思い出が武器
ペットショップ軸を生きる松野さんと羽宮さんの短編まとめ。七転八倒の生活の記録です。 ①夜間飛行/ ②走りながら恋をする/ ③うまれなおし/ ④どうどうめぐり/ ⑤赤ずきんちゃんが好きなオオカミ/ ⑥そういうとこですよ一虎君/ ⑦改めて言うほどのこと /⑧思い出が武器/ ⑨きみとケーキ食べたい/ ⑩大好き ①~⑦はふゆとら、⑧⑨はとらふゆのつもり。単話でのリバはないですが、濡れ場匂わせのない左右はその話の直近のセックスの向きを考えて設定しています。最後だけ地獄のフィリピン軸のマイキーとカズトラ。■卍→@373torco
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①夜間飛行
「子供の頃、パイロットになりたかったんです」
二人きりでいるリビングで、夜はたまに質量を持つ。藍色の粒子は等間隔に部屋を埋めて、真ん中で体を寄せ合った相手に、空気とは違う仕組みで声を伝えるみたいだった。猫が喉を鳴らすように、ガキみてーな夢、と笑うから、だからガキの頃の話ですって。言い返して、太腿の上に載った頭を手慰みに撫でる。
中二の終わりまでそんな夢が心の中にあったことは、なんとなく口にしがたかった。ザラザラする記憶から手探りで掴んだ当時の羽宮一虎は、強烈な印象に反して少年じみた骨格をしていたし、あの頃の自分だってコドモでしかなかったと、千冬は思う。
「親父が生きていた頃、夜の空港に連れてってもらったことがあって。あれは何だったんだろうって、時々思い出します。その後どっかに行った記憶はないから、展望ラウンジから飛行機の離発着を見ただけかも」
土曜の夜。新調したばかりのソファでへんな時間からセックスに耽ってしまったせいで、夕飯は食べそこねたし電気もつけそこねた。薄闇のリビングの、その辺に転がっているだろうスマホを手繰り寄せて時間を確かめるのも面倒で、メシを食うにしろシャワーを浴びるにしろ、一眠りしてから考えたかった。
今日の一虎は、終わった後もしおらしい態度でいる。下半身だけ脱いだ間抜けな格好の千冬に、膝枕なんかを要求した。うつらうつらと揺れる頭を、下から覗き込んで静かに笑っている。週末のアラサー男の体力は、一度イかせればすっかりくたびれてしまうのが常なのに、こんな夜は抱き合うほど、一虎の思考の輪郭は冴えていくらしい。電灯みたいな目が、夜をピカピカ照らしている。眠たい千冬にはそれが少し眩しい。
キスを強請られて意識が少し覚醒に傾いた。思いつくままに昔話を始める。これが寝物語になって、一緒に眠ってくれないかなと思う。こんな夜の一虎はロクなことを考えていないと、千冬の経験則が告げている。
「夜の滑走路を見たことありますか?」
問えば、瞳の中に夜が流れる。
「直線も、曲がり角も、地上を走る車も、ビルの屋上も、全部灯りで縁取られていて、夜には光ってるものしか存在してないみたいだった。飛行機の翼にも灯りがついていて、飛んでいく姿の輪郭がわかる。あれは航空灯って言うんだって、親父が言った。暗い中で、自分はここにいるって、位置を知らせる灯りです」
機嫌が良さそうにしていた一虎の目が、家族の話に、分かりやすく曇っていく。それでも話を遮らないあたり、片一方しか知らない俺には実感できない、この人の変化なのだろうと、千冬は考える。頭の上に載った手を捕まえて、顔面に誘導する。表情が隠れて安心するみたいだった。緩く開かせた手のひらに舌を這わせる。一虎は自分を慰めるように、ビクッと震えた千冬の反応を笑った。
「なんか今、それを思い出しました」
「パイロットになりたかったってこと?」
「航空灯です」
一虎君が俺に素直に甘えるのって、病んでる時より開き直った時ですよね。そんなふうに追い詰めてしまわないのは、思いやりではないと千冬は思っている。それは弱さを見せられているというより、これで最後にするからと、手を離すと決めてしまったものを、未練がましく惜しむようだった。
抗いがたい睡眠欲は、手指をぬくくさせて感情の輪郭を丸こくさせるけど、それにしたって見過ごせない。気に食わない。だから、一虎が嫌がると知っていて千冬がこんな話を始めたのは、腹立たしさとやるせなさが理由だったかもしれない。
航空灯。捕まっていない方の手で、千冬が左耳のピアスに触れると、意図に気づいたのかムッとした顔をした。ピカピカの灯り。リン、と鈴の音。
「どこに居るかわかんねえと困るじゃないですか」
「オマエは俺を見失ったって困んねえよ」
「すぐそういうこと言うし」
言外に、こんな言い合いには辟易していることを匂わせると、一虎はグッと言葉に詰まった。千冬にとって、一虎に距離を置こうとされるのは今に始まったことじゃない。行方をくらまそうとされることも。その度、怒鳴り合いの喧嘩もしたし、いい歳して二人で泣き喚いたこともある。手が出たことも、まあある。
一虎の企みは結局いつも失敗していた。それは確かに千冬の執念ではあるけど、たぶんそれだけではない。
「こんな思い出話にまで嫉妬するくせに」
「……………」
「どうせなら俺を惜しんで妬いてください」
せめて一生罪を背負うという誠意で、行動を強く律することはできても、感情に枷はつけられない。悲しむのにも喜ぶのにも資格はいらないことを理解した時、一虎は絶望しただろうか。目をどんより濁らせて、羨んでいる。この場合嫉妬の対象は、父親に手を引かれた夜の空港で飛行機の離発着に目を輝かせて、無邪気にパイロットを将来の夢なんかにしたガキの頃の俺だと、千冬は理解している。
奪われて奪っただけの子供時代。それでも立派に生きている人はいるなんて一般論。育ちを言い訳にはしないくせに、満たされなかった欠落は一生ついて回る。自己嫌悪と、おのれを憐れみ続けることを矛盾させないのは健全で、真理だと思う。愛されたいなんて人間の本能みたいな感情に振り回されても、それを求める行動を自分に許せない。
らしくないくらい、下手くそな笑顔をしている。
「無理。俺、オマエが誰かに幸せにしてもらえるなら、うれしいもん」
「自分はしおらしく身を引く前提とかネガティブすぎません? そういう、後ろ向きなことばかり言ってるくせに、いざって時にキレイに身を引けないあたり、可愛いなって思いますよ。一虎君」
「……手がかり一つ残さず完璧にオマエの前から消えてやる」
「無理ですよアンタには。……無理だったらいいなって、思います。一虎君がそれくらいは、俺のこと好きだったらいいなって」
目の内で赤く発火した怒りが、しゅんと消えるのを見つめるのは、虐めているみたいで居心地が悪かった。強張っていた一虎の顔が情けなく歪んだ。好きだよ、って言われてるみたいだと、甘ったれたことを千冬は思う。罪の意識は、感情に枷をつけることはできなくても、行動は律せる。千冬は理解している。一虎君は絶対に俺を好きだと言わない。フェアじゃないから、俺もそれを言わない。
代わりに、丸い額にキスをした。
「しんどくて、苦しくて、俺の前から消えたくなっても、上手くやらないでくださいね。手がかり残して、チラチラこっち振り向きながら、逃げてください」
「航空灯つけて?」
「猫の鈴みたいにピアスの音鳴らして」
「ダセェ」
「とか、言わないですから」
腿の上に載った頭を抱きこんで、遠慮ない力加減でぎゅっとしたせいで、グエッと一虎が色気のない悲鳴を上げる。その騒がしさに紛れ込ませて、だからどこにも行かないでと、甘ったれたことを囁いた。
俺だって一人で過ごす夜はさびしいのだと白状してしまうよりは、アンタのことが好きだと告げる方が簡単だと、千冬は思っている。アンタのこと好きだから、一緒にいたいって思うんです。それだけだと言ってあげられないのは、確かに真実なのだけど。
笑顔を知っていること、涙を知っていること、肩甲骨を覆う皮膚の手触りと温度を知っていること、箸を握る指を知っていること、あいつを頼むと言われた気がすること。手放しがたい理由はいくつもあって、その重さを測ったり優劣をつけるのは、馬鹿らしいと千冬は思う。
口先をふわふわと欠伸が覆った。俺から離れるべきだと、思い悩むことはきっと一生やめてはくれないだろうから、俺たちがあの頃、命より大切にしていた潔さなんて、思い出さずにいてほしい。俺はここにいるとピカピカと存在を主張しながら逃げていくような矛盾の、ダサい未練でいいからみせてほしい。アンタだってそれくらいは、俺のこと好きでしょうよ。
温もりが千冬の体からトロトロこぼれる。触れ合ったところから一虎にも伝わればいい。いい加減千冬は眠い。苦しみも、葛藤も、すべてを起きた後に任せて、こんな夜はさびしい体温を寄せ合ったまま眠ってしまうのが、きっと一番正しい。
意外に頑固な一虎に、それを認めてもらうにはどうしたらいいかを、考えている。