算命学裏話

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 私が今教わっている水野得栴先生とのメールの遣り取りを掲載します。
先生に公表することを特に断っていませんが
最悪絶交されるだけですから私は構いません(^^;)
まあ、公表されて困るようなことは直に言い
メールには絶対書かない方ですので問題無いと思いますが。
なお、赤字の箇所が水野先生の御話です。

もう少しお話ししたい事もあったので、後日、資料にしてお送りいたします。
ただ一週間くらい先になると思います。

 有難うございます(-m-)
楽しみにしております。
 
算命学カウンセラー協会の資料見ました。結構作り話が多いのに呆れました。
 
 まさに魑魅魍魎の世界ですね(^^;)
 
色々ありましたが、絶対に許せないと思ったのは、葬儀の下りです。
清水氏も野島氏も葬儀で見たことないですよ。
中村氏は顔を出しましたが葬儀も終わりに近い頃には遅刻してきました。

 野島さんは仕事の都合で通夜だけ出席したと何所かに書かれてありました。
 
弟子で唯一棺桶まで担いだのは私だけです。 焼場でお骨も拾いました。

 その思い出は一生の宝物ですね。
羨ましいことです(´∀`)
 
こんな事しながら段々と嘘が定着していって、
後世の人々に事実のように思われていくのだと思いました。
 
 ところで、高尾義政宗家直門下生として18年間学び続け、
国内最高位である算命学黄位八段と豪語している
明学院創設者の清水南穂氏を御存知ですよね?
 
吉川様、この人は朱学院時代の同期生です。
高尾学館には来ていないので、いい加減なものです。
個人的にそんなに回数習える訳はないし、推して知るべしでしょう。
自分で勝手に自称して名乗っているだけのことです。
生前、高尾先生が実施した最初で最期になってしまった試験で、
最高点を取ったのは私です。
94点だったと思います。
大勢の受験生の前で発表されたので証明出来ます。
この時、100点上げても良いと思ったが、
今からあんまり完璧でもよくないと思って、少し引いたともいわれました。
この試験は高尾先生が亡くなっているので、次はありません。
つまり、高尾先生が直接行った試験での最高得点者という位置は不動です。
野島さんも朱学院時代の同期生ですね。
つまり、この期から、色んな人物が排出している訳です。
それでも、認可状をいただいているのは私だけでしょう。
今度写しですが、お見せします(本物はトランクルームにしまってあります)。
後で学館がそれを知って驚いていました。
私が何か独自の道をいっても、何も文句言えないからです。
とにかく、認可状ももらっていない人が偉そうな事を言うなと言いたいですね。
 
 さて、水野先生は「清水南穂氏回顧録」について、どうお感じでしょうか?
 
 先ず、私が違和感を覚えた点は、
73頁の昭和56年正月に八木橋信忠校長が急逝したというくだりです。
私達1・2期生(松林滸山氏から八木橋校長に講師が変更した時に合併された)
は彼から直接学んでいましたから、
彼の最後の講義が昭和60年12月25日だった事がノートの日付に書いてあります。
確かに正月に亡くなりましたから、当然翌61年の正月でしょう。
まあ、1、2年だったら記憶違いで済むでしょうが、
流石に5年も誤差があると別の意図を感じます。

 あと、59頁にある「特別研究生以外は宗家直門ではない」という見解です。
しかし、彼の云う「むやみに直門を名乗っているのは法話会に出席していた人達」というのは違います。
実は、八木橋校長のあとで我々1・2期生を直接教授したのは宗家御自身です。
それはそうでしょう。
八木橋校長の代わりに鹿島さんや小川さんでは役不足です。
彼等は1・2期生と一緒に学んでいた人達ですから。
つまり、私達も直門かどうかといえばそうともいえるのです。
 
 他にも、125頁の宗家が存命中に発行された最高位が周位三段だという説明も不可解です。
私は朱学院で額に飾られた佐藤校長の孔位の免状を見ています。
そもそも、八木橋さんの本にも彼が孔位だと明記されていますから辻褄が合いません。
 
吉川様、回顧録ありがとうございます。
読みましたが、事実誤認も多く、年代の記述も間違いだらけで、呆れました。
読んでいて不愉快な気分になりました。
特別研究生などというものもありません。
いかにも自分だけが特別な教えを受けたようにした捏造です。
結局は彼らは部外者で、本当のところは知らないのです。
本に出てくる小川さんとは、宗教法人獲得の為に関係有力者の接待に駆り出されて、
高級カラオケ店で遅くまで過ごした仲です。
自分は宗家の為にそこまでやってきました。
彼ら何一つ手伝いもしないで、良い顔だけしているのには呆れますよ。
 

西川先生の天中殺算出表は六龍師が作成したものです。
 
 確かに西川先生の著書にもそういう後書がありましたね。
 
ですから、結構色々とは裏話も聞いています。
 
 是非それを次にお会いした時に聞かせて下さい。

結局は西川先生の算命は高尾先生の陽占法を超えませんよ。
 
 確かに、理論的には高尾先生の陽占法は完璧だと思います。
 
それと金亭行ですが、
台湾道教の金紙を燃やす簡単な祈祷に日蓮宗の行法をくっ付けた西川先生の創作です。
祈祷法も純粋に宗教に根ざしたものと
運命学から作られたものと分けないと訳が分からなくなります。
この辺もかなり研究していますから相談に乗れると思います。
 
 宜しくお願い致します(-m-)
 
西川先生は詩人だけに粉飾するのが上手で、
ガラス玉も宝石に見せてしまうのが才能です。
だから占いも凄く神秘的に見えて惹かれてしまいます。
これは決して卑下して言っているのではなく、素晴らしい魅力だと思っています。
ただ現実的には算命学のレベルは高くないのが本当の話です。
 
 高尾先生は軍略家だけに算命学を神秘化するのが上手で、
呉仁和伝説も創作してしまうのが才能です。
これは決して卑下して言っているのではなく、凄い軍略だと思っています。
ただ現実的には算命学のレベルは高くても、それを乗り超えれなかったのが本当の話です。
 
ここで話すと誤解を生じるので直接お会いした時にでもお話ししますが
本当の陽占法の使い方を知っている人は少ないですね
私は高尾先生の自宅にも出入りさせていただいて、私的な付き合いもありました。
西川先生とも一時期わりあい親しくさせていただきました。
そういう事で、二人の素顔をよく知っているだけに
色々な噂を聞くたびに複雑な心境になります。
また知っている人もいないだろうといい加減な話しをする人にはうんざりします。
西川先生はともかく、高尾先生は実占では算命ではない占いを使っていました。
実占では算命だけでは無理なのです

私は今でも高尾宗家を尊敬していますし、占いの技もすごいと思っています。
ただ、疑問に思っているのは、13代目といいますが、人間の寿命の平均からいって、
初代はせいぜい明朝の時代になると思います。
算命学はもっと古い時代から伝わってきたというのは無理があります。
私がその後に師事させていただいた張先生の透派は
はっきりと初代は明の時代からだと言っています。
とすると、その前に母体になる存在があるはずで、
その辺はどうなっているのか疑問です。
それと、そうした流派には必ず家伝の秘伝書があるはずです。
高尾宗家のところには一切そういう類いのものはありませんでした。

透派には何十冊もの家伝の秘伝書があります。
私はその秘伝書に基づいて教えてもらいました。
また、自分が人に教える時も秘伝書を使って教えるので、
必ず一定の水準が保たれるわけです。
清水氏が言っているような教えを変えてはいけませんというのは、
こうした基準になる秘伝書があって初めて出来る事です。
そうした点を考えると、はたして今まで定説として言われている、
伝承があったのかと疑問が消えません。
 
 以前から、ネットでは12代目の呉仁和の存在を疑問視する声がありました。
そして、水野先生が宗家から直接「十六元法は自分が作った」と御聞きになっていた事や
「宗家の遺品整理の時に立ち会ったが、先代から受け継いだような文書は無かった」
と仰ってた事から高尾宗家のフィクションだと確信していました。
数星易でもそう出ますし。
 
 そういえば、宗家も直に私達生徒に仰ってました
「私が貧乏で碌に本も買えなかったとき、原書房や鴨書店等で本を立ち読みし
店を出てから覚えている箇所をメモした」
と。
もちろん、裕福になってからはそれなりに買い揃えたのでしょうが。
また、忙しい宗家に代わって、
国会図書館や天理図書館に宗家の奥様が出向いたという記述からも
結婚前は宗家御自身がそういうところで資料集めをしていたと伺い知れます。
つまり、高尾算命学はそういった資料と宗家の構築した理論と霊感で成り立ったものなのです。
 
 でも、それも或る意味仕方無い面もあるでしょう。
原爆症を患い学歴も資産も家柄も無い一介の青年をセレブの奥様方が贔屓にしてくれる程
世間は甘くありません。
それを補う為の装飾なのです。
 
 現に、同じように病弱だったにせよ、資産家の家に生まれ、
早稲田大学文学部を卒業され、詩人として名を馳せた西川満先生さえも
呂先生という正体不明の占い師を登場させて、御自分の占いの神秘性を醸し出しました。
まあ、呂先生の存在も呉仁和同様フィクションだと私は思います。
数星易でもそう出ますし。

吉川様、私が高尾宗家が早死した原因の一つと考えているのが、
風水に無知だったということです。
以前住んでいた住居を壊して新しく建て直ししましたが、
あの時の建て直しのはやり方は風水的に観て怖いやり方をしていました。
当時、私は風水にはそれなりの勉強もしていたので、
すごい怖いことをしているなと思いました。
ただ高尾宗家のことなので、
私の知識を超えた方法を知っていて平気なのかなと思っておりました。
そうしたら建て直ししてほぼ5年くらいたった、あの年に急逝しました。
私が計算していた5年で逝ってしまわれました。
高尾宗家の死の知らせを聞いた瞬間に、
私は「ああ、風水の凶作用が出たな」と思いました。
生前にそれとなく質問していると、
高尾宗家は風水の知識はあまり無いなとは思っておりました。
あれだけの占いの天才でも無知な部分が死を早めてしまったのだと考えさせられました。
命式とは別に風水の作用はありますよ、
運命学研究者でも私の忠告を聞かないで酷い目にあった人を何人も知っています。
風水とは言っても、西に黄色ものを置けみたいなインチキなものはダメです。
正統なものを学んで下さい。
 
 そういえば、田中角栄が没落したのは占い師に言われて庭の池を埋めたから等
と云われていた事がありましたね。
まあ、大きな造作をする場合は水野先生にお願いします(-m-)
ところで、「清水南穂氏回顧録」にある日本算命学会って何ですか?
ネットを検索しても出てこないのですが。
 
日本算命学会と日本が付かない算命学会の二つになりますね。
算命学会 は生前に高尾宗家が創設されたものです。
当時の役員は全員お亡くなりになっています。
当時、算命学校も含めた統括組織として設立されたようですが、
たいした活動もしないままに休眠組織になってしまいました。
私も会員になったのです。
正規会員は算命を学んで臨位以上の段位を持つ者になっています。
入会金を払って、翌年の年会費の請求がないままに、うやむやになってしまいました。
 
 水野先生も寄稿された算命学会の機関誌「神の科学」は83号迄出ていますよ。
隔月刊なので、14年間近く続いたことになります。
今は別の名前の機関誌になっていますが。
ようするに、先生は高尾学館からハブられたんじゃないですか?
まあ、中村校長にとっても水野先生は内情をよく知る邪魔な存在でしょうし(^^:)
 
私は中村氏が校長になる話しを聞いて直ぐに講師を辞任しました。
その時に受け持っていた受講生の方々には迷惑をかけるなと、少し心が痛みました。
自分は彼からみれば絶対に邪魔な存在に見られることは容易に想像出来ますから。
事実、その後、小川さん以外のスタッフは全員クビを切られましたからね。
さすがに、小川さんは切れなかったわけです。
講習が停止してしまいますから。
もっとも小川さんは野心がないから安心して側に置けたと思います。
 
 それって、策略はあっても人望の無い者の常套手段ですよね(´`;)
 
日本算命学会は例の回顧録に出てくる塩崎氏が音頭をとってできたものです。
高尾学館になって、新カリキュラムに変わる時に、
辞めた連中が集まって出来た親睦会です。
勉強よりも一種の飲み会です。
年に数回、高尾宗家を招いて飲み食いする会です。
高尾宗家の雑談を聞いて満足している会で、きちんとした勉強会ではないです。
その後、塩崎氏が亡くなった後に南穂さんが引き継いだわけです。
回顧録では自分が設立して、会長に塩崎氏を頼んだようなことを言っていますが、
実際には引き継いだだけですから。
もっとも、高尾宗家が亡くなれば集まる意味もないので、
名前を利用させてもらっただけのことですね。
 
 そんな会から認定された黄位八段ってお手盛りもいい所じゃないですか(^^:)
まるでドクター中松が自分で作った賞を自分で受賞するようなものでしょうが(^^;)
 
南穂さんの称号は確かにインチキなものです。
まあ、いきさつを知っている人も少なくなっているので、まかり通るわけです

 ところで、自然法算命学の↓のコラムについてどう思われますか?
 
吉川様、この人の話しは憶測ばかりで話しになりません。
会館に行くまで分裂することを知らなかった時点で、当時のレベルの低さが分かります。
私はいよいよ来たと思って、高尾先生のやり方をみて感心しました。
見事な切り方でした。
梅花易をどうやって立てたのかが問題ですが、結局は失敗していると思いますよ。
負け惜しみで想定法を持ち出して、
自分は残って良かったと自賛しているだけの話しです。
だいたい想定法といっても独立した秘伝でも何でもなくて、
高い次元の見方をする時には自然に想定法的な見方をしなければなりません。
ですから、あえて想定法を揚げ無くなっているだけの話しです。
 
 水野先生も御存じのように、朱学院と荘学院の分裂騒ぎも元はと云えば
佐藤宗颯朱学院校長の独断専行が原因です。
まあ、「盗人にも三分の理」と申しますから、あちら様にも当然言い分はあるでしょう。
で、これはあくまで八木橋信忠荘学院校長の話ですが
 
 「俺と佐藤は昔は仲が良かった。
 だから朱学院を正式に立ち上げた時も
 自分の記憶力を過信して碌にノートをとらなかったあいつに
 俺の講義ノートを貸してやった。
 ところが宗家が教えていない自分勝手な講義をし始めたので
 宗家が改めるように言ったのだが、結局佐藤は改めなかった。
 だからやむなく荘学院をつくることになったんだ」
 
ということだそうです。
 
 どちらにせよ、朱学院も高尾学館も後継者の人格に恵まれない命運ですね(´`;)
それもこれも、高尾宗家が「完全美にならない」という「破」を
御自分の命式にお持ちだったからでしょう。
まあ高尾学館のほうは、小川さんがもう直ぐ継ぐのでかなり改善されるかも知れません。
 
 というわけで、私が今、算命学を習っている水野得栴先生こそ
正真正銘の高尾算命学の最高峰なんですね(^▽^)