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児嶋信夫という岐阜出身の著名な小説家も、おそらく児嶋一族であろうと思います。
稲葉塩塵は、康暦元年(1379)に稲葉七郎越智通高という人物が美濃に落居し稲葉氏祖となったという所伝(美濃国諸家系譜・東大史料編纂所蔵)があります。
もうひとつは、他の伝記に見られますが、稲葉一鉄の祖父が稲葉塩塵であるという説があります。
1379年に美濃に来住した稲葉塩塵(通高)と通説の稲葉塩塵は年代が違い同一人物ではありません。
康暦元年に、河野氏は隣国細川頼之に敗北して滅亡の危機にあり、河野氏庶流が他国に逃れました。
美濃の守護土岐氏は、斯波氏とともに反細川でした。
この時期に多くの伊予河野氏庶流が、美濃に逃れたと考えた方が整合性が高いと思います。
では、なぜ美濃に逃れたのか?
美濃には、先住として主に河野墨俣氏、河野十八門徒、椿洞河野氏がいて、それは承久の乱(1221)後から、しばらくして、その痕跡が散見されるからです。
尾張河野九門徒が三河柳堂で親鸞聖人に帰依したのは1235年。(本願寺史・大谷遺跡録)
竹御所は1234年卒。承久の乱で幕府に敵対した河野氏庶流も、その後一定の所領を得て幕府に召抱えられている者もあり河野氏が源氏と特別な関わりがあった証左でもある。
「諸家系図纂」所収河野系図では、河野四郎通信の娘美乃局は「関東竹御所御母儀也、美濃国二木郷、肥後国砥河、木崎本主也」とある。(ニ木郷とは、現・大垣市法蔵寺二木)
竹御所の母は一般的には木曽義仲娘または比企氏の娘であり美乃局が竹御所の母であるとは、にわかに信じがたいが乳母または侍女であったか?
石野弥栄氏論文(前道後湯築城資料館長・元愛媛県歴史文化博物館)「鎌倉南北朝期の河野氏と美濃国・美濃河野氏源流少考」参考
河野墨俣氏は墨俣二ッ木郷の地頭であった。
後醍醐天皇の皇子無文元選禅師を守護して現在の岐阜市椿洞に了義寺を建立した椿洞河野氏(河野伊予守通村)は、1360年前後です。(安楽壽院領は美濃国粟野郷、昭慶門院(亀山天皇皇女)領は美濃国大桑郷であり、この近辺は大覚寺統の経済基盤であった)
越智姓河野支流を称する稲葉氏発生以前から伊予河野氏が美濃で一定の勢力があった。
河野四郎通信の妻は北条時政の娘であり、その子通久が幕府に味方し承久の乱後は、河野氏の惣領となった。その約百数十年後に伊予河野氏惣領河野通盛と河野墨俣三郎信有は連携して比叡山を攻略している。(建武三年六月(1336)比叡山南尾合戦分捕生捕井手負注文)
河野墨俣氏は本宗家河野通盛とともに足利尊氏に随従した。
椿洞河野氏は後醍醐天皇の第十一皇子無文元選禅師を守護したわけですから、得能、土居系統の南朝方河野氏です。
とても、この投稿では語り尽くせませんから、これぐらいにしておきます。
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