あのハロウィンの夜から数日が経った。
スリザリンの継承者を名乗るものは目立った動きを見せず、襲われたのが嫌われ者のフィルチの飼い猫ということもあって、生徒たちの好奇心が恐怖を上回り始める。
そこかしこでスリザリンの継承者や秘密の部屋の怪物について熱心に語り合い、あまつさえ、それらを発見してやろうと意気込むものまで現れる。
全く以って笑止千万、とエヴァはたった一人で校舎の片隅のトイレへと足を運ぶ自分を棚に上げる。
このトイレは距離が遠いこともあって普段から使用するものも少なく、鬱屈した住人さえ我慢できるのならば、非常に居心地の良い場所だ。
半年以上の時間を費やしたが、あの気難しい住人ともそれなりに会話できるようになった。
エヴァは昨年度の苦労を思い返しながら女子トイレの扉を開き…そして閉めた。
「ちょっと待って!誤解だよ。」
エヴァが扉を閉めると、すぐにトイレの中からハリーの声が。
一度視線を上げ、壁にかかったプレートを確認する。
間違いなく女子トイレ。情状酌量の余地はない。
立ち去ろうとしたエヴァの手首を、飛び出してきたハリーが必死に掴む。
「違うよ!これには事情があるんだ!」
「放してください、ハリー。あなたが事情を説明する相手は私ではなく、マクゴナガル教授です。」
「違うのエヴァ、ハリーは…」
「ロン!」
突然発せられた大声にハリー達は飛び上がった。
「そこは女子トイレだ!君たち男子がいったい何を?」
階段を下りてきたパーシー・ウィーズリーとロンの聞くに堪えない言い争いが繰り広げられている間にエヴァはハーマイオニーからことのあらましを伝えられた。
どうやらハロウィンの夜に廊下に溢れていた水の出所を探していたらしい。
「エヴァはどう思う?継承者と怪物について。」
パーシーが立ち去ったのを確認してハーマイオニーが訊ねた。
「分かりません。まだ情報が少ないので。」
そう口にするが彼女の中ではすでに数十もの仮設が湧いては消えるのを繰り返している。
まず怪物の正体。
メドゥーサ、バジリスク、ヒュドラ、アンピプテラ。
少し考えるだけでも4体。
調べればその数はさらに増すだろう。蛇に関連する怪物はかなり多い。
次に彼女が考えるのは継承者。
まずはロックハート。今学期になって外部から来たのはあの新任の教師のみ。
去年の例もあるので念入りに確認したが、ロックハートにこんな大それた事をなす能力がないことは彼女でなくとも容易く理解できた。
もっとも、このことはハーマイオニーには話せないが。
今学期が始まってすぐ、エヴァは友人があの色男に妙な好感を抱いていることにすこし頭を悩まされた。
継承者が生徒の中にいるということは、あり得るか?
エヴァはこの可能性を考察の余地があることを理解した上で一時放置することにした。
生徒の中にいるというのであれば、すでに校長が見つけ出しているはずだ。
あの融通が利かない襤褸切れはこの学校に入学してくる生徒全員の頭にかぶせられ、その脳内を余すことなく覗き見ているはずなのだから。
「私に考えがあるの。」
ハーマイオニーは声を潜めて言った。
「ポリジュース薬よ。あれさえあればマルフォイに怪しまれることなく近づける。」
ポリジュース薬。他人の姿へと変身することのできる魔法薬。確かにそれがあればスリザリンの談話室へ侵入することも不可能ではない。
「でも、材料はどうするんですか?」
「大丈夫。ちゃんと考えてあるわ。」
その方法が規則の範疇に収まることを祈るばかりだ。
エヴァは自信たっぷりなハーマイオニーと別れ、廊下を歩く。
いつもより人通りが少なく、はるかに歩きやすい。エヴァは誰にも邪魔されることなく、例の廊下へとたどり着いた。
すでに脅迫文は消され、一目見ただけでは先日あのような惨事が起こったとは想像もできないだろう。
そんな廊下に一人立ち尽くす人影が。
「あれは。」
その人影は彼女もよく知る人物だ。
次席先輩、または次席野郎。
2年前、クリスに敗北を喫して以来、打倒ウィリアムズに燃えるホグワーツきってのエゴイスト。
「こんにちは次席先輩。大丈夫ですか?」
突然声を掛けられても慌てることなく振り返るその態度は余裕の表れか。
「ああ、少し考えこんでいてね。」
その言葉を聞いた時点でエヴァは彼を心配するのは止めた。
アルフィーに次席野郎にクリス、さらにその他大勢の生徒たち。
皆が皆、不謹慎という言葉を体現したかのような遠慮のなさで城内を歩き回っている。
「この壁の文字。確かこれくらいの高さだった。」
次席野郎はこの件に関して、エヴァとは異なるアプローチを試みていた。
彼女は継承者や怪物の正体を考えているのに対して、この青年はその手段からこの騒動の根底へと手を伸ばしている。
「怪物にあそこまできれいな文字が書けるとは思えない。あの文字は間違いなく怪物を操る継承者が書きなぐったものだ。」
エヴァはその発言から次席野郎が疑問に感じている点についておおよそ推測できた。
あの量の血をどこから用意したのか?
壁に書かれていた文字にはかすれたような跡は見られなかった。つまり、壁に傷口を押し当てて絞り出したようなものではなく、ある程度まとまった量の血液を用意していたとみるのが妥当。
どんな生き物から血をとったのかは分からないが、まさかこの廊下で血をとったとは考えにくい。
別の場所で殺して、血液をバケツにでも入れて運んできたのだろう。
そこまで考えて、一度目を閉じる。するとエヴァの脳内にハロウィンの夜と寸分違わぬ光景が浮かび上がる。
視覚的なイメージは記憶に残りやすい。さまざまな記憶術で用いられる基礎的な技術。
完璧に再現されたイメージの中で彼女は改めてあの夜の脅迫文を読み返す。
きちんと大小がそろえられた文字からは几帳面で繊細な印象を受けるが、力強い文字の書き始めからは強靭な意思を感じさせる。
人間はものを書く際は無意識に自分の目線に合わせて書くといわれているが、実際に文字が書かれている位置はかなり高い。
この文字を書いたものは明らかになんらかの意図をもってこの位置に書いたはず。
エヴァは少なからずこの文字を書いた者を畏怖していた。
似通っていた。
10年以上の時を経て彼女は学んだ、彼ら、もしくは彼女らは、この世界にかなり頻繁に現れると。
反社会性人格障害。俗にサイコパスと呼ばれる者たちは一般的には医師やCEO等、非情な決断を迫られる職に就いていることが多い。
むしろそういった業界ではそうでなくてはならない。
医師たちはより多くを救うため、トリアージを行わなければならないこともある。
CEOは無論組織のトップに立つ以上、絶対に負けるわけにはいかない。
サイコパスと言われる人間たちは反社会性という言葉に反して、かなり社会的に上位の立場に位置することが多い。
そして、サイコパスの中でも実際に人を殺めるに至った者たちはサイコキラーと呼ばれ、一般的なサイコパスと区別される。
一見理性的に見え、思慮深いが、その腹の底では常人には理解の及ばない情念が渦巻いている。
エヴァはあの壁に書かれた文字から薄っすらとだがまぎれもないサイコキラーの匂いを嗅ぎだしていた。
記憶の中の光景だというのに、その文字を見た瞬間から感じる己の後ろに何者かが佇んではいないかと確認せずにはいられなくなるほどの緊張感。
常に首筋に冷たく鋭利な刃を突き付けられているような感覚に思わず首が竦む。
彼女は、自分が周到に練り上げられた罠の中に足を踏み入れたのを、理屈ではなく直感で理解した。