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天才投資家の天国と地獄 時代の寵児となったあと姿を消した彼はどんな晩年を送っていたのか

2022.05.17 公開

一昨年2月、東京・葛飾区で火災が発生した。アパートの一部屋が全焼し、家賃4万2千円の6畳一間の部屋から損傷の激しい男性の遺体が発見された。

歯型から特定されたのはケタ違いの金持ちとして日本中を騒がせた男・中江滋樹。株相場にめっぽう強く23歳で数十億円を動かし、投資の怪物と呼ばれ、毎晩銀座の高級クラブで何千万円も使っていた男だ。 

そんな彼が、なぜ、6畳一間の焼け跡から遺体で発見されたのか?

1977年、中江は京都で投資顧問会社「ツーバイツー(2x2)」の社長を務め、客に株の売り買いのアドバイスをし手数料をもらう仕事をしていた。その読みはよく当たると評判で会社を初めてすぐに資産家の客が何人もついた。

当時中江はまだ23歳。会社立ち上げ2年後には手数料が月に数千万円、ときには
1億円を超えていた。

社員はわずか10名ほどに対し顧客は5000人を超え、中江一人で1日に10億円を動かすこともあったという。 大阪証券取引所のある大阪の北浜でも有名になり「北浜の若獅子」と呼ばれていたという。

中江は22歳の頃、京都市山科区に六畳一間のアパートを借りたった一人でツーバイツー(2×2)を立ち上げた。

仕事は株情報のリポートを作ること。インターネットで会社情報を検索できる今とは違い、当時は、株のプロに会員費を払いお薦めの銘柄・買い方などを教えてもらうことが主流だったため、株を熟知していた中江は株の儲け方をリポートにまとめ1枚1枚手作業で印刷、個人投資家の住所に無料で送っていた。

すると予想をはるかに超え、問い合わせが殺到。

中江がリポートに書いたのは、一点大穴を狙わず、統計により複数の銘柄を選び、着実に2割ずつ利益を上げるというもので、リスクを分散するという考え方。それは当時では珍しく、投資家に受けた。リポート料は年間3万円だったが、現金書留が大量に届いた。

このリポートがきっかけで、わずか1年で数十億を動かす男に。 

関西で成功を収めた中江は東京へ。 東京証券取引所のある兜町に近い日本橋にツーバイツーの東京支店を開設。中江は会長となり新しいチャレンジを実施。それは、月刊誌を作ること。

「今のレポートは、うちの会員だけに送っているものだ。俺は、全国の本屋に月刊誌を流通させたい。株の情報誌を作りたいんだ」中江は全国の書店に並ぶ月刊誌を作れば会社の信用につながると考え、できたのが『月刊投資家』。中江は投資ジャーナルという会社を作り、そこから発行した。

中身は、相場予想のほか、大手証券会社部長クラスのインタビュー、大物政治家や官僚、上場企業の社長らも登場。この月刊誌は売れに売れ、投資ジャーナル社の知名度は上がり新規の客が殺到した。

そして東京進出からおよそ1年で、 相場のリード役を果たしその筋では教祖的存在に。中江は日本の証券取引の中心地でその力を認められていたという。

中江が株の読みがうまくいったのは、高校時代の大失敗が影響していると言われている。

中江は滋賀県有数の名門高校に進学し、そのときにはすでに株をやっていたという。

授業中、株価の動きをラジオで聞きその日の動向を確認、父に株の予測を連絡。サラリーマンの平均月収が4万円~6万円だった時代に中江は高校生で1000万円、今の価値で3200万円ほど儲けていたという。

中江も読みは評判になり、学校の先生から相談されることもあったという。

その頃中江が注目していた株は「弱電株」。弱電株とは発電機や変圧器、モーターなど大型電気機器を製造する企業が「強電株」と呼ばれるのに対して、電気の信号を使って通信などの情報伝達や制御する分野の企業の株を弱電株と呼ぶ。

当時、中江は無人駅システムや世界最小の電卓を作った企業や、FMチューナーを作っていたアルプス電気の株に目を付け、資産を増やしていたという。

が、ある日株の読み間違えをし、600万円の損失をしてしまった。そのとき中江は金のことよりも相場を読み間違えた自分が許せなかったという。

すると、わずか1か月後に1株50円だったある船舶会社の株が1日で一気に110円まで上がったことが気になり、すぐにその船舶会社に全額投資。この取引だけで1000万円儲けたという。

その後中江は高卒で名古屋の投資顧問会社に就職。そこで3年間学んだ後、京都で起業し、24歳で東京へ移ったのだ。

東京でも成功を収めた中江は大手証券会社の幹部たちの勉強会に呼ばれ、相場観を話すようになったという。

中江が優れていたのは、大衆が興味ある話題をいち早く見抜き、その話題に乗じて株式市場で仕掛けることだった。

その一つの例が、当時巻き起こっていた、VHSとベータマックスのテープのうち今後主流になるのはどちらか?というものだった。

当時、テレビ番組などの録画を記録するテープはベータマックスと、それよりやや大きいVHSテープの2種類があった。

これらのテープは互換性がなく、ベータマックスもVHSも専用のデッキでしか使用できなかった。そのためどちらが主流になるか論争が沸き起こっていたのだ。

この読みは大金を呼ぶ、そう思った中江はあらゆる業界の集まりに顔を出しトップから現場までつながり、情報収集をし続けていたという。

そしてある企業が国内で初めて小型ビデオで長時間録画ができるテープの素材開発に成功した、というニュースを知った中江は、長時間録画に関する開発でベータマックスとVHSに互換性が出て統合されるのではないか、と考えた。

となれば、開発した企業の株は必ず世間に注目されると読んだ中江はその企業の株を100万株購入。

中江のやり方は、これだと思った株を、まずはリスクを覚悟で自分が大量に買うやり方で、株価が動いたことに反応した投資家たちがなにかあると踏んで追随した。

結果的に、この企業の株価はごく短期間で1株300円から600円にまで暴騰。それを見て中江は一気に売りに出し、この株を勧められていた投資ジャーナルの顧客もかなりの儲けを手に入れた。 

中江のように株価を意図的に釣り上げることを「仕手」と呼び、中江の仕掛けはことごとく成功。

巨万の富を持つ青年投資家として中江はマスコミにも注目され、銀座の高級クラブで
桁違いのお金を湯水のように使っていたという。

その裏には一瞬の躊躇で全てを失うこともある株の世界の恐怖があった。毎日巨額の金を動かしながら酒に酔いその恐怖をごまかしていたという。

そもそも中江が株に興味を持ち始めたのは、子供の頃から独特な金銭感覚があったこと。自分の誕生日には夕飯の鯛を我慢しその分の材料費をもらったり、喫茶店で父との料理の差額分をもらってお金を貯めていたという。

そしてある日、父親の持っている上場企業の株情報が載っている本「四季報」に目が止まる。映画会社が株主優待として月に2枚映画のチケットを配布しているのを知り、株を買うと決意。

当時、その映画会社の株価は1株20円。中江は全財産の2万円で1000株買ったという。

すると、その会社と別の大手映画会社が合併するというニュースによりおよそ20円だった株価が約40円に上がり、中江の2万円は約4万円に。何もしていないのに、自分の金が2倍になったという体験から、中江はどっぶり投資の世界にはまることに。

中学生になると株価と株価チャートを毎日チェックするようになり、好奇心が旺盛な時期に、柔らかい頭で株価の変化の謎を分析。その才能を開花させるのだが、若すぎる成功が、破滅へとつながっていく。

中江が東京に進出してから3年。1981年9月。ある企業の株を30万株受け取るはずが、精算の際にトラブルが起こった。それにより証券金融会社が、株の受け渡しを拒否。

精算トラブルは信用に直結する。兜町には投資ジャーナルの経営が危ういのでは?という噂が広まり、その噂で、中江が推していた他の株も暴落。

結局、投資ジャーナルは1日で5億円の損害を出してしまう。

そんな時、会社の幹部から「証券金融をやりませんか?」と提案をもらう。それは投資家に融資しようという提案で、投資家に一定の保証金を納めてもらうことで、元手の10倍まで融資しようというもの。

100万円の元手がある投資家には900万円を融資し、1000万円分の投資を可能にするというシステムを作ろうという提案だった 。

この時中江は、無免許で客に融資し投資させることは違法ではと思ったが、一刻も早く5億の損失を埋めたい、という考えからやることを決めてしまう。この判断が中江を地獄へつき落とすことになった。

1982年3月。中江は、証券金融会社・東証信用代行を設立。

投資ジャーナルには元々会員が3万人いたため、10倍融資は好評でどんどん金が集まった。 中江は社内で柱制度というものを作り「柱」と呼ばれる社員を中心に班を作り、班ごとにノルマを与え競わせた。

破格の賞与と厳しい罰におびえた社員たちは必死に働き、毎日平均2億円もの金が集まり始めたという。

そして中江は客の金を勝手に運用し始め、客が欲しい株でなくても結果的に利益を客に戻せばいいと、中江は1日1億円~5億円の利益を出していたという。

しかし10倍融資をはじめて1年9か月がたった頃、「投資ジャーナルに強制捜査が入る」「中江が逮捕される」という噂が飛びかった。

無免許で投資家に融資する10倍融資は違法だと警察が判断したと思われた。すると会員は資金や株券返却を要求し始め、中江はマスコミから身を隠そうと海外へ。台湾からフィリピンへ移動した。

そして1984年8月24日、ついに警視庁の捜査が投資ジャーナルに。さらに家宅捜索から9か月後、中江は自ら警視庁に出頭。

出頭が任意だったため一旦中江は解放されたがその約2週間後、投資ジャーナル幹部11人と共に詐欺容疑で逮捕された。

警察は詐欺を行ったと容疑をかけるが、中江は断固として認めなかった。この頃、中江が社員にあてた手紙には『今の私を支えているものは、会長としてのプライドだけです』『写真を送ってください。元社員の人たちが新しい人生を歩んでくれていることを想像すると気が楽になるのです』『新しい人生を、思いっきり生きてください』と書かれていたという。

検察は、投資ジャーナルが客から集めた584億円のうち、18億円を詐欺として、懲役12年を求刑。

そして判決は懲役8年となった。その後控訴し実刑は6年に。中江は地元である滋賀県の刑務所で独房に入れられたという。

その孤独に耐えられたのは復活への執念だった。「俺の才能なら、また稼げる。また絶対に儲けて…世間を見返してやる」と決意したという。

収監されてから約4年。1992年10月1日、中江は滋賀刑務所を仮出所。知人に預けておいた株を返してもらおうとしたが、昔の知り合いは連絡を拒むようになっていた。

一方で、中江の周りには反社会勢力の男たちが近づき「好きに使ってください」と、闇の金で時には30億、40億を動かしていたという。

ところが出所から6年後の1998年4月、中江は忽然と姿を消した。反社会勢力との金銭トラブルで殺されたという噂も飛び交い消息は途絶えた。 そして、22年もの時を経た2020年2月、中江の遺体が見つかったのだ。

今回、中江に2006年から定期的にインタビューを続けその生涯を本にした比嘉満広さんが、中江が行方をくらませたあとの人生を語った。

実は中江は、反社会勢力から逃れるため、一億円を持ちカナダへ。そこで愛人と6年暮らし、ビザが切れて強制送還されたという。

そして2007年、中江を慕う投資ジャーナルの元部下に雇われ、月給50万円でまたも株銘柄のリポートを書いていた。リポートは好評だったが、2年後に部下がその仕事をやめると中江も失業。 

2012年、中江は葛飾区のアパートに引っ越し、生活保護を受け始めた。

亡くなる1か月前に中江に会ったという比嘉さんによると彼は毎日、2台のパソコンで株価のチェックを続けていたという。 

そして一昨年2月20日。中江は自身の寝たばこが原因で火災を起こし死亡した。焼け焦げた部屋からは株に関わる資料の残骸が数多く見つかったという。

中江と何度も話をしてきた比嘉さんの印象に残るのは、中江が高校の時に600万円を失った日のことを「あれが俺の人生で一番の失敗だったんだよという感じでした。それで、本当に思い出すように悔しそうに話すんです」 ということ。中江は、比嘉さんに会う度、自作の株式チャートを見せ「誰かが1億円融資してくれれば必ず儲けさせてやるのに」と、繰り返していたという。

かつて何百億円もの金を動かし時代の中心にいた男は、もう一度相場を動かしたいという願いを抱いたままこの世を去ったのだった。

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