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過日、本年度のインカレ選手権大会1回戦が行われた。結果そのものはとても他人に誇れるものではなかったが、「ラグビー」というゲーム(試合)を終えたプレーヤー一人ひとりの背中はもっと誇らしい姿であっても良かったと思う。試合後の反省会では、「自分は全然走れなくて皆に悪かった」「ディフェンスをしっかり出来なくて皆に迷惑をかけた」「声を出せなくて申し訳ない・・・」等々の発言が続くうち、その場の雰囲気はどんどん暗くなっていった。傍らでその姿を見ながら、部員たち皆の純真さが伝わってくる一方で、“ある想い”が浮かんだ。そしてその晩、ちょうど私が皆と同じ年くらいの学生時代、恩師からもらったメッセージを読み返した。これから、当時の言葉を借りながら、その“ある想い”を伝えてみようと思う。
拓殖短大ラグビー部員の多くはラグビーに触れて数ヶ月、数年もない。現時点で、そのハンディを凌駕するだけの猛練習を重ねてきた実感が皆にはあるだろうか。経験豊かなプレーヤーを何人も抱え、チーム全体がラグビーに情熱を注いできたことが容易に見て取れる相手に負けるのは当たり前のことじゃないか。W杯決勝戦での敗戦というのなら落胆する気持ちも理解できないこともない。(ともあれ、そのような場で戦うスポーツプレーヤーの多くは、その敗戦をも自信をもって受け入れることができるだろう。身近なところでは、今夏の甲子園大会決勝戦で敗れた駒苫ナインの表情から皆は何を感じとっただろうか)皆にとって、負けることが自分自身を否定しなければならないほど重大な出来事なのか。そう考えをめぐらすうちに、ちょっとした問題の大きさにも思いを馳せた。
「皆の多くは、子どもの頃から常に“結果”を出すように求められてきたんじゃないか。テストで良い点数をとること。受験で合格すること。いつもいつも“結果”でその人間性を判断されてきた。そして、スポーツでは“勝つ”ことのみを・・・。結果が出るまでの努力や迷い、創意工夫といった“プロセス”はほとんど認められてこなかったんじゃないか」と。学校教育のみならず、現代の社会はこの「結果至上主義」からなかなか抜け出せないでいるように思う。良い“結果”を出せない人間は不当に低く評価されるし、本人自身も無意識にそう考えてしまう。本当にこのままでいいのだろうか。
話しを戻そう。もちろん、私は“勝利”という結果に意味がないと言っている訳ではない。「勝ちたい」と思う気持ちは誰もが持つものだし、私自身も負けず嫌いだ。むしろ、その気持ちは決して失ってはいけないとも思う。さらに、勝敗という結果は、精神面も含めた自分たちの競技レベルも示してくれる。しかし、今は“プロセス”を度外視して“勝利”の意味を捉え、闇雲に“勝利”を求める考え方を問題にしているのだ。小さな地方短大ラグビー部の唯一の目標が「勝つこと」であるとしたら、そのまなざしの先にあるのは全国制覇?それとも、北海道一?2部優勝?はたまた、1勝?・・・極端な言い方をすると、試合に勝利したいだけなら、中学生か老人の方々のラグビーチームに試合を申し込めばよいことにはならないか。
哲学者の内山節は中学生向きの『哲学の冒険~未来を恐れず美しくいきるために~』という著書のなかで、「僕らはいつも過渡期でしかない」と言っている。「人生が、一生涯をかけて何かを表現する作品だとしたら、この一瞬一瞬は常にプロセスでしかなく、だからこそ“今”を全力で生きる」というのだ。そう考えれば、試合という一区切りの作品は、勝ち負け以上にプレーしている“プロセス”こそが大切になってはこないだろうか。その試合がどんな作品だったのか・・・結果は、おのずと浮かび上がってくる。時間が経ってから考えてみると、負けたほうが自分の人生にとって良かったことも多々あるものだ。“プロセス”の意味をもう一度問い直そう。
皆はラグビーの「ノーサイド」の意味を考えたことがあるだろうか。試合を終えれば敵味方仲良く握手して・・・(じつは心のなかでいがみ合いながら)。本当はそんなうわべだけのきれいごとではない。もともとラグビーでは、トーナメントやリーグ戦による大会は無かった。必ず「○○チーム」対「□□チーム」の“フィクスチュア”と呼ばれる個別的対抗戦で行われていたという。対戦相手を決める基準は同じレベル同士ということであった。なぜなら、お互いが持っている力を試合で出し切る条件を整えることが「フェア」とされたからである。50点も差がつく試合は、はじめから「アンフェア」であると。キックオフの笛がなったらお互いがチームの勝利に向かって「Go Forward!~前進あるのみ!~」(戦術的な意味ではなく、試合に臨む心持ちとして)。決して手を抜くことは無い。それが相手に対する礼儀でもあり、試合を一つの作品として質の高いものにする。そして、「ノーサイド」が宣告されたら勝っても負けても「素晴らしい時間を過ごさせてもらった」「楽しいラグビーだった」というようにその試合を、すなわち「ラグビー」(状況を区切られた練習は純粋な意味で「ラグビー」ではない)という作品をともに創り上げた喜びを分かちあう。それが「ノーサイド」であるという。
私はいつも「サポート、サポート!」とうるさく言っている。“フォロー(追う)”ではなく、“サポート(支える)”ということを。失敗は誰にでもある。その上、ラグビーは相手のあるスポーツであり、相手の力が強ければ上手くいかないことの方が多いのだ。その時にお互いがサポートしあうことによって、困難な局面を克服していく。そして、“サポート”とは決して技術的なことだけにとどまらない。「ラグビー」の質を高める上でも最も重要だと思うのはその基盤にある「サポートの精神」なのだ。フィールドで敵味方計30人のプレーヤーが入り交じるなかで、1つしかないボールをひとたび手にしたら、そのプレーヤーが試合を創る。他の誰でもない、まさしくその本人が試合を創る主役なのである。そして、他の14人は全力を尽くして彼をサポートする。「失敗を恐れるな!思い切って行け!俺がサポートするから」と。先述を繰り返すが、自分を責めているのが自分自身であってはならない。そのような精神状態では、チームメイトのサポートを決して自らの力にすることはできないのだ。
他方、皆は私の口からの“フレア”という言葉を何度か耳にしてきたと思う。その意味を「ラグビー」に照らし合わせてかみ砕くと、トライへ向かうための最善の状況判断とでも言うべきか。そうして「ラグビー」では、瞬間瞬間で刻々と入れ替わる主役の“フレア”をチームメイトが互いに“サポート”し合いながら、「今」という一瞬の“プロセス”を積み重ねていく。
そのうちに、いつの間にかチームメイト全員が同質の感覚を共有できるのだと思う。その結果が勝利なのか敗北なのか、、、できれば勝利であることを強く願うのみだ。
「サポート&フレア!」初代ラグビー部員の引退とともにこの言葉を彼らへ贈らせてもらったことを記憶している。今から2年半前、私が拓殖短大に赴任して、初めて「監督」という立場でラグビー部員と対峙させてもらった。それ以来、当時の学生と共有してきた手さぐりの“プロセス”を通じて、私自身が初めて実感として学ばせてもらった言葉でもある。“サポート”とは自分自身と仲間を信じ、行動するもとにある「心の力」。“フレア”とは「今」を感じとる感性と、それを未来へ開くための「ひらめきの力」だ。
OBもかつてそうであったように、現役生も潜在的にこう思っているように感じることがある。初心者であること、基礎体力がないこと、足が遅いこと、体格が小さいこと・・・。人間はひとつのものさしでみた時、必ず差があるものだ。このことは決して不平等なことではない。美しすぎるという嘲笑を承知で敢えて言うと、様々な輝きを秘めた原石であるという点では皆が平等なのだ。だだ、その色が一人ひとり違うに過ぎない。そして、その原石を磨き上げる程度が違うだけなのだ。自分を責める気持ち、他人と比べる気持ち、あきらめ。これらは、本来皆が持っている輝きを曇らすばかりではなく、自己を磨き上げるチャンスをも見失わせてしまう。失敗、敗北こそが自分を磨くチャンスなのだ。失敗や敗北も喜ぼう。皆は今、人生という作品を創っている真っ最中なのだから。
平成18年9月24日 岡 健吾
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