7.The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBの歴史
「ある女性」は自分のブログ内で、現在、ABBA公認のファンクラブはオランダにある「インターナショナルABBAファンクラブ」しかないと勘違いしています。
しかし現実は違います。
世界各国に「ABBAのオフィシャルな団体」はあります。
例えばオーストラリアには、ブログ専門のABBAオフィシャルファンクラブがあります。
日本でも
「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」
「ABBAサバイバル未公認ファンクラブ」
があり、どちらも「青年」が代表です。
*ただし後者は未公認ファンクラブ。
「ある女性」はこの「事実」を知らないので、「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」をこの世から消そうと「脅迫」してきました。特にABBAがカムバックした2021年9月2日から「脅迫」の度合いが増しています。
事実、「青年」が不自由な体に鞭を打ち、ストックホルムにあるABBAの事務所2018年6月18日挨拶に行った時(招待された時)「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」とABBAの交流が再開しました。これは「オフィシャルな歴史上の出来事」なのです!
そうです、ABBAは正式に「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」の存在を認知していたのです。
ABBAもABBAのマネージャー、ゴーレル・ハンザ―も「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」の存在はきちんと認めているのです。
日本人は過去、ABBAに対してかなり失礼なことをしてきたので、「青年」はABBAの事務所を訪れようと何度もABBAの事務所にメールしましたが、なかなかABBAのマネージャーは「青年」に会ってくれなかったのです。
「青年」は『世界で唯一』「ABBAは解散していない!」「活動停止しているだけだ」と宣言し、世界から罵倒されても言い続けたのはABBAファンならば誰でも知っている有名な話です。
そして、2018年4月27日、ABBA自らが「僕たちは解散していないよ」「活動停止しただけだよ」「また曲を出すことになったよ」と世間に発表したからたまらない。
「青年」のもとには取材が殺到し、いくつかの新聞やSNSに「青年の特集」が組まれました。
「ある女性」は頭に来たことでしょう。ハラワタが煮えくりかったことでしょう。
そうして、ついに「青年」はABBAのマネージャー、ゴーレル・ハンザ―からストックホルムのABBAの事務所に(「青年」は)招待されたのです。
では、今、「青年」が代表をしている「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」について、どういう経緯を経て現在に至っているのかを説明しましょう。
「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」はDレコード(当時のABBAのレコードの販売会社)とSミュージック(会社の会長であるK氏が大のABBAファンであった)によって作られたABBAのオフィシャルクラブです。
最高時の会員数は3600人でした。
しかし1983年初頭、「アンダー・アタック」が日本でリリースされてから、多くの日本のABBAファンは「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」をやめていきました。
当時「青年」は高校生でしたが、Dレコード(東京・赤坂)まで訪ねていきました。
Dレコード社員、M氏が対応してくれました。
ABBAのビヨルンは読売新聞の記者に「すぐに戻ってくるよ、少し休むだけだよ」と答えていましたし、ABBAは「解散」という二文字を語ったことは一度もありません!!
ですが日本のABBAファンはもとより世界のマスコミ、日本のマスコミは「1982年ABBAは解散した」と大々的に報じてしまいました。
Dレコード内でも「もうABBAの復活はない」「ABBAは解散した」と言われるようになり、Dレコードを退社する社員も1人、2人……と去っていきました。
そんな中、1984年春にDレコードは「倒産」しました(計画倒産)。
と共に「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」解散も会報誌で発表されました。
この時、「ある女性」のお友達で(現在)スウェーデン在住の「R子」「H子」が中心になり、有志でDレコード社に集まることになりました(「青年」にも声がかかりました)。
「青年」は高校を出たばかりで、大学受験に失敗しておりました。
「R子」と「H子」は「青年」より年上でした。
「R子」と「H子」の呼びかけで全国から10名のABBAファン有志が倒産したDレコードに集まりました。
Dレコードの社員で最後まで残っていたのはM氏だけでした。
「R子」と「H子」と有志達は「ABBAが解散した今、新しいファンクラブを作る必要がある」と言い出し、勝手に「R子」と「H子」がリーダーになり「ABBAサバイバルファンクラブ」なるものを立ち上げました。
「青年」は終始「ABBAは解散していない」「ABBAは1983年に活動停止しただけだ」と主張し続けていました。「青年」は「R子」と「H子」をはじめ有志達に「なぜThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを続けようとしないんだ。ABBAは解散していないじゃないか!!」と何度も何度も訴えましたが所詮、有志の中でほぼ一番年下の「青年」の意見が通るはずも無く、ABBAサバイバルファンクラブが発足しました。また有志全員が「ABBAは解散した」と思っていたのですから、「青年」の意見ごときで変更できるはずもありません。
1984年春、DレコードのM氏最後の出社日に有志と赤坂でお酒を飲むことになりました。M氏はWミュージックに転職することになっていました。
会がお開きになり、飲み屋の前で有志がしゃべっているとき、「青年」だけM氏に呼ばれ、路地に連れて行かれました。
M氏は「青年」に「『青年』君はABBAは解散していないと本気で思っているんだよね?」と聞くのです。「青年」は「はい、ABBAは解散していません」と答えたところ「実はThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBは会報誌では解散宣言したけど、まだポーラー・ミュージック(ABBA所属のレコード会社)の社長スティッグ・アンダーソンには報告していないんだ。だから正式に解散していないんだよ」「どうだろう、きみ(青年)が会を引き継いでくれないか?」と提案されましたので「青年」は「高校出たての僕がABBAの公式ファンクラブの代表なんてできるわけありませんよ」と答えたところ「『R子』さんも『H子』さんも他の有志の連中も皆、いい奴らだ。しかし彼らは如何に自分達がABBAが好きか自慢話ばかりしかしない、自分勝手な連中だ。聞いていて呆れたよ。しかもいつも『上から目線』の姿勢。よくないね。その点、唯一きみだけが、『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを再興しましょう』とこの一年間も主張を変えずに訴えてきた。私からSミュージックK会長とポーラー・ミュージックのスティッグ・アンダーソンには連絡しておくからThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを続けてくれ」と頭を下げられましたので「青年」は「はい、承知しました」と答え、The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを引き継ぐことになりました。
「青年」は1984年、大学に落ちた身で東京・お茶の水にある駿台予備校に通っておりました。
ある日、SミュージックK会長の秘書から電話があり、「青年」はSミュージックのK会長とSミュージック本社近くの喫茶店で会うことになりました。運良く「青年」が通っていた駿台予備校はSミュージック本社のそばにあり、また指定された喫茶店もすぐ近くでした。
「青年」は指定された喫茶店に行き、SミュージックK会長と会いました。K会長はとても忙しい方で、5分しか時間がないと言うのです。
「『青年』くん、The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを継いでくれることはDレコードM君から聞いた」「もうABBAは解散してしまった」「ABBAが解散していないと言っているのは世界できみだけだ」「でもThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを解散するのには忍びないと思っていた」「宜しく頼む」「私たち、Sミュージックはもう手伝えないけどな」「その分、きみ(青年)の自由に、会を運営してくれて構わないよ」。
「青年」はSミュージックK会長を会った後、ポーラー・ミュージック社長でABBAのマネージャーのスティッグ・アンダーソンに電話しました(予備校で知り合った英語のできる友人付き添いで)。果たして「青年」の「つたない英語」で通じるのか?とても不安でした。最初は秘書(現在のABBAのマネージャーの)ゴーレル・ハンザ―が電話に出ると思いましたが、じかにスティッグ・アンダーソンが出ました。
「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBは続けていきますので、お願いします」と「青年」はスティッグ・アンダーソンに電話で宣言しました。スティッグ・アンダーソンは「世界各国にあったABBAのオフィシャルファンクラブは全部解散してしまった。『日本だけ』が続けてくれるのは本当にうれしい」「ABBAは解散してしまったが、The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB運営には何でも協力するから私を頼ってくれ」とスティッグ・アンダーソンに太鼓判を押されました。
日本では古来よりこのような場合「証文」をとる習わしがあります。「青年」はその古式ゆかりの日本の習わしに従い、スティッグ・アンダーソンに「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBを継続させる証文がほしい」と頼みましたが、スティッグ・アンダーソンは「私が承認しているからそれでいいじゃないか」と言うのです。それでも「青年」は(のちのち厄介なことに巻き込まれることを想定し)何度も何度も「証文」の発行を頼みましたが、海外では「証文」という風習はないのでしょうか?結局「証文」を発行してもらうことはありませんでした。
他方、ABBAサバイバルファンクラブでは、中心的存在であった「R子」と「H子」が突然「スウェーデンに移住する」と言い出し、大慌てでした。有志も一人また一人、ABBAファンをやめていき、結局、最後に残ったのは「青年」一人だけでした。「青年」が『ABBAサバイバルファンクラブの代表』にさせられました。
「青年」は『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB』の代表と『ABBAサバイバルファンクラブ』の代表の二足のわらじを履くことになりました。
当時は今と違い、ネットがなく、ABBAの情報は乏しいモノでした。
(「青年」には)たまたまイギリスにペンフレンドがいましたので、彼の誘いでABBAのビヨルンとベニーが制作したミュージカル『CHESS』をロンドンやブロードウエイに一緒に観に行きました。
『ABBAサバイバルファンクラブ』には40名が入会しました。「青年」は『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB』は実は解散していないとその40名に告げつつ、『CHESS』の感想や、アグネタ、フリーダのソロ活動をミニ会員誌にしたため「手紙」で40名に「自費で」送り続けました。
最初こそ半分の会員から「がんばってください」と連絡がありました、マドンナやマイケル・ジャクソンが世界を席巻し始めると、その40名の会員もどんどん連絡がとれなくなり、1989年、ポーラー・ミュージックがポリドール(ポリグラム)に買収された頃には、会員はゼロになりました。それでも「青年」は「ABBAは解散していない」「ABBAは1983年に活動停止しただけだ」と言い続けました。
1992年、ABBA結成20周年にあたるこの年にABBAのベスト盤とも言える『ABBA GOLD』がリリースされ、日本では再びABBAブームが起きました。「青年」はUKとUSAのポリドール(ポリグラム)に手紙を出し、「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBはずうっと運営してきたのでABBAの情報の提供をいただけませんか?」と何度も何度も手紙を出しましたが、いっこうに返事はありませんでした。
その後、日本にもポリドール(ポリグラム)の日本支社があることがわかり、何十度にわたり手紙を出したところ、1997年頃、ポリドールのO氏という方から連絡がきました。
「実はね、ABBAファンクラブの代表を名乗る連中からたくさんのイタズラ電話、嫌がらせの手紙をもらってね」「部下には今後、ABBAファンクラブの代表と名乗る者から手紙が来ても電話が来ても無視しろと命令していたんだよ」「でもある日、部下から『もう2年間もThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBの代表として手紙を送ってくれた人がいます。中身を見たら、真面目な人でしたので、本当にThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB代表かもしれません』と言われてね。2年分のきみ(青年)からの手紙を読んで、今、Wミュージックにいて昔、当時DレコードにいたMさんに連絡したら『ホンモノ』だというじゃない。ごめんね、連絡が遅れて」「近々、お会いしましょう」と言われ、ようやく、ABBAのCD販売会社のポリドール(ポリグラム)のABBA担当、Oさんとコンタクトがとれ、以後、Oさんと協力して、日本でのABBAの地位を固め直していくことになりました。
その後、1999年夏に、1986年に設立したというオランダに本部があるインターナショナルABBAオフィシャルファンクラブ日本支部代表にY氏という男性が就任したと聞きましたので、二人で協力して頑張っていきましょうとお互いエールを交わしましたが、1999年の夏の終わり頃、突然、Y君が運営していたABBAのサイトが閉鎖され、Y君の消息がわからなくなりました。聞けば、日本に古くからいるABBAファンから数名から(その中には「R子」「H子」もいました)毎日「いじめ」「脅迫」を受け、ノイローゼになり、香港に逃げたと言うのです。
「青年」はY君とは仲が良かったので、いろいろとY君の相談にのってあげました。
そうしたところインターナショナルABBAオフィシャルファンクラブの代表Hさん(本部オランダ)から「Y氏にかわり、あなた(青年)に日本支部代表を任せたい」とメールが来ましたが「青年」は既に『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB』と『ABBAサバイバルファンクラブ』の代表をしていましたので「現在(日本の)The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBとABBAサバイバルファンクラブの代表をしているのでこれ以上は無理だ」とHさんにお断りしましたが、Hさんの熱意はすさまじく、結局、『インターナショナルABBAファンクラブ』日本支部代表も兼務することになりました。しかもHさんはかなり厳しい注文をつけてきました。「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBとABBAサバイバルファンクラブはあくまで日本だけのABBAのクラブ。しかしインターナショナルABBAファンクラブは世界的なABBA公認ファンクラブだから、今後はインターナショナルABBAファンクラブ日本支部代表として活躍してほしい」「これは命令です」。「青年」はHさんの言うとおりにしました。
その後、『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB』と『ABBAサバイバルファンクラブ』の看板はひとまず下ろし、『インターナショナルABBAファンクラブ』日本支部代表として「自分でホームページ」を作成し、「自費」で取材してきました。
日本でもミュージカル『マンマ・ミーア!』『CHESS』(日本公演)が始まりましたので、世界のABBAファンには関係なくても、日本のABBAファン、『マンマ・ミーア!』『CHESS』ファンには大事な情報を掲載するために「青年」は「日本独自」の取材をしました。
つまり「青年」が運営していたABBAオフィシャルファンクラブのホームページは『インターナショナルABBAファンクラブ』でもあり『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB』でもあり『ABBAサバイバルファンクラブ』でもあったのです。
そして事件は起きました。
2012年春、『Uミュージック・スウェーデン』と『インターナショナルABBAファンクラブ』は、「青年」が運営していたABBAオフィシャルファンクラブのサイトの表紙が気にくわないからで変えろ!と言い出してきたのです。
ホームページは最初こそホームページビルダーで「青年」が手作りで作っていましたが、「ある女性」そのお友達のスウェーデン在住の「R子」から「ABBAオフィシャルファンクラブのサイトが手作りなんてダサいわよね」「手作りなんて世界の笑いものよね」と嫌がらせをSNS上に書き込まれ、仕方なく、数十万円(4,397.46 USD、3,770.34 EUR)を自分の貯金からおろし、京都にあるR株式会社に依頼し、新しい『ABBAオフィシャルファンクラブのサイト』を作りました。
1984年以来、一度も文句を言われずに運営してきたのになぜ2012年になって、いきなり、いちゃもんつけてきたのでしょうか?
「青年」には意味がわかりせんでしたが、数万円(439.72 USD、376.99 EUR)以上かけて「青年」が運営しているABBAのサイトを修正しました。本当にUミュージック・スウェーデンやインターナショナルABBAファンクラブは惨いことを命令しますよね?
そしてこの年の年末、あろうことか「青年」は『インターナショナルABBAファンクラブ』日本支部代表を降りろとHさんから言われましたので、「青年」は泣く泣く降りました(現在でも「青年」後任者が見つからず、空席のままです)。
でも『音楽界のある重鎮』は「青年」にアドバイスしました。「またThe Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUBとABBAサバイバルファンクラブに戻るだけじゃない」「返ってその方がいいかもよ」と言ってくださいました。
そうです。「青年」はもともと『The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB』『ABBAサバイバルファンクラブ』代表でもあったので、名称を新たにし、ABBAのサイトの運営を続けました。
誰一人、文句を言ってくるモノはいませんでした。
しかし当時から日本のヒットラーこと「ある女性」に『悪質なストーカー行為』『いやがらせ』『脅迫』を受けていた「青年」の『精神障害』は未だ治らずで、万が一のことを考えて、ABBAオフィシャルファンクラブのサイト上に元Dレコードで現在ワーナーミュージックにいるM氏に「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」の紹介文をお願いしましたところM氏からこのように言われました。「当時(1984年頃)のことはよく覚えていないんだよね」「当時(Dレコードの社員時代)のことは思い出したくないんだよね」「仮に私が紹介文を書いたら、今度は私の勤務先に、『ある女性』から『半年間』『一日8時間』イタズラ電話が来るんだよね?」「それは困るんだ。私には大事な家族もいるし、Wミュージックをクビになるわけにはいかないんだ」。
では「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」創設者のもう一人の存在であるSミュージックK会長にお願いしようとしたところ、2005年にお亡くなりになったとのことでした。Sミュージックからは、ワーナーミュージックM氏同様「『ある女性』にイタズラ電話、ストーカーされたくない」という理由で協力できないと言われました。
そうです、既に日本のエンターテインメント業界では「ある女性」は「半年間イタズラ電話した女王」という名で恐れられていました。
結局、「青年」は「ある女性」に攻撃されながら以後も「The Japan ABBA OFFICIAL FAN CLUB」「ABBAサバイバルファンクラブ」の両方を運営していくことになりました。
8.日本人、有名人・業界人からの数々のABBAインチキ間違い報道
【デタラメなABBA情報を流す著名人とNHK】
日本でABBAが本格的に認知され、ブームになったのは1976年からですが、以後、多く著名人が「間違った」「デマ」のABBA情報を平気でTVやラジオを通じて流している状況が続いていました。
このような場合、どうするのでしょうか?
レコード会社が注意すべきですだと「青年」はもちろんのことABBAファンもそう思っていましたが、ABBA現役当時(日本の)ABBAのレコード会社であるDレコードは「間違ったABBAの情報」を訂正することなく、ABBAファンは悔しさを痛感してきました。
それはABBAが1983年活動停止に入り、日本で第二次ABBAブームが起こった1992年(『ABBA GOLD』リリース)、第三次ABBAブームが起こった1999年(ミュージカル『マンマ・ミーア!』ロンドンで上演開始)も同様な『デマ』がごく当たり前のように、「超名人」が知ったかぶりしてテレビやラジオで語っていました。
特に驚いたのはイギリスのBBCと同じ国営放送のNHKが堂々とABBAの間違った情報を放送する有様には驚嘆しました。日本のABBAファンは1976年より永遠に悔しさを味わってきました。
ですが、「青年」が本格的にABBAオフィシャルファンクラブのサイトを公開した20世紀終わりごろNHKがABBA番組を作る際、実際に作るのは下請け会社で、その下請け会社から「青年」は毎回スタジオに来るように要求され、いつものごとく「デタラメなABBA」情報が出るたびに(青年は)制作会社に「あの発言、間違っていますよ」など注意を喚起してきました。制作会社も「デタラメなABBA情報が流れないよう」に「青年」に収録時に居てもらうことを希望していたのですから、本当ならば「間違い」など放映されるはずもないと思っていました。
もちろんまず「青年」はUミュージック・ジャパンのOさん、あるいは部下のHさんに「またABBAの間違った報道が流れています(流れようとしています)。注意してください」とお願いしましたが、Uミュージック・ジャパンがABBAの間違った情報を流した著名人に注意したことは1度もなく、結局、「青年」が「ABBAのデタラメな発言」をした人に、その人がどんなに社会的立場が上の人でも「ABBAの間違った情報を二度と言わないでください」と注意しに行きました。彼らからしてみれば「青年」は「生意気」「邪魔者」に思えたことでしょう。
なお、NHKは今や社員数、会社規模も世界一大きく、世界最大のメディアと言われています。
【DJ小林克也、作曲家都倉俊一】
DJで一斉風撫した小林克也と、著名な作曲家都倉俊一はABBAの番組が制作されるたびにひっぱりだこでそのたびにデタラメなABBAの情報を何十回も堂々と発言していました。
一番ひどかったのが「ABBAは可愛いお姉ちゃん(アグネタとフリーダのこと)だけ舞台の上にいればよくて、後ろにいたダサいにいちゃん(ビヨルンとベニーのこと)はいなくてもよかったよね。テレビ画面に醜く映るよね」と笑い飛ばしたことでした。
次にひどかったのが「2組のカップルはレコード会社(ポーラーミュージック)が人工的に作らせたんだ。結婚も離婚も偽装だよね」「レコード会社(ポーラーミュージック)がアーティスト(この場合はABBAが)売れるためには何でもする典型的な悪い例だよね。だからABBAは世界的にヒットしたんだ」と言ったことでした。
これには「青年」は制作会社にも小林克也、都倉俊一にも抗議し、以後、言われることはなくなりました。小林と都倉はUミュージック・ジャパンに「あの『青年』と言う男は何者だ」「俺にたてつくなんて許せない」とクレームを言ってきたそうです。
【おわらいタレント・ふかわりょう】
お笑いタレントのふかわりょうは「ABBAのカップルがスワッピングしていたのは有名な話ですね」「何しろスワッピングした者同士で結婚離婚を繰り返したのですからね(つまりビヨルンとアグネタ、ベニーとフリーダが結婚、離婚した後、今度はビヨルンはフリーダと、ベニーはアグネタと結婚したというのです)」。
この発言も何度も続いたので「青年」はUミュージック・ジャパンに「彼の間違った発言を止めてください」とお願いしましたが止めてくれなかったために、ふかわりょうはことあるごとに、この「ABBAのスワッピング」をテレビで面白おかしく語っていました。
ついに「青年」がふかわりょうに注意し、以後、ABBAのスワッピング情報はなくなりました。
【スウェーデン出身のお笑いタレントLILICO】
LILICOというお笑いタレントがいます。彼女は「スウェーデン出身」と言うだけでABBA番組には頻繁に登場し、「『ザ・ウイナー』は私の人生の応援歌」と言ってみたり、「もうABBAは解散した。永遠に戻らない」と言ってみたり。とにかく言いたい放題でした。
「青年」はUミュージック・ジャパンにLILICOの暴走を止めるとうにお願いしましたが、Uミュージック・ジャパンはLILICOを止めようともしないで、結局、「青年」がLILICOに「『ザ・ウイナー』はビヨルンとアグネタの離婚のお話をテーマにした曲。なぜあなたの人生の応援歌になるのか?」「ABBAは解散していない。1983年に活動停止しただけだ」と注意し、以後、彼女はABBA番組に呼ばれなくなりました。
【NHK「『ダンシング・クイーン』はシルヴィア王妃成婚の為にABBAが作った特別な曲」】
世界最大のメディアであるNHKはあろうことか「『ダンシング・クイーン』はシルヴィア王妃の為にABBAが特別に作った曲」と言う番組を作りました。
「青年」はUミュージック・ジャパンに放送を止めるようにお願いしましたが結局オンエアされ、「青年」はNHKに大抗議。
なお、ABBAのマネージャーである、ゴーレル・ハンザーには「またまた日本がABBAのウソ番組を作ってしまい、ごめんなさい」となぜか「青年」が謝りました。
2021年11月6日、『VOYAGE』のリリース翌日にも再放送しましたから呆れました。
また同じ頃、日本の民放のテレビ局TBS『ふしぎ発見』でも同様の内容が流れ、これまた「青年」がTBSに抗議。
ここにあげたABBAの「デマ情報」はほんの一部にすぎません。他にたくさんあります。未だに「1982年にABBAは解散した」と報じるメディアもあります。ですが、大まかなABBAのデマ情報か消えました。恐らく「青年」のことを「生意気なガキ」「死ね、青年」と思っている有名人・業界人は多いことでしょうね。
しかも「青年は障害者」ですからね。
「障害者」はただでさえ、世間から消えてほしい思われている人種ですからね。
「青年が逮捕」か「死ね」がいいと思っている悪徳人間は日本には数名はいるのでしょうね。
なお、「家宅捜索から7カ月」経った現在でも「青年」のPCもiphoneも何一つ戻ってきていません……。
(続く)