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藤花
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髪一筋も、渡さない

髪一筋も、渡さない - 藤花の小説 - pixiv
髪一筋も、渡さない - 藤花の小説 - pixiv
39,044文字
花魁・蛍ちゃんと呉服問屋の若旦那・魈様の話
髪一筋も、渡さない
魈蛍ちゃんの遊郭パロ、シリーズ第二話でございます!!
前話はこちら→novel/15645690

前回ほんのり気持ちが通じ合った風な魈蛍ちゃんに、苦難の水揚げ(初夜)が待ち受けるという話です。
それぞれのキャラクターがこの世界に合わせて暴走を始めているので、キャラ崩壊にはご注意ください。

いつもたくさんのブクマやコメント、ありがとうございます!
Twitterやマシュマロから感想いただいてる方も感謝です〜!!
なんとか完結できるように引き続き頑張りたいと思いますので、気が向いたらお尻叩いてやってください。
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2021年7月26日 14:11

「心配せずとも、いずれ嫌というほどするつもりだ」

 悪戯っぽくにやりと笑って宣う若旦那は、いつになく楽しそうだった。  一方遊女は自分だけが先走っていたような気分になって、熟れた果実のようになった顔を、対照的な藍色の袂で必死に隠した。

 ■ ■ ■

 金子で買えぬ、ものがある。  焦がれ憧れ手を伸ばし。  己が無力を嘆き哭く。  浮世の契りは、いつなるものか。

 ■ ■ ■

 花街を大いに揺るがせた、璃月屋の若旦那による身請け騒動。  それが起こる少し前、鍾離と魈が群玉楼から帰宅した朝の話だ。

 群玉楼を出た一行は大門の外で駕籠に乗り、鍾離と魈が暮らす璃月屋の屋敷へと戻った。  花街を出た時点ですでに前後不覚だった詩人は、屋敷に着く頃には気持ち良さそうに夢の中。すやすやと寝息を立てて、まったく動く気配がなかった。

 詩人とは長い付き合いであるものの、鍾離は詩人がどこに住んでいるのか知らない。と言うより、詩人には定住先がない。詩を詠む他、とある稼業で日銭を稼いで暮らしていると、鍾離は認識している。  簡単に言えば、自由人というやつだろう。ゆえに意識のない詩人をどこかに送り届けることもできなければ、道端に捨て置くこともできない。  そのため鍾離は仕方なく詩人を自宅に連れ帰り、空いている適当な部屋に転がした。無造作に放ったため、詩人の頭がごつんと音を立てたのが聞こえたが、気にしない。下は畳だから問題ないはずだ。むしろ板間でないだけ有り難いと思え、と鍾離は内心で自分を正当化した。

 そんな鍾離の様子を、魈はずっと見守っていた。  群玉楼を出たときから、自分が詩人を背負うと申し出ていたのだが、体格的に鍾離が運んだ方が良いと断られてしまい、黙って成り行きを見ていることしかできなかったのだ。

 だが実のところ、鍾離が魈の申し出を断ったのは体格の問題ではなかった。  昨夜、魈は詩人に有ること無いこと吹っ掛けられて絡まれていた。そのことに関して、鍾離としてはかなり申し訳ないことをしたと思っている。  自分に従順な魈のことだから、鍾離の知人ゆえに詩人を無碍にもできず、気ままな振る舞いに耐えていたに違いない。そう考えると、詩人の同行は鍾離自身も不本意だったとは言え、魈に運ばせるのも違うだろうと思ったのだ。  本当に、風情も何もなく水を差してくる詩人には困ったものだった。

「魈、花街はどうだった?」

 今朝、群玉楼の玄関で合流した魈の表情は、昨夜とは打って変わって穏やかだった。当然、鍾離はそれにとうに気付いている。感想を尋ねたのは、単なる世間話程度のつもりだった。  しかしその一方で、魈から良い答えが返ってくることも期待していた。否、そういう回答を得られる自信が鍾離にはあった。明らかに嫌そうにしていた魈を花街に連れ出したことを、帳消しにしてくれるような返事が。

「……」 「魈?」

 予想外にも、魈は表情を険しくして黙り込んでいる。  思いの外悪くなかった、というような好意的な言葉が返ってくると鍾離は踏んでいたのだが、呼び掛けても何の反応もなく、何かを考え込んでいるような様子だ。

 その様子を不思議には思うものの、待てど暮らせど一向に魈が開口する気配はない。  やむを得ず、鍾離は自室に向けて廊下を歩き始めた。一眠りして頭をすっきりさせてから、最近手掛けている金貸業の仕事に取り掛かろうと考えたのだ。

 歩きながら肩越しにちらりと魈の様子を見れば、まだ何か思い巡らせているようだった。  長年の習慣のためか、心ここに在らずの状態でも鍾離の後ろにしっかり着いてきていとるころは、いくつになっても可愛げがあるなと思ったりする。もうそんな歳じゃないと眉間に皺を寄せる顔が思い浮かぶので、敢えて口にすることもないが。

 やがて、鍾離の部屋の前に至った。

「俺は少し休むが、お前はどうする?」

 鍾離は襖に手を掛けながら、魈に話し掛けた。

「……鍾離様」

 魈が静かに、鍾離の名を呼んだ。  厳かにも聞こえる声音に、鍾離は思わず襖を開きかけた手を下ろし、魈の方に向き直った。

「どうした?」 「……金子を用立てては、もらえないでしょうか?」

 神妙な顔をしながら口を開いた魈は、突拍子もないことを言い出した。鍾離は驚きのあまり目を瞬かせることしかできず、すぐに反応を返せなかった。  だが鍾離が驚くのも当然なのだ。なにせ魈を養子にして十年も経つというのに、こうしたお願いをされるのは初めてのことだった。まだ童の時分であっても菓子一つねだることのなかった子が、自ら金が必要だと頼んでくるのだから、これはよほどのことである。  やっとのことで平静を取り戻した鍾離は、なんとか魈に尋ねた。

「用立てるのは構わないが……いくらだ?」 「千両ほど」

 魈が口にした金額に、鍾離はさらに仰天した。瞬きの回数が、無意識に増える。  大店である璃月屋にとって、それは払えぬ額ではない。しかし凡人の感覚で言えば、目玉が飛び出るような金額だ。どこぞの世界で言う、1億円にも相当する。  そんな大金を、一体全体何に使うと言うのだろうか。

 ここでふと鍾離の脳裏に過ったのは、これは先ほど自分が投げかけた、花街についての感想の話の続きではないかという考えだった。  普通に考えればまったく話が繋がっていないのだが、魈は鍾離の話を無視して別の話題を始めるような人間ではない。それに加えて魈の神妙な口振りと、千両という金額。千両というのは、ちょうど某街における人間一人分の金額だ。それらの断片的な要素を繋ぎ合わせると、自然と鍾離の中に一つの仮説が思い浮かぶ。  まさかと思いながらも、鍾離は恐る恐る目的を確認してみた。

「その千両は、何に使うんだ?」 「身請けをしたいと」 「……なるほど」

 鍾離の予感は見事に的中した。  魈が身請けしたいと言っているのは十中八九、あの夜光という娘だろう。  彼女に興味を持った様子に気付いて、一緒にしてやったのは自分だ。そもそも、魈に趣味のひとつでもできないものかと考えて、気の抜ける場所ができればと花街に連れ出したのも自分だ。  しかし鍾離の計らいは予想以上の効果を上げたらしく、どうもとんでもない話になってきた。

「俺は構わないが……」

 養子にしたと言っても、鍾離は魈を自分の思い通りにしたいという気持ちは微塵もない。基本的に何事も、魈の好きにさせてやる心算でいる。  だがなぜ急にそんな気になったのか、彼女の何を気に入ったのか。義理の関係であっても親として知りたいという思いが湧き上がるのは、自然なことだろう。とは言え、初めて魈が自分の要望を伝えてきたというのに横槍を入れるのも憚られる。  結局、鍾離はそれ以上何も言えなかった。

「わかった。すぐに用意しよう」

 最終的にそれだけ言って、千両を用意することに決めた。

 鍾離は群玉楼の楼主・凝光をよく知っている。馴染みの妓楼の楼主としてだけでなく、彼女が泥水をすすっていた頃も、現在の富豪としての手腕も、だ。  そして凝光の性格も、心得ている。魈が対峙する楼主は、きっと一筋縄ではいかないだろう。  そうは思えども、こういう場合に親ができることなど何もないというのもまた、世の常だ。可愛い子には旅をさせよと言うように、自分の力で困難に立ち向かうことも必要だろう。それもひとつの経験だ。

「感謝します」 「どちらにせよ、千両などお前が稼いだ金のうちほんの一部に過ぎない」

 璃月屋の呉服業の方は、最近ほとんど魈が回しているのだ。そこで上がった利益を魈が自分のために使うことを、誰が否定できようか。  鍾離は自分は黙って金だけ出そうと心に決めて、会話はそこで終わった。良好な親子関係とは、金は出しても口は出さない、これに限る。  どこかほっとしたような顔の魈を見て鍾離はひとつ息を吐き出してから、金子の用意に動き出した。

 ここまでが朝の話で、こうしたやり取りを経て実現したのが、群玉楼でのあの騒動である。  結果は鍾離の予見していた通り、凝光が簡単には首を縦に振らず、蛍の座敷の独占権を売り買いして終わった。

 金子の用意ができ、昼前に再び花街へ向かった魈が帰ってきたのは、昼八ツの頃だった。  縁側で茶を飲みながら一息ついていた鍾離の元へ、魈の方から歩み寄ってきた。いつも通りの涼しい顔をしているが、微妙に違うところがある。  魈の表情で交渉の結果を察しながらも、鍾離は自分の隣を軽く叩いて魈も座るように促してやった。すると魈は素直に鍾離の横に腰を下ろし、鍾離に倣って静かに庭を見遣った。  鍾離は一口茶を口に含んでから、おもむろに口を開く。

「首尾はどうだった?」 「……楼主殿は、かなりの守銭奴でした」 「ははっ。やはりそうか」

 落ち込んでいるとまではいかないまでも、どこか疲れたような、苦虫を噛み潰した顔をして報告してくる魈に、鍾離は苦笑した。  凝光とは、そういう人なのだ。

「それで、どうしたんだ?」 「座敷を買い占めてきました」 「……は?」 「なんだ、やっぱり一目惚れだったんじゃないか」

 思わず素っ頓狂な声で聞き返した鍾離にかぶせるように、二人の背後から急に別の声が割り込んできた。  鍾離と魈が振り返れば、そこには相変わらず緩んだ顔をした詩人がいた。

「お前、やっと起きてきたのか」 「高いお酒は目覚めたときの気分が違うね」

 ヘラヘラと笑いながら伸びをして、詩人も二人のそばに腰掛けてきた。  そして鍾離の手から湯呑みを奪い取ると、茶を口に含む。だが思っていた以上に熱かったらしく、自分は猫舌なんだからもっと冷ましておいてくれないとと文句を言って、すぐに鍾離に湯呑みを返した。

 鍾離は溜息をつきながら、返却された湯呑みを見つめている。気に入って飲んでいる茶にけちが付いたような、不快な気分になったのだ。  それでも捨てるのは勿体ないので、一気に飲み干して空になった湯呑みを弄ぶ。

「ねえ、彼女の何がそんなに気に入ったの? 最初は全然乗り気じゃなかったのに」

 鍾離が気になっていても敢えて踏み込まなかったことを、詩人は遠慮なくずけずけと尋ね始めた。こういうところが本当に、情緒のわからないやつなのだ。風情のわからない呑兵衛詩人と、鍾離がこの詩人を呼ぶ所以である。  昨夜の舌の根も乾かぬうちにまた余計なことを言って魈を困らせる詩人を黙らせようと、鍾離は口を開きかけた。止めなければ、昨夜の二の舞だと思ったのだ。  しかしそれより僅かに早く、魈の方が声を発した。

「あれは誰にも、渡さない」

 刹那、鍾離は弄んでいた湯呑みを取り落とした。ごとん、と音を立てて、縁側の床板に転がり落ちる。  意味深な言葉を吐き出す魈の目は、まったく笑っていなかった。底の見えない暗い金色の目が、殺意にも似た激情を浮かべていた。  言葉だけならば単なる独占欲の表れと受け取ることもできるが、目を見ればそれは否定せざるを得ない。まるで、彼女に手を出そうものならその者の首を掻き切ってやるとでも言いたげな、鋭い何かがそこにはあった。

 鍾離は息を呑み、自身の背筋に怖気が走ったのを嫌でも自覚した。先ほどまで軽口を叩いていた詩人も笑みを消して、目を見開いている。  真昼間の太陽に照らされてあたたかいはずの縁側の空気が、真冬のように冷え切っていた。

「仕事が終わったら、我は群玉楼へ行きます」

 一度瞬きをした魈の目は、いつも通りの金色に戻っていた。  立ち上がって縁側から去っていく魈の背中を、鍾離と詩人は黙って見送る他ない。しばらく二人はその場で身じろぎもせず、固まっていた。

 庭の木に留まっていた鳥が翼を羽ばたかせ、青々とした葉を騒めかせる。  その音でようやく鍾離は我に返り、同じく落ち着きを取り戻したであろう詩人がぽつりと呟いた。

「……じいさん。あれは何?」

 魈の双眸に映っていたのは、恋慕などという生易しい感情ではなかった。視線だけで人を殺せそうだと思うほどの、いっそ狂気と言っても差し支えのないような、暗然たる光を見た気がしたのだ。  あんな目をする人間が、一目惚れなどという可愛らしい感情を抱くものか。詩人の知る限り、そんな物語はどこにもない。

「あの目は……十年前、俺が魈を養子にした頃の目だ」

 もう二度とそんな目はしないと、鍾離との間で誓ったはずだったのに。

「何がお前に、そんな目をさせるんだ……」

 鍾離は珍しく顔を青くして、片手で顔を覆った。深々と息を吐き出して、なんとか気持ちを落ち着けようと努めているのだ。

 鍾離と魈が出会ったのは十年前。それ以前のことは、実はよくわからない。知っているのは、かつて魈の手には白刃があって、真紅の血が散っていたと言うことだけだ。  そんな苦しみから解放されてほしいと思って、彼を迎え入れたとき、鍾離は魈という名を与えた。異邦の伝説で、数多の苦難や試練を経験した者の名だ。  共に過ごしたこの十年、穏やかな時間を積み重ねてきたと思っていたが、それは鍾離の思い込みだったのかもしれない。まだ魈の中には、苦しみの残滓が燻っていたのではないか。あの夜光との出会いが何か引き金となって、その火種を大きくしてしまったのではないかと、思い至る。  先ほどの魈の目を見ては、その考えを否定したくとも否定できなかった。

 手放しにその行く末を応援してやりたいと思うのに、鍾離の胸は騒ついて仕方がない。いつか身請けができたとして、あの二人は幸せになれるのだろうか。  だが、今魈を問い詰めたところで意味はないだろう。恐らくまだ、本人にはかつてのような目をしている自覚がない。無意識に近いからこそ、鍾離の前で隠しもせずにあんな目をしたのだろう。  結局今の鍾離にできるのは、自身の考えが杞憂であることを祈るくらいしかなかった。

「まあ、情の形は人それぞれってね」

 詩人はいつもの調子に戻ると、鍾離の心中を知ってか知らずか、他人事のようにそんなことを口にした。  そして未だ転がったままの湯呑みを拾い上げると、縁側の床に置いてその影を眺めた。

 ■ ■ ■

「蛍、君って魔性の女だったのね」

 身請け騒動があった日の夕刻、例によって蛍は刻晴の身支度を手伝っていた。  しかし蛍は自身の着物の裾につんのめって、転びそうになった。忙しく動き回る蛍を横目に、刻晴が妙なことを急に口走るものだから、動揺したのだ。  なんとか踏み止まって体勢を立て直すと、鏡の前で紅を引いている刻晴に向かって蛍は非難の声を上げた。

「……急に何ですか、刻晴さん」

 このひと月と少しで気軽に話せる間柄になれたのは良いことだが、心臓に悪い発言は控えてほしい。  そう心の中で思いながら、その真意を推し量ろうと蛍は刻晴のそばに移動した。

「何って、昼間の璃月屋の若旦那様の件よ」

 有象無象の噂話の類になど興味のない刻晴は、昼間のあの騒ぎの中でも玄関に足を運んだりしなかった。けれども玄関先であれだけ大騒ぎしていたので、当然その場にいなかった刻晴の耳にもすでに概要は届いている。  それどころか噂はあっという間に駆け巡り、他の妓楼でも眉唾ものの憶測を含めて話題になっていると聞く。閉鎖されたこの狭い街において、そうした噂話は格好の娯楽なのだ。

「一体どんな手練手管で、あの無愛想な若旦那様をたらし込んだのかしら?」 「た、たらし込んだって……」

 刻晴が冗談半分に言っているのはわかるのだが、笑えない。  本当に特別なことなど何もしていないのだ。むしろ泣いて迷惑をかけた覚えしかない。それなのに突然身請けだなんだという話になって、まだ蛍の方が混乱しているくらいである。

「君も満更でもないって顔ね」 「そ、それはその……」

 頰を朱色に染めながら口ごもる蛍を、刻晴は愉快そうに見ている。

「まあ心はどうあれ、今から大店の若旦那様が馴染みになってくれるなら、君の本願成就は思ったより近いかもしれないわよ」

 刻晴の言葉に、蛍は目をぱちくりさせた。  そんなことまで考えていなかったが、確かにその通りだ。蛍は借金のためにここに縛られているわけで、どんな形であろうとも稼いで借金の返済が終わりさえすれば、自由の身になれる。  ただ、そんな打算的な気持ちで魈に情を寄せているつもりなどこれっぽっちもないので、そういう言い方をされるとどうにも複雑だ。別にそういう算用高い考え方を知ったからと言って、蛍の魈に対する態度が変わることもないだろうが。

 何とも言えない顔をしている蛍を見遣って、刻晴は言った。

「何にせよ、良い滑り出しには違いないわ。今夜も来るんでしょう? せいぜい愛想を尽かされないように頑張ることね」

 今夜も来る。  忘れていたわけでも理解できていなかったわけでもないのだが、刻晴の言葉で蛍は俄かにそのことを意識した。  愛想を尽かされないように、などという次元の話ではなく。今日の昼間、自分は随分と大胆なことを言ってしまった。そして予想外にも、魈も同じような気持ちでいてくれているようなことを言って、去っていった。  それから初めて顔を合わせるのが、今宵ということになる。

 あんな会話をした後で、どんな顔をして会えば良いのか。正直、すごく恥ずかしい。  これから花街で花魁を目指そうという者が、その程度のことで恥じらっている場合でないことは、百も承知だ。けれども蛍は町娘であった時分、悲しいことに色恋などにはまったく縁がなかった。  こんな感情も戸惑いも、初めてのことなのだ。

 一人百面相を繰り広げている蛍を面白そうに観察しながら、刻晴はくすりと笑った。

 ■ ■ ■

 どんなに尻込みしていたとしても、時間はすべての者に平等に流れている。  無慈悲なほどにあっさりと日が暮れて、花街は賑やかになった。

 昨夜と同様、小さな座敷に魈と二人きりにされた蛍は、気まずくて堪らなかった。  期待しておけ、などと言われたことが脳裏を過り、落ち着こうと思えば思うほどに心臓が暴れ、手にじんわりと汗が滲んでくる。  緊張のあまりかたかたと震えそうになる手を必死に宥めて、蛍はなんとか魈が持つ盃に酒を注いだ。

「どうかしたのか?」

 意識しまくっている蛍に対して、魈は普通だ。むしろ昨日よりも寛いだ様子で、ゆるりと掛けて酒を楽しんでいる。

「別に、なんでもない……」

 自分だけが相手を妙に意識している、この状況になんだか負けたような気がして、蛍は一周回って少々不貞腐れてきた。けれどもこれがいかに身勝手なことかもわかっているので、むくれながらも黙って膳の料理を取り分け始める。  飄々とした様子の魈はやはり蛍よりも断然余裕そうで、いっそ腹立たしい。昼間は自分だって少し照れた顔をしていたくせに、と蛍は心の中で悪態をついた。

 それでもしばらくして、魈が箸と盃を置く頃にはさすがに魈に対する理不尽な腹立ちも落ち着いてきて、蛍も心地良い時間を楽しむ余裕が出てきた。  別に深く考えずとも、名前を呼んでもらえて隣に居られるだけで、細かいことなどどうでも良くなってしまったのだ。こういうところがまさに惚れた弱みなのかと、また絆されている自分を自覚してしまう。

「そうだ! これ、ありがとう」

 昨夜借りた手ぬぐいを返さねばと思い出して、蛍は懐に忍ばせておいた手ぬぐいを取り出した。昼のうちに急いで洗っておいたのだ。何と言っても魈は大店呉服問屋の若旦那。そんな相手に渡しても恥ずかしくないよう、一生懸命に皺を伸ばして仕上げた。

「返さなくても構わないが」 「こんな高そうなもの、だめだよ」

 昼間の身請け騒動でわかっていたことだが、相変わらず常人離れした金銭感覚をした商人は、軽い調子で蛍に施そうとしてくる。  確かに魈からすれば蛍は可哀想な貧乏人かもしれないが、人として借りたものはきちんと返すべきだと蛍は考えている。そう躾けられて育ったので、そこは譲らない。

 蛍が魈の手に半ば無理矢理手ぬぐいを押し付けると、その頑固さに根負けしたのか、魈は諦めたように手ぬぐいを懐に仕舞い込んだ。それを見た蛍は、やっと一杯食わせたとでも言いたげに胸を張っている。  すると魈は苦笑して僅かに表情を緩ませながら、小さな包みを取り出した。

「土産だ」

 そう言って差し出された包みには、最近人気があると噂の団子屋の名前が書いてある。  蛍が受け取った包みを開くと、串に刺さったつやのある丸い団子が顔を覗かせた。昔ながらの三色団子だ。

「食べて良いの?」

 一応確認するように尋ねると魈が黙って頷いたので、礼を言って蛍は一本取り上げた。  団子を口に含むと、もっちりとした食感と、程よい甘さが口の中に広がる。  花街の中にも団子屋をはじめ何軒か甘味処があるのだが、これから借金返済をしなければならない蛍にとって、自由に買い物する余裕などあるはずもない。いつぶりかわからない、本当に久しぶりの団子だった。  兄と一緒に過ごした日々を思い出す、懐かしくて幸せな味がした。

 思わず顔を綻ばせながら団子を頬張る蛍を見て、魈もほんの少し口角を上げて笑っていた。  それに気付いた蛍は、なんだか気恥ずかしいのと同時に、胸がどきりと高鳴るのを感じた。昨日のつまらなさそうだった様子とは一変、多少気を許してくれたのか、魈のそんな顔が見れたのはまさに僥倖だった。

「魈は食べないの?」 「我はいつでも食べられる。全部お前が食べると良い」

 そのひと言で、蛍は理解した。  この団子は単なる手土産ではなく、自由に甘味を食べられないであろう蛍の身の上を思って持ってきてくれたものなのだと。  魈は無愛想に見えて優しい。そんなことはもうとっくに知っていたが、改めてその優しさに触れる度、胸の奥があたたかくなる。  最後の一口を飲み込むと、照れ隠しをするように蛍は口を開いた。

「魈の好きな食べ物って何?」 「……」

 そんなに難しいことを訊いたつもりはなかったが、なぜか魈は黙り込んだ。  昨日から見ている限り、魈の食は細めだ。やはり食べることにあまり執着がないから、特に好きな食べ物というのもないのだろうか。  蛍が内心でつらつら考えていると、ようやく魈が答えた。

「……杏仁豆腐だ」

 長考の末に意外な答えが返ってきて、蛍は目をぱちぱちしながら魈を凝視してしまった。  可愛いな、と思った。  ただ、この感想を正直に言ったらいけない気がしたので、蛍は短く返事をするに留めておいた。

「そうなんだ」

 せっかくあっさりと返したのに、文句があるのかとでも言いたげに、魈はじっとりとした目で蛍を睨んでいる。失礼なことを考えていることは、お見通しだったらしい。  しかし蛍の中に浮かんでくるのは、睨み付けてくる魈の顔さえも綺麗だとか、案外ころころと変わる表情が面白いだとか、相も変わらず余計な感想ばかり。自分はもう重症だと、悟った。

「お前はどうなんだ?」

 少々むすっとした顔のまま、魈も蛍に尋ねた。

「また何か持ってきてくれるの?」

 また会える、確かに次がある。そういう会話をできることが嬉しくて、つい図々しい口をきいてしまう。  騒動の前まで抱いていた、もう二度と会えなかったらなどという不安が嘘のように吹き飛んで、幸せだった。

「そのつもりだ」 「そっか」

 ああやっぱり、そういう答えが嬉しい。でも喜んでいるばかりでなく、きちんと自分も回答しなければ。  けれどもいざ、また手土産を持ってきてくれると明言されると、何が好きだと答えるか非常に悩む。元々蛍の生家は大して裕福ではなかったので、世の中には色々と美味しいものがあると聞けども、食べたことのあるものの方が少ない。  まだ何本も残っている団子をぼんやりと見つめながら、好きな食べ物に何を選ぶか考え込んだ。我知らず、律儀に考えてしまう。別に何だって良いはずだし、きっと次の次だって、さらにその次だってあるのに。

「魈が選んでくれたら、何でも嬉しいかな」

 結局何かひとつに決めることはできなくて、そう返した。  ただ、この言葉はお世辞でもなければ適当に答えたつもりもなく、紛うことなき蛍の本音だった。  自分はきちんとひとつ答えたのだから、お前も答えろと怒られるだろうか。魈の反応を想像して笑いそうになりながら、魈が口を開くのを待った。   「魈?」

 どういうわけか、何の返答もない。  さすがに不審に思って、蛍が視線を団子から魈に移すと。先ほど懐に仕舞ったはずの洗いたての手ぬぐいを取り出して、なぜか顔を覆っている。

「酔っちゃった?」

 昨日蛍が手ぬぐいを渡されたときも、そんな会話をした。あれは蛍の涙を隠すための気遣いだったが、今日の魈は昨日よりも酒が進んでいたので、もしかしたらと思ったのだ。  なので蛍は本当に心配する気持ちで、何の悪気もなく、大丈夫かと声を掛けながら。手ぬぐいを持つ魈の手に自身の手を重ねて、ずらしてしまった。

「へ?」

 自分は今日一日で、一体何回間抜けな声を上げれば気が済むのだろう。  見てはいけないものを見てしまったかもしれない、と思った。

「……見るな」

 やっぱり、見てはいけなかったらしい。  ぼそりと不満げに漏らされた魈の声は、怒っているというわけではなかったが。  手ぬぐいで隠していた真っ赤な顔を、見てしまった。

 魈にとっては不意打ちだったのだ。  素直に自分の好きな食べ物を言ってみたら、蛍が小動物を見るような目で見てきて、その視線が不満で。好きな食べ物を聞き出して、困るくらいに買ってきて仕返ししてやろうと思ったのに。無論、それが本当に仕返しになるかどうかは、さておきだが。  自分から与えられたものなら何でも良いなどと言われて、頭で理解する前に顔に熱が集まってしまった。それを隠そうとしていたのに、だ。蛍本人にそれがばれてしまったのは、情けなくもあり気まずくもあり、といった心情である。

 そんな魈の顔を見てしまった蛍も冷静でいられるはずがなく、心臓を全力疾走させながら、同じく顔を林檎のように赤く染め上げてしまった。  お互いに面映ゆそうな顔を晒しながら、妙な沈黙が流れる。  魈も悔しそうな顔をしていたが、蛍は自分の方が負けたと思った。絶対、自分の方がひどい顔をしているに違いない。そんな顔でこの若旦那に見つめられては、おかしくなりそうだった。

「魈は、囲碁はできる?」

 だから気恥ずかしさを隠すように、蛍は提案した。部屋の隅に置かれた碁盤を指差し、空気を変えようとしたのだ。  完全に逃げの姿勢に入ってしまったことは、誰に言われずとも蛍自身わかっている。それでも、この雰囲気はもう限界だった。

 それを皮切りに蛍は開き直って、魈になんとか一泡吹かせてやりたいと思考を切り替えた。  このひと月、様々な芸事の師匠たちに師事して身に付けた芸のひとつである囲碁は、師匠からなかなか筋が良いと褒めてもらったので自信があった。  鍾離が仕事一筋だと言っていた魈は、きっとこのような遊びにも疎いはずだ。これならば勝機はある、などとどこか的外れな闘争心まで燃やし始める始末である。

「我を何だと思っている。その程度造作もない」 「それなら、勝負しよう」

 廓遊びで囲碁を嗜む、ということ自体はなんの変哲もないことだ。  しかし遊女の方が本気で客を打ちのめす気で勝負を仕掛けるというのは、かなり滑稽である。普通は客に花を持たせてやるものだ。

「……そう来たか」 「あ! そこは……」

 一度勝負が始まってしまえば、先ほどまでの頰の熱も吹き飛んで、互いにすっかり真剣になっていた。パチンパチンと、碁石が碁盤を叩く音だけが小さな部屋にこだまする。  蛍も魈も、負けず嫌いだったのだ。たとえ遊びであっても、負けたくなかった。

「我の勝ちだな」

 意気揚々と宣言した魈を、蛍は下唇を噛み締めながら睨め付けている。  いくら得意な芸だと言っても、さすがに始めて間もない蛍に勝ち目はなかったのだ。

「我は幼少の砌より鍾離様と碁を嗜んでいるのだ。鍾離様は商人仲間の間でもほぼ負けなしなのだぞ」

 果ては機嫌良く鍾離の自慢まで始めて、魈はご満悦だった。  先ほど手ぬぐいの下の顔を見られた屈辱は、これにて許してやろうとでも言いたげな顔だ。  一方、何の憂さ晴らしもできていない蛍はますます悔しさを募らせるばかりだ。

「もう一局!」 「望むところだ」

 勝てるまでやると言い張る蛍に魈が応じて、結局その日は朝まで碁を打ち続けた。  終ぞ蛍が勝てることはなかったが、これを境に、二人の間には暗黙の了解が生まれた。酒と料理を嗜んで、魈の手土産の甘味を食べて、碁を打つ。それが二人の花街の夜の過ごし方になった。

 ■ ■ ■

「厨房を使いたいの? アタシは全然大丈夫だけど」

 魈が群玉楼に通い始めて数日。  ある日の昼間、蛍は厨房の香菱に声を掛けた。少し厨房を使わせてほしいと、お願いしに来たのだ。

「何を作るの?」 「杏仁豆腐でござんす」

 はにかんだように笑って答える蛍に、香菱は目を輝かせた。

「夜光さん、杏仁豆腐が作れるんだ!」 「久しぶりでうまく作れるかどうか、わかりんせんけど」 「アタシ甘味はあんまり作らないから、良かったら参考にさせてくれない?」 「わっちは構いんせんけど。今日は練習のつもりで来んしたから、あまり期待しないでくだしゃんせ」

 そんな会話をして、蛍が杏仁豆腐を作り始めると、香菱は興味深そうにその様子を見ていた。  香菱とは普段、食事の前後に会話をするくらいで、まだあまりじっくりと話したことはなかった。良い機会だと思って、蛍は手を動かしながら香菱に疑問をぶつけてみた。

「香菱は、なぜここで料理人をすることにしたんでござんすか?」

 香菱がある日突然群玉楼へやって来て、群玉楼の名声を料理によって高めた話は有名だ。  しかしそもそも、なぜ花街を選んだのか。料理人としての武者修行であれば、花街という閉ざされた空間で腕を振るうよりも、外の世界であちこち行って、料理をした方が遥かに効率的に決まっている。  もちろん、蛍からすれば香菱の料理が毎日食べられることは至上の幸福だ。ただ、一人で手際よく厨房を切り盛りする腕前からしても、ここに留まっている意味があるのか不思議だった。

「アタシは、料理は人を幸せにできるものだと思うの。どんなに辛くても、悲しくても、おいしいものを食べれば明日を生きる活力になる」

 香菱が語った理由は、こうだった。  花街がどんなところかは、料理にしか興味のない香菱であっても、以前からなんとなく知っていた。  香菱の目標は、人を幸せにする料理を極めること。だからそのためには、暗い夜の街で腕を振るうことが必要だと考えた。どこよりも深い澱みの中で足掻く人たちが、這い上がるための土台を作りたいと思ったのだ。  それができてこそ、料理人として真の高みに到達できるはずだというのが、香菱の持論だった。

 香菱の信念と崇高な精神に、蛍は驚いた。  自分とそう年端の変わらない彼女が、そこまで考えてここで料理の腕を振るっていることに、すっかり感服してしまった。

「えへへ、ちょっと格好つけすぎちゃったね」

 蛍の尊敬の眼差しを受けて、香菱は照れ臭そうに笑った。

 そうこうしているうちに杏仁豆腐が完成して、香菱が試食したいと申し出てくれた。なので有り難くお願いして、蛍は少し緊張しながらその評価を待った。毎日料理に明け暮れている料理人が何と言うか、どきどきしていた。  匙ですくって杏仁豆腐を一口含むと、香菱は目を見開いて叫んだ。

「夜光さん、おいしいよ! お客さんに出せるくらいに!」 「本当でありんすか?」 「アタシ、料理に嘘はつかないよ!」

 胸を張りながら宣言して、香菱はまるで汁物でも流し込むかのように、ものすごい勢いで杏仁豆腐を口に運んでいる。  食べ終わってようやく一息つくと、香菱は口を開いた。

「夜光さん、随分手際が良くて驚いちゃったよ。どこかで料理でもしてたの?」

 一連の蛍の手際は、料理人である香菱から見ても文句の付けようがなかった。そして仕上がった味も極上で、花街に売られてきた一介の町娘にしては、過ぎた腕だと思ったのだ。

「実はわっちの生家は、甘味処でござんした」 「そうなんだ! 杏仁豆腐は看板商品?」 「一応、そうでありんすね」 「誰かのために何度も作った味がしたから、そんな気がしたよ」

 香菱の言葉に、蛍はぽかんとしてしまった。  誰かのために何度も作った味、というのは一体どんな味のことなのだろうか。不思議な表現にピンと来ず、首を捻る。

「うーん……何て言うか。平たく言えば、すごく作り慣れてる感じ?」

 そう言われれば、香菱の言いたいこともなんとなくわかる。  香菱の指摘通り、かつて蛍は杏仁豆腐を数え切れないほど作っていた。

「わっちの生家ではーーーー」

 蛍が香菱に語ったのは、こんな話だった。  蛍の生家の甘味処は、小さな街の小さな店で。両親と兄と、四人で営んでいた。看板商品は杏仁豆腐で、他にもあんみつに団子、わらび餅など、定番の甘味を提供していた。  ゆえに幼い頃から蛍は兄とともに店を手伝っていて、十年ほど前、五、六歳の頃には杏仁豆腐の作り方もすっかり覚えていた。兄の方はわらび餅が得意だったと、記憶している。  蛍が作った杏仁豆腐と、兄が作ったわらび餅。どちらも街の人々に愛されていた。利益は大きくなかったが、たくさんの人に喜ばれるのが嬉しくて、蛍は毎日飽きもせず杏仁豆腐を作っていた。

「確かに、わっちは杏仁豆腐をたくさんの人のために作ってきたのかもしれんせん。ああ、でも」

 香菱ほど気高い話ではないけれど、少し通じる話があったことを思い出す。  昔、杏仁豆腐で助けた人がいたことを。

「どんな話?」

 興味津々で、香菱が尋ねてきた。  なので大した話じゃないと前置きしてから、蛍は話し始めた。

 蛍は十年ほど前のある日、怪我をしてお腹をすかせた子に、こっそり杏仁豆腐を食べさせてあげたことがあった。決して蛍の生家の甘味処は裕福でもないのに、だ。  ぼろ雑巾のようになって血と泥に塗れた子供を、家の近くにある古びた神社の境内で見つけたのだ。食欲などないと言って、自分に構うなと拒絶を示した子供の元に、蛍は足繁く通った。水を張った桶と手ぬぐいで汚れを拭ってやり、冷たい井戸水を飲ませた。  つるりと柔らかい食感の杏仁豆腐なら食べられるのではないかと考えて、両親や兄の目を盗んでは杏仁豆腐を用意して、持っていってやった。何度も、何度も。  さすがに空腹に耐えられなかったのか、その子供は蛍の杏仁豆腐を食べてはくれたが、一度たりともおいしいと素直に褒められたことはなかった。何か、捻くれた感想しか言わなかったような。

「その子はどうなったの?」 「実は、覚えてないんでござんす」

 情けなさそうに笑って、蛍は答えた。  本当に、そこから先の記憶が曖昧なのだ。不思議なくらいに、すっぽりと抜け落ちている。

「良い話だね。助けた人の数なんて、アタシは関係ないと思うよ。それにアタシ自身、ここで腕を振るってると、本当に誰かの力になれてるのか不安になるときもあるんだ」

 そこまで言葉を紡いで、香菱ははっとしたように口を噤んで訂正した。

「アタシが弱音を吐くなんて、おこがましいよね」

 花街に縛られて生きる遊女たちの方が、自分よりもずっと苦しいに決まっている。先の見えない不安を抱いているに決まっている。  そんな彼女たちを少しでも救い上げたくて自分はここへ来たのに、遊女相手に泣き言を漏らした自分が不甲斐ないと、香菱は思い至ったのだ。

「そんなことはありんせん」

 眉を下げた香菱に、蛍はきっぱりと言った。  人の境遇など人それぞれ。他人と比較して多少恵まれた者が弱音を吐いてはいけないなどと、誰が決めたのか。蛍はそう考えるているので、香菱の言葉に不快感を抱くようなことはない。

「この杏仁豆腐は、紫金太夫の姐さんに食べてもらいんす」

 本当のところ、そのうち魈に食べてもらいたいと思っているのだが、もう少し練習してからにしようと考えて。  日頃世話になっている刻晴にろくにお返しもできていないので、ひとまずこの杏仁豆腐は彼女に捧げることにする。

「お邪魔いたしんした」

 そう言って杏仁豆腐の乗った皿を手に取ると、蛍は厨房から出て行った。刻晴の部屋へと向かったのだろう。

「強いなぁ、夜光さん」

 ぽつりと独りごちた香菱の声は、蛍には届いていない。  普通に考えれば、花街に売られてきて、他人を気遣う余裕などなくて当然なのに。蛍は香菱を励ましてくれた。  ここで生きる女たちは、強いと思う。でも彼女たちも人間で、どこかに弱さと脆さを抱えているから。香菱は自分にできる唯一無二の方法で、その小さな背中を押してやるのだ。

「よーし!」

 今一度自分に気合を入れ直して、香菱は今夜の仕込みに取り掛かった。

 ■ ■ ■    身請け騒動から半月ばかり、魈はその言葉通りに毎夜群玉楼にやって来ては、蛍と過ごしている。  ただ、そこで二人が何をしているかと言えば、酒や料理を嗜んでいるか、手土産の甘味に舌鼓を打っているか、囲碁で遊んでいるだけだ。新造出しの済んでいない蛍に望めることはもちろんその程度が関の山なのだが、はっきり言って色気の欠片もない過ごし方をしている。  それでも蛍にとってはそれで十分で、むしろここが花街であることを忘れてしまいそうな時間が何より愛おしかった。何の根拠もなく、この時間が続くと思っていたのだ。

「水揚げ……」

 楼主の部屋に呼び出された蛍は、呆然と呟いた。  煙管をふかしながらいつも通り脇息にもたれている凝光と、そのそばに控えた甘雨。それに加えて今日は、紫金太夫もいる。

「近いうちにあなたの新造出しをすると言ったでしょう。当然それに伴って、水揚げをすることになるわ」

 凝光は淡々と、話を進めた。  今日も一切の情など表立っては見せず、あくまで事務的な連絡を伝えているような口振りだ。

 正式に客を取れる新米遊女、つまり新造になるにあたって避けては通れないのが、水揚げというしきたりである。  水揚げというのは要するに、初めて男と同衾することだ。しかもその相手は大抵、花街のあれこれに熟達した金持ちの通人、それも四十路前後の男が選ばれる。  その意図としては、初めての行為で受ける恐怖や苦痛を最大限に小さくして、その後の営業に支障を来さないためである。ゆえに当然、その相手を選ぶ権利など遊女にはない。楼主や遣手、姉女郎が相談して見繕ってくるのが常だ。

 端的に言えば蛍は、近いうちに見知らぬ誰かに肌を晒すというその行為を、否応なく受け入れねばならないということだ。  それが理解できたからこそ、放心しているのである。

「……相手は、決まってござりんすか?」

 なんとか震える声を絞り出して、蛍は凝光に尋ねた。

「今はまだ、心当たりの旦那方に声を掛けているところよ」

 紫煙を吐き出しながら、凝光が答えた。  水揚げの役割を担う客は、そこに掛かる費用も持たねばならない。着物やら夜着やらすべてを新調するので、百両くらいは平気で必要になってくる。どんな上玉の娘が上がってこようとも、すぐに良い返事が返ってくるとは限らないのだ。

「これは重要なこと。いくら金子を積まれようとも、若い男には任せられないわ」

 蛍の心中を見透かすように、凝光は言い含めた。  花街に来てもうひと月半。この街を形作り、女たちを縛り付ける数々のしきたりや決まり。それらが変えようのないものであることは、蛍もすでによくわかっている。逆に言えば決まりがあるからこそ、今日まで蛍の貞操が守られてきたと言っても過言ではない。

 当然、いつか通らねばならない道だとわかっていた。凝光に新造出しを示唆されたときから、この道を歩むことは決まっていた。  凝光に認められたとき、借金返済が始まると何も手放しに喜んでいたわけではない。どこの誰とも知らぬ人に触れられる日が来ることを、心の奥底であのとき確かに覚悟していた。  それなのに、彼に出会ってしまったから、こんなにも心が騒ついている。

 けれども考えてみれば、人の欲にまみれたこの深淵で、淡い恋心など抱いて浮かれている方がどうかしている。  刻晴が祈ってくれた蛍の本願成就、そのためにはこの身のひとつやふたつ、喜んで差し出して然るべきだ。ここにいる誰もが皆、そうして腹を決めて日々を生きているのだから。  どちらにせよ、蛍には何の拒否権もない。

「相手が誰になろうとも、信頼の置ける上客ばかりです。その点は私が責任を持ちますから」 「わっちもお相手をさせてもらったことのある、気の良い方々でありんす」

 相手役の客の選定は、遣手である甘雨が主に行ったのであろう。自身の仕事に対する自信の表れか、言外に蛍を宥めているのか、歯切れ良く言い切った。  そして紫金太夫もまた、自分のよく知る者たちが相手だからと、念を押している。蛍にだけ見えるように口をぱくぱくさせて、安心して、と言っているのも見えた。  それに蛍が気付いたのを認めると、紫金太夫は僅かに口端を上げた。凝光と甘雨に隠れてやり取りしたことが、おかしかったらしい。今日も変わらず我が道を行く、ちょっと変わった頼りになる姉女郎だ。

 廓を出るまで、弱気な顔はしない。先日魈の前で涙を流してしまったことは誤算だったが、蛍のその気持ちは今も変わっていなかった。  蛍は膝の上に乗せていた拳をぐっと握り締めると、初めて群玉楼へ来た日のように、強い眼差しで凝光を見返した。そこにはすでに敵対心のような刺々しい気持ちはなかったが、自分はこんなところで屈することはないのだと示すように、力強い光を宿していた。

「ふふっ」

 凝光は短く笑って、煙管片手に扇子を広げた。それで優雅に口元を隠すと、小さく口を動かして見せる。紫金太夫と甘雨に見えないよう、逆に言えば蛍にだけ見えるように。  その口が紡いだであろう言葉に、蛍はもう少しで声を上げるところだった。しかしどうにか寸前で思い留まって、ごくりとひとつ唾を飲んでやり過ごす。

 そんな蛍の様子に凝光は満足したのか、扇子を振って面々に退出を促した。  甘雨が襖を開けると紫金太夫がさっさと部屋を出ていき、続いて蛍も廊下に滑り出た。最後に甘雨が出て、襖は静かに閉まる。

 蛍の見間違いでなければ、凝光はこう言った。  ご武運を、と。  まるで戰の前の武士に送るような言葉と、本当に珍しくと言うか、初めて面と向かって蛍を励ました凝光に驚いて、蛍は声を上げそうになったのだ。

 そして去り際、甘雨にもぽんと肩を一度叩かれ、蛍は瞬きしながらその背中を見送った。  これから起こることが、怖くないはずがない。嫌悪感がないはずがない。  それでも、密かに応援してくれる皆がいてくれるおかげで、蛍の足は止まることなく前へ進むのだ。  自由を、未来を掴み取るため、蛍は足を踏み出した。

 ■ ■ ■

「群玉楼では、何をしているんだ?」

 ある朝、朝食の席で。鍾離は何の気なしに魈に尋ねた。  魈が群玉楼に通い始めて約ひと月。魈は今朝もしっかり朝帰りをしてきた。  そのまま自室に戻って寝るのかと思っていたところ、鍾離と共に朝餉を取ると言って対面に座ってきたので、ほんの雑談のつもりで、鍾離はそう質問した。  何がそんなに楽しいのだろうかという疑問と、魈が仕事以外でこんなに熱中することがこの世にあったとはという感心の気持ち、その両者を抱きつつ。

「……」

 米を口に入れた箸を咥えたまま、魈は少しの間黙って考えている様子だった。  そんなに妙な質問をしただろうか、それとも言えないようなことをしているのだろうか、と鍾離の余計なお世話すぎる親心が首をもたげ始めたとき、魈はやっと口を開いた。

「囲碁、ですね」 「囲碁?」

 思っていたのと正反対なくらいの意外な回答に、鍾離は思わず聞き返した。

「碁を始めてふた月らしいですが、あれでなかなか強いのです。まだ我の方が強いものの、本気で打たねば危ういと思う場面もあって」

 呆気にとられている鍾離をよそに、魈はなぜか対戦の感想を饒舌に述べている。  こんなにも流暢に魈が自分の話をする姿が珍しすぎて、鍾離は箸を取り落としそうになった。動揺しすぎて自然な相槌のひとつも挟めない。

「お前、囲碁なんて最近打ってないだろう」

 やっと鍾離が口にできたのは、こんな指摘くらいだった。  鍾離自身も、囲碁の心得はある。むしろ幼い魈に碁を覚えさせたのは鍾離だ。自分の相手をさせようと、仕込んだ覚えがある。  しかし仕事の方が面白かったのか魈があまり興味を示さなかったため、いつしか相手を頼まなくなった。なので囲碁に関しては最近、もっぱら商人仲間と嗜む程度だった。  それがどういう風の吹き回しか、囲碁に熱中しているような口振りで、しかも花街の遊女相手にという話なので、余計に唖然としてしまった。

「……楽しいのか?」 「それなりに」

 魈の言う「それなりに」は、他の者が言う「かなり」とか「相当」にあたる。鍾離の中の魈の言葉語録には、確かにそう記載されている。  それにどこからどう見ても機嫌良さそうに語っているのは明らかで、本当に相当楽しいのだろう。

 今の魈はこれまで鍾離が見たことのないような、無垢な少年のような顔をしていた。童が気に入った遊びを見付けて夢中になっているかのような、そんな印象を受ける様子だ。  過日の凄絶な目はどこにもなく、外から差し込む朝日を受けて、きらきらと輝いて見えるくらいに。あどけない純粋な眼差しが、そこにはあった。

 確かに、殺意を孕んだあの目を見たと思ったが、取り越し苦労かもしれない。いや、そうであってほしい。  そんなことを頭の片隅で考えながらも、鍾離は提案した。

「後で俺とも一局、どうだ?」

 実は鍾離は囲碁かかなり好きで、魈が相手になってくれるのであればそんなに嬉しいことはない。これをきっかけに自分ともまた打ってくれるだろうかと思い、問いかけたのだ。  思春期を経て、子が再び親に歩み寄って心を開いてくれるというのは、このような感じだろうか。そんな場面を彷彿とさせるようなそわそわとした気持ちを感じつつ、鍾離は魈の回答を待った。

「我で良ければ」

 魈からはあっさりとそんな答えが返ってきて、その日の午後、二人は縁側で碁盤を囲んだ。

 パチン、パチン、と。碁石が碁盤に置かれる音だけが、響く。  穏やかな午後の縁側で、まるで老後を楽しむ翁が二人いるかのような光景である。

「む……」

 鍾離は短く唸ると、動きを止めて考え込み始めた。  魈はしばらく碁を打っていなかったはずなのに、なかなか手強い。毎日花街で興じて、勘が戻ったのかもしれない。元々筋の良い碁を打つ子供だったので、これは油断できない。  負けず嫌いな魈を育てた鍾離もまた、負けず嫌いの気があるので、完全に真剣になっている。

 ふと、明るく陽光に照らされていた碁盤に影が落ちた。

「何やってるの?」

 それと同時に、呑気な声が降ってくる。

「詩人殿」

 碁盤に集中している鍾離に代わって、魈が顔を上げて反応した。  神出鬼没の詩人がいつの間にやら訪ねてきていたようで、庭伝いに縁側にやって来たらしい。

「じいさんの相手は骨が折れるだろう? 固い手ばかり打ってきて、難攻不落の要塞みたいでさ」 「商いの腕と同じく、鍾離様は囲碁の手腕も盤石です」

 我も簡単に負けるつもりはありませんが、と魈が言葉を続けたとき。パチン、と音がした。  ようやく次の手を決めた鍾離が、碁石を置いたのだ。

「お、君の番だよ」

 詩人が魈を促した。  魈は碁盤に視線を戻しながらも、ほんの少し詩人を煩わしく思った。遊びとは言え勝負の最中に横でやいやい騒がれては、正直気が散る。  けれどもやはり鍾離の知己ということで無下には扱えず、黙って自分の白い碁石を取って次の一手を考え始めた。

 自分の石を置いた鍾離は腕組みをして、魈の代わりに詩人を睨んでいる。  この詩人はいつもふらりと人の家にやって来ては勝手に上がり込む、ぬらりひょんのようなやつなのだ。大きな実害はないし、役に立つこともあるので好きにさせているが、やはり煩わしく思うときもある。と言うか煩わしいことの方が多い。  たまにもたらされる利益と、腐れ縁。それらがあるので追い出すまではいかないのだが、いつもこうして鍾離は静かに目で詩人を威圧する。残念ながら、当の本人には響いていない可能性が高いが。

「そう言えば彼女、夜光だっけ? いよいよ新造出しらしいね」 「ほう、そうなのか」

 詩人はこうやって、たまに鍾離が知らない情報を運んでくる。悔しいが、役に立つ。  魈が懇意にしている娘の話とあって気にならないはずもなく、鍾離はつい険しかった表情を緩めて、詩人に相槌を打った。それに気を良くしたのか、詩人はさらに話を続けた。

「いよいよ調整も済んで、近いうちに突き出し道中をやるみたいだ」

 突き出し道中というのは、新造のお披露目道中と言えばわかりやすいだろう。  華やかに着飾った新造が花街を練り歩き、これから金子をたんまり落としてもらうべく、その美しさを披露する行事だ。

「あちこち大店商家の旦那たちに声が掛かってるって聞いたけど、じいさんのところには来てないのかい?」 「生憎、うちは歳が足りないだろうさ」 「やっぱり?」

 当然、年齢のことなどわかっているだろうに、敢えて聞いてきた詩人はぺろりと舌を出して笑った。

「でもさ。若旦那は良いの?」 「……何がですか?」

 碁石を手にしたまま次の一手を考えていた魈は、呼ばれて仕方なく返答した。  禿が新造になるなど、別に珍しくもなんともない話だ。それがどうしたと言うのか。

「何って、水揚げだよ」

 詩人の言葉で、魈は持っていた白石を取り落とした。ぽとりと落ちて、ころころと縁側の床板を転がっていく。  そして詩人の前まで転げて、縁側から落ちる寸前。真っ白な石を詩人が拾い上げて、目の前に翳して言った。

「いつまでも白いままだと思ってたら、あっという間に何かの色に染まってしまうよ」

 こんな風にね、と呟いて、詩人は鍾離の黒石が入った碁笥に白い石を落とした。  その瞬間、周囲の黒石が雪崩を起こして、白石はあっという間に黒い海に沈んで見えなくなった。

 刹那、魈は弾かれたように立ち上がり、玄関に向かって走り出した。ばたばたという激しい足音が屋敷内に響く。いつもすり足で静かに歩く魈にしては珍しい、周囲に何の配慮もしていない足音だ。  やがて門扉がばたんと音を立てたのが聞こえて、やっと静かになった。

「まさか」

 鍾離は詩人に向かって、呻くように声を絞り出した。

「水揚げに、名乗りを上げに行ったんだろうね」

 鍾離が考えたのと同じことを、詩人はあっけらかんと言った。

 まさか、そんなことを魈が考えるとは。  だがあの凝光が、そんなことを受け入れるだろうか。確かに彼女は金の動きに聡いが、そのためにしきたりを覆すような人間でもない。  水揚げの選択肢に年若い男が入らないことは、もうずっと変わらない花街の慣例だ。しかもそれは意味のない形だけの風習などではなく、遊女本人のためを思った、とても重要なしきたりだ。例外がないとは言えないが、非常に少ない。

 水揚げに文句を付けるなど、粋のわからぬ青二才と一笑に付されることだろう。  璃月屋の若旦那がそのような体裁の悪い真似、すべきではない。すぐにでも追いかけて止めるべきだと思うのだが、鍾離は動けなかった。  この詩人がなぜ、わざわざそんなことを焚き付けに来たのか気になったのだ。先ほど魈に掛けた言葉は、明らかに煽っていた。

 詩人は能天気に見えてその実、情報の重要性も、それをどう使うかもわかっている。璃月屋の損になるようなことを積極的にするような能無しでもない。  そもそも、鍾離がいなければこの詩人は、とうの昔に路傍で乞食にでもなっている。  こういう付き合い方をしてきたからこそ、何か裏があるような気がしてならなかった。

「どういうつもりだ?」 「彼のあの目、放っておくつもり?」 「……そういうことか」

 鍾離は詩人の回答で理解した。そして自分が魈のあの目付きを見なかったことにしようとしたことを、恥じた。  面倒ごとというのは積極的に片付けておかないと、いつか大きくなって自分に跳ね返ってくる。それは長年の商人としての経験から、当然わかることではないか。  詩人は何か危機感を覚えたからこそ、逆に夜光のことで魈の感情を揺さぶり、動くように仕向けたのだろう。まるで膿んだ傷口を刺激して、膿を出させるように。

「一宿一飯の恩くらいは返さないとね」 「千宿千飯の恩の間違いだろう」

 正確には、先日泊めてやったので1231回目だったと記憶している。仕事柄、鍾離は自身の記憶力には自信があるのだ。

「お前のせいで、せっかく見付けた対戦相手がいなくなった」 「それなら、お安い御用さ」

 詩人はその場で履物を脱ぎ散らかすと縁側に上がり込み、笠を放って鍾離の向かいに腰を下ろした。  図々しくも、程よい温度の茶を出せと宣いながら。詩人はじゃらりと大きく風情のない音を立てて、碁石を握り込んだ。

 ■ ■ ■

 日が落ちたばかりの花街。  まだ客の人影も疎らなそこに、砂埃を巻き上げそうな勢いの早足で乗り込んでくる者がいる。

「ようこそ。本日はお早いお越しで」

 まっすぐに群玉楼の正面玄関に入ってきた人物を、甘雨は出迎えた。  僅かに息を切らしながらそこに立っていたのは、璃月屋の若旦那・魈だった。

 どういうわけか、夜光を気に入った彼は大金で以ってその座敷の独占権を凝光から勝ち取り、律儀に毎夜群玉楼へと通ってきている。  大店の若旦那ゆえに平素は仕事が忙しいのだろう、宵五ツか夜四ツの頃に姿を見せることが多いが、今日はまだ西の空に橙色が残っている時分にやって来た。  そんな珍しい光景に少し驚きつつも顔には出さず、甘雨は魈に声を掛けた。

「早速夜光の座敷をご用意」 「楼主殿に用がある」

 甘雨が案内しようとするのを遮って、魈は言った。  客が楼主への目通りを要求するなど、身請けの交渉くらいなので、甘雨はまた揉め事になるのではないかと内心で懸念した。  その話ならもう先日、座敷の占有という形で話がついたはずではないか。今さら蒸し返すなど、往生際が悪いにもほどがある。上客である鍾離の縁者であり、最近では最も群玉楼に金子を落とす客には違いないが、限度があろう。  そんな考えが浮かんで、心なしか厳しい口調で甘雨ははっきりと意思表示した。

「身請けの件でしたら、もう楼主にお取り次ぎすることはできません」 「そうではない。別件だ」

 眦を吊り上げながら、違う話だと魈は主張する。  そう言われては、遣手である甘雨がこれ以上玄関先で話を聞くわけにもいかない。そう判断して、甘雨は仕方なく凝光に取り次ぐことにした。  凝光に璃月屋の若旦那来訪の旨を伝えると、楼主の部屋に通して構わないとの答えが返ってきたのですぐに案内して、甘雨自身は凝光のそばに控えて腰を下ろした。

「若旦那様、今日は何の御用かしら?」 「単刀直入に、夜光の水揚げの件はどうなっている?」

 魈の問いかけに、凝光はすっと眉を潜めた。

「それはあなたには関係なくてよ」

 そんな話であれば聞く気はない、さっさと出て行ってくれとでも言いたげに、凝光は広げた扇子を振っている。  さすがに客の前だからと先ほどまで煙管は持っていなかったのだが、魈の話ですっかり興が削がれたのか、凝光は紫煙をくゆらせ始めた。

「いくら積めば良い?」

 魈の問いかけに、凝光は呆れたように溜息をついて、煙を吐き出した。  もう話もしたくないという顔をしている。

 その様子を見守っていた甘雨も、胸中で呆れた。  花街のしきたりに四の五の言う無作法さも、金の問題ではないことを金子の力でどうにかしようとするところにも。

「あの子の覚悟を、甘く見ないでちょうだい」

 冷え切った声音で、凝光は魈を一蹴した。  普段穏やかに微笑を湛えている凝光は、そこにはいなかった。成り上がり者として数多の辛苦を経験してきた、闘争本能を剥き出しにした人間の顔をしていた。

 凝光とて、好き好んで少女たちに身を売らせているわけではないのだ。それでも数々の決まりの中で、最良の方法で、最も少ない苦痛で、彼女たちが身を立てる術を与えねばならない。それが楼主としての凝光の存在意義だ。  そうした自分たちの努力と覚悟を、金子ごときでどうにかしようなどとは、片腹痛かった。

 蛍が芸事に取り組む姿勢が生半可なものでないことも、声を震わせながら水揚げを受け入れたことも、凝光は当然わかっている。その堅い意思を、馬鹿にするなと腹立たしかった。  ここは花街、生ぬるい恋情など、何の役にも立たない。

「ここまでね」

 その凝光の言葉を最後に、甘雨が立ち上がって襖を開けて、魈に退出を促した。

「もう明日に決まったわ」

 甘雨に(いざな)われるままに部屋を出た魈の背中に、容赦ない宣告が聞こえた。

 ■ ■ ■

 楼主の部屋を出た魈は、そのまま甘雨に案内されて、いつもの小さな座敷に通された。  今日は普段よりかなり早く来てしまったため、まだ蛍の支度が済んでいないとのことで、待っているところだ。蛍が来るまで誰か代わりの者を酌に寄越そうかと甘雨が提案してきたが、とてもそんな気分ではない。  一人で構わないとだけ伝えて静かに腰を下ろして、先に用意された膳の料理と酒、部屋の隅に置かれた碁盤を意味もなく見遣った。

 凝光の言い分は、反論のしようがなかった。  そもそも商人として生きる自分は、あらゆる法に則って利益を出すことを原則としている。そんな自分が、俗世以上に決まりとしきたりに溢れたこの花街で、規則を捻じ曲げようとは、二枚舌にもほどがある。

 そして彼女は。蛍は、自分が思っていたよりもよほど腹決めして、ここで必死に生きていたのだ。  なぜ蛍がここに売られてきたのか、そこに触れたことはない。しかしそこに退っ引きならない事情があったことは確かで、芯の強さを感じる振る舞いは、すべて覚悟の裏返しだったのだ。  花街で初めて会ったあの日、彼女の涙を見て、その心を知ったような気でいた自分が嘆かわしい。思えばあれ以来、一度たりとも蛍は涙を見せていないし、悲しげな顔をしたことさえない。  苦しくても、逃げ出したくても、どこにも行く宛てがないのだろう。  座敷の独占権が何だと言うのだ。自分にできることなど、僅かな金子を落とすことだけではないか。

 魈は不甲斐なさのあまり、気が付けば爪が手のひらに食い込む程に拳を握りしめていた。それと同時にぎりぎりと唇を噛み締めていたせいで、口の端に血が滲む。  ぽたりと、一滴血が垂れて、藍色の着流しの胸元に赤黒い筋ができた。  視界の端でそれを捉えて、どす黒い感情が湧き上がるのを、否が応にも感じる。

「いっそ全員、殺してやろうか」

 表情を消して、魈は呟いた。  瞳の奥に、黒い焔が燃え上がる。

 鍾離と出会って、誓ったはずだった。もうそんなことは考えないと。  それでも、今この状況を打開する術が他に見つからない。  蛍の白が失われるのを止められないのであれば、他の色などすべて消せば良い。そういう形でしか、魈は蛍を守ることができない。  この十年で鍾離から学んだ金子を得る手段は今、何の役にも立たない。

 殺したくて、堪らなかった。  顔も知らない誰かが、憎くて堪らなかった。

「失礼いたしんす」

 深い思考の沼に沈みかけていた魈を現実に引き戻すように、襖の外から声が掛かった。  一呼吸置いて襖が開くと、黄金色の瞳で柔らかく微笑む、蛍がいる。襖を閉めて部屋の中に進んでくる蛍は、いつもと何も変わらなかった。むしろいつも以上に、穏やかな表情にさえ見えた。

 その顔を見て、魈の瞳から暗い焔は消えた。  その代わり、途方もない虚しさが心の中いっぱいに広がった。氷塊が滑り落ちたかのように、虚無感が心の奥底まで凍てつかせる。殺意という激情の火がもう二度と燃え上がることができないくらいに、冷え切ってしまった。  驚くほど呆気なく、蛍の微笑みは魈から毒気を抜いてしまった。

 蛍はすっかり慣れた手付きで銚子を持って、微動だにしない魈を見ながら首を傾げている。

「飲まないの?」

 平然と振る舞う蛍の姿で、わかりたくもないのに理解してしまう。  もう蛍の中では、すべて受け入れているのだと。尋常でないほどの決意で、自分に笑顔を見せているのだと。

「……我に、できることはないのか?」

 いつになくか細い、震える声で。魈は盃を取り上げることもせず、蛍に視線を合わせることもせず、問いかけた。

 その言葉で蛍は察した。魈は明日、蛍の身の上に起こることを知っていると。目を見開いて魈を見つめたが、視線は合わない。  また、この若旦那は優しいことを言う。時に蛍が、困るほどに。  そんなに、甘やかさないでほしいのだ。  花街で生きることは、楽ではない。これから先、より苦渋に満ちた日々が蛍を待っているに違いない。そのとき、一人で立ち向かえなくなってしまう。魈に縋って、助けてもらいたいなどと思ってしまう。  蛍はそんな弱い人間になりたくなくて、自分の身は自分で立てたいと思っているから、敢えて魈には何も言わなかったのだ。  それなのになぜ、知ってしまうのか。なぜ、知らないふりをしてくれないのか。

「……今日も、碁を」

 だから蛍はひとつ、いつでも叶えてもらえるようなことを頼んだ。  いつも通りに、今日も自分と過ごしてほしかった。

「次に会うときも、碁を」

 明晩、この身が他の色に染まっても。変わらず白と黒の石で、共に夜を明かしてくれるだろうか。  そんな問いかけを込めて、紅を引いた唇に静かに言葉を乗せて願いを口にした。

「……ああ。何度でも、打とう」

 白刃に頼ったところで、蛍はきっと何も喜ばない。誰かを手に掛けた幸せなど、まやかしだ。  渦巻いていたどこかの誰かへの殺意を押し込めて、魈は答えた。  蛍が気丈に振舞っているのに、自分が情けない顔をしてはいけない。そう思って、悔しさと恋しさで叫び出しそうな感情に蓋をして。もう震えの消えた、無風の水面のような声で言葉を紡いだのだ。  いつの間にか、何があっても手放したくないとまで思っていた相手の手を、わかっていながら放す。否、最初から掴めてなどいなかったのかもしれない。  こうして、互いにとって哀しく残酷な約束をした。

「お酒は?」 「もらおう」

 短く言葉を交わして、やっと魈は盃を手にした。  銚子からはこぽこぽと小気味良い音がして、すぐに盃が満たされて。水鏡を張ったそこには、この部屋で初めて共に過ごした日と変わらず、二人分の面が映っていた。

 これまで共に過ごした夜と何ら変わらず、酒と料理をある程度嗜むと、蛍が碁盤を引きずってきた。その様子を眺めながら、そう言えば今日は何も手土産を持ってこなかったと、魈はぼんやり考えた。  そして静かに戦いの火蓋が切って落とされ、パチンパチンと、碁石が盤上に並べられていく。

 魈は、今日くらい負けてやろうと思った。  それなのに、この日の蛍の打ち方は随分と酷い有様だった。てんでまともな手がなく、どんなに手を尽くしても負けてやるのが難しいくらいで、本当にどうしようもなかった。  それなのに蛍は、いつも以上に楽しそうに碁石を手で弄んでいる。だから魈は何も言わず、とうに終局と言える局面になっても、蛍に合わせて意味もなく碁石を並べ続けた。  どこにも並べるところがなくなったら、また一から何の実りもない勝負を始める、それの繰り返しだった。

 対局の間中、二人はまったく口をきかなかった。  ただひとつ、たまに魈が蛍の名前を口にする以外は。

「蛍」

 魈はとても名残惜しそうに、何度も蛍の名前を呼んだ。  呼ばれる度に嬉しくて、心があたたかくなるはずの声が、今の蛍にはなぜか遥か遠くに聞こえた。名前を呼んでもらえればそれで良いと思っていた心は、気が付けば随分と欲張りになっていたようだ。  名前を呼ばれるだけでは、嫌だった。毎夜座敷を買ってもらうだけでは、嫌だった。  いつしかこの先の自分のすべてを捧げたいとまで思っていたのに、神様は何とも意地が悪い。兄だけでなく、蛍がやっと見付けた大事な人でさえも、ただではそばにいさせてくれないのだから。

 やがて窓の外に見える空が白んできて、朝鴉の鳴き声が聞こえてくる。  やはり時間は誰にでも平等に流れていて、無情にも朝を連れてくるのだ。  どちらともなく散らばった碁石を片付けると、魈は立ち上がった。

「見送りはいらない」

 そう言われて、蛍はどこかほっとしてしまった。  見送りなんてしたら、その背中を追いかけて縋ってしまいそうだったからだ。自分をここから連れ出してほしいと、聞き分けのない子供のように泣いたかもしれない。  平静を装っていても、それほどまでに蛍の心は瀬戸際だった。

 蛍に一瞥もくれることなく、魈は襖を開けて廊下に踏み出した。  これくらいあっさりと帰ってくれた方が、かえって気が楽だと思った。  それなのに。

「何も変わらない」

 背を向けたまま、そんな言葉を残して。  蛍が目を見開いて息を飲んだのを知ってか知らずか、魈は後ろ手に襖を閉めてしまった。  その足音が次第に遠ざかっていくのを聞きながら、蛍は閉じられた襖まで這いずっていき、腹立たしいほどに小綺麗な襖絵に彩られたそこに縋り付いた。  涙は一滴も流さなかったが、目に見えぬ何かを滂沱として流していた。声もないのに慟哭というのはおかしいが、それは確かに慟哭だった。

 彼の優しさが、どうしようもなく愛おしかった。蛍の身がどんなになったとしても、変わらずまた、共に夜を明かそうと言ってくれることが、嬉しくて哀しかった。  見知らぬ誰かに触れられた自分をどう思うのだろうと、それが何より不安だったのだ。  誰かの色に染まった自分でも許されるのなら、また彼の隣でその盃を満たさせてほしい。子供のように屈託無く、囲碁遊びに興じたい。

 ふと、もう既に玄関に着いている頃合いのはずの足音が、襖の向こうで僅かに聞こえた。  蛍がその音を認めて耳を澄ますと、もたれかかっていた襖に反対側から重さが掛かるのが感じられた。襖に触れていた両手が、向こう側にいる者と重なった振動が、微かに感じられたのだ。

 先ほどまで同じ部屋にいたのに、今は一枚の襖が間を隔てている。たった一枚、されど一枚。この邪魔な襖を取り払うことは、叶わない。互いの最後の理性が、それを許さなかった。  顔を見てしまえば、すべてを投げ打って、この世のどんな決まりさえも無視して、手を取り合って逃げ出してしまいたくなるから。  けれどもそんなことは少しも現実的ではない。蛍にはいつか兄との暮らしを取り戻すという本願が、魈には自身を養子にしてくれた鍾離に恩を返すという信念が、それぞれある。

 蛍も魈も、自分が貫かねばならないものがわかっているからこそ、一線を保つように襖越しに別れを惜しんだ。  もしも誰かがこの光景を見ていたら、きっと滑稽なことだろう。さっさと襖を開けてしまえばいいのにと、思うだろう。そんな簡単なことさえせずに、ほとんど何も感じないほどの朧げな温度を、襖を介して求めているなど。

「蛍」 「魈」

 襖越しに呼んだ互いの名前を呼ぶ声が、相手に届いたのかはわからない。  それらは襖がなかったとしても、外の朝鴉の声に負けてしまうくらいに小さな音だった。

 やがてどちらからともなく、襖に掛かっていた重さが消えて。  蛍の中の迷いは、今度こそ消えた。蛍は揺るぎない覚悟を、決めたのだ。  また同じ時間を、同じ夜を過ごすために。

 ■ ■ ■

 水揚げの日、蛍は真新しい着物に袖を通すはずだった。水揚げの相手に抜擢された大店商家の旦那が、紫金太夫の求めに応じて用意してくれた、上質な着物だ。  凝光が蛍の新造出しを決めた時点ですでに相手を見繕う話は始まっていたらしく、決まり次第急いで用意されたらしい。  時間を無駄にしてはいけない、というのは凝光の口癖だ。一日でも早く蛍を一人前の遊女として扱うべく、かなりの強硬日程で準備を進めたというのは、後日甘雨から聞いた話だ。

 しかしそんな着物に、異変が起きていた。

「凝光様、これは……」

 着物を前に、甘雨は困惑した声を上げた。  凝光もまた、険しい表情を浮かべて着物を見ている。

 衣桁に掛けられていた着物を凝光が手にすると、繊維や糸くずが散った。  美しかったはずの着物は見るも無残に引き裂かれ、使いものにならなくなっていたのだ。

「随分な真似をしてくれたわね」

 口調こそ穏やかなものの、その声音は低く、明らかに凝光は怒っている。  当然だ。こちらから水揚げを依頼し、紫金太夫の口利きで大金で以って客が用意した着物が、このようなことになっては。群玉楼の面目は丸潰れである。  相手の旦那に申し訳が立たないだけでなく、群玉楼は客に用意させた物品の管理もまともにできないなどと噂を立てられては、堪ったものではない。  それにここまで組んだ予定を、どうするのか。蛍の水揚げまであと数刻、時間がない。

「どうしましょうか……」

 甘雨は引き裂かれた着物の端切れを拾い上げながら、凝光に尋ねた。

「少し考えるわ」

 短く答えると、凝光は自室に引き上げた。  そうして誰も部屋に寄せ付けず、筆を取って大量の両紙にひたすら文字を書き付けた。  四半刻ほど経って甘雨が呼ばれて行ってみると、凝光が筆を走らせた両紙が部屋の壁一面に貼り出されているのが目に飛び込んできた。これは凝光が考えごとをする際に行う、癖のようなものだ。  凝光は甘雨が来たのを確認すると、両紙をびりびりと破いて粉々にし、まるで粉雪を降らすかの如く窓の外に散らした。紙くずに染みた筆跡は、まるで雪の上に墨を零したような色合いをしていた。

「決めたわ。あそこに連絡を取ってちょうだい」 「承知しました」

 凝光の意向を理解すると、甘雨はすぐに行動を開始した。  時間はもう幾許もない。凝光は何としてでも、今日の水揚げを遂行することを選んだ。多少の誹りを受けることは承知の上で、夜光をいち早く一人前の遊女にしてやり、借金返済を始めさせてやることを。  凝光にとって最も重要なことは、群玉楼が金子を集めることと、遊女たちの道を閉ざさないこと。その目的のために凝光が取る行動は金の亡者のように思われがちだが、その実凝光はそれほど単純な女ではない。それほど冷酷でもない。人の情もわからねば、金子は動かない。

 甘雨が部屋を出て行くと、凝光は窓辺に残った両紙の欠片を手のひらで掬い上げ、窓の外に放りながら呟いた。

「これは借りではないわ。あなたのその心意気を、利用させてもらったまでよ」

 経営者として富豪として、凝光は貸し借りを気にする質だ。  別に誰に言い訳をするわけでもないのだが、苦々しい表情を浮かべながら、負け惜しみのようにそんなことをひとりごちた。  だが凝光の仕事はここからだ。こんなとんでもないことをしでかしてくれた誰かさんに、しっかりとお返しを用意してやらねばならないのだから。

 ■ ■ ■

 群玉楼で凝光と甘雨が慌ただしく動き始めた頃、魈は呉服問屋の仕事に勤しんでいた。  だが、文机に向かって帳簿に筆を走らせては、すぐにぴたりと動きを止めては考え込む。そんな行動を繰り返している状態なので、仕事はあまり進んでいない。

 平素であれば鍾離は、呉服業の仕事はほぼ魈に任せきりにしている。  しかし今日はどうにも様子のおかしい魈が心配で、鍾離もこちらの仕事を一緒に捌いていた。なので横目で魈を気にしながら、鍾離もせっせと手と頭を動かしている。

 魈がこのような状態である理由は、わかっている。  昨日詩人と碁を打った後、詩人は用事がどうのと言って出掛けていった。そして珍しく素面の状態で夜遅くに戻ってきて、鍾離に告げたのだ。

「水揚げの件、明日らしいよ」

 どこでそんな情報を拾ってくるのか不思議だが、詩人が言うのだから確かな話なのだろう。  その言葉だけで、鍾離が状況を察するのに十分だった。魈の水揚げの交渉はうまくいかなかったのだと。  案の定、今朝帰ってきた魈は沈んでいた。沈んでいたと言っても、魈がそれをあからさまに顔に出すことなどないし、十年一緒に暮らしている鍾離だからこそ、微妙な表情の変化に気付いたに過ぎない。  今だって仕事に身が入っていないとは言え、他の者から見れば大した違和感はないだろう。一応手は動いているし、少しずつ仕事は片付けられている。

 今回の水揚げの件に関しては、鍾離であっても何もしてやれることなどない。日にち薬しかないのだ。  鍾離は嘆息し、凝り固まった肩の筋肉をほぐした。久しぶりに呉服の仕事をして、思ったよりも疲れたのだ。ゆえにそろそろ気晴らしに午後の散歩にでも出掛けようかなどと考え始め、魈も誘ってやろうかと口を開きかけた。  だがそのとき、慌ただしい声が璃月屋に飛び込んできた。

「璃月屋の鍾離様! 火急の件につき!」

 突然店舗に駆け込んできたどこかの下男が、大声で鍾離を呼んだ。  鍾離がそちらへ視線を遣ると、璃月屋の番頭が下男の元へ駆け寄り、早速対応している。

「どこの者だ?」 「ーーーーより、急ぎの件にて書簡が」

 下男がどこの者かは聞こえなかったが、とにかく焦った様子だ。その言葉通り書簡を手に、息を切らしている。  何か商人の勘のようなものが働いた鍾離は、すぐにそちらへ歩み寄った。

「俺が鍾離だ。書簡をもらおう」

 番頭には自分の仕事に戻るように告げて、鍾離は早速書簡を開いて目を走らせる。  そこには見覚えのある、達筆な文字が並んでいた。最後まで読み進めて署名を見て、なるほどと思った。

「ふむ……」

 書簡を広げて眺めたまま、鍾離は自身の顎を撫でている。どうしたものかと、考えている様子だ。  下男は心配そうに背の高い鍾離を見上げ、その返答を待っている。

「相わかった。俺が何とかしよう。すぐに返事を用意するから、少し待ってくれ」

 そう言うと、鍾離は自身の文机に戻ってすぐに筆を取り、返信を描き始めた。そして丁寧に折りたたむと、下男にそれを託す。  下男は礼を言って深々と頭を下げると、来たときと同じように猛然と駆けて璃月屋を出て行った。

 ここで鍾離は、自分の動作をじっと見つめていた魈の視線に気付いた。  さすがに何か大事があったのではと思ったらしく、何事かと鍾離の様子を伺っていたらしい。

「魈、大入りだ」

 鍾離は口元に微笑を漂わせ、魈に呼び掛けた。

「忙しくなるが、お前に頼みたい仕事がある」

 そう言って鍾離は、恐ろしいほど膨大な量の仕事と、あり得ない納期での仕事を、事もなげに魈に言い付けた。  そして最後に言われた商品の届け先に、魈は瞳を揺らして困惑の表情を浮かべたのだが、鍾離は行けばわかるとしか言わなかった。

 ■ ■ ■

 ひとまず魈は、あまりにも直近すぎる納期の仕事に着手した。  急遽、今夜までに遊女が着るための上等な着物を一枚用意するようにという依頼だった。夜まであと数刻しかないというのに、これはかなりの無理難題だ。  そうは言っても、鍾離のため、璃月屋のためであれば、いつも身を粉にして尽力してきたのが魈である。幸い璃月屋は大店なので、今回もなんとか繋がりの太い職人筋を大急ぎであたって、完成直後のまだ買い手がついていない着物を見繕うことができた。

 買い取った着物は他に商談を予定していたという話で、かなり上等な一品だったので、半ば横取りしたことになる。  当然かなりの出費となったのだが、鍾離が許容できると言った金額からすれば、まったく問題のない範囲だった。この金額で買い付けて利益が出せるとは、一体どういう取引なのか。今後の勉強のためにも片付いたら鍾離に詳しく教えてもらわねば、と思った。

「藍染か……」

 職人が着物を用意するのを待つ間、魈はぽつりと呟いた。  その着物は魈が好んで着ている、藍染の着物と雰囲気がよく似ていた。自分の好みが出てしまったと思いつつも頭に過ったのは、彼女が着たら似合うだろうという、虚しい考えだった。黄金色の髪と瞳に、よく映えると思ったのだ。  忙しなさで紛れかけていた感傷が、再び心を覆いそうになる。

 だが、今はこの取り急ぎの仕事を片付けるのが先決。鍾離の顔に泥を塗るわけにはいかない。  魈は浮かんだ考えを振り払うように頭をひとつ振って、職人から渡された着物を丁寧にたとう紙に包んだ。それをさらに風呂敷で覆って、厳重にする。

 もうすでに日は落ちていて、言い付けられた刻限が近い。  一刻も早く依頼主の元へ商品を届けるべく、魈は早足で駆け出した。

「間に合って良かったです。お待ちしておりました」

 魈を出迎えたのは、露草色の髪をした、見知った人物だった。

「確かに届けた」

 そう言って魈が差し出した包みを受け取るのは、群玉楼の遣手・甘雨である。  この無謀な依頼をしてきたのは、群玉楼だったのだ。

 今朝ここを去る間際、魈は甘雨から今日の夜は登楼を控えてほしいと言われていた。ゆえに仕事上とは言え、そんな自分が着物を届けに来たことで何か言われるのではないかと思ったのだが、甘雨は何も言わず品物を受け取った。  魈自身、品を届けるくらい丁稚にでもさせれば良いと思ったのだが、なぜか鍾離は必ず魈自身の手で届けるようにと念を押してきた。重要な急ぎの案件であるとは言え、妙なことだった。

「急なことでしたが、ご対応いただきありがとうございます」 「それは構わないが……」

 正直、魈はこの場にいたくなかった。  それは甘雨から咎められることを心配しているわけではなく、今まさに蛍が誰かの腕の中にいるのではないかと思うと、気が狂いそうだったからだ。離れた場所ならまだしも、目の前の妓楼のどこかの部屋で、など堪えられそうになかった。  そのため、商品が届いたことで安堵の表情を浮かべ、上機嫌で礼を述べてくる甘雨に構っている余裕もあまりない。適当に相槌を打って、帰って鍾離に事の次第を報告しようと思い、魈は踵を返しかけた。

「お待ちください」

 しかしなぜか、甘雨が魈を呼び止めた。  今日自分がここにいると都合が悪いのは、甘雨の方ではないのか。そんなことを考えて、魈は振り返って胡乱げに甘雨を見た。

「まだお願いしていた仕事があるはずですが」 「あの大量の注文の件か? それとも道中の件か? どちらも期限はまだしばらくあったはずだが」 「違います。鍾離様から、聞いていないのですか?」

 鍾離から頼まれた群玉楼に関する案件は、三件。今しがた届けた着物の件と、もう少し先の納期で発注された遊女たちの普段着用の大量の着物の発注、それに来月の道中用の着物の用意。これで全部で、今日対応すべき案件は他に何もないはずだった。  甘雨とまったく話が噛み合わず、魈は困惑した。

「ちょっとこちらへ」

 もう一つの依頼が魈に何も伝わっていないことを察した甘雨は、玄関先で話すのが憚られるらしく、魈を座敷に通した。酷なことにその部屋は、いつも蛍と過ごしている小さな座敷だった。  そこで甘雨が仕事の話を始めるものと思っていたのだが、どういうわけか何も言わず、魈を残してさっさと出て行ってしまった。

 何か急用でも入って、そのうち戻ってきて話すのかと思って待ってみるものの、一向に甘雨は戻ってこない。  自分も決して暇ではないし、この案件の状況を鍾離に伝える義務もある。いつまで待たせるのかと、魈は少々苛立ってきた。  それに加えて、もしかしたら蛍が何枚か襖を隔てたその辺りの部屋にいるかもしれない、と思うと心臓が嫌な脈打ち方をするのだ。胸が苦しくなるような変な跳ね方をして、呼吸の仕方さえも怪しくなってくる。息を吸うとは、心臓を動かすとは、どうやるんだったかと思うほどに。  結局黙って帰るわけにもいかず、魈は息苦しさから思わず着物の合わせをぐっと握り込んで、地獄のような時間に耐えた。

 どれほど待たされただろうか。  さすがに精神的に限界を感じて、もう帰ってやろうかと思い魈が腰を上げかけたときだ。

「失礼いたしんす」

 襖の向こうから聞こえた声に、魈は肩を震わせた。  聞き間違えるはずのない、この声は。

「魈」

 襖が開いて、魈を呼ぶ声がした。  この廓で魈を若旦那と呼ばない者など、一人しかいない。

「蛍」

 魈は呆然と呟いた。  どういうわけか、先ほど魈が届けた藍染の着物に身を包んだ蛍が、そこにいた。

 ■ ■ ■

 突然現れた蛍に、何が何だかわからず茫然自失となった魈に、蛍はこれまでの経緯を説明した。

 水揚げ用に用意された着物が何者かの悪意によって無残にも使いものにならなくされてしまい、凝光は窮地に立たされた。  その状況を打開すべく取った行動というのが、蛍の姉女郎である紫金太夫が懇意にしている、璃月屋の鍾離に代替品を依頼することだった。  国内きっての大店である璃月屋であれば、しかも紫金太夫の名を添えれば、何とかなると踏んだのだ。その火急の依頼を運んできたのが、昼間慌ただしく璃月屋に飛び込んできた下男だった。

 では代わりの着物を用意して、無事に水揚げとなるのかと思いきや、話はそんなに単純ではなかった。  最初に着物を用意してもらった旦那を、相手役にできなくなったのだ。理由は簡単で、自身が用意したはずの着物ではなく、代わりのものを着用した蛍を出しては、機嫌を損ねること請け合いだからだ。金を出させておきながらその客の顔を潰した、という話になってしまう。  たとえ着物が使いものにならなくなった件を話したとしても、それは群玉楼の杜撰な管理体制のせいだと糾弾されるだけだろう。まさに火に油を注ぐだけだということは予想できる。

 となればもう、その旦那を相手にするのは諦めた方が得策だ。  そう考えた凝光は、甘雨に璃月屋の件を任せると、すぐにその旦那の元へ単身出向いて、金子を返し詫びを入れたという。水揚げ直前にそのような話になって旦那が怒らないはずもなく、凝光はその面にいくらか傷を作って帰ってきた。  甘雨は大層心配していたが、凝光は涼しい顔をしていたらしい。さすが花街一の高級妓楼の楼主であり、国内でも指折りの富豪である。肝の据わり方ひとつ取っても飛び抜けている。

 そうして何とか着物の件は大事にならずに片付いたのだが、果てさて肝心の水揚げの相手役がいない状態でどうするのか、という話だ。  蛍の意思を汲んで、一刻も早く借金返済を始めさせてやりたいという凝光の思いは変わらない。そうでなくとも、誰かの思惑通りに水揚げを延期するというのは、絶対に避けたかった。  そこは先の先まで読んでいる凝光のこと、水揚げの相手に関してもすでに考えは及んでおり、璃月屋への着物の依頼の件と合わせて手配していた。

 そもそも、僅か数刻で質の良い着物を用意しろなどというのは、普通ならばふざけるなと一蹴されてもおかしくないような無茶振りなのだ。それを頼むというのは、いくら鍾離と紫金太夫の関係が良いものであったとしても、簡単なことではない。  ゆえに凝光は璃月屋に、三つの対価を提示した。

 ひとつ、群玉楼の遊女たちの普段着用の着物を、百枚発注すること。  ふたつ、夜光の水揚げの権利を若旦那に譲ること。  みっつ、夜光の突き出し道中用の着物を発注すること。

 下男が鍾離に届けた手紙には、これらの対価が記されていたのだ。  ゆえに大入りだと言って、鍾離は慌ただしく魈に仕事を言い付けた。着物は一枚あたり安くとも十両はするので、百枚売ればそれだけで軽く千両はいく。これだけの利益があれば、無理な要求を聞いてやるのもやぶさかではないと鍾離は判断したのだ。  だが実際のところ、鍾離が無理難題を受けた最たる理由は、二つ目の対価だ。親心として、これが一番だったというのは否定できない。ただ、そんな弱みを鍾離はおくびにも出さないだけだ。凝光に知られては、どううまく使われるかわかったものではない。これ幸いと、また無茶な要求をされては困る。

 ちなみに凝光の手紙の隅には、小さな字でこう書き付けてあった。  若旦那様の誠意を信頼します、と。

 魈が遊び半分に蛍の身請けを所望したわけではないことも、必死の形相で水揚げの件を問い質しにに来たことも、凝光は全部その目で見ている。だからこそ、魈の真剣さはわかっていたのだ。  水揚げ相手を年齢云々で縛るのは、あくまで慣例。遊女に手荒く触れず、恐怖心を抱かせない相手であれば、妥協の余地はある。僅かながら、実際そういう事例もある。  魈の誠意と偶然起きた事件が、凝光にそう決断させたのだ。

「そういうわけなので、その……」

 一通り説明が終わると、蛍は気まずそうに隣の部屋との仕切りになっている襖を見てから、俯いた。  魈もここでやっと、理解する。  目の前の蛍は水揚げ用に自分が用意してきた着物を着ている。そして隣の部屋への視線。今しがた聞かされたこれまでの経緯。そこから導き出されるのは、蛍の水揚げの相手が自分になったということだ。  甘雨が言っていたもうひとつの仕事とは、このことだったのだ。  この廓において、今宵自分に求められている役割を、しっかりと認識した。  けれども。

「だめだ」

 魈ははっきりとした声音で、その依頼を受けられないと意思表示した。

 魈の言葉に、蛍は思わず顔を上げて瞳を揺らした。  色々状況が二転三転したものの、蛍の覚悟は変わっていなかった。今日誰かの色に染まることは、花街に売られてきた時点で定められた運命のようなもの。  その相手が魈に変わったことは、本当にこの上なく幸せなことだと思って、喜んで受け入れようと思っていた。  それなのに、今朝あんなに同じ気持ちでいてくれると思っていた魈が、蛍に対して拒絶の意を示すとは。衝撃のあまり、蛍は胸の奥がすっと冷えるのを感じて、自分の独りよがりの想いだったのかと、絶望しかけた。  しかし次に聞こえてきた言葉は、蛍にまた違った衝撃を与えた。

「我は夜光を抱きたいわけではないのだ。蛍でないと、意味がない」

 力強く告げられた言葉に、今度は別の意味で蛍の瞳が揺れた。  それは最初にこの部屋で過ごした夜に言われた言葉を、思い出させる。蛍という人間に興味があると言った、妙な言葉を。  どこまでいっても、魈は蛍を一人の人間として扱う。一度たりとも、遊女として扱わない。  それが嬉しくて、心が震える。

「だが……お前を、この腕の中におさめても良いだろうか?」

 そう言って、魈は蛍の腕を引いて自身の方に引き寄せると、その細い体を強く搔き抱いた。

「……良かった」

 心から安堵したような、深い溜息とともに。魈は震える声で短く吐き出した。  魈の藍色の着流しと、蛍の藍染の着物が重なって、似たような色合いをしたそれらの境目はもうよくわからない。それほどまでに一部の隙間もなく、互いを隔てる襖もなく、強く強く相手の背中に手を回してその温度を確かめた。  薄い布だけが隔てた体温は、とてもあたたかかった。

「魈、痛いよ……」

 あまりにも強い力で抱きすくめてくるものだから、蛍は困ったように小さく声を上げた。  その言葉を受けて魈はほんの少し腕の力を緩めたものの、蛍を放す気など更々ないとでも言うかのように、まだかなり腕に力を込めたままだった。  ちょっと苦しいくらいの力さえも幸せで、蛍も魈の背中を押して自分の方に押し付けた。

「ん? 何の香りだ?」

 ふと、蛍から漂う香りに眉を顰めて、魈は蛍に尋ねた。何やら甘い香りが、鼻先を掠めた気がしたのだ。  指摘され、蛍は魈の腕の中で身を捩って自身のにおいを確認している。

「あ、そう言えば」

 何かを思い出したらしく、蛍はやんわりと魈の腕を解くと、入口の方にすり足で移動した。  腕の中から抜け出していく蛍をどこか不満げに目で追いながら、魈は何事かと蛍の様子を伺った。すると入口に何やら膳が置かれていて、案の定、蛍はそれを持って戻ってくる。

「これは……杏仁豆腐?」

 膳の上には白く瑞々しい、柔らかそうな杏仁豆腐が乗っていた。  わけがわからず、魈は目を瞬かせながら蛍と杏仁豆腐を交互に見つめた。

「魈に食べてもらおうと思って、作ったの」

 好物の杏仁豆腐が出てきたことよりも、水揚げを控えたこの状況でこんなものを用意している蛍が信じられず、魈は蛍と杏仁豆腐を交互に見遣った。  なぜ今日という日にわざわざ杏仁豆腐を作ったのか、理解できない。

「どういうことだ?」 「夕方に凝光様から着物の件を聞いて、水揚げの相手が魈になるって知って……。いつも手土産をくれるお礼と、璃月屋に着物を用意してもらえるって聞いたから、そのお礼も兼ねて」

 答えになっているような、いないような。  蛍は少し気まずそうな顔をして、自身の着物の袖口を弄りながら説明している。  いっそ能天気にも聞こえる蛍の言葉に、魈は思わず苦笑した。涙など出ていないけれど、泣き笑いのような顔をして。

「食べてくれる?」 「ああ」

 皿と匙を手に取って、魈はしげしげと杏仁豆腐を眺めた。  それは昔食べた、不恰好な杏仁豆腐とは違い綺麗な形をしていた。

「魈のこと考えて、魈のために作ったから……おいしくできたと思うよ?」

 なぜか杏仁豆腐を見つめて食べない魈に、味を保証しようと蛍は声を掛けた。  いつかの香菱の受け売りの言い方を拝借して。

 魈は杏仁豆腐から蛍に視線を移すと、愉快そうに口端を上げて口を開いた。

「それは、今夜我に抱かれると思いながら作ったということか?」 「……へ?」

 情けない声を上げると同時に、蛍は顔を紅潮させた。  その通りではあるけれど、そんな意地悪な言い方をしなくとも良いではないかと思った。

 水揚げの相手が変わると聞かされて、地獄から天国のような心地であると同時に、心から想う相手と急にそんなことをしろと言われて冷静でいられずはずがない。  だからそわそわと落ち着かない気持ちを誤魔化すように、香菱が忙しくしている夕方の厨房に駆け込んで、杏仁豆腐を作りながら気を紛らわせていたのだ。  どうせ魈と顔を合わせたら、自分は緊張して会話もままならなくなるかもしれない。これがあれば多少間が持つかもしれないなどと、くだらない希望を託して。

 しかし蛍の反論は何ひとつ言葉にならず、呻き声が出ただけだった。

「そんなことを考えながら作ったこの杏仁豆腐は、どんな味がするんだろうな」

 もう何も言い返せなくて、蛍は黙り込むしかない。  完全に、遊ばれている。  どうせ普通の杏仁豆腐の味しかしない、と不貞腐れながら心の中で言い返すことしかできない。

「心配せずとも、いずれ嫌というほどするつもりだ」

 悪戯っぽくにやりと笑って宣う魈は、いつになく楽しそうだった。  今日水揚げが予定されていたのは事実であり、蛍の勘違いだったというわけではない。けれども自分だけが先走っていたような気分になって、蛍は熟れた果実のようになった顔を、対照的な藍色の袂で必死に隠した。

 そんな蛍の様子に気を良くしたのか、魈はやっと杏仁豆腐を掬い上げ、口にした。

「食えなくもないな」

 その台詞に、蛍はどこか聞き覚えがあるような気がしたが、思い出せない。  あっという間に平らげて上機嫌でおかわりを所望する魈のため、自分もあとで食べようと取っておいた分を蛍は差し出した。おかわりするくらいなら素直に褒めてくれたって良いのに、と思いながら。

「打つ?」

 魈が食べ終わると、蛍は昨夜の約束を思い出したかのように、部屋の隅の碁盤を指差した。  魈はちらりと碁盤に目を遣ったが、すぐに視線を逸らして言った。

「いや、寝る」

 魈は疲れていたのだ。  平素から仕事人間で、あまり意識して休息を取らない魈はよく鍾離に注意されている。  しかし今日は本当に、心身ともに疲れていた。人生で一番疲れた日だったのではないかと思うほどに。  なので食べ終わった皿と匙を膳に置くと、魈は立ち上がって蛍の手を引いた。蛍は引きずられるように連れられていき、魈は隣の部屋に繋がる襖をスパンと勢い良く開く。

 先ほど蛍の気まずそうな視線が指し示していたそこには、やはり真新しい寝具が並べられていて、さあどうぞと言わんばかりに淡い行灯の光が照らしている。

「今日は寝るぞ」

 魈は羽織を脱ぎ捨て腰帯を少し緩めると、お誂え向きに良いされた布団に思い切り寝転んだ。

「わっ!」

 驚きの声を上げる蛍を引っ張って、腕の中に抱え込んで。

「せっかくの着物に、皺が……」

 生真面目にそんなことを気にする蛍の声を聞きながらも、魈の意識はもう微睡みかけていた。  眠くて堪らないので、目を閉じたまま投げやりに答える。

「そんなもの、いくらでも用立ててやる」

 また大金を何とも思わないでと、蛍の怒る声が聞こえた気がしたが、きっと夢だろう。夢の中でも蛍の声が聞こえるとは悪くないなと思いながら、段々と意識が薄れていく。  ただ、腕の中にあるぬくもりが夢でないことだけは確かで、(かな)しい。

「もう髪一筋さえも、誰にも渡さない」

 意識が落ちる間際、揺るぎない想いを唇に乗せて。魈は静かに呟いた。  蛍が息を飲んで、胸元に縋り付いてきた気がしたが、それは夢か現か。  そのまま花街の夜に、共に沈んでゆく。朝などもう二度と来なくても良いと思いながら、共に夜を越した。

髪一筋も、渡さない
魈蛍ちゃんの遊郭パロ、シリーズ第二話でございます!!
前話はこちら→novel/15645690

前回ほんのり気持ちが通じ合った風な魈蛍ちゃんに、苦難の水揚げ(初夜)が待ち受けるという話です。
それぞれのキャラクターがこの世界に合わせて暴走を始めているので、キャラ崩壊にはご注意ください。

いつもたくさんのブクマやコメント、ありがとうございます!
Twitterやマシュマロから感想いただいてる方も感謝です〜!!
なんとか完結できるように引き続き頑張りたいと思いますので、気が向いたらお尻叩いてやってください。
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2021年7月26日 14:11
藤花

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