カラカラ
Caracalla; Marcus Aurelius Severus Antoninus
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カラカラ
(Caracalla) ローマ皇帝(在位
二一一‐二一七)。
マルクス=
アウレリウス=
アントニヌス。父帝の没後、弟を殺害し、独裁権力を確立。「
アントニヌス勅令」を発して、帝国の全自由民に市民権を与える。東方遠征の途次、部下の反乱によって殺された。(
一八八‐二一七)
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カラカラ
ローマ皇帝(在位211年―217年)。212年,帝国内の全自由民にローマ市民権を与えた(アントニヌス勅法)。またカラカラ浴場など大建築事業をおこすなど浪費家として知られ,第二のアレクサンドロス大王をめざす幻想をいだき,東方遠征中暗殺された。
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カラカラ(Caracalla)
[188~217]ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスのあだ名。彼が用いたケルト人の衣服にちなむ。在位211~217。帝国内の全自由民にローマ市民権を与え、カラカラ浴場など、大建築事業を行う。東方遠征の途中殺された。
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カラカラ【Caracalla】
188‐217
ローマ皇帝。在位211‐217年。カラカラとは,彼がローマに持ち込んで着用を流行させたケルト人の外套にちなむあだ名であり,正式にはマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌスMarcus Aurelius Severus Antoninusと呼ぶ。セプティミウス・セウェルスとユリア・ドムナの長子として生まれる。父帝の在位中,弟ゲタとともに共同統治者となるが,父帝の死後,兄弟の間がらは悪化し,母后の尽力にもかかわらず,212年,彼は弟帝とその与党2万人余りを殺害してローマ帝国の単独の支配者となった。
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世界大百科事典内のカラカラの言及
【ローマ】より
…スコットランドの領有は無理とみてそこからすべての軍を引き上げた。彼の息子カラカラ(在位211‐217)は父の政策を受け継ぐとともに,212年帝国の全自由民にローマ市民権を与える勅法(カラカラ帝告示)を発して,従来のイタリア人と属州人との支配・被支配の関係をなくした。しかし,アラマンニ族とゴート族はドナウ国境を脅かしていた。…
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