飢饉に苦しめられた先祖を持つ岩手県民として
ふざけんな!と申し上げよう
修めた地学から土壌改良進めようとした
宮沢賢治先生のご苦労を幼少期から教え込まれてんだこっちは
宮沢賢治 石鳥谷肥料相談所跡
昭和3年3月15目から1週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。
(中略)
相談所にはすでに10人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。
毎朝午前8時より午後4時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。
「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠(すこ)しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。9時10時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の後をうけて今年度の施用肥料の設計をやられた。
人馬力で30枚ほども整理し、お昼飯をしたのは1時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。
その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽132号種を極力勧められた。これにより秋は2割方増収であった。」
この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。
「アメリカから肥料農薬がないと育たないGM種を買わされるはめに」
日本史をきっちり学べ阿呆が
参政党なんて結局
無知蒙昧で妄想と現実の区別がつかない都会人の集まりでしかない
日本窒素で作った石灰窒素は
日本の土地以外で使用してたとでも???