昨日、赤松健の基本政策を読む配信をしました。せっかくなのでそのとき気づいたことなどをまとめておきましょう。

 なお、引用はすべて『5つの基本政策』からです。

表現の自由戦士史観

 赤松の基本政策の重大な問題点は、事実に基づいていないという点です。特に表現の自由に関する部分ではこの側面が酷くなりますが、これは彼が表現の自由戦士史観とでもいうべき、ネットの流布するデマを基に政策を組み立てているからにほかなりません。
 しかし、世界では、近年は危険や衝突をあらかじめ避けるため、規制を進めていこうという流れもあります。そして、作品に対する規制を加える文脈では、そうした規制はしばしば「私が不愉快だから削除してほしいし、社会的制裁・法規制が必要だ」という考え方に基づいているように思われます。しかし、表現に対する規制というのは慎重でなくてはなりません。なぜなら、安易に倫理観に基づく規制を行うことは、時代やそれぞれの環境によって目まぐるしく変化する倫理観を基準とする規制は無限に拡大する恐れがあり、規制は一度なされるとその文化は死滅し回復の可能性は非常に低いためです。規制をするのであれば、その相当の根拠に基づく必要性と、その必要性に対応した最小限で明確な基準に基づくものであることが少なくとも求められます。
 そのような傾向は、文章の冒頭にある前振りからすでに明らかです。赤松の主張は一貫して性差別・性暴力表現に対する規制を(批判と規制を混同しながら)念頭に置いていると思われますが、そうした規制や批判が『私が不愉快だから削除してほしい』という理由で求められているという理解は事実に反する、表現の自由戦士史観にすぎません。

 いうまでもなく、性差別表現に対する批判は女性の権利の観点から行われているものです。性差別表現が野放図に行われることは、女性への差別を強化・再生産することに繋がると懸念されています。その主張に賛同するかどうかはともかくとして、そうした批判を『私が不愉快だから削除してほしい』などと矮小化するのは不誠実な印象操作であり、事実に基づかないデマの流布と断言して差し支えないでしょう。

 『規制は無限に拡大する恐れがあり』というのも、自由戦士史観です。よく聞かれるフレーズですが、少なくとも性暴力表現において、規制が無限に拡大した事例が具体的に出てくることはありません。もっとも、政治的表現は表現者が命を奪われるレベルにまで規制が「無限拡大」した歴史的事実がありますが、自由戦士史観では「表現規制は必ずエロから始まる」ことになっているため、エロ漫画家が死にでもしない限りそのことを認めることはないでしょう。
 児童ポルノ禁止法は、子どもを性被害から守るために1999年1月に施行されました。その後は改正案が出るたび「『児童ポルノ』に創作物を含めるか」が取り上げられ、2013年には個人保有の禁止を盛り込んだ改正案が国会に提出される機運がありました。実写ポルノは実際に子どもを性虐待し、被害を与えるものです。しかし創作物は、架空の児童を描くにすぎず、実在する被害者はいません。本来、現実の被害者を守るための法律が、創作物を取り締まるのは筋違いです。その主旨を通すために政治の現場に働きかけ、過度な表現規制を退けることができました。
 続く『マンガ・アニメ・ゲームの過度な表現規制に反対』では創作物が実在の女性に被害を与えないと主張されていますが、これも自由戦士史観にすぎません。仮に創作物が制作過程で人権侵害を伴わないとしても、創作物を原因として女性への加害が行われたり、創作物を押し付けるといった形態の加害があることは知られています(以前、オタクが自分の娘にそうした創作物を見せていて炎上しましたよね)。ですから、『実在する被害者はいません』と断言するのは無神経ですし、実在する被害者のことを考えていないこともバレバレです。

「極右の語彙」の獲得

 基本政策を読んで確認したことですが、赤松健は自民党候補として、極右の語彙を獲得し、それを用いています。ここでいう極右の語彙とは、自民党やそれに近しい思想の人々が使う言葉のことで、特にここでは「バックラッシュの言葉」と「歴史修正主義の言葉」に大別できるでしょう。
 行き過ぎたジェンダー平等論や、イラストの洋服のシワの数を問題視する女性差別論などの偏った意見が国連を始めとする欧米団体の報告者に影響を与え、そうした団体などから、実態を正しく反映していない見当違いな勧告がなされることがあります。そうした偏った考え方、誤解、曲解に基づく海外からの規制圧力からクリエイターや創作物を守り、同時に海外に向けて適切な説明や反論を行わなければなりません。 同様に、海外プラットフォームによる日本文化への根拠なき、一方的な検閲・規制に反対していきます。
 それが如実に表れるのが、『外圧から日本の文化・コンテンツを守る』と題された見出しの中です。第一声が『行き過ぎたジェンダー平等論』となっていますが、これは典型的なバックラッシュの言葉です。「行き過ぎた/平等」という語義矛盾を起こしたフレーズからわかると思いますが、これは行き過ぎを批判しているのではなく、ジェンダー平等そのものを叩いているのです。

 こうしたフレーズはとりわけ、第一次安倍政権の時期に、性教育をバッシングする目的で用いられた事例が印象的です。「過激な性教育」などと呼ばれ七生養護学校での教育の権利が潰された事例ですが、ここでも彼らが反発したのか性教育の過激さではなく、性教育そのものでした。なぜなら、過激な性教育とされたのは、知的障害を抱えた子供に向けてチューニングされたものでしたが、「性的に露骨」だとみなせるのはせいぜい性器の名前をはっきりと伝え、教材を用いてその形状等を隠さなかったという程度のことだったからです。

 客観的な事実としては、日本に『行き過ぎたジェンダー平等論』は存在しません。存在していれば、中絶に配偶者の同意が必要かどうかなどという話は議論にすらなっていないはずです。であれば、今現在あえて『行き過ぎたジェンダー平等論』に反対するというのは、現存する(客観的に見れば)通常のジェンダー平等論を行き過ぎているとみなしている、という主張の告白に他なりません。そして、日本の現状を鑑みれば、現時点でのジェンダー平等論に反対するというのは、女性は少しくらい差別されているほうがちょうどいいという差別思想の開陳に他ならないでしょう。

 (いやいや、赤松様は『イラストの洋服のシワの数を問題視する女性差別論』ような議論を『行き過ぎたジェンダー平等論』と呼び批判しているのだという擁護もあるかもしれませんが、愚論というほかありません。これはおそらくラブライブがコラボした広告の問題を指していますが、あの問題に対する批判を『イラストの洋服のシワの数を問題視』と要約するのはただの事実誤認です。あの広告に対する批判の本質は、未成年女性を性的な物体として広告に使用することの是非です。ですから、その問題を『イラストの洋服のシワの数を問題視する女性差別論』と表現するのは、事実に反する印象操作をしてまで、未成年女性を性的に扱って商売する「権利」を守りたいという態度の表明になるのです)

 もう1つの語彙である歴史修正主義の言葉は、『海外に向けて適切な説明や反論を行わなければなりません』に現れています。これは、日本が誤解されるのは敵のプロパガンダに押し負けているからであり、適切に説明すれば正しさが伝わるはずという、いわゆる歴史戦の発想そのものでしょう。

 もちろん、こうした発想は妄想にすぎません。歴史修正主義者は例えば、韓国のプロパガンダによって従軍慰安婦の問題が「誤解されて」あるいは「虚構なのに」広がっていると考えていますが、違います。単に戦時性暴力が歴史的事実だから広がっているのであり、歴史戦的な反論はむしろ日本が戦時性暴力の問題に誠実に向き合っていないことを証明しています。同様に、赤松ら自由戦士は『欧米団体』なるもののプロパガンダによって日本が性差別大国であるかのように喧伝されていると考えていますが、違います。単に事実が伝わっているだけです。ですから、「反論」をしても性差別を軽視する国という印象を与えるだけでしょう。

 もっとも、重要なのは赤松が極右の語彙、もっと言えば自民党の語彙を内面化し、臆面もなく基本政策として出しているという点です。これは山田太郎がこの3年間自民党議員としてコミットした「成果」でしょう。彼は自民党を変えると主張しましたが、実際には自民党に変えられたのが彼らだったというわけです。

薄っぺらな印象操作

 先ほどから繰り返し指摘していますが、赤松の基本政策は政策と銘打ちながら、その中身は具体性のない薄っぺらな印象操作にすぎないという問題もあります。その最たる例は以下のツイートで指摘しました。

 つまり、赤松のサイトから拡散されるのは断片的でキャッチーなイラストのみであり、重要なはずの政策についてはTwitterで拡散してもリンクがないのでたどり着けない仕様になっているのです。支持者はサイトなど確認するわけがなく、印象と雰囲気だけで「祭り」的に支持を広げるだろうと甘く見られており、残念ながらそれが事実だというわけです。

 しかし、それはやむを得ないかもしれません。というのも、赤松の基本政策は政策と言いながら具体性が全くないのです。百歩譲って、規制反対は規制が出てこないと具体的に論じにくい面があるとしても、『日本最大の強み「コンテンツ表現の豊かさ」を伸ばす』でも具体的に何をしてそうするのかという話は一切なく、抽象的な日本スゴイ論がだらだらと書かれているだけです。

 同様に、規制を批判しながら、そもそも何を念頭に置いているのか判然としない書き方も不誠実です。先ほど私は『赤松の主張は一貫して性差別・性暴力表現に対する規制を(批判と規制を混同しながら)念頭に置いていると思われますが』と書きましたが、これすら推測にすぎません。威勢のいい言葉で規制を批判しながら、肝心の相手方が行方不明なのです。

 こうした相手方を不詳にする議論は、彼の印象操作に非常に都合のいいものです。例えば『イラストの洋服のシワの数を問題視する女性差別論』も、これ自体が事実に反する要約ですが、これは単なる批判であり規制ではありません。しかし、主張の詳細をぼかし、ネット上に流布する「あれは規制である」という印象に乗っかる形で議論を進めるため、見当違いのことを書いているだけなのにあたかも規制と戦う候補であるかのように演じることができるのです。

 事実認識すらままならない議員が規制と戦えるわけがありませんが、支持者は気づかないままです。

自民党の規制へ賛成する伏線

 最後に、彼が規制反対を嘯きながら、その実、自民党の推し進める規制に賛成する伏線を張っていることを指摘しておきましょう。そのため、改めて前文の後半を引用します。
 規制をするのであれば、その相当の根拠に基づく必要性と、その必要性に対応した最小限で明確な基準に基づくものであることが少なくとも求められます。
 「常識はいつ変わるかわからない」という立場と意識で、あらゆるコンテンツを慎重に扱っていくべきです。私は漫画家ですから、創作者の立場で表現の自由を守っていこうと思っています。表現の自由とはゴールがあるものではありません。規制したい排除したいという動きが根拠に基づくものか監視し、不当なものであれば適切な反論をする。その作業を先頭になって繰り返しているのです。
 これも自由戦士史観ですが、彼らは規制に対し根拠を強く求めます。しかし、彼らは根拠が規制のごく一側面に過ぎないことを都合よく見落としています。

 そのことが最も強く出たのが、侮辱罪厳罰化でしょう。あの改悪は、根拠だけ見れば確かにありました。ネット上での侮辱に対応する新たな法律が必要だという「根拠」自体は妥当なものです。問題は、厳罰化した侮辱罪の運用が危険性を伴うという点と、法律が目的に対し有効ではないという点でした。

 しかし、山田太郎らはこうした問題を無視し、侮辱罪厳罰化を主導ないしは歓迎しました。それは、彼らが「根拠」しか見なかったからです。あまりにも視野の狭い、チョロい発想と言わざるを得ないでしょう。

 加えて、彼らが「科学的根拠」を強調しながら、それを理解する能力を欠いていることを指摘しなければなりません。彼らは自説に都合がいいものは疑似相関でも平気で根拠とする一方、都合が悪ければ枝葉末節の揚げ足をとってでも否定します。そのような議論は本ブログでも延々と行ってきましたから、『【メディアの悪影響を巡る冒険】これまでのまとめと目次』などを参照していただければと思います。

 こうした2つの特徴を組み合わせて導かれるのは、赤松健が自民党の規制に唯々諾々と従う未来だけです。自民党のお偉いさんが言いさえすれば、彼は「根拠はあるので妥当な規制です」といい、山田太郎が「命懸けで戦い、規制をちょっとしにしました」とおためごかしを言うのでしょう。

 繰り返しになりますが、表現の自由を守るために妙な理屈をこねる必要はありません。まっとうに自由を守る政党の議員に投票すればいいのです。