私は14年の長きに渡り「その方」から「嫌がらせ」を受けてきました。
そして『障害者』になりました。人生滅茶苦茶にされました。
しかし、「その方」は「自分がした私への嫌がらせ」を全く反省していないどころか、「嫌がらせ」とすら思っていないのです。
昨日も書きましたがまさにこの状態(症状)こそ「サイコパス」そのものであり、それ以外の何物でもありません。
M警察もABBAファンも「その方のサイコパス度」はわかっていながら、「私が逮捕」されそうになっているのに「見て見ぬふり」しているのはあまりにも「卑怯」に思えますが、いかがでしょうか?
M警察も、「家宅捜索命令」を出した「裁判所」も「人間」ですから「間違い」は必ずあるわけです。
今回の事件こそまさに「間違い」「誤認」でありますが、彼らは「自分たちがしてしまった誤認」を今更「撤回」するわけにはいかず、私の今後を「検察」に委ねました。
私の巻き込まれた事件がこんなに長引いている背景には「今日、7月7日から法律が変わる(った)」ことに起因していると思われます。
【NHK 侮辱罪の法定刑の上限引き上げ きょう施行 背景にネットの中傷2022年7月7日】にもきちんと書いてあります。
改正刑法の一部が7日施行され、人を侮辱した行為に適用される侮辱罪に、新たに懲役刑と禁錮刑、罰金刑が加わり、SNS上でのひぼう中傷など、悪質な行為への対処がこれまで以上に厳しくなります。
先の国会で成立した改正刑法のうち、SNS上でのひぼう中傷など、公然と人を侮辱した行為に適用される侮辱罪の法定刑の上限を引き上げる規定が、7日施行されました。
具体的には、これまでの法定刑は「30日未満の拘留」か「1万円未満の科料」でしたが、その上限を引き上げて「1年以下の懲役・禁錮」と「30万円以下の罰金」を新たに加えたことで、悪質な行為への対処がこれまで以上に厳しくなります。
また、法定刑の上限の引き上げに伴い、時効も1年から3年に延びるため、犯罪の抑止効果に加えて、加害者の特定に時間がかかるとされるSNS上での投稿の捜査に、必要な時間をかけられるという効果も期待されています。
法務省は先に全国の検察庁に通達を出し、公正な論評など正当な表現行為については、これまでどおり処罰されないことに留意し、個別の事案に応じて適切に判断することなどを求めました。
つまり「私は逮捕」の可能性がより高くなったことを示しています。
こんな滅茶苦茶なことあっていいのでしょうか?
過去に司法、警察は、私たちのような「弱者」「障害者」の「誤認逮捕」「えん罪」をたくさん露(あら)わにしてきました。
なのに彼らは「誤認逮捕」しようが「えん罪」になろうが絶対に「司法も警察」も「謝罪」しません!
私たちにはさんざん「法律」で縛っておきながら、彼らが間違っても「何の罪も背負わなくていい」と言うのはあまりにも「不公平」に思います。
ですが、ここに「私たち国民」、いやメディア、国会議員、司法、行政、TVのコメンテーターたちの「大きな勘違い」が潜んでいることを誰も気が付きません。
「憲法」と聞くと恐らく99.99999999%の人が「国民が守るべき最小限度の決まり」と答えることでしょう。
しかし、その考えは100%%間違っています!!!
「憲法」とは国を司る「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」に対して「これだけは守ってほしい」と「国民」から約束させる決まりであり、彼ら・彼女らはそれを遵守しなければなりません。
つまり「憲法」を守るのは「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」に充当している人間であり、その代わりに彼らは「法律」を作成し、「国民」に突き付けてきます。
しかしどういうわけか、日本では「憲法」も「法律」も両方とも「国民」に押し付けられ、「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」に携わる人たちは好き放題、自由なことをしています。
つまり本来「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」が守るべきはずの「憲法」を「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」は遵守していないのです!
これにより日本ではたくさんの「弱者」や「障害者」が虐められ、「えん罪」にあっても「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」は「見て見ぬふり」をし、「弱者を排除」が後を絶ちません。
またわが国では毎年3万人の自〇者が出ております。先進国の中でこんなにも自〇者が多いのは日本だけです。
1990年頃から「憲法改正」とりわけ「憲法9条改正」の議論がメディアを交え、日本では多岐にわたり論じられますが、それを論じる前に「日本国憲法を守るのは誰か?」という議論が抜けています。
【LIVEDOORNEWS】では筆者の意見同様「憲法は国民が守る為に作られたのではない」の結論を呈しています。
日本人は憲法を守る必要がないといったら驚くかもしれませんが、これはまっとうな思考法です。
なぜなら憲法は守るものではなく、守らせているものだからです。
◆国民から国家への要請
日本国憲法には国民主権が定められています。これは私たちが作り上げたものということです。
憲法は国民から国家への要請です。逆に国家から国民への要請は何かといえば法律です。法律には違法な薬物を使用してはいけない、人を殺してはいけないといったことが、事細かに定められています。さらに、毎年改正もなされています。
すべての法律は憲法の範囲内で定められていなければいけません。裁判所は法律を作る国会に対して違憲立法審査権という権利を有しています。これにより憲法に違反する法律は作れないようになっています。
主権者である国民の生命や財産や人権などがおびやかされないような法律が憲法の要請によって作られる、ということになっているのです。
◆憲法を守る義務などない
そのため国民に憲法を守る義務はありません。ただし99条に、公務員の憲法遵守義務が定められていますので、地方公務員や国家公務員には憲法を守る義務があります。
ただし、憲法を守らなくていいからといって法律を守らなくていいということにはなりません。さらに、社会的な価値観、規範を守ることも憲法以前の段階として必要とされるでしょう。
つまり私たちが「司法」「立法」「行政」及び「検察」「警察」から「お前は××の罪だから逮捕するよ」と言われても、それが「行き過ぎ」「誤認」「えん罪」である場合は「憲法」をもってして、彼らに「反論」できるわけです。
今回の私が巻き込まれた事件の場合は、「憲法」で言えば、いくつかの条文で「反論」できることになります。
*詳細は以下の私の書籍に記載してあります。
◆第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
<現代語訳>
人権は、憲法や天皇から恩恵として与えられたものではありません。人間である、ただそのことだけで当然に誰でも保障されるものです。「与へられる」という表現も比喩的にいえば天や自然から与えられたもの、つまり人間が生まれながらに有するものであることを意味しています。また、「侵すことのできない永久の権利」とすることで、一定の限界はあるものの原則として、あらゆる公権力や憲法改正によっても侵害されないものであることを示しています。
さらに「国民」とありますが、これは外国人も含めてこの国で生活するすべての人という意味です。人権が人の権利である以上、権利の性質上適用可能な人権規定はすべて外国人にも適用されると解されています。人(human)として正しい(right)ことを意味する人権(human rights)は、西欧近代キリスト教社会という枠を超え、このアジアの国で私たちが主張することでまさに普遍的な価値としての意味を持つことになるのです。
◆第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
<現代語訳>
人権が生まれた国イギリスでも当初、人権はイギリス人の権利でしかありませんでした。フランス人権宣言ですら、そこでは男性しか想定されていません。つまり、人権は、歴史的に見れば人類の普遍的な価値ではありませんでした。人類が過去幾多の試練の中から勝ち取り、普遍的な価値であるべきだと主張し、拡大し続けてきたものなのです。ですから、私たちが権力などの強い力を持ったものに対して人権を主張し続けなければ、人権など消えて無くなってしまいます。私たちが日々の生活の中で主張し続け、実践し続けることによってやっと維持できるものなのです。
もちろん、他人に迷惑をかけたり、自分勝手が許されるわけではありませんから、公共の福祉のために一定の制限は受けます。この「公共」(public)とはpeopleと同じ語源を持つ言葉であり、人々を意味します。けっして天皇や国を意味する「公」や抽象的な国益のために人権制限が許されるわけではありません。
◆第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
<現代語訳>
人権は、近代市民革命を経て、特定の身分を持った人の特権から、一人ひとりの個人の人権へと発展してきました。個人に着目することこそが近代憲法の本質なのです。あくまでも個人のために国家は存在するのであって、けっして国家のために個人があるのではありません。誰もがかけがえのない命を持った具体的な個人として尊重されます。お互いの違いを尊重し合い、人種、信条、性別などを越えて、多様性を認め合う社会を憲法はめざします。
幸福の中身もそれぞれ違っていいのであり、ゆえに憲法は幸福権という人権を保障していません。自分が決めた幸福を追い求める過程を幸福追求権として保障したのです。自分の幸せは自分で決める、つまり自分の生き方やライフスタイルは自分で決めることができます。これが自己決定権です。自分に関する情報は自分で決めて管理したい。これがプライバシー権です。こうした新しい人権は本条で立派に保障されています。
◆第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有する。
<現代語訳>
自由と並んで平等は近代憲法の基本原理の一つです。日本国憲法は平等原則を定め、特権的な制度を禁止することで平等を徹底しようとしました。本条により人々は権利として平等を主張することができます。この平等は、事実上の差異を考慮して法律上違った扱いが許される相対的平等です。人は皆違うのですから、それぞれの個性に着目して違った扱いになるのは当然ともいえます。しかし、どのような違いに着目してどのような違った扱いを認めることが合理的なのかの判断はそう簡単ではありません。
また「国は人々に活動の機会を保障して自由競争に任せておけばよく、結果の不平等は自己責任である」というかつての近代国家の考えは、格差社会を広げるだけであり不十分です。社会的・経済的不平等を是正して実質的平等を実現することも現代国家の重要な役割のひとつとなっています。自由でフェアな競争はあくまでもその前提が保障されてこそ可能なのです。
◆第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
<現代語訳>
人は誰もが自分らしく生きる権利をもっています。自分らしく生きるためには、それぞれの人生観や世界観など心の内面について国や社会から干渉されないことが必要となります。そこで憲法は、人の内心におけるものの見方ないし考え方の自由を思想・良心の自由として保障しました。よって特定の思想の強制や、思想を理由とする不利益な取り扱いは禁止されます。
また、思想を強制的に告白させたり推知したりすることも禁止します。日の丸、君が代についてどう感じるか、愛国心を持つかどうかという問題はまさに個人の内心領域の問題であり、多数意思によって一定の考え方を強制することはできません。
そもそも憲法は、政治的な多数意思によっても介入してはいけない個人の私的領域を保障することにその本質があります。さまざまな思想統制をして国民を戦争に駆り立てていった日本の過去への深い反省から、外国には例をみない本条が生まれたことを忘れてはなりません。
◆第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
<現代語訳>
20世紀になって、福祉国家の理念の下に、社会的経済的弱者を保護し実質的平等を実現するために保障されるようになった社会権の原則的規定です。1項で生存権を保障し、2項でその実現のための国の義務を定めましたが、単に政治的道義的義務を定めたのではありません。私たちの人権としての要求に応える法的義務です。
そして国がその要求に応じて生活保護費を支給する際に、「クーラーは贅沢品だから買ってはいけない」というように、その使い道の自由を奪い、「金は出すけれども口も出す」というのでは、本末転倒です。あくまでも被保護者が人間らしく自由に生きることができるように自立を手助けすることが、その趣旨ですから、自由を伴わない福祉であってはならないのです。
また、自立支援といいながら安易な自己責任論のもとに国家の果たすべき役割を市民に押しつけることは許されません。経済の自由な競争は充実した生存権の保障があって初めて成り立つのです。
これが今、私が「司法」「行政」「警察」「検察」に反論できる唯一の「憲法に定められた権利」です!
(続く)