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かのこ
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愛が重たいは誉め言葉と彼は肩を竦めた

愛が重たいは誉め言葉と彼は肩を竦めた - かのこの小説 - pixiv
愛が重たいは誉め言葉と彼は肩を竦めた - かのこの小説 - pixiv
30,206文字
人類最後のマスターじゃありません!
愛が重たいは誉め言葉と彼は肩を竦めた
今回書き終らないと震えました。何時もより文字数が大増量してます。そしてみなさんサリエリさんは好きですか?私も好きです!これは人類最後のマスターに似てしまったばかりにコナンキャラたちに勘違いを振り撒いていく女の子の話。副題初恋はチョッコラータのように甘く苦い。
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2019年6月15日 09:08

我はサリエリではないのだと彼は痛みを堪えながら笑った。消えることなき燎原の火に焼かれアントニオ・サリエリは死んだ。ただの人間だったサリエリは最早この世には居ないのだ。

悪意ある風聞に、中傷に、絶望に殺されたサリエリは二度と戻って来ることはあるまいよ。後に残されたのは僅かなサリエリの燃え滓だ。死だ、死神だ、灰色の男だ。

そんな我をお前は望むというのか。サリエリでさえも捨てたこの私を。ならば今度こそ共にあろう。例えお前が闇の淵に沈もうとも離れはしない。我はそう言うものなのだから。

サリエリが好んで口にしたチョッコラータのように甘やかな声音で灰色の男は笑った。



それは世界的な音楽家の失踪から始まった。なんでもモーツァルトの再来と名高い作曲家であるアマデウスという男の友人であったその人は、類い稀な才能を持った天才であった彼を羨み、嫉妬に狂って毒殺を謀るも失敗に終わり。

罪の意識から自殺を計ったが一命を取り止め、ある日忽然と収容先の病院から姿を消したのだという。その人の名を私は前から知っていた。消えた音楽家の名はサリエリ。

それは奇しくも神に愛された天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを殺害したという偽りの風聞に終生苦しめられたアントニオ・サリエリと同じ名を持っていたのだ。



きらきら星が聞こえた気がしたんだ。過ぎ行く春を惜しむような雨の間に間に聞こえた、掻き消されそうなほどに小さな声。

通り過ぎかけた路地裏を覗き。壁に背中を預けて望洋と地を見下ろしながら、誰かの眠りを守るようにを口ずさむ彼を見つけた。

細身の身体に合わせた仕立ての良いスーツは何時から路地裏に居たのか水気を帯びて重たげだ。無造作に降ろされた髪が項垂れた顔を隠している。

不意に此方の気配に気づいたのか緩慢に顔が上げられ血のように赤い瞳が私を射抜いた、そんな気がしたんだ。

顔の整った男だった。この世に溢れるあらゆる苦しみをすべて味わってきたような、暗い翳りを色香に変えた。そんな人。

視線が交わったそのとき私が居る反対方向。彼の背中越しにカメラを構えた外国の記者が叫びながら仲間を招き寄せている姿に思わず眉が跳ねた。

『こっちだ!やっと追い詰めた!サリエリを見つけたぞ!!お聞かせ下さいシニョーレ!貴方は本当にアマデウス氏殺害を試みたのですか!?だとしたらいまの御心境は?アマデウス氏を殺し損ねたいまのお気持ちを我々にお聞かせ下さい!!』

それはなんだか逃げ場を無くした獲物を前に舌舐めずりするハイエナにも似ていて、声をかけようとしたとき彼は頭を抱えて苦し気に顔を歪めた。

『我はサリエリにはあらず!アントニオ・サリエリは死んだのだ!!サリエリはただの人間だった!どれだけ名声があろうとも、どれだけの教え子に尊敬の念を抱かれようとも、痛みに呻く心を持ったごく普通の人間だった!それを貴様たちが殺したのだ!!』

此処に居るのはサリエリの残滓であり、この地上に残されたサリエリの影法師に過ぎんのだ、ならば我は何者だ、我はなんだ?サリエリなくして存在しえなかったはずの我は何故生きているのだッ!?

『それは罪の告白と捉えてもよろしいかシニョーレ・サリエリ!!おい!書き留めろ!今すぐ!』

興奮を露にしてカメラのシャッターを切ろうとした記者に、立夏は肩から下げていたエコバッグから最近隣に引っ越してきた矢鱈に良い声の男から押し付けられ。

もとい引越しの挨拶に寸胴一杯分贈られてきて友人たちに分けるために持っていた麻婆豆腐のタッパーを取り出して、勢い良く踏み込むように前に出ると記者の顔面に押し付けた。

その麻婆豆腐はグランドオーダーユーザーには毎度お馴染み秦山の麻婆豆腐レベルの辛味を誇っている。

見事にのたうち回り悪態を捲し立てる口にもうひとタッパー麻婆豆腐に溺れて溺死しろとばかりにだばだばと流し込み、私は固まる彼の手を引いて走り出す。

「ゾンビブレイドの役作りで鍛えた脚力を発揮する時が来た。という訳で彼らがスタンしているうちに逃げるとしよう!此処からなら私の家が近いから着いて来てッ!!」

「君は一体何者なんだシニョリーナ。何故行きずりの我を助けるのだ!?」

戸惑いながら訊ねてきた彼に。思わず繋いだ手に力が込もる。氷細工の彫像のように冷えきって色のない指先を握って、私は笑って貴方にとっての正義の味方になりたい女の子だよと告げたのだ。

記者を撒くために幾つもの路地を通り、その途中で持っていた傘は無くしてしまって。

すっかり全身が雨に濡れたところでマンションに返り着くと出迎えたジャンヌがアンタ傘はどうしたのよと慌てたようにタオルを持って来ると。

後ろで所在無さげにしている彼に気づき額を覆って呻き出した。

「まったくアンタの拾い癖どうにかならない訳?」

「ごめんジャンヌ。」

アンタのことだからあれこれ言ったところでソイツを元居たところに返す気がないって言うのは分かってるわ。

風呂は沸かしてあるからソイツを入れて来なさいと親指で浴室を示すジャンヌに、立夏は顔を明るくして頷くと彼の手を引いた。

「濡れた服は脱いだら置いといて貰って大丈夫です。スーツだからクリーニングに出しておきますね。お風呂から上がる頃に着替えを置いておきますからゆっくり浴槽に浸かって来て下さい。」

雨に濡れて冷えきって居るからきちんと身体を温めて。イタリアの人だから浴槽に浸かることには馴染み深いと思うんだけれど。

入り方は分かりますかと聞いた立夏に何故我がイタリアの出身だと分かったと彼は聞いた。

「理由は幾つかあるけれど。強いてあげるなら記者の人たちが貴方を『シニョーレ』と呼んだからかな。確かイタリアでの男性の敬称ですよね?」

それにシニョリーナって私を呼んだので。だから貴方はイタリアの方かなって思ったんですと立夏は彼の疑問に答えた。

「なるほど。確かに我はイタリアの出身だ。仕事柄オーストリアにいることが多いのだが、咄嗟のときはイタリア語が飛び出すことがあるのだ。」

ジャポーネ式の風呂の入り方の知識はあるから問題はない。だが先に風呂に入るのはお前が先だシニョリーナ。身体を冷やしているのはお前も同じこと。

「これぐらい平気ですよ?」

「君は女の子だろう。自分の身体を労ってやりなさい。こんなに冷えてしまっているのだから。」

そう言って彼は立夏の頬を撫で、耳の奥できらきら星を聞いた気がしたのだ。戸惑いに固まった彼に立夏は赤くなった顔を見られまいと持っていたタオルを押し付け、言葉に甘えて先に入らせて貰いますねと背中を向けた。

だからこのとき彼は知らずに居たのだ。立夏が泣きそうな顔で笑っていたことを。交代で風呂に入り立夏の同居人が貸し出した白いシャツと細身のジーンズを着て。

首からタオルを掛けながら彼は上がったことを立夏に伝えるため姿を探していると、待ち構えていた青い毛並みのウルフドッグが着いてこいとばかりに尾で脚を叩きダイニングに彼を案内した。

「ちょうど良かった!」

ナイスタイミングと立夏はキッチンから声を掛けた。キッチンから漂う甘い香りに気づき彼は何処か喜色を瞳に滲ませた。

立夏はイタリアでは確かホットチョコレートのことを『チョッコラータ』と言うんですよねと笑みを浮かべた。

幾つかホットチョコレートにはレシピがあるが今回立夏が用意したホットチョコレートは人から教わったもので。立夏にレシピを教えた男性はフランスのショコラティエであるピエール・エルメが考案したものだと言っていた。

使用するものはビターチョコレートとココアパウダー。砂糖と牛乳と水。小鍋にココアパウダーと砂糖を入れて泡立て器で混ぜ、水を加えて溶かしたら牛乳を入れて温めていく。

温まる頃に刻んでおいたチョコレートを投入して鍋を火から降ろす。電動ミキサーでかき混ぜながら投下したチョコレートを溶かしてもう一度鍋を弱火で温めれば完成だが。

立夏にレシピを教えた男がしていたように仕上げにとある物を入れて、ダイニングテーブルに案内した彼にホットチョコレートを注いだマグカップを差し出した。

「時期的には季節外れかもしれないけれど。身体を温める飲み物っていうとこれしか頭に浮かばなくてさ。その昔レシピを教えてくれた人が私に作ってくれたんだ。」

マグカップに口を着けた彼は微かにチョコレートのなかに混ざる柑橘の香りに気づく。オレンジリキュールかと問うと立夏は当たりと笑みを浮かべた。

丁寧に作られたそれは口当たりが良く甘いなかに潜む苦味さえ心地が良い。けれど。この日初めて口にする筈のホットチョコレート。チョッコラータは。何故だか彼には酷く懐かしさを覚えさせ。

耳の奥なにかを思い出させるようにきらきら星が鳴った気がした。

人心地が着いた頃を見計らい。ジャンヌがソイツを追いかけ回していたゴシップ誌の記者たちだと思うけれど。

怪しい男たちがこのマンションのエントランスに現れたらしいから警察に通報しといたわよと伝えに来ると立夏は改めて彼に訊ねた。

「シニョーレ。貴方のことはなんと呼べば良いかな?」

「ゴシップ誌の記者たちはアンタのことをアントニオ・サリエリと呼んでいたわ。」

その名前には聞き覚えがあるわ。日本ではまだあまり知られていないけれど。『とある女性に捧げるピアノソナタ』っていうアルバムがクラシックでは異例の売り上げを記録した作曲家であり。

欧州でモーツァルトの再来なんて呼ばれてる音楽家アマデウスを嫉妬に駆られた末に毒殺しようとして失敗して罪の追求を逃れようと自殺したことで知られる男の名よね。

「収容された病院から消えたって言うんでヨーロッパ中のメディアが挙って探し回っているそうじゃない。」

「ゴッドリープ!!憎しみ深き我がモーツァルトよ!!だがサリエリは奴を毒殺などしてはいない!!」

そう、我が思いたいだけかもしれないがな。今となっては最早分からないのだ。アントニオ・サリエリは死んだ。誰に胸中を語ることなく自らその命を絶ってしまったのだから。

「アンタはサリエリではないの?」

「この肉体は間違いなくアントニオ・サリエリのものだった。だがこの肉体に宿っていたサリエリの精神は既にない。我はアントニオ・サリエリを主人格とした副人格とでも言うべきものだ。サリエリにはこう呼ばれていた。『灰色の男』と。」

「アントニオ・サリエリと灰色の男か。そのサリエリって男もなんでまた『灰色の男』なんて名前をアンタに着けたのかしらね。」

「確かモーツァルトにレクイエムの作曲を依頼をした男の人のことだったよね?」

「左様。あるとき神の寵愛深き希代の天才音楽家モーツァルトのもとにレクイエムの作曲を依頼に一人の男が現れた。」

多額の前金を支払い立ち去った男を、その装束から灰色の男と呼んだモーツァルトは彼の者こそがあの世からの使者。死神であると恐れた。

「そして依頼されたレクイエムこそ自身の為のものであると言う強迫観念に襲われたとされる。」

「いまではモーツァルトに作曲を依頼した人間はヴァルゼック伯爵っていう奴で、自分の妻の慰霊祭で披露するレクイエムをモーツァルトに作らせたことや、そのレクイエムを自分名義で発表しようとしていたってことまで分かっているけれどね。」

当時の人々の間では灰色の男こそサリエリであると根拠もない噂話が流れていたわ。モーツァルトが死ぬ間際に毒で死ぬんだって怯えていたこともあってか、サリエリが音楽の才を羨んでモーツァルトを毒殺した。

「つまりサリエリこそがモーツァルトの死神であると人々は囃し立てたそうよ。」

「根拠のない風聞だ。だが人々は信じ、サリエリがモーツァルトを殺したのだと言われなき罪をサリエリに押し付けたのだ。今回も同様にな。」

自嘲するように笑った灰色の男に立夏は教えて欲しいと告げた。何故彼が、サリエリが死ぬことになったのか。私は知りたいんだ。

サリエリに何があったのかすべてと強い光を宿した立夏の琥珀色の瞳に灰色の男は寸の間魅入られた。

我はアントニオ・サリエリではない。だからこそサリエリの胸中は推し量ることしか出来ない。だが敢えて語ろう。サリエリに何があったのか、すべてを。

灰色の男はアントニオ・サリエリの肉体に宿った人格だ。サリエリを主人格にした副人格こそが灰色の男。サリエリは本来双子としてこの世に生まれ出る筈だった。

だが母の胎内に置いて双子の片割れはもう片方の子供に吸収され、この世に生を受けたのは後に両親にサリエリと名付けられる彼だけだった。

暫くしてサリエリが齢八歳のときに両親は彼が双子として生まれる筈だったと告げるとサリエリは知っていると言った。だって彼は僕のなかに居るからと。

サリエリの肉体には二つの人格があった。サリエリ本人と、サリエリが『彼』と呼ぶ副人格だ。

副人格が本当に母の胎内のなかでサリエリに吸収された双子の片割れだったのか。或いは双子として生まれる筈だったと聞かされた幼き日のサリエリが産み出してしまった人格だったのか。

それは今となっては知るすべがない。だが幼いサリエリにとって『彼』は仲の良い兄弟であり、切磋琢磨し合う友人でもあった。

サリエリの両親は欧州では広く名が知れた楽団のヴァイオリニストと指揮者だった。常に世界中を飛び回る両親は多忙であり。

幼いサリエリは年老いたイタリアに居る母方の祖父母宅に預けられて育った。祖父母の家はイタリアの郊外。何処までも続く田園は牧歌的ではあるが、残念ながら同じ年頃の子供の数は乏しい上に大体の子供は農家の子供で。

親の手伝いに明け暮れる彼らとサリエリは生活時間が異なることもあって幼いサリエリにとって遊び仲間と言えば『彼』だけだった。

だが周りの大人たち、取り分けて祖父母はサリエリのなかに居る『彼』を疎んでいた。祖父母は信心深い質であり迷信深くもあった。彼らにとって『彼』は自分たちの孫を惑わす悪魔のように思えた。ともすれば死に誘う死神だと。

だから彼らは絶対に『彼』に名前を着けるなとサリエリに言い含めていた。名前を着けることで力を与えてしまうと思ったのだろう。だがサリエリはこっそりと『彼』に名を与えていたのだ。髪の色からとって『灰色の男』グリジオとな。

サリエリめ。肉体がお前のものであるのだから我を髪色から灰色の男と呼ぶのならばお前とて灰色の男ではないかと良く笑ったものだよ。

我々は両親の影響もあるのだろう。音楽というものにのめり込んだ。なかでも作曲に興味を惹かれて我々は互いに曲を作っては良く批評しあった。

思えば子供らしくない子供であったな。我も、サリエリもな。だが我々はそれほどに心底魅入られてしまっていたのだ。音楽という無限の輝きを放つ素晴らしきものにな。

だがサリエリが十七歳になり楽団を辞めて講師を勤めることになった両親の勧めもあって。彼らが住まうオーストリアはウィーンの音楽学校に進学したことで我々を取り巻く環境が変わる。

周囲のものが二重人格である我々を恐れたのだ。温厚なサリエリに対して攻撃的な我。保守的なサリエリに対して先進的な我というように我々は正反対な性格をしていた。

人と交わることをよしとしたサリエリと人嫌いの我ではサリエリの方が好まれることは分かっていたのだ。

なによりも潮時だと思った。かねてより祖父母からサリエリのなかに我がいることを知らされていた両親にサリエリは人格の統合を勧められていた。

サリエリは人格の統合を拒んだ。我は、灰色の男は同じ肉体に宿った別の人間なのだと言って。

その言葉が聞けただけで我は満足だった。両親に名すら与えられず生まれることが出来なかった我にサリエリは名を与えてくれた。慕わしい兄弟でありかけがえのない友であると言ってくれた。

だから我はサリエリの肉体奥深くに意識を沈めることにしたのだ。二度と目覚めぬようにな。少なからずサリエリを残していくことに不安はあった。

だがウィーンの音楽学校でサリエリは数多の友に囲まれた。なかでもアマデウスという切磋琢磨し合う友をサリエリは得ていた。

破天荒極まる上に人格的に些かながら難がある男だったが、サリエリはなにかとアマデウスの世話を焼き。楽しげにお互いの作曲を眺めあって笑っていた。

だから我はアマデウスにサリエリを任せた。だがそれは我の過ちだったのだと後に知る。

時折深い意識の底に沈んだ我はサリエリの感情を感じることがあった。新たな曲を産み出す楽しみや、音楽家として大成したサリエリが弟子に囲まれて感じた喜びは眠っていた我にも届いた。

だがあるときからサリエリの苦しみが届くようになったのだ。最初はサリエリが何に苦しんでいたのか分からなかった。細切れに届くサリエリの思考で我は知った。サリエリが友であったアマデウスを疎んでいるという言われなき風聞に苦しめられていると。

事の始まりは古くから格式ある国際コンクールでサリエリとアマデウスの二人の作曲に下された評価だったという。コンクールではアマデウスが優勝し、サリエリは二位になったのだが。

これ以降サリエリは長らくコンクールで二位になり続けた。とは言え二位に甘んじ続けることをよしとするサリエリではない。彼は技量をたゆまずに磨いたが優勝を逃し続けた。

だが決してアマデウスに恨みを抱いては居なかった。勿論奴の才に強い羨望はあっただろう。だがサリエリにとってアマデウスは言わば目標だった。遥かな高みにあるアマデウスに何時か追い付く。

それこそが孤高の天才だったアマデウスの友としての自分の務めだと思っていたのだ。だが周囲はそう見てはくれなかった。

サリエリが努力すればするほどに周囲はアマデウスにサリエリが嫉妬していると囃し立てた。そんなときにとある楽団からサリエリに作曲の依頼が来た。

元は両親が在籍していた楽団だ。サリエリは喜んで作曲した。だが納期通りに送付したにも関わらず、楽団からはいっこうに依頼料が入らない。

とは言え金に拘るサリエリではない。自分の曲が気に入らなかったのだろうと落ち込みはすれど、依頼しておいて踏み倒していく依頼人はごくたまに居る。

そう言う類いの輩だったのだろうと考えていた。だがサリエリの弟子が楽団のコンサートに行き、楽団がサリエリではなくアマデウスの作曲したものを演奏していたと駆け込んで来たのだ。

楽団はサリエリだけでなくアマデウスにも作曲を依頼し、より優れた方を演奏することにしたのだとコンサートで言っていたそうだ。それはサリエリの作曲が公衆の面前でアマデウスよりも劣ると言われたようなものだ。

それはサリエリの誇りを傷つけ踏みにじるようなことだった。その時のサリエリの嘆きは今でも覚えている。サリエリは失意の底にあった。

そんなとき音楽学校時代の友人たちが、同窓生を集めてパーティを開いた。それぞれに家族や友人であったり、或いは弟子まで呼んだ大きなパーティだった。そこにはアマデウスの姿があった。

周囲は妙に気遣って距離を開けさせていたから話を交わすことはなかった。ことが起きたのはアマデウスがボーイが運んできたワインを口にしたときだ。ワインを飲んだ奴が突然苦しみだしたのだ。

サリエリは咄嗟に駆け寄って原因がワインにあると見て奴の喉に指を入れてワインを吐かせ、直ぐに病院に運び込んだ。そこで判明したことは極めて毒性の高い蛇の毒がワインに混入されていたと知ることになる。

もっともアマデウスが苦しんだのは別の理由からだというが詳しいことはサリエリには分からない。何故なら病院に記者が詰め掛けてサリエリを取り囲み、アマデウスを毒殺しようとしたのではないかと糾弾したからだ。

世間ではサリエリがアマデウスを毒殺しようとしたと見られていたのだ。サリエリは毒殺を否定した。しかし世間はサリエリの言葉を信じなかった。あまつさえ耐え難い風聞だと弟子に漏らした言葉さえ罪の告白だと詰った。

サリエリは日に日に増していく悪意ある風聞に傷つき疲れ果てていた。あるとき深い意識の底に居た我は目を唐突に覚ました。痛む頭に手を当て驚きに目を見開いた。肉体の主導権がサリエリから我に移っていたからだ。

我は咄嗟にサリエリに話し掛けた。これはどういうことだと。だがサリエリからの答えはない。それどころか肉体の何処を探してもサリエリの意識が見当たらなかった。

そんな筈はないと震えながら辺りを見渡し、そこがサリエリの邸宅の書斎であること、腰掛けたソファアの周りに睡眠薬が無数散らばっていることに気づいた。

猛烈な吐き気に口許を押さえながら倒れた我は悟った。サリエリは風聞に、悪評に、蔑みに心砕かれ。自ら命を絶ったのだとな。

だが我からすればサリエリは殺されたのも同然だった。アントニオ・サリエリは殺された。言われなき罪に、悪意に。なによりもアマデウスの才に殺されたようなものだ。

だが世間はサリエリが、我が病院に収用されるとより声高にサリエリがアマデウスを殺そうとするも失敗したことで罪から逃れるべく自殺したのだと笑った。

我は怒りに駆られた。サリエリを死に追いやったすべてに。誰よりも側に居たにも関わらずサリエリを死なせた我自身にな。

そんな中で記者たちが病院に入り込み、患者たちに我の容態を聞き回っていることに気づき。密かに収用されていた病院を抜け出すと空港で適当な国のチケットを買い飛行機に乗り込んだ。

行き先は何処でも良かった。サリエリを追い回していた欧州のメディアの目がない国ならば。だがこの国でもしつこい記者に追い回され。シニョリーナ、お前に窮地を救われたのだ。

「これが我が知りえる限りでサリエリの身に起きたこと。死の経緯だ。」

何時しか項垂れていた灰色の男は顔を上げて目を見開いた。その少女は泣いていたのだ。

怒りを滲ませた琥珀色の瞳から大粒の涙を拭うことなく流しながらサリエリの身に起きたすべてのことに怒り、そしてサリエリの死を悼み泣いていた。

「そうかシニョリーナ。お前はサリエリのために泣いてくれるのか。」

お前は優しい娘だと労るように笑う灰色の男に私は優しくなんかないと立夏は前髪を強く掴み項垂れた。

本当に優しい人間だったら私はもっと早くに『あの人』を取り巻く環境の変化に気づくべきだったんだと立夏は苦し気に泣きながら呟く。

「シニョリーナ?」

「私は取り返しがつかないことをした。だからという訳じゃないけれど二度も失うような失態だけはしない。貴方を私に守らせてくれないかグリジオ。今度こそ何者からも守り通すと。貴方の側に居ると誓うから。」

日本での滞在先がないことから立夏たちの住むマンションに逗留するように勧めて。客室に通したあと部屋の前で待っていたジャンヌが立夏に問う。アンタの御人好し具合は私が良く知っているわ。

「アンタは困っている人間には手を貸すわ。でも今回は本当にそれだけなの?アンタは何時だって誰かのために怒ってきた。だからアンタが怒りを見せたことには驚いていないわ。」

でもあれは話を聞いているうちに感情移入して怒ったなんてものじゃなかった。あれはそんな生半可なものじゃない、血が通った激しい怒りだった。

「まるで愛する人間を殺されたみたいな強く明確な殺意があのときのアンタの瞳にはあったわ。アンタは。」

アントニオ・サリエリのことを知っているのねと半ば確信しているように訊ねたジャンヌに立夏は手のひらに目を落として自嘲した。

これでも憧れてたんだよ六月の花嫁にさ。叶えてくれるってあの人は言ってくれてたけれどそんなことも忘れてしまっていたのかな。 それでも私はあの人に忘れられたって構わなかった。

あの人が生きてくれたらそれだけで私は幸せだったんだから。

「こうなる前に私はあの人に会うべきだった!会って、手を握って、世界中を敵に回しても私は貴方の味方だって、貴方を愛している人間が、信じている人間はいるんだって伝えれば良かったんだ!」

「立夏?」

「そのことにもっと早くに気づけば良かった。馬鹿だよね。そんなことすら思いもしなかったんだからさ。何度大切な人を亡くせば私は学習するんだろう。馬鹿だ、私は大馬鹿だ!!」

泣きながら笑う立夏を腕に引き寄せ、アタシは詳しい事情はなにも知らないわ。でもね、言わせて貰うけれどまだあの男は生きているのよと告げてジャンヌは立夏の頬を手で挟んだ。無理して笑うぐらいなら泣きなさいなと溜め息を吐き出しながら。

「あの男は、灰色の男グリジオは生きている。ならばせいぜい後悔しないように足掻くことです。」

アンタはそう言うのが得意でしょと笑うジャンヌに立夏は涙を腕で拭って笑ってみせた。多分ジャンヌにも沢山手を貸して貰うことになるかもしれないけれど助けてくれるかな。

「アンタだけじゃ心許ないもの。仕方ないから手を貸してあげますよ。一人で抱え込まないで周りを頼りなさい。アントニオ・サリエリのようになにもかも抱え込んで押し潰されてしまないようにね。」

「ありがとうジャンヌ。だったら先ずはご飯にしないと。」

「こんなときに?」

「こんなときだからさ。」

立夏は意識して明るく笑う。手を握って引き寄せたときグリジオはかなり痩せていたみたいなんだ。だから沢山ご飯を食べて貰って英気を養って貰わなくちゃ。

「イタリア生まれの人間は案外料理に厳しいわよ?」

「知ってる。絶対に味に妥協しないものね。でも頑張るよ。色々とさ。」

よし先ずは冷蔵庫の食材を確認しなちゃと張り切る立夏にジャンヌはやっとらしくなったわねと笑う。もっともあれは空元気かもしれないけれど。



立夏という少女との共同生活は初日こそぎこちないものだったが案外悪くはなかった。それは立夏が灰色の男を理解しようと努めていたからかもしれない。

灰色の男が静穏を好むことを知ると出来るだけ物音を立てないように。甘いものを好むと知ると口寂しさを覚えたとき小腹が空いたから一緒に食べようと然り気無く甘味を差し出したり。なにくれとなく気遣い続けた。

もっとも共同生活をしていくうちに存外少女の息遣いが感じられる物音が好ましく思えたから。そこまで物音を殺さずとも構わないと伝えていた。

甘味に至ってはあれこれと味の良し悪しを少女と語り合うことが楽しみになった。思えば灰色の男にとって初めてのことだったのだ。誰かとこのように触れ合うことも。誰かと話を交わすことも。

与えられた部屋でピアノに向き合い書き続けた楽譜から顔を上げると目頭を軽く指先で摘まむように擦った。

舞台監督をしているという立夏の友人が歌のレッスン用にある日突然運び込んできたというグランドピアノに指を置き、楽譜通りに奏でられた旋律に頷き椅子から立ち上がり肩を回した。

再び彼が作曲をしようと思ったのはふとしたときに口ずさんだ曲を立夏がもう一度聞きたいと言ったからだ。即興ですらない戯れに奏でた曲だった。

だが立夏が貴方の曲が聞きたいんだと目を輝かせながら告げたことに僅かに燻っていた音楽に対する意欲が焚き付けられた気がした。

戯れに奏でた曲でこのように笑みを浮かべるなら本腰を入れて作り上げた曲にはどのような顔をするのだろうかと興味が湧いた。思えば自分が誰かのために曲を作ることなどサリエリ以外では初めてだった。

小休止に楽譜をピアノに置き部屋を出る。僅かな疲労を訴える身体で居間に向かうとローテーブルに楽譜を広げながら悩む立夏の姿があった。

楽譜に惹かれて彼女が座るソファの背凭れに手を置き、後ろから彼女の手にある楽譜を一枚抜き取った。そこで立夏はようやく彼に気づいたらしい。

「グリジオ?」

「モーツァルトか。日本では確かきらきら星変奏曲と言われていたか。」

「ごめん。貴方には複雑だったかな。」

「作曲家には思うところはあるが曲に罪はない。見たところ随分と古い楽譜のようだが?」

立夏は膝に置いていた台本を見せた。今度子供向けの音楽番組に出演することが決まったんだけれど。番組ではゲストの出演者が楽器の演奏にチャレンジすることになっていてさ。

私はピアノの演奏をすることになったんだ。その言葉に彼女がシャドウボーダー・セキュリティの専属モデルとして働いていると聞かされたことを思い出す。

「演奏する曲はこっちで決められるからそれで昔使っていた楽譜を引っ張り出して来たんだよ。」

「お前はピアノが弾けたのか?」

「弾けるのはこの曲だけだよ。この曲だけ練習を重ねて覚えたんだ。もう随分とピアノを弾いていないから今も弾けるかは分からないけれどね。」

「ならば我がピアノの指導をしよう。もっとも我の指導は厳しい。それでも良ければだがな。」 

立夏は練習に付き合ってくれるのかと目を丸くした。言外に意外だと告げる立夏に生活費の代わりだと灰色の男は肩を竦めた。立夏はそれなら甘えさせて貰おうかなと笑う。

「お前にピアノの指導を行った人間はいまどうしている?」

知ることが出来るなら指導を行った人間から立夏の演奏の癖を知りたいと灰色の男が訊ね、彼女の瞳が微かに揺らいだことに気づく。

立夏は古びた楽譜を指先で撫でもうその人は何処を探しても居ないんだと苦笑した。

「その人は死んでしまったから。だからもう二度と会えないんだ。会いたくても彼はもうこの世にはいない、いないんだ。」

何処か自分自身に言い聞かせるようにあの人は死んだんだと楽譜に目を落として繰り返した立夏の腕を灰色の男は掴む。

「どうかしたかなグリジオ?」

「お前は、」

その男を愛していたのかと口に仕掛けて掴んでいた手を離した。何故自分は彼女の手を掴んだのだろうか。まして指導した人間が男であることなど彼女は言っていなかった。

にも関わらず自分はその人間が男だと思い、胸が焼けつくような嫉妬を感じたのは何故だ。ジリジリと胸の端々を焦がして広がる嫉妬の焔に彼は戸惑う。

この少女は愛らしい娘だ。それは人嫌いの気がある灰色の男も理解している。感情豊かで愛嬌があり驚くほど良く笑う少女。だからだろうか。その笑みが翳るのは見たくはないと。

あまつさえ自分ではない誰かに心を傾ける姿に瞳を揺らがせた彼女に込み上げたのは暴力的なまでの劣情だった。

(あの日からなにひとつ変わらずに『私』を信じてくれた君をとても大事にしたいのに、君を壊してしまいたいと思うのだ。)

灰色の男は痛むこめかみを押さえた。耳の奥で聞こえ続けるきらきら星の間に幼い少女の声を聞いたような気がした。

ピアノ指導の前に切らしていた食材の買い出しに行くことになり、なにか買ってくるものはあるかなと立夏は部屋に居たジャンヌに声をかけた。

「私は特にはないけれど史朗が洗濯洗剤が切れてるって言ってたわよ。」

「それならついでに買ってくるね。」

そこでジャンヌはまさかアンタ一人で買い出しに行く気じゃないでしょうねと立夏の腕を掴んだ。

「アンタって奴は!あんなことがあったばかりでしょうが!」

「でも近くだよ。」

「近場だろうが警戒しとくに損はないのよ!」

そう言ってジャンヌが灰色の男に声をかけたことで立夏はジャンヌと灰色の男の三人で買い出しと、どうせだからと昼食を取りにデパート行くことになったのだ。

「それで君の身になにがあった?」

灰色の男の運転でデパートに向かう車中でジャンヌがわざわざ自分まで連れ出した理由はなんだと訊ねた。ジャンヌは最近コイツの身の回りで可笑しなことが起きてるのよと腕を組む。

例えば一人で出歩いていると誰かにつけ回されたりロケハン用のワゴン車が車上荒しにあったりってね。

「でも誰かと一緒に居るときは特になにかある訳じゃないから。」

「言い換えればアンタが一人で居るときにはなにか起きてるワケよね。」

心当たりがない訳じゃないんだよと立夏は最近つけ回されたときに隠し撮りしたとスマフォの画面を灰色の男に見せた。

「これは我を付け回していたあのときの記者か?」

「貴方を助けた直後に日本を出国したって嘘のデマを幾つかのSNSに書き込んで情報の撹乱をしたんだ。だから日本に居た幾つかのメディアは既に帰国してる。」

でもあのときの記者はまだ日本に居るみたいでさ。顔を見られていたのが悪かったのか私をつけ回して貴方の情報を得ようとしてるみたいなんだ。

「警察には?」

「車上荒しまでされてしまったからね。警察には届け出た。だからもう大丈夫だと思うんだ。」

それなら安心しても良いかしらと安堵を滲ませたジャンヌ。だが灰色の男は頭に過った予感に眉をしかめた。警鐘が頭のなかで鳴り響いていた。サリエリを亡くしたときのような嫌な予感がすると。

事件に巻き込まれたのはデパートの地下駐車場でのことだった。連続車上荒しが起こした事件を追い駐車場に居た知り合いの子供たち、少年探偵団の五人から事件の経緯を聞き別件だけど車上荒らしにうちもあったんだと立夏は苦笑した。

「それにしても五人とも事件に巻き込まれることが多いね。」

「今回は不可抗力だと思うんだ。千葉刑事の初恋の行方を見届けるだけだと思ってたんだから。」

そう言ってコナンは太めの刑事と帽子を目深に被りながら話す交通課の婦警三池苗子を見た。なんでも小学校時代の同級生で両想いの初恋同士だと言うのだ。

「初恋か。私の初恋も小学校の頃だったな。」

「立夏お姉さんの初恋のお相手は誰なの?」

目を輝かせて訊ねた歩美に口が滑ったと額に手を当て立夏は唸る。それを見てアンタの初恋相手には興味があるわとジャンヌが話に乗っかった。

「ジャンヌまで乗っからなくても!」

「そんな面白そうな話は見過ごせませんもの。アンタだって立夏の初恋の相手に興味があるんじゃなくて灰色の男?」

「我が?」

確かに立夏の想い人ならば知りたいと思った。促すように目で訴える灰色の男と、期待に満ちた顔をした子供たちに立夏は頭を掻き諦めたように口を開いた。

「良くある話だよ。私の初恋は当時習っていたピアノの先生だった。」

「どんな人だったんですか!」

「あの人は良い意味で大人の人だったかな。手の掛かる友人の面倒を昔から見てるから大人で。多くの弟子が居るから人に物を教えるのが上手くてね。」

生真面目だけど彼がしてくれる話はぜんぶ面白かった。それから甘いものが大好きでさ。こればかりはやめられないんだよってぼやいてたところは可愛かったよ。

「立夏お姉さんはその人のことが大好きだったんだね。」

だって立夏お姉さん優しい顔をしているもの。歩美の言葉に立夏は困ったように微笑んだ。そうだね。

「きっとこの先もあの人のことを忘れることはないのかもしれないな。」

もっともあの人は私のことなんて忘れてしまっていたのかもしれないけれど。苦笑した立夏に忘れられちまったのかよと元太が首を傾げた。

「覚えていて欲しかったんだけれど。あの人は忘れてしまっていたらしいんだ。あの日に交わした約束を。」

「どんな約束をしたの?」

聞いたコナンに立夏は内緒だよと笑う。ヒントは『女の子の憧れ』ってところかな。私が十七才になってもまだあの人のことが好きだったら。

「叶えてくれるはずだったの。私の憧れをあの人が。六月になったらさ。」

この後連続車上荒しはコナンたちの活躍もあって解決した。途中駐車場に落ちていた探偵バッチに気づき。

既にデパートから去っていたコナンに連絡し明日ポアロで渡しにいくと約束して、本来の目的だった買い出しを済ませて帰宅したあと灰色の男はピアノを弾きながら考え込んでいた。

頭を巡るのは立夏の言葉だった。乱れる心を写したように曲調は激しさを増していく。

彼女に自分を見てほしいと思ったのだ。死んだ男ではなく、自分を。そして永遠に彼女の初恋は実ることはないと浅ましくも歓喜した自分に気づくと灰色の男は自嘲した。

物音に気づき灰色の男は玄関に向かう。そこで見たのは見覚えのある美貌の男。サリエリの友であるアマデウスと彼に腕を掴まれた立夏だった。

振り返った立夏の頬に伝う涙に怒りが灰色の男頭を支配した。灰色の男は立夏の腕を掴み背中に隠すようにアマデウスに立ちはだかって唸った。

「ゴッドリープ!!またお前は我から大事なものを奪うのか!!サリエリのように立夏さえも!」

「おいおい。お前が立夏ちゃんのことが大好きだってことは分かってたけれど。まさか同棲してたとは知らなかったぜ?収用された病院から消えたって聞いてこれでも探し回ってたんだぞサリエリ。」

やっと立夏ちゃんとした約束を果たしに来たって言うなら納得だけどさ。

「それはどういう意味だアマデウス。その言葉ではまるでサリエリを立夏が知っているように聞こえるが?お前はなにをしっている!」

「知ってるもなにもお前に立夏ちゃんを紹介したのは僕だぜ?知ってて当然。なんならお前が立夏ちゃんの初恋を奪っていった話もしてやろうか?」

灰色の男は振り返り立夏の肩を掴んだ。知っていたのか。お前はサリエリのことを。だからお前は出会ったときに我がサリエリではないと信じたのか。立夏はくしゃりと泣きながら笑う。知ってたんだ、本当は。

「初めて貴方に会ったとき一目で分かった。貴方がサリエリではないことが。分かるよ。だって初恋だったんだもの。分からないはずないじゃないか!」

分かってしまったから、だから直ぐに理解したんだ。サリエリはもうこの世には居ないんだって、もう二度と私が恋したサリエリにはもう会えないんだってことは!!

泣きながら項垂れた立夏に灰色の男が手を伸ばすより早くアマデウスが抱き締め、立夏ちゃんが言うなら本当なんだなと灰色の男を見た。

運び込まれた病院で自分がサリエリではないとお前が言っていたと弟子の一人が話しているのを聞いた。お前が誰かは察しがついてるけど。なにがあったのか改めて話してくれるかな。

「僕は知らなくちゃいけないんだ。サリエリを追い詰めた人間の一人として、なによりもサリエリの友として。」

ピアノが置かれた灰色の男の部屋で彼がサリエリの副人格であったことや、サリエリの身に起きていたこと、サリエリの死で肉体の主導権が彼に移ったことを聞き。

サリエリが来てないか聞いたとき立夏ちゃんが泣いた訳がわかったとアマデウスは額に両手を当てると嘆息を深々と溢した。

灰色の男はサリエリを知ればこそお前は我を匿うことに決めたというわけだと立夏を見た。俯いていた立夏は跳ねるように顔を上げた。お前は我にサリエリを見ていたのかと自嘲した灰色の男に立夏は苦し気に笑った。

「サリエリと重ねて見ることがなかったとは言わないよ。」

それを否定することは出来ない。知れば知るほどに貴方はサリエリと似ていた。なにもかも正反対なのに。ふとしたことが似通っていたから。

「それでも私は貴方をサリエリの代わりにする気はない。それだけは確かだって胸を張れる。」

アマデウスは立夏の頭を撫で、さっきも言ったようにサリエリは立夏ちゃんの初恋だったと笑う。

「あれは立夏ちゃんが十二才の頃だったかな。」

それはきらきら星のような恋でした。空に瞬く星に手を伸ばすような、初めての恋だったのです。

その年の夏のことアメリカに単身赴任していた父親が急病で倒れたことから急遽立夏の母がアメリカに渡った。何分急なことだから取るものも取らずに母は立夏を残してアメリカに行った。

本当は立夏もついて行きたかったが病人と子供の面倒を一手に見るよりはと日本に残ることにした。その間立夏の面倒を見ると言い出したのがシェイクスピアだった。

元々母とシェイクスピアは同じ孤児院で育ったこともあり、それぞれが大人になっても交流が続いていた。

兄妹同然ということもあって父親の病の一報が届いたときも立夏たちの家を訪ねて来ていたシェイクスピアが狼狽する母を宥めて送り出したという経緯があった。

幸い当時シェイクスピアが住んでいた家が立夏の家から近かったこともあり、立夏は母がアメリカに発った日からシェイクスピアの家に世話になることになったのだが。

このとき立夏の母とシェイクスピアの二人と同じ孤児院で育ったという人間が滞在していたのだ。それがアマデウスだった。

夏になると長期間シェイクスピアの家に逗留していたアマデウスは。立夏の事情を聞くとそう言うことならばと立夏の滞在を認めたが問題がひとつあった。大人二人の生活力の無さだ。

洗濯物は溜め込む、物は散らかす、食事は朝昼晩デリバリー。そして浪費癖が凄まじく激しい。大人二人は分野の違う天才だ。だが天は二人に生活力だけはお与えにならなかったのだ。

立夏が滞在初日にしたのは汚部屋の掃除であった。片っ端から掃除を行って、食事を作り大人二人の面倒を見ていたことで父親が急病に倒れた不安を感じる時間がなかったのは幸いだったけれど。

流石に子供に面倒を見られっぱなしもどうかと思ったのか。アマデウスは部屋に置かれたピアノに興味を持った立夏にピアノを教えることにした。

だが神才と名高い音楽家だったアマデウスは指導の合間に曲が浮かんだからと脱線が激しいため、この分だとピアノを覚えられないまま終わりそうだなと立夏が思っていた頃にその人は現れたのだ。

溜め込まれた洗濯物を回収していると鳴り響いたチャイムに返事をして玄関に向かう。扉を開けるとカンカン帽を被った男性が居た。

あの二人のどちらかの知り合いか。いずれにしても生真面目そうな男性にあの二人にまともな知り合いが居たのかと立夏は驚愕した。

大人二人が連れてくる人間は良くも悪くもぶっ飛んだ奇人変人しかして天才というある種の傍迷惑さがあった。みんな良い人であることは確かだけど。思考が少しばかり常人とかけ離れているだけでさと立夏は遠い目をした。

「どちら様でしょうか?」

「こんにちはシニョリーナ。私はアントニオ・サリエリと言う。アマデウスは在宅だろうか?」

「アマデウスさんなら部屋で籠ってます。案内しますね!」

サリエリから鞄を受け取りアマデウスが居る部屋に向かうと浜辺に打ち上げられたアシカのようにソファに寝そべっていた。

その周りには雑然と着用済みなのか未使用なのか大量の衣服や、趣味で買い集めた骨董品、デリバリーのから箱が。立夏とサリエリは同時に頭を抱え、またかと呟いて二人は顔を見合わせて握手を交わしあう。

「そうか君もアレには苦労しているのか。」

「そう言う貴方も?」

私はアレの音楽学校生時代からの友人なんだが当時は同じ学生寮で同室でね。気づくとアレが散らかしたもので部屋が魔窟になるからその都度掃除をさせられたとサリエリは苦笑した。

それでいて何処にものを置いているか把握しているから片付けると怒るんですよねと立夏が頷き、二人が共感を分かちあっているとアマデウスが起き出した。

「二人して僕をほったらかしにしないでよ!」

寂しいじゃないかと頬を膨らませたアマデウスをはいはいとサリエリが往なすように笑う。わざわざ私を日本に呼び出した訳を訊ねてもとサリエリが聞くとアマデウスはニヤリと笑みを浮かべた。

「実は僕の娘にピアノを教えて貰おうと思ってね!」

立夏と肩を組んだアマデウスに、サリエリは立夏とアマデウスを見比べたあと驚愕の叫びを上げたのだった。ややあって爆笑し過ぎて床に倒れるアマデウスに、サリエリは痛んだ頭を押さえる。

「ようは世話になっているから友人の娘である立夏君にピアノを教えれば良いんだな?そう言うことは素直に言えば良いだろう!!自分の娘だなんて嘘までつかずとも!」

「へへー!まさか信じるとは思わなくてね。」

「よく考えたら天から与えられたかの如き世に希なる天才だが人間としてどうかしてるレベルの変態のお前と結婚してくれる奇特な女性は居なかったな。」

「褒めてんの?貶してんの?長いからどっちかに絞ってくんないかな?」

「なんだ天才染みた変態。」

「アハハ!辛辣ゥ!」

ゲラゲラと笑うアマデウスに、そう言う訳だからサリエリにピアノを習ってくれと言われ。なんだかすみませんと頭を下げると君が気にすることじゃないとサリエリは苦笑した。これに呼び出されることには悲しいことに慣れてしまってるからな。

「なにか弾いてみたい曲はあるかな?練習を続けるにはモチベーションの維持も大事だ。弾いてみたい曲があるならそれを練習すると良い。」

「サリエリは僕と違って人に物を教えるのが上手い。遠慮なく言ってごらんよ。」

立夏の頭を撫で、柔らかく笑うサリエリに。立夏は恥ずかしげに俯いたあと。それならばと顔を赤くしながら声を震わせた。

「そ、それならきらきら星が良い!だ、ダメかな?」

立夏の様子にアマデウスはこれはもしやと首を傾げた。大人びて何事にも物怖じしない少女が拒絶されないかと怯えを見せたこと。そして何処か甘さを乗せた声にアマデウスはニヤニヤと笑いサリエリの背を押した。

「ダメってことはないよなサリエリ?」

「モーツァルトのきらきら星変奏曲か。君が望むなら明日から練習を始めよう。私の指導は厳しいが構わないかな?」

「うん!」

だがその前にとサリエリはアマデウスの部屋を見渡した。先ずはお前の部屋の掃除からだなと散らかし放題のアマデウスの首根を掴んだのだった。



「サリエリ先生が来て助かりました。私だけだと二人が散らかすスピードに追い付けなくて片付けるのが間に合わなかったから。」

「掃除は学生時代に好もうと好まざるとも鍛えられたし。炊事は独り身だからな。一通りは出来るから頼ってくれていい。」

数日後すっかり馴染んだサリエリと並んで立夏は台所に立っていた。慣れたようにじゃがいもの皮を包丁で剥くサリエリに。

先生は独り身なんだと気のない振りをしながら意外だねと笑う立夏に君には好きな人は居ないのかとサリエリが訊ねた。

「い、いるような居ないような。でも花嫁さんには憧れてるんだ。確か外国だと六月に結婚する花嫁は幸せになるって逸話があるんだよね?」

「ジューンブライドのことかな?君もそう言うのには憧れるのかい?」

「これでも一応女の子だから。でもお転婆が過ぎるって良く言われるから嫁の貰い手はないかも。」

「ハハッ!嫁の貰い手がないときは私の妻になるかい?君のような可愛い女の子なら歓迎するよ。」

「ほ、本当?約束だからねサリエリ先生!」

小さくガッツポーズをしたあと、でもサリエリ先生の奥さん狙いの人は多そうと唸る立夏に気づかずにサリエリは心配はいらない生憎と女性にはモテなくてねと苦笑する。

「そうそうサリエリは男にばかりモテるからね!お前の弟子のベルナルドだって?あれなんかお前を崇拝してるぐらいだしさ。」

「語弊を招くことを言うなアマデウス。」

なんか摘まみ食いさせてと台所に来たアマデウスにサリエリは溜め息を吐いた。

「とか言うけどお前の弟子は九割方男だろ?」

女の子の弟子なんて立夏ちゃんぐらいじゃないかと鍋から肉団子のスープを持っていたマグカップに注ぎ口に運び。ちょっと塩コショウ足りなくないと粗挽きした胡椒を鍋に投下する。

勝手に調味料を足すなとこめかみを押さえたサリエリを気にすることなく立夏ちゃんも共犯ってことでと小皿にスープを注いで渡したアマデウス。立夏は素直にスープを口にして。

「さっきより深みがあるような。」

「なに?」

立夏の手を取り持っていた小皿に口をつけると納得いかないとサリエリは唸った。思いもかけず近づいたサリエリに立夏の頬に赤みが差した。

「こんな風にサリエリは女の子の気持ちに鈍感なもんで。ちょーと良い雰囲気になっても音楽論を語りだしたりして女の子に引かれるんだよね。」

でも立夏ちゃんは気にしないでしょ。サリエリのそう言うところはさ。頑張りなよと立夏の頭を撫でて台所から立ち去るアマデウスに本当に摘まみ食いに来ただけだったなとサリエリが半眼で睨むなか、立夏は見抜かれてたと赤くなった顔を両手で覆い隠した。

前もって言われていたようにピアノの指導は厳しかった。だが少しずつ演奏が様になってくるとサリエリは我がことのように立夏を褒めた。

時に指導に熱が籠って繰り返し演奏を要求されたりしたが練習に時間が掛かるほどにサリエリと一緒に居られる時間が増えると思えば苦ではなかった。

そんな中で幼馴染みに誘われ、市民プールに遊びに行っていた立夏がピアノの指導が始まる時間になっても帰って来ないことにサリエリは気を揉んでいた。

立夏はピアノの練習は欠かさずしてきた。だからこんな風に時間を過ぎても知らせひとつ寄越さないことに不審に思い、振りだした雨に迎えに行くべきかとサリエリが玄関で傘を手にしたところで、ずぶ濡れになった立夏が戻ってきたのだ。

「なにがあった?なぜこんなに濡れているんだ!身体が冷えてしまってるじゃないか!」

立夏の頬に触れたサリエリにこれぐらい平気ですよと立夏はへにゃりと笑う。サリエリは平気なものかと立夏を抱き上げた。

「君は女の子なんだから。もっと自分の身体を労ってやりなさい。」

そう言って立夏を風呂場に連れていき。沸かしてあるから入っておいでと送り出す。立夏が風呂から上がると台所から甘いチョコレートの匂いがした。

顔を覗かせた立夏にチョッコラータだとサリエリはホットチョコレートを渡した。サリエリがレシピを話すなか。口にしたチョッコラータの甘さに張り詰めていた気が緩み立夏の目から涙が溢れた。

「なにがあったのか聞いてもシニョリーナ?」

「なんでもないんだ。」

ならばどうしてそんな風に傷ついた目をしているんだ立夏。人を気遣うのは君の美徳だ。だが相手を気遣い自分の抱えた痛みを隠してはいけない。

少なくとも私は君の抱える痛みを知りたいと立夏の前に膝を着き目をあわせたサリエリに、立夏は先生には全部お見通しなんだねと自嘲を溢した。

「幼馴染みと一緒に居るのは分不相応だって虐められたんだ。私には二人幼馴染みが居て。顔も良ければ家柄も良くて性格だって。多少口が悪いところもあるけど、まあ良くてさ。」

なもんだから人に人気で、そんな彼等の側に平凡な私が居ることが許せないって思う子たちがなかには居るみたいなんだ。

陰口とかは良くあることだから気にしてはなかった。でも今日は市民プールから出たところで幼馴染みたちと引き離されて。

「ぐるっと取り囲まれてもう二度と近づくなって言われてね。」

嫌だって言ったら川に落とされてさ。参ったよと笑う立夏に君は強いなとサリエリが頭を撫でた。

「私も君と似た思いをしたことがあるんだ。」

「サリエリ先生も?」

アマデウスは学生時代から天才だった。抜きん出た天性の音感であったり類い希なる作曲の才能から神才とも謳われた奴の側に居て。友であると言うと時折分不相応だと言うものが出てくるんだ。

なかには私がアマデウスに嫉妬しているとさも私の理解者のような顔で笑うものさえいた。更にはアマデウスが怪我などしたときは奴を蹴落とすために人を雇い襲わせたというものもいたな。

「サリエリ先生はそんなことしない!」

「立夏?」

「だってサリエリ先生はアマデウスさんのこと大好きでしょ?」

「ッ君は私のことを信じるのかい?」

「信じるよ。サリエリ先生のこと。先生は優しい人だから。」

「そう信じてくれる人間は居なかったよ。弟子でさえな。だが私はアマデウスの友であることを辞めるつもりはない。アイツは間違いなく天才だ。天才は理解できない。そう言って相互理解を怠る連中はことのほか多くてね。」

孤高にならざるおえないアマデウスを私は一人にしたくはない。勿論私の技量はアマデウスに劣るだろう。だがそれを理由に側を離れることは私を友と呼んでくれたアマデウスを裏切ることになるんだ。

「人はアイツを理解しない。ならば私ぐらいはアマデウスの側に居てやりたいんだ。それは君もなんじゃないかな立夏。外野には好きなことを言わせておきなさい。誰に憚ることなく君は心のままにあればいいんだ。」

ましてや私は以前兄のような友人をなくしている。だからもう友人を無くすわけにはいかないのさ。

「サリエリ先生の友達?」

「私の風変わりな友達さ。私は彼を『灰色の男』と呼んでいた。」

そう言って笑ったサリエリに抱いていた淡い想いが確かな形を持ったのはこの時だった。そう言えばきらきら星変奏曲が恋の歌だと知っていたかなとサリエリは笑う。

モーツァルトは当時巷で流行っていた恋の歌からきらきら星変奏曲を作ったんだ。そう語るサリエリに知ってるよと立夏はチョッコラータを一気に煽って、サリエリの胸ぐらを掴んでキスをした。

「恋の歌だって知ってたから選んだんだ!貴方に聴かせたくて、貴方に私の想いを知ってほしくって何時もピアノを弾いてた!好きだよサリエリ先生のことが、好きなんだ、初めて会ったときから!」

サリエリ先生の鈍感と部屋を出ていく立夏に入れ違いでチョッコラータなら僕にも淹れてよと顔を出したアマデウスは顔を真っ赤にして固まるサリエリに。

なにがあったか全てを悟ってお前本当に今まで立夏ちゃんの気持ちに気づいてなかったのかと呆れたように肩を竦めた。

「お前は知ってたのかアマデウス?」

「立夏ちゃんの目を見れば誰だって分かるだろ?」

ひた向きにお前だけを見詰めてるんだから。分からない方が可笑しいさと笑うアマデウスにサリエリは顔を両手で覆った。

「悩むことなんでない。嫁に貰っちゃえば良いじゃないか。」

「何歳差があると思ってるんだ!?私は三十二才だぞアマデウス!!私とは二十も離れてるんだぞ!」

「知ってる知ってる。お前と僕は同い年なんだから。お前が気にしてるのは歳の差だけ?だったら五年待てば良い。五年も経てば立夏ちゃんは十七才だ。高校卒業を一年後に控えて将来を考えるようになる年頃だしさ。」

お前の言い分を聞いていると歳の差さえどうにかすれば問題ないって言ってるようなもんだけど。

「その自覚はあるか我が友サリエリ?」

言っとくけど歳の差を理由にあの子のことを振ったら許さないぜ。実の姉みたいに思ってる女性の娘である立夏ちゃんを僕なりに可愛がってるんだぞ。

それは知ってるとサリエリは肩を竦めた。人間に興味がないお前が可愛がりもしない人間に自分のテリトリーである部屋に踏み入らせたりはしないからな。ましてや手料理など食するものか。

「だが可愛がっている娘ならこんな年上の男の嫁にやるようなことを言うのはどうなんだ?」

「僕はお前だから言ってるんだよ。そんじゃそこらの馬の骨にくれてやるよりよっぽどマシ。そんでもって変な女に引っ掛かるより立夏ちゃんをお前に添わせてしまった方が僕的には安心する。」

それともお前嫁の宛なんてあるわけ。ジトリと見るアマデウスに観念したように手を上げた。あったら断る口実があったんだがな。

お前立夏ちゃんの気持ちは嫌だったかと訊ねたアマデウスに嫌じゃないから困ってるんだと天井を仰いだ。

翌日のこと。旅支度を済ませたサリエリの姿が玄関にあった。新聞を取りに起き出した立夏は青ざめてサリエリの袖を掴んだ。

「なんで!?」

「作曲の仕事が溜まり過ぎてね。いい加減帰国しろと弟子に懇願されてしまったんだ。」

「私があんなこといったから?だからサリエリ先生は帰っちゃうの!?」

「立夏。」

行かないで。行っちゃやだよ。ボロボロと涙を流す立夏の頭をサリエリは撫でる。私は帰らなくては行けないんだ。少なくとも年下の妻に不自由な生活をさせないためにも生活費は稼がなくては。

「先生奥さん居ないって言ったじゃんか!」

「今はいないな。五年後の六月になるまでは。」

君が五年後に十七才になって。それでもまだ私のことが好きなままであるなら。君の憧れを私に叶えさせてはくれないか。顔を上げた立夏の額にキスをして。サリエリは笑う。

「必ず君を迎えに行くから待っていて欲しい。」

立夏はサリエリ先生はズルいと笑う。だってそんなこと言われたら私は待つしかないじゃないか。

「大人は少しズルい生き物なんだ。それともそんな私は嫌いかな?」

「嫌いになんかなれないよ。待ってる。待ってるから必ず迎えに来て。」

「その時は今度は私がきらきら星変奏曲を奏でよう。君のためだけに。必ず。」

それが立夏の十二才の初恋でした。今も彼女の胸に息づく恋でした。けれど立夏に約束をくれたサリエリは死んだのだと立夏は泣きはらした顔で笑う。

待っているだけじゃなくて私はサリエリに会いに行くべきだった。手遅れになってしまってからでは遅かったのにね。

「アマデウスさん夕飯食べてくでしょ?ちょっと買い出しに行ってくるから留守番頼んだね。」

部屋を出ていく立夏に灰色の男は手を伸ばしかけて力なく手を降ろす。

「まさか"自分はサリエリじゃないから引き留めたって無駄だ"とか思ってるんじゃないよな?」

アマデウスはピアノの楽譜台に置かれた灰色の男が執筆した楽譜を手に取り、目を通しながら灰色の男に訊ねた。

「お前になにが分かるというんだゴットリープ。」

「お前は自分とサリエリを分けて考えてるみたいだけれど。僕はお前たちに違いはないって思ってる。お前たちに境目なんてない。」

確かにそれぞれ異なる人格を持っているのかもしれない。でもお前もアントニオ・サリエリなんだよ。逆もしかりだ。アントニオ・サリエリは灰色の男でもあるってね。

「それぞれの延長線上にお前たちは居るんだよ灰色の男グリジオ。」

「なにを馬鹿なことを!我はアントニオ・サリエリにあらず!アントニオ・サリエリは死んだのだ!!」

「いいや。アントニオ・サリエリは死んでなんか居ないね。この楽譜を見て実感した。アントニオ・サリエリは確かに生きている。」

お前のなかにアントニオ・サリエリが居る。アマデウスは楽譜を灰色の男に突きつけた。この楽譜を見ると一見してサリエリが書きそうにない曲に見える。

だが曲の端々にサリエリが好んだ旋律が、サリエリが持っている癖が見え隠れしてる。

「アントニオ・サリエリはお前のなかでまだ生きているんだよ灰色の男。」

「だとしたらこれほど滑稽なことはないではないか!我が立夏に惹かれたのはそれがサリエリの意思だったということに他ならなくなる!!我の意思ではなかったなど!」

「それのなにが悪いのか僕には分からないね。お前が言っていたんじゃないか。サリエリあっての自分なんだって。同じようにサリエリはお前ありきだった。」

お前はサリエリで、サリエリはお前だったんだ。同じ人間を好きになってもなんら可笑しくはない。

「立夏ちゃんを好きになったのがサリエリの意思であるならばお前自身の意思でもあると僕は思うけれどね。」

「だが立夏が好きになったのはサリエリだ。我ではない。彼女は我とサリエリを重ねて見ているのではないか。」

「だったらそれさえ利用してやれば良い。少なくともサリエリと重ねて見られているうちはお前を拒まない筈だ。好きになった相手を手にいれたいなら使えるものはなんでも使えば良いんだ。」

あらゆるものを利用して付け入れば良いのさ。それともお前はそんなことで今更立夏ちゃんを諦められるほど抱いた想いは浅いのか?

「ッこんなことで諦められるなら苦悩などするものか!!」

「それを聞いて安心したよ。とっくにお前のなかで答えは出てるじゃないか。」

そのとき部屋の扉が勢い良く開け放たれる。息を切らして駆け込んで来たジャンヌが立夏は居ないのと見渡して立夏ちゃんなら買い出しに行ったと答えたアマデウスに前髪を掴み。不味いことになったわと呻き出した。

不意にあのとき感じた嫌な予感が甦る。着いてきて貰えるかしらとジャンヌに連れられてマンションのエントランスに向かう。

そこには灰色の男を追い回していた記者の一人とデパートの駐車場で出会った眼鏡の少年が居た。

「これはどういうことだ?」

「実はデパートの駐車場で立夏お姉さんを隠し撮りしてたこの記者さんを見つけて。こっそり後を追い掛けたんだ。駐車場で立夏さんから話を聞いた限りだとストーカーかもしれないって思ったからちょっと詳しく話が聞きたいなって記者さんにお願いしたんだけど。」

『俺はストーカーなんてしてねぇよ!確かにアントニオ・サリエリの密着取材のために自宅に匿っていないか探ってたけれど車上荒らしも尾行も俺じゃない!あの子をつけ回してたのはシニョーレも良く知ってる奴さ。』

記者が見せた写真にアマデウスが声を上げた。そこに写った青年は病院でアマデウスが出会ったサリエリの弟子であり、サリエリが同窓生のパーティに連れて行った弟子でもあると灰色の男は唸る。

「問題はそれだけじゃないわ。コイツが嫌がる立夏を車に無理矢理連れ込んだところをこの記者が見ていたらしいのよ!」

(我はまた失えないものを喪うというのか。またしてもサリエリのように立夏を!この手から溢れ落とすというのか!そんなことは、そんなことだけは断じて認めるものか!)

震える肩を掴み灰色の男は奥歯を噛み締める。探しに行かねば。手遅れになるまえに立夏を。だが何処を探す。サリエリの弟子に連れ拐われた立夏の居場所をどうやって。

「それなら僕に任せてくれないかな。探偵バッチがきっと立夏お姉さんの居場所を教えてくれる筈だからさ。」

眼鏡に表示された幾つもの点のうち。赤く表示された高速で都心部を離れる点に。コナンは大捕物と行こうじゃねえかと告げたのだ。



手足をガムテープで巻かれて拘束した立夏を廃工場の埃を被った床に押し倒し、ナイフを頬を掠めながら床に突き刺す。

「潰しても潰してもサリエリ先生に這い寄る虫が消えないけれど。お前はアマデウスに次いで目障りだよ藤丸立夏。」

立夏の首を絞めながら笑う青年に。立夏は苦しみに耐えながら貴方は何者なんだと訊ねる。

青年は俺はサリエリ先生の数いる弟子に過ぎない。だがサリエリ先生は俺の神様みたいな人なんだと舌舐めずしながら笑い出す。

「サリエリ先生ほど素晴らしい人は居ない。だが世間はアマデウスばかりを誉めそやす。先生こそ讃えられるべき人間はいないのに!だから殺すことにしたんだアマデウスを。だが上手くいかなくて失敗してしまった。」

アマデウスがパーティで盛られた毒は蛇の毒だったと灰色の男がいっていたことを思い出し。立夏は笑う。

「蛇の毒を選んだ時点で貴方が失敗することは決まっていた。人間の胃液は蛇の毒を分解出来るんだ。だからワインに蛇の毒を混ぜて飲ませても死んだりしないんだよ。」

「なら今度は睡眠薬を飲ませて殺すことにしようか。サリエリ先生のときのようにね。」

立夏は自分の首を絞める腕を掴み爪を立てた。どうして、どうしてサリエリ先生を殺したんだと睨む立夏に。神様は誰のものになってはいけないんだと青年は酷薄な笑みを浮かべた。

サリエリ先生は君に会いに行こうとしていたのさ。五年前の約束を果たすって言ってね。だから睡眠薬入りのワインを飲ませた。アマデウスからだといったら疑い無く飲んでくれたよ。

「俺のサリエリ先生は君に会ってから変わってしまった!!他を圧する程に荘厳な楽曲が特徴だったサリエリ先生の曲は限られた人間のみが高尚さを理解するものだったんだ!」

それが君に会ってから曲調が変わり万人に好まれるような楽曲を作るようになった!挙げ句に『とある女性に捧げるピアノソナタ』何てふざけたアルバムまで出してしまった!

「そんなサリエリ先生は俺の神様だったサリエリ先生じゃない!」

立夏は笑い出す。なにが可笑しいと首を絞める力を強めながら睨み付ける青年に立夏は私は忘れられた訳じゃなかったのかと泣きながら笑う。サリエリ先生は約束を果たそうとしてくれていた。

「だったら私はこう言ってやる。アントニオ・サリエリの心を手に入れたのは私だった。お前は望んでもサリエリの心は手に入れられなかったんだ!!ざまあみろと!」

「ふざけたことを抜かすな!!」

霞む意識のなかで立夏は目を閉じる。脳裏に過ったのはサリエリ。そして灰色の男のことだった。

(貴方のことを守ると言ったのにその言葉を破ってしまってごめん。でも私はきっと貴方を傷つけてしまった。そんな私が貴方の側に居てはいけないと思うのに。)

側に居たいって思ってごめんね。一筋の涙が溢れ落ちたそのとき立夏に覆い被さっていた青年の身体が七色に光る巨大なサッカーボールに追突されて真横に吹き飛んだ。

血を吐きながら壁に叩きつけられた青年の胸ぐらを掴み、無理矢理立たせた灰色の男が唸るように叫ぶ。お前がサリエリを殺したのかベルナルド。

「俺はまた元のサリエリ先生に戻って貰いたかった!俺だけの神様に。俺だけが!俺だけが先生を理解できる!!だからこれは正しいことなんだ!人になったサリエリ先生を神様に戻すために必要な儀式なんだ!だから!だから!!」

「サリエリの苦悩すら知らずに勝手な虚像を抱くな。お前の奏でる音は耳障りだ。聴くに値しない雑音だ!!」

崩れ落ちたサリエリの弟子ベルナルドに鼻を鳴らして。立夏お姉さんが息をしてないと叫んだコナンの声に弾かれたように倒れた立夏に駆け寄り抱き抱えた。

胸に耳を当て聞こえない鼓動に灰色の男は躊躇うことなく立夏に口付け息を吹き込むと。立夏の名を呼びながら心臓マッサージを繰り返す。

「ダメだ、ダメだ、逝くな!サリエリの元に逝かないでくれ立夏!!お前にサリエリと重ねられても構わない、そんなことで諦められるほどこの想いは浅くはない!必ず振り向かせる、だから、だから我を一人にするな立夏!側に居ると言ったのはお前ではないか!!」

灰色の男の目から込み上げた涙が立夏の頬に落ちる。愛しているんだ君をと苦し気に告げたとき立夏の閉ざされた目蓋が震えた。

ゆっくりと開かれた瞳が灰色の男を映して立夏は咳を溢しながら息を吐く。

「立夏!」

「立夏お姉さん!!」

掻き抱かれ灰色の男に凭れるようにして背中を撫でられていた立夏は。辺りを見渡して、灰色の男を押し倒すように床に縫い付けた。

間を置かず立夏の肩から散った血にコナンがボール射出ベルトからサッカーボールを出してベルナルドが持っていた拳銃を弾き。廃工場の開け放たれた窓から動物用の麻酔銃が撃ち込まれた。

いまの麻酔銃は一体誰がとコナンが窓を覗き銀の髪を棚引かせて立ち去るスーツの男の後ろ姿にまさかなと浮かんだ疑惑を打ち消した。

「今度はちゃんと大事な人を守れたかな?」

撃ち抜かれた肩から血を流しながら笑う立夏を何故庇ったと灰色の男が抱き締める。大事な人はもう喪いたくなかったんだと立夏は灰色の男の肩口に頭を預けた。

「父さんと母さんは目の前でなくして。サリエリ先生も喪ってしまったから。だから貴方まで喪いたくなかった。」

貴方を傷つけてしまって。きっとこんなことを言う資格はないのかもしれないけれど。私は貴方の側に居たいよ。

「サリエリ先生の代わりじゃなく、貴方に、灰色の男であるグリジオの側に居たいって思うんだ。そして貴方に側に居て欲しいって思うの。」

「我はサリエリが死んだとき。我だけが残されたことにサリエリに捨てられたと思った。」

何故連れていってはくれなかったのかと、恨んだ。だがいまは感謝している。あの日この世に残されたからこそ。

「我はお前に会えたのだから。我をお前が望む限り我はお前と共にあろう。それこそがいまの我が望む唯一のことなのだから。」

灰色の男は立夏を腕に抱き上げ、踏み込んで来た警察官たちがベルナルドを拘束するなか入り口に向かい歩き出す。きらきら星を口ずさみながら。

後にベルナルドの犯した三件の殺人未遂の他に拳銃の違法所持、立夏に対する拉致監禁など余罪を含めて罪に問われることになり。アントニオ・サリエリの名誉は回復することになった。

手のひらを返したようにアントニオ・サリエリの評価を改めた欧州のメディアに思うところがあるのかアマデウスは当分日本に居ることにしたらしくたまに食事をたかりに立夏のマンションに押し掛けてくる。

日本に滞在しているのはアマデウスだけではない。灰色の男グリジオも拠点を日本に移すことにしたらしい。サリエリの弟子たちには随分と泣きすがられたそうだが。

肩の傷が癒えて入院していた病院からマンションに帰る道すがら。良い日和だからと歩いて帰ることにした立夏に連れ添うように灰色の男が隣を歩く。

天気雨が降っていたけれど。傘を差すほどではないのに灰色の男は傷に触らないようにと白い傘を立夏に差しかけていた。

ひとつの傘に入りゆっくりと話ながら歩くなか、立夏は随分とお弟子さんに泣かれたみたいだけれど帰らなくて良いのと訊ねた。

「あれらは我の弟子ではなくアントニオ・サリエリの弟子だ。なにより面倒を見ずとも一人でやっていられる程度にはサリエリが育てたのだから問題はないさ。」

そう言うものかと納得する立夏に人目から隠すように傘を斜めにして灰色の男は立夏に口付けて笑う。はくはくと顔を赤くして言葉を無くした立夏に。灰色の男はジューンブライドに憧れる君との約束が私にはあるからなと頬を撫でた。

「なによりも必ずお前を振り向かせると決めたのだ。サリエリの執着と我の執着。二人分の愛をお前にやろう。返品は不可だからそのつもりで。」

そう言って灰色の男は高らかに愛しい少女に宣戦布告を告げたのだった。



人類最後のマスター似の彼女 人の悪意に大事な人たちを殺された。復讐者の資格が備わっても割りと可笑しくないレベルで人間の悪意を憎んでる。

今回は初恋相手が自分の知らないところで死んだことを知り本編ではSAN値がギリギリだった。

音楽家の復讐者似の彼 二重人格。アントニオ・サリエリを主人格として副人格が灰色の男。友人を才能を妬み殺害したという疑いと悪意に晒されたこと。友人に裏切られたと思い主人格だったアントニオ・サリエリの精神。人格は消えたと思われたが。実際は人格統合がなされていた。

とは言え完全に混ざった訳ではなくアントニオ・サリエリの精神が顔を出すこともある。作中で立夏のことをお前と呼んでいるのが灰色の男で。君と呼んでいたのがサリエリ。ちなみにサリエリの見た目は夏服夏毛仕様のあの姿。

天才音楽家似の彼 人類最後のマスター似の彼女の母親と同じ孤児院に居た仲。実の姉みたいに慕っていたこともあり人類最後のマスター似の彼女のことは姪っこみたいに可愛がってる。

サリエリのことも振り回しているが大好き。なので大好きな二人が結婚してくれたらずっと一緒に居られるんじゃないかと閃き仲が進展することを応援してる。

シャドウボーダーの黒澤さん 最近嬉しかったことは自分が取ってきた雑誌の仕事で人気俳優エドモンと人類最後のマスター似の彼女の二人が座談会をしたが。

兄みたいな人は居るかと聞かれた彼女が最近はマネージャーの黒澤さんが兄みたいですねと答えてくれたこと。実際陣兄さんと言われて顔を覆った。なお本編で真犯人を麻酔銃で仕留めたのはこの人。



愛が重たいは誉め言葉と彼は肩を竦めた
今回書き終らないと震えました。何時もより文字数が大増量してます。そしてみなさんサリエリさんは好きですか?私も好きです!これは人類最後のマスターに似てしまったばかりにコナンキャラたちに勘違いを振り撒いていく女の子の話。副題初恋はチョッコラータのように甘く苦い。
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2019年6月15日 09:08
かのこ

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