運送業からサービス業への意識改革 | 銚子屋油槽船株式会社
企業概要
企業名
| 銚子屋油槽船株式会社
|
---|---|
創業年
| 1900(明治33年)年
|
所在地
| 東京都中央区湊1-8-13
|
代表者名
| 飯沼和子(代表取締役社長)
|
資本金
| 1000万円
|
従業員数
| 22名
|
業種
| 内航運送業
|
1.激動の時代を生き抜く内航海運
飯沼和子代表取締役社長にお話を伺いました。
■貨物輸送で創業
1900年(明治33年)、千葉県館山市で初代本多清助が内航海運業(※)を始めた。当時の社名は「銚子屋回漕店」で、東京湾内、千葉、神奈川、静岡など近県向けに木材や水などの輸送を行っていた。やがて、拠点を館山から東京都中央区に変えて、輸送物の種類も木材などから燃料として需要が増えてきた石炭やコークスに主軸を移すようになった。
■戦争で船を失う
重工業の発展に伴い、工業用燃料として使用量が増えた重油を主な輸送貨物としてから、会社は大きく発展する。1939年(昭和14年)には別会社「飯沼商船株式会社」を設立し、東海・中国地方の近海輸送も始めた。ところが、そこに第2次世界大戦が勃発。船は徴用され、その大半を失うこととなった。
■石油専門の内航海運業へ
戦後、飯沼商船と銚子屋回漕店は合併し、他社からの支援を受けながら、燃料輸送船会社として再起した。以降、重油・軽油・ガソリン・灯油の油類専門の内航運送業として、東京湾内から隅田川等の河川沿いにある工場や油槽所への輸送業務にあたっている。1999年(平成11年)、社名を「銚子屋油槽船株式会社」に変更した。
※内航海運…国内の港から港へ船舶を使って物資を輸送する。海外の輸送は外航輸送と呼ばれる。輸送する物資は石油製品やセメント等の産業基礎資材や食料など日用品など幅広い。(銚子屋油槽船㈱では、東京湾内で石油精製所から備蓄基地等への石油燃料の輸送に特化して事業を展開している)
2.事業環境の激しい変化を乗り越える
■原油需要の減少
戦後の高度成長期を支えた石油だが、近年では製油所での原油処理量は減少しており、輸送量も年々少なくなっている。時代とともに石油元売会社が商社機能を持ってきたこともあり、グループの傘下に入らず業務を受注するのは厳しい時代になっている。東京湾内では、河川まで輸送できる平水船(写真参照)で石油を専門に運んでいる企業は、当社を含め数社しか残っていない。
■求められる高度な安全性
海外でのタンカー事故などを受けて、近年石油元売各社がインスペクション制度を用いて安全基準を強化している。頻繁に更新が入るほか、英語のマニュアルを渡されることもあり、非常に苦労した。現在は、安全基準対策のための人員を配置して対応している。各船員にも協力してもらい、高い安全性を維持している。
■価格変動へ機敏に対応
石油価格は、WTI(ウエスト・テキサス・エンターミディエート)での先物取引によって短時間で大きく変動する。現物輸送の発注は先物の動きに左右されるため、昔のように受注を読むのが難しい。自社での対応が難しい場合は、いつもはライバルになる別の船会社とも連携し、一度受けた仕事は絶対にやり遂げるという強い思いを持って仕事に当たっている。3.生き残るために変えること、守ること
■「サービス業」という意識改革
数ある内航海運の会社の中で生き残ってきた理由の一つは、「運び屋」ではなく「サービス業」に意識を転換していったことにある。船員は積揚荷役場では各自が営業マンという意識を持って働いているし、取引先に対しても到着時刻など役立つ情報をこまめに提供している。当社は小売業のような「のれん」はないが、「人的サービス」がのれんの役目を果たすよう努めてきた。
■雇用の維持が最大の使命
雇用を守ることを一番に考えている。幼い頃から船員とともに過ごした時間が長く、社長に就任した際、業界では珍しい女性経営者ではあったが、男社会の中でもなんのてらいもなく溶け込めた。体力的に厳しい船員には3カ月に1回1週間の休暇を設けるなど、働く側の心を掴むような制度を導入している。社員の定着率が高いことは、会社を存続させる上では非常に重要だ。社内では相撲部屋の「おかみさん」のような役割を引き受け、社員の気持ちに寄り添っている。■目配りの利く大きさ
保有船舶5隻、船員17名というのは、内航海運業としては大きい規模ではない。ただ、大規模でないからこそ、安全基準の見直しや業界の変化に対して、社員が一丸になって意識を統一していち早く応じられ、経営者としても隅々までしっかり管理ができる。取引先から求められるのは安全性と迅速な対応であり、目配りの利く規模を維持してきたことはプラスに働いている。4.次代へ企業をつなぐために
■会社とは「生まれ育ったところ」
以前は船とは全く関わりのない仕事をしており、後継者になるという特別な意識もなかったが、親戚からの打診もあり、生まれ育ったところをないがしろにできないという思いから会社を引き継いだ。船員の世界は女性が非常に少なく、心配な気持ちもあったが、父親の背中を見ながら色々な仕事を直に学び、違和感なく引き継ぐことができた。現在では、自分の後継者も育ちつつある。自分とはやり方が違うとしても、歴史ある会社を守り育ててほしいと願っている。
■「絶対に生き残る」という強い意識
事業環境の変化だけでなく、事故や思いがけない従業員の引き抜きなど、これまでさまざまな経営上の危機を迎えてきた。それでもここまで商売を続けてこられたのは、各代の経営者がその時代のニーズを読んで積み荷や経営方針を変えてきたことと、何より「絶対に生き残る」という強い意識によるものだと考えている。同業者との競争はさらに厳しくなっていくことが予想されるが、先代から受け継いできたものを守り、次につなげたい。
(取材日:平成25年8月28日)