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藤花
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ならば、すべての夜を買おう

ならば、すべての夜を買おう - 藤花の小説 - pixiv
ならば、すべての夜を買おう - 藤花の小説 - pixiv
33,854文字
花魁・蛍ちゃんと呉服問屋の若旦那・魈様の話
ならば、すべての夜を買おう
妄想とノリと趣味が全開の遊郭パロディです!
配役などはテイワットでの設定をできるだけ生かすように努力しましたが、世界観の都合上、名前の呼び方や話し方などいじっています。
色々好き勝手に書いておりますので、ご注意ください。

一応続きを書く意欲があるので、シリーズにしておきました。気長にお付き合いいただければ幸いです!
実は終わりが見えないままに見切り発車してしまい、この後どうなるのか私にもわかりません。ハッピーエンドにはするつもりです。

それからいつもブクマやコメント、ありがとうございます!
自分から人と交流するのは苦手なのですが、構ってもらえると大変嬉しいです!!
プロフィールにマシュマロとTwitter置いてますので、よろしければ気軽に絡んでくださいませm(_ _)m
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2021年7月20日 12:58

「ならば今後は、我がすべての夜を買おう」

 まだ日も高い花街で。男の言葉はとある妓楼を、否、花街全体を揺るがせた。  前代未聞のことであった。

 ■ ■ ■

 とある時代のとある国。  腰に刀を佩いた武士たちが、肩で風を切って歩く時代。

 世の尽くは金子次第。  浮世を牛耳るは商人なれば。  恋着さえも金子で買うとは、これ如何。  それは誰ぞ、知らぬことなり。

 ■ ■ ■

「あら、なかなか綺麗な顔をしてるわね」

 妓楼・群玉楼の楼主である凝光は、脇息にもたれながら上機嫌で目の前の少女を見遣った。少女は黄金色の髪と瞳を持った、齢十六ほどの娘である。  凝光は白百合色の長髪をさらりと掻き上げると、煙管から細い紫煙をくゆらせた。その動作はいかにも余裕たっぷりといった風情で、見る者に威厳を感じさせる。

「……」

 少女は何も言わない。  凝光は品定めするかのように、少女の隅々まで視線を滑らせた。頭の天辺から足の爪先まで、その一瞬でしっかりと。  そして煙管を持っているのとは反対の手で少女の顎に手を添えると、そのまま流れるような動作で顔を上げさせた。改めて少女の整った顔立ちを確認して、凝光は満足げに感想を漏らす。

「良い買い物をしたわ」 「……」

 やはり少女は何も言わなかったが、その双眸に力強い光を宿したまま、凝光を見返している。  ぞくりとした高揚感に、凝光は思わず口端を上げた。少女の顎を離し、煙管を唇に寄せながら一人頷く。  ああ、この目は良い、と思った。

 凝光は、この少女が抱える細かな事情など何も知らない。けれども何らかの因果の末、落ちぶれて人身売買という仄暗い商いの糧にされたのは確かだ。  それなのにまだ、少女は何も諦めていない目をしている。自暴自棄になることもなく、自分を持っている。それどころか、這い上がろうとする反骨精神のような意思が、瞳の奥に見え隠れしている。  こういう者は必ずのし上がってくると、凝光は知っている。今後どう仕立てて売り出してやろうとかと考えると、面白くて堪らない。

「あなたは今日からこの群玉楼の遊女よ。少なくとも私があなたを買った以上、衣食住に不自由はさせないわ。その代わり、しっかり働いて貢献してもらうわよ」

 凝光はこの国でも有数の大富豪だ。そんな彼女の営む群玉楼は、この花街で最も格の高い大店にあたる。つまり、高級妓楼というやつだ。  大店の妓楼は一晩遊ぶだけでも、並の商人や武士風情では到底手が出ない額の金子が必要になる。たかが一晩、されど一晩。それは彼らの数年分の稼ぎにも匹敵する。  また、美しい花魁を我が物にしようと身請けを考えようものなら、凡人風情では到底一生掛かっても払えないような金額が要求されることになる。

 今の世の中、最も金を持っているのは武士ではなく商人だ。言ってしまえば群玉楼のような妓楼で遊ぶことができるのは、大店商家の旦那たちくらいだろう。  そんな大金持ちがどこにいるのかと凡人は思うだろうが、いるところにはいるのだ。あるところにはあるのだ、お金というやつは。

「……」

 少女ーーーー蛍は、警戒心を隠そうともせず、黙って凝光の眼差しを受け止めている。  蛍はつい先ほど女衒に連れられて群玉楼にやって来て、凝光に買われた。そしてまだ、一度たりとも口を開いていない。首を振って意思表示をすることさえもせず、ただただ眼前の凝光を見据えている。  その様子は明らかに、この状況に抵抗している。

「楼主の御前です。返事をしてください」

 蛍の態度についに業を煮やしたのか、凝光のそばに控えていた遣手が注意した。露草色の髪をした、柔和な雰囲気の女性だ。  しかし柔らかな声音とは対照的に、その言葉は明確に蛍を責めている。責任感の強そうな凛然とした雰囲気のためか、凝光とはまた違った凄みを感じさせる人だ。

「別に良いのよ、甘雨」 「ですが」 「ここに売られてきた初日なんて皆、こんなものでしょう」

 凝光は紫煙を吐き出し、穏やかに遣手・甘雨を窘めた。

 遣手というのは、実質的に妓楼を仕切っている女性のことを指す。  経営者である凝光は実務的なことにはあまり口を出さない。あくまで大まかな方針を示すだけに過ぎないのだ。  それに対して遣手は、遊女らの行動の監督に加え、客の出迎えから品定め、客の細かな要望への対応まで、ありとあらゆる事柄に対処する。  つまり妓楼を円滑に運営するため、最前線で万事を切り盛りするのが甘雨なのだ。

 そうした立場の甘雨が自身の職務に強い責任感を持つのはごく自然なことであり、これから世話になる楼主に対して不遜な態度を取る蛍を指導しようとするのは当然だろう。  それがわかっているからこそ、凝光は甘雨を強く諌めることもしない。  楼主として意思表示すべきときにははっきり自分の考えを述べる、ということは凝光も譲らないのだが、自分が矢面に立つべき場面と、そうでない場面の分別はついている。

「今すぐに笑えなんて、言わないわ」

 凝光はふっと紫煙を吐き出しながら、甘雨に対してなのか蛍に対してなのか、誰に言うともなく呟いた。  蛍の抱いているであろう感情を凝光もまた知っているから、今の蛍の態度を咎める気は更々ない。それは花街に生きる者としての理解や、女としての理解によるものだけではない。  だがそれを言って目の前の少女に同情したところで、何にもならないことは明白だ。彼女が真にここから出たいと願うならば、自らを奮い立たせ這い上がるしかないのだから。

「……」

 一方、凝光の呟きを拾った蛍は、険しかった表情をほんの少しだけ緩めた。相変わらず、何の言葉も発さずに。  その理由は、目の前の一見冷徹そうな楼主の中に、僅かに情のようなものを感じたからだ。ただしそれは同情の類ではなさそうで。その正体が何かわからず、蛍は困惑の色を浮かべながら静かに凝光を見つめた。  しかし凝光はそれ以上は何も言わず、蛍から視線を逸らしてしまい、煙管を咥えては煙を吐き出すことを繰り返すばかりである。

 沈黙の中、口を開いたのは甘雨だった。

「そうですね……。泣き喚いて帰りたいと騒ぎ立てる者や、暴れる者も多いですし。この子は大人しくしているだけ、御の字ですね」

 正確に言えば、売られてきて早々、楼主をきつい眼差して射抜いてくる少女というのは、大層珍しい。長年遣手を務めている甘雨からしても、それは揺るぎようのない事実だった。  甘雨には凝光の考えていることが、なんとなくわかる。凝光の生き方からすれば、こうした存在は好ましいのだろう。何を隠そう、彼女自身も下克上の成り上がり者なのだから。  どちらにせよ、大人しい方が都合が良いというのは、遣手としての甘雨の本音だった。

 改めて甘雨も、しげしげと蛍を観察した。  恐らく元は町娘だったのであろう、売られてきた事実と不釣り合いなほどに小綺麗な着物に身を包んだ少女は、残念ながらこれから暗い夜を生きることになる。  その身の不遇と辛酸は、甘雨にも簡単に予想できる。星の数ほど見てきた少女たちの嘆きと涙が、それを重々しく示唆してくるのだ。

 しかしだからと言って、甘雨が少女たちを甘やかすつもりは微塵もない。そんなことをしても、その先に待つ焦熱地獄が阿鼻地獄になるだけで、彼女たちの苦しみが増すだけだと考えているためだ。  ゆえに泣こうが喚こうが、甘雨は表立って優しい言葉など掛けはしない。いつも淡々と、少女たちの歩むべき道を示す。それが自身の責務だと、心得ている。

「まあ、少しずつ慣れればいいわ。紫金(しきん)太夫に付けて、彼女に世話させなさい」 「承知しました」 「新造出しの頃合いは、追々紫金太夫と相談するわ。それまでは禿として、ここでの振る舞いを一通り勉強させなさい。器量が良ければ、早々に補助として座敷に出して慣らすのも考えるわ」

 新造出し、それはつまり正式な遊女見習いとしてのお披露目の意だ。  何の教養も芸もない娘を、いきなり座敷に出して客を取らせるようなことは当然しない。場末の切見世ならいざ知らず、高級妓楼である群玉楼ではそのようなこと、客に対する無礼にあたるのであり得ない。  蛍はしばらく見習いの禿として、花街のあれこれや芸事を仕込まれることになるのだ。

「名前はどうしましょうか?」

 甘雨が凝光に尋ねた。  廓では皆、源氏名を使う。基本的に本名は使わない。俗世の名前を使っては、この世の極楽を求めてやって来た客たちの興を削いでしまうためだ。  よって花街では名前がなければ始まらないので、早急に決める必要がある。

「確か女衒が、蛍という名だと言っていたわね」 「ええ、そのはずです」

 一応間違いないか確認するように、二人は蛍を見たが、蛍からは視線だけが返ってきた。是、ということだろう。  少しの間、凝光は煙管をくるくると回して弄びながら考え込んでいる様子だったが、やがてぴたりと動きを止めて言った。

夜光(やこう)、にしましょうか」

 凝光は蛍をまっすぐに見据え、微笑を湛えている。  与えられた聞き慣れない響きの言霊に、蛍は二、三回目を瞬かせた。

「月も星もない夜に、あなたの光がこの花街を統べる日が来るかしら?」

 挑発するような凝光の視線を受け止めつつも、蛍は特に表情を変えなかった。  言外に這い上がって来いとでも言っているような凝光の言葉に対して、受けて立つとでも答えるかのように。鋭い眼光で以って、粛々と返した。

「ふふっ、あとはよろしく」

 蛍の厳しい眼差しなど意にも介さないかのように、凝光は煙管を煙草盆に置くと、ばさりと扇子を広げてひらひらとそれを振った。もう行って良い、ということらしい。

「では、行きましょうか」 「……」

 相変わらず口を閉ざしたままの蛍を引き連れて、甘雨は楼主の部屋を後にする。  蛍が部屋を去る間際、ちらりと一瞬後ろを振り向けば、凝光がさざ波のように静かな笑みを浮かべているのが見えた。そして優雅に振られた扇子が、最後に視界の隅を掠めた。

 ■ ■ ■

 甘雨に連れられて楼主の部屋を退出した蛍は、妓楼の奥へと続く廊下を歩いていた。  質素な作りから察するに、どうやら遊女たちが生活する部屋が並んでいるようだった。だがそれは何も、雨風を凌げる程度のみすぼらしい生活空間という意味ではない。客が使う玄関や座敷の豪華さに比べれば飾り気がないというだけで、どこを取っても蛍の生家よりもずっと上質な作りをしていた。  さすがは高級妓楼、といったところか。蛍がまだ花街をよく知らないにしても、他の妓楼に比べて遊女たちの待遇が段違いに良さそうなことは見て取れた。

 やがて一番奥の部屋の前に辿り着くと、甘雨が立ち止まった。  この部屋の襖だけ、他の部屋よりも一等高そうに見える。そして間取り的にも、一番広い部屋のように思われた。

「この辺りは遊女たちの個室です。禿のうちは、先ほど通り過ぎた手前の方の大部屋で相部屋になりますが」

 蛍の疑問を察したかのように、甘雨が説明した。

「そしてここが、あなたの姉女郎になる紫金太夫の部屋です」

 そう言って、甘雨は襖の向こうに声を掛ける。

「紫金太夫、甘雨です」 「入りなんし」 「失礼します」

 甘雨が襖を開けると、藤色の髪をした遊女・紫金太夫が振り向いた。  艶のある髪は長くたっぷりとしていて、着物や畳の上に散った毛先さえも美しく、色香を感じさせる。来訪者を見据える紫檀色の瞳は、意志の強さを感じる深い色をしていた。  紫金太夫は気だるげに窓の桟にもたれて、外を眺めていたようだった。

「何用でありんすか?」

 煩わしそうな調子で問いかけてくる紫金太夫の言葉の出迎えを受けながら、甘雨は滑るように部屋の中に入った。蛍も甘雨に続いて室内に足を進めると、ひとまず背後の襖を締めて様子を伺う。  そして甘雨が紫金太夫の向かいに腰を下ろしたのに倣って、その斜め後ろにちょこんと座った。

 無作法とは思いつつ、蛍は視線だけで部屋の中を見渡してみた。  予想通り、部屋は目の前の遊女が一人で過ごすにしては随分広く、調度品も高そうなものが並んでいる。化粧箱であろうか、漆塗りの小ぶりな箱の上には香炉が置かれ、伽羅の香りが蛍の鼻孔をくすぐった。

「まあ、その後ろの子をわっちにとでも言うんでござんしょうけど」 「話が早くて助かります。凝光様は、あなたに付けて学ばせるようにと」

 すでに予想がついていたのか、紫金太夫はとうにわかっているとでも言いたげな様子だ。緩く着こなした着物の袖口から白く細い手を覗かせて、ぷらぷらと振っている。

「はぁ、わかりんした。それで、この子の名は?」 「夜光、と」

 短く返された甘雨の回答に、紫金太夫は眉を顰めた。

「名は何でありんすか?」

 なぜか再び、同じ質問を繰り返す。

「……またですか? この街では、真名(まな)なんてあってもなくても変わりません。意味のないことです」

 どうも、紫金太夫は蛍の本名を聞きたかったらしい。甘雨の口振りから察するに、紫金太夫は新人の真名をいつも尋ねているように思われる。  しかし甘雨はその話に付き合う気などないらしく、ばっさりと切り捨ててしまった。  甘雨の言い分に紫金太夫はさらに険しく眉を潜め、いかにも不服という顔になっている。端麗な顔立ちゆえに、かなり凄みがある。

 半歩下がって二人の会話を聞いていた蛍も、さすがに剣呑な空気をぴりぴりと感じた。  甘雨が蛍の名を答えなかったためか、甘雨の物言いの何かが気に食わなかったのか、紫金太夫の機嫌を損ねたらしいことは確かだ。

「新造出しについては、追々とのことですから。それまでは禿として育てるようにと。器量次第で、補助として早々に座敷に出すのも構わないとのことです」

 甘雨は紫金太夫の不機嫌に気付いていないのか気にしていないのか、凝光の意向を簡単に説明すると、あとはお願いしますとだけ言い置いて、さっさと部屋から出て行ってしまった。  後には張り詰めた空気をまとう紫金太夫と、蛍だけが取り残された。  ただでさえ突然花街に売られてきて、実のところ内心では相当戸惑っているというのにこの状況。どうしたら良いのだろうか、非常に気まずい、というのが蛍の本音だった。

 だがそんな心配は、不機嫌全開だったはずの紫金太夫によってあっさりと打ち砕かれた。

「君、名前は?」 「……」 「ああ、甘雨の言ってたことは気にしなくていいわよ」

 蛍は驚いて、思わずぽかんとしてしまった。  その理由は他でもない、先ほどまで流暢に廓言葉を話していた紫金太夫が、まるで町娘のように気さくに話し始めたからだ。気だるそうでありながらもどこか張り詰めた印象を受けた表情も、年相応の朗らかな雰囲気に変わっている。  それに加えて、どこからどう見ても怒っていると思われた人が随分あっさりした様子で口を開いたものだから、拍子抜けしてしまったのもある。

「まだ緊張してるのかしら? 町娘が急にこんなところに連れてこられたって様子だもの、無理もないけど」 「……」 「ねえ。君の名前、教えてくれる?」 「……蛍、です」

 紫金太夫の小ざっぱりとした雰囲気に呑まれてか、蛍はやっと口を開いた。  群玉楼に来てから初めて口をきいたせいか、唇がすっかり乾燥してしまっていた。口を動かすと薄皮が引っ張られて、少し痛い。

 蛍がこれまで何も話さなかったのは、別に絶望に打ちひしがれていたからでも、恐怖で縮こまっていたからでもない。  ただ、せめてもの抵抗だった。無理矢理売られてきて、はいそうですかと順応するほど、蛍は素直ではない。  けれども目の前の紫金太夫に対しては、それを貫く必要性がないような気がした。明らかに何の悪意も感じない、と言うか裏表がなさそうなのだ。突然まったく別人のような表情と口調で話し始めた人に対して、そのような表現は適切でないかもしれないが、そうとしか言えないのだから仕方がない。

「良い名前ね。私は刻晴よ」

 笑顔で蛍の名前を褒めると、紫金太夫は自らも名乗った。恐らく本名を。  花街の外であれば珍しくもなんともない光景だが、この鳥籠のような夜の街において、彼女の振る舞いはとにかく異質だった。これまで町娘として平凡に過ごしてきた蛍にも、はっきりとわかるほどに。  ゆえに蛍はつい、目を見開いて紫金太夫を凝視してしまった。そして彼女の存在を確認するかのように、疑問を口にした。

「あなたは、紫金太夫さんではないんですか?」

 我ながら、間抜けな質問だと思う。  しかし遊女としての名前ではない、本名を名乗る彼女が不思議でならなかった。  蛍が早々に源氏名を与えられたように、先ほど甘雨が切り捨てたように、妓楼において本名を使うことなど別段ないはずなのに、わざわざそちらを名乗る理由が思い付かない。  であればもしや自分が話の流れを読み違えていただけで、本当は紫金太夫は別人なのではないかと、何とも頼りないことまで考えてしまったのだ。

「私が本名を名乗るのがそんなにおかしい? でも、私はこの名前が好きなんだもの。それに話し方だって、廓言葉は面倒だわ。こんな私がこの群玉楼で一番の花魁だと言ったら、君は笑うかしら?」

 まさか、目の前にいるこの人が群玉楼の頂点だったとは。  刻晴の言動に驚きっぱなしの蛍は、もう何度目になるか、目を瞬かせた。  群玉楼はこの花街一の大店なので、刻晴は必然的に花街一の花魁ということにもなる。それはとんでもないことだ。なろうと思って簡単になれるものではない。

 刻晴は少し変わった考えを持つ独特な人だが、見目は間違いなく整っている。そして一本芯の通った物言いは、いかにも教養がありそうで、花魁たるに相応しいと言えるだろう。  頑なだった蛍にあっさりと口を開かせたあたりも、その力量ゆえだろうか。まだほんの短い時間を過ごしただけなのに、彼女の並々ならぬ魅力は十分に感じられた。  そう考えると刻晴を笑うどころか、気持ち良いほどすっと腹落ちしてしまったので、蛍は黙って首を横に振った。

 刻晴は蛍の反応に破顔すると、唐突に蛍に投げかけてきた。

「ところで夜光という名前、凝光はなぜ付けたのかしら?」

 刻晴は腕組みをして、考え込むような素振りを見せた。  どうも名前というものに、かなり拘りがあるようだ。

「『月も星もない夜に、あなたの光がこの花街を統べる日が来るかしら』と言われました」 「うーん、なるほどね……」

 凝光の言葉の意図を何か汲んだのか、刻晴は複雑な顔をしている。納得したような、いまひとつ納得していないような、何とも言えない表情だ。  蛍は挑発の言葉のように受け取ったのだが、他に何かあるのだろうか。

 刻晴はむむっと唸りながら、白い手を口元に添えて、しばらく悩ましそうに眉を寄せていた。と思いきや、蛍の顔をじっと見つめて、口を開いた。

「君、良い目をしてるわよね」 「目?」

 急な話題の転換に、またもや蛍は目をぱちくりさせた。すっかり刻晴の調子に翻弄されている。

「そう、目よ。だからその目に敬意を表して、私からも言葉を贈るわ」

 状況が飲み込めていない蛍に構うことなく、刻晴は細い指を蛍に伸ばし、両手でその頰に触れた。そして優しく、しかし確かな力強さで、顔を包み込む。  刻晴がまっすぐに捉えた蛍の顔色は、精彩があった。売られてきた少女たちは大抵、暗く沈んだ顔をしている。まるでこの世の終わりのような、絶望に染まった目をしているのが普通だ。しかし蛍の目はまだ、光を失っていなかった。不安や悲しみ、苦しみの色は見て取れたが、まだ何ものにも屈していないと感じた。  きっと凝光のことだから、目敏くこれに気付いたのだろう。

 蛍という名は、夜の闇の中を淡く光る虫の名。  そんな淡い光が、この夜の街の暗闇に負けないよう、自ら強い輝きを放つよう、夜光と名付けたのだろう。  しかしそれはあくまで凝光の願い。刻晴は、蛍が秘めているであろう強い意思が貫かれることを祈ろうと思うのだ。

「この花街は華やかに見えて、どこまでも深く暗い深淵のような場所よ。たくさんの人間の欲が渦巻く、掃き溜めみたいなね。そんな中でも君のその光が消えずに、本願を叶えることを祈っているわ。蛍」

 蛍は刻晴の言葉に、息を飲んだ。新しい名前に込められた凝光の願いと、刻晴の祈りを知ったからだ。  皆、必死に生きている。自分のことだけで精一杯であってもおかしくない、世知辛い世の中を。そんな世界の片隅で、自分のためだけに贈られた言葉はひどく心地良かった。  その心に報いたいと思うものの、生憎生来の口下手である蛍には、上手い言葉が思い付かない。その代わり、蛍は深く首肯した。凝光と刻晴の意図が伝わっていると、示すように。

「良い返事ね。まあ、細かいことは後で凝光と詰めるとして」

 蛍の返事にひとつ頷くと、刻晴は今後のことについて話し始めた。  しかしつい、蛍はぽろりと疑問を漏らしてしまった。ここからの方がむしろ大事な話のはずなのに、なんだか肩の荷が下りたような気分になって、気が緩んでしまったのだ。

「刻晴さんは、楼主や遣手よりも偉いんですか?」

 呆気にとられた刻晴の顔を見て、やってしまったと思った。先ほどに続いて、我ながらまたなんとも間の抜けた質問をしてしまったものだと思う。  しかし刻晴は呆れるどころか、思い切り笑い始めた。花街随一の花魁という肩書きが吹き飛ぶくらいに、心の底からおかしそうな様子で。

「あははっ! もしかして呼び方のせいかしら?」 「はい、変だなと思って……」

 蛍の言わんとするところを汲み取って確認してくる刻晴に、蛍はおずおずと同意した。  遊郭の経営者が楼主で、実質的な統括者が遣手で、遊女である刻晴は彼らに使われる立場のはずだ。それなのに刻晴は、凝光や甘雨を呼び捨てにしている。  普通に考えれば荒唐無稽な考えには違いないが、ひょっとすると刻晴の方が立場が上なのではないかと考えてしまったのだ。

「私は偉くなんてないわよ。ただ、凝光は昔からの知り合いで、甘雨はその補佐みたいな役割だから、自然とこういう呼び方になっただけで」 「そうなんですか……?」

 随分不思議な関係性をさらりと言ってのけた刻晴はしばらく笑っていたが、やがて呼吸を整え姿勢を正すと、真顔になって蛍に問いかけてきた。

「それで、君はどうしたいの?」 「どう、というのは?」

 先ほどまで浮かべていた屈託のない笑みは消えて、刻晴は鋭い視線で蛍を見据えている。  けれども蛍には、何を聞かれているのかわからなかった。何か真剣な話をしようとしていることはわかるのだが、刻晴が一体何を聞こうとしているのか、蛍に何を求めているのかまでは察することができなかったのだ。

「君はこの掃き溜めみたいな街で、金子と欲に蹂躙されるの?」

 容赦なく紡がれた刻晴の言葉は、固い物で頭を殴られたかのような衝撃を蛍に与えた。  ここは花街、自分はいずれ花魁となる。そんなことは売られてきた時点でわかっていたはずなのに、今になって初めてその事実を認識したかのような、そんな衝撃だった。  流れに身を任せればこの身は呆気なく塵芥となるのだと、やっと理解する。金で買われ、どこの誰とも知らない人間の欲の捌け口にされるのだ。

 刻晴は尋ねている。  蛍がこれまではっきり口にしなかった己の意思を。この深淵から本気で這い上がる気はあるのかと。

「君の目は、そんな未来を簡単に受け入れたりしないように見えたけど、違ったかしら?」

 違わない。それだけは確かだ。  蛍は唇を引き結び、ぎりぎりと噛み締めた。  自分はここへ来てから一度たりとも弱音を吐いていない。一粒の涙もこぼしていない。一瞬だって気弱な表情を浮かべたりしていない。  それは抗う意思の表れだった。

「私は……」

 ここを出たい。  ささやかで幸せな日々を、取り戻したい。  自分らしく、生きたい。

「私は、ここを出ます。そして私の人生を、取り戻します」

 群玉楼に来てから、たぶん一番大きな声が出た。  やっと自分の意思を、しっかりと言葉にした。

 刻晴はまっすぐにその言葉を受け止めて、頷いた。  蛍の意思を、受け止めたのだ。

「それで良いのよ。私が姉女郎として、花街一の花魁として、君を一人前にするわ」 「刻晴さん、なんで……」

 蛍の世話をするように指示したのは、楼主である凝光だ。しかしだからと言って、出会ったばかりの蛍に刻晴がここまで入れ込んでくれる理由など、どこにあるのだろうか。  きっと刻晴自身も、事情があってここに売られてきた身の上には違いないのに。彼女自身も並々ならぬ苦労をしているはずなのに。

「私の指導は厳しいわよ。着いて来れるかしら?」

 刻晴は蛍の疑問には答えず、宣言した。

 今は右も左も何もわからないけれど。とにかく一刻も早く身を立てる術を身に付けるしかない。そしてこの花街を出て、自由を手にするのだ。刻晴の真意はわからないものの、そこに悪意がないのは明らかだ。ならば頼らせてもらおうではないか。  そんな風にどこか腹をくくれたような気分になって、蛍はこれからの覚悟を決めた。

「ありがとう、ございます」

 蛍は心からの感謝の気持ちを述べることで、刻晴に自身の決意を示した。  本当は気の利いた言葉を言いたかったのだが、残念ながら何も出てこない。けれどもせめて誠意は伝えたいと思って、蛍は畳に指をつき、顔が膝に付くほどに深く頭を下げた。

「さあ、顔を上げて。もうすぐ日が暮れるわ。私は身支度をするから、手伝ってもらえるかしら?」

 顔を上げた蛍が刻晴を見ると、そこには妖艶な花魁の笑みがあった。

「君に仕込むことは山ほどあるわよ」

 こうして、蛍の群玉楼での日々と、花魁修行の日々が始まった。

 ■ ■ ■

 蛍が刻晴の禿となり、群玉楼で始まった生活は目まぐるしいものだった。

 日が落ち、花街を煌々と提灯の明かりが照らす頃、刻晴は座敷に出る。  禿になってすぐ、蛍は彼女の人気ぶりを知った。一晩遊ぶだけでも高額な金子が必要だというのに、毎夜毎夜、様々な客が刻晴を求めてやって来るのだ。  しかもどの客も大抵は大商人で、懐に随分余裕のありそうな感じだった。彼らは教養も高く、ただ欲を吐き出しに群玉楼へ来るわけではない。博識で口達者な花魁との会話を楽しみに、群玉楼が誇る極上の料理に舌鼓を打ちに、様々な目的を持って足を運んでくるのだ。

 刻晴は一筋縄ではいかない客人たちを造作もなく楽しませ、満足させる。その手腕は実に見事なものだった。  真名の件からもわかるように、彼女は花街で生きる者としては少々変わった価値観を持っている。その上相手が客であっても、自分の意見や考えを隠しもしないで堂々と述べる。  あまりにもはっきり言うものだから肝を冷やすような展開になるかと思いきや、それすらも客からすれば実に愉快な問答になるようで。次回彼女を指名する理由になってしまうのだから、脱帽する他ない。

 蛍は禿として、刻晴の身支度を手伝ったり、食事や茶を座敷に運んだり、ちょっとしたお使いをこなしたりと、要するに雑用をこなして日々を過ごした。  その中で刻晴の身のこなしを学び、廓言葉を身に付け、少しずつ花街でのいろはを知る。

 そして日中には、数々の芸事を学んだ。様々な芸事の師匠たちが定期的に群玉楼にやって来て、遊女たちに指導してくれるのだ。  三味線、箏、舞踊、お茶、書道、和歌、囲碁……と、芸事と一口に言っても枚挙に暇がない。どれもある程度の腕になるには、相当の時間と根気が必要になる。  最低限客に見せられるようにならなければ、とても新造にはしてもらえないだろう。新造になれなければ借金の返済すら始まらないので、まさにこれらの芸をものにすることは蛍にとって急務だった。

 幸い師匠たちは皆丁寧に指導にあたってくれ、刻晴も時間があれば面倒を見てくれた。もはや自分のためという気持ちだけではなく、彼らの期待に応えたいという気持ちも膨らんで、蛍は寝る間も惜しんで努力を重ねた。  そうしてがむしゃらに頑張っていたところ、ある日甘雨が驚いたように蛍に声を掛けてきた。

「まさか、すべてを極めるつもりですか……?」 「できないと、新造にはなれないのでござんしょう?」

 蛍は不思議そうに首を捻りながら、やっと覚えてきた廓言葉で答えた。

「その、得意なものがひとつかふたつあれば、問題ないのですが……」

 目を丸くしながら、少し言いにくそうにした甘雨が伝えてきたのは、驚くべき事実だった。  あまりにも蛍が必死だったものだから、師匠たちは皆全力でそれぞれの芸を教えた。刻晴もまた、自分と等しい教養を身に付けさせてやろうと気に掛けていた。  つまり全員が全員、蛍への指導に白熱してしまっていたらしく、どれを得意な芸とするかなどすっこ抜けていたのだ。

「身に付けたことは無駄にはなりませんから。凝光様にもあなたの努力は伝えておきます」

 常に表情を崩さず、仕事一筋の印象が強かった甘雨が笑うのを、このとき蛍は初めて見た。それは一般に苦笑と呼ばれるような、困ったような笑みだったが、心から蛍を賞賛しているような声音に聞こえた。  初日に厳しく態度を注意されて以来、なんとなく冷たい印象が拭えなくて苦手に思っていた甘雨への気持ちが、和らいだ気がした。

 その日の夜。それは蛍が群玉楼に来てからちょうどひと月の夜だった。  蛍は楼主の部屋へと呼び出され、凝光と対面した。普段私室に籠っているいるか外出していることが多い凝光とは、遊女たちは滅多に顔を合わせない。蛍も例に漏れず、凝光と顔を合わせるのは初日以来、ひと月ぶりだった。

「甘雨から聞いたわ。よもやこんなに早いとは、驚いたわ」

 あまり驚いているようには見えない様子で、凝光は蛍を褒めた。相変わらず煙管をふかして、ゆったりと構えている。  そのそばには例によって、静かに甘雨が控えていた。

「近いうちに新造出しをしましょう」

 この凝光の言葉の意味とはつまり、蛍の努力を認めて正式な遊女にすることを決めた、ということだ。  やっと、蛍の借金返済が始まるという意味でもある。

「……ありがとう、ござりんす」 「あら、やっと私と口をきいてくれたわね」

 やっと一歩前に進めるという喜びを胸に、蛍は震える声で礼を述べた。  それを聞いた凝光は穏やかに笑って、白百合色の髪を掻き上げる。  凝光の声音がどこかあたたかい響きを含んでいるように聞こえたのだが、それは蛍が凝光の真意を少なからず知って受け取り方が変わったためだろうか。それとも本当に凝光の気持ちに変化があったのか、冷静さが服を着ているかのような落ち着きを湛えた楼主の様子からは判断できない。

「それでは、慣らしも兼ねて紫金太夫の座敷に出しますか?」 「あなたと紫金太夫が良ければ」

 ひと月前、どこか他人事のように聞こえていた甘雨と凝光の会話。それが今、はっきりと自分事だと認識できる。  これからやっと、蛍の人生を取り戻す戦いが始まるのだ。

 ■ ■ ■

 目覚めるとき、いつも思い出されるのは最後に見た兄の顔だった。

「待て! 蛍を連れて行くな! 返せ!」 「お兄ちゃん!」

 両親が亡くなり、家族で営んでいた小さな店は底意地の悪い者たちに食い物にされた。  借金の形だと言われて兄と引き離され、蛍は女衒に売られたのだ。  今となってもまだ、あれは夢だったのではないかと思うときがある。否、夢であってくれれば良いのにと思うときがある。

 もう、涙は出ない。兄と離れ離れになったときに、きっとすべて流れ出て枯れ果てた。  それに何度も涙を流すのは、負けを認めるようで嫌だった。  自分はまだ負けていない、諦める必要などない、ここから這い上がって兄とまた暮らすのだ。小さな幸せに満ちた日々を取り戻すのだ。  微睡みの中で、そうやって何度も自分を鼓舞してきた。

 それでもふと、不安になるときがある。  優しい声で名前を呼んでくれた兄には、もう会えないのだろうか。  自分は蛍ではなくなって、夜光になっていくのだろうか。  そんな憂懼が首をもたげて、蛍を苛む。

 しかし花街の中でも随一の大店である群玉楼に売られ、刻晴という姉女郎に出会えたことは、不幸中の幸いに思えた。少なくとも凝光の言う通り、衣食住にはまったく不自由していない。  あの分では兄もどこかへ売られているかもしれないし、過酷な環境で働かされているかもしれない。もしかしたらあたたかい布団と食事の与えられている自分の方が、よほど幸せなのではないかと心配になってくる。

 どこにも近道はない。  町娘として生きてきて芸事など何も知らなかったし、人と話すのも得意ではない。愛想だって別に良くない。  こんな自分でやっていけるのかという不安がないわけではないが、諦めるわけにはいかないのだ。いつかまた、兄と笑い合える日々を取り戻すために。

 ようやく夢と現の狭間から帰ってきたような心地で、蛍はゆっくりと瞼を開けた。そしてのそのそと起き出して、身支度を整え始める。  群玉楼に来てひと月と少し。蛍は今日、初めて刻晴の補助として座敷に出るのだ。

 ■ ■ ■

 日が沈み、花街に夜が来た。  ずらりと並んだ見世の格子には一笑千金の遊女たちが並び、道行く男たちを手招きしている。  だが高級妓楼である群玉楼には、見世はない。ほとんどの者にとって手の届かない高嶺の花を見せびらかしても、何の儲けにもならないからだろう。むしろ雲の上のような秘められた空間だからこそ、そこにどんな美しい花が咲いているのかと人々は期待を寄せるのだ。

「お待ちしておりました、旦那様」

 群玉楼の玄関先で客人を出迎えると、甘雨は深々と頭を下げた。

「世話になる」 「璃月屋の鍾離様。本日は連れ立ってお越しいただき、誠にありがとうございます」

 今宵の客人は、国内でも随一の大店と誉れ高い呉服店・璃月屋の主人である、鍾離だった。鳶色の着流しに漆黒の紋付羽織を身にまとった、落ち着いた雰囲気の青年だ。  彼は呉服問屋を営む傍ら、最近では金融業にも商いの手を広げ、一代で莫大な財産と権力を築き上げた人物である。穏やかな好青年という風貌だが、商売敵を廃業に追い込んだという話もあれば、孤児たちに施しを与えているという話もあり、様々な噂の耐えない謎多き人だ。  そんな鍾離は群玉楼を訪れる客たちの中でも最上級の上客で、定期的にやって来ては大金を事もなげに落としていく。甘雨が凝光から、特に手厚くもてなすようにと言い付けられている客だ。

「今日はうちの若いのを連れてきた」

 鍾離はいつも一人でやって来るか、商人仲間を伴ってやって来る。しかし今日はその言葉通り、見慣れない者たちを引き連れていた。

「そちらが若旦那様ですか?」

 甘雨が鍾離の半歩後ろを見遣れば、翠髪の年若い男が立っている。初めて見る顔だ。  髪色とよく調和した藍色の着流しに、鍾離と同じく漆黒の羽織。少し格下の紋無し羽織を着ていることから、恐らく彼が若旦那であろうと推察して、甘雨は尋ねたのだ。

「若旦那の魈だ。将来的に俺の後継にと考えていてな。最近うちの呉服業の方は、ほとんど任せきりだ」 「璃月屋は今後も安泰ですね」 「そうであってほしいものだな。順調にいけば、俺もそろそろ引退だろうか」 「まあ、ご冗談を」

 鍾離がどう見てもまだまだ現役に見える風体でそんなことを言うものだから、甘雨は思わず口元に手を添えて笑った。

 そして若旦那だと紹介された魈の様子をちらりと観察すれば、腕を組んだまま、さして興味もなさそうに棒立ちでいる。花街に興味などないが、主人である鍾離に連れられて仕方なく来た、といったところだろうか。であれば常の通り、鍾離をしっかりともてなす方針で良いだろうかと、甘雨は内心で早速品定めを始めた。  しかしこの若旦那が将来的に璃月屋の後継になるということであれば、長い目で見て群玉楼により金子を落とす可能性が高いのはこちらかもしれない。やはり若旦那の方もしっかり気を配って、なんとか常連になってもらわなくては。  そんなことを甘雨はこの一瞬で目まぐるしく考えて、今日の方針を決めた。

「あの……そちらの方は?」

 もう一人、見慣れない人物がいる。  鍾離がまったく触れないのでさすがに気になって、少し厚かましい真似だとは思いつつ、甘雨の方から尋ねてしまった。

「じいさん、いつもこんな良いところでお酒飲んでるんだ。たまにはボクも誘ってよね。長い付き合いなのに、つれないなぁ」 「いつもというほどではない。遣手殿、これは気にしなくて構わない。たまたまついてきただけの、呑兵衛詩人だ」

 呑兵衛詩人と紹介された緑色の髪の人物は、一行の中でも異色だった。  一人だけへらへらと楽しそうにお酒の話をする様子に加え、こう言ってはなんだが、笠をかぶった旅芸人風の装いは、はっきり言ってお金を持っているようには見えない。  それなのに璃月屋の主人と長い付き合いとは、一体どういう関係なのか。

 謎の多い常連の旦那と、花街に一切興味のなさそうな若旦那と、貧乏くさい酒好きの詩人。なんともちぐはぐな三人組に見え、この組み合わせで酒を飲んで果たして楽しいのか、傍から見ると甚だ疑問である。  ただ、そこは遣手という立場上、甘雨が踏み込む部分ではない。色々不思議には思うものの、深く考えるのは辞めにして、甘雨は三人を早速座敷に通すことにした。

「では、お部屋にご案内します」 「高そうな置物だね」 「お前、自分が勝手についてきただけの身分だということを忘れたのか。あまり騒ぐと追い出すぞ」

 玄関先の棚に飾られている置物を認めた詩人が興味深そうに呟いて、手を触れようと伸ばした。それを見咎めた鍾離が、冷ややかに切り捨てる。そんな一幕だった。  本当に、楽しいのだろうか。  そう思ったが甘雨が口を出すことではないので、黙って粛々と一行を座敷に案内する。

「こちらへどうぞ。花魁が参りますまで、少々お待ちください。それまでは名代の禿がお相手します」

 甘雨は三人を部屋に通すと、早速酒と料理を手配し、宴の準備を手際良く整えた。  あとは花魁が来るのを待つばかりだが、いくらか待たせることになるので妹分の禿に酌をさせることにする。  さて、彼女の初陣はどうなるだろうか。少しの不安と期待を胸に、甘雨は山ほどある自身の仕事に専念した。

 ■ ■ ■

「失礼いたしんす」

 襖越しに声がして、すっと開いた。そこには黄金色の髪をした禿がいて、三つ指をつき、頭を下げている。  花魁ほど上等な着物ではないまでも、煌びやかな朱色の振袖に髪飾りを挿した、蛍だった。

「夜光でありんす。紫金太夫の姐さんがきいすまで、わっちがお酌をいたしんす」 「おや、見ない顔だな」 「やっぱりじいさん、常連じゃないか。見ない顔がわかるほど、ここで良い酒を飲んでるなんて」 「風情のわからない呑兵衛詩人め。だからお前をここに連れて来るのは嫌だったんだ」

 鍾離と詩人が言い争っている間、どうしたものかと蛍は困っていた。頭を上げる機会を逃してしまい、最初の姿勢のまま入口にいる。さっさと顔を上げて座敷に進んでお酒をすすめるべきか、客人たちの言い合いがおさまるまで待つべきか。  こんな展開、どう対応すれば良いのか蛍にはまだわからない。いきなり変わった客に当たってしまい、自分の運の無さを恨む。

 しばらく硬直していたものの、誰かが助けてくれるはずもなく。結局蛍は様子を伺うように、そっと顔を上げてみた。  すると、もう一人いた静かな人物と目が合った。  その人は言い争う二人から少し離れて部屋の隅に腰掛けて、無表情で腕組みをしていた。翠色の髪と金色の瞳が印象的な、美しい人だ。眉目秀麗という言葉は彼のために作られた言葉ではないかと錯覚するような風姿で、どこか近寄り難い雰囲気がある。

 妙に心惹かれるその人に思わず見とれた蛍は、不躾にもじっと見つめてしまった。しかしなぜか相手もまた、乏しい表情の中で僅かに目を見開いて、蛍を見ていた。  吸い込まれそうな玲瓏な瞳から、目を逸らせない。なぜだろうか。こんなに綺麗な人を見るのが、初めてだからだろうか。

「魈、どうした」

 ようやく言い合いがひと段落した鍾離が、魈の不審な様子に気付き、声を掛けた。  瞬間、はっと我に返ったようで、魈は蛍からふいと視線を外した。  その鍾離の声で蛍もまた、失礼極まりない自分の行いに気付き、慌てて目を泳がせる。幸い誰も蛍には注目していなかったので、咎められるようなことはなかった。申し訳ないことに、代わりに翠髪の人の方が注目の的になっているが。

「何か気になることでもあったのか?」 「いえ、なんでもありません」 「なになに、一目惚れってやつ?」 「……違います」

 まだ一滴も酒は飲んでいないはずなのに、詩人は随分と自由気ままだ。真面目に魈の様子を心配する鍾離に対して、詩人は彼を揶揄って楽しんでいる。それはすでに絡み酒の様相で、魈の肩に腕まで回して、好き勝手話していた。  魈の方は主人である鍾離の知人相手ということもあってか、嫌々ながらも耐えているようだった。

 詩人の揶揄いを本人が否定している通り、蛍もまたそんなはずはないと思う。  向こうはうっとりするような容姿だが、蛍はせいぜい十人並みの見てくれだと自覚している。蛍に見入るような理由はないはずだ。きっと蛍が不躾にじろじろ見たから、目線を逸らす機を失ってしまっただけだろう。

「お酌をさせてもらってもよろしゅうござんすか?」 「ああ、待たせてすまない。お願いしよう」 「わーい、お酒だー!」

 やっとのことで蛍は部屋の中央に進み、酒を注ぐ旨を申し出ることができた。お酌を開始するまでがまさかこんなに大変だとは、夢にも思わなかった。

 こぽこぽと、盃に酒が注がれる音が響く。蛍は習った通りに、一番上座の鍾離から順に酒を注いでいった。  問題なくこなしているように見えて、実は蛍は尋常でないほど緊張している。ともすると銚子を持つ手が、かたかたと震えそうになるのだ。  初めての座敷、初めて見る大店の主人、予想外の振る舞いを繰り返す面々。これだけ揃えば緊張しないはずがない。むしろ緊張は増すばかりだ。

 しかも酒を注ぐ間、鍾離や詩人が自己紹介するのに相槌を打たなければならなかった。  気を張ることが多すぎて、蛍はもう窒息寸前。潤沢に空気のある陸上で溺れ死んだ人間はいるのだろうか、などと現実逃避しそうになる。

「鍾離様は、あの璃月屋の旦那様でござんすか」 「ああ。お前も聞いたことくらいはあるか?」 「もちろんでござんす。老いも若きも、この国で璃月屋の呉服を知らぬ者はおりんせん」

 まだ慣れない廓言葉もまた、会話の難易度を上げてくる。  花街に来る者たちは、夢のような非日常を味わいにくるのだ。となれば、廓の外と同じ言葉で話せば興醒めしてしまう。ゆえに、遊女たちは作られた言葉で話すのだと、刻晴から教わった。  しかし廓言葉というのは独特の言い回しが多く、ほんのひと言話すだけでも噛みそうになる。一瞬たりとも気を抜けず、必死の形相になってはいないかと、それも心配になってくる。

 蛍の能力ではこれ以上客の相手をするのは限界ではないか、そんな弱気なことを思い始めたときだった。

「失礼いたしんす」

 襖の外から声が掛かった。  襖が開くとそこには凛とした空気を身にまとった刻晴、もとい紫金太夫がいた。その姿は女の蛍ですら息を飲むほどに、見た目だけでなく所作も含めたすべてが美しかった。  彼女が来ただけで、部屋の空気が変わったとまで思った。

「お待たせいたしんした、鍾離様。紫金太夫でありんす」 「久しぶりだな。お前と議論を交わすのは実に面白い。楽しみにしていたぞ」 「それは嬉しゅうござんすけど、鍾離様は香菱の料理が一番の目的だと、もっぱらの噂でありんすよ」 「ははっ。確かにそれも否定できないな」

 香菱というのは、群玉楼お抱えの料理人だ。  彼女はある日ふらりとこの花街にやって来て、さして食べることに執着のなかった凝光に言ったのだ。

「花街には酒と女があれば、お金が動く? それは違うよ! おいしい料理は絶対に必要だって、アタシが証明してみせる。物は試しで、一晩ここで腕を振るわせて!」

 そうして彼女は言葉通り一晩で、群玉楼の料理は花街一との評判を打ち立てた。  その日群玉楼の売上は過去最高を記録し、凝光は香菱の腕を認めて、お抱えの料理人として囲い込んだ。  よって今となっては、料理を目当てに群玉楼を訪れる客も珍しくない。舌の肥えた客を花街でもてなすならば、群玉楼をおいて他にはないと、そう人々に言わしめたのだ。

「今日はたくさんお連れ様がご一緒で、賑やかでござんすね」 「ああ、うちの若旦那の魈だ」

 部屋の真ん中に座り酒や料理を囲む鍾離と詩人に対して、相変わらず一歩引いて座っていた魈。そちらを指し示しながら、鍾離は刻晴に紹介した。  魈は紹介されてほんの少し頷いて見せたが、それ以上会話に混ざる気もないようで、後方に座ったままだ。最初に蛍が注いた酒も、まだあまり進んでいない様子だった。

「ボクは旦那の友達だよ」 「ただの腐れ縁の詩人だ」 「つまり、腐れ縁のご友人でありんすね」

 上品にころころと笑い、紫金太夫が鍾離と詩人の関係を要約した。  鍾離は半ば諦めたように嘆息しているものの、さして機嫌を悪くするということもなく、紫金太夫の表現は適切だったらしい。  詩人もまた楽しそうに、けたけたと笑っている。まだ飲み始めたばかりだというのに、すでに出来上がってしまっている。

「あれ」

 ふと、詩人が呟いて蛍を見た。

「君、大丈夫? さっきから少し手が震えてるみたいだ」 「えっと……」 「緊張してるのかな。もしかして新人?」

 酒を呷るのが早い詩人の横について、蛍はせっせと酒を注いでいたのだが、呑気そうに見えた詩人が目敏く蛍の手の震えに気付き、声を掛けてきた。  紫金太夫が来たことで会話は任せ、蛍はお酌に専念していた。それでもなお、緊張は簡単に解れるものではなく、未だに続いていたのだ。

「だ、大丈夫でありんす。お見苦しいところをお見せして、申し訳ありんせん」 「ええ、この子は今日初めて座敷に出た新人でありんす。おっせえす通り、緊張していんす。どうぞ、大目に見てくだしゃんせ」

 焦って謝罪する蛍を庇うように、紫金太夫は落ち着いた様子で弁解した。  幸い誰も蛍を責める気など毛頭ないようで、鍾離が穏やかに笑って口を開いた。

「誰しも初めてのことにあたるというのは、そういうものだ」

 そう言って、鍾離は紫金太夫が注いだ酒を口に含んだ。  大店の主人らしい懐の広い言葉に、蛍は内心で胸を撫で下ろす。変わった人たちだが、心の広い客に当たって良かったと。

「うちの魈もこういった場は初めてでな。居心地が悪いのか、普段以上に静かで困ったものだ」

 鍾離は後ろの魈をちらりと見ながら、僅かに眉を下げた。  魈は鍾離の視線を受けて目で返事をしただけで、相も変わらず会話には入ってこない。

「若旦那様は、一人で静かに過ごす方がお好きでありんすか?」

 紫金太夫はちらりと魈を見てから視線を鍾離に戻すと、問いかけた。

「それもあるが、魈は仕事一筋でな。俺が休めと言ってもなかなか休まない。仕事熱心で呉服業のほとんどを任せられているのは有り難いんだが、趣味のひとつやふたつくらいは……と思ってな。それで今日は、花街の嗜みでもと連れてきたんだ」 「左様でござりんすか」 「本当に、ボクみたいにお酒が好きになればもっと人生が楽しくなるのにね。もったいないよ」 「詩人様は、終始楽しそうでありんすね。素敵なことでござんす」 「あははっ、褒められちゃった」

 酒も回って気を良くした詩人は、聞いてもいないのにペラペラと、紫金太夫に酒の素晴らしさを語り始めた。紫金太夫は笑って相槌を打ちながら、うまく詩人を転がしている。  そうして詩人と紫金太夫が話している間、鍾離は顎に手を当て、何かを考え込むような素振りを見せていた。  紫金太夫は詩人の話に相槌を打つ傍ら、目敏くその様子を視界の端で捉え、気に掛けていた。会話に混ざっていない客にも意識を向けることは、意外と大事なのだ。

「紫金太夫。ひとつ相談だが」

 案の定、鍾離がどこか神妙に口を開いた。

「何でありんすか?」 「小さな部屋で良い。一部屋用意してもらえるだろうか?」 「それは問題ありんせんけど、何にお使いに? お休みになりんすか?」

 予想だにしなかった少々不思議な相談内容に、紫金太夫は首を傾げている。  疲れたからと就寝用に部屋を所望する客人はよくいるのだが、まだ宴が始まって幾許も経っていない。

「魈を一人にしてやろうかと思ってな。どうもここでは騒がしくて気が休まらなさそうだ」

 そう言う鍾離は、明らかに詩人を見ている。  騒がしい、という言葉が掛かる人物は鍾離にとって、実際のところ一人しかいないようだ。

「それから、そこの……夜光殿といったか。彼女を酌に付けてはもらえないか」

 魈が驚いたように、少しばかり目を見開いて鍾離を見た。  そして指名された蛍もまた、鍾離と魈を交互に見つめた。  本人たちをよそに、鍾離と紫金太夫は話を進めていく。

「構いんせんけど、もう少し慣れた花魁を用意いたしんしょうか?」 「いや、構わない。初心者同士寛容にやるだろう」 「……わかりんした。ご用意いたしんすから、少々お待ちくだしゃんせ」

 紫金太夫はすぐに襖の外に声を掛けた。すると隙間から甘雨が顔を覗かせ、頷く様子が見えた。甘雨に話が通れば恐らく、息を百回もする頃には準備が整うだろう。

 蛍と魈はどちらも何も言えず固まっている。否、いずれも立場上、声を上げることなどできないのだ。  蛍は禿であり、客の言うことにも姉女郎の言うことにも従うしかない。魈もまた、主人である鍾離に逆らうことはできない。

 蛍は今日が初めての座敷だというのに、予想外の展開でもう頭の中が真っ白になりかけていた。一対一で客の相手をするなんて、粗相そしたらどうしようかと。  しかも今度は紫金太夫が来てくれるという希望すらもない。一人で乗り切らなければならない局面に、早くも立たされている。

「若旦那様、無粋とは思いんすけど、ひとつだけ」 「……なんだ」

 紫金太夫が名指しで話しかけたので、さすがに無視することなく、魈は短く返した。

「くれぐれも、お手を触れないようにしておくんなんし」

 紫金太夫の言葉に、部屋の中にいた全員が目をぱちくりとさせた。  それは妓楼のしきたりだ。初見の女に触れることはご法度である。三度目になって初めて、可能なのだ。  そもそも蛍はまだ新造出しをしておらず、正式な遊女とは言えないので、どちらにせよお酌くらいしかできないのだが。

「ははっ。いくら花街に疎くとも、決まりを知らぬということはない。お前の顔に泥を塗ったりしないから、安心してくれ」 「あら、わっちとしたことが野暮でござんした」

 一番に我に返った鍾離が笑いながら言うと、紫金太夫も冗談だとでも言いたげに笑った。  そんな会話をしているうちに、襖の外から部屋の用意ができたと甘雨の声が掛かる。魈と蛍は促されるままに、別の部屋へと案内されていった。  二人が部屋を後にして襖が閉まるのを待って、紫金太夫がおもむろに口を開く。

「それにしても鍾離様、一体どういったお考えでありんすか?」 「大層な考えなどないさ。ただ、魈を養子にしてもう十年にもなるが……」

 鍾離は一度言葉を切って、盃に手を伸ばした。  紫金太夫はすぐに銚子を取り上げ、そこに酒を注ぐ。

「あの子が仕事以外の何かに興味を示すところを、初めて見た。それだけだ」

 そう言って、鍾離は清らかに透き通る酒を口に含んだ。  じんわりとした酒の熱が、口から喉へ、喉から胸の奥へと広がっていく。

 鍾離はそれ以上何も語らなかったので、紫金太夫はその話を掘り下げることなく、別の話題を提供した。鍾離の好きな、骨董品の話だ。  詩人はつまらなさそうに鍾離と紫金太夫の談義を聞いていたが、やがて手酌でがぶがぶと酒を飲み始めた。

 ■ ■ ■

 蛍と若旦那が案内されたのは、四畳半ほどのほんの小さな座敷だった。  締め切られた窓が一つと、部屋の中央には膳があって、料理と酒が並べられている。部屋の隅には行灯が置かれ、柔らかく室内を照らしていた。

 ここまで案内してきた甘雨が襖を閉めて去ってしまうと、入口の襖の前に立ち尽くす蛍と、その少し前で蛍に背を向けて同じく立ち尽くした状態の若旦那だけになった。  部屋の中はすっかりしんと静まり返って、何とも形容し難い空気になる。平たく言えば、気まずいという感覚が一番近いだろう。

「ど、どうぞ。楽にして掛けてくんなんし」

 まずは客を座らせねばと、蛍は恐る恐る若旦那の背中に声を掛けた。  その表情は見えなかったが、若旦那は静かに息を吐き出すと膳の前に座ってくれた。  しかし当初の雰囲気からして、そもそも妓楼に来ること自体がどう見ても乗り気でない様子だった。今の嘆息もその不快感の表れかと思うと、如何にして声を掛けたものかと悩ましい。

「お酒を、お注ぎしてもよろしゅうござんすか?」 「……」

 蛍は若旦那の隣に腰を降ろして銚子を手に取り、一応酒を勧めてみた。  しかし若旦那は黙ったまま、盃を取り上げることもせず、腕組みをしている。と言うか目まで閉じて、こちらの話を聞いているのかも怪しい。

 若旦那があまりにも微動だにせず何の反応も示さないので、自分の振る舞いが何か機嫌を悪くさせているのではないかと、蛍は段々と不安になってきた。  確かに今日は初めての接客で、紫金太夫のように鮮やかな身のこなしができているとは到底言えない有様だった。大きな失敗はしていないものの、目の肥えた大店の若旦那からすれば、見るに堪えないものだったかもしれない。  それに思い返せば、出会い頭に不躾な視線を送ってしまったという事実がある。もしかするとその件で怒っているのかもしれない。

 考えれば考えるほど思い当たる節がありすぎて、焦ってくる。  それならばいっそ、自分で思い付く限りの非礼を詫びようかと考えて、蛍は口を開こうとした。

「あの……」 「……」

 けれども蛍が話そうとすると同時に、若旦那は黙って盃を手に取って蛍の方に差し出してきた。  どうやら蛍の予想は外れていたようで、さほど怒っているわけでもなければ、少なくとも酒を嗜む気くらいはあるらしい。  蛍は口から出かけた謝罪の言葉を飲み込むと、ほっと安堵の溜息を漏らして盃に酒を注いだ。

 そして何か話題を提供すべきかと考えてみたのだが、先ほどから何の話題に対しても加わる様子がなかったので、どんな話を振れば良いのか、皆目見当も付かない。  結局沈黙したまま、ゆっくりと酒を煽る若旦那の様子を見ていることしかできなかった。そしてたまに、空になった盃を酒で満たす。  何度かそれを繰り返し、蛍はやっと話題を思い付いた。

「何かお料理も、召し上がりんせんか?」

 せっかく用意された料理は、未だ全くの手付かずだった。  話題のきっかけになればと勧めてみると、若旦那はやっと正面から蛍を見た。そうしてゆったりとした動作で盃を置くと、形の良い唇を動かして言葉を発した。

「……その話し方は、何とかならないのか」 「えっと……? そ、それはここの決まりでありんすから」

 急な難癖に、蛍は大いに戸惑った。花街に来ておいて遊女の話し方に文句を付けるとは、どういう了見だろうか。  慣れない廓言葉が下手だと言われるならまだしも、だ。  目の前の若旦那が廓言葉を知らないはずもないのだが、この話し方は妓楼における決まりであるということを改めて伝えるくらいしか、蛍には返せる言葉がなかった。

「決まりなどどうでも良いから、我の前では普通に話せ」

 どうでも良くないのだが、目の前の客は要望している。随分強引な言い草で。  客の要望と花街の決まり、どちらを優先すべきか、蛍には判断がつかない。

 悩む様子の蛍を見遣りながら、若旦那は脇息にもたれかかり、頬杖をついた。恐らく蛍の回答を待っている。  ゆるりと構えているのにどこか高圧的に感じてしまう若旦那の様子に、蛍は一人勝手に切羽詰まって、どんどん焦りを募らせた。  今日まで学んできた花街の決まりが覆ってしまうこの要求に、どう答えれば良いのだろうか。それも客を不快にさせることなく。

 そうしている間にも、沈黙が暇だったのか若旦那は盃の酒を飲み干し、蛍の前に差し出した。注いでほしいということらしい。  先ほどまでの広い部屋にいたときよりは、確かに酒が進んでいる。さすが璃月屋の主人の見立てだ。  などと考えている場合ではなく、どう回答したらいいのか、とにかく何か言わなくては。  しばし思案して、ようやく蛍が出した結論は。

「わかり……ました」

 結局、目の前の客の要望に沿うことにした。  蛍の回答を聞くと若旦那は頬杖をつくのをやめて、背筋を伸ばして盃をもう一度ずいと突き出してきた。蛍の回答が是であったことに、いくらか気を良くした様子だった。

 しかし考えすぎて酒を注ぐのを忘れていたことに気付き、蛍は慌てて銚子を持って酒を注いだ。  こぽこぽと、銚子の細い口から透明な液体が溢れ出る。そして盃が満たされると、そこにはまるで水鏡のように、若旦那と蛍の面が映っていた。  静かな部屋の中には、酒の雫が波紋を作る音しかしなかった。  若旦那は再び満たされた盃をその薄い唇に寄せると、ひと口ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。

 そんな絵になる様子ついつい見とれて、蛍はぼんやりと若旦那の顔を眺め遣った。

「敬語も必要ない」

 半分心ここにあらずになりかけていた蛍の耳に、よくわからない言葉が聞こえた。  今、何と言われたのか。  恐る恐る若旦那の顔にしっかり焦点を合わせると、盃を置いて腕組みするのが見えた。その上、明らかに圧のある態度で、もう一度言い募ってきた。

「敬語は必要ない」

 今度こそはっきりと何を言われたのか理解した。  そんな無体な、と言いたくなる。  客に対してそんな言葉遣いをしてはいけないに決まっている。刻晴は何も言わないかもしれないが、甘雨に知られたら絶対に怒られる。

 またしても客の要望と決まりを天秤にかけて、蛍は考え込んだ。  しかし今度はさほど時間をかけずに結論が出てしまった。その結論は、若旦那の威圧感による恐怖に由来する判断などではなく、蛍の自主的な判断によるものだ。  蛍は若旦那の要求に戸惑いながらも、少しだけ嬉しかったのだ。それはこの話を飲めば、自然に自分らしく話せると気付いてしまったからに他ならない。

「わ、わかった……」

 なんだかずるいことをしているような気がして、蛍は小さく返事を絞り出した。一方、蛍の回答を聞いた若旦那はどこか満足気に、小さく頷いている。  正直なところ若旦那の第一印象としては、誰にも気を許さないかのような、張り詰めた雰囲気をまとう人だと思っていた。けれども今、蛍には若旦那の表情が和らいだように見えた。

 なぜこの若旦那は花街の遊女を町娘のように話させようとするのか、理解に苦しむ。もちろん、こちらの方が話しやすいのは確かだが、どうにも調子が狂ってしまう。この人が何を考えているのかわからない。  蛍の内心は疑問だらけだった。

「お前の名は、何という?」

 目の前の若旦那は、思いの外饒舌に喋る。  最初に自己紹介したのを聞いていなかったのか、改めて名前を聞かれた。やはり嫌々来たのだろうか、と思いつつも、蛍はもう一度名前を名乗った。

「私は、夜光」 「そうではない。お前自身の名だ」

 それは遊女としての源氏名ではなく、蛍自身の人としての名を問いかける言葉だった。  なぜ、そんなことを聞くのか。それは必要なことなのだろうか。

「なんで」

 驚きのあまり、それしか言えなかった。

「遊女としてのお前に興味はない。だが、お前という人間には興味がある。だから名を聞きたいと思ったまでだ」

 花街に来ておいて、遊女に興味がないとは。いや、この若旦那が花街に興味などなさそうなことは最初からわかっていた。  それに群玉楼に来る客の中には、料理が目当ての人もいる。鍾離のように紫金太夫との談義を目的にする人もいる。  しかし、遊女に対して人間として興味を持つとは、一体どういうことだろうか?  だがそんな疑問よりも先に、蛍の心は喜んでいた。

「私の名前が、知りたいの?」 「そうだと言っている」

 花街に入ったからには、もう誰も自分を蛍だと認識しないのではないかと覚悟していた。  凝光が名付け、刻晴が祈りを込めてくれた夜光という名が嫌なわけではない。ただ、まるで名前も、これまでの人生も、すべてを奪われるかのように。夜光に上書きされていくような感覚が、どこか恐ろしかったのだ。蛍ではなく、夜光になっていく自分が。  だから刻晴が、自身の名に固執する気持ちも、蛍を蛍と呼んでくれる有り難さも、痛いほど感じていた。

 そんな名前を、聞いてくれるのか。

「……ほたる。私の名前は、蛍」 「そうか。蛍というのだな」

 若旦那はゆっくりと、蛍の名前を口にした。瞼を震わせて、金色の瞳をその向こう側に隠しながら。  穏やかで悲しそうな顔をしている。隠された双眸から、まるで涙の雫がこぼれ落ちそうに見える。そんなものは影も形もないというのに。

 なぜそんな顔をするのか、蛍にはよくわからない。蛍の気持ちを察しているのだろうか?  けれども身を売られ、兄と離れ離れになり、記号のように扱われていた名前が。  もう誰も心から呼んではくれないのだと、悲観していた言霊が。  目の前の無愛想な若旦那に名前を呼ばれて、蛍の心は震えた。  その柔らかな声音に、なぜか途方も無い安心感を覚えた。もっと、蛍と呼んでほしい。

 気が付けば目頭が熱くなり、客の前だというのに涙が滲みそうになった。  なぜ、今日初めて会った人に名前を呼ばれて喜びに震えているのだろう。頭の中で冷静な声が、蛍を滑稽だと揶揄している。  家から無理矢理連れ出されて女衒に売られて以来、涙など枯れたと思っていたのに。我慢しなければと思えば思うほど、涙の粒が大きく目尻に溜まっていく。  兄が、家が。恋しくて、悲しくて、寂しくて。感情が溢れそうになる。  ああ、いけない。客をもてなすべき自分が、このような姿を見せるなど。

 なんとか隠そうと、蛍が俯いたそのとき。

「月見酒の気分だな」

 立ち上がった若旦那が締め切られていた窓を開け、脈絡のないことを口走った。窓の桟に腰掛けて、若旦那は外に視線を遣っている。  外の通りの喧騒、他の妓楼の客引きの声、様々な夜の街の音が、少し遠くに聞こえていた。

「花街というのは随分と騒がしいな。外の喧騒で、何も聞こえそうにない」

 蛍の両目からは、とめどなく涙が溢れていた。ぼたぼたと頰を伝って流れ落ち、着物の膝を濡らしていく。  止めようにも止まらない、梅雨時の雨のようにしとしとと降り注ぐ。

 しかし涙の理由は、名前を呼ばれた喜びだけではなかった。  目の前の若旦那が、月も出ていないのに、盃はとうの昔に空なのに、月見酒だと宣うから。通りの人々の声など僅かに聞こえるだけなのに、煩いと宣うから。  その優しさが、さらに涙と嗚咽を誘うのだ。器用に蛍の涙に気付かないふりをしているのに、あまりにも不器用な言い分がおかしくて、泣きながら笑いそうになる。

「少し酔いが回ったようだ。天下の璃月屋の若旦那が、こんな顔を晒すわけにもいくまい。これでしばらく目を覆っておけ。こちらを向いてくれるな」 「……うん」

 そっぽを向きながら差し出されたのは、一枚の手ぬぐいだった。璃月屋の刺繍が入った、手触りの良い、いかにも高級そうな代物だ。

 無口で無愛想な人に見えたが、その実若旦那はとても優しい人だった。  どう見ても、まだ酔うほど酒は飲んでいなかった。それ以前に今も口調はしっかりしていて、蛍が俯く直前に見た顔も冷静そのものだった。  こんなにも嘘が下手で、商人として大丈夫なのだろうか、などと完全に余計なお世話なことを考えてしまう。

 けれどもここは花街、幻想の街。  そんな無粋なことは口には出さず、蛍は渡された手ぬぐいで涙を拭き、腫れぼったいのがおさまるまで目元を覆って過ごした。

 しばらくしてようやく蛍の涙が落ち着くと、若旦那は再び盃を差し出してきた。

「……ありがとう、若旦那」 「魈だ。我のことは、名前で呼べ」

 目の前にいるのは国内切っての大店の若旦那だというのに。遊女と客という立場だというのに。  どこまでも普通の関係を強要してくる魈に、蛍は今度こそ隠しもせずに思わず笑ってしまった。  なぜそんなことに拘るのかわからないけれど、そういう細かいことに踏み込まないのも嗜みだと、刻晴が言っていた。だから何も言わず、この状況を享受することにする。

「魈って変な人だね」 「戯言を」

 蛍の軽口に言い返す言葉とは裏腹に、魈の声音は柔らかい。  なんだか久しぶりに、自然と笑った気がした。

 そうして酌をしながら、ついに料理にも箸が伸ばされ、夜は更けていく。  取り立てて互いの身の上を語るようなことはなかったが、今度の沈黙に気まずさなどなく、それは心落ち着く時間だった。

「蛍」

 たまに名前を呼んで、酒を催促されて。  たまに名前を呼ばれて、料理を取り分けて。  そうか自分は蛍だったと、今一度この世に生まれ落ちたかのように理解して、蛍は自分の名前を噛み締めた。

 ■ ■ ■

 明け六ツになって蛍は紫金太夫と共に、群玉楼から帰る鍾離と魈、それに詩人を見送った。  詩人はすっかり前後不覚で泥酔していたが、鍾離が眉間に皺を寄せながら担いで帰っていった。恐らく大門の外で駕籠に乗るのだろう。  独自の法によって縛られた花街は、遊女の足抜け防止に数々の決まりがある。大門の中に駕籠が入れないのもその一つだ。いかに身分の高い客人であっても、大門の外に出るまでは歩かなければならない。

「蛍、お疲れ様」

 見送りが済んでやっと安心したように肩の力を抜いた蛍を見て、刻晴が労いの言葉を掛けた。

「若旦那様、昨夜よりも良い顔で帰っていったわね」 「そうでしょうか?」 「ええ、よく頑張ったわ」

 蛍自身もそんな気がしていたのだが、改めて褒められるとなんだか照れる。  誤魔化すように着物の袖を弄りながら、蛍はちょっぴり澄まして返した。

「刻晴さんの指導のおかげです」 「そうね、姉女郎として鼻が高いわ。さあ、一眠りして体を休めましょう」

 妓楼の生活というのは、ほぼ昼夜逆転だ。特に今日のように一晩中起きていた場合には、朝から昼のうちに寝ておかないと、今夜の営業に差し支える。  さっさと自室に引き上げていく刻晴と同様、蛍も禿たちが生活する相部屋へと戻り、急いで眠りについた。

 よほど疲れていたのか、蛍は泥のように眠った。結局蛍が目覚めたのはお昼前で、少々寝過ごしてしまった。  同じ部屋の禿たちからお湯が沸いていると聞いたので、湯浴みをして身支度を整えてから、食事をとることにする。

 一通り身綺麗にして、動きやすい普段着用の着物姿で蛍が厨房をのぞくと、香菱が作った昼食が並んでいた。

「おはよう、夜光さん! 今日もたくさん食べてね!」 「ありがとうござりんす」

 蛍に気付いた香菱が、元気良く挨拶してきた。  香菱は群玉楼の厨房を一人で切り盛りしているので、今もばたばたと忙しそうに厨房内を動き回っている。お客用の料理はもちろんのこと、遊女や下働きの者たちの日々の食事も含めて、すべて香菱が用意してくれているのだ。

 蛍が群玉楼に来てからの一番楽しみは、食事だと言っても過言ではない。  香菱は自分の料理を食べてくれる人は皆友人だと言って、誰にでも分け隔てなく接し、蛍にもいつも気軽に話し掛けてくれる。料理の味だけでなく、そんな香菱の人柄もまた、この時間が心地良い理由の一つだった。

 蛍が香菱の料理に舌鼓を打つ間、食堂に他の遊女の影はなかった。遅がけに来てしまったから、もう皆食べ終わっているのだろう。香菱も今夜の営業用の料理を仕込んでいる様子だ。  しかし廊下の方が俄かに騒がしくなり、何やら要領を得ない会話が聞こえてきた。

「ほんに身請けでありんすか?」 「誰のことだかわかりんせんけど、まだ新造出しも済んでないと楼主様がおっせえすのを聞きんした」 「さっきわっちが見たとき、確かに金子が見えんした。それもたんまりと」

 そんな会話をしながら、遊女たちが慌ただしく廊下を走っていく姿が見えた。蛍は最後の一口を口に放り込みながら、不思議そうにそれを見送った。  遊女たちが向かった方向を見るに、お客を迎え入れるための表の玄関の方が、騒がしいようだ。

「なんだろう?」 「ごちそうさまでありんした。ちょっと見てきいす」

 香菱も騒ぎに興味津々の様子だったが、夜に向けての仕込み真っ只中の今の時間、厨房を離れることもできないのだろう。首を伸ばして廊下の方を見ている。  なので何かあれば教えるという旨を伝えて、蛍も玄関へと向かった。

 足を進めながらも蛍はふと、思い出した。  ああそう言えば、魈から借りた手ぬぐいを洗濯して、皺を伸ばしてきちんと返さなければ、と。それがいつになるかも、もう一度来てくれる可能性があるのかもわからないけれど。

 そう思い至ると、あれっきりでもう会えない、というのは嫌だと思った。この境遇から現実逃避するように彼に甘える気持ちが、ないわけではない。  それでも、ただ純粋にまた名前を呼んでもらえればという気持ちが何より大きい。あの声でまた、蛍と呼んでくれるだろうか。  そんなことを考えているとなぜか顔に熱が集まるのを感じて、誰も見ていないのに気恥ずかしくなって、蛍はそれを振り払うように頭を振った。

「いくら璃月屋でも、物事には順序というものがあるわ」

 蛍がようやく玄関に到着すると、凛とした声が響いた。それは凝光の声だった。  普段客の対応など実務的なことは甘雨がこなしているのだが、珍しく凝光が玄関先で仁王立ちになって客の対応をしている。  甘雨は静かに凝光のそばに控えて、凝光と客のやり取りを見守っているようだ。

 玄関には花魁や新造、禿たちだけでなく、下働きの者たちまで集まって、一種の見世物のような様相だ。人垣のせいで、さほど身長の高くない蛍には誰がいるのか、何が起こっているのかよくわからない。  ようやく一瞬割れた人垣の隙間から、凝光がいるであろう辺りを覗き込んでみると。

「……え、魈!?」

 そこには今朝方まで一緒にいた、あの璃月屋の若旦那・魈の姿があった。凝光と話をしていたのは、彼だったのだ。

「金子ならばこの通り、用意してきた。花魁の身請けにしても十分な額だろう」 「あなたのその誠意は本物と受け止めるわ。でも、彼女は私が手に入れたばかりの金の卵。そう易々と渡せなくてよ。そもそも、突き出しも済んでいないのに身請けだなんてという話よ」

 なかなか話が見えないが、魈は誰かを身請けしようと金子を用意してきたようだ。  それに対して凝光は、遊女としてまだ一人前になっていない、これから稼ぎ頭になるかもしれない者を渡すものかと主張している。

 そんな二人の会話を聞いて、蛍の心は少しつきりと痛んだ。たった一晩お酌をさせてもらったくらいで、なんと厚かましいのだろうと自嘲してしまう。  ちょっと優しくしてもらっただけではないか。あの優しさは本物だろうが、それが何も自分だけに向けられるものだとは限らない。むしろあんなにも優しい人であれば、他に素敵な女性がいてもなんら不思議はない。  一体相手は誰なのだろう。彼に名前を呼んでもらえる、幸福な女は誰だろう。あの声でどんな名を紡ぐのだろう。

 ついさっきまでふわふわとした心地で、借りた手拭いの洗濯なんて考えていたのが、馬鹿らしくなってくる。別に涙が出るようなことはないが、蛍は胸の奥が冷えていくのを感じた。  だが冷静な頭で思い返せば、魈は昨日初めて花街に来たと、璃月屋の旦那・鍾離が言っていたような気もする。  そうなると懇意にしている遊女がここにいるというのも、妙な話だ。矛盾を感じて、蛍が首を傾げていると。

「夜光の身請けは、お断りするわ」

 凝光の張りのある声が、玄関に反響した。

「……え?」

 凝光が口にした名前と、思わず漏れた蛍の声に、周囲の視線が一斉に集中する。  蛍は数多の視線に串刺しにされて息を飲み、自分の喉からひゅっと情けない音がするのを聞いた。  言い合いをしていた凝光と魈もまた蛍の存在に気付いたようで、二人分の鋭い眼光がさらに蛍を射すくめて、蛍はもう指一本動かせなくなってしまった。

「夜光、お前を身請けしに来た」

 蛍をまっすぐに見つめると、魈は堂々と言ってのけた。  聞き間違いではなく、本当にまさか自分が。仰天しすぎて、蛍は何の反応も返せない。

「だから、楼主である私がお断りすると言ってるのよ」

 固まっている蛍をよそに、負けじと凝光が魈に言い返した。  両者の主張は平行線である。  眦を吊り上げた二人がしばらく睨み合いを続けた結果、群玉楼の玄関は溺れそうなほどの緊迫感に満ちている。野次馬も含め、誰一人として動かず、言葉も発さない。

 静寂を打ち破って先に動いたのは、魈だった。凝光を睨んだまま、挑発するように口を開く。

「まったく、楼主殿は頑固だな」 「それは褒め言葉ね」 「そうか……うむ」

 ひとつ頷いて、魈は言った。

「ならば今後は、我が夜光のすべての夜を買おう」

 まだ日も高い花街で。魈の言葉は群玉楼を、否、花街全体を揺るがせた。  こんなことは前代未聞である。一人の遊女を独占するがため、毎夜買うなど。  野次馬たちはその言葉で、堰を切ったように一斉に騒めき始めた。

「な、何を言って……」 「言葉の通りだ。我が毎晩、夜光の座敷を買う。他の客は入れさせない」

 さすがの凝光も驚きのあまりか、平素の余裕ある表情は消え失せ、当惑の色を浮かべている。

「遊女を買うのは、何の問題もないだろう?」

 勝ち誇ったように、魈は凝光を見遣った。  今一度野次馬たちも押し黙り、誰もが凝光の答えを待った。この前例のない主張に、どう返すのかと。

「……ふふ、そうね」

 凝光の静かな笑い声が、玄関に響いた。

「それならば歓迎するわ、若旦那様」

 いつもの余裕ある微笑を取り戻した凝光が、満足げに首を縦に振った。  つまり今この瞬間、凝光は蛍の独占権を魈に売ったのだ。

 成り行きを黙って見守っていた甘雨は思った。恐らく凝光の中で弾かれた算盤が、大きな儲けに繋がるとの結論を出したのだろうと。  身請けはまとまったお金が妓楼に入ってくるが、それっきりだ。その後の儲けには繋がらない。それよりも毎晩大金を支払うと確約された方が、妓楼の取り分は大幅に増える。経営者としては、こちらの方が断然おいしいに決まっている。

「また夜に来よう。ひとまずこの先ひと月分の金だ。取っておけ」 「確かに、頂戴いたしました」

 魈は事もなげに大金を凝光に渡すと、そのまま踵を返して群玉楼から出ていく。  凝光は先ほどまでの魈との争いが嘘のように深々と頭を下げて、その背中を見送った。そしてようやく我に返った野次馬たちも皆、凝光に倣って頭を下げた。  金子を持つ者こそがこの街を統べる、それを示した一場面だった。

「ま、待ちなんし! 若旦那様!」

 金縛りから解かれたように、やっと体の自由を取り戻した蛍が声を上げた。周囲のように頭を下げることなく、慌てて草履を突っ掛けて魈を追いかけようとする。

「夜光、花街の外に出てはいけませんよ」

 甘雨の注意する声が聞こえた気がしたが、今の蛍はそれどころではない。なりふり構わずに群玉楼を飛び出した。

「待って、魈!」 「また夜に来ると言っただろう」

 花街の入口である大門の手前で、蛍はやっと魈に追いつくことができた。  商人というのは時は金なりと考える人種で、歩くのが速いと聞いたことがあったが、本当に速かった。蛍が息を切らしているのに対し、魈の呼吸は穏やかだ。

 足を止めて振り返った魈は、仕方のないやつだと言いたげな顔をしている。  魈の表情は相変わらず乏しいのに、蛍はなぜかそんなことを察してしまった。図々しいことに、なんだかもうずっと前から知り合いでいるような気さえするのだ。  たった一晩の、客と遊女という関係なのに、妙な情が芽生えていることはもう否定のしようがなかった。

「だって、急に身請けだなんて……」 「何か問題でもあるのか?」 「……あんな大金、問題に決まってる!」

 魈は金額の大変さをわかっていないのか、まるでちょっと駄菓子を買っただけだとでも言いそうな調子で、首を捻っている。  これが大店の力なのだろうか、なんという経済力だろうと蛍は恐ろしくなってきた。  けれどももっと重要なのは、金額ではなく。

「私なんかに、なんで……?」

 突然の展開にまだまとまらない頭で、蛍は懸命に言葉を紡いだ。  どこの世界に、知り合って一晩の人間に大金を注ぎ込む人間がいるというのだ。その疑問が何より大きかった。  遊女を気に入って繰り返し通う、というのであればわかる。花街ではよくあることだ。  しかしいきなり身請けしようとして、駄目ならば座敷を独占するという強引な話は聞いたことがない。それは蛍がまだ、花街のあれこれに明るくないからではない。そんな横紙破りな話は、この世のどこにもないからだ。

「興が乗っただけだ」

 魈は蛍の疑問に真面目に答える気がないのか、何ともぼやけた言葉しか口にしなかった。  だが蛍は諦めず、じっとりとした眼差しで魈を睨む。しかも逃がさないとでも言いたげに、魈の袂を掴んで離さない。  しばらく蛍に睨まれて観念したのか、魈は少しだけ言葉を足した。

「酒と料理が気に入った」 「そうかもれないけど……」

 それもあるかもしれないが、それはきっとほんの一部に過ぎない。昨夜だって、大して飲み食いしていなかった。それに何より、身請けを申し出たり、座敷を買い占める理由にはならない。  本当に、嘘が下手な人だ。

 蛍が魈の行動の理由を知りたいと思うのは、何らおかしなことではないはずだ。なぜこんなにも自分を気に掛けてくれるのか、気になるに決まっている。  昨日は無粋なことと思って何も聞かなかったけれど。そちらが普通の関係を強要するのであれば、普通の関係であれば当然尋ねるであろうことを聞く権利が、蛍にはあるはずだ。

「教えて」

 蛍は魈に詰め寄り、その袂を一際強くぎゅっと握って食い下がった。  しかし魈は顔色一つ変えず、相変わらず何も話す気はなさそうにしている。黙って蛍を見返すだけだ。

 このままでは埒が明かない。  仕方なく、蛍は自分の方が先に心の内を明かすことを覚悟した。  どきどきと煩い心臓を宥めるように一呼吸してから、意を決して口を開く。

「……私、期待しちゃうよ」

 頰を朱に染めた蛍が、少し背の高い魈を見上げるようにして言った。

 だって、こんな展開は期待してしまう。自分がまた会いたいと、また名前を呼んでほしいと思うように。目の前の飄々とした若旦那もまた、もしかしたら自分との逢瀬を望んでいるのではないかと。  知り合ったばかりの相手にこんな期待を寄せることの下らなさを自覚しながらも、その期待を振り払うことができない。  はっきり引導を渡してくれなければ、きっともっと自分は付け上がる。

「……」

 戯言だと切り捨てられることも覚悟していたのに。魈は蛍の言葉が意外だったのか、瞠目して硬直していた。  しかし固まりながらも、確かにまっすぐに蛍を見つめ返している。南天の太陽の光を受けて、きらきらと輝く金色の瞳で。  ああやっぱり、綺麗な人だなぁ。この状況でもそんなことを考えて見とれてしまうのだから、たった一晩で随分と自分は絆されたものだと思う。

 魈はやがてはっとしたように瞬きすると、落ち着かなさそうに視線を彷徨わせてから、蛍と同じ朱色を僅かに頰に乗せた。  そして困ったように眦を下げながらも、蛍と同じく意を決したように一呼吸して。ほんの少し柔らかく目を細めてから、薄い唇を動かして言葉を発した。

「……そう思うなら、期待しておけ」 「……へ?」

 思わぬ返答に、蛍は間抜けな声を出してしまった。  魈は袖を握っていた蛍の手をやんわりと解くと、そのまま蛍の頭に手を乗せて、ぽんぽんと軽く叩いてきた。まるで、我儘を言う子供を宥めるように。

「ではまた、蛍」

 何を考えているのかわからない乏しい表情の若旦那に戻って、魈はそのひと言で以って今度こそ花街を去っていった。  蛍の望みを知っているかのように、最後にその名を呼んで。ふらりと大門の外へと消えていったのだ。

 残された蛍には結局何が何だかわからなかったけれど、また会えることは確かだ。また、蛍の名前を読んでくれることも。  期待してもいいという言葉は、下手くそな嘘ではないと思った。

ならば、すべての夜を買おう
妄想とノリと趣味が全開の遊郭パロディです!
配役などはテイワットでの設定をできるだけ生かすように努力しましたが、世界観の都合上、名前の呼び方や話し方などいじっています。
色々好き勝手に書いておりますので、ご注意ください。

一応続きを書く意欲があるので、シリーズにしておきました。気長にお付き合いいただければ幸いです!
実は終わりが見えないままに見切り発車してしまい、この後どうなるのか私にもわかりません。ハッピーエンドにはするつもりです。

それからいつもブクマやコメント、ありがとうございます!
自分から人と交流するのは苦手なのですが、構ってもらえると大変嬉しいです!!
プロフィールにマシュマロとTwitter置いてますので、よろしければ気軽に絡んでくださいませm(_ _)m
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7909588462
2021年7月20日 12:58
藤花

藤花

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