道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 第4回

公開日 2022.07.06
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市

 お宝発見!! 大風沢東隧道(仮称)と大風沢西隧道(仮称)


2021/1/20 8:05 

天津神明宮の石鳥居を出発したところから約1時間、距離にしてほぼ1km進んだところで、GPSの画面に表示された「現在地」は、外房線の大風沢隧道の直上にあたる山域を示していた。
そしていま、目の前には、隧道の坑口跡地が現われた。

改めて、現在の地理院地図と140年近く前に描かれた迅速測図を重ねてみると、この“最古の地形図”に描かれた「新設縣道線」の現地点までの正確性に、本当に驚かされる。
隧道こそ描いていないが、この先についても、示しているルート自体は完全に正しい予感がするのである。

さすがは、現在の地理院地図が2万5千分の1を基本としているのに対し、それ以上に精細な2万分の1で描かれただけはある。とはいえ、現在のような航空測量もない時代に、これほどの地図を描いた事実はややオーパーツ染みていて、大日本帝国の基礎情報とするべく陸軍が軍命を以て作成した地図への執念が窺われるようだ。ほんと、道以外の場所の等高線とかも凄く正確そうだけど、どのような体制で調査したんだろう…。


右図は、拡大した地理院地図にここまでのルートをプロットしたものだ。

「現在地」に隧道の坑口跡地があったということで、半自動的にその出口の位置が推測できた。
もちろん推測は推測だが、基本的に明治期の山越えの隧道は直線なので、大きく外れていることはないと思う。

この時点(=坑口跡地が判明した時点)で、大風沢旧道の隧道は1本ではなく2本だということが、ほぼ確定したといえると思う。
『歴史の道調査報告書』の記述により、外房線の大風沢隧道の内浦側坑口の奥に「崩れた隧道」があったことが判明しているが、「現在地」とこの「崩れた隧道」の擬定地を、1本だけの隧道で結ぶことは難しい。
いま目の前にしている“1本目の隧道”で南側の谷へ抜けて、そこから改めて“2本目の隧道”で内浦側に抜けるというのが、この大風沢旧道の峠越えの方法だと推定する。

明治中期以前に造られた隧道が2本も眠っているとか……、“隧道王国”房総半島とはいえ、これは大変なお宝じゃないか!
とりあえずここに2本の隧道があったとして、現時点で正式名称不明であるから、本稿内の仮称として、「大風沢西隧道」と「大風沢東隧道」を用いることにする。



坑口前にある、山中らしからぬ広い平坦地。
これは紛れもなく、隧道工事で発生したズリで谷を埋め立てて造られた、今風にいえば現地残土処分の跡だろう。
当時の峠越えの隧道だと、大抵坑口前にこういう場所があった。
そしてその土地を利用して、開通後には往来相手の茶店が出来たりしたものだが、この道にもあったかは分からない。道が短命だったなら、なかった可能性が高いかな。




隧道が通り抜けられるかどうかを確かめたい気持ちは逸っているが、おそらく見納めになる天津側の峠道を振り返っておくことも大切だ。
写真は、残土処分の坑口前広場の縁より見下ろした、いま上ってきた天津側の坂道だ。

謎多き“傾斜橋”から、隧道前広場までの道のりを、この場所から俯瞰の視点で見渡すことが出来た。
この区間の長さはおおよそ150mに過ぎないが、跨いだ等高線を数えてみると、実に30m以上も上がっているのである。
すなわち、単純計算で平均勾配20%(約11度)に達しており、これは今日ある車道としては最急勾配の悪名が高い「暗峠」などと大差のない勾配である。

利用する車が違う現代の道路と明治の道路を単純に比較できないものの、率直な感想として、隧道が掘られるような道とは思えない急勾配だ。
何か設計の段階で失敗したんじゃないかと疑いたくなるくらい、隧道の存在と、急坂の存在は、ミスマッチに思える。
いわゆる明治車道という言葉で想像されやすいのは、あの三島通庸が良く造ったような九十九折りを執拗にくり返して極度に勾配を緩めた冗長な道だと思うが、ここはもっと遙かにシンプルで短距離だ。徒歩の利用者にはこのくらいがむしろ便利だったとは思うが、車道としては、やはり落第だったのではないかと思える。
短命の理由としては、それだけでも十分な気がしないでもない。



振り返りを終了し、いよいよ隧道突破へ向けた前進を再開する。

坑口がどこにあったか、このうえなく明白な地形であるが、少しでも隧道を短くしたいという気持ちの現われであったろう、常識的に考えればいささか深くし過ぎている坑口前の掘り割りが、百年を優に超えるとみられる放置の間に、大量の土砂や倒木、瓦礫を逃げ場なく堆積させてしまい、肝心の坑口を全く埋没させてしまっているようである。
これはいっときの災害による埋没というよりは、本当にただ砂時計の砂が落ちるような緩やかさで時間をかけて埋められた雰囲気があった。坑口上部の地形に大きく崩れた形跡がないからそう思うのだろう。

しかし、私はまだ諦めていない。

この遠景からの逆転勝利は、まだあると考える。
いままでも、何度もそういうことがあった。
遠目には完全に埋れているように見えても、近づいて見ると人が潜り込めるくらいの開口部が残っているケースは、案外多いのである。




坑口前の路面……とはもう言えそうにない荒れた地面に、思いがけないものが落ちていた。
碍子である。二つまとめて落ちていた。

片方の碍子には、社紋らしきマークと一緒に「1937」という数字が書かれており、製造年の西暦である可能性が高い。すなわち昭和12(1937)年ということであれば、この道が明治期のうちに早々と廃止されたという従来の印象(←確定した情報はないが明治36(1903)年の地形図で既に道が消えていることなどがその根拠である)とは異なり、昭和戦前期まで使われていた可能性を示唆するかもしれない。

おそらくこの道に沿って電線のインフラが敷設されていた時期があったということなのだろうが、だとしても隧道内を電線が通っていたのか、山の上を越えていたのかは分からない。仮に後者ならば、道としては既に廃絶していたとしても矛盾はない。




凄い景色じゃないかこれ! →

いままで真っ正面から見た坑口跡地の切り通しを見てもらっていたが、敢えて軸線を外れて斜めから見ると、こんな景色である。
この方が切り通しの奥行きや高さのスケール感が伝わるだろう。
ただならぬ深さと高さになっているのである。まるで、巨大な地割れのようだと思う。

これほど深い切り通しを設けずに、直ちに地表から隧道としても良さそうな地形に見えるのだが、隧道を短く済ませたいという当時の技術者の願いは、それほどまでに強烈だったのかも知れない。
切り通しは、上部の地表より人海戦術で掘り下げていけばいずれは完成するから、技術的には隧道掘鑿よりも容易いのだろうが、こんなに深くなれば労力としてはより大変だったと思う。しかも地質がほとんど岩盤なんで、ほんと大変そう…。


(←)
それではこれより、坑口へ繋がる切り通しの内部へ進行する。

奥行きは15mくらいあるな。
両側の壁の大半部は岩盤が露出しており、70度くらいの鋭い切り立ち方をしている。
そんなだから重力に任せて落ちてきた倒木も土砂も堆積する一方で、ご覧の有様になってしまっている。

でもまだ諦めてないぞ!





ぐぬぬぬぬ……

無情にも、奥へ進むほど堆積物の嵩は急激に増しており、
サイズ不明の隧道断面が露出する限度を越えているのは明白だった。

しかし、終点のコの字型に切られた岩盤自体にはほとんど崩れている様子がないので、
岩盤に守られた坑口は、堆積物に埋れているだけで崩れず残っていそうな気がするのである。

そして、まだ諦めてない…!




まるで滝のような規模と外観を持った坑口の状況に、神妙な気持ちになった。
滝のように見えても、これをゼロから作り出したのは全て明治の人々の手作業なのだ。

特に坑口直上の正面の法面は高く切り立っており、目測で20mは掘り下げられている状況だ。
これが採石場とかならまだ分かるが、石切鋸ではなく鶴嘴や鑿で削ったに違いないゴツゴツとした岩面は、
隧道を作るという目的のためだけに、ほとんど尾根の近くから掘り下げた凄まじい労力を物語っていた。

まだっ! まだ開口の可能性はあるはずだ…!




あってくれぇ……





無念ッ!


開口部は残っていなかった。


この段階で隧道貫通の可能性は潰え、探索継続のためには、
目前の大変鋭く切り立った尾根を、肉弾戦によって突破する必要を生じた。
決して無理なことではないだろうが、大仕事になりそうだ。



結構、惜しかった感じはするんだけどなぁ……。



8:09 《現在地》

埋没した坑口を背に振り返る、天津側の坑口前空間。

廃絶の推定年代を考えれば、もっととんでもなく分かりづらく埋没していても諦めは付いただろうが、
よもやこれほど、こんなに「惜しいッ」と思えるくらい鮮明に残っているとはな。これは期待以上だ。
だがその分、悔しいな。惜しいせいで、悔しさが強い。

重機でも持ち込んで、ここのさほど硬くもなさそうな土砂を全て撤去したら、
140年前の隧道がペロッと出て来そうな気がするぜぇ? 
隧道で町興ししてぇしてぇしてぇよぉー!って人々がいたら、後を任せたいぞ。

まあ、このあとで反対側の坑口へ行って、開口していて、
内部が確かめられれば、いいんだけどな…、どうなるかな…。




…………。




(2分経過)

表層は、落葉。




(9分経過)

表層の下は、柔らかな腐葉土層。

掘っても、掘っても、土の層。




(11分経過)

抜けたッ!

土を突き刺し続けた棒の感触が、唐突に抜けたッ!

地中に空洞が残存していることを、感触により確認した。




(13分経過)

空洞を目視にて確認!!!

この築140年級の隧道は、地中に空洞を未だ温存していることが確定した。

しかも、その空洞までの深さは1mに満たない程度である。




(15分経過)

作業終了のお知らせ。

空洞の存在を確認するために、針穴程度の穴を通すだけなら、道具なしでもこの程度の時間で出来たが、

この穴を拡張し、人間が出入りしうるサイズに広げることは、探索を壊滅させるだけの時間を要するはずだ。

また、仮に穴の拡張に成功しても、単独でこの手の自作穴へ入るのは危険すぎるので自重したい。




(16分経過)

閉栓完了。

せっかくのスルーホールを維持すべく、適切な太さの棒杭を突き刺して現地を離れた。

おそらく数年程度は、この棒杭によって穴が維持されると思う。




8:35 当地を離れることにした。

“沈黙の岩門”その内部に、久方ぶりの光明を注ぐ、

小さな楔を打ち込むことには、辛うじて成功した。

だが貫通に至らず。



振り返って考えると、やはりこのような木の棒だけで内部の空洞を探り当てられたのは、作業時間の短さを考えても、かなり珍しい事象であったと思う。
隧道自体が大きく崩壊していなければ、掘り出せば空洞が出てくる。それは当然のことではあるのだが、だいたいの埋没隧道で坑口を埋めている土砂というのは、落下の衝撃で圧密され続けた瓦礫や、濡れた土砂であることが多く、短時間で1m近く棒を射すということは、まず不可能である。
今回それが叶ったのは、堆積物が乾いた枯れ木や腐葉土であり、それほど圧密されていないせいだった。

やはりこの坑口が埋没した経緯というのは、災害のような土砂の崩壊ではなく、砂時計の砂が落ちるような時間をかけた静かな埋没だったのだと思える。
これならば、重機などはなくても、3人×6時間程度の作業で、洞床に達するまで貫通させられる気がする。(それなりに大きな倒木とかも埋まっているだろうから、1人作業では時間をかけても厳しいだろう)
この隧道への再入洞は、比較的に現実的な挑戦ではないだろうか。次回房総遠征時とか、やってみるかな……。