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太平記に書かれている謎の武将、児島三郎高徳について、皆様の意見をお聞きしたく存じます。私の父親などは投稿タイトルのこの詩が大好きでした。国史大辞典には、児島高徳の項に「事跡は「太平記」にみえるのみで、他の確実な史料にその名が伝わらないため、高徳を架空の人物とする論がかつて行われたが、その後、田中義成・八代国治らによって「太平記」の記事の傍証となる史料なども指摘され、また児島氏が今木・大富・和田らの一族とともに備前邑久郡地方を中心に繁衍した土豪であることも確かとされ、今では高徳の実在を疑う人は少ない。」とあるのですが、ウィキペディアなどでは、已然として、実在説が疑われているようです。太平記第八(ttp://www.j-texts.com/taihei/tk008.html)には、「小嶋三郎高徳」とあり、「小島と河野とは一族にて、」とあります。
これほど有名なヒーローに対して、私は、この児島備後三郎高徳という人物は、存在しなかった説を主張します。私は、河野氏はもとより歴史についても全くの素人ですから、こんな事が言えるのです。父親が生きていれば怒られそうですが・・・
一方、下記の系図纂要の小嶋系図を見て下さい。
清和天皇-貞純親王-源 経基-源 満政(美濃国八島郷)-源 忠重(美濃国八島郷)-
源 定宗(美濃国八島郷)-源 重宗(承暦三年(1079)八月討死)-
八島重実(保延三年(1137年) 勅勘出家)-浦野重遠(尾張国浦野)-浦野重直(尾張国河辺)-小島五郎重平(美濃国方縣郡小島村・美濃国池田郡小島郷)-
小島太郎(二郎)重俊(美濃国各務郡岩瀧村・美濃国石津郡西小島村)(承久に京方にて討たれ了る。
なおこのとき、重俊の弟の小島三郎重茂(美濃岩滝郷本生も承久京方被誅(1221年)─
┬小島小源太(五郎)重継(承久京方自害)- 小島太郎三郎重氏 ───────┐
├小島二郎重実 │
├小島三郎重通 │
├小島四郎重純 ┌重慶(阿闍梨相模国神武寺別当) │
└小島五郎重行- 小島孫五郎重連┼重勇 │
├小島彦五郎頼泰(美濃国厚見郡藪田村か) │
├貞頼(美濃国山県郡世保村/安八郡世安村)│
└女子(河野彦四郎通重妻)(美濃墨俣二木) │
│
┌───────────────────────────────────┘
│ ┌小島太郎重英
└小島孫五郎重親-小島高徳三郎重徳├小島太郎重行
└小島重房
このなかに、怪しい人物名があります。 「小島高徳三郎重徳」です。
私は、この人物は、美濃に住んでいたと考えていまして、この人物こそが児島高徳ではないかと、誰も主張していない暴論を吐く者です。皆様、叱責願います。
mino阿弥様
追加情報へのお礼も申し上げませぬうちに、思いつくままの質問お笑い下さい。
※上記系図中の(美濃墨俣二木)の情報早速使わせて頂きました。
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