11 2022/06/29版 

11回 女性表象論 

ジェンダー論でなく、注視される対象としての女性で捉える映画史

今週は映画、そして女性表象についてです。


映画の中の女性像



1-1 理想の女性像


・ピグマリオンの欲望する眼差し


 オードリー・ヘップバーン主演の映画『マイ・フェア・レディ』1956年)は、同名のミュージカル作品の映画化であった。言語学者の中年ヒギンズ教授が、下町生まれの花売り娘をお嬢様に仕立て上げる間に繰り広げられるコメディで、ヒキンズの思惑どおり令嬢へ変身した街娘イライザに富裕階級のフレディーは恋をしてしまう。


ヒギンズ教授も徐々に変身したイライザのことが忘れられなくなっている自分に気づくのであった。


 ロマンティック・コメディ『マイ・フェア・レディ』は、もともとギリシア神話に登場するキプロス島の王ピュグマリオンの伝説を題材として書かれたバーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』(1913年初演)を原作としている。


現実の女性に失望したピュグマリオンは、自ら理想の女性をかたどった美しい象牙の彫刻を作り、彫刻を飽きることなく眺め続けた。やがて彼は彫刻に恋してしまい、食事を用意したり話しかけるようになっていく。そして理想の女性像が人間になることを心から願い、毎日彫像から離れないでみつめ続け、衰弱していった。そんなピュグマリオンの姿を見かねた愛と美と性を司る女神アプロディーテーが、彼の願い叶えて彫像に生命を吹き込んで、人間の女に変える。くれた。ピュグマリオーンは自ら作り上げた理想の女を妻に迎えたという。


19世紀の機械仕掛けのガールフレンドたち


 このピュグマリオーンの伝説を題材としているのは、バーナード・ショウの戯曲の他にもたくさん存在する。


 19世紀にフランスの作家ヴィリエ・ド・リラダンが書いたSF小説『未来のイヴ』1886年)もそのひとつである。「アンドロイド」という言葉を最初に用いた作品と言われる『未来のイヴ』では、青年貴族エワルドが、絶世の美貌をもちながら知性が欠落している恋人のアリシアに苦悩していた。エワルドが友人のエディソン博士に自らの恋の苦悩を告げると、エディソン博士はアリシヤの身体から心を取り除く方法があるという。博士はアリシヤとまったく同じ外見の人造人間ハダリーを科学の力で創造できるというのだ。エワルドは悩んだすえアリシヤと別れ、人造人間ハダリーを伴侶とする。しかしエワルドがハリダーを連れて母国イギリスへ戻る途中、乗っていた船が火事に遭い、まだ箱詰めのままだったハダリーは大西洋の藻屑と消えてしまった。


 SF小説『未来のイヴ』は、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』(1926年)など、後発の作品に多大な影響を与えている。作中に登場する「ハダリー」という名前はペルシア語で「理想」を意味する。


 同じような物語としてオートマタ(機械仕掛けの自動人形)に恋して、その女性が機械と判るだけでなく、壊れてしまうのを目撃して気がふれてしまう男が登場するE.T.A.ホフマンの『砂男』(1817年)と、これを原作として作られたといわれる人形への愛を題材とした、クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ が音楽を手がけたバレエ作品『コッペリア、あるいは琺瑯質の目をもつ乙女』1870年初演)がある。


 オートマタとは、機械的な仕掛けで自動で動く人形、いわゆる「からくり人形」のことで、18世紀から19世紀前半にかけて広く普及した。美術的な価値の高い外見をもつ人形の中に、時計職人たちの高度な技術を詰め込んだオートマタがヨーロッパ各地で次々と作られた。娯楽的な鑑賞目的だけでなく、宗教的な儀式での使用を目的としたオートマタ人形も数多く存在していた。


・動きを発明した19世紀 機関車、映画、オートマタ


 スチーブンソンのつくった蒸気機関車が走り出し、エジソンが電球や蓄音機を作り出した19世紀とは、動力と機械が相互に結びついていった時代であったが、一方で、写真と映画が発明された時代である。(ダゲールがフランス学士院科学アカデミーの定例会において、芸術アカデミーとの共催によりダゲレオタイプに関する公開講演を行ったのは1839811日だった。リュミエール兄弟が現在のカメラや映写機と同様の機構をもつシネマトグラフ・リュミエールを開発して、パリのグラン・カフェで有料の試写会を開いたのは18951228日だった。)


・他者の外見を所有する


 自ら彫り上げた女性像が神の力によって動き出したピグマリオンの物語をもとに、機械人形が作られるホフマンの『砂男』と、発明家エジソンの名を模した科学者の手によって科学の力で作られた動く理想の女性を夢見たリランダの『未来のイヴ』、それらは女性の像(イメージ)に恋してしまう男性たちの物語である。共通しているのは理想を現実のものにしようという欲望であった。


 それらの物語では男性の手に入らない女性への想いと現実の差が共通のテーマになっている。男性の女性に対するイメージの追求が描かれているのである。


 ピグマリオンの伝説は理想が現実になってしまう幸せが、他の二作では失ってしまうことで、耐え難い不幸がやってくる。理想の追求を諦めていたとしても、おそらく結果は変わらない。堂々巡りの苦悩が続いただろう。機械の人形や象牙の彫刻が相手という特殊な物語ではなかったとしても、そのような恋愛の葛藤を誰もが経験するだろう。この葛藤は人類の歴史の中で何度も繰り返されてきたのだ。それは男性のエゴにまつわる説話である。美しい女性を手に入れたいという「視覚的な所有」についての物語でもある。


・機械仕掛けからフィルム仕掛けへ


 リランダが「未来のイブ」を書いた9年後の1895年に、人類は動く人間の外観を記録して再生できる映画を発明する。それはまさに魂のない外観を、フィルムに写し取る複製技術であり実体のない機械美女の発明になった。アイドルや美しい女優たちが登場する映画に向けられる我々の眼差しと、美しい彫刻の女性を見つめるピグマリオンの眼差しに、たいした違いはない。


 映画の発明以前の絵画の歴史でもそうであったが、映画は発明されてからずっと女性像を表象してきた。映画の誕生から一世紀以上が経過した現在まで、我々は映画によって写し取られた他者――複製された幻影の身体を眺め続けてきた。複製の身体はスクリーンにどのように映し出されてきたのだろうか。とりわけ男性はどのように映画という媒体において女性を眺めてきたのだろうか。


 神話、小説、戯曲(演劇やバレエ)、そして絵画や彫刻で、これまで語られてきたのと同じく、映画も常に理想の人間像を表象してきた。映画(を含む映像メディア)は、記録された身体の有り様、さらに物語の中で男優や女優が演じる外見を通して、身体的な性差と、その魅力を表現する媒体である。そして映像は社会的・文化的な性のありよう――いわゆるジェンダーを、もっとも強度に描いてきた。さらに映画が我々の社会的な性差のイメージそのものを確立してきた。そのような映画におけるジェンダー、とりわけ女性の表象がどのように変化してきたのか、いくつかの例を挙げながら考察していく。

            


2 助けを待つ女たち


・囚われの姫君


 Damsel in distress(ダムゼル・イン・ディストレス)とは、映画や小説に登場する女性キャラクターの類型である。『眠れる森の美女』(ヨーロッパの古い民話童話。アールネ・トンプソンのタイプ・インデックス:AT分類410と、同タイトルの1959年制作のディズニーアニメ)や『いばら姫』(グリム童話集、KHM 50)『スター・ウォーズ』(1977年)のレイア姫、または『スーパーマリオ』(1985年)のピーチ姫など、囚われの姫君たちがその例となる。


 古くは神話におけるアンドロメダ型神話の英雄譚に多く登場する。アンドロメダ型神話とは英雄が竜などの怪物と戦って、囚われの姫君を助け出すといったストーリーを持つ神話の定型である。


 アンドロメダはギリシア神話の王女で、母親のカッシオペイアが自分の美貌が神に勝ると自慢したのに怒った神々によって化け鯨に生け贄として捧げられる。アンドロメダが波の打ち寄せる岩に鎖に繋がれ、怪物の餌食になろうとしていたところに、怪物メドゥーサを退治して、その首を携えたペルセウスが通りかかる。ペルセウスは目を合わせたものを石に変えてしまう眼力をもつメデューサの首を怪物に向けて石にしてしまい、アンドロメダを救出する。後にアンドロメダはペルセウスの妻となる。


 日本神話における須佐之男命(スサノオノミコト)が、ヤマタノオロチを退治して、生け贄の櫛名田比売(クシナダヒメ)を救う逸話も、アンドロメダ型神話の類型と考えられる。櫛名田比売(クシナダヒメ)もDamsel in distress(ダムゼル・イン・ディストレス)の代表的な姫君のひとりなのだ。


 ダムゼル・イン・ディストレスは現代の小説・映画・マンガ・アニメなどにも頻繁に登場する。ダムセルとは若くて未婚の女性のことで、悪者・怪物・異星人にさらわれて危機におちいる役回りで登場する。その多くは囚われて縄や拘束具で縛られるか檻に入れられる。または監視付きの軟禁状態におかれ自由を奪われている。英語でDamsel in distressとネット検索すると、縄に縛られて線路の上に横たわるたくさんの女性たちの画像が見つかる。それらはアメリカの西部劇映画における類型的なヒロイン像である。ダムゼル・イン・ディストレスとは物語における類型なだけではなく、シチュエーションを表すイメージとしても通用する類型になっているのだ。





・サクリファイス・ジェンダー


 ギリシャ神話『ピュラモスとティスベ』(桑の木)を元にしたウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』1595年頃)について詳しく説明する必要はないだろう。14世紀のイタリアの都市ヴェローナで、敵対する両家の若い男女が許されない恋に落ちる。物語の終わりでヒロインのジュリエットは偽の毒薬を使った仮死状態となるが、ジュリエットが本当に死んだと思ったロミオは毒を飲んで死んでしまう。仮死状態から目覚めたジュリエットもまた息絶えたロミオを追って短剣で自死する。愛するロミオのために苦難に耐えるジュリエットは、ロミオと結ばれないだけでなく、最後は自らの命を絶つ貞淑な女性である。シェイクスピアの戯曲における同様の哀しい運命をたどる女性として『ハムレット』(1960年頃)にも度重の悲しみのあまり気が狂い溺死してしまうヒロインオフィーリアがいる。(溺死するオフェーリアの哀れな姿はミレーを始めとする画家たちの手によってたくさん描かれている)彼女たちは家や時勢といった社会的な制約に囚われた姫君であり、待ち続けたけれど報われて解放されない。さらに愛する主人公の死や変貌に絶望して絶命するのである。


 ジュリエットに代表される自分の命を捧げる貞淑な女性――悲恋の物語のヒロインはみな愛の殉教者――サクリファイス・ジェンダーである。彼女たちは愛に囚われ、助けがやって来なかったり、恋人が死んでしまうという悲劇のヒロインたちなのだ。


 通念的なダムゼル・イン・ディストレスが登場する物語の主人公は彼女たちではない。見事に彼女たちを救い出して結婚する勇敢な男性の物語である。ダムゼル・イン・ディストレスの姫君たちは最終的に男性の所有物となって、彼女たちもまた幸せになったと語られてきた物語に登場するのである。それらと異なりサクリファイス・ジェンダーの女たちに救いは訪れない。あるいは救われたが、独り残されてしまう。女たちの末路は、不幸せな結果に終わってしまう。これらもダムゼル・イン・ディストレスの別の類型にはちがいない。そのような不幸せなダムゼル・イン・ディストレスの物語も、男性たちの存在のもとで成立可能な物語として描かれてきた。


 女性の社会的認識に関わる話であるが、神話などこれまで語られてきた物語のほとんどは男性を主人公に据えた展開であり、そもそも男性のために作られて、語られてきた物語である。


ディズニー・プリンセス


 そのような物語構造は映画史においても随所に伺える。たとえば一般的にディズニー・プリンセスと呼ばれる、これまでディズニーのアニメ映画に登場した女性キャラクターたちを例にあげたとしても、ヨーロッパで古くから伝承されてきた説話をまとめたグリム童話を題材とするアニメ化作品『白雪姫』(1937年)や、『シンデレラ』(1950年)から始まるこれまでのプリンセス・ストーリーでも、彼女たちは物語の構造においては、やりとりされる対象でしかなかった。(『ポカホンタス』(1994年)や『プリンセスと魔法のキス』(2009年)辺りから、そのような「やりとりされる対象」としての女性ではなく、明確な人格をもつ人物として描かれている女性たちが物語を牽引していく展開になっている)


 ダムゼル・イン・ディストレス型の女性とは、物語において人格としての自立を必要としない対象にすぎなかった。鎖につながれたアンドロメダからいままで彼女たちは奪還される対象であり、勇者への褒美として物語に登場してきた。ジュリエットやオフィーリアも、勢力を競い合う男性社会における所有物として描かれていて、自らの命を絶つことで、彼女たちは所有される状態から脱出しているのである。




3 逃げる女


・フェミニズムの歴史


 フェミニズム思想は、男女同権運動と関わりが深い。近年ではフェミニズムの思想は多様であり一つの思想と考えることはできない。


 その流れは歴史的に三つに分類される。


 ひとつめは、フランスから始まる18世紀より20世紀初頭までで、近代国家における投票権や参政権のほか、就労の権利や財産権などの法的な権利の獲得にかかわる闘争であった。1789年のフランス革命により採決されたフランス人権宣言が、その権利を男性にのみ与えていることを問題視した女性たちによる抗議運動が発端とされるフェミニズムの運動がヨーロッパ中に拡がっていった。


 ふたつめは、20世紀初頭から1970年代までに、アメリカを中心にしておこった運動である。働く権利だけでなく職場における平等、男子有名大学へ入学できる権利、中絶の合法化などの獲得を目指した女権運動を指す。


 みっつめは、1970年以降の法と制度上の明確な差別が徐々に撤廃されるようになった結果、これまで見えてこなかった様々な問題が議論の俎上にあげられた運動である。人種や民族、性的指向、階級、多様な女性たちの経験を反映させようとする動きである。ジェンダー観(社会的、文化的に構築される性)が改革されるべきといった主張がでてきたのはこの段階とされる。


 1970年代以降からフェミニズムからジェンダーへと概念が明確になっていった。ポスト・ダムゼル・イン・ディストレス的な女性像が社会的コードとして登場するようになった。大衆映画においてもジェンダーのイメージが表象されはじめた。


・エレン・リプリーとサラ・コナーズの登場


 ダムゼル・イン・ディストレスは太古の神話から続く物語の重要なキャラクターとして存在する。その一方でエンターテイメント性の強い映画を俯瞰してみると、以前と比べて扱われなくなるか、扱いが変わってきているように思える。


『ポパイ』1930年代~1970年代に制作されたアメリカのコミックカートゥーン作品)で、悪漢ブルートの手から助けてもらおうと必死にポパイの名を呼び続けるオリーブ嬢のような、弱さを露呈する役割を担った女性たちは、80年代以降から自ら拘束具の道具から抜けだして、救援にやってきたヒーローの助手として戦いに加わるか、あるいは自ら戦う戦士と化す。たとえばスターウォーズシリーズ』で囚われの姫君だったレイア姫が、自ら戦闘服を着て戦士となっていったように。


 そのような80年代から始まる新たな女性表象の例として挙げたいのが、SFホラーの古典として知られるリドリー・スコット監督の『エイリアン』1979年)に登場するシガニー・ウィーバー演じる主人公エレン・リプリーと、ジェームズ・キャメロン監督による『ターミネーター』(1984年)とその続編に登場するサラ・コナーである。


・エイリアン


 『エイリアン』の主人公リプリーは、もともと宇宙貨物船ノストロモ号の航海師である。彼女は恐ろしい怪物と戦う戦士ではなく、職業に就く一般的な女性だった。


 宇宙貨物船ノストロモ号は、他恒星系から地球へ帰還する途中で、人類初となる異星人の文明と遭遇して、未知の惑星に降り立つはめになる。その結果、船内に侵入した異星人の幼虫が、クルーを次々と殺害しながら成長していく。乗組員たちは様々な方法でエイリアンの始末を試みるのだが、ことごとく失敗して次々殺されてしまう。最後のひとりとなったリプリーはノストロモ号を自爆させ避難用シャトルで脱出するのだが、戦いはそれで終わらなかった。


 この映画の冒頭シーンで、乗組員たちは揃いのアンダーウエアに身を包み、人工睡眠のカプセルの中で寝っている。映画はカプセルが開いて、彼らが目覚めるシーンから始まる。映画で描かれる未来世界では男女の垣根は意識的に排除されている。リプリーともうひとりの女性クルーのランバードは、他の男たちと寝起きを共にしている。男たちと性差の区別なく仕事をこなしている。彼らの会話からも男女の区別は感じられない。フェミニズムなど存在しない、(いや、ジェンダーの未来状況として)マッチョな社会状況は続編の『エイリアン2』で、より明瞭に描写される。


・体内の蛇と母体


 ハロルド・シェクターは『体内の蛇フォークロアと大衆芸術』1992年)において、『エイリアン』と欧州で16世紀から語りつがれてきた「体内の蛇」と類型される民間説話の共通点を指摘している。


 また、『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(2003年)において『エイリアン』をジェンダー映画のメルクマーク作品と位置づけて論じる内田樹は、ハロルド・シェクターの推論をさらに推し進めてエイリアンとは女性を妊娠させようとする男性の性欲を表し、それに対抗するリプリーはフェミニズム志向の象徴として精神的な女性を表していると分析している。


 本来、懐妊は「お目出た」といわれるように、祝福されるべき事柄である。しかし妊娠する女性自身にしてみれば自分の身体の中に他者の侵入を許して巣くわれると捉えることもできる。種子が植えつけられ、体内で育っていく他者に身体を支配されていく状態なのだ。


 民間説話の「体内の蛇」とは、間違って蛇の卵を飲み込んでしまった娘が妊娠して蛇の子どもを生むか、蛇が娘の腹を食い破って生まれるという恐ろしい説話で、それと同じく他者の侵入による自己崩壊の恐怖が『エイリアン』で表される。


 女性器を想像させるフェイスハガーと呼ばれるエイリアンの生殖体が、エッグチェンバーという卵のようなものから飛び出して、宿主となる人間の顔に張りつく。フェイスハガーは口内に長い寄生管を挿入して寄生体を宿主に注入する。植え付けられた寄生体は宿主の身体の中で育って、幼体であるチェストバスター(胸の破壊者)が、その名の通り宿主の体を突き破って体の外へ出てくる。勃起した男性器を思わせるチェストバスターが誕生するとき、宿主となる人間は想像を絶する苦痛に襲われ、胸を突き破られて死亡する。そしてエイリアンは獲物を喰らい続け、人間的な肢体を持つ成体へと成長していく。『エイリアン』で描かれるのは、文字通り他者の身体への侵入と、犠牲となる者たちの死の恐怖である。宇宙で語られる「体内の蛇」の悪夢的な蛇であるエイリアンのデザインは、現代シュールリアリズムの鬼才H.R.ギーガーによるものである。それらは生殖器的な形状と、これまで人間が遺伝的に恐怖の対象として恐れてきた蛇と悪魔的な偶像が混じったような姿をしている。


 さらに内山はこの悪魔的映画の中で、生殖の象徴であるエイリアンと同様に、宇宙船そのものが母胎としての隠喩をおびて描かれていることに触れている。最終的に爆発する宇宙貨物船ノストロモ号を制御しているコンピューターはマザーと呼ばれ、船そのものが女性の母体であることを暗示する。船の爆発は男性の射精という生殖のための絶頂に例えられていて、爆破のカウントダウンとともに中枢コンピュータールームの床からせりあがってくる銀色の棒は、射精に向かう男性器の象徴であり、コンピューターのマザーに懇願しながら半狂乱のリプリーが盛り上がってくる棒を必死に押し戻そうとするのは、体内への射精を静止させようとする女性を表していると内山は指摘する。


 映画の終わりで蛇の巣と化した宇宙船から、かろうじて逃げ出したリプリーは、地球に帰還する脱出用シャトルの中で人工睡眠に入るために、映画の冒頭と同じく、作業服を脱いで下着姿になる。それは最後になってようやく示された彼女の女性性の証である。しかしエイリアンも爆発した船から脱出していて、彼女のシャトルに乗り込んでいた。そしてリプリーの最後の戦いが繰り広げられる。リプリーは脱出用シャトルからエイリアンを排出して焼き殺して勝利する。他者は外部へと排出されてしまうのである。そしてリプリーはようやく安堵の眠り――帰路のための人工睡眠につくのであった。


*内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』昭文社2003年 P57 

*『体内の蛇フォークロアと大衆芸術』ハロルド シェクター (), Harold Schechter (原著), 鈴木 (翻訳), 吉岡 千恵子 (翻訳



・ターミネーター


*時間の都合でカットします。興味がある方は、Bのオリジナルテキストの該当部分を読んでください。





・ファイティング・ジェンダー 


 エレン・リプリーと(「ターミネーター」の)サラ・コナーは、それまでのダムゼル・イン・ディストレスの類型の娘たちとは異なり、彼女たちはだれからも助けてもらえない。そして恋人の死に直面しても、ジュリエットのように自ら命を絶つ女性ではない。ひとりで生きていこうとする強さをもった女性である。その姿は70年代後半から始まった新しい女性表象の類型のひとつであり、ファイティング・ジェンダーと呼んでよいだろうか。


 ファイティング・ジェンダーたちは、自分たちを破壊しようとする対象から逃げきって映画は終わる。しかし彼女たちに幸せは訪れない。一応の安楽は手に入るのだが、彼女たちは追従者によって徹底的に陵辱され、さらなる戦いが続編で描かれる。そのような戦う女性たちの姿が、SFに限らず、社会ドラマ、コメディー、恋愛ドラマなどの映画で、1970年代の終わり頃から表象されるようになった。


 ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』1997年)で、ケイト・ウィンスレットが演じたローズ・デウィット・ブケイターもそのひとりである。彼女は氷の海に沈んでいく恋人ジャック・ドーソンの後を追って死ぬのではなく、生きていくことを決意する。それまでの社会的ポジションを捨てたローズは自立した女性として100歳になるまで生きながらえる。彼女もまた戦う女性のひとりである。


・逃げる女を追い掛ける視線


 別の捉え方してみると、戦う彼女たちは襲い来る宇宙生物や殺人ロボット、沈没する船から逃げる女性たちである。つまり逃げることが彼女たちの抗戦の目的である。彼女たちに襲いかかるのは絶対的な力である。サラ・コナーとエレン・リプリー、そしてローズ・デウィット・ブケイターを追いかけてくるのは、存大な暴力である。それは間接的に男性を象徴している。その追い掛けてくる男性的なものとは、映画をみている観客側の視点ではないだろうか。これらの映画で逃げ惑う女性を追いかけているカメラの眼差しと、スクリーンを凝視している男性たちの視点が同化する構造が伺われる。


 彼女たちは戦う女たちであると書いた。それは自らの身をまもるための戦いで、攻撃する戦いではない。自衛のため戦うのである。映画における彼女たちの役割は逃げることに終始する。身動きが取れない囚われの姫君ではなく、囚われないように逃げる女たちなのだ。ダムゼル・イン・ディストレスが囚われの姫君なら、彼女たちは自ら逃げだした姫君であり、追いかけてくる無慈悲な力から自分自身を守るためファイティング・ジェンダーたちは逃げる。


 逃げきった彼女たちの自立した姿は美しくもあるが、一方でだれもが孤独である。ジェンダーとフェミニズムによる個人の権利は、同時に個人を孤立させ、それまでとは異なる自己意識を導き出してきた。それまでよしとされてきた(であろう)社会的な個人とは、多少なり異なった個人の有り様が、これらの映画で誕生した。それでも強く生きていく人間の姿、それは男女の垣根を越えて精一杯生きていこうとする人間の姿である。


 これらの映画で最後まで逃げる女たちの姿が写し続けられる。生き残った彼女以外の男たちは、みんな死んでスクリーンから消えていく。泣き叫んで、脅える彼女たちの姿を最後まで見とどけているのは、観客席に座っているあなただけなのかもしれない。


ギュスターヴ・ドレによるアンドロメダ

ゲオルギウスのドラゴン退治

マリオはピーチ姫を救う物語

日本神話のヒロイン櫛名田比売

スターウォーズ」は姫を助ける騎士物語が宇宙で展開する。

ディズニーの物語は囚われの姫が助けられる物語が根底にあるが、主人公がプリンセス。

ピュラモスとティスベ

「ロミオとジュリエット」

「ロミオとジュリエット」

ミレイ「オフィーリア」

スター・ウォーズのレイア姫は囚われの姫から戦闘する姫へ変身。

ギーガーによるエイリアンのデザイン。エイリアンとは母体、女性のメタファーである宇宙船に侵入した蛇の象徴である。自分たちの生命の危機、さらに地球に連れ帰れば、彼ら(蛇)の繁殖を許すことになる。


劇中に登場する様々なデザイン画生殖に関連している。惑星に墜落していたエイリアンの母船は左右対の「子宮」がモチーフになっている。

「タイタニック」


4 動的な女性イメージ


・デジタル技術のお伽話


 スティーヴン・スピルバーグにより1993に映画化された『ジュラシック・パーク 』では、CGIの恐竜が大挙して押し寄せてきた。それ以降の映画におけるCGI技術の台頭について、詳しい説明はいらないだろう。映画は莫大な制作費用を投入して可能となる視覚効果の優位性をこの時点から入手した。CGI技術により映画は新たな表象の装置として進化した。


・アンジェリーナ・ジョリーとミラ・ジョヴォヴィッチ 


 そのような今日のアクション映画の多くで主役を演じているのは女性たちである。それら女性が主役のアクション映画について論考していくために、ここでは二人の女優の名前を挙げる。


 その一人がアンジェリーナ・ジョリーである。人気テレビゲームを実写化した映画『トゥーム・レイダー』(2000年)とその続編(2002年)、『Mr.&Mrs. スミス』(2005年)、『ウォンテッド』(2008年)、『ソルト』(2010年)といったアクション映画に出演している。


 もうひとりはミラ・ジョヴォヴィッチである。『バイオハザードシリーズ』(2002年~)の他に、リュック・ベッソンの『フィフス・エレメント』(1997年)や『ジャンヌ・ダルク』(1999年)、『ウルトラ・ヴァイオレット』(2006年)など多くのアクション映画に出演している。


 2000年代に彼女たちが演じたボディー・スーツの姫君たちは、その後の2010年代になると、スカーレット・ヨハンソンを初めとする多くのヒロインたちに受け継がれている。


 彼女たちに代表される昨今の「女性ヒーローもの」とでも呼べそうなアクション映画にはいくつかの共通点がある。


 これまで述べてきた「囚われの姫君」たちが、男の英雄物語で対象物として描かれていて、動的な視覚対象としては描かれてこなかった。そして「逃げる女性たち」であるサラ・コナーやリプリーでさえ、戦うのではなく受動的な自衛の戦いを余儀なくされた女性主人公であった。それらと比べて2000年代以降の映画で、主役を演じている彼女たちは、次から次に襲いかかる問題に能動的に立ち向かい、自ら能動的に戦いに身を投じていくように思える。


 そのアクションシーンでは、彼女たちは共通してタイトなコスチュームで着ている。アクションシーンでは動的な身体のラインが強度にアピールされるタイトな衣裳を身にまとっているのである。それらアクション・シーンは女性の身体的な魅力を印象的に見せつけるシーンとして作られているように思われる。彼女たちのアクションシーンはセクシーなダンスでも見ているような、動的な女性の身体表象のステージとして提示される。


・ボンデージ・ファッションと、ボディーコンシャスに関しては、別誌に記載している。


・ボディーラインの強調

 

 スーツや軍服を着たマッチョな男優たちが演じた派手な大殺陣まわしの代わりを演じるようになった彼女たちが着ているのは、まぎれもなくラバー・フェティシズムの流れから生まれた同じ類似した性質をもつ衣裳である。その理由のひとつは、コミック・ヒーローやテレビゲームに登場する二次元キャラクターを題材とした映画が多いせいであると考えられる。非日常的な世界を描くSF作品がほとんどである。


 なぜ身体の躍動を見せつけるアクション映画がSF作品が主流となってしまったのか、なぜSFアクションの多くが女性ヒーローものになっているのか考えてみると、派手で奇抜な作品で収益における成功をもくろもうとする興業戦略が主な理由として考えられる。それは意識の写し鏡として、ありとあらゆる欲望を写しだそうとしてきた映画が、さらに欲望自体の生成装置である映画が、男性の求める理想の女性的な身体と、女性にとって憧れの対象となる身体の表象が興業的な収益を生みだしてきたからであろう。これらのアクション映画の主要な顧客である男性にとって、執拗なボディーラインの強調は、とりわけ特筆するべきことではなく古くから繰り返されてきた。しかし2000年前後から映画における女性表象のもっとも重要なシーンのひとつとして数多く描かれるようになってしまった。


 これはピグマリオン伝説から現在に至る物語と女性の表象の流れで捉えると興味深い。動かないものとして見つめられてきた女性が、映画の登場から100年もの時間経過を経て動く女性たちが意図的に表象されはじめたのだが、その一方で拘束を解かれた彼女たちの身体は見られるための拘束の衣裳をまとうよう再配置されたのである。それは動きを表す拘束の衣が施された新しい裸体の発明といってもいいだろう。


*西洋絵画におけるヌードと映画における性表現と、映画の性表現に関するレイティングシステムの歴史については別紙。


・ダムゼル・イン・ボンデージ


 現代のアクション映画で、女性は動的な視覚として再配置された。彼女たちはヌードではなくボンデージのコスチュームを身にまとっている。映画で殺陣を演じる彼女たちと同様に、ダンサブルなパフォーマンスで観客を魅了する彼ら(彼女たちの)のアクションは、まるでアスリートのようにも見える。テレビで中継されるスポーツを観戦するとき我々が声援を送り注視する鍛えられた身体の跳躍のようであり、ギリシャ時代の大理石彫刻に刻みこまれた裸体にみられる、躍動(リズム)と身体的バランス(調和)を追求した理想的な身体像をみるときと同じく、アクション映画におけるタイトな衣裳を身にまとった彼女たちの美しい肢体は、アスリートの様に、そしてダンサーたちの動き同じく、スクリーンの中で動き観客を魅了している。(それら女性の身体は『エヴァンゲリオン』などの日本で制作されているアニメ作品からも知ることができる)


5 注視された女たちの歴史 ~静止から動態へ


 映画が発明されてまもなく「我々は驚くべき芸術の誕生に立ち会っている。これは恐らく 唯一の近代芸術であろう。何故なら同時に機械の娘であり、人間の理想の娘であるから・・・」とルイ・デリュックは語った。


 映画は常に人間の理想を語ろうとしてきた。機械の娘、その言葉は、未来のイブに登場した理想の身体をもつアンドロイドのハリダーを思いださせる。ハリダーとはペルシャ語で「理想」を意味する。ピグマリオンが夢見て作りあげた理想の女性の像が動き出したように、現代の映画の中では、女性たちが動的な魅力を振りまいている。


 以上 11000文字

ミラ・ジョヴォヴィッチ

アンジェリーナ・ジョリー

スカーレット・ヨハンソンが演じるマーベルのブラック・ウイドウ「ゴーストインザシェル」の主人公

アン・ハサウェイが演じるキャット・ウーマン

いつも通りのルールで、今回の講義についての小レポートの提出をお願いします。7/03 24時〆切です。 

・最終レポートの提出に関して(重要)


こちらのリンクから最終レポート提出についての、詳細を確認してください。 

レポート

カルチャー・クラブ/ Culture Club "Time" (1982 ) 

ean Paul Gaultier - How To Do That (1989) HQ / Full Video