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次は、小嶋日向守信房関連です。
和田裕弘氏の言われる「裏付けとなる記述」がもっと別にあることを期待しますが、活字版の干城録の第五巻、p1に、川口文助宗吉の項に、寛政譜と同じ記述があります。
「織田右府に仕へ、かつて右府の伯母小嶋日向守信房が女を娶れる因あるにより」
この川口文助宗吉の事績については、干城録は、寛政譜より若干詳しく載っていまして、面白いのは「(天正)三年五月、(三河)長篠の役にハ、右府の指揮により鉄砲をもて武田の兵を敗る。」などとあることです。
また生没年は寛政譜と同様の記述ですが、享年から逆算して、1520年~1582年となります。このことは、文助宗吉の妻の年齢が仮に二、三才年下であったとして、岳父の小嶋日向守信房も、1520年代の大永年間にはまだ存命であったことがわかります。
干城録を調べていて興味を引いたのは、大橋家文書にあるように、織田、大橋、大河内、小嶋、川口、河野、鯰江の諸氏が密接な関係にあったことの傍証になるかもしれないことです。
それは、活字版干城録の第九巻、p75の大河内源三郎政局(まさちか)の項で、その父親を、大河内源左衛門重一(しげかつ)として、「重一、外祖父大橋和泉守定安入道禅休が養子となる(貞享鯰江正休書上)となると記し、天文二十三年十一月、大橋源左衛門重一、美濃国高洲城にて死す(武徳編年集成)」なることが補足されていまして、さらに、「(大河内源三郎)政局、天文十六年、東照宮(家康)質として今川家に赴かせ給ふとき、途より織田信秀がために尾張国に誘われ給ひ、(尾張)名古屋の万松寺天王坊に移らせ給ふ。此とき、政局(まさちか)その坊に参り給仕したてまつらんことを請ふ。政局が伯母華陽院方(清康室、大河内氏)は、伝通院殿(家康生母、水野氏)の御母堂なれば、織田信秀其の由緒を知り。これを許す。これより政局、河野藤蔵と共に御傍に近侍し、昼夜勤仕し奉る(貞享鯰江正休書上・大三川志)」
とあることです。ここにある、「河野藤蔵」とはだれであるのか、分かりませんが、
以前投稿した、「続群書類従・第七輯 上 系図部」河野系図と関係ありそうです。
通兼(稲葉七郎左衛門)―通祐(稲葉左衛門尉) ─────────────────┐
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通友 通村(林之祖新五郎佐渡守)―通安―通勝(新五郎佐渡守) |
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通忠 (新三郎) |
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女子(大橋定安妻と校訂) |
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└(稲葉)通以 (備中守白雲) ─ 通長(伊予守塩) ─ 義通(伊予守入道一鐵) ─ 貞通
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某 (蔵人) 女子(藪田小嶋日向守信定妻)
通政(新三郎)─-某(市助) 母林通勝女
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正三(林宗兵衛通勝養子) 母大橋清兵衛重長女──(稲葉)正成─春日局
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女子(鯰江左近貞直妻) 捨子
二歳之時父討死。後対馬守大橋家ニ養育而嫁左近。慶長十七年三月廿卒。
四十一歳。法名妙温。
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