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書評『黒いトランク』~何から何まで凄まじい~


     

千九百四十九年も押し詰った鬱陶しい日の午後、汐留駅前交番の電話のベルが鳴り、事件の幕が切って落とされた。トランクに詰められた男の腐乱死体。荷物の送り主は福岡県若松市近松千鶴夫とある。どうせ偽名だろう、という捜査陣の見込みに反し、送り主は実在した。その近松は溺死体となって発見され、事件は呆気なく解決したかに思われた。だが、かつて思いを寄せた人からの依頼で九州へ駆けつけた鬼貫の前に青ずくめの男が出没し、アリバイの鉄の壁が立ち塞がる……。巨星、鮎川哲也の事実上のデビュー作であり、戦後本格の出発点ともなった里程標的名作。綿密な校訂による決定版! 



 鮎川哲也先生の事実上のデビュー作。『戌神はなにを見たか』以来、鮎川作品2作目の読了です。今回、創元推理文庫版を読みましたが、本編も然ることながら、巻末に附された鮎川先生のエッセイ、そして有栖川有栖・北村薫・戸川安宣の三氏による座談会も非常に興味深い内容になっています。


 鮎川先生はエッセイの中で、本作を書き上げた時の胸中を克明に吐露されています。以下はその一部。

 原稿は書き上げたものの、私には一つの不安があった。編中のメイントリックを、すでに先人が使っているのではないか、ということがそれである。私もかなり本格物は読んでいるつもりでいたけれど、海外の作品ともなると目の届かぬものが多い。もし外国作家が同じ着想の作品を書いていたとしたら、この長編を破棄しなくてはならない。同じトリックを使うことは推理小説の世界ではタブウとなっており、これを犯せば、推理作家としての良心を問われることにもなるのである。


 果たして、推理小説通の三氏に読んでもらって「前例はない」という返事をもらった本作だが、発表されるのはもう少し後になってからだった。その間の鮎川先生の不安感と云ったら……。推理小説界の巨星として燦然と輝く鮎川先生ですが、「ああ、同じ人間なんだな」と思ってどこか安心してしまいます。

……私とおなじトリックを、誰かが短編に用いて発表するのではないか、ということが心配になってくる。人間の考えることは似たようなものであるから、私の頭にうかんだアイディアが他の作家の心にうかばないとは言い切れないのだ。べつにこのことを四六時中、心にかけていたわけではないけれど、なにかの折りに、そうした気持がふっと湧いてきて、焦りを感じたのは事実であった。



 その後、講談社が主催した新人賞に本作を応募。選考委員を務めていた江戸川乱歩に推されたこともあり、『黒いトランク』は当選し、日の目を見ることとなった。

 巻末のエッセイでは他にも、メイントリックと現実世界との奇妙な符合であったり、メイントリックを閃くに至った経緯なども語られている。


 トリックは素晴らしいし、その解明にあたる鬼貫の足跡も自然。何気ない描写には伏線が紛れ込んでいるし、謎の解明には全ての記述が関わってきている。

 ただ、ものすごく複雑な印象を受ける。トリックの性質上、仕方ないことなんだけれど、「あの人はいついつ列車に乗って、その時トランクはどこどこにあって……」と、ひとつひとつ時間軸に沿って内容を整理しようとしても、初読では到底厳しい話だと思いました。鬼貫が様々な登場人物に再三トリックの説明をしてくれるのですが、その部分を読んでいても僕の頭は乱れていて、いやもう大変。

 巻末の有栖川・北村・戸川三氏による対談でも、この点は触れられていました。


北村 読み直す前は、複雑な話だったと記憶していました。しかし、思ったよりシンプルな話だったのに驚きました。美しいシンプルさですね。
有栖川 トリックは複雑ですが、人間の位置はシンプルですね。そして、無駄な人物が誰一人としていないという、これぞ本格といえる作品です。



 再読するとシンプルさが分るらしい……。確かにそうかもしれませんね。







 それにしても、有栖川さんの読み込みは驚嘆に値します。本作『黒いトランク』は版が変わる度に加筆・削除・訂正がなされていたようですが、有栖川さんはその修正箇所を異なる版をつき合わせて読んでいたそうです。クイーン好きだと認識していた有栖川さんですが、本人は「『黒いトランク』は、わたしが世界で一番好きなミステリかもしれません」とおっしゃっています。確かにそれだけの魅力がある作品です。


 本作は密室空間で巻き起こる連続殺人という趣とは対極の、解放空間における殺人――それも鉄道小説の趣を持っているので、若干僕の嗜好からは外れているのですが、それでもトリックの素晴らしさには舌を巻きますし、鬼貫がどのような推理をして、どのように捜査をし、どんな証拠を見つけて犯人を追いつめていくのかという経過は、まさに本格。捜査が行き詰った時にどのように状況を打開していくのかという点に関しては鮮やかと云う他ありません。



 読むことができて本当に良かった。こうなったらクロフツの「樽」も読むしかありませんね。



 それではー

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