「相対性映像論~ピースな写真・被写体側の写真論」
1-1 被写体が作る同一化
・死者たちの平和
ここ数年、殺人事件を報じるテレビのニュース番組で、被害者と加害者の写真は、ずいぶん昔に取られた学生時代の卒業アルバムから引用されるか、あるいは、友人が撮影したと思われるスナップ写真が多い。
スナップ写真の場合、携帯電話で撮影された写メなのだろうか。だいたい画質が悪い。テレビの画面になじむよう拡大され、トリミングされているため、どこか輪郭がぼやけていて、捉え所がない。ずいぶん昔に撮影された写真に思えたり、本人の視線がこちらを向いていても、どこか盗撮っぽい不自然さを感じる。
ニュース報道で露呈される、不幸にも命を絶たれてしまった若い女の死者たちは、カメラ目線で、せいいっぱいの笑顔を作り、ピースサインをしている。
誰かの手で、無念の死を遂げた女性たちの多くが、皮肉にも笑顔で平和を表すサインを示しながら自らの死を告げている。考えてみると、これほど悲劇的な写真はないだろう。しかし報道する側は被害者たちがピースサインをしている写真をあえて使っているのか、あるいは、そのような写真しか手にはいらなかったため、しぶしぶ使用しているのか、考えてみると、不可解な話である。
この世に存在しなくなった彼女たちだけではない。日本人の多くが、写真に写るときピースサインをしている。おそらく死者たちの多くが、ピースサインで写真に写っているのではなく、だれもがすべての写真に、ピースサインをして写っているのだろう。不遇の死に見舞われた彼女たちは、その一部にすぎないと考えた方がよいのだろう。
・被写体側の論理
ボディーランゲージ――身振りや手まね、あるいはゼスチャーで、なにかを表し、意志を伝えることを、あまり使用してこなかった日本文化において、写真に写る老若男女の多くが、特に若い女性たちが、ピースサインをしているのは、なぜなのだろうか。
60年代の後半に幼少期を過ごした自分の記憶を辿ってみても、小学生頃にはピースサインをして写真に写っている。
それから40年くらいの時代が経過している現代でも、日本人がピースサインで写真に写り続けているのだから、よほどの理由がなければならない。
ピースサインの始まりについては、70年代文化を経験したものからすれば、それなりに推測できる。
しかし、なぜ、それがいまだに続いているのか、その時代から変わらない理由があるのか、それとも、どこかで読み替えが行われているのか、
日本の写真史や写真論をひもといてみたところで、ピース写真の答えはない。なぜなら、ピース写真とは、取る側の論理や思想の側ではなく、写真を撮られる側である被写体の人物の方に、だれも気が付かない理由が潜んでいるためである。
だれもが無意識に身構えているか、必要性を感じてピースサインで写真に写っているのはなぜか。この簡単そうなのに、正解が見つからない設問について、論考してみると、これまで写真論や映像論が見落としていた、写る側――被写体の写真論や映像論が垣間見えるのではないだろうか。
それは、デジタルの視覚を手に入れて、だれもが撮影した映像や写真をネットで公開している時代に相応しい、相対的なイメージと人類の有り様を捉えるために必要な考察に思える。
1-2 ピースサインとピース写真の歴史
・ピースとビクトリーのフィンガーサイン
勝利のアピールや平和を祈るサインとして用いられるピースサインの歴史は古く、14世紀フランスとイングランドに起こった百年戦争で、イングランド軍の弓兵が、敵であるフランス軍を挑発するサインとして使ったのが、その起源とされる。
5世紀も時代は経過してしまうが、第二次世界大戦中には、時のイギリス首相チャーチルが、戦争の継続と勝利への強い意欲を示すため、Vサインを使用している。このVサインは、勝利を意味するVictoryの頭文字Vをあらわしたものであった。
対戦の終結後、米ソの冷戦と、核の恐怖が囁かれた1960年代には、平和運動が世界中で盛んとなった。
平和集会に参加した者たちは、自らのパワーと平和への願いを表す意思表示の手段として、ピースサインは世界中で使われるようになっていった。
この時代に、自由と反権力を訴えたヒッピーたちも、平和を願う印としてピースサインを使用している。当時の模様を知らせる映画「ウッド・ストック」には、そのようすが記録されている。
百年戦争、第二次世界大戦、ベトナム戦争と冷戦の時代。ピースとヴィクトリーが渇望された時代に、ピースサインは必要とされた。つまり戦争とピースサインは背中合わせだったのかもしれない。
・日本のピース写真の起源
日本の写真にピースが登場するのは、70年代初頭であった。
子供たちを中心に写真を撮影をされるときに、ピースサインが流行しはじめる。ただVサインをするだけではなく、同時に「ピース」と叫ぶのが、当時の流行だったが、これは笑顔を作るためにチーズと言う習わしに近い。
全共闘など学生運動をしていた当時の学生たちが、アメリカのヒッピーたちを真似て、ピースサインをするのをテレビで見た子どもたちが、真似たのが始まりといわれている。。
また1972年にコニカ・カメラのテレビCMで、井上順がアドリブでピースサインをしている。それ以前に撮影された写真にはピースサインが見当たらないとして、このCMを起源とする説もある。
現在では韓国や中国などの国でも、写真撮影の際にピースサインを行うことが、定着している。
さらに近年のヒップホップカルチャーでは、ピースサインを自分に向けるケースが見うけられる。そのような亜流ピースサインも多く存在する。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照)
上手く笑顔を写すため、シャッターを押す時、英語なら「チーズ」、インドネシアでは「テンペイ」(料理の名前)、ドイツでは「ビアー」、スイスでは『ケーセ』(チーズのこと)、韓国では「キムチ」と、口元が笑っている印象を結ぶ発音の語尾で終わる言葉を言わせる。
日本では「チーズ」が一般的に使われているようだが、70年代には、「1たす1はニー」とか、「ニッコニコ」といった言葉も使われていた。
この「笑い言葉」のひとつでもあるニヤッとするにも似た、「ニー」、あるいは「ニコ」とは、数字の「2」を連想させる。「ニー」、「ニコニコ」は二本、指で表す二本となり、Vサインやピースサインと呼ばれるフィンガーサインが流行したのだと考える説もある。
また1972年の札幌オリンピック女子フィギアスケートで銅メダルを獲得したジャネット・リンは、その愛らしい笑顔から「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ日本中で人気を得た。
ジャネット・リンが写真に写るとき、笑顔でピースサインを出していたため、日本でピースサインが流行し始めたとする説もある。
そのような時代に発売されたコニカ社のインスタント・カメラ「コニカC35EF」 (ピッカリコニカ) のテレビCMに登場したタレントの井上順氏が、アドリブでやったピースサインが、テレビを通じて一般化したのだと考えられる説もある。
確かにどの説も歴史的な事実であり、疑う余地はない。そしてピースサインの始まりがどこにあるのかは、ここでは決して重要ではない。むしろどの説も共通していうるのはテレビ・メディアが関係している点である。
1-3 スナップ撮影の文化人類学
・ピースサインがなくならない謎
ここまで(似非)文化人類学的に、ピースサインの系譜を紐解いてきたが、それだけでは、なぜ、現代でもだれもが写真に写る時にピースサインをするのかという疑問にたどり着けない。
ピースサインとは社会的コードではない。
おそらく思想的表現でも、むろんボディーランゲージというだけでもなさそうである。
どうして多くの人が、こんなにピースサインをかざして写真に写るのだろうか。
おそらく、だれ一人、ヴィクトリーを意味したピースサインを、結婚式の2次会や、成人式、旅先の記念写真の中に残そうとしているはずもない。
もっと本質的な理由がなければ、これほど多くの人が、ピース写真を撮るはずはない。
チーズとか、ピースと声に出さないで、笑顔を作るための、とっさの条件反射でピースサインをしているのも事実だろう。
ピースサインが条件反射的で出てしまうのだとしても、必要とされる理由はあるはずだ。
そうでなければ、とっくに、そんな風習はなくなっているはずなのだ。
日本のスナップ写真文化(そういうものがあるとすればだが)において、現代までピースサインが絶対的なものとして必要とされているのは疑う余地がない。
このピースサインの必然性の謎を解くためには、笑顔を写し残そうとする写真記録の文化、言い換えるなら、被写体側にある写真論について考察しなければならない。
それはこれまで通りの絵画を描く側や、写真を写す側で語られてきた論理ではなく、描かれる側、写される側にある論理、被写体側の絵画と写真についての考察である。
文化人類学に通じるだろうが、それは相対的な映像についての論考としておこなわれるべき問題である。
2-1 ポートレイト 静止した身体 ~絵画から写真へ
・サービスサイズの笑顔
葬式の席とか、よほどの理由がないかぎり、深刻な表情や、しかめっ面、怒った顔を、わざわざ作って写真を撮影する必要はない。
肖像画の歴史をひもといてみても、威厳を示すために、堂々とした表情を必要としないのであれば、特に女性の肖像画の表情は、笑みを讃えるまではいかなくても、豊かさの象徴として、相応しい微笑みの表情が描かれてきた。
その時代の美意識(社会的コード)にのっとり、見る者に魅力的な精神性を印象づけるため微笑みの相が、女性の肖像画に描かれてきた。
この表情の美意識をさらに強化しつつ成立していく写真の歴史において、とりわけ素人が撮影するスナップ写真の中で、微笑みは笑顔に置き換えられていった。
その理由としては、それまで絵画の時代の肖像画に描かれていた人相と比べて、写真で記録される人物の顔の大きさが、かぎりなく小さくなってしまったためだと推測できる。
35ミリサイズフィルムの小さな感光版、日本では2L版(127×178ミリ)、アメリカでは8X10(203.2X254mm)と、いまでも親しみのある小さくな印画紙面。この大きさの中に印象のよい人相を残さなければならない。
なんどか被写体に向けてシャッターを押して、その写真の中から一枚を選ぶのを前提とした写真の記録方式、てっとり早く撮影を済ませて、素敵な1枚を残そうとすると、微笑み以上に、笑顔の方がわかりやすい。
・写真創世記のポートレートのポーズ
1~2分の感光時間を必要としたダゲールのダゲレオタイプ(銀塩写真)は笑顔の撮影は難しい。
当時の写真を見ると、被写体となった人物たちは、しかめっ面か、口を閉じて無表情で写っているものがほとんどだ。
当時の肖像画写真は、感光に充分なだけ静止していられるように、専用の椅子がスタジオに用意されていた。
写真に写る人物たちは、たとえ上半身だけを撮影するのであっても椅子に座らされて、肘掛けや、横に置かれたテーブルに腕を載せて、動かないよう工夫を施している。
立ったポースでも、身体をささえる椅子を隣に置くなどして、身体が動かないよう配慮したポーズがほとんどである。
子どもと一緒に撮影された家族写真では、子どもが寝ている間に、抱きかかえて撮影されている。
なにかしらの仕掛けで、被写体がうごかないよう拘束するのは、、写真以前の肖像画でも同様のようだ。
身体が椅子などの小道具で固定されることで、ポートレートは成立してきた。
片方の足を上げるための台や石を使用して安定させる。
腕を組む、顔に手を当てる、銃などの小道具を持たせて身体を安定させる。
無理な姿勢を取らせないようにするのは、身体の小刻みな動きを封じるだけでない。
顔の表情がぎこちないものにならないためでもある。それらの撮影方法はよい表情で被写体を撮影するため、現在でもよく利用される撮影の技なのだ。
初期の映画は、先行していた舞台芸術に学び、演劇の言語を根底にして始まった。
手回しのカメラからゼンマイ仕掛けになり、さらに視覚言語としてのモンタージュを可能なものとしていく。
フィルムの感度と解像度が高くなり、音声が扱えるようになり、色彩の表現ができるようになっていった。
そのような技術的革新に併せて、撮影方法や、扱う題材が進化していったのは周知の事実である。
映画術の誕生に必要不可欠であった写真も同様で、技術的革新に並行して、撮影の方法と美意識を進化させて現在に至る。
テクニカル面での変化が、先に発生してから、撮影の方法や作品の様式が変わっただけではない。その反対に、制作する側が求めることから、次の技術のあり方を決定されていくような事態が、映画と写真の歴史から読み取れる。
2-2 写真の一般化 スナップショット写真の成立
・一般大衆の写真へ
ニエプスによって1826年に撮影された最初の写真。
1839年にダゲールによって発明されたダゲレオタイプ。1884年にはジョージ・イーストマンが紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発した。
この時点から写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。
その4年後の1888年には、イーストマンは、「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」との触れ込みで自ら設立したコダックカメラで市場に参入を果たす。
フィルムの生産販売と現像サービスの企業が登場により、誰でも写真撮影が可能な時代となった。
写真の撮影は、もはや複雑な画像処理の道具を自前で持つ必要のない行為となった。
1901年のコダック・ブローニーの登場により、一般でも写真は撮影がより身近になったのだ。
その後、1925年のライカ性の小型カメラ等の登場によって、一般性、可搬性(カメラの持ち運び易さ)、機動性、フィルム交換のし易さが高まり、スナップ写真が広まった。
その後のカラーフィルム(多色フィルム)の発売や、カメラにオート・フォーカス(自動合焦)や、オート・エキスポーズ(自動露出)の機能が取り付けられて、写真はより手軽なものとなっていった。
そして20世紀中期以降には、スナップ写真が大量に撮影されたのである。
今日では画像の電子記録が一般的となり、それまでと異なる利用が可能となった。
デジタルのスナップ・フォトは、これまでと異なる展開を始めたといってもいいだろう。
そのように写真史を読み解くと、写真の歴史とは、熟練した技術を要し、下準備や、多くの道具を扱わなければならないプロフェッショナルの写真から、出会ったものごとを撮影する一般大衆の写真へと移り変わっていった歴史である。
写真の美意識や、存在意義は、その歴史の渦中で、何度も再編され続けてきたのだ。
手段と目的、その両方が暗黙知として、写す側と写される側、両方の文化を創り出していったと言い換えられる。
(その他 写真を一般化したとされるポケット・コダックの発売(1896年) コニカC35EF・初代ピッカリコニカ(1975年))
3-1 被写体側の写真術
・写される側が自らピースサインを出している
戦争にまつわるピースサインの歴史、さらに井上純やジャネット・リンのメディア的影響力と、ニコニコして写るためのゴロのよさなど、ピースサインが日本のスナップ写真に普及した始まりは理解できた。
しかし、なぜインスタントカメラがデジタル化され、札幌オリンピックから20年も経ってから生まれた子どもたちが、いまでもピースサインで写真に写るのか。なぜ、若い女性ほどピースサインをするのか、以前解明されていない。
カメラをかまえる写す側にとっての写真文化があるとすれば、同様に写される側の写真文化もあると、すでに書いた。
おそらくピースサインをするよう、被写体に指示をだして撮影しているのではなく、写される側が自らピースサインをしているのだから、考察するべきなのは被写体側である。
なぜ、40年近くに渡り、写される側に、ピースサインが必要とされ継承されてきたかについて、この論考の本題について、再び考察を続けていく。
この謎を解き明かすために、身体、身振り(行為)、意識、平面化、女性、という5つの点から、被写体側のピースサインを観察してみる。
・どのように写っているのか
多くのピース写真を観察してみると、いくつか共通点が出てくる。別に特別な技術は必要ない。グーグルで適当な言葉を打ち込んで、ひっかかった写真を眺めてみるだけでいい。
まずひとつ目の共通点は、被写体がカメラを意識しているという周知の事実である。
レンズに目線が向けられている写真も多く見かけるが、そうでなくても、まず大前提として、ピースサインは、カメラに向けられている。
つまりピースサインは撮影を了承した被写体によって行われているのである。
複数の人間が写された写真か、一人が写っている写真であっても、それは同様である。
あたりまえのことだが、ピース写真は、不意に写されたり、盗撮された写真ではないのだ。
彼らは、彼女たちは、だいたい写真に写るため、わずか数秒にしろ、視線を向け、身体を写されるために身構えている。
リラックスしているにしろ、緊張しているにしても、被写体となる人物は写されることを了承して、フレームに記録されるため、自らの身体を撮影者に提供している。
その数秒の間、自らの身体を撮影のため放棄しているのだと、言い換えることもできる。
写真によっては、無理なくフレームに写り込むため、身体の位置を調整している。
複数の友人で写る時、端にいる人物が画面の真ん中に寄ったり、他の人物もバランスよくフレームに収まるよう調整したり、仲むつまじく写るよう、接近したりする場合もある。
*
共通点のふたつ目は、どの写真も、おおむね撮影されているのを、いやがっていないように見える点である。
見えると書いたのは、真偽はわからないからだ。
自分自身の経験から考えても、これまで自分が撮影した写真の中で、被写体がピースサインを出しているので、喜んで撮影されていると断言はできない。
自分自身が写された場合でも、不快ではないが、しかたなく写されてしまうので、なんとなくピースサインをして写ってしまった経験がなんどかある。
そのような体験を踏まえたとしても、ピースサインは、やはり嫌がっていないポーズとして出されている場合もありそうなのだが、
おおむねピースサインの被写体は撮影をいやがっていない印象を与えていると思う。
*
共通点の3つめは、被写体はおおむね楽しそうだということである。
笑顔とピースサインはセットであり、被写体は笑顔、少なくとも怒っていたり、深刻そうではない表情が記録されている。
これら3つの共通点は、写真自体からうける印象であったが、さらに事項でピース写真の共通項を探してみよう。
4-1 静止する技術
・どのように写りたいのか
写真写りをよくするためには、いくつかのテクニックがある。
ハリウッド・スマイルと呼ばれる写真をご存じだろうか。
アメリカで、一般化した写真の写り方なのだが、要はハリウッドスターのブロマイドでよく見かけた、白い歯を見せて笑っている写真のことだ。
このハリウッドスマイルとは、不思議な写真で、笑顔で写っている被写体は、笑っているのではなく、口をiを発音する形にして、歯を見せている。
頬の筋肉が上に押し上げられるため、目元も笑っている印象になる。
つまりハリウッド・スマイルとは、笑顔というよりは、写真のための擬似笑顔というべきものだ。
目の前で、そのような表情をしている人を見たとすれば、けっして笑っている印象は受けない。
平面化された顔、写された顔の不思議さのひとつだろう。
そのような表情が笑顔として見えてしまうのである。
もっとも最近ではハリウッドスマイルという言葉は、歯の矯正の広告として、使用されている場合が多いようである。
口角がきりりと上がっていて、歯ぐきと下の歯は見えない。
健康的な輝く白い歯がきれいに並んでいるのが、好感の持たれる笑顔だという。
歯を矯正するのも、確かに素敵な笑顔で写真に写る方法には違いないだろうが、それはともかく、写真館で撮影されたであろうアメリカ人の記念写真を、詳しくみてみると、作り笑いの笑顔が当然のものとされているように思える。
文化の違いもあるが、ハリウッド・スマイルとは、平面化された顔がよい印象になるためのテクニックであり、よい印象に写るための様式のひとつなのだ。
写真写りをよくするためのテクニックの基本は、まずは笑うことだろう。
しかし笑うと目が小さく写ってしまう。細くなってしまう。
すると平面化された写真では、苦しそうな表情に見えてしまう。
だから、あごを引きぎみにして笑う。目は開いたままで、笑顔の印象が作れる。
顔を少しだけ横に傾けるのも、緊張していない印象を作るために有効だ。
これらは写真写りをよくするために、一般的に用いられるテクニックである。
平面化された自分の顔が、リラックスしていて、緊張していないで、親しみやすい印象を与えるテクニックである。
そして写真が撮影された場所に溶け込み、楽しんでいる印象をあたえる。
人々は写真写りを気にして、写真に自分が印象よく記録されるために、写されるための技術を知らないうちに駆使している。
それが作戦通りに成功するかは別な問題だが、だれもが、自己主張というより、自己存在の配置と呼べるような、写真の中に記録される自分を自立させるために、知らないうちに自らを演じている。
それは写真やビデオ、平面のメディアに自らを配置するテクニックであり、自らの平面イメージのマネージメントと呼ぶこともできる。
*
女性であれば、ことさら写真に残される自分像は、重要な問題である。
目を大きく、小顔に見せたい。
肌つやと血色の良さ、姿勢のよさ、様々な点で美しく写りたい。
または自分の望まざる記録を残さないために、男性以上に、写されることに意識が向けられる。
それは鏡の中をのぞき込み、自分の顔を気にするのに似ていて、大量の自分自身の平面イメージと付き合わなければならなくなった現代以前から、日々覗きこむ鏡を通して、ごく自然なこととして、彼女たちは自分の平面イメージを理解しているのかもしれない。
・人間の顔の魅力
多木浩二は、
人間の顔には魅力があるからである。同時に謎でもある。我々は意識的、無意識的に人間の顔を見る経験を重ねている。ザンダーの言うように「顔を見れば、嬉しいのか悩んでいるのかがわかる」だけではすまないのである。表情を持ち、身体の頂部のしかも全面についているから、顔は人間の身体の中で最大の標的であり、特権的な位置を占めている。我々は世界をおびただしい顔という一種の暗号によって経験しているものである。(多木浩二『肖像写真』164ページ)と書いた。
むろん多木浩二は、写真を写す側の思考について語っているのだが、この論考は、被写体側にも当てはまる。
つまり、人間の顔には魅力があるのだから肖像写真が写される様に、魅力ある人間として写真に写ろうとする意識が働いて肖像写真は成立する。
特権的な価値をもち、暗号として機能可能な自分の顔を、許容できるものとして記録したいという願望が、すべてのポートレイト写真の中で作用しているのである。
そのような写る側の意識とは、たんにカメラのレンスに向けられて働くだけではない。
被写体がピースサインをしている写真を眺めて、どのようにピースサインが出されているか、確認してみると、さらなる共通点に気が付く。
それは、ピースサインを形つくっている手と身体の関係、さらにカメラとの位置関係である。
ほとんどのピースサインは、肘を曲げるか、カメラ方向に向けて、腕を伸ばして作られている。
ピースサインは、胸元、顔の横、最近では頬にあてていたり、片目の前に出されている。
その手は振られるのではなく、ただじゃんけんのチョキをつくり、静止している。
写真に写るのだから静止しているのは当然だが、
動画で記録されるビデオでも、多くの被写体がピースサインをしている。
この決まった手のポーズが静止している点に、被写体がピースサインを必要としている、重要な理由があるように思える。
4-2 静止させる魔法のポーズ
・自分を止める方法
先に書いたとおり、露光時間を必要とした創世記の写真では、ぶれないため、身体を固定していたが、
実はピースサインをだすことで、自分を静止させ、写真化する行為のひとつと考えてみてはどうだろうか。
そして、この静止する行為こそ、写真写りをよくするための、重要なテクニックだと考えられるのだ。
動いていたり、話していると、どのように写ってしまうか、どのタイミングでシャッターが押されてしまうのかわからない。
閉まりのない口元、半開きだったり、薄く半開きの目で写されてしまうかもしれない。
そのため、充分な露出時間を得るためではなく、いつシャッターが押されても困らないよう、我々は自分の身体と表情を静止させて撮影を待つ。
静止だけなのだから、ピースサインは関係ないように思えるが、ピースサインを出すポーズを、いつものように繰り返していると、どのような状況でも、簡単に条件反射として身体と表情を作って静止できてしまう。
つまりピースサインとは、被写体が静止するための必然条件として機能しているのではないだろうか。
重心を決めて身体を動かないよう安定させるのと同じように、ピースサインを出すことで表情を安定させ固定させる。
別にピースサインでなくてもいい、文豪や芸術家の肖像写真によく見られる、親指と人差し指であごを支えるポーズ、また(立っていようが)はほおづえをついたり、腕組みをして写る、腰に手を当てて写るといったポーズでも構わない。
どの文化圏にも存在する写真に写るためのポーズも同様の機能をもつと推測できるが、ピースサインは、身体を静止させるために必要なポーズのひとつなのである。
人間にとって、ずっと動かないままでいるのはストレスを伴う。
一瞬であっても、いつシャッターが押されるかわからない状況で静止しているのも同様である。
そのまま静止していようとすれば、それこそゆとりある表情どころか、不安そうで、ぎこちない顔が撮影されてしまう。
写真でポーズをとるのは、身体の有り様をよく写すためだけではなく、自らの静止を意識的にが受け入れるために必要な身振りであり、ピースサインにも、同様な機能があると考えられる。
慣習化され、さらに条件反射的に、もっとも簡単に、小道具も、椅子も必要なく、撮影される状況に順応するためにピースサインは必要なのだではないだろうか。
4-3 自らを守る魔法のポーズ
・結界 自分を防御する手
さて、もうひとつの共通点として注目しておきたいのが、ピースサインの多くが被写体の手前、つまりカメラと自分の間に作られている点である。
いろいろな写真を検証してみたが、やはり自分の顔の後ろ側に置かれたピースサインはまず見当たらない。
たかだか数センチから30センチ程度だけ、顔の前にサインを形作った手があるわけだが、このピースサインが置かれる場所には、被写体の無意識が介在しているのだと思われる。
*
カメラを向けられ、写されるという行為については、先に被写体として自らを放棄し、撮影者に委ねる瞬間と書いたが、無防備な身体に、シャッターが押される瞬間を待たなければならない。
カメラに目線を向けるとは、強力な眼力をもつだれかと目を合わせているようなものである。
だれかに凝視されているのだ。
だれかとは、もちろん撮影する人間だが、撮影する人物の方が、機械の眼であるカメラによって強度化されているのだから、写される側の方は分が悪い。
無防備な身体をどのようにして守るか、本人も気が付かないうちに、無意識が介在して、カメラに向けて自分の手を視界の中に置く。
カメラと自分の間に、顔を防御する手のように、ピースサインをした手が視界の前にある方が落ち着くのだから。
我々は人前での裸の無防備さに耐えられないが、服と同様に、ピースサインは、自分に向けられたカメラとの間に張られた結界として機能している。
この手前に出されたピースサインは、同時に小顔に写る作用も持っている。
・ピースサインの向き
基本的なピースサインの共通点として最後にあげるのが、手の腹の向きである。
ピースサインにしろ、すべてのボディー・ランゲージは、どれも自分と向かい合う
他者に向けて発せられるのだから、カメラ側に向けてサインが作られ、2本の指が立てられているだけではあるが、その手の内側が相手に向けられる。
バイバイ、ハロー、やめて、自らの意志をつたえるフィンガーサインの多くは、手の内側が相手に向けられている。
怖い予兆や、ぶつかりそうな時や、ぶたれそうな時、顔や身体を直接防御するのではなく、手の腹は対象に向けられている。
ピースサインも、同様に外向きに手の腹がカメラに向かっている。
これも、ピースサインが写真を撮影される側にとって、自分を防御するために都合がよい理由のひとつなのかもしれない。
4-4 声なき世界のボディ・ランゲージ
・ゼスチャーとしてのピースサイン
アメリカ合衆国を擬人化した象徴、アンクル・サムを描いた第一次世界大戦時の陸軍募兵ポスターでは、見る者を指さしたイラストに「おまえが欲しい」と書かれている。*ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ画(1917年)。
人から指をさされると、どうにも不快な気持ちになる。
これは、指をさしている人物から、見下され、対等ではないように扱われたと感じるからである。
アンクル・サムのポスターは、国家がポスターを見ている若者たちに向けて命令している効果を持っている。
*
他者に向けられるボディー・ランゲージは、言葉にはない訴求性と、直感的な理解を創り出す。
映画に描かれたゾンビや、絵画に描かれた幽霊は、どれも手をだらりと前にしている。
その前に突き出された手は、彼らの理解できない存在の怖さだけでなく、もしかすると自分に向かってくるかもしれない不安感を生み出している。
怪獣のものまねや、怒るとき、なぜ我々は顔の少し上に手を上げてみせるのだろうか。
それらのジェスチャーは、相手の印象に訴えかける。言葉、つまり音ではない視覚としての訴求力をもっている。
・サイレント・メッセージ
写真には音がない、当然言葉も記録されない。
被写体となるものは、言葉を残せない視覚だけの記録に、どうにか自分の意志を表そうと、微笑み、笑い、さらに非言語の記録に向けた意思表示としてジェスチャーとフィンガー・サインを必要とする。
これも写真に写るときピース・サインをする理由のひとつではないだろうか。
昔からボディーランゲージが得意ではない日本人が、なぜこれほどまで、写真に写る時ピースサインをするのか。
それは、静止して平面化されようとする身体の居場所を確保しつつ、お辞儀をしてしまうのと同じく、写真を撮る相手や、廻りの人々との関係性を保とうとする仕草なのかもしれない。
奥ゆかしい所作と呼ばれてきた、立ち振る舞いが、写真に写る際のたしなみとなっていったのではないかと推測してみる。
すると意外にも、これほどまでに日本人、特に若い女性たちが、写真に写る時にピースサインを出している理由を、少しばかりでも理解できた気がするのだが。
●補足
このピース写真の論考は、
プチ整形
インスタ、自撮り、(セルフィー)
プリクラの加工写真、
Snowや、SnapCamなど、2010年代に始まる、デジタル。コスメ、
AIを使用した変身動画などに繋がっていくが、
それは、また別の機会に…
合計 12700文字
群集にVサインを掲げるチャーチル首相(ロンドン、1945年5月8日)
横ピース表
横ピース裏
顎にくっつけるパターン
指を狭めるパターン
指を口に当てる(別名:静粛)
指を立てて交差させる(別名:鬼) てぃ〜すでなくうぃ〜す
手を顔の近くで大きく広げる(別名:挙手)
頭の中心に両手を乗せる(別名:猿)
両手でピースを作るパターン(別名:ダブル)
両手を前に大きく広げる(別名:突き出し)
エッグポーズと呼ばれていた…
ニャンコポーズ(別名:猫)
ハート型を作る(別名:愛)
出典:20090728_pose_main
写真術初期のポートレートは、椅子やテーブルを使って、体を固定して撮影していたものが多い。
推測であるが、
ナポレオンの杖は、固定されていて、毎回これを持って同じポーズを取ったのかもしれない。
レンブラントの『夜景』も、数人ずつアトリエにやってきた人々が、角度を決めて取り付けられている鑓となる棒に合わせてポーズを取ったため、この絵に描かれている棒は、どれも同じ角度なのではないだろうか。
自撮りとSNSによる配信が写真に写る自己意識をを変えていく。ピースサインだけでなく、ハートや、ガッツや、いいね的なもの… 今後も変わり続けるだろう。ピースサインが出来て50年程度が経過、これからどうなる?!
アメリカドルに表されているプロビデンスの目
青山通り沿いにある国際連合大学本部ビル。13階層のピラミッドと頂上の三角形に囲まれたプロビデンスの目を暗示する設計となっている。
ホルスの目とRx symbol
お守りとして売られる邪眼グッズ
「やめて!」と他者の促す、接近を制止する手のポーズは、ゼスチャーなだけではなく、実際の行為である。たとえば、なにかがぶつかりそうなとき、我々は無意識に、このように手が出る。
ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ画「第一次世界大戦時の陸軍募兵ポスター」(1917年)
ガッツ・ポーズといわれるこちらのポーズも、最近の写真で多く見受けられる。起業系や店舗スタッフなど、やる気と結束をアピールするポーズとして使われている。
*私はこれが大嫌いです…
ちなみに、このポーズを「ガッツ・ポーズ」と呼ぶのは、往年のボクシング・チャンピオン、ガッツ石松さんが、バンタムのベルトを手に入れる試合に勝って、このポーズを決めたのに由来する。
『川栄李奈 2018年4月26日付Twitter「さまるんとアオちん 仲良しです」』のスクリーンショット
と、ピースサインを紐解きながら、身体とポーズについて考察してきましたが、もうわけわからない状況。
流行廃りでなく、目的が変わってきたというべき昨今です。