teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成

新着順:1410/1443 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

(無題)

 投稿者:小嶋日向守信房  投稿日:2007年 2月18日(日)01時31分43秒
  通報
  k2様

御教示に従い、「織田信長家臣人名辞典」を調べてみました。うっかりしていましたが、この辞典は、去年、大先輩の好意で譲っていただいたものが、自室本棚にあったのでした。

また、合わせて図書館でコピーしてきていた、干城録 第五巻 p39を見てみましたら、こちらにも「河野藤左衛門氏吉」が載っていました。

そこには、織田信長の家臣であったが、家康が尾張国熱田在住のときに慰めたということや、後に織田信雄に仕えたということも書いてありましたので、「河野藤蔵」は若き日の、河野藤三氏吉に違いないようです。彼が、大河内源三郎政局(大橋清兵衛重長の弟)の同僚で、天文十六年(1547)に活動していた人物ということは、その享年九十歳(1528~1616)を裏付けるものでしょう。
また干城録には、息子の河野善四郎氏門(うじかど)も織田家に仕えたが、天正十年に、二十五歳で自害したと書かれています。またこの故に、継嗣は、次男の河野庄左衛門氏房(うじふさ)とあります。信雄分限帳の河野藤蔵は、庄左衛門氏房とみて良いと思います。

この河野氏も、越智姓で河野通清、さらに後代の河野通遠の子孫ということなのですが、残念なことは、干城録にも、河野藤左衛門氏吉の父の名が記されていないことです。

河野と言えば、系図纂要にある、14世紀初頭の小嶋彦五郎頼泰の妹が嫁いだ先が河野彦四郎通重となっていたことを思い出します。この兄妹には、小嶋貞頼という弟もいましたが、世保又二郎盛俊の養子となっていて、この人物たちが、藪田や世保、高須などと殆ど同じ地域を本貫地に持っていたらしいことと併せて考えてみますと、この河野彦四郎通重も美濃にいたと考えざるをえません。それなのに、多くの河野氏系図は、河野鹽塵以前は、専ら伊予など美濃以外の事にしていますので、この河野藤三氏吉などが、それらもともと美濃にいた河野氏であったろうことが実証できればいいと思っているのですが、詳しいことが伝わっていないのが残念です。
 
 
》記事一覧表示

新着順:1410/1443 《前のページ | 次のページ》
/1443