|
|
情報ありがとうございます。
実は、ごくう様に教えて頂いたときにも、国会図書館で「目録 小嶋家文書」を検索してみたのですが、なぜかヒットせず、蔵書されていないようでしたのでいまだに閲覧していませんでした。それが今回お二人に教えて頂いた情報で、なぜか逆の、「小嶋家文書 : 目録」という検索で架蔵されていることが分かりました。この本はまだ、三好町歴史民俗資料館に在庫があるようです。
ところで、小嶋源次郎(兵部少輔)正春の生年の推理が、可能となりました。
それは、兄の子になる、小嶋源三(源二)正利が、1529年には、生まれているので、その父親の小嶋源一郎は、早ければ、1500年頃には、また遅くとも、1515年頃には生まれていなければならないことになるからです。したがって、弟の小嶋源次郎(兵部少輔)正春も、1505年から1520年頃には生まれている筈で、織田信孝兄の、小嶋兵部(民部)少輔より、三、四十年は年長であったということになります。
長くなりますので恐縮ですが、三河の小嶋氏系図をまとめてみますと、
[正長以前 略]
│
└┬正長 小島原三郎┬光長 小嶋源太─ 長範 源五 ─ 満長 備中守─┐
└光正 二良 │ ┌───────────────────┘
│ ├ 清長 備前守──────────────┐
│ └ 女子 黒田美濃守識隆妻、如水母。 │
│ ┌──────────────────┘
│ ├─ 徳長 備中守。
│ └─ 女子 京極武蔵守高秀室。
├高長 小嶋源二郎、改大学助─────────────┐
│延徳元年、依尼子家之乱、退国。同三(1491)七月九日卒。│
│ │
└女子 尼子家局 │
┌────────────────────────────────────┘
└─ 正秀 小嶋大蔵丞 ──────────────────────────┐
正秀、軍中之有吉瑞、親忠主依釣命、家紋丸中白鳩ニ幕者、裾紺相定。 │
延徳元己酉年、依尼子家兵乱、退備前州、移于三州。同四壬子年、領知 │
三州蓬生村、初奉仕 松平右京亮親忠、主、三州岡崎城。属于 親忠主 │
之手之日、正秀大励軍功、依親忠主之命、娵松平左馬允女。左馬允 │
領生平、其村里隣蓬生村、故以鳥境之田畠若干、分与于正秀、加之與 │
書以為後代之證。正秀在日、度々之軍功、處々之戦忠、畧而不記。 │
明応二(1493年)丑年八月十八日、病死、法名玄信。 │
┌────────────────────────────────────┘
│
└─ 正親 小嶋源一郎 (別の史料では正頼) ───────────────┐
奉仕于松平出雲守長親主、及侍中信忠主。 │
天文三(1534)甲午年二月五日、病死。法名玄秀。 │
┌────────────────────────────────────┘
│
├─ 正高 小嶋源一郎 (別の史料では正重ということになる)──────────┐
│ 奉仕 松平清康卿 広忠卿、及 東照大権現公。大袖至忠。 │
│ 弘治三年(1557)七月、今川義元から、三河古部郷のうち蓬生分 │
│ (愛知県岡崎市)の所務を安堵される。 │
│ 永禄三年(1560)三月、粟生将監が蓬生村の検地実施を訴え、今川氏 │
│ によって領有承認の裁許をたびたび得た。 (同年桶狭間の戦) │
│ 元亀三(1572)壬申十二月廿二日、於遠州味方ヶ原、戦死。法名浄永。 │
│ │
└─ 正春 小嶋源二郎、改兵部小輔。住勢州。子孫絶。 │
永禄三年十一月、小嶋源一郎から小嶋源二郎へ蓬生分のうち三ヵ所を分知される│
(別の史料では、織田信雄家臣の小嶋傳左衛門の父親ということらしい) │
│
┌─────────────────────────────────────┘
│
└─ 正利 小嶋源二 (別の史料では源三正利・源藏某) ──── [正利以下 略]
生于三州。奉仕于広忠卿、及 大権現公。
慶長十五戊八月十一日、病死。法名玄斎。
(別史料で慶長十六年、八十三歳) (1529頃~1610年又は1611年)
となるのですが、戦国人名辞典、p416解説文には、「室町幕府奉公衆か」とあることと考え合わせてみれば、「上の家譜のごとく、備前、近江から延徳の頃三河国に移ってきた佐々木庶流児島氏などということは考えにくく、やはり寛永譜、寛政譜、干城録が勘するように、私も清和源氏満政流の小嶋氏であろうと思います。なぜなら、それ以前の、長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」に、「一番衆・小島新蔵人、二番衆・小島六郎、五番衆・三州小島左京亮」とあるからです。逐電して信長に仕えたというのも、親類の小嶋日向守を頼っての仕官と考えたほうが納得できると思います。
http://www.hm.aitai.ne.jp/~siryokan/books_f.htm
|
|