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黒いトランク
黒いトランク
Tetsuya Ayukawa
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سال:
2002
ناشر کتب:
光文社
زبان:
japanese
صفحات:
322
ISBN 10:
4334732631
ISBN 13:
9784334732639
سیریز:
鬼貫警部事件簿
فائل:
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黒いトランク~鬼おに貫つら警部事件簿~ 鮎川哲也 目次 一 幕あき 二 逃 亡 三 目覚めざる人 四 或る終結 五 古き愛の唄 六 新しき展開 七 トランクの論理 八 対 馬 九 旧友二人 十 膳所のアリバイ 十一 蟻川のアリバイ 十二 ジェリコの鉄壁 十三 アリバイ崩る 十四 溺るる者 十五 解けざる謎 十六 遺 書 十七 風見鶏の北を向く時 付録 ◎本電子書籍は、左記に基づいて作成しました。 光文社文庫 『黒いトランク 鬼貫警部事件簿』 2002年1月20日初版発行 ◎ご注意 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。 個人利用の目的以外での複製等の違法行為、もしくは第三者へ譲渡をしますと著作権法、その他関連法によって処罰されます。 一 幕あき 一 この事件の発端となった千九百四十九年十二月十日は、朝からどんよりとうす曇ってひどくうっとうしい日であった。だが後から考えてみると、この重くるしい天気こそ、事件の性格を端的に象徴していたように思われるのである。まことにこの事件は、地味で退屈な上にテンポがおそく、しかもその全貌が明かとなるにつれ、首尾をつらぬく論理のきびしさがやりきれぬほどの重圧をともなって、関係者をひとかたならず悩ませたのであった。 思うに犯人は、この犯罪をたくらむに一世一代の智恵をしぼったことであろう。犯人のその努力に対して、読者もまたこの記録を克明によむ努力を惜しまないならば、事件が合理的な解決をみるまでの経過を興味ぶかく理解できようし、また論理そのものを智的な遊戯としてたのしむ人には、論理にはじまり論理におわるこの事件の記録こそ、久しい渇かつを十二分にいやすものであるといってよいであろう。 さて事件の開幕は、その日の午後一時三分に、汐しお留どめ駅前交番の電話のベルがけたたましく鳴ることによって告げられた。 おりから立番中の大おお隅すみ巡査は、すばやく受話器を耳にあてた。先方は汐留駅の若い駅員で、彼の背後から職場のあらあらしい騒音やどなり声が手にとるようにきこえ、それがこの駅員の話をラジオドラマでもきいているかの如ごとく立体的なものとしていた。 受話器をかけおえた大隅巡査は、腰のベルトをぎゅっとしめなおして同僚をかえりみた。 「何どうしたんだい?」 「なにね、駅の保管室からかかってきたんだが、妙な荷物がとどいているっていうのさ」 「妙な荷物? ……」 「うん、臭気がするんだってよ、鼻もちのならない臭気が。……ちょっと行ってくるぜ」 彼はそういい残して交番をでた。 ここで汐留駅について簡単にふれておこう。我々にとってなつかしい思い出の歌である鉄道唱歌に、〝汽笛一声新橋を……〟とうたわれている新橋駅が、じつは今の汐留駅なのである。旧新橋駅が開設されたのは明治五年十月、新橋・横浜間に鉄道が敷かれた時のことだから、わが国でもっとも古い駅の一つといえる。この駅の歴史を語ることは、同時に明治文化史の側面を語ることになるほどに、当時の文明の中心的存在であった。錦絵にもえがかれ、版画にもほられた。紅こう葉ようや蘆ろ花かたちの小説にもしばしば舞台となり、日清日露の戦役には、凱旋将軍がとくい気にひげをひねりながら意気揚々としてフォームにおり立った。 だがおごれる者久しからずのたとえは、新橋駅とても例外ではなかったとみえ、やがて東京駅が竣工するとともに、いとも冷淡にその任をとかれることになったのである。大正五年十二月、となりの烏からす森もり駅に新橋の名をゆずると同時に、おのれは汐留駅と改称されて、華やかな思い出をいだいたまま、あわれにも貨物専用の駅と成り果ててしまったのである。 だが、成れの果てとはいえ、引込線の延長は十八粁キロ余、貨物駅としては日本最大のものである。関西、四国、九州から東海道線を上ってくる貨車は千九百五十六年現在の一日平均が四百十三輛りょう、それを汐留駅が一手にひきうけるとともに、一方では連日百七十四輛の貨車がでてゆく。そのかみの新橋ステーションの面影は今やどこをさがしても見出されないけれど、引込線にそって立ちならぶ数々の倉庫や、巨大なクレーンが白い蒸気をはいて間断なく貨物のつみかえをしている姿をみると、虚飾をふるいおとしたあとの健康なうつくしさを感じとることができる。いま構内に足をふみ入れた大隅巡査は、活気にあふれた貨物駅のいとなみに、圧倒されるような気がした。 「あ、ご苦労さまです。どうも様子が訝おかしいのですよ、どうぞこちらへ来て下さい」 人待ち顔で立っていた駅員が; 、如才ない笑いをうかべて、大隅巡査に声をかけた。 「何か臭気がするというお話でしたね?」 「はあ、動物のくさったような臭においです」 「動物のね?」 「はあ、猫の屍し骸がいでも入っていたら飛んだお笑いぐさですが、ことによると人間の屍体じゃあるまいかと思いましてね」 「貨物ですか」 「はあ、小口貨物なんです」 「引取人は?」 「それがですね、誰もこないのですよ」 トラックの間をぬうようにして歩きながら、そうした会話をかわしていくうちに、コンクリートの大きな倉庫についた。これが保管物室である。くもった日の午後なのであたりはうす暗く、貨物置場の天井には数十個の電灯がかがやいていた。 忙し気な駅員が、列車からはき出された貨物をはこび込んだり、整理したり、ノートにチェックしたりするのを、かたわらに立って監督していた年輩の主任が、大隅巡査の姿をみると陽ひやけのした顔を緊張させて、近づいてきた。 「どうもはっきりしないことでお呼び立てして、あとで笑われたり叱しかられたりするとこっちも立つ瀬がなくなりますが、あの荷物をあけるのに立合っていただきたいと思いましてね」 指さした床の上に、黒っぽい大きな箱がよこたえられてある。近よってみると、大型の衣裳トランクであることが判った。かなり丈夫な牛皮ではられたものらしく、途中でちょっとやそっと乱暴に取扱われたぐらいでは、こわれるような代しろ物ものとは思われない。幅のひろい革かわバンドが二本しめられて、装飾と実用の双方をかねた大きな真しん鍮ちゅうの鋲びょうと錠前とが、にぶい光りをはなっている。むき出しのまま輸送されてきたものとみえ、ありふれたマニラ麻あさの細引がたてに二本よこに四本わたされたきりで、両端にかまぼこ板より少し大きめの白木が一枚ずつくくりつけられ、そこにはぶつけたような文字であて名がしるされてあった。 東京都中央区日本橋蛎殻町五丁目四九 風雅堂 毛塚太左衛門様 更さらにその左側に、こまかい文字でしたためられた差出人の名は、つぎのように読めた。 赤松市外札島鳰生田 近松千鶴夫 それだけでは別に不審の念がおこるはずはない。だがそのトランクからは、鼻をおしつけるまでもなく、吐気をもよおすような異臭がするのである。 はさみを手にした主任に、大隅巡査は細引のむすび目をきらないように注意をし、主任は心得たと許ばかり大きくうなずいて、なれた手つきで麻あさ紐ひもを切った。ついで二本の革バンドをぐいと力をいれてほどく。 「ああ君、机の上に万能鍵かぎがおいてある。持ってきてくれ」 一人の駅員が命じられたものを持ってくると、主任はそれをそっと鍵穴にさしこんで、慎重な態度でひとねじりした。バタン! と音をたてて錠がはずれる。つづいてもう一つ。それがすむと、二人の駅員が両端にかがんで、トランクのふたに手をかけた。 「開けたまえ」 主任はのどにつまった声でいい、二人の青年は無言のままそろそろと開けはじめた。大隅巡査も主任も数名の駅員たちも固かた唾ずをのみ、二寸三寸とあけられていくトランクを、まばたきもせず見まもっていた。悪臭は、ふたをあけるにしたがって、ますます激しくなる。一人の駅員が仕事にかこつけて場をはずし、主任は耐えかねて麻のハンカチをとりだすと鼻をおさえた。 やがてふたはガックリと開いた。中には藁わらくずがぎっしり詰められている。二人の駅員はおよび腰になって、その藁をとりのぞいていった。と、その下から黒緑色のゴムシートにくるまれた大きな包みがあらわれたのである。駅員の一人が胃のあたりをおさえて、横とびに表おもてへでていく。二人の青年は鼻がもぎれるような異臭をぐっとこらえ、ゴムシートをひろげた。と同時に、人々はいっせいにわッと叫んだのであった。ゴムシートの中からは、羊よう羹かん色にさめた羽織袴はかまをつけたざんぎり頭のむさくるしい髭ひげを生やした男が、ぶざまな恰好でころがり出たのだ。 死んでから相当の時日がたっているらしく、顔一面がみにくくはれあがって、ごみ溜ためにすてられた洋ペ梨アのように気味わるい色をしている。大隅巡査はさすがに誰より早くおちつきをとりもどし、主任に現場維持を命じると共に、手近かの電話をかりて急を報じたのであった。 二 こうして第一幕がおわった十分のちには、所しょ轄かつ愛あ宕たご署から銀原警部を先頭に五人の係官と技師及び警察医がかけつけ、それをきっかけに静的な場面は一転して動的な第二場に突入したのだった。一行のあとから警視庁づめの記者が一団となってのりつける。カメラをすえフラッシュがたかれる。鑑識係りがトランクにアルミ粉をふきつける頃、銀原警部は主任をわきによんで、訊きき取とりをはじめていた。彼はまだショックからたちなおれぬらしく、時おりピクピクと頬ほおをけいれんさせ、しきりにまばたきをしていた。 「このトランクの受取人はまだ来ないのですね?」 「ええ、今日で三日目になるのに、まだ来ないのですよ。それで今朝電話をかけてみようと思いましてね、電話帳をひろげてみたんですが、名前がのってないのです。そこであちらの警察にたずねてみたところ、四十九番地はおろか町内には風雅堂という店もないし、毛塚太左衛門という人物も住んでいないとの返事なのです。だいいち五丁目がないんですよ」 「ふうむ」 と警部はあごをつまんだ。屍体を器物につめて出で鱈たら目めの宛名で発送するのは、しばしば推理小説の題材にも扱われているように、決してめずらしい事件ではない。昨年のはじめにも上野駅で行こう李りづめの女の屍体が発見されたし、その前年には新宿駅でも同様なことがあった。近松千鶴夫というのが発送した人物の本名であるとは思われないが、架空の名前であるとしても、一応はそれを調べてみる必要がある。 「送り出した駅と連絡をとってみたいのですがね、一体どこから積まれてきたのですか」 主任は机上の本立てから黒い表紙の紙ばさみをひきぬいた。 「ちょっと待って下さいよ。ええと……、福岡県の筑ちく豊ほう本線に札ふだ島じまという駅がありまして、そこから出されております。受付けたのは今月の四日ですな」 「ふうむ、福岡県か。今月の四日と……、今日は十日だから……」 銀原警部は鉛筆のさきをしきりとなめながら、ぶつぶつと独りごとをいっていた。 「ちょっとその札島駅と通話してみたいのですが、簡単につながりますか」 「ええ、鉄道電話は早いものですよ。四五分ででるでしょう」 「それじゃすみませんが、向うを呼びだしてもらいましょうか」 主任が札島駅の呼出しを依頼して受話器をかけた時、警部は背中をまるめて、壁にはられた鉄道地図をのぞきこんでいた。 「どれですかね、筑豊本線というのは?」 主任は電話のそばをはなれて、壁ぎわに近づいた。 「これが石炭積出しで知られた赤松港です。ここを起点として鹿児島本線の折おり尾お駅とクロスし、さらに筑豊炭田一帯をぶちぬいて、ふたたび鹿児島本線の原はる田だ駅で終点となる線ですよ。赤松と折尾の間には藤ノ木と札島の二つの駅があって、札島というのは折尾寄りのほうです」 警部は二三度うなずいて、くるりと主任のほうを向いた。 「ああ、そういえば赤松というのは、作家の火ひ野の葦あし平へいがいたところじゃないですかね。何だか彼の作品によくでてくるように覚えていますが……」 「そうです、私も思い出しました。あの辺の沖仲なか仕しや博ばく徒とを主題にした短篇をよんだことがありますよ」 ほんの三十秒ほど、主任は陰惨なトランクの問題をわすれることができたが、銀原警部はただちに彼を現実の世界へひきもどしてしまった。 「では電話がかかってくる間を利用して、少々お答えしていただきましょう。このトランクが到着したのは何日のことですか」 「ちょっと待って下さいよ」 主任はたくましい腕をのばして、ふたたび先刻の紙ばさみをとりあげ、指をなめて小口貨物通知書をくった。 「到着は七日の正午頃でした」 「七日というと一昨昨日さきおとといですね。その時は異状をみとめなかったのですか」 「ええ、一向に気づきませんでしたね。ただ引取人が来ないのと、今朝になって宛名も宛先も出鱈目だということが判ってから、訝おかしいぞと感じたのですよ。ところが、先刻迷いこんだのら犬がひどく吠えたてるものですから、鼻をおしつけてみると悪臭がひどい。それでいよいよ尋常ではないということになったわけです」 「札島駅で受付けたのは四日でしたね。内容品は何と記入されてありますか。まさか屍体とは書かれてないでしょう」 「ええ、古美術品としてあります」 「ほほう、古美術品ですか……」 このぶよぶよと半ばくされかかった屍体と古美術品との対比の妙が、銀原警部を思わずうならせた。 「そうです、重量七十一瓩キロ、発送人近松千鶴夫ということになってます」 主任がそういった時、電話のベルがなった。主任はすばやく受話器をとり上げてふたことみこと応答し、送話器の口をおさえると上目づかいに警部をみた。 「向うの駅長がでとります。それに、トランクを受付けた駅員もいるそうですが……」 「ああ、代らせて下さい」 受話器をうけとった警部は職名をのべ、あのトランクに不審の点があるからとだけいって、屍体のことにはふれなかった。駅長は、当時自分はタッチしなかったから何も知らぬといい、すぐに若い駅員とかわった。 (あ、もしもし、いま駅長さんの話をきいていたと思いますけど、十二月四日にこちらの汐留駅あてで、黒い牛の革でできた大型トランクが送られたはずなんですがね。そうそう、古美術品が入っているやつです。あのトランクを受付けた当時の話をきかせてくれませんか) (はあ、よかです。あのトランクはですナ、十二月四日の晩、私が扱ったとです) (何なん時じでしたかね?) (時間はですナ、十八時三十分頃です。それで同僚の手をかりて、終発の貨車につんだのですタイ) (発送したのはどんな人でしたかね?) (あれはですナ、鳰に生お田たの近松さんちゅう人です) (で、あなたはその近松さんという人をよく知っているのですか) (あのですナ、電話が遠くてちょっときこえんですが……) (あのね、近松さんを知ってますか) (はあ、べつに親しい人じゃなかバッテ、顔はよく知っとるです) (近松さんは美術品をあつかう人ですか) (さあ……) (職業はなんです?) (何って……別に……、あの人は引揚者ですタイ) (それじゃ、無職ですね?) (そうですナ、まあブローカーか闇やみ屋やでもやっとるのでしょうな) 銀原警部はも少しさぐりたかったが、近松に警戒心をおこさせてはまずいと考え、あとは札島を管轄する警察にまかせることとした。そこで相手にいまの話を駅長以外の誰にもしゃべらぬよう注意をして、電話をきった。 近松という男がブローカー同志のごたごたで仲間を殺し、その屍体をトランク詰めにして汐留駅に送ってよこした。しごく簡単で判りきった事件である。堂々と本人が送りだしていたことは、意外というよりもむしろ間がぬけていて、いささか拍子ぬけがする。形式的に解かい剖ぼうをすませたらば、一応の報告書を先方へ送って、事件を移い牒ちょうするだけだ。警部はシガレットケースをとりだすと、主任にすすめて自分も一本くわえた。 一方指紋の検出もその頃は一段落ついて、トランクは警察医の指揮のもとに、警官たちにかかえられて警察自動車にのせられ、信しな濃の町まちの慶大法医学教室へはこばれていった。そのあとで銀原警部は、新聞記者にむかって事件の内容をかいつまんで発表した。彼等にしても、おりからの記事枯れをうるおすという意味のほかには大して興味もない顔つきで、ただ機械的に筆をうごかしているにすぎなかった。これが後日担当者を疲労困こん憊ぱいさせる難事件になろうとは、誰一人として考えるものはなかったのである。 三 一件はただちに福岡県の赤松署へうつされ、問題の衣裳トランクと解剖の詳細な報告も、その日の夜おそく発送された。ちなみに、当夜警察電話で通報された屍体検案の内容はつぎのようなものである。 一、身み許もと不詳男子の屍体検案 氏名年齢共に不詳なるも、四〇歳前後と推定される。身長一五六糎センチ、体重五三瓩キロ。死亡推定時日は略ほ〻ぼ一〇日前、即すなわち一一月二八日から一二月一日にかけての事と思われる。致命傷は頭部の打撲傷。木刀様ようの鈍器で一撃されたものらしく、左の顱ろ頂ちょう骨を中心とした長さ五糎幅三糎の骨折が認められ、言う迄までもなく即死である。従って之を過失死若もしくは他殺と断定する。なお其その他に被検案者をして死に至らしめたと想定されるが如き何等の痕跡をも発見しない。 別に胃中より摂取後略〻三時間を経過せるものと思われる多量の白しろ隠いん元げんと米、少量の昆布、牛肉、魚肉、人参、大根、牛ご蒡ぼう、鶏卵、奈良漬、紅生姜しょうが等が発見された。更に同人の外耳から微量の石炭殻がらが見出された事を付言する。 二、其の他 被検案者の所持品は凡すべて注意深く引抜かれているが、屍体の下から左の二品が発見された。 (一) 筑ちく後ご柳やな河がわ駅発売、折尾行の使用済三等片道乗車券一枚。発売日附は二四・一一・二八となっている。 (二) 鉄てつ縁ぶち近眼鏡一個。右眼のレンズがわれ、破片がトランクの底に散らばっている。 但ただし右が被検案者の物であるか否いなかは言明の限りではない。 二 逃 亡 一 福岡県の赤松警察署では、この事件の通つう牒ちょうをうけて、大しておどろきもしなかった。というのは、近松が麻薬の密売者としてかねてから当局の看視下にあったので、仲間のいざこざがこうした結果になったものと、一応の判断をくだしたからである。 大体が赤松市は石炭積出しの人足と仲仕の多いところだから、これまであった犯罪の大部分は彼等のきったはったの刃にん傷じょう沙ざ汰たで、その動機にしても、女に関する怨恨が酒のちからで爆発するという単純なものだけに、ある意味では底のあさい陽性な事件が犯罪統計のほとんどを占めていた。したがって、相手の屍体をトランク詰めにして送りだしたこの事件は、他の都会では決して珍しくないありふれた出来事かもしれないが、赤松署にとっては外科専門の医者のもとに精神病者がつれこまれたようなものであり、署長もおどろくことこそしなかったけれど、些いささかとまどいを感じたのは事実である。 それはとも角、ぐずぐずしていると相手を逃亡させるおそれがある。東京から通牒があるやただちに地検に逮捕状を請求し、それがでるのを待たずに参考人の名目で連行させようとして、先ほど二名の刑事をさしむけたところであった。 北ペ京キンからの引揚者である近松千鶴夫は、赤松市外の札島鳰に生お田たにすんでいる。おもてむきは無職ということになっているが、福岡県人でもない彼がそのような場所に住居をかまえたのは、麻薬の密輸入ならびに密売に関係あるものと、当局はにらんでいた。彼が扱うのはモルヒネと塩酸ヘロインが主で、それらは暗夜にまぎれ、自宅の前を流れる運河をつうじて陸あげされている様子だった。近松のモルヒネは一リットル二十万円でながされるので普通の相場より一割やすく、取引はなかなか活かっ溌ぱつにおこなわれた模様であった。 ところが一年ほど前から彼のほうでも当局の内偵をさとったらしく、表面上は足をあらったように見せかけ、鳴かずとばずの状態がつづいたため、赤松署の調査もはかばかしくなくて、持久戦に入っていたところであった。 「署長、遠慮のないとこをいいますと、近松はもう逃亡しているのじゃないかと思いますね」 タバコのすいがらを灰皿におしつけながら、梅田警部補がはきはきした口調でいった。ある歌舞伎の若手俳優に似た美男子だから、こうした地方の警察にくすぶっているのは勿もっ体たいないような青年である。おりから上官が病気欠勤をしているので、この事件は彼の主任で調査することになっていたが、それは警部補にとって初うい陣じんでもあった。 ふとった署長は小さなはさみで手のつめをきっていたが、その顔をあげもせず、何な故ぜかね、といった。 「なぜって、屍体をトランクづめにして送っただけでは、そのうちに発覚することは明かじゃないですか。まして荷札に自分の名を記入するなんて、初めからこうなることを計算にいれていたに違いありませんよ。とすると彼が意図したものは、今月の四日に札島駅から発送して、それが発覚するまでの間の時日をかせぐわけじゃないでしょうか。そうとすれば、今日までの貴重な数日間をボヤボヤしているはずもないですよ」 梅田の予想はみごとに当って、その数分のちに帰ってきた刑事たちは、近松がすでに逃亡していることを報告した。 「我々もこまかい点はまだ訊きいとらんのですがね、とりあえず妻女を同行してきました。それからこれが近松の写真ですタイ。なかなか男ッぷりがよかです」 刑事の一人がポケットからブロニーの写真をとり出した。 「何がよか男か。こすッたくれごたる面つらしとる」 署長が吐きすてるようにいって、梅田に手わたした。一見三十七八歳の、いかにも美男子を自覚したような顔つきの男が、長くもないあごをちょいとつまんでポーズをとったところに、映画俳優にでもありそうなきざっぽさが見える。その上、レンズに向けてにんまり笑った瞳が、署長のいうとおり気をゆるせない狡こう猾かつそうな印象を与えるのだった。 梅田は焼増しをたのんで廊下に出た。 二 応接室のドアをあけても、近松の妻女はふりむきもせず、逆光線にプロフィルの輪郭をくっきりと強調して、窓の外をみつめている。グリーンのたきじまのお召しに献上博多のおびをしめ、羽織もおなじお召しの黒い井い桁げたがすり。密輸入者の妻とは思えぬ気品があった。 「近松千鶴夫氏の夫人でいらっしゃいますね?」 彼の口調は丁重である。 「はい」 「実はご主人にある容疑がかかりましてね、事をはっきりさせるために、少々おたずねしたいと思います」 「どうぞ」 と相手は口数がすくない。 ととのった目鼻だちの卵がたの顔にうすく化粧をはき、ゆるく波をうった黒髪がえりのあたりで大きくまきかえって、つつましやかな魅惑にあふれている。わかい頃にはスポーツできたえたのだろうか、牝め鹿じかのようにすんなりとした体つきである。三十を越えたか越えぬか、人妻としていまが美しいさかりのはずだ、全く、密輸入者の妻にしておくのはもったいない。幸福な環境において、こぼれるばかりに微笑ほほえませてみたいと思う。 梅田警部補は雑念をふりすてて、咳せきばらいをした。 「ご主人がいま何ど処こにおいでになるか、ご存知ではありませんか」 「いいえ」 「では、ご主人と最後に別れられたのはいつでしょう?」 「今月の四日ですね」 四日というのは、近松が大型トランクを発送したその日である。梅田の神経は一瞬ピンと緊張した。 「質問が重複するかもしれませんが、それ以来、お逢あいにならんのですね?」 「はい」 「四日のいつ頃お別れになったのですか」 「夕食後ですから、五時頃だと思います」 札島駅でトランクを発送したのは午後六時半だから、彼は夕食をすませると家をでて駅にたちより、トランクを送り出して疾しっ走そうしたことになる。 「出ていかれた時の服装についてうかがいます。洋服ですか」 「はい」 「背広ですね?」 「はい」 「色や服地について、くわしくおきかせ下さい」 というふうに一つ一つたずねた結果、近松が失踪当日の服装は、うすみどりのギャバジンの上下に茶色ウール地のシングルのオーバー、それに黒緑色のキットの手袋をはめていることが判った。 「マフラーはどうでした?」 「灰がかった弁べん慶けいじまで、地はやはりウールです」 「所持品は?」 「白麻のボストンバッグ一つでした」 「それきりですか。他に何も持って出ませんでしたか」 「はい」 「その時、どこへ行くといわれました?」 「何とも申しません」 「だまったまま出られたのですか」 「はい」 「それは少々おかしいですね。ボストンバッグまでさげたら、何処かへ旅行される恰好だと思いますが……」 いままでスラスラと答えてきた相手は、この時になってはじめて渋滞をみせた。夫の行方ゆくえをかくそうとしているのに違いない。 「ご主人に何もおたずねにならなかったのですか」 「ええ」 どちらかといえば無愛想な、木で鼻をくくったようなひびきがある。 「ほう、ご主人が旅行されるというのに、行先もたずねなかったのですか。いさかいでもなさったんですかね?」 そういってしまってから、まずいことを訊いたものだと思ったが、果して彼女はツンととがった鼻の先を天井にむけて、返事がない。 「失敬しました。近松氏が出発される時、ボストンバッグの他に、大きな黒い衣裳トランクを持って出やしませんでしたか」 だしぬけにトランクの話をもちだされて、彼女はさも納なっ得とくがゆきかねる表情である。 「いいえ」 「大きいからすぐ目につくはずですが」 「いいえとお答えしましたわ」 「なかなか豪勢な品ですけど、あなたの持物でしょうか」 「いいえ、あたくしのは外地において参りましたわ」 「すると引揚げられてからお求めになったのですね?」 梅田はあくまで喰くいさがった。 「いいえ、ご質問の意味が判りかねますけど。……とに角あたくし、衣裳トランクはもっておりません」 「ほう、するとあれはあなたのものではなくて、近松氏の所有とみえますな」 「存じません」 「失礼ですが、同じ家にすんでいらっしゃるご夫婦でいて、ご主人のなさることに無関心でおいでになる理由がのみこめませんが……」 「…………」 相手は返事をするかわりに、正面きって警部補の顔をきッと見た。 「あたくし、あなたがそのようなことをお訪たずねになる権利はないと思いますわ」 「そこですよ奥さん、問題は。私の訊きかたがまずかったかもしれませんが、権利とか義務とかいうことではなしに、犯罪事件の解決をはかるためにご協力をおねがいしたいのです」 「近松のどんな容疑ですの? それを初めに仰言おっしゃっていただきたいと存じますわ」 「そういわれると一言もありません。それではお話しますけど、ご主人が今月の四日に、札島駅から今申した大型トランクを、内容が古美術品だと称して送りだしたのです。ところが中をあけてみると、それが古美術品ではなくて、腐敗しかかった男の屍体だったんです」 「まあ、屍体! では……では近松は殺人容疑ですのね?」 彼女は明かにおどろいたらしく、顔からさっと血の色がひくと、右手の指をそっとまぶたに当てて大きく息をすった。 「そうです、奥さん。おや、どうなさいました?」 失神するかヒステリーでもおこすのではあるまいかと、若い警部補はおもわず腰をうかした。 「もう大丈夫ですわ、……もう大丈夫」 「まだ顔色があおいですね。気分がわるかったらうち切るとして、もう少し訊問させて下さい。そういったわけで、私どもはあの大型トランクに注目しております。ご主人があれをいつ何処で求められたか、ご存知ありませんか」 「本当にわたくし何も存じませんのよ」 彼女はほっとふとい吐息をし、梅田もさそわれたように嘆息した。 「それでは被害者についておききしますけど、年の頃四十歳ぐらいで、あまり風采のぱっとしない五尺一二寸の男をご存じないですか。髪の毛をざんぎりにして、鉄ぶちの近眼鏡をかけています。どちらかというと醜ぶ男おとこのようですが……」 警視庁からとどいた報告をそらんじてみせると、相手は無表情のまま首をよこにふった。 「いいえ、存じません」 「ご主人と利害関係にある男じゃないかと考えているのですが……」 「……思いあたりませんわ」 「風雅堂の毛塚太左衛門という人は?」 「全然存じません」 「では質問をかえますがね、ご主人が出発された時の所持品と所持金はどうでしょう?」 「わかりませんわ。お金も身の廻り品も、一切あたくしの手を触れさせませんもの」 梅田は少しいらだってきた。この訊問で得るところは、まだ一つもないのである。 「少しつっこんだ質問になりますよ。近松氏が被害者を自宅で殺した場合、あるいはトランクに屍体をつめた場合ですね、あなたは現場を目撃されないとしても、そこに種々の痕跡がのこるはずですが、気づかれませんでしたか。……血痕だとか藁くずだとか」 「藁くず? ……」 「ええ、屍体がごろごろしないように、藁くずをつめこんであったのですよ」 相手は神経質そうに眉をひそめ、身ぶるいをした。 「いいえ、何も気づきませんでしたわ」 「べつにあなたを疑っているわけではありませんから、お怒りにならないでいただきたいのです。ご主人がああしたトランクを持っていらしたら、あなたのお目にとまらぬはずはないと思うのですがね」 「そのご質問は結局あたくしを疑ぐっていらっしゃるのじゃありません? 見ませんとお答えしたら見ないのですわ。でも、近松があたくしに隠そうとすれば、いくらでも隠すことはできますの」 「それはどういうわけですか」 彼女はその白くほそい指で、テーブルの上に鋭角三角形をえがいた。 「あたくしの家の裏手の通りに、がけがあります。そのがけに戦争中ほった横穴式の防空壕ごうがあるんですの。防空壕まで直線距離にしますと五六十メートルぐらいですけど、道路ぞいに行くと百五十メートルほどあります。ちょうど三角形の二辺をいくようなわけになりますの。近松はその防空壕にとびらをつけて物置として使っていましたから、お話のトランクにしてもその中に隠しておけば、あたくしが気づくはずはございません」 防空壕の調査はあとで刑事にやらせることにして、警部補は訊問をうちきった。 「どうも不快な思いをおかけして、すみませんでした。今日はこれでお引取り下さい。ひょっとするとまたおいでを願うかもしれませんから、当分札島をはなれないようにしていただきます」 近松夫人はそれをきいてほっとしたように立上った。 三 「私は札島駅にいってきます。その間に近松が使っていた物置の調査をねがいます。それから各交通機関に連絡をとって、四日夜から五日にかけて近松を見たものはいないか、その点をしらべさせて下さい」 署長にそれだけいい残して、梅田は署のポーチに立った。空をあおぐと雲がひくい。ふるとすれば雪になるだろうか。彼は下宿をでる時にかさを持たなかったことをくやみながら、バスの停留所へ向った。 ひけ時を廻っているせいか、バスの乗客は少かった。ガタガタとはずむ車台が、梅田の空虚な胃袋をようしゃなくゆすぶる。彼は足をふんばりぐっと眼をとじて、この中世紀的な拷ごう問もんにたえようとした。 札島でございまーすとバスガールにいわれて、あわてて車をおりる。そのまま真直に走りさる赤いテールライトを横目にみて、左に曲ってくらい切通しを百五十メートルほど歩くと、行手が急に大きくひらけて、その広場のどんづまりにあるのが札島駅だった。筑豊本線とはいうものの支線ほどの乗客もなく、日がくれたばかりというのに、まるで深夜の駅のようにひっそりとしていた。 駅員のいない改札口をまたいでフォームにでて、駅長室のドアをたたく。駅長はちょうど帰り仕度をしていたところだったが、梅田警部補をみるとオーバーをぬいで、事務机に請しょうじた。すでに東京における事件発生のあらましを知っているためか、梅田の来訪した目的をきくと、すぐに一人の駅員をよんでくれた。大沼君というその駅員は銀ぶちの眼鏡をかけた、ひどく地味な青年である。 「これはまだ発表されていないことですから、そのつもりできいて下さい。じつは近松氏が発送したトランクの中には、男の屍骸が入っていたのです。私どもとしても、ただちに近松氏が犯人だとは考えていませんが、事件の鍵かぎをにぎっていることは間違いない。そこでこのトランクについて近松氏の動きを知りたいと思って、お邪魔したわけなのです。まずあなたがあのトランクを受取った時のことからおききしましょう。あれは何日の何時頃だったでしょうかね、その点からどうぞ」 駅長も駅員もトランクの内容が屍体であったのは想像外だったらしく、虚をつかれた面持でしばらくだまっていたが、やがて大沼君がポツリとこたえた。 「今月四日の、十八時三十分頃ですタイ」 「その時の近松氏の服装だとか態度だとか、そういったことで覚えている点を話して下さい」 「さあ、あまり印象にのこっとらんですナ。洋服にオーバーをきとることは覚えとりますが」 「態度はどうでした? なにか興奮していたとか、ビクビクしていた様子はなかったですか」 「さあ、そういえば、少々緊張しとったかもしれんですナ。それとも重たかトランクをかかえてきたので、息切れしとったのかもしれんです」 「それでは、あのトランクを受付けて発送するまでの話をきかせてくれませんか」 と警部補は矛ほこ先さきをかえた。 「はあ、その時近松さんは、『小口貨物で東京の汐留駅まで送りたいのだが』といわれますので、すぐに重量をはかって手続きをとりました。それから通知書をかいてわたしました。それだけですタイ」 「トランクの重量はどのくらいありましたかね?」 梅田は、すべてを自分でたしかめないと気がすまなかった。すると相手は腕をのばして帳簿をとり、指先をなめてページをくった。 「七十一瓩キロですナ」 「内容は古美術品だといったのですね?」 「そうですタイ」 彼がそうこたえたとき、子供のように頬のあかい青年がバンドをゆるめながら入ってきた。食事をすませたばかりとみえ、まだ口のあたりをもぐもぐさせている。 「これが一時預り所の係りで、貝津君と申します。実はあのトランクのことで、お耳にいれておいたほうがよくはないかと考えたものですからね」 と駅長はなにやら意味あり気なことをいった。 「何ですか」 「はあ、近松さんはあのトランクを、私のところに一時預けしておったのです」 「それがあなた、十二月の一日からなのですよ」 と駅長は説明の要を感じた。 「ほほう、一日から? ……」 「ええ、最初から話すと、こぎゃんですタイ。一日の夜の八時頃に、近松さんがあのトランクをリヤカーにのせてはこんできました。『これを一時預けしたいのだが、手伝ってくれないか』というので手をかして降ろしますと、意外に重いのです。駅の規則では三十瓩以上のものは保管できないことになってますから、近松さんにそれを話しました。すると、『何瓩あるのか計ってみよう』というもんですから、台だい秤ばかりにのせてみると七十瓩をこえています。そこで私が『やけに重たかもンですナ』といいますと、『骨こっ董とう品さ。二日ばかりしたら小口貨物で送りだしたいのだ』と返事しました。そして、『重量がどうのこうのとしみったれたこといわなくてもいいじゃないか、また家へもって帰るのも大変だしさ』と笑いながらいうのです。私も役目の上から一応はそのようにことわりましたが、杓しゃく子し定規に規則をふりまわすのもどうかと思いましたし、いなかの駅はその点ルーズですから、こころよく預ったわけです。その時あの人は、『ひょっとすると三日ばかり預けておくかもしれないが、料金はどうなってるのかね?』とききますので、五日目までは一個につき一日五円だと教えてあげたのです」 「ほほう」 「するとそれから三日目の夜、つまり今月の四日の晩ですが、六時半頃やってきて、トランクを出してくれといいました。そこで出してあげると、今度は貨物の窓口へ持っていったわけです」 「あなたはどう思いましたか、その近松氏がトランクを預けに来た夜と受出しに来た夜とに、そわそわするとかビクビクするとか、平生とちがった態度に気づきませんでしたか」 「一日の夜は冗談をいっていたくらいですけん、別に変ったところもなかったですが、四日の晩は少々おかしかったですナ」 「ほう、どういうふうにですか」 「さあ、そうきかるるとちょっと困るですが、私がトランクをわたす時に、妙にせかせかした表情をしとりました。出ていく時に私がさよならと声をかけたのに、返事もしなかったくらいです」 「なる程ね。ところでそのトランクを預っている間、あるいは渡してやった時に、変ったことはなかったですか」 「変ったこと? ……」 「つまりですね、屍体の臭気がするとかいうような……」 「さあ、気づかなかったですナ」 「一日の夜に運んできた時のトランクの荷造りはどうなっていました?」 「そうですナ、むき出しのトランクにマニラ麻の紐ひもがたてに二本よこに四本かかっていて、両端に木の荷札がつけてあったきりです。小口貨物にするには、必らず両端に一枚ずつ札をつけるきまりになっとるのです」 「するとこういうことになるわけですね。近松氏が七十瓩のトランクを十二月一日の午後八時頃にもちこんで、古美術品が入っているといって一時預けした。そして改めて四日の夜六時半頃やってきて、それを受出すと、今度は貨物受付の窓口へもっていって、小口扱いで発送した……」 「そうですタイ」 と二人の青年駅員は同時に肯こう定ていした。このトランクに大きな謎がひそんでいようとは、当時の梅田警部補に想像できるはずもなかったのである。 四 寒さしのぎに出されたお茶をのんで、さて立上ろうとした時に電話のベルがなり、受話器を耳にあてていた貝津君が、あなたにですバイといって警部補にさしだした。きき覚えがない声がつたわってきて、福間駅長であると名乗るのである。福間は鹿児島本線を折尾から南下して五つ目の駅で、そこから炭坑町直のお方がたをむすぶ省営バスも走っている。 (さき程赤松署から容疑者の逃亡経路について問合せがありましてね、思い当るふしがあるので署へ電話したところが、札島駅のほうへかけるようにいわれたものですから……) (それはどうも。どうぞお話し下さい) (早速駅員にたずねてみますとね、二人がそれらしい人物を見かけておるのです。いま本人にかわります……) ポツンと穴のあいたような沈黙がつづいて、いきなり若々しい声がつたわってきた。 (四日の夜は私が改札の当番でした。警察でさがしとるのは、多分私が見た人物じゃないかと思うのです) (ほほう、間違っていてもかまいませんから、遠慮なくいって下さい。で、あなたが見たというのは?) (三十七八の中肉中背の人でした。灰色のソフトに茶のシングルのオーバーを着とったようです。改札する時に黒っぽい革手袋をおとしたので覚えとるわけです) (携帯品はどうでした?) (はあ、白いズックのボストンバッグをさげとったと思います) (時間は?) (十九時四十五分ごろです) (それは確かですか) (はあ、なぜ覚えとるかといいますと、そのちょっと前に直方行のバスにのる人が時間をききにきたので、『あと十分あるから大丈夫』と返事をしました。終バスは十九時五十五分ですから……) (あなたはどの列車の改札をしていたのですか) (十九時五十分発門司港行の一一二列車です) (乗車券がどこ行きだったか、覚えていませんか) 梅田の期待にみちた質問をかるくうけながして、別の駅員とかわった。 (行先なら私が知ってます) (ど、どこですか) (神戸ですタイ、三等の片道でした) (そりゃ確かですか、間違いありませんか) (大丈夫です。あの人に神戸を売ったことは間違いなかです。兵隊時代あそこの陸軍病院に入っとりましたけん、印象にのこっとるですタイ) (その男の人相や服装をおぼえていますか) (そうですなあ、窓口から見ただけですけん、人相はわからんですが、茶のオーバーに黒っぽい手袋をはめとるのは覚えとります。黒緑色の革の手袋ですタイ) 礼をのべて電話をきる。六つの瞳がもの問いた気に警部補をみつめていた。それを無視して駅長から列車の時刻表をかり、鹿児島本線のページをひろげてみると、福間駅を19時50分にでる一一二列車は、鹿児島駅始発の普通列車であることが判った。 灰色のソフト、シングルの茶のオーバー、黒緑色の革手袋、白いボストンバッグを持っている三十七八の中肉中背の男は、このせまい福間町にも五人や六人はいるであろう。だが十二月四日の夜こうした服装のコンビネーションで身をととのえ福間駅にあらわれた人間が、近松の他に幾人もあるはずはない。この蓋然性プロバビリティはゼロといえぬまでも、ゼロにきわめてちかいものと考えてよさそうだ。とすると、この人物を近松と断定してかかることは大して冒険ではないが、問題は、果して彼が神戸へ向ったかどうか、という点にある。たとえ一一二列車に乗っても、つぎの駅で下車した上で、あらためて下りの列車にのりかえて眼をくらますことも考えられるのだ。厳密にいえば今の情報から得られたものは、近松が問題の夜に福間駅で一一二列車の到着時刻に改札口を通った、というにすぎない。梅田警部補は神戸ばかりでなく九州各地に手配することを考えながら、腰をあげていとまをつげた。 外にでると、雪に一歩手前の氷ひ雨さめが、ボタボタと音をたててふっている。梅田はオーバーのえりを立てボタンをはめおわると、つめたく暗い雨のなかへ向って歩きだした。 五 その頃、鳰に生お田たへおもむいた刑事は二隊にわかれて、一方は近松の防空壕を、他の一隊はその近辺をあらって、何かをつかもうと努力していた。 近松の横穴式防空壕は、札島に多い黄色くてやわらかい泥板岩をえぐったもので、入口には盗難をふせぐために大きな樫かしのとびらがつけてあった。 二人の刑事は捜索令状をしめして近松夫人からかぎを借り、開ひらけ胡ご麻まのアリ・ババよろしくとびらをあけて中に入った。こ腰をかがめて五メートルばかりいくと、黄色い壁につきあたった。北九州の空襲がはげしくなったため、あわててここまで掘った時に、終戦となったのだそうである。 その岩の壁によせて家庭菜園用のショベルや鍬くわや化学肥料の袋がおいてあり、かたすみにはビール函ばこやリンゴ函、石油のあき鑵かんなどがつみ重ねてあったりした。四方の岩肌がしっぽりぬれてしめっぽい上に、くもの巣やほこりのないのが物置らしくなく、むしろ隠者のすむ洞どう窟くつとでもいったほうがよさそうだ。 刑事たちは用意してきたカーバイトランプに点火し、それでもたりなくて銘めい々めいが懐中電灯をつけて、函を床におろして一つ一つ中をしらべ、肥料の袋をかきまぜ、四つんばいになって蚤のみとりまなこで床の上をさがしまわった。 そうした調査が二時間ちかくつづいた頃、石油鑵とリンゴ函の間から、一人の刑事が何かをそっとつまみ上げると、ランプの下にさしだして奇声を発した。 「おい見ろ、こりゃ何じゃ」 「うン、万年筆のキャップじゃな、え?」 それは角張ったふるい型のキャップで、相当の年月をつかいこんだらしく、ひどく磨ま滅めつしている。その刑事は早速近松夫人のところへ持っていった。 「どうじゃろ、あんたの主人のじゃないかね」 「いいえ、近松のはパーカーです。そんなの見たこともありません」 彼がもどってくると、今度は別の刑事がてのひらに何物かをのせて、ためつすがめつ見ているところだった。 「おい、何かあったか」 「うン、これを見ちくれ、何だと思う?」 光線をうけてギラリと光る。手にとってよくみると、小さなガラスの破片で、ふちが円形を帯び、表面がかすかに彎わん曲きょくしている。 「眼鏡……じゃないか」 「俺もそう思うのじゃ。近眼鏡か老眼鏡かわからんが、レンズにちがいはあるまい」 「東京からの報告のなかで、トランクの底にこわれた近眼鏡が入っておったとゆうとるけん、被害者がここでやられた時、破片がとびちったのじゃないかな?」 「まだそう決めるには早いぞ」 そういいながらも、相棒はハトロン紙の封筒をとりだして、大事そうにおさめるのであった。 別のグループは、近松の交友関係を洗おうとして訊きこみをつづけていたが、このほうはかんばしい成績を期待できなかった。札島近辺に近松の知友はひとりもなく、道であって挨あい拶さつをかわす程度のものが駅と隣近所に四五人いたきりで、その方面から手掛りをえようとする試みは、ほとんど無為におわってしまった。 彼等をよろこばせた唯一の収穫は、やはり鳰生田にすむひとりの公務員の申立てであった。色のあさぐろい肥ったこの男は、妙に挑戦的な口調でものをいい、その合間にいかにも人をこ馬鹿にしたような笑いかたをする。 「さあ、今もいったとおり暗かったけんの、よくは見なかったタイ。君、タバコ持っとるじゃろ? 何だ、バットかい。マッチは?」 彼は気をもたせるようにゆっくりと火をつけ、刑事は機嫌をそんじまいとひたすら下した手でにでながら、心中では、この男が運河に転落してブクブクとおぼれ死んだらさぞかし痛快だろうと、先刻からそのことばかり思っていたのである。 「……近松が運うん搬ぱんしおったのは、大きな黒か函じゃったな。いや、暗いから黒く見えたのかもしれんの。うん、防空壕のとびらをあけて中に入れおったタイ。近松のカンテラの光りでみたのじゃきい、はっきりは判らんバッテ、大きさは人間一人が入るくらいじゃったの。よか女おな子ごが入っておったかもしれんぞ。フッフッフ」 「何日頃のことですか」 「うむ、そうタイなあ……。刑事君、タバコもう一本ないか? どうもタバコすわんと考えがまとまらん、ハッハッハ。あれはじゃな、先月の、つまり十一月の二十九日の夜のことタイ。俺おいの知っとるのはこれきりじゃぞ」 こうしたわけで、近松がおのれの妻にも秘密にしてあの大型トランクを取扱ったというのも、ある程度まで事実であるかもしれないとみなされるに至ったのである。 *作者註 本篇に用いた列車時刻表はすべて昭和二十四年度の実際のものである。 三 目覚めざる人 一 翌十二月十一日の午前中に梅田警部補は近松が潜入したとみられる神戸、更に彼が潜伏していると思われる九州各地の二十一署の捜査課長あてに、殺人容疑者としての手配を終えた。 別に、トランクの底からパンチの入った乗車券が見出されたこと及び、屍体の耳から煤ばい煙えんが発見されたという報告とから、死者が殺される前に列車旅行をしたものとみなして、大おお牟む田た警察署を通じて柳河町署に照会することも忘れなかった。 正午近くになってようやく解放された梅田は、つかれた体をどしりとイスにのせた。そして昨夜からの活動をいろいろとふり返っているうちに、ふとした疑問にゆき当っていた。パンチの入った乗車券が被害者のものであるならば、死者は筑後柳河から乗車して折尾までくるつもりだったのだろう。だが、もし彼が近松の防空壕をおとずれる目的であったなら、折尾でなくもう一駅こちらの、つまり札島までの乗車券をもとめるべきではなかったろうか。尤もっともこの疑問は、彼がこの辺の地理にうとかったために、折尾までの乗車券を買ったのかもしれないと考えれば、氷解する。それにしても、切符を駅員にわたすことなく改札口を出られたのは、いうまでもなく折尾まで来ずに、中途で下車したからなのだ。それならば、なぜ途中下車して札島へ向ったのか。いかなるコースを通り、いかなる乗物によって近松の防空壕までやって来たのか。そこまで考えてきた警部補は、被害者の行動になにかしら割切れぬ感じをいだかぬわけにはいかなかった。 梅田は今朝からタバコ一本すう暇がなかったことに気づいて、ケースからぬき出して一服つけているうちに、このような些さ細さいな点にこだわる自分が可お笑かしく思われてきた。初めて捜査の采配をふるものだから、必要以上に大事をとっているのだ。もう少しふてぶてしくかまえるのが、自分を完成するためにもよいのではないか。彼はそう考えて、自分の頭のなかの疑念を、アンドロメダ星雲のかなたに放りなげてしまった。 昼食をおえて休憩していた人々がふたたび出ていったあと、梅田警部補がガランとした部屋のなかで一人作戦を練っているところに、ハンチングをあみだにかぶった刑事が、くたびれた顔付をして入って来た。昼食にもどらなかったのは彼一人である。 「梅田さん、ちょっとした訊きき込こみがあッたとですタイ」 人のよい刑事は、若い警部補によろこんでもらえるかと思うと、おのずと浮んでくる微笑をおさえるために苦心している様子だった。 「や、腹がへったでしょう、お茶をサーヴィスして上げますよ。それとも、タバコがいいかな?」 「すみません、タバコ下さい。全部きらして目がまわりそうですタイ」 彼は肺細胞の一つ一つで味わうかのように深く吸いこんでから、吐出した煙りの行方をぼんやり見つめていたが、やがて我にかえったように警部補の顔に視線をうつした。 「私は札島局に行って、近松あての郵便物を調べるつもりでした。ところが、ここでの収穫はほとんどなかったのです。近松は変った男とみえ、自分あての通信は全部局留どめにしてあるんですな。通信といっても麻薬取引の手紙でしょうがね。ですから局のほうでも、近松の通信がふえたか減ったかということは、よく判るんだそうです。事実、我々が監視をはじめて以来、近松あての郵便物はパタリと絶えとります。尤もこの秋頃から時折り局留の手紙がくるようになったといいますので、そろそろ蠢しゅん動どうする気配があったんじゃないかと思いましたがね。それはとも角として、今度近松が失踪して以来、彼あての通信物は一つもきておらんので、その点から何かつかもうとした私の狙ねらいは、美事にはずれたわけですタイ」 彼は言葉をきるとふたたびタバコをふかしはじめ、とうとう一本吸いおわってから、灰皿にぐいとおしつけて火を消した。 「札島局のほうは全然得るところがなかったんですが、自宅のほうに何か配達されているかもしれません。そこで次ぎに鳰に生お田た受持ちの配達人に逢ってみたいと思いました。ところが今日は非番で休みなんです。それで自宅をおそわって尋ねたら、あいにく海岸にワカメをひろいに行ってるというんですな。そこでまた一時間ばかりトコトコと歩いて海辺に出まして、やっとつかまえることができました。ところが梅田さん、足を棒にした甲か斐いがあったとですタイ」 「何ですか、一体?」 「近松から留守宅に便りが有ったのですよ」 「え? 近松から?」 「ええ、ハガキだそうですがね。真ま逆さかそんなまねはしまいと思っていたのに、堂々と通信しているんだから、呆あきれるじゃなかですか」 「ふむ、それで何どんなことが書いてあったのかな?」 「さあ、配達人はそこまでは知らないといってましたがね。直接近松家に配達することは滅多にないので、めずらしく思ったそうです」 「いつ?」 「九日の朝の便ですから、一昨日のことですタイな」 「ふうむ、昨日彼女は何ともいわなかったが……」 と梅田はいくぶん不興気につぶやいた。だが彼女にすれば、夫に不利な陳述をみずから進んでするはずもない。とまれ刑事が昼食をすませたあと、問題のハガキをとりにやらせることにして、話を打切った。 二 柳河町署から返事がとどいたのは、それから一時間ほど後のことである。大要は左の如きものであって、被害者の身許はこれで判明したと考えられた。 御照会の件に該当する者は当町居住の馬場蛮太郎(三十八歳)と思われます。即ち、 一、同人は十一月二十八日朝八時前に自宅を出発、以来現在に至るも帰宅しない。 二、同人が同日朝、筑後柳河駅で瀬高町経由折尾迄の片道三等乗車券を一枚求めた事が駅員に依よって記憶されている。 三、同人が筑後柳河駅にて八時十六分発下り瀬高町行に乗車した際の目撃者がある。 (下略) その後に馬場の人相その他種々の特徴が列挙されており、それ等は東京からの報告とほとんど一致していた。梅田はくわしい事情を知るために、その日のうちにも柳河へ向うことに決めた。被害者の身許の見当がついたことは、彼にとって歯車が音をたてて一ひと刻きざみしたように感じられたのである。 警部補が列車時刻表をとりだして柳河行の計画をたてている頃、近松宅へおもむいた先程の刑事がもどってきた。梅田はその労をねぎらうことも忘れて、ハガキを受取って視線を走らせた。 便りの文句は実に簡単なものである。青インクでペンの走り書がわずかに二行。 此処は別府。潮の香りがぷんぷんする。 風邪をひかぬ様、体を大切にし給え。 表をかえせば、〝十二月六日夜、於別府、千鶴夫〟とあり、うすくかすれた消印は、兵庫県 別府町24.12.7と判読できる。収集時刻が入ってないのは、当時の地方の小局ではまだ戦時中のやりかたを踏襲していたからである。 「おや、兵庫県にも別府という所があるのですか」 「ええ、私も今日はじめて知ったですバイ。ちょっとその旅行案内ば貸して下さい」 刑事は指先をなめてページをくり、兵庫県の鉄道図をひらいた。 「ここですタイ。瀬戸内海ぞいの淡路島と向き合ったところ……」 「――なる程、山陽線の土山から出ている、別府軽便鉄道の終点か、ふうむ」 と梅田は口をつぐんで、別府の文字を凝視していた。 「あの婦人も、兵庫県に別府があることは、このハガキで知ったのだそうです。それはとも角としてですな、彼が福間から神戸へ直行せずに、こんな小さな町をふらついているのは、何うしたわけですかなあ」 刑事の疑問は、同時に梅田の疑問でもある。近松があのまま神戸にもぐってしまったなら、身をかくすためとか、或あるいは神戸が麻薬取引のさかんな大阪に隣接している点から、密売買のためであるとかの想像もつくけど、このような町に不時着したのは、まるで自分を捕えてくれといわんばかりの行動ではないか。梅田はただちに別府町署に手配することを考え、卓上のハガキをふたたび取上げた。 「時にこのハガキは、果して近松の文字かな」 「それは大丈夫ですバイ。彼の筆ひっ蹟せきを三点ばかり持って来とります。いまさら鑑定の必要もないくらいに、はっきりしてますタイ」 といって、刑事は内側のポケットから、領収書やふるい手紙を取出して卓上にのせた。 「ふうむ、妙に特徴のある字だから、このハガキも別に偽筆ではないようだ。だがこの文句は何となく常じょう軌きを逸しているような気がするな。あなたは何うです?」 「全くですな。だから私もくびをひねったとですタイ。疑ってかかれば、行間に妙なニュアンスがただよっとるでしょう? 密輸入者がその妻に与える暗号指令でもあるのじゃないかとね。そこで訊ねてみたとですよ。『奥さん、ご主人は別府町で何をしていなさるんですか』と。尤も相手がまともな返事をするとは思わんでしたがね。そしたら、『さあ、存じません、何にも』というのですタイ。そこで、この文からうける印象がどうも訝おかしいといいますとね、先方も、『今まで旅先から便りをよこしたことは一度もなかったのに、どうしてこんなハガキをよこしたのか、あたくしにも判りませんの』という答です。いや、案外本当らしい口ぶりでしたよ。そこで私は矛先を転じて、近松がいつ頃殺人を犯したか探ってみようと考えまして、先月の二十八日から今月の一日にかけての、四日間にわたる動静をのべてもらうことにしました。すると、『この四日間に被害者が殺されたと申すのでございましょう?』と、先方は私の質問の意味をちゃんと見抜いておるのですタイ。『むかしはよく小さな旅行に出ましたけど、この頃はほとんど出歩きません』という返事でした。これからみても、我々の監視がきびしいために、動きがとれなかったことが判ります。『そうしたわけで、お訊ねの四日間もちゃんと家におりました』『でも、朝から晩まで、いや、四六時中自宅にとじこもっていたわけではないでしょう?』『ええ、根がおちつきのないたちですから、全然外出しないとは申せませんわ』『すると殺害するチャンスがなかったとは断言できませんね?』私もはっきり訊きましたタイ。相手がああした利巧そうな婦人では、あけすけにぶつかったほうが効果的ですけんな。すると彼女はきわめてあっさりと私の問を肯定して、その後にこうつけ加えました。『でもそんな真ま似ねをしたら、すぐあたくしに判ったはずですわ』『……とおっしゃるのは、殺すチャンスはあったけど、殺しはしなかったという意味ですか』『ええ、近松はどちらかと申すと気が小さいほうですもの、とうてい人殺しなんてできませんし、もし人を殺したならば、あたくしに気づかれないように冷静にふるまえるはずはございませんもの……』とまあこんなふうですから、一応否定はするものの、機会は充分にあったわけですタイな」 三 専門家による筆蹟鑑定の結果も、ハガキの文字が近松のそれであることを認めたので、梅田はすぐさま兵庫県の別府町署にあてて、近松千鶴夫の捜査を依頼した。ところが、鐘をたたいたあとの反響をきくように、その返事は予想外に早くもどってきたのである。 御訊ねの近松千鶴夫に関する報告左の如し。 本月七日の午前十一時頃別府港西方一粁海岸沿ぞいの松並木のもとで、白麻小型ボストンバッグ一個(C・Cの頭文字あり)、茶色ウール地のシングルの外套(内側に近松のネーム刺し繍しゅうあり)、灰色ソフト等の遺留品発見したるに依り、投身者とみなして隣接各地に通牒せしものなり。現在迄に屍体発見の情報を得ず。 別府町署は、頭から近松が投身したように信じているが、そのように割切ってよいものだろうか。余り賢明なやりかたではないが、偽装自殺であるようにも思える。しかし屍体をトランク詰めにして送るというのは、犯罪の発覚を最初から計算に入れてのことではなかったか。本来なら堙いん滅めつするために、トランクごと響ひびき灘なだへでも沈めてしまうのが当然ではないか。近松の家の前の運河は、そのまま響灘へ通じているからである。そうしたことを考えてみると、近松がトランクを発送したのは、自殺するための時をかせぐにあったとも思われる。行間に妙なニュアンスが漂ただよっているといわれた例のハガキの文面も、それが自殺直前にしたためられた遺書であると考えれば、納得がいく。 報告書から顔を上げると、警部補は壁の時計に眼をやった。乗車時刻まであと十分ほどしかないので、ボストンバッグを至急返送してもらうよう別府町署に依頼することを署長に進言して、駅へ向った。 四 赤松から原田行に乗り、改めて折尾で停車中の瀬高行に乗かえる。あいにく列車通学の中学生や高校生で満員だったが、さいわいに坐すわることができたのは何よりであった。 ホッとした梅田は早速一本とり出して火をつけ、そして昨日からの眼まぐるしいばかりの進展を、あらためて眺めてみるのであった。覗のぞきからくりがパタリパタリと変るように、トランク詰め屍体発見の飛電、近松の逃亡、被害者の身許判明、近松の投身といったできごとが、彼の脳のう裡りにうかんでは消え、消えてはうかんでいった。近松の投身は偽装自殺であり、当局の眼をくらましておいて巧みに生きのびているのかも知れない。しかしどこに逃避しようと、きっと自分の手で捕えずにはおかないと、梅田はひとりで意気込んでみた。 車窓からながめると、ここ三日間空をおおっていた厚い雲もこの頃からわれ目ができ、その間をもれた数条の陽のひかりが、空間にななめの縞しまをえがいて、野や丘をまだらに照らしていた。やがて博多を後に鳥と栖すに到着、ここで長崎行に乗りかえ、ついで佐賀で佐賀線に乗りかえて一時間、ようやく警部補は筑後柳やな河がわ駅に到着した。 筑後柳河! それは若い梅田にとっては、かねてよりあこがれの町だった。いつかは踏んでみたいと思っていた白はく秋しゅうの生れ故郷を、このように殺さつ伐ばつな用件でおとずれようとは、全く思いもかけぬことだったのである。 駅の改札口を出てみれば、あたりは暗くしずまり返って、水郷の夜風は梅田のほおに冷たかった。駅員に宿を教わると、すべてを明日に托し、油障しょう子じにうつるはたご屋の灯ひを目ざして、火取虫のように道をいそいだ。 翌あくる朝。梅田警部補は朝食前の一刻を、旅館の廊下の手すりによりかかりながら、南国の水郷の初冬の風物を見おろしていた。空模様はまたくずれそうだ。 少年北原薄はく愁しゅうは、この地の伝習館中学に学んだのだという。廊下をきかかる女中をとらえて薄愁の生家を問うと、二粁キロほどはなれた沖の端の酒造家だと答えた。そして、ごはんの仕度ができました、さめないうちにお上り召せという彼女の言葉も、白秋を生んだ土地にふさわしい床しい響きにきこえるのだった。春に来なさればよろしかったに、と女中は梅田を白秋にあこがれる旅人と思ったらしく、菜種の畑が黄色くならんで川端の桃の花が赤くゆれる下を、北京種のアヒルがのんびりと泳いだりします、逆さにうかんだ倉の白い壁がゆらりゆらりと波にゆがんでみえて……、と残念そうな表情をした。 「冬の柳河はつまりません。朝の水はつめとうして、桃の花の代りに、かれ芦あしとかれ荻だけでございますよ」 いわれて流れに視線をやる。なるほど倉の壁までも陰いん鬱うつな灰色の影をおとしていた。 「いや、私は、冬のほうが好きかもしれない」 彼は天あまの邪じゃ鬼くでなく答えた。このようにくもった初冬の朝にこそ、水郷は常には見せないその退たい嬰えい的な朽ちてゆく面を、旅人の前にまざまざと露呈するのではないか。流れのふちの小道にあらわれては、またすぐに横路にかくれてしまうこの町の住人も、燃えつきようとする残り火がいぶるに似て、ただ息をひそめて生きているように思える。白秋がこの廃市を、『水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩ひつぎである』といったのも、今にしてよく理解できた気持だった。梅田はそっと首すじをのばして、鍵の手にまがった旅舎のやねを見上げた。『その屋根に薊あざみの咲きほうけた古い旅はた籠ご屋などに、ほんの商用向の旅人ぐらいが殆ど泊ったけはいも見せないで立って了しまう』という一節をおもいおこしたからである。だが、今の季節に薊の生えているはずもなく、やねの横の電線にかかった奴やっこ凧だこが、肩をいからせて力んでいるきりだった。 食事をすませるとゆっくり寛くつろいで、新聞に目を通してから旅館を出る。表通りを真直ぐ歩き、おそわった橋から左におれた。道すじを胸中で反復しつつ、掘割にそい掘割をわたった。細い流れは土手に生えた柳の下をとおり、白い倉の間をぬけ、今はかたく閉ざされた武家屋敷のふるい門口の前にたち寄り、別れては出逢い、出逢ってはまた別れてゆく。梅田の行く細道も行きづまると見えて、小さな橋をわたるとまた別の道へ通じていた。いれかわり立ちかわりに現れてくる草で葺ふいた屋根。古い蔵の数々。真白い障子とそこに吊つるされたほし柿のなつかしい色。うつむいて足もとに枯れ葉をうかべて流れる水をみても、あおむいてどんより曇った空と裸の梢をみても、一つとして梅田の詩情にふれないものはない。五十年前に白秋がそれ等を呼吸して育ったことを思えば、なお更である。 駅と正反対の方角に十分ちかく来たとき、ひからびた木の根をぶらさげた薬種屋の看板が目に写って、そのかどを曲った二軒目の、なかばくされかかって傾いた軒が、馬場の家であった。 奥に向って声をかける。しばらくは死んだような静けさばかりで何の反応もなかったが、やがて玄関に人の立つ気配がして格子をあけたのは、三十四五と思われるむさくるしいなりの婦人であった。警部補は、彼女の衣服にしみついた安っぽい線香のかおりをかいだ。 名刺をだすと、柳河町署から一応の話はきいておりますといって、玄関わきの十帖じょうの間に通された。たたみは陽にやけて、へりはボロボロにやぶれ、電灯には笠のかわりに不細工にひん曲げた厚紙がはめてある。全体の様子が、話にきく寺小屋式にできていた。 挨拶をおえた婦人は、自分は馬場未亡人の妹にあたる者だと名乗り、梅田が何もいわぬうちから、蛮太郎の死が事実ならば痛快であると、意外なことを語るのだった。 「姉は義あ兄にがおッ死ちんだ精神的な打撃から、ちょっと寝込んでおりますタイ。精神的な打撃とゆうたかて、これは今後どうして喰うていこうかちゅう心配で、あれの死んだことを悲しんどるのではなかです」 さも誤解をしてもらいたくないといいた気な口調で、九州弁と関西弁をまじえて語るのである。 「ほほう、するとあなたにしろ奥さんにしろ、馬場氏を好いてはいなかったように見えますね?」 「そうですタイ」 と彼女は気負い込んで言葉をつづけた。 「誰があンた、あげん気狂いを好きますかいな。わたしは関西で戦災に逢おうて主人と子供と家財までなくしたもんで、もうこんな戦争はこりごりだといいますとな、日本はもう一度全世界を相手に戦争をおッ始めて、大御稜威おおみいつをかがやかせねばならんと、真っ赤になって怒るのですタイ。あれが一人でやることなら、世界を征服しようとかめへんですが、そのためにこちまでお相しょう伴ばんさせられるなんて、直ッ平ごめんでッせ。弟子たちにソロバン教えとるうちに興がのってきますとな、窓をあけさせて突撃ィだの突込めェなどと号令をかけて、いい気持になっとります。いつだったか姉が、ややが目をさますからといいますとな、いきなりとびかかって撲なぐったりけったり、鬼おに夜や叉しゃみたいに折せっ檻かんしましたとですタイ」 彼女は当時を思い出してか、にぎりこぶしを震わせた。 「どうしてああいう性格なのか知らへんけど、朝おきた時と夜ねる時には宮城を遥よう拝はいするのやいいましてな、子供をずらりとならべて、その子供があなた、生めよふやせよで、いざという時の人的資源にそなえるのだといいおって、姉が可哀想なほど毎年生れますのやが、その一族郎党をそろえて遥拝するのがみものですわ。わてはもうアホらしくて、ようお辞儀もしまへんが、あれが気狂いのようになって怒るさかいに、心はよそに飛ばせて、デクの棒みたいにやっとります」 話が一段落して、警部補は先刻から手にしていたタバコにようやく火をつけた。未亡人に逢いたいというと、彼女は腰を上げて奥に入っていったが、間もなく乳児ちのみごを胸にだいた女が、びんのほつれ毛を気にしながら出てきた。妹によく似たおもざしの、みすぼらしく所帯やつれをした三十六七の年輩である。彼女の背後から蒼あお白じろくゆがんだ顔の幼児が二人、客のほうをおずおずと盗み見ては、襖ふすまのかげにかくれた。 梅田は眼の前に坐っている未亡人に対して哀れみの感情をおさえることができなかった。全く彼女は、すり切れた雑ぞう巾きんのような印象を与えるのである。胸の児も栄養がたりぬらしく、顔の静じょう脈みゃくが青くすいてみえ、泣く声も出せない様子だった。しかし彼女もまた妹と同様に蛮太郎の死をよろこんでいる風なのを見てとってからは、話を進めるのに気が楽であった。 「……そうしたわけで、馬場氏をあやめた犯人を明かにしようと努力をしているのですから、どうかご協力をねがいたいと思います。早速ですが、馬場氏が他人から恨みをいだかれるような心当りはありませんか」 未亡人は光りのない眸ひとみで膝ひざの幼児の顔を見つめていたが、やがて梅田をかえりみると、抑揚のない声で答えるのだった。 「はい、それはああした喧けん嘩かっぽい人間でしたけん、人様とはよくいざこざを起しました。バッテン、殺さるるほどの恨みをうくることは、なかじゃろうと思います」 「では、近松千鶴夫という人について、ご存知ありませんか」 「いいや、聞いたこともなかです」 「馬場氏の交友関係はどうでした?」 「あげん性格ですけん、近所の人もつきあってくれまッせん。友人もほとんどなかです」 「今度旅に出た目的は何でした?」 「それは知らんバッテン、どこからか手紙がきて、それを読んで急に出掛くるようになったのじゃなかろうかと思うとります」 ようやく反応があったので、警部補は思わず体をのりだした。 「その手紙を見せていただけませんか」 「さあ、主人は手紙を自分ひとりで読んで、わたしには見せないたちですけん……」 有ればいいがという表情で妹をよび、探してくるように命じた。 「どこへ行くといって出たのですか」 「さあ、何もいわんとですタイ」 「だれに逢うためだったか、判りませんか」 「はい、訊いてもみまッせん。何をたずねても満足に話をしてくるる主人じゃなかですし、女子供はだまッとれと叱らるるのは判っとりますで」 「その手紙を見た時の様子はどうでした? うれしそうだったとか、不快そうだったとか……」 「馬場は年中怒ったような顔をしとりますけん、心の中までは判りまッせんですが、自分でさっさと仕度をして出ていきましたから、案外よか便りじゃなかったろうかと思うとりました」 「出発した日は?」 「先月の二十八日の朝ですタイ。八時前で……」 「服装や所持品はどうでした?」 「さあ、服装ちゅうても貧乏ぐらしですけん、十年も前から着とります一いっ帳ちょう羅らの紋つきの羽織袴に、ちびた下駄をはいて出ました。所持品も手て拭ぬぐいと石せっ鹸けんぐらいをバスケットに入れて……」 「所持金は?」 「そんなに持てるはずもなかですが……、ひょっとするとその手紙の中に旅費が入っていたのではなかろうかと、妹と話をしたですタイ。そうでなければ、なかなか簡単に旅立ちすることはできんですもンなあ」 そういっているところに、奥からもどってきた妹は、どこを探しても手紙は見つからないと報告した。もしそれが犯人からの死の招待状であったならば、予あらかじめ馬場に命じて、他人の目にふれる前に破棄させてしまうことは当然である。 ついで封筒について訊いてみたが、安物のハトロン紙であったというほかは何も覚えていない。差出人の名前にしてもおそらくは偽名にちがいなかろうから、封筒がのこっているならとも角、名を記憶していたとしても大して役に立つまい。 「赤松の近辺に札島という所がありましてね、ご主人はそこで殺されたのです。先刻申した近松という人間は、麻薬の密売をやっている形跡があるのですけど、馬場氏にそのほうのかかり合いはありませんかね? これは馬場氏を侮辱するのではなくて、ご主人を殺害した犯人をはっきりさせるためにうかがうのですから、是ぜ非ひお答えねがいたいと思います」 警部補の問をうけて、二人の女は無表情の顔を見合せた。 「一向にそぎゃんことは気づきませんでした。主人は家をあけたこともなかですし、手紙も滅多にくることはなかですけん、麻薬の取引をしとったとは思えまッせん」 「そうですタイ、あれは怒ど鳴なるほかには何の能もなかですけん、闇商売でもうけることなど、でけるもンですか」 と妹はあくまで蛮太郎を軽けい蔑べつする。 「以前に赤松方面にでかけることはなかったですか?」 「いいえ、戦前も戦後も、旅に出ることはほとんどなかです」 「それではですね……」 と梅田は札島の防空壕の中で発見された万年筆のキャップをさし出した。 「これに見覚えありませんか」 「あるどころじゃなかです、これは主人の万年筆ですタイ。これがどうして……」 「いま申した札島で発見されたのですがね。それではもう一つうかがいましょう。馬場氏の近眼鏡はどんな型だったでしょう? 例えばふちがセルロイドであったとか……」 「いいえあなた、そんなしゃれたものではなかです。鉄ぶちの、十五年も前から使っとるもンです」 「なるほど、鉄ぶちのね」 こうして警部補は、とも角も近松と馬場とをむすびつけることに成功したのである。そこで参考資料として蛮太郎の指紋を採取したのち、いとまを告げた。 走るようにしてかどの薬種屋をまがりながら、白秋を通じてあこがれつづけてきた柳河の印象が、今はうす汚れた白茶けたものになってしまったことを、つよく意識したのであった。 四 或る終結 一 梅田が帰署してみると、留守中に二三の情報がとどいていた。そこで屍体検案書に添付されてきた被害者の指紋と、柳河から持ちかえった馬場の指紋を早速比較させて、屍体が馬場蛮太郎に相違ないことを確認した。 東京から廻送された衣裳トランクには、屍体をとりのぞいたあとの物が、そっくりそのまま詰めてあった。それについては梅田の帰りを待つまでもなく、すでに刑事が赤松市をはじめ、隣接の折尾、八幡、小倉、門司などの諸市に飛んで、証拠固めのために、屍体を包んだゴムシートの出所を洗っていた。だがこうした品物を製造したり販売したりしている店は限られたはずであるのに、近松がそれをどこから入手したかをはっきりさせることは、ついにできなかったのである。 ゴムシートのほかに警部補の興をひいたのは、鉄ぶちの古ぼけた眼鏡であった。彼は机の上に紙をしいて、われたレンズの破片を慎重に復元していった。そして最後の欠けた個所に、刑事が近松の防空壕で発見した一片をそっとあてがい、ついで満足そうなうなり声をだして、タバコに火をつけた。問題の一片は、欠けたところにピタリと合ったのである。これと万年筆のキャップとを思いあわせる時、馬場の殺害現場があの横穴式防空壕であることは、もはや疑いをいれる余地もない。 もう一つの情報は、つぎの通りだった。昨十一日の午後、梅田が柳河へ向けて出発した一時間ほどのちに、門司駅の車掌区から電話がかかってきた。それは、十日の夜近松の逃亡経路をはっきりさせるため各駅の公安室に対して問合せをした、その反応の一つであった。報告をしてくれたのは山陽本線二〇二二列車の車掌で、乗車勤務をおえて車掌区にもどり、今しがた赤松署の手配を知ったところである、といった。 二〇二二列車は門司駅を22時45分に始発する不定期の東京行準急である。彼はさる十二月四日に門司駅から勤務乗車していたのだが、翌五日未明に、ちょうど三み田た尻じり駅を発車した直後(三田尻発は1時40分だから、門司駅を出て三時間ほどたった頃である)、一人の中年紳士が車掌室に来て、カゼをひいたらしく頭痛がする、なにか薬品をもらえまいかと申しでた。この紳士の人相については、無髭で頭髪をきれいにわけていたという程度しか記憶していないが、服装のほうはもう少し印象にのこっていた。帽子は座席においてきたとみえてかぶってなく、茶のシングルのオーバーをきて黒っぽい革手袋をはめ、弁慶じまのしゃれたマフラーをしていた。ボストンバッグを持っていたかどうかは知らないけど、赤松署でさがしている人物に該当するところが多いから通知する、というのであった。 すでに近松が福間駅から乗車して別府町へ向ったことが判明したあとだったため、この報知はさほど署長をよろこばせはしなかったが、捜査に協力してくれた礼をのべて電話をきろうとした時、先方はつぎのようにつけ加えたのである。 (私がですナ、アスピリンの錠剤をわたしてから名刺をいただきたいといいますとナ、はあ、こうした場合は名刺をもらうか、名刺がない時には救急薬品利用者名簿に署名してもらうことになっとるのですが、するとその人は、近松という名刺をおいていったです。は? 名刺は今ここにありませんけど、名前はおぼえとります。千鶴夫、近松千鶴夫という名で……、ええそうです) 署長からこの報告をきかされたあとで、梅田は列車時刻表を手にとり、鹿児島本線と山陽本線のページをひらいてみた。福間駅を19時50分に出る一一二列車は21時37分に門司駅に到着して、一時間と八分の待合せでこの二〇二二列車に連絡するのである。とまれ近松の逃亡経路は、これでいよいよはっきりした。 「正直に名刺をだした点から考えますと、やはり逃亡する気ではなくて、自殺行だったと思われますな」 と梅田は署長をかえりみた。 「ウンにゃ、そう簡単にゃきまらんバイ。これで屍体があがれば君のいうとおりになるバッテ、わしのカンによると、自殺とみせかけて神戸にひそんどるのじゃないかと思うね。何しろあそこは、大阪ちゅう麻薬取引の中心地を控えとるけんのう」 この辺りでは、バッテンをバッテと発音するのである。 二 別府町署に依頼しておいた近松の遺留物は、翌十三日の夕方の列車便で到着した。手のすいている刑事たちもどやどやと集ってきて、荷をあける梅田の手許を興味ある目で見つめていた。 彼は黙々として木の箱からボストンバッグをとりだし、ほこりをたたいて机の上にのせた。それからおもむろに錠じょうをはずして口をひらき、中を一いち瞥べつして茶色のオーバーをひきだし、灰色のソフトをとりだし、弁慶じまのマフラーと汚れたままの一足の靴下と、最後に洗面具をつかみだした。警部補はボストンバッグを逆さにしてとんと叩たたいてから、一同の顔をかえりみた。 「これきりだ」 ついで彼は遺書のたぐいでも入っているのではないかと思い、オーバーを机の上にひろげて漁あさってみたが、そうしたものは全然なくて、右の外ポケットに黒緑色のキッドの手袋と十二月五日付の英文毎日、内側のかくしからポケット版の列車時刻表がでたのみであった。 この時刻表は赤松駅の弘済会売店でいくらでも売っているもので、近距離旅行者むきに関西、四国、九州方面に重点をおいて編へん纂さんした、うすっぺらなパンフレットである。十二月号としてあるのをみると、近松が今度の旅行のために求めたものと思われた。旅行慣れた人がよくやるように、福間駅を19時50分にでる一一二列車と、それに連絡する山陽線の二〇二二列車の欄に色鉛筆で赤線がひいてある。梅田はしばらくその時刻表を見つめていたが、ふといぶかし気な表情をうかべて、署長をかえりみた。 「ご覧なさい、近松がのった二〇二二列車は準急ですから、別府軽便鉄道がでている土山駅にはとまりません。別府港へいくには、一つ手前の加古川駅で下車しなくてはならんのです。その停車時刻は13時6分ですが、いずれにしても近松が真直ぐ行ったならば、五日の夕方までには別府町に到着していたはずです」 「うむ、それで?」 「近松の例のハガキですね、あれは日付が六日夜で消印が七日になっているでしょう? つまり六日にしたためたが、夜遅く投とう函かんしたためにその日は収集されないので、翌七日のスタンプがおされたとも考えられますし、また六日に書いて七日に投函したとも推定されるわけです」 「うむ」 「しかし何いずれにしてもです、あのあたりは漁船でにぎわっているために、昼間は投身できない。この赤松港にしたってそうでしょう、漁師や仲仕の目をぬすんで飛びこむことは、絶対に不可能です。すると彼の自殺決行は六日の深更から、七日の払ふつ暁ぎょうにかけてのことであると思われます」 「それは君のいうとおりじゃ、わしも別府町から高たか砂さごにかけてあの辺あたりを歩いたことがあるが、仲々活気のあるところじゃきいな」 「だからです、脱ぎすてられたオーバーやボストンバッグなどが七日の昼の十一時頃に発見されたという点から考えても、七日の夜以降に投身したものとは思われない。すると五日の午後に別府町に到着してから七日の払暁までの間を、どう過したかということが疑問になってくるのですがね」 「訝おかしいね、じゃからわしは彼の自殺をすなおに納得でけんのタイ」 若い警部補はこの四十時間未満の時刻のずれがどれほどの意味をもっていたかという点について、全然想像をめぐらすことができなかった。だがのちになってみると、少くともそれに疑義をさしはさんだというだけでも、彼が有能の警察官であることは証明されるのである。 「どうも訝おかしいですよ、この点が……」 「何も君、そげん深く考える必要はなかタイ。もし近松が自殺したのだとしてもじゃね、決心が途中でにぶったけん、遅疑逡しゅん巡じゅんするちゅうことも充分考えらるるもンな。それよりも君、近松の妻女をもう一度呼んで、遺品を見せる必要があるタイ」 三 警部補はふたたび彼女と向き合っていた。卓上にはボストンバッグ、オーバーなどがごてごて並べられてあるので、まるで古道具屋の親おや爺じが、女の客と値段の折衝をしているような図である。 「……列車の時刻表や英文毎日は存じませんけど、あとはどれも近松の持物に相違ございませんわ」 彼女は案外に無感動な表情だった。梅田が考えていたように、夫の遺品を前に涙をながすというそぶりは、全然みられない。それは日本婦人に強要されてきた感情をおもてにだすことをはしたなしとするあの封建的な教えのためか、或いはまた馬場の遺族の場合と同じように夫の死を悲しんでいないためか、警部補には見当がつきかねた。だが最も妥当性のあるのは、近松の死が偽装であって、どこかでピンピンして生きていることを、この密輸入者の妻が知っているのだという考え方である。しかしもしそうとするならば、なおのこと彼女は涙をながして、夫の死をかなしむお芝居をしなくてはならないはずだ。 梅田は立上って、別室においてあった例の衣裳トランクをもってきた。彼女はその品が何であるか察したらしく、まゆをよせて気味わるそうな表情である。 「奥さん、ではこのトランクについて如何いかがでしょう? 先日お話しましたように、馬場という被害者の屍体がつめてあったトランクですけど。それからこのゴムびきのシート、これに見覚えはありませんか」 彼女はおそろしそうに無言のまま否定した。しかしその表情は、決してうそをついているようには見えなかった。 梅田がかさねて何かいおうとした時に、ドアがあわただしくノックされた。立上った彼は廊下の男としばらくひそひそ話をしていたが、やがて扉をしめて席にもどってきたその顔には、固く緊張したうちに深い同情のいろがうかんでいた。 「実はその……」 といいかけて言葉をのみ、カラーのまわりに指をいれて、えり頸くびをゆるめた。 「何でございましょう?」 と相手の顔つきも真剣になる。 「実はその、興奮なさらずにきいていただきたいのですけど、ただいま岡山県児こ島じま市の警察から、ご主人の屍体が発見されたという通知がまいりました」 「まあ、やはり……」 さすがに女は眼をまるくして驚き、ついでがっくりと肩をおとした。 「そうなんです。別府町から下しも津つ井いの沖まで漂流したわけですね」 といってから、こんなむごい話はすべきでなかったと悔んだ。 「あの、下津井と申しますと……?」 「岡山から四国の高松へわたるところに宇野という港がありますけど、その宇野の西にあたります」 「どんな状態で発見されたのでございましょう?」 「奥さん、大丈夫ですか。それではかいつまんでお話しましょう。岡山県の海上保安部から児島市署を通じてきた情報でして、内容はこうなのです。『十二月十二日夕刻本県児島市下津井町沖にて漁ぎょ撈ろう中の網に中年の男子の屍体がかかりたるにつき、同夜検視の結果、所持の手帳、印鑑其その他たより、福岡県赤松市外札島鳰生田居住近松千鶴夫なること判明。屍体認知の為ため至急遺族の来岡を乞こう。なお同人の服装は淡緑色ギャバジンの背広の上下、黒短靴着用。死後一週間を経たるものの如し』といったものですがね」 相手はひざの上にきちんと両手をそろえ、まばたきもしないで見つめたままきいていた。ややあって梅田をふりあおいだ顔はさすがに蒼白んでいたが、語調には少しも乱れたところはない。 「そういたしますと、あたくし向うに参らねばなりませんのね?」 「そうです。足もとから鳥が飛びたつようですが、今夜の急行で私と一緒に下津井まで行っていただきたいと思います。よろしいですか」 四 梅田警部補が近松夫人をともなって岡山県の児島についたのは、十四日の正午をすぎた頃だった。早速構内電話で連絡をとると、すぐ迎えにゆくから駅の入口で待っていてくれという。 二人は指定された場所に立っていた。海のにおいの彼方かなたから、風にのって船の汽笛がきこえてくる。同じく海をひかえている赤松にくらべて、児島市の雰囲気がどことなくおだやかなのは、灘と内海のちがいからくるのではなかろうか。 梅田はそっとかたわらの女をかえりみた。屍体発見の通知をうけても、ぐっと感情をころして動じなかった女。夫の遺品を前にして、全くかなしみのいろを表わさなかった女。そしてここにくる列車のなかを黙々として、まるで仮面をかむったように、かたい表情をくずさなかった女。梅田警部補は彼女の胸中をいろいろと揣し摩ま臆おく測そくしてみるものの、ついぞ結論を得ることはできなかったのである。 ひょっとするとこの婦人は、今から対面しようとする屍体が夫でないことを、ちゃんと承知しているのかもしれない。だがいずれにしてもその解答は、あと一時間もたたぬうちにだされるのだ。 五分ばかり待った頃、街角から黒ぬりのセダンがあらわれて、かるくカーヴをきると二人の前でとまり、年配のふとった男がきゅうくつそうに体を曲げており立った。 「赤松からおいでになったかたで?」 「そうです。こちらが遺族の近松夫人です」 挨拶がすむと、この児島署の警部は女のように甲かん高だかい声で説明をはじめた。 「屍体は一里ばかりはなれた下津井町の病院に安置してあります。さいわいに時節が時節ですから、ほとんど腐ふ爛らんしてないのが何よりでした」 この警部は、ゆうに二十貫を越すと思われる巨きょ躯くが示すとおり、粘液質であるにちがいない。さもなければ、遺族の前でそうした言葉を弄ろうするはずもなかろう。梅田は思わず近松夫人の顔をうかがう。だが彼女の表情は相変らずマスクをかぶったように、固く冷たかった。 三人が車にのりこむと、いま来た道をバックして下津井へ向う。無遠慮に白いほこりをたてて二十分ちかく走ると、やがて下津井鉄道の終点下津井の町はずれに入った。ここは児島半島が瀬戸内海につきでた袂たもとの小港で、道路の右手にならぶ家々の間からは、初冬の陽の光りを照りかえした海が、連続写真のようにあらわれては消え、そのはるか沖には十艘そうあまりの漁船が帆をあげて、点々とうかんでいた。海ぎわの苫とま家やの庭には、長い棒に網がほしてあり、それがいかにも穏やかな漁師まちの趣きを呈している。だがこれからなすべき陰鬱な仕事を考えると、梅田警部補の心は北欧の風景画をみているように重たく沈んでくるのであった。近松夫人にしても思いは同じことだろう、右手ににぎりしめたハンカチにじっと視線をおとしたまま、身じろぎもしない。肥った警部も前方をみつめたきり口もきかず、ただ鼻のあなを大きくひらいてすうすう呼吸する音が、エンジンのうなりの中からよくききわけることができた。 やがてふたまたに別れた道を左にまがると、商家のならんだ町中らしい筋にでて、ほどなくペンキのはげかかった二階建だての病院の前で停車した。警部を先頭にうすぐらい玄関に立つ。クレゾールの臭気がはげしく嗅覚をくすぐった。 あらかじめ電話してあったとみえ、出てきた看護婦は万事をのみこんでいるように、三人を奥へみちびいた。梅田は、強いて感情をころしているものの、緊張にほおをひきつらせている女をいたわるようにして、せまい廊下を中に進んだ。壁ぎわの長椅子の上には、いかにも漁師らしい頑丈な体つきの男が三人、もくねんとして診察の順番をまっており、そのうちの一人の腕を吊つった繃ほう帯たいの白さが、黒く陽焼けのした皮膚にひときわうき上ってみえた。 先に立ってスリッパの音をたてて歩いていた看護婦が一室の前でぴたりととまると、すべりのわるい戸が仰々しい音とともにおし開かれ、すると今度はフォルマリンの臭いが鼻粘膜をキュンと刺し戟げきした。 「奥さんはちょっとここに待っていなさるがよろしかろ」 くるりと後ろをむいて肥った警部が、キンキンとひびく声でいった。 「そうなさったほうがいいでしょう。そのソファにこしかけて待ってらっしゃい。先に私たちが屍体を見てきますから」 そういい残した梅田は、びっくり箱をあけるような不安と期待とをもって、中に入った。屍体が近松なら、この事件はこれで終りをつげるのだし、近松でないならば、更に複雑なものとなるであろう。 正面の窓ぎわの台上に白木の棺かんがおいてあり、ふちなしの近眼鏡をかけチョビひげを生やした五十恰好の医師が、まるで舞台奇術師のような手つきでヒョイと棺のふたをとると、その下から軽く瞼まぶたをとじ、鼻の下とあごのあたりに不精ひげの目立った男の顔があらわれた。梅田はそのいくぶんブクブクとした蒼白い死顔をまたたきもせずにじーっとみつめ、おもむろにポケットから近松の写真をとり出した。 「何うですかな?」 そういう警部にだまって写真を手わたすと、彼も双方をしげしげと見くらべてから、深くうなずいて医師に廻した。やがて医師からその写真をうけとった時、梅田ははじめて口をひらいた。 「入歯の金冠もあっているそうですね?」 「ええ、門歯の上に三枚と左下の第二臼きゅう歯しに一枚の金冠がありますし、右奥の上の臼歯にサンプラが入っている点は、昨日いただいた電報と一致しています。写真と死顔も似ていますから、同一人と断定しても差支えないでしょう。ただ指先を魚にくわれているので、指紋が役に立たないのが残念です。ところで遺族のかたに入っていただきましょうか?」 梅田警部補は一つうなずいてから、廊下の扉をあけた。彼女はその音に顔をあげて唇をかみしめ、あらためて覚悟をきめた様子だった。 「ほんのちょっとでいいのですから……」 彼がひくい声でポツリというと、相手は無言のままそっと立上った。 彼女が部屋に入るのをみて、棺の前に立っていた医師と看護婦はさっと左右にしりぞいた。梅田がひじをとろうとするのを軽く辞退して前に進み、血の色をうしなったほおを更に蒼白ませて、それでも意外なほど気丈に屍体に見入った。 「……夫に相違ございません。それから、左の手頚にホクロが三つたてに並んでいるはずですわ」 それだけいったとたんに、今までの気丈さがうそのように、クラクラとよろめき崩れて、そのまま梅田の腕に倒れこみ、二人の看護婦がすぐに手をのばして彼女をかかえると、廊下につれ出した。看護婦たちは彼女の失神を予想して、手ぐすねひいて待っていたようにさえ見えた。 あとに残った児島署の警部も、フォルマリンの臭気には辟へき易えきしていたらしく、ついで死者の前では不謹慎と思われるほど大きなくしゃみをした。それで医師はやっと気づいたらしい。 「では私の部屋にいってお話しましょう」 といった。 五 医師の私室はよくそうじのゆきとどいた気持のいい部屋だが、寝台が場所をとっているので、肥った警部は身動きもできなかった。 やがて医師は近眼鏡をキラリと光らせ、卓上のタバコを二人にすすめて、自分も一本くわえるとライターで火をつけた。 「この窓から見える半島を児島半島といいますが、その沖合で漁師がひいていた網にあの屍体がかかったのです。それは一昨日、つまり十二日の夕方のことでした。つい先日も女の入水屍体が漂着した例があったので、漁師も今度は慣れて、上手に運んでくれたわけです。ご覧になったとおり、顔や手など露出した部分は岩にぶつかったりスクリューにやられたりした痕あとがありまして、相当波にもまれた様子ですし、ことに、指は魚にくわれたあとがひどいのですが、大体においてさいわいに原型をたもっております。警察医も私も、死後五日から一週間ということに意見が一致しました。しかし外観が水死体らしくないので念のため解剖してみることになったわけです。ところが予期したとおり胃にも肺にも全然水が入っておらんのです。といって暴行をうけた形跡もありません。そこでこれは毒物を嚥えん下かしたのではあるまいかという疑いが出て、検査した結果、はたして胃と血液から青化物の反応があらわれたわけです」 語りおわってしきりにタバコをふかす医師に代って、今度は警部が甲高い調子で説明をはじめた。 「所持品は上うわ衣ぎとズボンのポケットに入っていた物だけです。後刻夫人にみていただくとして、あなたには今お目にかけましょう」 警部はさっきから抱えていた鞄かばんを机において、近松の遺品をとり出した。海水がしみこんだ人造皮革の紙入れが一つ、アメリカ製のナイロンの刻みタバコ入れが一つ、パーカーの万年筆と近松と彫られた象ぞう牙げの印鑑が一つずつ。紙入れには千円紙幣が八枚と百円紙幣が三枚、それに黄色く変色した近松の名刺が十六枚入っている。更に紙入れの外側のポケットには小さくおりたたんだうすい紙片が入っており、つまみ出してひろげてみると、札島駅から汐留駅留で古美術品を発送した小口扱貨物通知書の甲片であった。 「まだ乗車券が入っているはずですがね」 医師にいわれて紙入れをさかさにしてパタパタとはたくと、同じように黄色く海水のしみこんだ一枚の切符が、ひらりと卓上におちた。十二月四日福間駅発売の神戸行三等乗車券で、それがこうして紙入れに残っているのは、神戸まで行かずに中途で別府町へ向うべく、加古川駅に下車したためであろう。梅田はその乗車券をてのひらにのせて、我知らず吐息をホッとついたのであった。 六 近松の屍体はただちに荼だ毘びにふされることになって、梅田たちで野辺の送りがいとなまれた。 一方あたらしく誕生した未亡人はやっと意識をとりもどしたものの、火葬場までついていくことは到底できず、看護婦がつきそって岬の鼻にあるふるい宿屋〝銀波楼〟にいこわせた。海に面した部屋にとおされると、看護婦は女中に床をとらせ、脳貧血だから枕をひくくしているようにと注意を与えて帰っていった。 梅田がもどったのは夜の七時頃であったろうか、すでに未亡人もいくぶん元気を回復していた。彼女がまだ夕食前だと知ると女中に鯛たいスキを注文して、おなじ部屋で食事を共にすることにした。 「あたくし、何もいただきたくありませんの」 「それがいかんのです。こういう時には、機械的にでもたべておきませんと、あとで参ってしまうものですよ。この家の鯛スキはちょっと有名な料理でしてね、まあ無理にでもたべて下さい」 梅田はいつになく強引にいった。 食膳に向った彼女は、ろうをかんでいるようにまずそうな面おも持もちで、はしを動かしている。警部補は何とかして相手の気持をかるくしたいものだと考え、つとめてはずんだ口調で語った。 「この宿屋はなかなか古い家でしてね、先刻のおデブさんの警部の話ですと、むかしは芸者なんかがいたらしいのです。この土地の民謡に、〝銀波楼の芸者衆が招きゃ、沖の舟の灯が消える〟というのがあるんだそうですがね。ふところ具合のいい船頭はこの家の前の石段まで舟をこぎつけて、呑のんだり唄ったりしたのだそうですよ」 だが鯛スキの味は、梅田にとっても決してうまいものではなかった。彼はふとはしを休めると、ガラス越しにくらい沖のいさり火をながめ、それでいて心は全く別のことを考えていた。この女性は決して夫の死をかなしんでいるのではない。悲しみと、夫の屍体に対面してうけたショックとは自おのずから別のものだ。とすると、彼女は胸中なにを思いなにを考えているのだろうか。 ふと我にかえると、ポンポン蒸気の発動機の音が、黒い海面をわたって単調にひびいてくる。梅田はふたたびはしをとった。 翌十五日のひる前に、夫の骨箱をもった未亡人は、梅田警部補と共に赤松へかえるために下津井鉄道にのった。車内はわりにすいてたが、ガソリン車のために排気ガスが充満して、それが漁師のもちこんだ干物の臭気とまじり合って梅田を閉口させた。未亡人は蒼い顔に憂愁のいろをうかべたまま、相変らずだまりこくっている。 被害者と加害者とがそろって、事件はここに解決したといってもよかった。近松が蛮太郎を殺した動機や、彼が柳河をたって壕内で殺されるに至った足取りは、帰署して裏付捜査をやればよい。意気ごんだわりに龍頭蛇尾の感がせぬでもなく、強いていえば近松の自裁が残念でもあったが、梅田の胸中はからりと晴れた瀬戸内海の青空にも似ていた。ただ未亡人への遠慮から、それを面おもてにあらわさなかっただけである。 五 古き愛の唄 一 札島駅のフォームは、長さが百メートルばかりもあろうか、小さな浮島といった感じのものである。それでも列車がとまった時に、五六名の客がおりた。全くそれは、ここに駅が開設されてあるから、駅長と運輸省の面子メンツをたてておりてやるのだ、というふうにも思われた。 鬼おに貫つらがそれ等の義理がたい人々のあとにつづいてフォームにおり立ったところは、ある小説家の表現をかりれば、コロンブスであった。彼はこれから札島を発見しようとしているのである。ライトグリーンのダブルのオーバーに小さな鞄を一つかかえたきりで、フォームから改札口をとおり、それから近松が屍体を発送したという駅を、大きな眼で如何にも感慨ぶかそうに見まわした。ついでポケットからおもむろに一通の封書をとりだし、便びん箋せんにかかれた略図を頭のなかにたたきこんだ。 駅の正面には切通しの一本道がつづき、略図によればその上をどこまでも歩いていけばよいのである。鬼貫はぐっとあごをひいて、肩を一つゆすって前進をはじめた。 黒の短靴がほこりにまみれて黄色く粉をふいた頃に切通しは終って、四つ辻にでた。左手からきたバスが右手へ走り去るのを見送って、ふたたび歩きだす。このあたりが札島の中心地であるとみえ、道路の両側には鯛のペンキ絵の看板をかかげた釣具屋だの、写真屋だの理髪店だの、勘亭流ののぼりを冬空にへんぽんとひるがえしている芝居小屋だのが、まるで店じまいをしたかのようにヒッソリ閑かんとしてならんでいる。どの店も黄色いほこりをかぶって、飾り窓のなかの色あせた品物は、博物館の陳列箱をのぞいているような錯覚をさえ起させるのであった。 店屋のならびが切れたあとは一面に黄色い畑がひろがり、そのはるか彼方に大きな掘割が見えはじめた。近松が麻薬を陸あげした運河であり、そしてその運河にそって歩けば、近松宅にゆきつくはずである。 運河はちょうど干潮時とみえて水が少く、小こ蟹がにが足音におどろいて穴に逃げこんだ。その生きものの落着きをかいた敏びん捷しょうさが、ゆくりなくも近松の性格の連想を呼んで、彼とともに送ったカレッジライフを、ほろにがい気持で思いだしてみた。ぬけ目ない要領のよさと巧みな弁舌、人見知りもせずに誰彼となく接近してゆく厚かましさ、おちつきなくキョトキョトと動く瞳、それ等が要約した近松の特長であるようだ。性格のつよくない彼が順調なコースをたどっているうちはよいものの、ひと度たび逆境にたてば忽たちまちぐれてしまうことは、鬼貫にも容易に想像がつくのであった。 彼は運河に視線をあずけたまま、自分が近松と一人の女性を争って見事に敗れ悄しょう然ぜんとして満州に去ったことや、近松がほこらし気に彼女をいだいて北京の商社に赴任していったことなどを思い出してみた。そして今、十年前に己れを拒否した女性の苦境を救おうとして、一途に運河のほとりを急ぐ自分をかえりみると、そのお人好よし加減に我ながらあいそもつきるのであった。 彼はあわてて顔をあげ、くびをふった。運河の左右には、大きな邸宅と土蔵とが点在してみえる。筑豊本線が敷設されることによって札島がさびれる前の、この運河に荷舟が出入りした頃の名な残ごりなのである。おそらくここ三十年来というもの、それ等の土蔵はガランとしたまま、扉をあけられたことさえもないであろう。そう思って見なおすと、どの邸宅もしずまりかえって、いい合せたように閉じきった門が、まるで死に絶えたような印象を与えるのだった。 なおも行くうちに、運河を中にはさんで三四十軒の人家が立ちならんだところに出た。略図によればそこが鳰に生お田たであり、たずねる家はその中程の、土橋のたもとにあるはずである。 近松と書かれた標札をみて、鬼貫はかすかに胸のときめくのを覚えた。齢よわい不惑を数年ののちに控えて、かつての意中の女性を訪ねるといってこのように波立つ胸に、彼はかるい自己嫌悪を感じていた。年甲斐もないと吐すてるようにつぶやいてみたところで、その波はしずまりそうにない。横の砂山にあそんでいる子供が、もじもじしている鬼貫を怪け訝げんそうに見上げたので、彼は我になくほおをそめ、思いきってガラス扉を横にはらうと、小暗い奥にむかって声をかけた。それに応じたハイという返事をきいて、鬼貫は思わずたじろいだように一歩しりぞいた。 やがて目の前にたちあらわれた女性をみて、彼は眼をまるめ、息をのんで立ちつづけていた。 「由美子さん」 「まア……」 予期したとおり幾分やつれを見せて、それでも思ったよりも若やいでみえたのは、クリームとグリーンのよこじまの明るいセーターのせいばかりではないようだった。由美子は泣き笑いの表情でたたずみ、鬼貫は手にしたソフトを不器用にくるくるともてあそびながら、いうべき言葉にまよっていた。 二 やがて二階の一室に通されて、とも角線香をたてたのち、あたりさわりのない言葉がしばらく交かわされた。 「お子さんは?」 と、鬼貫がいくぶん遠慮がちにきいた。 「ありませんの」 「それはそれは、淋しいでしょう?」 「あなたのお子様は?」 今度は由美子がきく。 「ないです」 「まあ、それではあなたこそお淋しいでしょうに。でも奥様、おやさしくておきれいなかたでしょう?」 「ないです」 「まあ……」 と、彼女は意外な面持ちだった。 「お亡くなりになって?」 「最初からないです」 「ご結婚なさらなかったの?」 鬼貫はだまってうなずいた。彼女は眼を丸くして、何故かしら? ……と口のなかでいい、やがてその理由に思いあたったのか、急にほおに血をのぼらせた。鬼貫は相互の会話をらくにすすめようと考えたにもかかわらず、それが反対の方向にゆきつつあることを悟った。 「ひろい家ですね」 と、あらためてあたりを見まわしたので、由美子もほッと救われた表情になった。 「ええ、一人住いにはひろすぎますわ。下が三間に、上はこのお部屋のほかにもう三間ありますの。むかしこのあたりが栄えた時分に、ご隠居さんが義太夫にこったとかで、舞台と客席になっていますのよ」 「そりゃすごいです。その頃はなにか商あきないでもやっていたのでしょう? どうもこの構えはしもたやではない」 「ええ、呉服屋さんだときいてますわ。前の運河に舟荷がついて、なかなか大したものだったんですって。このあたりの人にはその頃の船頭言葉がのこっているものですから、会話の調子がとても荒っぽいですわ」 「でも、こうした大きな家で近松君の位い牌はいをまもっているなんて、よくさびしくありませんね」 鬼貫がこういったのがきっかけとなって、話題が事件のほうに導かれていった。 「あなたが十九日に投函なさったお手紙、二十一日にとどいて拝見しました」 「今日は二十三日でしょ? すぐにとんで来て下さったわけですのね。わがまま申して、ほんとに相済みません」 「いえいえ、そんなこと構いませんよ。どうせ休暇がたまっているのですし、場合によってはこれが仕事にもなるわけです。で、早速ですが、ことの始まりからきかせて下さい」 由美子は小半時あまりもかかって、赤松署の梅田警部補にのべたのと全くおなじ内容を語り、下津井までの経過を詳細にきかせた。 「こうしたことは、ちょうど医者が患者から病状をうちあけられるように、すっかりお話していただかないと、あとで困る場合ができるかもしれないのです。近松君が四日の夕方お宅をでる際に、あなたがその行先をたずねなかったりした点は、梅田警部補でなくともちょっとうなずけませんね」 「そうですわね。あなたは梅田さんとは違いますもの、なにもかくしだてする必要はありませんわ。これは家の恥になりますけど、あたくしと近松との間は、ずっと前からいけませんの。おなじ家に住んでいる同居人にすぎないのですわ。結婚して十年の余になりますけど、お互いに別々のことを考え別々の道を歩いてきましたの。北京語に我ウォ不プ関カン焉ジェンというのがありますでしょ? あたくしどものゆきかたは、あの通りでしたのよ。ですから、お互いにどんなグループと交わっても、容よう喙かいもしなければ気にもかけないことになっていましたわ。あたくしが抗議を申込んだのは、あの人が密輸の仲間入りをした時だけ。勿もち論ろんにべもなくことわられました。それが、こちらの警察の監視がきびしくなって手も足もでないくせに、あたくしがやめろといったからやめたんだと恩にきせて、お小遣いに困ってくるとぶったりしますの。そんな仲ですもの、あの人が四日にでかける時だって何もききませんでしたわ。あたくし共の生活では、それが当り前なことになっているんですのよ」 「ほほう」 うなずきながら、十年前に見せつけられた近松と由美子の姿を思いうかべて、鬼貫は感無量だった。 やがて急きゅう須すをとろうと手をのばした由美子のうでに、彼はふと二つの黒い痣あざをみつけた。 「おや、その痣は近松君がたたいたあとですか」 「あら」 あわててかくそうとする由美子を、鬼貫はあわれむように見つめていた。 「酷ひどいことをしますねえ」 「はあ」 「それにしても、近松君がどこへ行こうとしているのか、大体の見当はついていたのでしょう?」 「ええ、それはつきましたわ。近頃また密輸に手を出すらしいそぶりが見えていましたから、そうした方面へでかけるのだろうと思いました。ハガキがとどいて、はじめて別府町と知りましたわ」 「関西へはしばしばでかけたのですか」 「いちいち何処へ行ってきたとは申しませんけど、大阪と大おお分いたにはよく行ったようでしたわ。あそこには取引の仲間がおりましたから」 「話が変りますがね、あなたのお手紙にあった近松君を潔白だと信じる理由は? ……」 由美子はひざの上に組んだ指をくねくねさせて考えをまとめているふうだったが、やがて深くいきを吸うと、鬼貫の顔をふりあおいだ。 「あの人は密輸などをやるくせに臆病でしたから、決して殺人なぞできませんわ。血を見ないですむこととなると、大胆なところもありましたけど。ですから屍体をトランクにつめて一時預けしたり、それを三日後に受出して東京へ送るというようなことは、できるはずがありませんのよ。こちらの警察にも申上げたことですけど、もし近松がそうしたまねをしたとしましたら、きっと挙動にあらわれてあたくしに怪しまれますわ。それに鬼貫さん、近松があの人を殺す動機がありませんのよ。梅田警部補さんも、その点で困っておいでのようですわ」 「ふうむ。すると近松君の失踪とその死について、由美子さんはどう考えておいでですか」 「判りませんわ。でもあたくしがはっきりと感じるのは、千鶴夫が人を手にかけることができないように、自分を殺すこともできない点ですの。あの人がどれほど自殺をおそれたかは、あちらで終戦後によくわかりました。暴民におそわれた時など、ただ自分の命にばかり執着してましたわ。そのためにはどんな卑怯なことでも醜悪なことでも平気でしのびますの。自尊心なんて全然持合せていませんのよ。そうした近松ですもの、なんで投身なぞするものですか。どんな恥しい目にあっても生きていますことよ」 「それで、あなたが仰言おゃしゃりたいことは? ……」 鬼貫は、彼女がこれほどまで近松を憎悪しさげすんでいるのを知って、ひどく意外に思った。由美子は鬼貫の質問を肯定するように、大きくうなずいた。 「そうですの。近松は殺されたのではないか、ということですの」 「近松君も……?」 「ええ、あたくしの第六感ですと、あのトランク詰めにされた被害者とおなじ犯人の手にかかって……」 「そういえばあなたのお手紙に、なにか近松君の自殺を否定するような根拠があるとか……」 「ええ、鬼貫さんはどうお考えになるかしら? いま持ってきてお目にかけますわ」 由美子はすぐ立上って、となりの部屋からボストンバッグを持ってきた。そして中の品物を卓上にならべおわると、鬼貫の表情をうかがうようにして語った。 「あなたはどうお思いになって? 近松は学校をでて以来、英語は全く勉強しませんでしたの。軍が英語排斥などといいだすと、それをよいことにして怠なまけてましたわ。それがこうした世の中になったでしょう? 引揚げてきてから急にアメリカを礼らい讃さんするようになって、また英語をやりはじめましたのよ。ですから外出するたびに英文毎日をよく買ってきて、読んでいましたわ。それにしても、自殺する目的で家をでた後まで勉強しようというほど熱心家じゃありませんの。いいえ、熱心不熱心じゃなくて、それほど落着けるたちじゃありませんわ。薩さつ摩まの藩士に、うち首になる直前まで読書したという人の話がありますけど、近松だったらガタガタふるえて夜の目も眠れないはずですのよ。それに英語を学ぶのも、なにかの打算的な動機からなんですの。ですから、いよいよ死場所へ赴こうという場合に英文毎日を買ったことは、何としても不自然でうなずけませんわ」 鬼貫はおりたたまれた英文毎日をひろげて、日付を見た。十二月五日(月曜日)としてある。おそらく神戸へ向う途中の駅で買ったものだろう。 「そうですね。近松君にかぎらず、誰だってこのような場合に英語の勉強などやらんでしょうな。近松君の自殺が突発的なものだったら別ですけど……」 「それに鬼貫さん、お手紙にもお書きしましたように、あの人がのんだ毒薬は青化物ですの。自殺しようとして死場所をさがしている人とか、人を殺そうと目もく論ろんでいる者でなければ、そうした毒薬をもって歩くはずはないでしょう? そう考えますと、近松が計画的に自殺を念頭において青化物をもって家をでたことと、途中で英字新聞を買ったということが矛む盾じゅんしてくるように思えるのですけど」 由美子は熱した口調でつづけた。 「それならば誰かを殺そうとして毒薬を所持していたとも考えられますけど、先程お話しましたように、あの人は臆病者ですから、とうてい人殺しはできませんわ。もしそうした悪企だくみをもっていたとしたら、別府町からあたくしにハガキをよこすはずはないと思いますの。自分の足取りを知らせることは、まるで自分の頸くびをしめるようなものですし、そうした悪智恵は人一倍よくはたらくほうですもの」 「なる程、すると近松君が英文毎日を買ったことは計画的な自殺を意味してないし、突発的な自殺だと解釈するには毒薬を所持した点に矛盾をきたす、というわけですね?」 「ええ、そうですの」 鬼貫は由美子の言を正しいと思った。その疑惑は、彼女の手紙を読んだとき既すでに彼の頭にもうかんだものである。 「あなたが考えていらっしゃることは、よく判りました。僕にもまだほかの点で二三訝おかしく思えた個所があります。それに僕がこの事件に興味をもったのは、もう一つ別に理由があるのですよ」 「まあ、何でしょう?」 「それはね、近松君と僕ばかりでなく、トランクづめにされた馬場蛮太郎という被害者、これも同じ学校を同期にでているのです」 「まあ……」 「といっても、馬場と僕とは口をきいたこともなかったし、したがって馬場がどんな人物であるのか、ほとんど知ってはいないのですがね。まあとに角僕は全力をあげてやってみます。ところで問題の衣裳トランクを見せていただきたいのですがね、もう警察からかえってきましたか」 「ええ、防空壕の物置にいれてありますわ。気味がわるくて、ここにはおけませんもの」 「それはそうでしょうね。では靴をはいた時に案内していただくとして、あとで土地の警察にちょっと顔をだしておきたいのですが、担当したのは梅田警部補とかいう人でしたね?」 「ええ、お若いけどしっかりなさったかた。事件の調査などするより、詩をよんでいるほうがお好きなんですって」 「なる程、詩人警官ですか」 と、鬼貫は微笑をうかべてうなずいた。 だが、かつての想おもいびとのために一肌ぬごうとする鬼貫にも、その調査から鬼がでるか蛇がでるか、まったく見当がつかないのであった。 六 新しき展開 一 その日の午後、鬼貫は赤松署をおとずれた。肥って、焼物のたぬきを思わす署長も、美男子の梅田警部補も、遠来の鬼貫とこころよく逢い、その話をこころよくきいてくれた。 「……そうしたわけで、私はあなたがたの捜査と全然べつの面から、個人として事件を検討してゆきたいのです。これは地元の警察と対抗しようというような考えでは決してなく、私の調査から新事実がでてくるという確信もありませんし、またもし新発見があったとしても、それであなたがたの鼻をあかそうなどというはしたない考えは、少しも持っておりません」 「それはいわれるまでもないことです。私どもにしましても、窮極の目的は罪悪の追究と正義の確立にあるのですから、あやまちを指摘されてそれをどうこう思うなんて、とんでもないことです。どうかそうした心配はなさらんで下さい」 梅田の返事に、鬼貫は感じのよい笑みをうかべて大きくうなずいた。 「そういわれますと、大した成算があるわけではないし、いささか面おも映はゆいのですけど、今も申しましたとおり近松も馬場も私と同期であってみれば、知らぬ顔もできませんしね」 「そうですとも」 「それに事件の経過をしらべてみますと、一つ二つ納得いかぬ点があるのです」 鬼貫は相手の顔を等分にみた。 「ほほう」 「不合理な点があるのですよ。たとえば、近松が自殺するのになぜ神戸へでかけたか、ということです。投身するならば、この辺にいくらでも海があるではありませんか」 「それはこう考えらるるですバイ。わしの知っとる鹿児島の男が、わざわざ北海道まで行って首つりをやったです。首をつるならあンた、自分の家の庭さきに、手頃な柿の木があるですタイ。それというのも、途中までは死ぬ気がなかったからですタイな。で、近松の場合も、初めは神戸の仲間にかくまってもらうつもりじゃったが、途中で思いなおしてとびこんだというふうに解釈することもでけるじゃなかですか」 「では、投身するのになぜ毒をのんだのでしょう?」 「それはあンた、冷たか水にひたるのがいやだから、瞬間的にきく青酸をのんだとですタイ。冬は統計をみても明かなように、投身自殺がへるですもンな。それと反対に熊本県の阿蘇の噴火口は、夏場になると自殺者がへりますタイ。蜑あまも蓑みのきるしぐれ哉かなという心理に似たようなものですバイ」 「それでは、毒をのんだのになぜ投身したのでしょう? 仰言るとおり、あの毒はすぐにききますよ」 「…………」 「まだあります。近松が神戸へむかうのに、どうして福間駅から乗車したか、ということです。札島駅から乗ったらよさそうなものではありませんか」 署長はついに沈黙して、おもむろに頷うなずいてみせた。 「近松が屍体入りのトランクをただちに発送せずに、一時預けしたのも疑問です。そこに何か理由があると思いますがね」 「それはですナ、あの夜は発送するだけのまとまった金がなかったのじゃないかな。近松家は経済的に困っておった様子じゃきい」 「それならあなた、一時預けしないで自宅においておくほうが、より経済的ですよ。一日に五円ずつ負担がかかるのですからね」 「それがじゃな、五円や十円の小銭はことかかなかったが、何百円となると持合せがなかったと……」 「屍体を駅員のそばに三日間も預けておけば、発覚の公算も大きいとみなければなりませんがねえ」 「うむ……」 「彼が自殺のための時をかせぐ目的であったなら、なぜトランク詰めというめんどうなことをやったのでしょう。自分の菜園にでも埋めるか、海底にしずめてしまったほうが、楽でもあるし発覚するまでの期間も長いですよ」 「そうなんです、我々も一応はそれを考えたんです。だから近松の遺品が別府町で発見された時、偽装自殺にちがいないと睨にらんでいたんですよ。それが屍体があがったもんだから、やはり自殺であると思ったんです」と、梅田警部補が興奮したように、早い口調でいった。 「じつはですナ、我々のほうも近松の自殺説には疑念をいだいておったとです。いま梅田君がゆうたように、屍体があがったから自殺でけりがついたと思うて、裏付捜査をしてみるとなかなかうまくゆかん。これは表面からみたような簡単なものではなく、裏面にはもっと複雑な何かがあるんじゃなかろうかと、梅田君と語っておったとこですタイ」 署長はタバコに火をつけて一服すると、ふたたび鬼貫をかえりみた。 「そこであなたには、どぎゃんお考えがあるですかな? ことによっては、わしがいっちょうはんごうしちゃるきい」 「はあ?」 署長のいうことの前半はとも角、あとの意味がとれなかった。 「わしが一つはんごうして上げるから、という意味ですよ」 「はんごうというのは?」 「はんごうするというのは、都合をつけるという赤松弁です」 と、梅田警部補がわらいながら通訳してくれた。 「何の考えもありませんな。ただあなたと同様に、事件の底にはもっとたくらまれた謎があるのではないか、もっと深くしらべてみる必要があるのではないかと思うのです。さしあたってただ一つ残された手段というのは、近松が福間駅にあらわれたのは真ま逆さかあるいていったのではありますまいから、彼をあそこまではこんだ乗物をさがしだすことです。前後の時間からみて、たぶんタクシーではないかと考えていますが、その運転手さえみつけることができれば、得るものがあるのではないか。近松がいかなるコースで福間までいったか、その途中でどんなことがあったか、あるいは何もなかったかもしれませんが、とも角その運転手にあってみたいと思うのです」 「なる程、失礼ですがくもをつかむように頼りなか話ですバッテ、わしも協力しますタイ。あンたはその運転手をどういう方法でさがしますかな?」 「運転手とかぎったものでもないのです。馬車の御ぎょ者しゃかもしれないし……」 「ラジオがいいでしょう」 と、梅田警部補がさけぶようにいい、結局そうすることに決ったのである。 二 その日の夕方から福岡放送局ジェー・オー・エル・ケーは、定時放送のあとにつぎの一節をくり返すことを忘れなかった。 「……去る十二月四日の午後八時頃に、中年の紳士一人を鹿児島本線福間駅までのせてゆかれたかたは、至急赤松警察署へご連絡下さいませ。なおこの紳士は茶色のオーバーに灰色弁慶じまのマフラー、おなじく灰色のソフトをかぶり、白麻のボストンバッグ一個をさげていました。とくに自動車の運転手、輪タクの車夫、荷馬車の御者のかたがたにおたずねいたします。去る十二月四日の午後八時頃に……」 この放送は北九州の聴取者にすこぶる奇異な感じをいだかせた。しかしそれも翌朝の九時のニュース以後は、パッタリ止んできかれなくなってしまった。 その二十四日の朝八時すぎに、赤松の旅館に滞在していた鬼貫は、梅田警部補から電話の連絡をうけた。放送の効果を心配していたこととて、報告の内容は鬼貫をホッとさせたのである。 名乗りでたのは博多のトラック運転手で、今日の正午に自分のガレージにきてくれると好都合だが、といっているという。鬼貫にしても事件解決のためには地獄へでもでかける覚悟だったから、二つ返事で発たつことにした。 三 彦根半六運転手のつとめている金田運送店は、博多駅から西へ向って三丁ほどいったところにあった。戦災をうけて改装したらしいガレージの、赤いペンキで火気厳禁とかかれたとびらの前に立って、のんびりと人待顔で日なたぼっこをしているのが、たずねる人物であった。 いがぐり頭のひたいには戦闘帽のあとが白くのこり、カーキ色のズボンにゲートル姿がその人柄にピタリときて、そうかといってこの準戦時ふうの服装をぬがせたところで、彼にマッチするような服はちょっとありそうに思われなかった。 「今日は少し冷えますけん、ここでお話しましょう」 運転手はガレージのなかからリンゴ函ばこを二つかかえてくると、一つを鬼貫にすすめ、一つに自分も腰をおろした。トラックの運転手に不似合な緩かん慢まんな動作のこの男は、やがて鬼貫のまったく予期しないことを語ってきかせ、事件は巨人のすねを以もってひと跨またぎにあたらしい段階に突入してしまったのである。 「……ラジオのいうことは昨日もきいとりましたが、少々ちがっとるところもあるので、自分のことではあるまいと思っておったわけです。今朝になっても出頭者がない様子なもんだから、ことによると自分のことかもしれないと考えて、赤松警察によってみたのです」 鬼貫はポケットから近松の写真をとり出して、相手にわたした。 「そうです、この男にちがいありません」 「服装はどうでした?」 「ラジオでいっていた通りです」 「どこからあなたのトラックに乗ったのですか」 「札島駅の近くの四つ辻です」 「すると、折尾・赤松間のバスがとまる、あの十字路ですね?」 昨日あるいた黄色いほこり道を思いうかべて、鬼貫はそうたずねた。 「はあ」 「何なん時じ頃でした?」 「あの日のできごとは、わりによく覚えとります。夜の六時半を少々すぎとりました。まあ六時三十五六分でッしょう」 六時三十五六分といえば、近松が例の大型トランクを札島駅で発送した直後にあたるわけである。 「この男の態度に、そわそわするとか、こそこそするとか、変ったところはなかったですか」 「はあ、変っておったといえば、変っておったです」 「どんなふうに変っていたのですか」 「いや、べつに態度がこそこそしておったわけではなかです」 「ですから、どんなふうに変っていたのですかね」 と、鬼貫は、じれったいのを我慢して、おだやかにたずねた。 「態度はべつにそわそわもこそこそもしてなかったですが、やることが変っておったのです」 「ほほう、やることがね? 一体どんなことをやったのですか」 「はあ、それには最初からお話せんと、わかりまッせん」 「結構ですとも、できるだけくわしくきかせて下さい」 と、鬼貫も腰をおとしてかかることにした。 四 彦根運転手はぼそぼそした低い口調で、つぎのように語った。 「十二月四日の午後、博多から赤松まで畳をはこんだのです。かえる時には夜になってしまいましたが、赤松駅の前をとおりかかると一人の男によびとめられたのです」 「ほう」 「時刻は六時をすこしすぎておったと思いますが、自分に、『札島までやってくれないか』というのです。札島ならばかえる途中ですし、それに少々タバコ銭もほしかったもんですけん、『よかです』と承知したわけです」 「なる程」 「するとこの人は財布から百円札を二枚とりだして、『札島についたらもう二枚やるぜ』といいました。ちょっと走って四百円とはボロいもうけだと思ったのです」 「それで? ……」 「やがて札島につきますと、この写真の男が道ばたのくらやみからヒョッコリ出てきたのです」 と、彼は近松の写真を指さした。 「ほほう、近松がね。それで?」 「ふたことみことトラックの上の男と話をしてから、二人は荷物をおろしはじめました」 「え、荷物?」 「はあ、いいわすれましたが、この男が自分を赤松駅前でよびとめた時、菰こもでつつんだ大きな荷物と小さなトランクを持っていたのです。その時は自分もてつだって、この大きな菰づつみの荷物を、トラックの背中にのせました」 「よほど重かったですか、その荷物は?」 「いや、それほどじゃなかですが、七八十瓩キロはありました」 「ふむ、それで?」 「それでですナ、札島でストップした時にその青眼鏡の男が――」 「ちょっと待って。青眼鏡の男というのは?」 「赤松駅の前でトラックにのった男ですタイ」 「ははあ、するとその青眼鏡があなたのトラックをよびとめて、菰づつみと小さなトランクをのせ、自分もトラックに乗って札島までやってきた、というわけですね?」 「はあ、そうです」 「どうぞ、つづけて下さい」 「札島につくと、近松という人がとびだして、青眼鏡と二人でトラックの背中から菰づつみをおろしました。すると青眼鏡が運転台のところにやってきて、『その場所から動かないように』といいますので、『よかです』と返事しました。それから二人は菰づつみをかかえると、札島駅のほうへはこんで行ったのです」 「そうしますと、近松はそれを札島駅においてきてから、あなたの車にのったというわけですね?」 「いいえ、ちがいます。自分がみたのは、二人の男がかどをまがって、視界から出ていったというだけです。二人が駅までいったのか、かどを曲ったところで時間をつぶしてもどってきたのか、その点はわからんです」 「ほほう、どうしてですか?」 「自分の停車した位置からは、駅のほうまで見通せないからであります」 「どの辺で停車したのですか」 「四つ辻の五メートルか十メートルばかり手前のところです」 「ははあ、李すももか何かの木がはえてるあたりですね。で、なにか駅まで行かなかったと考えるような根拠でもあるのですか」 「いや、それはなかです。ただ正確にいうと、そうなるわけです」 「正確であればあるほど私には結構なのですよ。すると、つまり正確にいうとですね、二人の男が菰づつみをかかえて札島駅のほうへ曲ってゆき、やがてその荷物をどこかにおいてくると、ふたたびあなたのトラックに乗った、こういうわけですね?」 鬼貫が相手の言葉を要約すると、意外にも彦根運転手はつよくかぶりをふって否定するのだった。 「いいえ、違います」 「え? 違ってますか」 鬼貫は声をたかめて眉をあげ、運転手は無表情のまま一つうなずいてみせた。 「違うといいますと?」 「そうですな、駅のほうへ曲っていってから十五分ばかり待たされた頃に、二人がまたその菰づつみをかかえてもどってきたのです」 「菰づつみをかかえて?」 「ええ。自分はてっきり菰づつみを札島駅から発送するのだろうと思っていたので、意外に思いました」 トラック運転手の口調は、ようやく軽くなってきた。 五 「一体どうしたわけだろうと思って見ていますと、青眼鏡が自分にのこりの二百円をはらいながら、『どうだね、今度は遠おん賀が川がわまでとばしてくれないか、あと三百円やるぜ』というのです」 「遠賀川というと? ……」 「博多からいくと、折尾駅の一つ手前です。札島から勘定すると、二つ目の駅です」 「で? ……」 「とに角はらがへっとりますし、おまけに寒かったので、早くかえりたいと思いました。しかし遠賀川もかえり途みちにあるもんですから、『よかです。遠賀川きりで堪忍してくだッせえ』と結局おれて、ダメをおして走らせました」 「ふうむ、近松も同乗したのですね?」 「そうです。遠賀川駅へまがるかどでとめますと、青眼鏡が一人でとびおりて、菰づつみをもって駅のほうへ歩いてゆきましたが、今度は手ぶらでもどってきたのです」 「待って下さいよ、近松は何も手伝わなかったのですか」 「はあ、青眼鏡が一人でやりました」 「すると近松はトラックの上にのこっていたのですね?」 「さあ、べつにトラックの背中をふり返ってみたわけではなかですから、近松さんがトラックの上に残っておったか、道路におりて待っておったか、それは知りまッせん。ただ自分が運転台に坐っとると、青眼鏡が一人で菰づつみをはこんでいく姿がみえた、というだけです」 「七八十瓩のものを一人で持っていったのですか」 「そこですタイ、訝おかしいのは。あれ程に重たかもンを一人で持ってゆけたという点が、どうもふしぎなんです」 「どういうふうにして、持っていったのですか」 「こんな具合に、肩にかついでいきました」 と、仕方噺ばなしになった。重量については、あとで遠賀川駅に行ってしらべてみれば簡単にわかるかもしれない。前後の事情からみて、青眼鏡が駅に行ったことは、ほぼ誤りないからである。鬼貫はこの点にあまり執着しなかった。 「青眼鏡は駅のほうから手ぶらでもどってきたわけでしたね? それからどうしました?」 「すると青眼鏡は約束の三百円をはらいながら、『どうせ博多へかえるなら、僕を駅前の肥前屋という旅館までつれていってくれないか、あと四百円あげよう』と誘惑したのであります。このガレージにかえるには、その肥前屋の前をとおらなくてはならんのですから、自分も金額につられて承知したわけです。すると青眼鏡は、『それじゃ四百円をいまわたしておこう。それからあの友人を福間駅の四つ辻でおろしてくれたまえ。なに、面倒なことはいわん。駅までのりつける必要はないんだよ。いままでと違って、ちょっとストップしておろせばいいんだ』というのです。そこでふたたび車をスタートさせて、いわれた通り福間駅の四つ辻で一時停車しますと、近松さんは身軽にとびおりて、駅のほうへスタスタと曲っていってしまいました。そのあとはどこにも止らずに、真直に博多へとばして、肥前屋の前で青眼鏡をおろすとそのままガレージにもどったのです」 「ふうむ」 鬼貫はうでをくんで、考えこんでしまった。青眼鏡の登場とその奇怪な行動は、まさに局面を百八十度に廻転しようとしているのである。 「その男が『どうせ博多へかえるなら……』といったのは、どうしたわけでしょう? つまりですね、あなたが博多へかえるということを、青眼鏡がどうして知っていたのでしょう?」 「それは自分の車の横腹に大きくかいてあるから、すぐ判るのです」 いかにも彼が指さしたトラックの横には、大きなペンキの文字で、〝博多・金田運送店〟と書いてある。 六 「今のお話は、非常に参考になりましたよ。こちらからもう少し質問したいと思いますが、辛抱して答えて下さいな。ところで、青眼鏡があなたを呼びとめたのは、何なん時じ頃でしたっけ?」 「六時を二三分すぎとったと思います」 「青眼鏡の服装について、なにか覚えていますか」 「覚えていますとも、忘れろといわれても、そう簡単に忘れることはできんです」 「え?」 意外な返事に、鬼貫は思わず声をたかめた。 「帽子は青のソフトで、眼鏡はいま申したとおり青ですが、オーバーがやはり青のダブルで、マフラーもズボンも青であります」 「ほう、全部青ですね?」 「はあ、ただマスクは黒いのをかけとりました」 「靴はどうです、靴は?」 「さあ、靴ははっきり覚えとりません」 「身長は?」 「ちょうどあなた位ですな。中肉中背でした」 「言葉はどうでした? なまりはなかったですか、九州弁とか関西弁とか……」 「標準語でした。ラジオのアナウンサーのように、歯切れのいい言葉づかいでした」 「声はどうでした? テノールとかバリトンとか……」 「さあ……、まあ普通ですな」 「それでは話をもとにもどしましょう。赤松の駅前というお話でしたけど、正確にいうとどの辺ですか」 「青眼鏡が立っていたのは、駅の入口です。ちょうど靴磨きがならんでいるところの、一番はずれです」 「その時、二つの荷物をもっていたのですね?」 「はあ、菰こもづつみをたてて、手で支えておりました。小さなトランクは、足もとにおいてあったと記憶しとります」 「その時の印象はどうでした?」 「印象? ……」 「つまりですね、あなたが青眼鏡の男と荷物を見た途端に、どんなことをピンと感じましたか」 「さあ、むずかしい質問ですな。青眼鏡は菰づつみを赤松駅にもってきて、札島駅とおなじようにことわられたのじゃあるまいかと、後になって考えました」 「なるほどね。便乗の交渉が成立すると、あなたが手伝ってトラックの背にのせたと……。重量は七八十瓩でしたね? 大きさはどうです?」 「トランクのほうは小型の赤いやつですが、菰づつみのほうは相当に大きかったです。青眼鏡の身長より少々高いくらいでした」 「形は?」 「長方形です。まあ五尺六七寸に、一尺六七寸と一尺ぐらいはあったと思いますな」 「ふむ、相当大きなものですね。で、札島へ走る途中は、どこにも止らなかったのですか」 「はあ」 「到着した時刻は?」 「六粁キロ半の距離ですけん、六時二十分前後だと思います」 「駅の前までは乗りつけなかったのですね?」 「はあ」 「李の木のところでとめたのは、あなたの意志でやったことですか、それとも青眼鏡のさしずですか」 「はあ、赤松をでる時に、その場所で停車するようにいわれとったのです」 「ふむ、そこに近松がとびだしてきたというわけでしたね?」 「はあ」 両人があらかじめ打合せをしておいたに相違ないということは、鬼貫もすぐに気がついた。しかし彼等の行動が意味することは、全然見当もつかないのである。 七 「二人が菰づつみをかかえて駅のほうからもどってきたのは、六時三十五六分でしたね?」 「そうです」 「そうすると、六時二十分前後に着いて菰づつみをはこんでいき、三十五六分にもどってきたわけですから、その間が十五分程度ということになりますね?」 「ちょうど十五分間ですタイ。時刻の点ははっきり覚えとらんですが、時間が十五分かかったことはよく記憶しとります」 「ほう、なぜですか」 「青眼鏡が菰づつみをかかえていく時に、『何時かね?』ときき、もどってきた時にも時刻をききました。そして、『十五分もかかったのか、悪かったなあ』と謝あやまったので、よく覚えているわけです。あまり待たされたため、自分も腕時計ばかり気にしてたもんですから、一層よく記憶しているのです」 「なる程ね。そこで遠賀川へ向ったと……。近松はどこに乗ったのですか」 「トラックの背中です」 「青眼鏡は?」 「やはりトラックの背中です」 「きき忘れましたが、赤松から札島までの間、青眼鏡はどこにのったのですか。助手台ですか」 「いや、やはりトラックの背中ですタイ」 「遠賀川に到着した時刻は?」 「そうですな、七時に五分ばかり前だったと思います。あの間はいつも二十分ぐらいで走ってます」 「今度の場合は青眼鏡がひとりで菰づつみをかついでいって、素手でもどってきたのでしたね? この間はどれくらいかかりました?」 「おやと思うほど早かったです。六七分程度です」 「その時もかどのところで停めたのでしたね?」 「札島の場合と同様に、四つ辻のちょっと手前で停めてくれといわれとったのです」 「すると、遠賀川をでたのは七時を二三分すぎた頃になりますね?」 「はあ」 「福間までは真直いったのですか」 「ええ、途中はどこにも停まらんです」 「福間で停車したのは何時頃です?」 「さあ、それは覚えとりまッせん。トラックのスピードと距離と道路の状態から考えますと、大体七時四十分ぐらいではないかと思います」 「今度も四つ辻でとめたのですか」 「べつにどこに停めろともいわないので、駅に曲るかどのところでとめました」 「近松がおりる時、二人が何かいいませんでしたか」 「そうですな。青眼鏡が、『いそがないと乗り遅れるぞ』というと、近松さんが、『大丈夫だ、まだ十分ある』といった意味の返事をしとりました」 「それだけですか」 「はあ、自分にきこえたのはそれだけです。近松さんはそのまま福間駅のほうへ曲ってゆきました。曲りかどの外灯で、白いボストンバッグをさげとるのが見えました」 運転手は、近松がトラックをおりたのは七時四十分だという。一方福間駅員は、近松がやってきたのは七時四十五分だったといっているから、彼はトラックをおりると、そのまま真直に駅へ歩いていったものと思われる。 「その時は何分ぐらい停車しました?」 「何分というほどのこともなかです。近松さんが道路にとびおりると、青眼鏡が、『さあ肥前屋までやってくれたまえ』と大きな声でいいました。ちょうど近松さんがかどを曲るのと同時にスタートしたわけです。停車時間はせいぜい一分ぐらいのもんでしょうな」 「肥前屋まではとまらずに走ったのですね?」 「はあ、ずいぶん道草をくったので、うんととばしました」 「肥前屋についたのは何時頃ですか」 「さあ、ガレージについたのが九時半ちかかったですから、まあ九時二十三四分というとこでしょうな」 「青眼鏡が肥前屋に入っていくところを見ましたか」 「はあ、とびおりると自分のほうにちょっと手をふって、そのまま小さなトランクをさげて入ってゆきました。五十年輩の番頭のでてくるのがみえたです」 「ふうむ」 鬼貫はふたたびうでを組んで、二人の男が示した奇怪な行動を理解しようと、頭をひねった。おりから一片の雲が太陽をさえぎって、あたりがすーっと昏くらくかげったので、彦根運転手はあわてて上衣のえりをたて、寒そうに頸くびをすくめた。そしてポケットに手をいれてタバコの存在に気づき、つぶれたバットのふくろをとりだして鬼貫にすすめた。が、にべもなくことわられ、自分だけが口にくわえて火をつけた。 「ラジオの放送では、『福間駅まで送っていったもの』といっとりました。自分は四つ辻でおろしただけだから、他の運転手のことだろうと思っておったのです。それに放送では客が一人しかいないような口ぶりでしたが、自分がのせたのは二人ですから、ピンとこなかったわけですタイ」 と運転手はいいわけをするでもなく、ひとりごとのように語った。 「そうでしたか。どうも長いことお邪魔してすみませんでしたね。ことによるとまた参るかもしれないのですが、どうか愛想づかしはしないで下さいよ」 鬼貫がいうと、彼はすくわれたようにほッとした顔つきになった。しかしまた来るかもしれぬときいても、べつに迷惑そうな表情はしなかった。 さて、この謎の青い紳士をかりにX氏と呼んでみれば、その動きはつぎの如く要約される。 六時二分 赤松駅前で彦根運転手のトラックに乗車。 六時二十分 札島着。近松と菰づつみを札島駅の方向へはこぶ。 六時三十五分 近松と共に菰づつみをかかえてもどり、乗車する。 六時五十五分 遠賀川着。菰づつみを単独で遠賀川駅の方向へはこぶ。 七時二分 もどってきて乗車する。 七時四十分 福間着。近松のみ下車。 七時四十一分 福間発。 九時二十三分 博多の肥前屋旅館着。下車。 鬼貫はさしあたってX氏の正体と菰につつまれた荷物を追究し、近松とX氏によって示された一いち聯れんの奇妙な行動の真意をつきとめなくてはならなかった。 彼は運転手とわかれて駅のほうにむかいながら、手早く今日のスケジュールをたてた。これから先まず駅前の肥前屋にたちよって、X氏が四日夜投宿したかどうかを調べ、それからふたたび赤松へバックして、途中遠賀川、札島の駅員に面会してみることにしよう。 八 肥前屋は、博多駅の前にたつと斜め右手にみえている。このあたりも戦災をうけたとみえて、戦後新築されたうすっぺらな感じの、四流どころの旅館である。 鬼貫はまず部屋を予約して鞄をあずけ、そのあとで職名をあかしてX氏のことをたずねてみた。すると幸いにも、番頭も女中もよく記憶しているのである。青ずくめの服装が人眼をひいたばかりでなく、食事の時には女中をしりぞけてマスクをはずした顔をみせないし、洗面も朝はやくすませて眼鏡をとったところをみせないので、そうした振舞いがいっそう女中の気をひいたようであった。 X氏は一泊したあくる朝、対つし馬まへわたるのだといって、博多港行のバスの停留所をたずね、赤革の小型トランク一個を手にもって出発している。鬼貫は宿帳をひらいて、X氏の記入した事項をみた。 投宿時刻 十二月四日午後九時半 住 所 赤松市三番町八番地 氏 名 佐藤三郎(三十五歳) 職 業 会社員 前夜の宿泊地 自 宅 行 先 対馬厳いづ原はら 文字の金釘流なのは、指をいためているからと称して女中に代筆させたためだという。筆蹟に気をくばったくらいなら、この記入事項は出で鱈たら目めとみて違いはなかろう。 忽こつ然ぜんとして赤松駅にあらわれたX氏は、もっぱら青い色の背後にその人相をひめ、指紋や筆蹟にまで注意をはらって、対馬へ渡航した模様なのである。鬼貫はX氏のあとを追って、明朝は対馬へわたる決心をした。 七 トランクの論理 一 駅の食堂で簡単な食事をすませてから、列車でまっすぐ遠賀川へ向った。札島とはちがって空色のペンキで化粧したあかるいフォームにおりると、改札口をでて手小荷物受付の窓口にまわり、そのガラスをかるくたたいた。係りの駅員はつるのようにやせた五十前後のひとだった。 「ごらんのとおり、私の机から前の道路は真正面なものですけん、おたずねの青眼鏡の人がかどをまがって歩いてくる時から見とりました」 「時刻にまちがいはありませんか」 「ええ、何分何秒という点まではわかりませんが、大体あなたのいわれた通りです。ところでその人は肩にかついだ菰づつみをこの窓口の台の上にどすんとおいて、『小荷物で発送したいのだが』といわれました。重量をはかってみると十九・七瓩キロか十九・八瓩くらいあったので、『これは危いところだ、二十瓩をこえると小荷物扱いはできないですよ』といったことを覚えとります」 彼の話をきいてみても、菰づつみの重量は二十瓩にたりぬ軽さであり、赤松駅で彦根運転手が手伝ってトラックにのせた時の菰づつみの重量とは、五十瓩あまりのちがいがあるのである。鬼貫にとっては、これも謎だった。 「ところが素人しろうとのせいか包装がひどくぞんざいで、おまけに口があいて中がみえてるものですけん、『これじゃとても無事にはとどきませんよ。ここで包みなおしてくれなくては、受付けるわけにもいきませんね』とことわりました。するとその紳士は非常に困った顔をして、『急いでいるので、とても包みなおすひまはない。仕方がないからむき出しにして送ろう』といって菰をはいでしまいました。包装せずに発送したのでは、なお更こわれてしまうのではないかと思って見てましたけど、どうしてなかなか丈夫な牛皮で張ってあるので、そうした心配も全然いらないことがわかりました。そこで、それに荷札をつけたままで受付けたのです」 「牛皮で張ってあった?」 「ええ、トランクですよ」 「トランク? トランクですって? どんなトランクです?」 いつもに似ず、鬼貫は興奮したように声を大きくした。 「そうですな、この台にのせた時このくらいまでありましたけん、まあ五尺六七寸に二尺に一尺ぐらいのものでしょう。いま申したように牛皮でできていて、四寸幅のバンドが二本ついておりました。どの面にも四隅に直径一寸ぐらいの丸い真しん鍮ちゅうの鋲びょうが六つずつ打ってあるガッチリしたやつです。大きな真鍮の錠前が二つついて、なかなか押出しのきく、いまどき珍しい品だと思いましたよ」 「色は何でしたか、色は?」 「黒です」 「黒?」 鬼貫がおどろいたのも無理はない。X氏がかついできた菰づつみの内容は、大きさといい形といい、さらに鋲の数までが、昨日由美子にみせてもらった屍体づめの衣裳トランクにそっくりだったからである。おなじ型のトランクが二つ登場していた! ややあって、我にかえった鬼貫の頭にピンとひびいたのは、X氏と近松とが札島駅で二つのトランクをすり替えたのではあるまいか、ということであった。勿論、それについてくわしく検討するには、まだまだデータが足りないが、この考えに鬼貫はふかい興味を感じた。 それにしても重量が減っているのは、どうしたことであろうか。 「重さは二十瓩に足りなかったのでしたね? まちがいありませんか」 「菰をはいだら十九・一瓩になりましたよ。この小荷物切符にもちゃんと記入してあります」 さしだされた丁片をうけとると、指さされたところを喰いつきそうな目で見た。 小荷物切符第一八七号 品 名 空トランク一個 重 量 十九・一瓩 荷受人 東京新宿駅止、佐藤三郎殿 荷送人 福岡県赤松市三番町八番地 受取人同人 受 付 十二月四日 ついでX氏の人相服装について質問したが、駅員の言は彦根運転手のそれとほとんど変らなかった。 こうして予期しなかった第二のトランクの出現によって、鬼貫は事件の裏に真犯人がたくらんだ詭き計けいのあることを、おぼろ気ながら知ったのである。近松が犠牲者であって犯人ではないと主張する由美子の説は、誤りでないことが証明されつつあるのだが、といって今の段階では、それ以上のことは全然見当もつかない。 そこで彼は駅員に礼をのべて、X氏がトラックからおりた四つ辻まであるき、折りよく通りかかったタクシーをつかまえて札島へ向った。 二 鬼貫の用向きをききおわった札島駅長は、例の二人の青年駅員をよんでくれた。 「これは先日梅田警部補の話のむし返しになると思いますが、もう一度復習の意味できかせて下さい。まず十二月一日の夜に近松という人がきて、トランクを一時預けにしたのでしたね」 「そうですタイ」 「重量が七十一瓩もあったのに、近松氏は規定を無視して預けた……」 「そうですタイ」 貝津君はそう答えたあとに、小さな駅では乗降客のすべてが顔見知りだから、こうした場合は預かるのが習慣になっているのだ、とつけ加えた。 「四日の夜に当人がふたたびやってくると、今度はトランクを受出して、改めて小口貨物扱いとして発送したわけですね?」 「そうですタイ」 「じつは四日夜の近松氏の行動に、重大な意味がふくまれているように思いましてね、それでくわしくお訊ねしているのです。ところで近松氏が預り所からトランクを受出すのに何分ぐらいかかったでしょう?」 「べつに何分という程もかからんです。料金をうけとる、渡してあげる、といった簡単な動作ですけん、せいぜい一分ぐらいのもんです」 「なる程。ついで近松氏が貨物受付の窓口へひとりで運んでいったわけですね? この間はどのくらいかかったでしょうか」 それに答えたのは、やはり貝津君である。 「そう大した時間はかかりませんよ。あの日は貨物受付のほうでカーボン紙をきらしておったので、私のを一枚わけてくれとたのまれていたわけです。それを、なにぶんお客さんの数が少いものだから思い出すおりもなくて、ついその時まで忘れておりました。で、近松さんがトランクを受出していった直後に気がつくと、内な部かをとおってカーボン紙をとどけたのです。その時、外をまわった近松さんが貨物受付の窓口にきたところでしたから、あの人の所要時間はまあ二分ぐらいのものだと思います」 「二分ね。貨物の受付へいくには、一度外にでなくてはならないのですか」 「そうですタイ。この駅の入口に向って、左手の、ちょっと引込んだところになっとるです。つまり一時預り所から入口をでて、右に曲ったとこですタイ」 鬼貫は、小口貨物係りの大沼君に質問の矛先を転じた。 「あなたのところで貨物発送の手続をすませるには、どのくらいかかりました?」 「さあ、ほかにお客さんがあればべつですが、ひまなものですから、わりに早かったですよ。そうですなあ、せいぜい四分か五分ちゅうとこですバイ」 そこで鬼貫は、近松がついやした時間を計算してみた。一時預り所で一分、貨物受付の窓口まで二分、発送手続が五分、それらを合わせると八分になる。一方、四つ辻から駅までほぼ百五十メートルの距離を、近松とX氏が七十瓩余の菰づつみを持ってあるいたとすると、片道三分かかったとみるのが妥当だ。往復の六分といま計算した八分とを加えれば、きわめて大ざっぱではあるが十四分という数字がでる。鬼貫はそれが彦根運転手が語った十五分とほぼひとしいことを知って、満足を感じた。 するとその時までだまって問答をきいていた駅長が、横から口をはさんだのである。 「警部さん、これはお役に立つかどうか知りませんけど、あのトランクは先月の末に東京から近松氏あてに送られてきたものでしてね。十日の夜梅田警部補さんが見えられた時は、近松氏がまさか殺人事件に関係しているとは夢にも思わなかったものですから、私もびっくりしてすっかり度忘れしてましたし、また梅田さんもその点にふれられなかったので、思いださなかったわけです。直接扱った駅員は、つい先日雑ざっ餉しょの隈くまへ転勤してしまったので、いまはおりませんが……」 この奇妙な名の駅は、博多の二つ先にある。それはとも角として、近松のトランクが東京から送られてきたという話は、きき捨てにはできなかった。 「それに気がついて小荷物切符をしらべてみますと、果して十一月二十八日に到着して、その翌晩に近松氏自身がリヤカーをひいて受取りにきております。おのぞみでしたら、小荷物切符をお見せしましょうか」 駅長の差出した紙ばさみには、つぎのように記入された乙片がはさまれてあった。 小荷物切符第五〇四号 品 目 トランク一個 重 量 十九・八瓩 着 駅 筑豊本線札島駅止 荷受人 札島鳰生田、近松千鶴夫 発 駅 東京都原宿駅 荷送人 東京都新宿区百人町三ノ八二三 膳所善造 受 付 十一月二十五日 遠賀川駅の時とおなじように、又しても鬼貫は大きなおどろきに打たれたのである。ほかでもない、膳ぜ所ぜ善ぜん造ぞうもまた大学を同期にでた男だったからであった。非常に神経質なたちなので、いささか肩のこる学友でもあったが、近松などとは違って仲よくつき合った間がらである。帰京したらば早速彼をたずねることとして、鬼貫は札島駅を辞去した。待たせておいたタクシーにのり、赤松駅へ走らせながら、いままでに得た知識を整理してみる。近松とX氏は、彦根運転手を李の木の下に停車させていたあの十五分間に、何をくわだてたのであろうか。運転手が故意に見通しのきかぬ場所で待たされたことを思えば、彼等が二個のトランクをすり替えたのではないかということがすぐ頭にうかぶ。だが果してそのように簡単なものだろうか。鬼貫の第六感は、これが事件の根底によこたわる大きな謎であり、決して単純なものでないことを、しきりに囁ささやいている。事実、犯人が設定した巧妙をきわめた論理的な陥かん穽せいは、このトランクのからくりと難攻不落のアリバイとを砦とりでとして、鬼貫を徹底的にくるしめることになるのだった。 三 赤松駅前でタクシーをすて、ただちに小口貨物の受付窓口を訪問した。商人らしい男がさびた石油鑵を二つ受取るのを待ちながら、鬼貫は大して得るところのないことを予感して、雲間をもれるうす陽のあたたかさをじっくりと味っていた。 「十二月四日の午後六時頃に勤務していた駅員のかたに逢いたいのですが」 身分証明書をみせると、それは自分であるといって、かさかさした皮膚の青年がでてきた。 「いまいった午後の六時頃に、青いオーバーをきて青いソフトをかぶった青眼鏡の男が、菰に包んだ大きな荷物をもってきたと思うのですがね。彼がその荷物をどうするつもりであったか、それを私は知りたいのですよ。なにしろ奇妙な青ずくめの服装ですから、わりに印象に残っているのではないかと考えていますが」 「ええ、覚えています。あれは六時に十分か十五分まえのことですタイ」 彼の声は、その表情と同じようにボッソリとしていた。 「ですが、あの人は荷物をあずけにきたとではなかです。東京から着いたとを受取りに来たのですタイ」 「え? 東京から? あの菰でつつんだ大きな荷物のことですよ」 この衣裳トランクもまた東京から送られてきたというのか! 鬼貫が意外の面持でおもわず声をたかめると、駅員は手をのばして机上の本立てから紙ばさみをひきぬいて何かをさがしていたが、やがてそれを鬼貫の前にさしだした。 「あなたのいわれるとは、これじゃなかですか」 見るとそこに示された通知書乙片には、左の通り誌しるされていたのである。 小口扱貨物通知書 第三七八三号 品 名 新巻 個 数 一個 重 量 七十一瓩 着 駅 筑豊本線赤松駅止 荷受人 赤松市三番町八番地 佐藤三郎殿 発 駅 東京都新宿駅 荷送人 受取人同人 受 付 十一月三十日 「この貨物は三日の朝当駅に到着したのです。あくる四日の夕方、その青眼鏡の人が通知書の甲片を示して荷物をうけとると、赤帽と二人でかかえるように運んでいったのですタイ」 するとこの佐藤三郎氏は赤松駅から菰づつみのトランクを受出して、札島をへてふたたび遠賀川駅から東京の新宿駅へ逆送したという、何とも納得のゆかぬことをしたわけである。札島の十五分間に何をしたかは今のところ目撃者がないので臆おく測そくの域をでないのだが、それについては後刻しずかな場所でおちついて考えることにして、鬼貫は最後の質問をした。 「ここから駅の前は見とおしがききますね。荷物をうけとった後で、その男がどうしたか判りませんか」 「はあ、別に注意して見とったわけではなかバッテ、赤帽をよんであそこに並んでいる靴磨きの一番はずれのところへ運んでゆきますと、しばらく靴をみがかせとるようでした。その後のことは知りまッせん。ほれ、いま客から金をもらっとる、あの子供の靴磨きですタイ」 X氏が荷物をうけだしてこれを遠賀川駅から逆送するまでの一連の行動は、できるだけ精密にしらべておかねばならない。札島の十五分間のほかにも、この菰づつみが人目をはなれて存在した場合があったなら、問題はさらに複雑化し、捜査も慎重をきわめねばならないからである。そこで駅員に礼をのべて駅前にでると、まず公衆電話で梅田警部補をよびだし、佐藤三郎が三番町に居住しているかどうかということ、及びX氏が赤松駅に出現する以前の足取りについての調査を依頼してから、ボックスを出てズラリと並んでいる靴磨きのほうへ近づいていった。駅員におしえられた少年の前に靴を出す。目のくりっとした利発そうな子である。 「ひとつ磨いてくれないか」 かじかんだ手で靴墨をぬる少年を見おろしながら、鬼貫はこわれ物をとりあつかうような調子で質問をはじめる。ともすればひねくれ勝ちのこうした子供を相手にするには、十分な注意をはらわなくてはならない。少しでも感情をそこなうとカキのように沈黙してしまうか、あるいはとんでもない嘘をつくかするからである。 「手袋なしで寒くないかい?」 「ヘッちゃらだ」 「えらいなあ、幾つなの?」 「十一」 「よく働くね」 「働かんと喰えンじゃないか」 「うん、こりゃ一本まいった。ところで此の間おじさんの友達の靴をみがいたのも、君じゃなかったかな?」 「おじさんの友達って、どんな人じゃろかな?」 「今月の四日の、さむい夕方だったよ」 「だから、どんな人じゃったかな?」 「青い眼鏡をかけてね……」 するとみなまでいわせずに、横から甲高い声がひびいた。 「知っとるバイ、おれが知っとるバイ」 見ると、ほおに茶色のクリームをつけたとなりの少年が、みそッ歯をむきだしている。 「俺が知っとるバイ、青いオーバーをきたおじさんだろ?」 「うん、そうだ」 「それなら俺だって覚えとるタイ。赤い短靴のおじさんだぞ」 と、鬼貫の靴をみがいていた少年は、むきになって口をとがらせた。 「ありゃ赤じゃなかバイ、チョコレートバイ」 「何をッ、あれはチョコレートじゃなかタイ、赤じゃぞ。磨き屋のくせにクリームの見別けもつかンのか」 二人の少年は、鬼貫にわからぬ赤松言葉でしばらくやり合っていた。 「おじさん、足替えてくれよ」 「うん、よし。それでおじさんの友達は、靴をみがいてしまってからどうしたかね? そこをおじさんは知りたいのだがな」 「トラックに乗っていっちまったタイ」 と、横からみそッ歯が口をだした。 「貴様はだまッとれよゥ」 「ふうむ、トラックにね。その時にだな、何か荷物をもっていなかったかね?」 「もっていたバイ、小さなトランクと――」 「むしろで包んだ大きな荷物タイ」 「運転手と二人でウンウンいってトラックにのせたのタイ。大人のくせに意気地がなかバイ」 「そこでおじさんはもう一つききたいことがあるのだがね。そのむしろで包んだ大きな荷物のことなんだが、おじさんの友達が靴をみがいてもらっている間に、誰かそれをいじったものはなかったかい?」 「…………」 「つまりだね、君がみがいている時に、誰かがその荷物にさわったり、他のむしろで包んだ荷物をもってきてとり替えたりしたことはなかったかね?」 「そんなことなかバイ」 「誰もとり替えたものはおらんタイ」 どうもへたな訊きかただとは思ったが、二人の少年が同時に否定したのをきいて、自分の心配が杞き憂ゆうにおわったことを知った。鬼貫はつづいて二三の質問をこころみ、X氏が彦根運転手の前にもう一台のトラックをよびとめたが、話がまとまらなかったとみえて乗らなかったことをきき出した。 この靴磨きの少年との対話は、一見無意味であったように思えるけれど、後日になってみると、ここにアリバイトリックを破る鍵の一つがひそんでいたことを知らされるのである。 鬼貫は駅の食堂でまずい定食をとってから、ふたたび赤松署の梅田警部補に電話をかけて、先ほど依頼した結果をたずね、はたして三番町に佐藤三郎が居住していない報告をえた。X氏は予期したとおり偽名を用いていたのである。 こうしてメッカ詣もうでをすませた巡礼者ピルグリム鬼貫は、その途次に得た数々の収穫をむねにいだいて、うすら寒い夕方の列車で博多へともどったのであった。 四 肥前屋の女中はミシミシときしる安普ぶ請しんの階段を案内して、さむざむとした六畳の間に通すと、いかにも四流どころの旅館らしく、風呂がないからといって瀬戸火鉢に申訳ばかりの炭火をサーヴィスしてくれた。その上に手をかざしてみたところで、陶器のふちのつめたさがジンと体にしみるばかりである。鬼貫は煖だんをとることをあきらめて、丹前の上からオーバーをかぶって小さくちぢこまり、紫し檀たんまがいの安茶卓にひじをついて、今日の活躍のあとをふり返ってみた。 近松が馬場を殺害して自殺したとのみ解釈し、それで解決したとみなされるように仕組まれていた事件の裏面に、青いサングラスで人相を秘めた人物が登場していたばかりでなく、第二のトランクの存在をも発見したことは、一日の収穫として多すぎるとさえ思われるのであった。X氏の正体については対馬の調査をおえてから考えることとして、鬼貫を割切れぬ気持にさせるのは、第二のトランクの奇妙な動きであった。X氏が東京から赤松駅に到着していた貨物をうけ出して、札島経由遠賀川駅からふたたびこれを東京へ逆送しただけならさして問題とするには当らないのだけれど、それが札島駅の近くで十五分間だけ人目からはずれていたという点が、何とも鬼貫の気にくわぬのである。もう少し突込んでいうと、その十五分間と時を同じくして、第一のトランクが札島駅の一時預り所からうけ出され、東京へ発送されている事実がすなおに納得できないのだ。しかも両トランクの外見がきわめて似ていた(というより全く同じ型であったと考えてよいだろう)ことから、そこに企まれた何物かがあるに相違ないと思われてくるのであった。鬼貫はこの疑惑にくいさがろうとして手帳をとり出すと、ほたる火ほどの炭火に左手をあぶりながら、両トランクの動きを検討してみた。 便宜上X氏が赤松駅からうけ出したトランクをXトランク、膳所が近松に送ってよこしたトランクをその頭文字をとってZトランクと呼んでみる。すると両トランクの動きは左のようになるのである。 11月25日 Zトランク東京原宿駅より発送される。 発送人は膳所善造、重量十九八瓩キロ。 11月28日 Zトランク札島駅に到着。 札島駅止めに指定されていた。 11月29日 Zトランク札島駅から受出される。 近松がリヤカーをひいて受取りにきた。 11月30日 Xトランク東京新宿駅より発送される。 発送人受取人とも佐藤三郎名義。重量は七十一瓩。内容は新あら巻まきとしてある。 12月1日 Zトランク札島駅に一時預けされる。 近松がリヤカーで運搬してきた。重量は七十一瓩、内容は古美術品と称された。 12月3日 Xトランク赤松駅に到着。 赤松駅止めに指定されていた。 12月4日 Zトランク札島駅一時預り所からうけ出され、改めてただちに同駅より東京汐留駅止めで発送される。 発送人は近松。重量七十一瓩。内容は前記のとおり古美術品で、受取人は日本橋蛎殻町の毛塚太左衛門と記入されていた。 同日 Xトランク赤松駅から受出される。 X氏が佐藤三郎を名乗って受取った。 同日 Xトランク遠賀川駅より発送される。 発送人及び受取人名義は佐藤三郎、発送したのはX氏であった。重量は十九・一瓩。 12月7日 Zトランク汐留駅到着。 同駅止め。受取人は架空の人物であった。 12月10日 Zトランクを開く。 内容は古美術品でなく、馬場の屍体であった。 こうして比べてみると、Zトランクの淡々とした落着きのある動きに対して、Xトランクの動きは妙にあわただしく思えるのである。近松とX氏がXトランクをかかえて示した一連の奇妙な行動には、何かしらわけがなくてはならない。だがそれにもまして鬼貫の気をひいたのは、十一月二十五日に原宿駅から札島駅へ発送されたZトランクと、十二月四日に遠賀川駅から東京の新宿駅へ逆送されたXトランクの重量が同じ十九瓩であり、十一月三十日に東京の新宿駅から赤松駅へ送られたXトランクと十二月四日に札島駅から汐留駅へ発送されたZトランクの重量が共に七十一瓩ある点であった。すなわち東京都と福岡県という場所を相違することによって、Xトランクの重量がZトランクへ移り、ZトランクのそれがXトランクに移動する訝おかしな事実である。そこで鬼貫は二つの仮説をたててみた。 ① どこかで両トランクの内容が入替えられた。 ② どこかで両トランクがトランクごとすり替えられた。 ②の場合をさらに突込んでいえば、両トランクがすり替えられたために、爾じ後ごはXトランクと思っていたものはZトランクであり、Zトランクと思っていたものがXトランクであったという、関西言葉で表現するとすこぶるややこしいことになるのである。 するとついで疑問となってくるのは、 a このトリックの行われた場所はどこか。 b このトリックの行われた時はいつか。 c このトリックの目的とするのはなにか。 という三項である。 まずc項のこのトリックが目的とするものは何であるか。鬼貫はそれについて更に一つの仮説をたててみた。札島駅から汐留駅へ送られたトランクの内容が、古美術品としるされていながら馬場の屍体であったように、新宿駅から赤松駅に送られてきたトランクの内容も、新巻といつわられた馬場の屍体ではなかったか。つまり馬場は今日まで福岡県内で近松の手によって殺されたものとばかり思われていたけれど、ほんとうは東京で殺された上トランク詰めにされて赤松駅に送られ、それが改めて札島駅から汐留駅へ逆送されたのではなかったかと考えてみるのである。したがってこの仮説によると、c項の『目的』というのは、馬場の殺害された場所を変更することによって生じる真犯人のアリバイ偽造にあるわけだ。 いうまでもないことだけれど、このからくりを構成するものは、馬場の屍体とX及びZの両トランクである。それゆえこのトリックを遂行するには、以上の三つの要素がある一定の時刻に最短距離にあることを要する、と鬼貫は考えた。相互間の距離がゼロに近づくほど成功率は大になるわけである。馬場が殺害された日を仮りに家を出た十一月二十八日であるとしても、その日以後にこれら三つの構成分子が時間と空間の上でクロスしたのは、近松とX氏が彦根運転手のトラックからXトランクを降ろして札島駅のほうへ運んでいった時、すなわち十二月四日の午後六時二十分から三十五分にかけての十五分間のことであると考えられる。その時以外に、屍体入りのXトランクとZトランクが同一地点に存在した場合は絶対にない。それは今作成したトランクの移動表をみれば明かになることである。とすれば、その時こそ唯一無二のチャンスではないか。a項及びb項を満足させる答はこの場所、この時でなくてはならないのだ。 鬼貫は冷静に仮説を推すい敲こうして、そこに少しも論理的矛盾のないことを確信した。そしてほっとひと息ついた時、かすかにきこえてくるラジオの〝聖きよしこの夜〟のメロディーを耳にして、彼は初めてクリスマスイヴであることに気がついた。せわしげに廊下をあるく女中の足音もいつかと絶え、どこかの部屋から客のいびきがつたわってくる。鬼貫はぶるッと身をふるわせ丹前のえりを合せると、火鉢をかきまぜて線香ほどになった炭火を見出した。 五 さてこう考えてみれば、彦根運転手が駅の見通しのきかない場所で停車するよう命じられたわけも、一層納得がいくのであった。札島駅は、小荷物や貨物の受付窓口のそばまで自動車をのりつけることができる。おそらくその点は全国どの駅であっても同じことであろう。それをわざわざはるか手前で停車させたわけは、トランクの内容の入替えもしくはトランクのすり替えというからくりを目撃されたくなかったからに他ならないのだ。 ところで、屍体が