キングズクロス駅のプラットホーム。
もう五年目の九と四分の三番線は、しかし今年は大きく雰囲気が一変していた。
〝マグル〟側は相変わらずの日常のようだったが、魔法族がたむろする側は違う。
この魔法界が既に戦時下に在るという現実を受け止めている人間はやはり少数派らしかったが、それでも最低限現在が異常事態であるという認識をしている魔法族は、ダイアゴン横丁よりは多いようである。
それは別に不思議でもなんでもなく、安全措置が施されていた筈の試合で
僕がホグワーツ特急に乗り込もうとしている際も、乗り込んだ後に窓から観察していた間も、プラットホームのそこら中で多少大袈裟とも思える家族の別れと、また喧嘩未満の口論が繰り広げられているようだった。
更に今年特徴的だったのは、散見される各集団の人数だったかもしれない。
プラットホームで友人達を待っていた集団も、各コンパートメントに座った団体も、各々の構成人数がやけに少ない。一言で表現するならば、今年は細分化されている。そしてそれは現在の魔法界が分断されている事の反映だった。
闇の帝王の復活を信じる者達と信じない者達。
それまで友人関係で有った者同士でも、親の仕事や自身の有していた思想の差異により、去年まで存在していなかった対立と不和が生じている。故に、例年通りに友達として待ち合わせる事が出来ないし、ホグワーツまでの列車旅を共にする事が出来ないのだろう。コーネリウス・ファッジ大臣の誹謗中傷の成果がそれなりに現れているという証明でも有る。
他方、一集団の構成人数が変わっていない、寧ろ増えているようなのはスリザリンか。
元々集まる傾向が有り、去年の件で一部からは拒絶反応まで示され始めたらしいスリザリンは、始業一日目から早くも寮内での結束を高めようとしているようだ。
しかもチラリと横目で見た限り、彼等の集団は例年の派閥――死喰い人の親を持つ人間が殆どである〝
もっとも今の僕は、そんな彼等に合流する気になれなかった。
適切ではないと解っていても、その手の政治ごっこに興じる気持ちの余裕が無かったのだ。
未だ新学期は始まってすらいないにも拘わらず、既に憂鬱で、気怠かった。
確かに今年の夏休暇中は忙しく、疲れる毎日ではあった。変わらぬ礼儀作法の講習に始まり、こんなに頻繁に開催していて良く飽きないなと思えるパーティー、魔法省見学やマルフォイ家の得意先巡りと散々ドラコ・マルフォイに色々と連れ回され、目まぐるしい日々だった。その分本を読むのに費やす時間が減った為、今までの夏休暇より有意義で有ったかと言えるかは微妙だが、少なくとも濃厚ではあったと言えよう。
だがその渦中に在った時でさえ、こんな気分にはならなかった。
既にこんな状態なのは、新学期が生徒へ運んでくる病気に由来するものか。それとも、約十一時間程前までフラーに連れ回されていたが為の後遺症か。
スリザリン生達の横を無言で通り過ぎた際に止められすらしなかったのは、今日の精神状態からすれば有難かった。彼らが声を掛けて来なかったのが如何なる理由に基づくモノで有ったとしても、自分だけの時間を確保する事が出来たからだ。
――といっても、所詮は一時的な物であるが。
一人コンパートメントに座り、ぼんやりと通路を眺めながら自嘲する。
こんな事をしていられるのも、ドラコ・マルフォイが
彼は順当に監督生となったらしく、登校駅到着後速やかに特別車両とやらに集合する事になっている――そう伝えてきたのは昨日の手紙だった。そしてそれが齎す幸運は、待ち合わせて一緒に特急へと乗り込むという友人みたいな真似をせずに済む事と、朝一で挨拶に行っても会えない可能性が高いから時間潰しをしていたという言い訳――四年の付き合いであり、単なる口実に過ぎないと彼に伝わるのは承知している――が使える事だ。
が、それは新学期の挨拶を先延ばしに出来るという事で、回避出来る事を意味しない。
新監督生の集まりにしても互いの顔合わせ等が主であろうし、ドラコ・マルフォイが最初の車両巡回担当にならない限りは、直ぐに彼はスリザリンの群れへと戻る事だろう。その際に僕が居ないというのは、被庇護者である手前、やはり具合が悪いように思える。
まあ流石にホグワーツ生活が再開した以上今夏のように殆どの時間共に過ごさねばならないという事も無く、ビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルが元の鞘に収まるのだろうが――今年は今までの四年間と色々状況が異なっているのは確かだ。ドラコ・マルフォイの御機嫌伺いと、学期が始まって以降彼がどうしたいかの把握は必須だった。
……嗚呼、そう頭で理解していて尚、〝日常〟に戻れる気がしない。
この二ヶ月それが普通となり、今後も続く事に疑問すら抱かなかったというのに、今はこうして非常に億劫だ。特急に乗っても本を開く気になれないのは初めての経験で、何もせず通路を眺める以外にやる気が湧かない。
既に特急の出発時刻が近いからか。それとも魔法界の分断によりコンバートメントを一緒にしたくない人間が増えたからか、或いは忌避され始めたスリザリンが複数の車両を丸ごと占拠しているからか。御苦労な事に最後尾車両まで席を探しに来た生徒をちらほら見掛けるようになった。
彼等はコンパートメントをドアの窓ガラス越しに覗き込み、僕の顔を見て驚きや恐怖の表情を浮かべ、僕が一人で座っているからと相席など申し込む事もなく足早に去っていく。そんな生徒に僕も声を掛ける事もなく、ただ見送る。幾度となく見送る。見送――
「…………あ」
見送った生徒の数は二桁までは行かなかっただろう。
ただ、それは今途切れてしまった。僕と視線が合ってしまったその人間は、眼を見開いて小さく声を上げ、通路の真ん中で立ち止まってしまった。
淡い銀色の瞳と、暗いブロンドの髪の少女。
生来の顔立ちの良さを台無しにする、身嗜みを整える事への無頓着さ。バタービールのコルクを繋げたネックレスを始めとする奇想天外な恰好。そして特徴的な、まるで歩きながら夢を見ているような茫洋とした眼差し。
それだけで彼女が誰であるかを特定するには十分である。接触したと言えるのは三年前に一度だけだが、それでもその名を忘れる訳が無い。
あれからレイブンクローに組分けされた女生徒、ルーナ・ラブグッドだった。
彼女との出逢い方は割と印象的だったが、それでも接点はあの一度だけだ。
あの年は確か
もっとも僕に近付かない賢明さは彼女の孤立を防ぐのに何の役にも立たなかったようではあったが、何であれ、彼女は僕に話掛けて来ようとしなかった。ホグワーツ特急での出逢いは僕の、或いは彼女のホグワーツ生活に何か変化を及ぼす事は無かった。
そして彼女が死喰い人向きの人間なら今年声を掛けようという発想に至ったかもしれないが、正直全くそう見えない。というか、その検討がそもそも頭に浮かばない位には、三年前に認識した彼女の性質は
故に今まで存在を忘却していた位なのだが――果たして何の思惑か、ルーナ・ラブグッドは通路で立ち尽くし、それまでの夢見るような気配を消し去って、その大きな瞳を一切の瞬きもさせないままに僕を見つめていた。
十数秒の停止を経て、彼女は動き出す。
視線が合ってしまったとはいえ、挨拶や会話などの友好的交流をしなければならないルールなど無い。特に今年のスリザリンの立場の微妙さなど、日刊予言者新聞や魔法ラジオのメディアに触れられる生粋の魔法族ならば重々承知だろう。だからてっきりそのまま立ち去ると思っていたのたが、僕の行動予測に反し、彼女はコンパートメントの戸を大きく、勢い良く開いた。
そして出し抜けに言った。
「あんた、ホグワーツ特急に乗ってなかった」
「…………」
僕も唐突な言葉を吐く自覚は有るが、彼女はその上を行くなと思う。
それも僕と違って意図や思惑の上で発するでは無く、非常に感情的な発言のようだ。淡い銀色をした大きな瞳からは、不安、不満、そして……憤り? 彼女自身、感情を整理し切れていないというか、持て余しているような気配を感じる。
「……発言内容から過去の事だというのは解るが、何時の事を言ってるのか解らんな」
窓枠に肘をついたまま、しかし質問を受けた身として一応誠実に答える。
「僕は短期休暇中には家に帰らないから、その事を言っているのであれば――」
「――初めて会った年度の終業日」
「…………まあ、そうだな。確かに乗っていなかった」
それは間違いないと。
夏中とは程遠い座り心地の椅子に背中を預けつつ、食い気味の言葉に頷く。
彼女の一年次。僕の二年次か。
確かあの学期末は、校長によって閉心術の訓練をさせられる羽目になっていた。要は居残りで、必然、普通の生徒が乗るホグワーツ特急に僕は乗っていない。
悪目立ちする可能性を踏まえて尚あの校長が閉心術の訓練を強いたのは、彼にとってそれ程優先させるべき事象だと考えて居たのか。それとも、他にも――たとえば、ドラコ・マルフォイを通じてルシウス・マルフォイ氏と接触するような真似を防ぐと言ったような、差し迫った理由が有ったのか。まあ、割と単純で、僕が閉心術を習得出来るか不透明であり、その場合は更なる対策を考える必要を感じていたが為に急いだという可能性も有る。
何れにしても、ルーナ・ラブグッドの指摘は正しかった。
「しかし、それがどうかしたか?」
「ホグワーツ生はホグワーツ特急で登下校する事になってる」
「それもその通りだな。今から約百六十年前か。当時の魔法大臣――オッタリン・ギャンボル大臣が法をもって定めて以降、それが原則だ。だから何だという話でも有るが」
「…………」
僕の回答に彼女は少し俯き、黙り込んだ。
不満の高まりも感じたが、理由は不明である。真剣に探れば理由が解ったかもしれないが、今の僕には
彼女は僕と視線を合わせるのを避けたままに荷物をコンパートメント内に引き込んだ後、戸を閉める事もせずに、僕の対面へポスンと座った。その動作には澱みや迷いといったものが全く見受けられなかった。
「――――」
恐ろしいものだ。
こんな風に至極当然のように振る舞われると、追い返す気にもなれない。
しかも理屈で考えれば、確かに僕に彼女の同席を断る権利はない。
コンパートメントに予約席など存在せず、また先に座っていた側に占有権が発生するという事も無い。建前上は公共交通機関として仲良く使うのが原則であり、わざわざ口論などして首席達に揉め事を知られる羽目になった場合、非難されるのは一人で場所を使っていた僕の方だ。相手が下級生の女の子というのも非常に分が悪い。座ってしまった時点でもう勝ち目が無くなったとすら言えるだろう。スリザリンも形無しの狡猾さである。
……ただまあ、数十分後には僕はこの場を立ち去るつもりの身ではある。
むきになって彼女を追い返すのは無為な努力であり、空いたコンパートメントを残すよりは、彼女に使って貰った方が良いという考えも出来る。ここでは沈黙を、レイブンクロー流の賢明さを発揮するのが僕にとっての正解であるのかもしれない。
――とはいえ、以前はこれ程の少女だっただろうか。
ルーナ・ラブグッドはやはり視線を合わせる事も無く、荷物の中からサイケデリックな表紙をした雑誌を取り出し、いそいそと読み進め出した。そんな彼女を黙って見つつ思う。
確かあの時は同席の許可を求められた記憶が有るし、もっと相手と会話しようとする意気を有していたような気がする。当時彼女はまだ一年生だった事だし、それから変化が有ったとしても可笑しくないのだが――嗚呼、そうか。三年間のホグワーツ生活は、新しい世界で友人を作ろうと必死になっていた少女を消し去るには十分だったという訳か。
レイブンクロー。
多様性を認めるという事は、それ即ち、融け合わないままを許すという事。
その寮を敵意と拒絶の寮と評し、大空はその下に居るのを許容するだけだと述べたのは確かスネイプ教授だったが、少なくとも彼女に限って言えばそう作用した訳だ。その悲劇を思えば、僕がスリザリンに組分けされたのは正解……いや、そうでもないか。
たとえ温和なハッフルパフであろうと寮内で外れ者が生まれる事は不可避であり、結局僕とルーナ・ラブグッドの差異を分けたのは、その時当該寮に誰が居たかという縁でしかない。僕はドラコ・マルフォイのせいで非主流派――半純血達の集団に溶け込む機会を喪ったが、逆に彼の御蔭で完全に外れ者にならずに済んだとも言える。そして自分の四年間を振り返るに、ドラコ・マルフォイに関わらなかった場合でも、スリザリン内で友人を作る事が出来たかは酷く微妙だった。
そんな考えを何となく巡らせていれば、ルーナ・ラブグッドは唐突に、勢い良く顔を雑誌から上げた。そして初めて僕と視線を合わせ、持っていた雑誌を突き出してきた。
「ン」
「……何だ?」
胡乱な視線と意図を図りかねた質問に対し、返されるのは強い意思の籠った視線。
「だって、ずっとあたしを見ていたでしょ? だから読みたいのかなと思って」
「……別にそんなつもりで見ていた訳では無いがな」
「なら、どんなつもり?」
「どういうつもりでも無い。少し考え事をしていただけだ」
「じゃあ、暇なんでしょ? 貸してあげる」
「…………」
自然界の有毒生物を連想させる表紙をした雑誌に僕は手を出さなかったが、彼女は強情だった。半ば無理やりに『ザ・クィブラー』を押し付けられた。
フラーやガブリエルの行動に直面させられた時と同種の感覚を抱きつつルーナ・ラブグッドを見るが、彼女は逃がしてくれそうにないようだ。
「……確か、君の父君が出版している雑誌だったか」
「……覚えてるの?」
「それ位はな。たかが三年で忘れる程、君は印象の薄い女性でも無かった」
「…………」
しかし、それ以外――後はしわしわ何とかなどという不思議生物――は余り覚えていない。
前回はこの雑誌を読んだのだったか。それとも読んでいないのだったか。仮に読んでいたのだとしたら、恐らく記憶から抹消しているのだろう。
一つ溜息を吐いて、意図的に表紙を視界に入れないまま雑誌を開く。
三年前しきりにしていた不思議生物の話や、或る意味で魔法族らしい彼女の立ち振る舞いからは、『ザ・クィブラー』がマトモな書物であると期待するのは望み薄だ。
内容に目を通してみれば、それは案の定、予想通りの劇物――
「――ほう」
期待はしていなかった。
していなかったのだが、こうも見事に斜め上を行かれると感嘆してしまう。
最初に目に入ってきたその記事は取り敢えず置いておき、それ以外の記事を見てみようと後のページをパラパラと捲ってみれば、そちらの方は予想通りの記事だった。
月旅行をしたと主張する魔法使いや、歌う恋人シリウス・ブラック、使用用途不明の呪文がルーン文字に隠されているという珍説等々。一周回って古風とも思える魔法使いのイカレ方をした記事は、正気のまま読み進められる気がしない。
けれども、偶然最初に開いたページに戻る。
やはり間違いではない。その記事だけは、僕の興味を強く惹いた。
「小鬼殺しファッジの記事に興味が有るの? これ、今月号の特集なんだよ」
「の、ようだな」
ページを前方から逆さまに覗き込んだ彼女に生返事を返す。
表紙を再度見てみれば、確かに下手な絵で山高帽姿の人間が描かれている。少なくとも編集した人間は、この記事を重要だと考えたらしい。
内容は──内容自体は、案の定だ。小鬼を毒殺したやらパイにしたやら、アンガビュラー・スラッシキルターがどうとか、読めば読む程に目が滑る記事だ。
けれども、ただ一点。
魔法大臣は、魔法界に関する全ての事項を管轄する。
コーネリウス・ファッジはその職掌を文字通りに解釈し、言論統制へと乗り出した。
その結果、今の魔法界では大衆に対し、まともな情報が一切発信されていない。
『日刊予言者新聞』は額に傷の有る男の子や、地位にしがみつく老人の誹謗中傷をやっている。魔法ラジオの方にしても、やはり闇の帝王が復活したというような内容は流れていない。〝純血〟達の協力も有ったとはいえ、この魔法界でここまで完璧に報道規制を敷いてみせた魔法大臣は恐らく彼が初めて――同時に最後――だろう。
そして言論統制に味を占めた権力者がやる事は何処も変わらない。
自分の美化。業績の誇示。己の支持率を上昇させる為のありとあらゆる宣伝。露骨にやらないだけの頭は有るようだが、ハリー・ポッター達への中傷と同様、新聞やラジオの各所にはコーネリウス・ファッジを讃える言説が紛れ込まされていた。
現状、彼に〝不都合〟な報道は表向き一掃され――だが『ザ・クィブラー』は違う。
内容としては失笑物な上に名誉棄損になる線を余裕で踏み越えている記事を載せているが、それが出来ているというのは要するに、
まあ、何ら驚くに値しない事ではある。
こんな見るからに真っ当でない本がフローリシュ・アンド・ブロッツに平積みされている筈が無く、殆ど個人出版に等しい代物の筈だ。グレートブリテンとアイルランド全土を併せて購読者は数十人と聞かされたとしても、そんなモノかと容易に受け居れられるだろう。
けれども現在の状況で、情報を娘から――闇の帝王によりセドリック・ディゴリーが殺されたのだと知れる人間が、己の雑誌に反体制記事を載せる。その行動は決して軽く見ていいものではないだろう。それをやってのけるゼノフィリウス・ラブグッドとやらは、相応の覚悟が有る勇者か、それとも何も考えて居ない愚者か。
そして我慢して眼を通してみれば、一部に真実が紛れ込んでいるようにも読めるのだ。
「……彼の一番の野心は小鬼の金の統制、か」
どんなに取り繕った所で隠せない、魔法史が克明に語る欲望。
小鬼が杖の秘密を欲するのと同様、魔法族もまた
コーネリウス・ファッジがそうだとは限らないが、しかしどちらの可能性が高いかと言えば、統制を計画している方だろう。そして魔法族の繁栄及び魔法省の権力確立を願うならば、その野心と展望を抱く事はやはり正しい。異種族間の友好は、貨幣鋳造権と銀行経営権を売り渡してまで維持する物でも無い。
真剣さを増した僕の反応に満足したのか、ルーナ・ラブグッドは大きく頷いた。
「ファッジはね、とっても野心に溢れた人間なんだよ。ダンブルドア先生に対抗する為にファッジはとうとうヘリオパスの軍団を設立したんだ。詳しい一部の人間なんか、何れホグワーツに侵攻しようとするだろうって噂してる」
「……まあ魔法省のホグワーツ支配の野望は今更だし、魔法大臣が私軍を組織したとしても、あの校長が非合法で
――ホグワーツに侵攻した瞬間、魔法省は自壊するぞ。
そう付け加えようとした僕の言葉を止めたのは、通路で立てられた派手な衝突音だった。
本当に無価値であるか解らなくなってきた雑誌から顔を上げ、何となく既視感を覚えつつその方向を見ると、そこには案の定の人物がトランクを引いている。
気の弱そうな丸顔は、余り獅子寮らしくない生徒、ネビル・ロングボトム。
「……や、やあ」
僕を見て、ルーナ・ラブグッドを見て、もう一度僕を見た後、彼は僕に声を掛けてきた。
そこに葛藤が見えたのは、どうも僕がスリザリンだからと言う訳でも無いようだ。そのような反感を抱いているならば、僕へと言葉を掛けてなど来ない筈だからだ。
「奇しくも三年前を思い出す状況だが――」
少し微妙な距離感が見える少女と少年を見やる。
いや、ネビル・ロングボトムが一方的に対応に困っているのか。
「――君達はグリフィンドールとレイブンクローだろう。嫌われ者のスリザリンと違い会話するのに障害は無い筈だが、あれからホグワーツで話をしたりしなかったのか?」
「ウ、ウーン。挨拶くらいは何度かしたかな」
ネビル・ロングボトムが少し気まずそうに答える。
まあ三年前は延々と不思議生物について説法を受けていたのを見ているから気持ちは多少解るのだが、一方でルーナ・ラブグッドはあっけらかんと言った。
「話す機会は無かったよ。だってホグワーツであたしと……ルーニーと話してると、
「そうか」
「…………」
この程度で痛む良心を僕は持ち合わせては居ないのだが、ネビル・ロングボトムは違うらしい。丸々とした大きな身体を縮め、きまりが悪そうな顔をしている。ルーナ・ラブグッドが皮肉ではなく、全くの本心から言っているらしいのも良く効いた原因のようだ。
後悔と罪悪感で居たたまれなくなったのか、ネビル・ロングボトムは通路で立ち尽くしたまま、もじもじとしている。他方ルーナ・ラブグッドも、彼をコンパートメントに招き入れるでもなく、夢見心地の表情のまま眺めている。
三年前と同じ集まりは、しかし三年前と違うギクシャクとした雰囲気が──いや、三年前も割と変な雰囲気だったような気もする。あの偶然の出逢いを契機として真っ当に友人関係を構築するには、僕達は寮が違う以上に、立場と性格と思想が違い過ぎた。
そして三年前と違うのだと明確に示すように、救いの主は他から現れた。
「ネビル。そこに立ったままだとちょっと邪魔だよ」
「ご、ごめん」
警告というより気安さを感じる指摘に慌てて通路を開けようとするネビル・ロングボトムだが、彼がこの状態の時に良い事が起こる試しは無い。再度派手な音を立ててトランクを盛大に椅子へとぶつける。スリザリン生である僕すら良く見る光景で、彼――声の主にとっては日常茶飯事なのだろう。少しだけ苦笑して、そしてコンパートメント内の僕の姿を見て少し驚きを見せた後、今度は僕の方へと声を掛けてきた。
「アー、君達三人がどういう関係か解らないけどさ。その、席を一緒にしても良いかい? 少しばかり君と話をしたい事が有るんだ」
「……一体自分が何を言っているか解っているんだろうな、グリフィンドール」
「十分解ってるつもりだよ、スリザリン」
彼の行動も大抵突拍子が無いが、今回は一際だと溜息を吐く。
声の主は、額の稲妻が特徴的な人間。言わずもがな、ハリー・ポッター。
何時も一緒に居るハーマイオニー達二人の姿は傍に見えない。その代わりだろうか、一人の下級生らしき少女が彼の後ろに着き従っている。その特徴的な赤毛と何処となく見覚えのある顔立ちから判断するに、恐らくはジネブラ・ウィーズリーだろう。
二人の表情は対照的だ。ハリー・ポッターは何処か気後れしたように、一方でジネブラ・ウィーズリーの方は警戒するように。そして今の状況では後者の方が正しい。
「ならば予め一つ教えておくが、僕は今夏――嗚呼、今夏殆ど丸ごとだ。マルフォイ家に滞在していた。つまりは現在の御互いの立場というのは明らかな筈であり、それを知った上でも尚、君は僕と話をしたいと宣う訳か?」
その言葉にネビル・ロングボトムが大きくビクつく。
今度は荷物を振り回さなかったが、顔に過ぎった驚愕と恐怖は先程以上で、そして当然の反応でもある。事実上の敵対宣言であり、死喰い人によって両親を壊された人間が心穏やかで居られる筈も無い。
そしてジネブラ・ウィーズリーは元々僕に好意的では無かったのだが、更に敵愾心を強めたらしい。逆に心地良さすら覚える鋭い視線を僕へと向けて来る。
けれども、ハリー・ポッターは流石に少し警戒する素振りは見せたものの、軽く首を振った後、苦笑いする事で誤魔化した。
「……別に良いよ。君にしてもマルフォイにしても、そして他のグリフィンドール生にしても、ヴォルデモートに比べればどうって事ないからね。何の脅しにもならないさ」
「僕の前でその名を余り口にして欲しくないが――」
悪名にギクリと反応した二人を他所に一瞬だけ考えを巡らせ、そして答えは出た。
「──君が理解して尚そう求めるというならば構わない」
それだけを言って『ザ・クィブラー』に視線を落とす。
ハリー・ポッターが何故声を掛けて来たのかは想像も付かない。しかし、彼がそれだけの価値を見出している用件を携えて来たのならば、やはり断る選択肢など無かった。
ハリー・ポッターに許しはしたが、他まで許したつもりは無い。
だがジネブラ・ウィーズリーは当然のように、ネビル・ロングボトムは安堵したようにコンパートメントへ入ってきた後、それまで開いたままだった戸を閉じた。まあルーナ・ラブグッドの時と同様文句を付けられない為に放置はしたが、左程良い気分にはならなかった。
ともあれ、コンパートメントは五人になった。
彼等が入って来て早々ルーナ・ラブグッドはそれまで自分の傍らに置いていた荷物を棚に上げ、それが自然であるかのように僕の対面から左隣へと席を移った。
一方でグリフィンドール生達は多少狭そうだったものの、三人並んで僕の対面へと座った。僕から見て左――通路側の席からネビル・ロングボトム、ジネブラ・ウィーズリー、ハリー・ポッター。ハリー・ポッターが真ん中でないのは、窓側に座る僕と向かい合い、話がしやすいようにという配慮によるものか。
「…………」
そして、コンパートメント内に沈黙の帳が下りる。
立てられる音は、僕が『ザ・クィブラー』のページを捲る音だけ。この特急内でも恐らく唯一であろう、何の会話も発生しない閉鎖空間が出来上がった。
「――ええと、何の本を読んでいるんだい?」
「質問するならもっと興味が有るように問うべきだな」
「うっ」
ハーマイオニーと違い、彼は他人の読んでいる本に興味を示す類の人間ではない。
そんな考えと共に指摘してやれば、やはりその通りだったのだろう。軽く呻いた後に再度黙り込んだ。わざわざコンパートメントを共にしようと考える位だから相応に重大な用件が有った筈だが、どうやら話を切り出し辛いと感じているらしい。
……一体どうして僕が余計な気を回さねばならないのやら。
「ところで監督生の仕事はどうした?」
本から視線を上げないままに、ハリー・ポッターに話を切り出してやる。
「ドラコ・マルフォイの手紙によれば、新監督生は特別車両に集合だった筈だがな。就任一日目からサボりとは流石に剛毅過ぎるように思えるが」
その瞬間、微妙な雰囲気が漂ったのを感じ取る。
「アー、そうする必要は無いんだ。僕は監督生じゃない」
「……監督生ではない?」
何処か感情を排した印象を受けた声色での回答に、思わず顔を上げた。
平静を装おうとしているらしいハリー・ポッターの表情からは、嘘の色は見えない。言葉通り、彼が監督生に任命されていないのは本当のようだ。
しかし、その答えは僕にとって少なくない驚きを齎すものだった。
新監督生の名が一般学生に周知されるのは始業日――但し任命を受けた人間から事前に直接伝え聞いた場合を除く――であるが、全寮制の学校で丸四年も同学年をやっていれば、各寮の〝仕切り屋〟、監督生の仕事を有り難がる優等生には大体目星が付いて来るものだ。
例えばハッフルパフならアーニー・マクミランとハンナ・アボット、レイブンクローならアンソニー・ゴールドスタインとパドマ・パチルと言ったように。予想でしかないが、彼等はまず今代の新監督生だろう。そしてグリフィンドールの女性は当然ハーマイオニー。一方で男子は、ハリー・ポッターであると僕は疑っていなかった。
まあ彼は他の人間と違って唯一〝仕切り屋〟では無いのだが、さりとてその難点を考慮に入れて尚、彼を監督生にしない選択肢など無い。ミネルバ・マクゴナガル教授──ハリー・ポッターの問題児振りを一番良く知って居るグリフィンドール寮監ですら、その処分を認めざるを得ないだろう。僕はそう考えていた。
ただ、彼の瞳――そこに映る去年までは見えなかった色を見て思い出した。
あの校長が、ハリー・ポッターに対してどんな立場を取ろうとしていたかを。
「──成程。アルバス・ダンブルドア
一度解答に思い当たってしまえば、そちらの方が寧ろ校長らしい遣り口だと思えてくる。
ハリー・ポッターの平穏なホグワーツ生活を願うのであれば、確かに彼を監督生にする選択肢など無い。大方余計な心労や責任を負わせたくないなどと考えたのだろう。
が、その感想にハリー・ポッターは大きく表情を変化させた。
「……? どうした、そんな驚いた顔をして。僕は何か変な事を言ったか?」
「君は今ダンブルドアを――アー……まあ、自分で気付いていないならば良いや」
「……君が納得したなら何でも良いが。しかし、ならばグリフィンドールの男子新監督生は誰だ? 僕が考える限り、他に適切そうな人間は思い当たらんのだがな」
そう問えば、ハリー・ポッターは微妙に口籠る。
だが彼のその反応で、監督生に選ばれたらしい人物にすぐさま想像が付いた。
「……まさかとは思うが、ロナルド・ウィーズリーが監督生ではないだろうな」
「そうだよ。ロンとハーマイオニーが今年のグリフィンドールの新監督生だ」
「…………そうか」
表情だけは平然と言ってのけた彼に、視線を落としつつ嘆息する。
あの校長も他人の気持ちが全く理解出来ない訳では無かろうに、どうしてこうも的確に他人の感情を逆撫でする行動を取るのだろうか。まあ、悪癖なのだろう。
ハリー・ポッターを監督生にしない事は理解出来た。けれども、彼の内心の安寧を思うので有れば、ロナルド・ウィーズリーだけは監督生にすべきではなかった。
他のグリフィンドール生が新監督生となったのであればハリー・ポッターは心から祝福出来たとしても、唯一彼の男友達に対してはそれが不可能である。その行動予測が正しい事は、まさに目の前のハリー・ポッターの反応が如実に証明してくれていた。
監視兼猫の鈴役などハーマイオニーだけで十分だったろうに、あの校長も過保護過ぎるというか。彼もまた、やはり僕と違った方向性で普通の感性からズレている。
そして同時に、非常に興味深いとも感じていた。
一瞬だけだが彼の瞳から読みとれた色。あれは、あの校長への反感だった。
ハリー・ポッターとアルバス・ダンブルドア校長は、それなりに良い関係を築いていた筈だと記憶している。去年校長室前で彼と会った時も、そのような色は見えなかった。寧ろ逆で、彼は全幅と言って良い程の信頼を向けていた筈だ。しかし、今は違う。彼は校長に対して負の、ともすれば敵意ともとれるような強い感情を向けていた。
果たして夏休暇中、一体何が有ったのやら。
僕にハリー・ポッターの知識を与えた校長の意図は、それによって僕が彼の行動を正確に予測出来るようにし、かつ制御を出来るようにする点に在った筈である。しかしそれにも拘わらず、あの校長は余計な不確定要素を増やしてくれやがったのか。
まあ既に陣営を違えているので何の文句も言えないのだが、それでも多少の呆れを抱かざるを得ない。
そんな思考を打ち切らせたのは、刺々しい声での、そして予想外の横槍だった。
「何か文句が有るの?」
再度視線を上げれば、視界に入るのは怒りに眦を吊り上げる赤毛の少女。
その激烈な反応からみるに、どうやらジネブラ・ウィーズリーは、僕の反応が気に食わなかったらしい。
「スリザリンの貴方はロンが監督生に指名された事が気に食わないようですけどね。私の兄が監督生になって一体何が悪いって――」
「──別に悪いとは言わないが」
気怠さと共に彼女の言葉を遮って真正面から見詰めてやれば、先までの威勢は一体何処に行ってしまったのか。彼女は大きく怯んだ表情を浮かべ、途端に口を閉ざしてしまった。
この程度で躊躇するならば、人の感想に介入すべきでは無い。
「逆に質問するのだが、ジネブラ・ウィーズリー。まさか君は本気で自分の兄こそが監督生に相応しいと思っているのか? 嗚呼、まさにこの場所に居るハリー・ポッター、彼を退けてまで上に立つべき人間だと思っているのか?」
「そ、それは……」
だからグリフィンドール、特に純正のソレは嫌いなのだ。
自分の信奉する道こそが絶対だと信じ、他人の内にも理屈が有る事を認めない。
「一年前から大きく変わっていない限りという限定付きだが、魔法薬学を除き、この二人の成績には左程違いがなかった筈だ。そもそも二人より成績が良いであろうグリフィンドール男子というのも思い浮かべられる。そして四年間の素行に関しては二人とも同レベルの不良、問題行動だらけ。成し遂げてきた功績で相殺するにしても、常に事件の中心に居たハリー・ポッターの方が明らかに上。となれば彼が監督生になった理由がますます理解しかねるが?」
僕への反発心のみで口を挟んだらしい少女は、消沈して視線を逸らす。
一方ハリー・ポッターは親友の話題であり、かつ親友の妹の手前、表情だけは葬式に出席しているような顔をしていた。それでも多少後ろめたさを抱えながらも機嫌が良くなったらしいのは、わざわざ眼を合わせなくとも解る。非常に解りやすい人間で結構な事だ。
結局、解りやすい優劣が見当たらないのが問題なのである。
真っ当な学生であるなら監督生や首席の地位を欲するだろうし、任命されて悪い気もしない筈だ。そしてハーマイオニー程に圧倒的ならば自分が何故監督生になれなかったのかと憤る人間など現れまいが、ロナルド・ウィーズリー程度の優秀性ならば、彼が監督生になれて自分が監督生になれなかったのは何故かと疑問を抱く人間が出るのは極自然である。
それは性格の悪さに由来する物では無く、地位と名誉を有り難がる普通の人間らしい反応だ。寧ろ単に親友であるというだけで一切のわだかまりを抱かずに祝福出来る方が、人間として破綻してしまっている。
「──もっとも、君の考えも一理くらいは有る。ハリー・ポッターよりもロナルド・ウィーズリーが監督生に向いている。そう見える面は確かに有る」
「…………」
ジネブラ・ウィーズリーは呆け、ハリー・ポッターは裏切られたという表情をした。
非常に間の抜けた二人の反応に、僅かな愉快さと共に笑う。
「嗚呼、ハリー・ポッター。君が監督生を上手くやれないだろうという話では無い。これはあくまで能力の過不足ではなく、性格の向き不向きの話だ。但し、人によっては性格も能力の内に含まれると言うのかもしれないが」
だがどう分類するにせよ、人の上に立てる資格と人を指揮しうる資質は異なる筈だ。
「ホグワーツ生活も五年目になる。四年間事件には事欠かなかった君とは言えど、己が監督生に向いているか否かの自己評価をする時間くらいは流石に有っただろう?」
「……えっと」
「監督生はその権力と特権の代価として、他人の為に時間を使う事を余儀なくされる。新入生の案内をしたり、下級生の生活や勉強の相談に乗ったり、教授や首席の指示で校内の雑事に駆り出されたりな。ハーマイオニーはそれを余り苦としない性格だ。しかし、君はどうだ? 君はそのような仕事に励む事に価値を感じ、寮を取り仕切る事に喜びを覚えるのか?」
「…………」
顎に手を当てて考え込む振りをしているが、表情は多弁だった。
「勿論、君が輝かしい〝生き残った男の子〟の称号で満足しないというならば、ホグワーツに着いてから校長へ抗議しに行くと良い。人を指揮する能力について君が不足しているとしても、人の上に立つ資格の面では不足など一切無い。そして確かに君はホグワーツ史上最も人気の有る監督生になれる」
それは間違いないと、絶対の確信をもって言える。
「〝監督生、一歳の赤ん坊だった貴方が闇の帝王をどうやって倒したのですか?〟。〝去年闇の帝王からどうやって逃げ出したのですか?〟。〝奇跡の傷跡を見せてくれませんか?〟。嗚呼、
「……君は嫌味を言うのが最高に上手いよね」
「褒め言葉をどうも。君から貰った所で嬉しくは無いがね」
盛大に顔を歪めつつ言った彼からは、既に監督生への未練は感じなかった。
今更ながら、ハリー・ポッターは自身の立場を理解したのだろう。
監督生はその職務上、必然的に下級生達と接触する機会が増える。また他寮の監督生や首席と頻繁に顔を合わせる必要もある。魔法界の大半から大嘘吐き扱いされている現状、ハリー・ポッターの監督生業務にはそれなりの困難が付き纏うのは目に見えている。彼が耐えられないとまでは思わないが、耐えられたとしても何の自慢にもならないし、得られる利益も無い。
「まあ、監督生から外されたのが不愉快なら見返せば良いだけの話だ」
慰めではなく、ただの素朴な感想として言う。
「どの道、黙っていても二年後にはその機会が巡って来る。監督生よりもそちらの方が余程君向きとも言えるだろうしな」
「……え?」
「解らないという顔をするな。首席の話だ」
答えを紡いでみせても、ハリー・ポッターの表情はぼんやりとしたままだった。
僕達の会話を隣で眺めているルーナ・ラブグッド、不思議生物を夢見る少女と良い勝負だ。自分と首席という地位が、彼の頭では全く結びつかないらしい。ネビル・ロングボトムやジネブラ・ウィーズリーの方がまだ察しが良い。彼等は割と納得といった表情を浮かべている。
「……僕って首席になれるの?」
「……可能か不可能かで言えば可能だ。高い訳でもないが、さりとて低くもない」
のろのろと紡がれた間抜け過ぎる質問。
それに答えるのもまた間抜けかもしれない。そう思いつつ、渋々答える。
「そもそもの話、僕は入学以来、君が少なからずそれを目標にしてやってきたと思っていたがな。何せ君の両親二人は揃って首席だったのだから」
「…………ああ、確かにトロフィールームで名前も見たな。確か秘密の部屋の時だったっけ。そういや入学前にハグリッドも言ってた気もする」
呑気に言ってのけるが、流石に〝本物〟は違うものだ。ハリー・ポッターにとって、自分が首席の座を獲得出来るか否かは関心の外だったらしい。
いや、内心では監督生になりたい希望も持っていたあたり、全く名誉や栄光に関心が無い訳ではないのか。去年の三大魔法学校対抗試合にしても、己の名が呼ばれた事に困惑は示せども、如何なる手段を使用しても断固として参加拒否しようとまでは考えていなかった──まあ言うまでも無く、第一の課題内容を知るまでだろうが──ようだった。
〝生き残った男の子〟という重い称号と、四年連続で彼に課された試練と苦難。
それが、眼前で起こっている以外の事象について考える余裕を彼から奪ったと見るべきか。
「……そう言えばさ、首席ってどうやって選ばれるんだい?」
本当に解りやすい人間だ。
術をもって解釈する必要もなく、彼の碧の瞳からは期待と夢想が読み取れる。
「答えは簡単だ。君の親友に聞け」
端的に答えれば、彼は表情を仏頂面に変える。
「ハーマイオニーに聞いても校則丸写しの答えしか返ってこないじゃないか」
「……まあ、確かに一言一句違わず暗唱する姿がありありと思い浮かびはするが」
「だよね? なら君に聞くのが一番手っ取り早いだろう?」
相変わらずの図々しい発言に溜息を吐く。
彼が僕とコンパートメントを共にしようと考えた本題とは間違いなく関係無い筈だが、彼は僕が答えるまで引く気が無さそうだ。
しかし、これは──
「──結論から先に言うが」
「……今絶対色々考えた上で、多くの説明を面倒臭いって省略したよね?」
「……まあ、兎も角、君が首席として相応しいというより、君を押し退けてまで首席になるような男子生徒は居ないのだ。その点で君は首席に一番近い人間だと言いうる」
誰を首席とするのが適切かではなく、彼を首席として本当に良いのだろうかと頭を悩ませる人間は、長いホグワーツの歴史でもそう多くは無いだろう。しかしそれでも尚、ハリー・ポッターが首席として最有力候補である事は揺らがない。
「首席の選出基準は──僕が記憶する限りでは、学業成績、生徒としての卓越した評判、誠実で善良で勤勉な性格の持ち主である事だったか。細部の記憶違いは有るだろうが、違った所で非常に些細であり、君が理解するのにも事欠くまい」
「……つまり単純な成績順じゃないという事?」
「そうなる。監督生も同じだから左程不思議という訳でも無いだろう? 監督生にしても単なる良い子ちゃんに与えられる代物では無い。学業優秀や品行方正は目に見える形での優越性を明らかにするに過ぎず、真に必要とされるのは、同級生や下級生に対しどれ程言う事を聞かせられる能力を持つかというモノなのだが――」
そこでジネブラ・ウィーズリーを見やる。
言いたい事は伝わったのだろう。彼女は首ごと視線を逸らした。
「――首席はまた違う。学年の顔、世代の象徴。ミスターないしミスホグワーツ。そのような表現をすれば、どんな人間が首席に選ばれやすいかというのは概ね想像出来る筈だ。そして同時にハリー・ポッター、君は候補者として挙げられる位には資格を持っているという事も」
〝生き残った男の子〟という面を差し引いても、彼程に目立った生徒は校内に居ない。
「君がホグワーツで残した成果は輝かしいものだ。一年は個人的に、三年は公開でない為に評価しないが、そうだとしても、四年次は三大魔法学校対抗試合優勝者の一人。二年次は秘密の部屋の発見及び事件解決に基づくホグワーツ功労賞獲得。そしてシーズン三年間に渡って校内最強のシーカーであり、恐らく君はクィディッチキャプテンになるだろう」
こんな人間を超える為には、一体何を成し遂げれば良いのだ?
そうハリー・ポッターに問えば、彼はきまりが悪そうに頬を掻いた。
「……アー、でもさ。自分でこんな事言うのも何だけどさ、僕は余り成績が良く無いんだ。そりゃ平均よりは上だけど、君のような成績優秀者という程じゃない」
「確かにそれは弱みでは有る。しかも君は割と素行も悪い方だしな」
不満そうに唇を曲げたものの、自覚は有るのだろう。ハリー・ポッターも反論しなかった。
「だが裏を返すと、成績さえ足れば問題無さそうだという事だ」
「…………」
「普通の首席の選出は、恐らく成績を第一の基礎とし、それ以外の多少の加点で決めるのだろう。善良云々の漠然かつ主観的基準と違い、成績は明快かつ絶対的な数値で出る上、クィディッチなどと異なり全生徒が参加するからな。まあ成績を重視するのはホグワーツが学校であり、勉学こそが本分であるという思想にも合致する」
成績なら比較して序列を付けやすいし、生徒の眼から見ても解りやすい。
そもそも普通の生徒の場合、成績以外で明確な優劣が付く事はまず無い。あの校長のように在学中から校外の賞を獲得して名声を得ている生徒など稀で、他で差異が付くのは精々クィディッチ程度。当然考慮はされるだろうが、一方で余り重視し過ぎるとクィディッチが出来る人間は偉いのか――ハーマイオニーが首席になるのも不可能だ――という事にもなる。
「しかし、その加点要素が並外れているなら話は変わる。君の成果の輝かしさは、歴代首席と比べても何も見劣りしない。勿論、それでも馬鹿な劣等生には与えんだろう。成績を基本として選出して来た以上、例外的事態は可能な限り少なくすべきだからな。ただ上から数えた方が早いと言える優等生の部類ならば、校長が君に首席を与えたとしても依怙贔屓の声は上がらんよ」
本来はやはり学年一位や二位が必要なのだろうが、この男はやはり色々と例外過ぎる。
そしてあの校長とて、本心ではこの男に首席を与えたいと考えて居る筈だ。
「素行の面にしてもだ。君は大体の場合、事件の方から近付いてくる身だった。二年次の登校方法を除けば、多少情状酌量の余地は有る。少なくとも、あの校長ならそう考える」
一年次は校長の策略、二年次は亡霊の暗躍、三年次は脱獄犯による騒動、そして四年次は闇の帝王の復活を目指した陰謀。これで素行良く過ごせというのが無理な話だろう。
「……スネイプはそう言わないと思うけど」
「あの寮監が君を支持する事など絶対に有り得ない」
期待するだけ無駄である。
「そもそも寮監の支持など本質的に不要だ。決定権を持つのは我等が校長閣下。そして確かに監督生の場合は、寮監の推薦や意見を無下に出来んし、大体の場合それが通るのだろうが──」
「──待って。監督生を決めるのも校長先生じゃないの?」
言葉を遮ったハリー・ポッターに溜息を一つ。
「最終決定権を握るのは同じく校長ではある。が、性格の向き不向き、交友関係の広狭、寮内における支配力を知って居るのは各寮の寮監だ。そして単に成績が良いだけの頭でっかちな、陰気で社交性皆無の人間を監督生とした場合、一番苦労するのは果たして誰だと思う?」
「……そっか。マクゴナガル先生──寮監が苦労するのか」
「そういう事だ。校長が強権をもって押し通す事は可能だろうし、ホグワーツの歴史上それは幾度か有っただろうが、やはり寮監と相談の上で決めるのが円滑に進む」
だからスリザリンの
多くの人間は下賤な血筋の人間の言う事を聞かず、また監督生は実家の権力を盾に我儘放題をしようとする下級生を制御しなければならない。その為には多少の成績に目を瞑っても、〝マルフォイ〟や〝パーキンソン〟などの人間を監督生にするのが──まあ、ドラコ・マルフォイは普通に成績が良い部類に属しているが──最も問題が生じにくい。
この原則が破られるとすれば、それは当該生徒がマーリンに準ずる例外だと蛇寮内で認められた場合のみである。勿論、トム・マールヴォロ・リドルはそれだけの器だったのだろう。
そしてハリー・ポッターは何処かホッとした表情を浮かべる。
その意味は──嗚呼、監督生の決定権が校長以外にも有る事に救いを感じたのか。
残念ながら、それは間違いである。ミネルバ・マクゴナガル教授は監督生の地位がハリー・ポッターを護るだろうと考える側の筈だ。そもそも僕が最初に何と言ったか忘れているようだが、敢えて訂正して面倒を招く気は無かった。
「一方で首席は四寮から一人だ。無論男女別なので二寮から一人ずつ出る可能性も有るが、要するに各寮監は、自寮の人間が首席になって欲しいと通常考える事だろう。我等が寮監は語るまでもないが、ミネルバ・マクゴナガル教授とて例外では無い筈だが?」
「……それはまあ、そうだね。マクゴナガル先生だってパー……アー、とにかく、自寮から首席が出たら喜ぶよ。あれで結構解りやすい人だし」
ハリー・ポッターが突如として言葉を濁し、視線を険しくしたジネブラ・ウィーズリーをチラリと見た。流れからしてパーシー・ウィーズリーの前例を挙げようとしたのは明らかだが、彼等はそれを意図して避けたようだ。
それは僕にとって無視出来ない反応であり、夏休暇中パーシー・ウィーズリーと会話した時の感触も併せて非常に重要な情報でもあるのだが、まあ今は脇に置いておくべきだった。
「ともあれ四寮には対立関係が生じ、それぞれの意見や推薦を素直に聞いていては纏まらん。であれば、決定権を握るべきは校長だ。そして首席の場合、その人間が首席として相応しいだけの成果さえ残していれば、個々の生徒への支配力など問題とならない。各寮に居る二十数名の監督生に仕事を丸投げすれば良い訳だからな」
監督生が首席になった場合でも監督生は新たに任命されない――つまり首席と監督生が一切重複しない場合と比較し、首席と監督生を合わせた総数が最大二名少なくなりうる――のが一つの証拠とも言える。
要は首席を絶対不可欠とする場面など公式行事の挨拶など儀礼的な事くらいで、普段居なかったからと言って困る事態は殆ど無いに等しいのだ。その権限と権威は監督生を凌駕すれども、首席の不在の為に校内秩序が機能停止に陥るという事は無い。
「じゃあ、ダンブルドア先生の支持さえ有れば首席にはなれるんだね?」
「制度上はな」
明らかに目の輝きが増した彼に、投げやりに答える。
「しかし、寮監に全く異論を差し挟ませないという事も無いだろう。反対する寮監の方が多いとなれば校長の方も考える筈だ。相応しくない者を首席にするのは〝ホグワーツ〟の伝統を損なう事態であり、寮監も無関心では居られない。故に君が首席になりたいと本気で願うならば、最大の障害は我が寮監では無く、寧ろ君の所の寮監だ。史上最も不適格な首席を輩出した寮と呼ばれる事を、あの教授は絶対に望まない」
「……確かに反対している姿は簡単に思い浮かぶよ。それもスネイプと同じ位にね」
とは言うものの、彼の表情と声色は明るくなっていた。
二年後に首席になった未来の姿でも想像しているのだろうか。
本当に平和な事だ。この呑気さは彼が英雄たる故か、それとも元々の資質か。
或いはこれこそまさにアルバス・ダンブルドア校長が守ろうとしたモノ、本格的な開戦を控えた今、少しでも心穏やかに学生生活を過ごして欲しいと願う結果と考えるべきなのか。
しかし――残念ながら、僕はあの校長の思惑に乗ってやれない。
ハリー・ポッターの扱いについて、僕は立場を異にしている。
あの時の議論では敗北を認めたし、故に今年は進んで関わるつもりは無かったのだが、ハリー・ポッターの側から僕に近付いて来たというなら話は変わる。
「――ただまあ。首席を獲得する為に勉学に励む事が必ずしも良い訳では無いだろう。君が監督生にならなかった事も、考えようによっては都合が良い。去年度末の一件が有る以上、君にはそれよりも優先すべき仕事が有るのは明らかなのだから」
人間には相応しい役割が有り、代われない義務というのもまた存在する。
一年のヒヨコ共の面倒を見たり、下級生達の喧嘩の仲裁をすると言ったようなつまらない雑事など、ハーマイオニーやロナルド・ウィーズリーに任せておけばいい。ハリー・ポッター、〝生き残った男の子〟は、彼しか為せない事を為すべきである。
あの校長にその意図など無かっただろうが、僕としては本心からそう思う。