高卒は本当に高卒か

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人類に付き物の衣食住の貧困は、安っぽいユニクロやそれなりの食事や、安い住まいで確保されたように見えるが、やはり高い服や、美味しい食事やタワーマンションへの憧れはあろうし、紙屑と塵芥が有象無象として虚空を舞っているからこそ、存在の輪郭を現し格差を識別する位階秩序として高学歴を求め、それが新たな貧困の温床となっている。行き倒れて餓死することはない世の中だが、教育の貧困があるらしい。学びたいという欲は、食欲や性欲のような根源的な欲求ではなく、学歴を渇望する煩悩であるが、「卒業させてもらっている」のが教育の実態である。高卒の人は、だいたい高校を卒業させてもらっている。高校で高校の勉学など全うしておらず、むしろ退学処分が似つかわしいのに卒業させてもらっている。高卒の学力は中学レベルである。さて、それでは大卒の実態は高卒なのか、というと、そういう側面もあるだろう。本当に大学の学問を深く理解するのは難しいはずなので、あくまで学生レベルで表面的に「履修した」というアリバイを単位として与えている。基本的には卒業証書を与えるビジネスなので、それなりに理解した体裁を整えれば箔が付くのである。だから人類の知性はグレードアップしない。現代の科学者がニュートンより優秀であるとは言えない。せいぜい万有引力をわかったつもりになっているだけで、いくら箔をつけても、ニュートンより頭が悪い。それでも理数系であれば、ニュートンが「巨人の肩に乗る」というように、先人の業績に改善を加えていくことはできるので、(個人個人の知性が上がってなくても)科学を積み上げていくことはできる。たいした科学者でなくても、ちょっとした改善策を施して世の中をよくすることができる。人文系は、そういう積み上げができないので、ただひたすら進歩がないことが露呈されてしまう。高学歴化を進めても、卒業証書の枚数が増えるだけで、人類の頭の出来がよくなっていることはない。それなのに、見栄を張ることだけは一人前で教育のコストだけが重くなり、まさにバベルの塔と言うべきであり、その聳え立つ重力が奨学金などの形でひとびとを圧殺している。基礎学力が上がらないのに学歴だけ上がるという奇妙なことになっている。高学歴化によって底辺の底上げがされている、という言い方も出来るのだが、建設作業をしている中卒の親方の方が、ある意味、知性があるとも言えるし、むしろ手に職を付けることは、なんとなくわかったふりをして卒業証書をもらうのとは違って、誤魔化しの利かない本物の力である。何にせよ、結論的に言うと、人間の頭脳そのものが進化しないから、どうやっても限界がある。理数系なら(個人が進歩しなくても)先人の業績を改善することで前に進めるが、人文系は前に進めない。勉強しないよりはした方がいいが「わかったふり」というのは避けられない。世界がディストピアなのではなく、人間がディストピアである。勉強して学歴を上げても本当に知性の次元が上がっているわけではないので、実態は酔生夢死、アリバイ的であるのは避けられない。
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