秋の朝に漂う霧のようにのらりくらりと話す詩人は、掴みどころがない。三つ編みにした毛先を手で弄びながら、飄々としている。 含みを持った曖昧な物言いをする詩人に、凝光は眉をひそめて先を促した。扇子で隠した唇と眉間に僅かに力が入り、剣呑な表情を浮かべている。
「愚人楼はこれまでだって、群玉楼を敵対視していたはずだろう? それでも、明確に何かを仕掛けてくるようなことはなかった」 「だからその少年が、今回の件に一枚噛んでいると睨んでいるわけね」
凝光は詩人の言葉に頷きながら、考え込むような素振りを見せた。扇子を持っているのとは逆の手で、腕組みをするように反対の腕を抱え込んでいる。
最近の群玉楼は、この花街の中で群を抜いて目立っていた。 堅物で有名な天下の璃月屋の若旦那が心底惚れ込んでいる遊女が群玉楼にいるという噂が、花街の中のみならず外にまで広まっており、群玉楼の名声は一段と高まっているのだ。 一生に一度は行ってみたい憧れの妓楼と言えば、という話題で間髪入れずに群玉楼と答えるのがお決まりだという、妙な風潮まで広まっていると聞く。実際に行ける財力があるかどうかは別にして、それが粋だということらしい。 それほどまでに、この所の群玉楼は頭ひとつ抜けていた。
そしてこの花街において、璃月屋に次ぐ大店の妓楼と言えば、愚人楼というのが通説だ。 愚人楼にとって、今の群玉楼は目の上のたん瘤も同然だろう。他の追随を許さないような群玉楼の活躍に、歯軋りしているに違いない。 これまでもちくちくと嫌味な振る舞いを見せてきた彼らが、近頃の群玉楼の名声の高まりをもって、ついに群玉楼に何かを仕掛けてきたということは当然考えられる。
だが、愚人楼が蛍の水揚げを妨害した理由がそれだけとは思えないのだ。凝光と詩人は、そういう前提で話をしている。 愚人楼がそうした単純な輩でないことは、もとよりわかっている上に、これだけの大事を起こして花街の均衡を崩すのだから、きっとまだ何かあるはずだ。 その鍵を握るのが、愚人楼に加わった謎の少年なのだろうか。彼は一体何者であろうかと、凝光は考えを巡らせる。
「夜光の身辺に注意すべきかしら」
凝光は表情を険しくさせて、詩人に問うというよりも、自問自答するように視線を上げながら呟いた。 現段階で、愚人楼の真の狙いは読めない。群玉楼そのものへの攻撃という可能性の他に、蛍に対して何らかの恨みがある場合も考えられる。 凝光は楼主として、当然蛍の身を案じている。自分が買った遊女だからこそ、その生命にまで責任を持つ心算でいるのだ。
凝光の視線の先を無意識に追いながら、詩人はさらに考えを述べた。
「いや、時期尚早だと思うよ。こちらがあまり大っぴらに警戒すると、やっと出しかけた尻尾を引っ込めてしまうかもしれない」 「泳がせろと?」 「今はまだ、情報が少なすぎるよ。彼らを問い詰めたところで、証拠もない。愚人楼が素直に認めると思うかい?」
詩人の言うことは尤もだった。 愚人楼を変に慎重にさせて有耶無耶になってしまっては、それこそ打てる手も打てなくなる。こちらはまだ、決定的な情報を何一つ得ていないのだ。今の段階で動いたところで、良い結果は得られないだろう。 それに、どちらにせよできることと言えば、蛍の周辺に目を光らせるくらいが関の山だ。その程度の方法でどうにかなるほど、甘い相手でもないはずだ。
「待てば海路の日和ありって言うだろう?」
詩人は人差し指を立てながら、なぜか得意げに言った。 とにもかくにも、今後さらなる事件が起こらないとも限らないので、それを未然に防ぐためにも軽率に動くことは避けるべきだというのは確かだろう。 そもそも、今二人が話しているのはあくまでも仮説である。決め付けで行動するには、あまりにも頼りない状況だった。 ゆえに凝光は目線を詩人に戻しながら、ひとつ頷いた。是、の意だ。ひとまずは、情勢を見極めるべく静観することに決めたのだ。
「先日の一件が本当に愚人楼によるもので、奴らが本気ならば、次は夜光の突き出し道中で行動を起こすはずだ。直近決まっている催しはそれくらいだろう? 道中の当日は人目も多いし、準備期間に何かが起こる可能性の方が高いんじゃないかな」 「ええ。そうでしょうね」 「よく目を光らせておくことをおすすめするよ。着物の管理とかね」
にっと笑いながら、詩人は朗らかに注意を促した。 詩人が最後に添えた言葉に、凝光は苦虫を噛み潰したような顔をしている。過日の蛍の着物の管理の甘さを揶揄ってくる詩人に、ほんの少し苛立っているようだ。 しかしながら、そうした物品の管理により一層の注意を払うべきだというのは詩人の言う通りなので、凝光は何も言わない。 詩人はその様子を満足そうににこにこと見遣りながら、話を続けた。
「少なくともあそこの楼主殿は、金子には大して興味のないお方だよ。どちらかと言うと、裏稼業の方がお好きなようだ」
その噂は、凝光も知っている。 以前から、実しやかに囁かれていた噂だ。しかしあまりにも眉唾物すぎて、いまひとつ本気にできていなかった。 だが、この詩人がはっきりと口にするということは、それなりに確証があるのだろう。むしろ詩人が口にした情報が外れたところを見たことがない。それだけで、信ずるに値する話だった。
噂の内容は、こうだ。 愚人楼の楼主は暗殺者であると。妓楼の楼主という皮をかぶりながら、権力者を始め様々な者から後ろ暗い依頼を受けて、白刃でもって邪魔者を消す。 青白い月光と真紅の血潮の中で心底楽しそうにしている彼を見たという噂が、たまにぽつりぽつりと聞こえてくるのだ。
ただし、詩人にもまだそれ以上のことはわからない。 詩人は口を噤んで、お手上げとばかりに肩をすくめた。
「またお願いするわ」
これ以上話したところで進展は望めないとわかると、凝光は溜息混じりに話を切り上げた。 口元にあった扇子をパチンと閉じて、肩にかかった絹糸のように滑らかな長髪を払い除けている。
「まいどあり」
詩人は商人のように挨拶を返すと、盃を持つような形に手を形作って、それを口元に寄せた。
「気が早いわよ」
凝光はきっぱりと言って扇子を広げると、ばさりと振って見せた。いつもやっている、退出を促す合図だ。 詩人は今回の情報の報酬に酒を所望したのだが、まだ少ない今の情報量では、残念ながら何ももらえなかったという結末である。 だが凝光もさすがに詩人を手ぶらで返すということはなく、高級そうな菓子の入った箱を一つ寄越した。
「うーん、仕方ないなぁ」
予想済みだったのか、詩人は口で言うほど不服そうな様子もなく、饅頭の箱をしっかり小脇に抱えると、網代笠を目深にかぶって部屋を出て行った。 詩人はまた、ふらりふらりと方々を放浪するのだろう。詩を作り小銭を稼ぎながら、物珍しい話を聞いて回るのだ。 凝光は窓の外から花街の通りを見下ろして、詩人の背中を見送った。 そして詩人の背中が小さくなると視線を上げて、いくつかの妓楼を挟んだ向こう側を見据えた。そこには異国情緒のある、立派な妓楼が堂々とそびえ立っている。
「凝光様」
襖の外から、甘雨の声が掛かった。 詩人と話をするにあたって、甘雨も含めて人払いをしていたのだが、そろそろ頃合いだと察して様子を見に来たのだろう。気の回る遣手だと改めて感心する。 凝光は襖の向こうの甘雨に対し、凛とした声音で言葉を発した。
「夜光に伝えてちょうだい」
視線は窓の外に見える愚人楼に固定したまま、命じる。
「今度の突き出し道中は、絶対に誰にも邪魔をさせないわ」
強い意志を感じる言霊を、甘雨は襖の向こう側でしかと受け止めた。
短く返事が聞こえて、甘雨の足音が遠のいていく。凝光の言葉の意図を汲み取り、それを蛍に伝えるべく早速動いたのだろう。 何があっても蛍を守り、その志を成し遂げさせてみせる。何者であろうとも、この群玉楼の繁栄と目的の邪魔などさせるものか。 この妓楼の楼主となって以来忘れたことのない決意を、凝光は再び固く胸に誓った。
■ ■ ■
蛍の水揚げから数日。
「さすが、璃月屋は仕事が早くて助かります」
淡々と、けれども満足そうに述べる甘雨は、いつになく機嫌が良さそうだ。 今日は群玉楼に、遊女たちの普段着の着物百枚が届いた。蛍の水揚げ用の着物を急遽発注するという無理難題を押し通すために、凝光が璃月屋に提示した条件の一つだ。 大間に所狭しと色とりどりの着物が並べられている様は、圧巻である。 それぞれに自分はどれをもらおうかと、遊女たちはきゃっきゃとはしゃいでいる。璃月屋の呉服と言えば、老若男女を問わず誰もが憧れる品だ。それを支給されるとなれば、喜ばない者はいないだろう。
蛍はすでに水揚げで上等な藍染の着物を仕立ててもらった上に、今度の突き出し道中用の着物も璃月屋に用意してもらっている。 ゆえに蛍は着物を選ぶ遊女たちには混ざらず、甘雨と共に道中用の振袖をこれから確認するところだ。
「これで道中も、無事に行えそうですね」
たとう紙を開きながら、甘雨は深々と頷いた。 その中からお目見えしたのは、普段着用の着物とは比べものにならないくらいに豪華絢爛な、蛍からすれば値段など考えたくもないような代物だ。 これが、もうすぐ行われる蛍の突き出し道中を飾るのだ。特上中の特上の品であろう振袖を見て、蛍は畏れ多い気持ちと心踊る気持ちでそわそわとしながら、振袖を手に取る甘雨の動きを目で追った。
「夜光、軽く袖を通してみましょうか」
甘雨に言われるがままに、蛍は今着ている着物の上から振袖を羽織ってみた。 それは魈の髪の色によく似た、深い翠の振袖だった。細やかに舞う桜吹雪と、流水文様。その中に豪華絢爛な御所車が映えている。御所車は祝い事や婚礼衣装によく用いられる、吉祥の柄だ。 そこには、魈なりの想いが込められていた。蛍の行く末が幸せなものであるようにという願いと、叶うならば自分の手で身請けをして、娶りたいという恋慕。 もちろん、そんなことまで蛍は知る由もない。少し前まで単なる町娘だった蛍には、着物の柄に関するそのような知識などないからだ。
甘雨はそういった秘められた慕情を感じ取ったものの、わざわざ口に出して蛍に教えてあげるほど優しくもなければ、無粋でもなかった。一寸先は闇と言える花街において、他人が人の恋路に口を出して半端に喜ばせるのは、決して良いこととは言えないだろう。 それに魈とて、振袖の柄に込めたものを蛍に伝えたいわけでもないのだろうと思われた。伝えたければ本人が勝手に言葉で伝えるはずなのだから。 ゆえに甘雨はただ黙ったまま、振袖の御所車を細い指先でなぞった。
ただ、何も知らない蛍にも感じ取れることはある。 蛍の黄金色の髪を引き立たせるような華やかな色柄と、魈の髪色を溶かし込んだような色合いは、それだけで蛍の心をあたたかくした。 水揚げの日に魈が力一杯抱きしめてくれたように、深い翠の振袖をまとうと魈に包まれているような気がするのだ。 また、どう見でも蛍に似合っている着物を見れば、魈が自分のために選んでくれたことは明白で。蛍は思わず笑みをこぼした。
「帯も合わせると、かなり豪華になりますね」
そう言って、一緒に用意されていた帯を甘雨は蛍の腰に当てがった。 華やかな振袖を引き締めるような黒地に、華やかな唐草模様が金糸であしらわれている。
一応名目上は水揚げも終わっているので、突き出し道中を迎えればいよいよ蛍は正式に遊女となる。 ここまでくるのにふた月と少し、長いようで短いような日々だった。 様々な人の手を借りて、ようやく借金の返済が始まる。兄と会える日が近づく。それを思うと胸が迅った。
そして、もうひとつ。魈が本当に自分を隣に置いてくれる日が、近づいている。 蛍を身請けすると言った日の言葉通り、魈は一途に毎夜蛍の座敷に足を運んでくれている。その言葉と態度から、自分が大切に思われていることは疑いようもなかった。 いつか手を取り合って陽の光の下を歩ける日が来ると思うと、にやにやしてしまいそうになる。甘雨に気付かれないよう、澄ました顔を取り繕うのに必死だ。
「髪飾りはどうしましょうか」
甘雨も蛍の振袖の仕上がりに少なからず浮かれているようで、髪飾りを色々取り出して、蛍の頭に宛てがっている。 あれも良いこれも良いと小さくぶつぶつ言いながら、上機嫌で選定している。
ふと、蛍は自分を俯瞰して見ているような気分になって考えた。 息苦しく不自由な廓の中で、自分はこんなにも幸せで良いのだろうか。何かしっぺ返しのように、恐ろしいことが起こったりしないだろうか。 両親が死んでからというもの、生家の甘味処が奪われ、兄とも引き離され、蛍は不幸の連続とも言える日々を送ってきた。それがこんなにも順風満帆というのは、逆に不安になった。
だが、そんな影も形もない杞憂を思って、悲嘆に暮れても仕方がない。 こんな心配は気のせいだと自分を納得させて、蛍は姿見の前でくるりと一回転すると、今一度美しい振袖を眺め遣った。 頭には、甘雨が選んだ櫛や玉簪が挿されている。 この振袖を身にまとった自分を、魈はどんな優しい目で見てくれるだろうか。何と言って褒めてくれるだろうか。そんな風に浮かれながら、蛍は突き出し道中の日に思いを馳せた。
■ ■ ■
それは、突き出し道中の日取りも確定して、準備に忙しくしていたある日のことだった。 ようやく蛍も一人前の遊女になるということで、個室を与えてもらえた。もちろん、群玉楼で一番の花魁である刻晴の部屋に比べれば、小さく質素な部屋だ。 それでも、自分一人で安らげる空間を与えてもらえたことは有り難かった。
魈に何か歌を送ろうと考えてはいるものの、大部屋では周囲の揶揄いもあってなかなか何も思い浮かばず、すっかり辟易していたところだ。 代わり映えのしない小さな廓で生きる者たちは、噂やら何やら変わったことに目がない。蛍の水揚げの翌日だって、散々根掘り葉掘りされそうになった。 やれあの堅物の若旦那は閨でどんな言葉を囁くのかとか、どのように奉仕してやったのかだのと、下世話極まりない。大部屋にいるのは禿たちなので、年頃の少女たちが集まれば、そういう話に興味津々になるのも致し方ないことではあるのだが、顔から火が出そうな思いだった。
そんな環境からようやく抜け出すことができて、ほっとひと息つけたというのに。 その日、明け六ツに蛍が魈を見送って自室に戻ると、明らかに部屋の様子がおかしかった。 部屋の中が、荒らされていたのだ。
蛍は犯人が室内にまだいるのではないかと警戒し、素早く辺りを見回した。 しかしとうに去った後のようで、小さな部屋の中は何の気配もしない。ひとつだけある窓も、締め切られたままだ。 それがわかると、蛍は背後の襖を急いで締めて、廊下を通りすがった者に部屋の惨状を見られないようにした。 ただでさえ、先日の水揚げで騒動があったばかりだ。不用意に騒ぎ立ててまた凝光や甘雨に迷惑をかけるのも憚られる。まずは自分で状況を把握しようと思ったのだ。
小さな衣装箪笥は散らかされ、着物が切り裂かれていて。化粧台の白粉や紅も撒き散らされていた。不思議なことに、普段着用の小紋は無事で、座敷で着る着物だけが痛めつけられていた。 それはまるで、蛍が遊女として座敷に出ることを否定するかのようだった。
蛍は震える手で切れ端のひとつを手に取ると、瞳を潤ませた。 それは、先日の水揚げで着た藍染の着物だった。魈が有言実行ですぐに洗い物屋を手配してくれて、着物の皺も取れて安心していたというのに。 部屋の中を何者かに荒らされたことよりも、見るも無残な状態になったそれが何より悲しかった。魈の気持ちまで踏み躙られたような気がして、辛かった。
しかしいつまでも、切れ端を握り締めて落ち込んでいるわけにもいかない。 先日も水揚げそのものに気を取られていて深く考えていなかったが、もしかすると自分のことを気に食わないと思っている誰かが近くに存在しているのではないか、と思い至る。 目の前に広がっているのは、そう思う他ない光景だった。
とにもかくにも、座敷に出るための着物がなくては話にならない。結局のところ、まずは甘雨に報告する他なかった。 蛍の報告を受けた甘雨とそれを伝え聞いた凝光は、案の定、難しい顔をしていた。 そうして三人で相談した結果、下男たちで群玉楼の周囲を定期的に巡回して警戒するという話になった。何度も部外者の侵入を許していては花街一の妓楼の名折れだと、凝光は憤慨している様子だった。 だが、自分のせいで群玉楼の皆に仕事を増やしてしまったような気がして、蛍は居心地が悪かった。先日から自分は群玉楼の皆に迷惑をかけっぱなしで、遊女として妓楼に貢献するどころか、営業の邪魔をしているような気さえしたのだ。
また、別の日のことだ。
「あなたに文が届いていますよ」
そう言って、甘雨が蛍に一通の手紙を差し出してきた。 差出人は書かれておらず、ただ『夜光殿』とだけ宛名が記載されていた。 蛍宛に文を出すような人物など、一人しかいない。甘雨もそう考えていたのであろう、特に内容を改めることもなく、それを蛍に手渡してきたようだ。
未開封の手紙をしっかりと懐に抱え込むと、蛍はいそいそと自分の部屋に戻った。 毎日会っているのに、一体何が書かれているのだろうか。まだ自分の方はろくな歌が思い付いていないと言うのに、先を越されてしまった。 そんなことを思いながら、蛍は文を開いた。
「……」
蛍は静かに、息を飲んだ。 それは明らかに、よく知る人物からの手紙ではなかった。紙面には、見慣れない少々不格好な文字が並んでいた。
突き出し道中を中止にせよ。 さもなくば、血が流れることになる。
短く、それだけが記されていた。 内容にも署名はなく、差出人は不明だ。 どう考えても、それは脅迫状だった。切り刻まれた水揚げの着物と、先日荒らされた蛍の自室。否が応にもそれらとの関連を想起させる文面だ。
また自分のせいで、周囲を困らせることになる。そう思うと、蛍は今度こそ誰にも言えないと思った。 凝光はきっと、蛍のために策を練ってくれるだろう。甘雨もまた、気にかけてくれるだろう。刻晴だって、目を光らせてくれるに違いない。 それでも、この花街という暗い世界の中で、ようやく見つけた居場所なのだ。万が一にも、彼らに呆れられてしまったとしたら、蛍の居場所は本当にもうどこにもなくなってしまう。 稼いで借金を返すどころか、飛んだお荷物だと思われては堪らない。これ以上、予定を狂わされるわけにはいかなかった。それは再び兄に会うという目的のためにも、絶対に避けたい。
また、先日甘雨から聞いた凝光の言葉も蛍の脳裏に過った。 今度の突き出し道中は絶対に誰にも邪魔をさせないという、確固たる信念を感じさせる言葉だ。 蛍とて同じ思いだった。それに、良くしてくれている凝光の期待にだって、応えたい。 よって蛍は、その手紙のことは誰にも口外しなかった。
後々、甘雨が手紙はどんな内容だったかと世間話に聞いてきたのだが、嘘をついた。
「今度の手土産は何が良いか考えておくように、と書いていんした」
魈がいつも手土産を持って群玉楼に来ていることは、甘雨も知っている。 なのでさして疑われることもなく、それで済ませることができた。
「毎日来ているのにそんなことをわざわざ手紙で寄越すなんて、案外まめな方ですね」
甘雨が僅かに不思議そうな顔をしてそう言ったものの、話はそこで終わった。 蛍の部屋で起きた異変から向こう、甘雨はぴりぴりと気を張っている様子だったが、あれ以降蛍の部屋で何かが起こることはなかった。下男たちの警備が効いているのだろう。 それゆえ、甘雨も少しずつ安心しつつあった。一連の事件は一時的な嫌がらせだったのかもしれないし、こうして警戒さえしていれば愚人楼も容易に手出ししてくることはないだろうと。 残念なことに、甘雨や凝光の心配と蛍の気遣いは、完全にすれ違っていた。
さらに、異変はこれだけで終わらなかった。
一応蛍はまだ名目上、刻晴の禿のため、日中お使いに出掛けることもある。 お使いと言っても、大門の外には当然出られない。花街の中にある商店で、いくつか必要なものを購入してくるというだけだ。 そうしたお使いはもう何度も経験しているので、取り立ててどうということもないはずだった。 だが、その日の外出は平素と勝手が違った。
「……」
蛍はきゅっと口を引き結んだまま、少々歩く速度を速めた。 目当ての店で頼まれたものを購入し終わって、あとは群玉楼に戻るだけという段になって、妙な気配が背後について回っていることに気が付いたのだ。 花街の目抜き通りである仲ノ町とは異なり、今は細い路地にいる。人気がないわけではないが、多くもない。 後ろから付いてくる何者かは、蛍の歩調に合わせるように、ざりざりと音を立てて地面を擦っている。 それはまるで、後をつけていることをわざと蛍に知らせるかのように、わかりやすい音だった。
蛍は早鐘を打つ心臓を宥めながら、乱れそうになる呼吸を必死に抑えて、先を急いだ。 何者かは距離を詰めるでもなく、一定の速度で後ろを歩いている。 振り返って正体を確かめた方が良いはずだとは思いつつも、その勇気もなかなか出ない。結局、群玉楼に着くまでずっとその調子だった。 遊女たちが使う裏の玄関に辿り着いたところでようやく少し安堵して、蛍はそろりと背後を窺った。 だが、残念ながらもう背後には何の姿も見えなかった。 誰もいなかった安心感と得体の知れぬ不安を抱えながら、蛍はお使いの品を届けるべく、そそくさと刻晴の部屋へと向かったのだった。
こうした異変が、繰り返し蛍を襲った。 さすがに何者かが楼内に侵入してくることこそなかったが、怪文書と付きまといのようなものは断続的に発生した。 それでも、着々と突き出し道中の準備を進める群玉楼の面々を見ていると、やはり蛍は何も言えなかったのだ。もちろん、毎晩やって来る魈にも。
水揚げからすぐの頃は魈が見繕った藍染の着物をよく着ていたのに、蛍がそれをめっきり着なくなったことに目敏く気付いた魈は、当然蛍本人に直接問いかけた。
「藍染の着物はどうした?」
洗い物屋が必要ならまた手配してやろう、くらいの気持ちだった。蛍のことだから、汚れたり皺が付いたりしたのに、遠慮でもしているのではないかと。 群玉楼にも馴染みの洗い物屋はあるし、遊女たちはそれぞれ自費で着物を整えるものだ。当然安くはないので、自身の財布と相談することになるし、基本は汚さないように徹底する。 魈が蛍の懐事情を尋ねたことはないものの、まだ借金の返済がこれからだという蛍には、そのような出費をする余裕がないであろうことは簡単に予想できた。 それに加えて、大店商家の若旦那らしい魈の金銭感覚を、蛍は度々無駄遣いのような目で見てくるのだ。魈の方から声を掛けてやらないと、金子が必要なことがあっても蛍は自ら口にしたりしない。 それゆえ、蛍は悪いことをやらかしてしまった子供のように着物を仕舞い込んで隠しているのではないか、と魈は思っていた。あながちそれも間違いではないあたり、勘の良さはさすが商人と言えよう。
しかし蛍は、魈の問いに答えられない。着物はすでに千々になってしまっており、着られる状態ではないなどと言えるはずもない。 一応切れ端は保管しているものの、甘雨にこれを修復するのは難しいだろうと言われてしまっていた。けれども着られなくとも捨てるのも忍びなくて、後生大事に保存している、という状況である。 よって、蛍は適当に言い訳をした。
「大切なものだから、しばらく大事にしまっておこうかなって」 「着るのを惜しむものではないと思うが……」
着物は身にまとってこそ価値があるだろう、と魈は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。 そうして納得しきれていないような顔をしていたものの、結局魈が蛍にそれ以上追及することはなかった。蛍の思うところを尊重しようと考えてのことだった。
また、蛍が着物を大切だと言ったこと自体は満更でもなかったようで、腕組みをして顔を背けながらも魈は少々嬉しそうにしていた。 これでも食っておけ、などと言いながら誤魔化すように今日の手土産を蛍に押し付けている。 今日の手土産は、大福のようだった。最近流行りの、果実の実がまるごとごろりと入った一品だ。
相変わらず、蛍の些細な言動で表情を変える若旦那。彼を可愛らしい人だと思い胸の奥がきゅうっとするものの、蛍の心は晴れない。正直なところ、魈を騙しているようで心苦しかった。 とは言え、真実を言えば着物を用意してくれた魈を悲しませる気がして、何か言うこともできなかった。
「ありがとう。おいしそうだね」
蛍はいつもより若干ぎこちない笑顔を顔に貼り付けて笑いながら、大福に手を伸ばした。 だが、指先が大福の柔らかな白い薄皮に触れる前に、蛍の手はそれ以上動かせなくなった。
「なに……?」
蛍は表情を強張らせて、魈に問いかけた。 大福に伸ばされた蛍の右手を、魈の左手がぎゅっと握り込んでいた。先ほどまでそっぽを向けていた顔を蛍の方に向けて、穴が空きそうなほどにじっと見つめている。 そして魈は蛍の横ににじり寄ると、握り込んでいた手の力を一瞬弱めてから、改めて蛍の指と自分の指を絡ませた。 有無を言わせない、蛍の嘘を見透かされてしまいそうな視線。柔らかい手つきなのに逃げられなさそうな手の力に、蛍は心臓をどくりと嫌な感じに跳ね上げさせた。 ばれてはいけない、気付かないでほしい。蛍は心の中で必死に懇願した。瞬きすることも忘れて、平静を装って金色の瞳を見返す。
そうして蛍は指と視線で絡め取られながら、しばらくの間、身動きを取れずにいた。
「蛍」
魈は静かに蛍の名前を呼んで、目を伏せた。それは、蛍が一番好きな声音で紡がれる、一番大切な音だ。 蛍の中に、罪悪感がじわじわと募る。しかしそれ以上魈が何も言わないのを良いことに、蛍は何も気付いていないふりをした。 もしかしたら魈は何かに勘付いたのかもしれないと思ったものの、こんな形で初めて手を繋ぐとは、などと的外れなことを考えながら気を紛らわせた。 過日の水揚げのときといい、蛍はかなり頑固な性格なのだ。一度隠し通すと決めたことに関して、あっさり口を割るようなことはない。
だが、魈は視線を逸らしても蛍の手を離さなかった。むしろきゅっと手に力を込めて、口元を僅かに震わせて、何か言いたそうな様子さえあった。 蛍はただ、指を絡ませてきつく握られた手を、黙って見ていることしかできない。 どちらのせいなのか、繋いだ手はあたたかいのに冷ややかで。一緒にいるはずなのに距離を感じて不安になる。 言うまでもなく、その不安の原因は壁を作っている蛍だ。
「……いや、なんでもない」
やがてひと言呟いて嘆息すると、魈はするりと蛍の手を離した。 あとは何事もなかったように、二人で大福を食べながら雑談に興じて、例によって囲碁で遊んだ。
蛍の日常を脅かす不可解な現象。 それらが一刻も早く止むことを祈りつつ、蛍は流されるように日々を過ごすしかなかった。
『望むらくは、うつつを共に(下)』に続く……
今回話が長い&書いてる私が力尽きそうだったので、上下に分けることにしました。
中途半端かつ不穏なところで話が途切れておりますが、近日中に下を公開するつもりですので、何卒ご容赦ください……。
前半だけだとタイトルの意味ほぼわかんないですね……申し訳ない。
▼これまでの話
第一話『ならば、すべての夜を買おう』
第二話『髪一筋も、渡さない』
→novel/series/7440513
名前さんがこれまでの話のFAを描いてくださっています!
→illust/91722439
とっても素敵なのでぜひご覧ください〜!!
いつもブクマやコメント、マシュマロなど反応感謝です!ありがとうございます!!!