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スンと鼻を鳴らした後、声にならない声を空気に乗せる。 それは神獣白澤の獣としての鳴き声であり、その声は定められている番(つがい)にしか聞こえないのだと、己を作り出した天帝が教えてくれた。 その鳴き声は、弦を弾くような円やかで伸びやかさを感じさせるものであり。 そして同時に、水面に滴が落ちた時のような、高く儚い声らしい。 己の声だというのに、己にもけして聞こえない。番を愛しむ為だけに発せられるその声で、僕は今日もまだ見ぬ、遠いどこかに居る番に向かって歌い続けている。
「産れ落ちたその命の鼓動は感じるのに、迎えに行こうとすると、いつも途端に消えてしまうんだ。」
日が暮れ、閉店した後の静かな店内で売上の清算をしていた白澤が、ふとボールペンを走らせていた手を止めて呟いた。 それはまるで話の続きのような話し方だったが、ここ10分程互いに無言で作業をしていた為、桃太郎にとっては青天の霹靂で、いったい何の話だと掃除の手を止めて師へと顔を向けた。 桃太郎の視線の先にいる白澤は、会計のカウンターに備え付けてあるスツールに腰掛け、ペンを持っていない方の手で頬杖をついてどこか遠い目をしている。 憂うようなその表情は、普段の極楽蜻蛉のような人の良さそうなものではなく、悲しげで時折感じる痛みを押さているようなものであった。漢方の権威である神獣白澤に弟子入りして早数年経つが、桃太郎がこのように心の底から憂い
ている師を目にするのは初めてで。 埃を掃いていた手を止めたまま返事を返す事ができず、彼の次の言葉を待つのみだった。 すると白澤は視線を落とし、再び帳面にペンを滑らせながら口を開く。
「ずっとね、探してるんだよ。僕が生まれた時から定められている、僕だけの番(つがい)の子を。」
「・・・アンタ、以前に自分で結婚できない男だって言ってたじゃないですか。」
番(つがい)と言えば、人間でいう伴侶である。まさか白澤の口からその言葉が出てくるとは夢にも思わな
かったが、桃太郎は以前に白澤自身が「結婚できない男」と口にしていた事を思い出す。 そしてそんな男の口から、なぜ己だけの番という言葉が出てきたのか、不思議でたまらなかった。 そんな桃太郎に白澤は数字を書く手は止めぬまま、面白そうに肩を小刻みにして笑う。 「確かにねぇ。僕に結婚生活は向いてない。けれど、それは人や鬼で言う結婚生活であって、僕の言う番は少し違うんだ。」
白澤はそう言うと、徐に己の腹をペンのノック部分で叩き、桃太郎へ視線を向けるとまろやかに目を細める。
「ほら、番のここにね。僕と同じ目の形をした紋様があるんだ。その子は「白澤」ではないけれど、遥か昔より白澤の番として神に作られた子でね。僕が寂しくないように、いつか一人にならないように、絶望で消えてしまわないように、僕だけの為に作られた僕だけの番。」
「白澤様のためだけに、作られたって・・・言っちゃ悪いですけど、まるで傀儡の人形みたいですね。」
「ふふっ、桃タロー君たら。君のそうやって申し訳なさそうに厳しい事いうところ、僕けっこう好きだよ。」
白澤の寂しさを紛らわせるために作られた番の存在を始めて耳にして、桃太郎がまっ先に感じたのは「都合の良い存在」だという事だ。 それを素直に口にした桃太郎に、白澤はまたも肩を揺らして笑う。 何故かその笑みに、どこか仄暗い軽薄さと畏怖を感じてしまい、桃太郎はそれに気付かないふりをして近くの椅子に腰を下した。不穏な気配こそすれ、今日の師はどうも話したがりのようだと。 動揺を隠して話に耳を傾けてやるという姿勢を見せた桃太郎に、白澤は憂いと笑みを張り付けた表情のまま続けた。
「かわいそうだよねぇ。生まれくる意味が、僕の番になるっていう理由だけなんだもの。進むべき道を己で見つけたとしても、その子が己の存在意義を自ら作れたとしても、最終的には僕の番とならなければ生きる事ができないんだ。」
器用にペンを指でくるくると回しながら、白澤はそう言って悲しげに笑う。 先ほどから色んな笑みを浮かべる白澤だったが、一度として明朗な笑みは浮かんでいない。
そして小さな椅子の上で片膝を抱えると、くしゃりと顔を歪める。
「・・・そう。僕の番になる以外生きてはいけないから、きっといつもすぐいなくなっちゃうんだろうなぁ。」
呟かれたその声は、わずかな物音にも?き消されてしまいそうな程、小さく儚いものだった。
「っていう話を白澤様から聞いたんですが、鬼灯様。何かご存じないですか?その番っていう子のこと。
」
「それで、どうしてそれを私に聞くのです。あいつの事を大嫌いなこの私に。」
数日後、閻魔殿に薬の配達のため訪れた桃太郎の口から飛び出したその話に、亡者の経歴が記載されてい
る巻物を手にしたまま、鬼灯はものすごく嫌そうに顔を歪めて吐き捨てた。 しかし彼のそんな態度にはもう慣れっこな桃太郎は、広げていた荷物を片づけながら首を傾げて見せる。
「だってほら、白澤様はその番の子は「生まれて落ちてもいつもすぐいなくなってしまう」みたいな事と言っていたので。その場合、もしかしたら番の子は人間かもしれないじゃないですか。そうしたら亡者としてこちらに来てるはずなので、鬼灯様なら何かご存じなんじゃないかと思って。」
「残念ながら、今のところ体に奴の目と同じ紋様がある亡者の報告はありませんよ。そもそも、その印があれば奪衣婆の所で着物を剥がれた際に彼女の目を引いて、なにかしら私に報告があがってくるはずです。彼女は優秀ですから。ですが、その報告が今まで一度もないとすれば、そういう事なんじゃないですか?」
「そうですか・・・。」
しょんぼりとした様子を見せる桃太郎に、今度は鬼灯が首をかしげる。
「桃太郎さんは、アレが一人の伴侶を大切にできるような男だとでも?どうせその番が見つかったとしても、すぐに花街に戻って三行半を突きつけられるのが落ちですよ。」
「ははは…それもそうなんですが。けど、番の事を話していた時の白澤様の様子が、どこかいつもと違ったもので。なんというか、いつものあのヘラヘラした顔じゃなくて、本気で、真剣に悩んでる感じがして。」
「・・・・師匠想いの良いお弟子さんですね、貴方も。まぁ、いいでしょう。万が一亡者の中に神の番が混じって、それを拷問しているとなれば、地獄と天国の関係にも良くありませんからね。中国神獣の番となればなおさら、国際問題にもなりかねません。あくまで日本人の亡者に限り、私も気を付けておきましょう。ですが、神獣白澤は中国の神です。その番が中国の人間か神である可能性の方が大きいですからね。その点を忘れずに。」
「あ、そっか。なんか勝手に日本人限定で考えてました。俺の世界って高天原寄りの桃源郷と地獄でできてるので。」
「あの豚が日本地獄にばかり入り浸っているから、そう考えてしまうのも無理もありませんね。」
そこまで話すと鬼灯はくるくると巻物を巻き直し、少し離れた場所で様子を伺っている獄卒に手で合図を送る。するとその合図に獄卒は小さく頷くと、いそいそと広間から姿を消した。
「さて、そろそろ裁判が始まる時間なので、このあたりで。私は手洗いに立ったまま戻ってこないアホ大王を連れ戻しに行きますので失礼しますよ。」
「あ、すみませんお時間取らせちゃって。じゃ、毎度ありがとうございまーす。」
裁判が始まる時間に近づいているため話を終わらせた鬼灯に、桃太郎は慌てて荷物を背負い出口へと向かう。その後ろ姿を見送りながら、鬼灯はスッと切れ長の目を鋭利に細めて無骨な指で己の顎を撫でる。そして誰にも聞き取れないような、小さな小さな声でそっと呟いた。
「生まれ落ちる鼓動に気付きながら、なぜいつまでたってもその手にできないのでしょうねぇ・・・。知識の神ともあろう者が、まったくもって不思議なことだ。」
普段は下向きになっている彼の口角が、僅かに上に持ち上がる。 しかし、この閻魔殿の主である王がこちらに向かって廊下を歩いている音に気が付くと、再びスッと下に落ちるのだった。
「十と五の年を越えた頃、お前は神様の元にお嫁に行くのだよ。その印を持って生まれた子は、そういう定めなのだから。」
物心がついた頃より、お爺様や縁者の人達にずっと聞かされていた言葉。それは腹に印を持って生まれた子は、時が満ちれば水神に嫁入りをするという、代々受け継がれている贄の話だった。 その印を持つ子は数千年も前から一定の間隔でこの家に生まれ、そして時が来れば神に捧げられ、また生まれるという。
「始まりはまだ魑魅魍魎がこの世の暗闇に生きていた頃。吉兆の神と同じ御印を持つ赤子が生まれたそうな。その赤子を産んだ女は、夢の中でそれはそれは美しい天帝と呼ばれる神にお言葉を賜ったと言う。「十五の年、吉兆の神にその娘を捧げよ」と。それを聞いた村人達は女をご聖体のように敬い、生まれた子は神がお迎えに来るまで大切に大切に育てた。しかし娘が十五になった年、日照りによる飢饉が村を襲った。草木は枯れ、田も干からび、人々は飢えた。そんな時、一人の蛇神様が降り立ち、こう言ったそうな。」
吉兆の神の嫁御を、我に捧げよ と。
「村人達はそれはそれは悩んだ。娘は吉兆の神の嫁にとこの村に授けられたのだから、違う神に捧げては天帝との約束を違えてしまう事になろう。けれど、餓えには勝てなかった。村人達は十五年大切に育てた吉兆の神に捧げるはずだった娘を、蛇神様へと捧げてしまったのだ。すると蛇神様は大層喜ばれ、山から大量の湧水を村へと流しこみ、おかげで飢饉は解消された。けれどそれは悪い蛇神様だったのだ。なんと蛇神は捧げられた娘を喰らうと、こう歌ったそうな。」
御印の付いた娘の、なんと美味な事か。次生まれる御印の子も我に捧げん。なんと愉快愉快。この村はもはや我のトグロの中。あな悲しや、トグロの中から出ることはできぬ。
「では今私達達がいるこの場所も、トグロの中?」 「そう、我らはもはやこのトグロの中から出る事はできない一族。お前は知らぬだろうね。山の外には文明が開化した素晴らしい世界が広がっている事を。そして世界をその目で見る事なく、一生を終える憐れな子。」
この山に住む一族は蛇神に見入られ、外界からトグロによって遮断され、山を降りる事はできないのだという。そして定期的に生まれる御印の付いた子を、蛇神に捧げて絶滅を免れているのだとか。外の世界には違う文明が広がっているのだとか、そもそも外の世界を知らない私にとってみれば、世界などこの山の中だけだ。
「確かに、憐れかもしれない。けれどね、お爺様。私はこの集落の誰よりも大切に大切に育ててもらえた。できうる限りの学も与えてもらえたわ。たとえ其れが神様に捧げる供物だからという理由であっても、他の兄弟達よりも恵まれて育った事に変わりはないもの。」
「優しい子だね。しかしそう思えるように育てたのは我々なのだから。」
「そうね。お爺様達にとって都合の良い思考を持つ娘となるように育てられたとしても、それでいい。私にとって世界はこの場所だけ。兄弟達が私の事をどう思っていたとしても、私は彼らが好きよ。そして大好きな彼らが、寿命を持ってこの世から去れるように、安寧の時間を守る事ができるのなら。これは私にとって誇り高き大義だわ。」
十五の年を迎えた正月に、私は己が生まれた意味と務めを知った。 世界はこの場所だけではなかったのだと。そして私はトグロの中の箱庭を守るための贄であり、供物であるという事を知っても、驚きも絶望もしなかった。 なぜか。それは何度蛇神様にお嫁入りして喰われても、巡る魂は同じだからだ。人格は違う。けれど、物心がついた頃から、私の中には何人もの「私」が生きた記憶が刻まれていた。 私は何度死んでも、また私として腹に御印を持って生まれる。そして漠然と、「誰か」と出会う為に生まれてきたのに、違う「誰か」に喰われる定めなのだと、少しだけ悲しみ、そして幾人もの「私」がそうであったように、諦めようとした。
「でもね、お爺様。知ってる?」
けれど、幾人もの私がそうであったように、一陣の望みを捨て切る事はできなかった。
「きっといつかこの歌は、吉兆の神様に届くと私達は信じてるの。」
そう、私達は生まれた時から知っている歌がある。 それは母に聞かされたわけでもなく、誰に教えてもらったわけでもなく、魂に刻み込まれている愛し歌。 詞などなく、旋律もない。まるで弦を弾くような、水滴が落ちるような、高く儚い鳴き声のような歌だ。 鳴き声だなんて獣染みているが、それは私が生きる為に、見つけてもらう為に授けられた歌なのだと知っていた。
誰にも聞こえない。誰かだけに聞こえる歌。 歌う声は年々大きくなり、十五の年になった頃には水面を震わせるまでとなった。 けれど、ここが頂(いただき)なのだろう。 この声が十五の年に吉兆の神に届かなければ、気づいて耳を傾けてくれなければ、十五の年が終わる頃私はに蛇神に喰われるのだ。
「今度は、この歌が届けばいいのにと。まだ希望を捨てきれずにいるのよ。」
そう私が微笑めば、お爺様は唇を震わせ、「すまないね。」と何度も謝罪を口にしながら目頭を押さえ、涙を流す。 庭で音を立てる添水の水面は、今日もゆらゆらと揺れていた。
「蛇の山?」
その日、鬼灯は現世に視察に行っていた獄卒からの報告書の内容に、思わず眉を顰めた。 机を挟んで獄卒と向かい合っている鬼灯は、渡された報告書の隅々に目を通す。 そんな彼に獄卒は何やら懐をごそごそと探りながら、報告を続ける。
「えぇ。田舎の集落に伝わる昔話みたいなものでして、その集落の近くに蛇が住まう山があって、そこには蛇神に仕える一族が住んでいるらしいんです。まぁどこにでもある言い伝えなんですけどね。ただ、気になるのが、これです。」
獄卒は一旦言葉を切ると、懐から擦り切れて日に焼けた古い紙を取り出し、それを鬼灯の机に広げた。 それはかなり昔の地図で、墨で書かれている文字は所々霞んではいるが、辛うじて読める程度には劣化が留められている。 恐らくこの獄卒の私物なのだろう。
「千年ぐらい前に同じ場所に自分行ってるんですけど、これはその時の集落の地図です。見てください。今の地図と比べると、千年前にはあったこの山がぽっかり消えてなくなってるんですよ。」
そう、現代の地図と千年前の地図を交互に指差して説明をする獄卒に、鬼灯も顎に手を当てて「ふむ」と視線を動かす。
「勿論、土地開発のために崩されたのかもしれないと思って調べましたよ。そりゃあもうかなり遡りました。すると、私が千年前にこの場所に行った後から百年後に、いきなりこの山の存在が集落から消えてるんです。不思議でしょう?その頃にはまだ山を崩す技術なんて存在しない。そして極め付けは集落に伝わるこの言い伝えです。」
-辰巳(たつみ)の方位の山と、そこに住まう民は吉兆の神の嫁御を授かった。けれど凶作の日、民は餓えに耐え切れず大蛇に嫁御を捧げて水を得て生き延びた。約束を違えた民は神に見放され、大蛇のトグロの中に閉じ込められ、娘を蛇に捧げ続ける呪と共に山と消えた-
獄卒の口から紡がれるその言い伝えの中のある言葉に、鬼灯の瞼がぴくりと震えた。
「・・・吉兆の神の嫁御?」
「えぇ、どうやら千年前に吉兆の神の嫁がある集落の人間と人間の間に生まれたんですが、その子を誤って大蛇の供物にしてしまったようですね。それからその集落は神に見放されて、更に蛇に呪われて山に閉じ込められている。という言い伝えです。そしてその山が、九百年前に突然地図から消えた、蛇の山と呼ばれて昔話にされているこの山なんですよ。」
顔を上げた鬼灯に、獄卒は再び千年前の地図を指差す。
「当初、蛇と言うと地すべりや鉄砲水などの水害の象徴ですから、それらで集落もろとも埋り、災害の言い伝えとなっていたのかと思っていたのです。ですが、吉兆の神の嫁御という言葉が引っ掛かりまして。鬼灯様。もしこの山の存在が自然災害などではなく、邪神の欲によって手が加えられ、未だに人間が神に囲われていたとすれば、これはあの世とこの世のルール違反です。さらに神の嫁御が捕らえられているのだとしたら・・・・。」
獄卒のその憶測に、鬼灯はそれを一蹴するでもなく真剣に向き合う様子を見せていた。 まさかこんなに早くに、それもタイミングよく情報が舞い込んでくるとは思わなかったからだ。 鬼灯は懐から折り畳み式の携帯電話を取り出すと、パカパカと開いたり閉じたりと手遊びをし始める。 その目には滅多に垣間見る事のできない、愉悦の色を浮かべていた。
「千年前といえば日本は平安、中国は唐の時代。あの世も未だ安定していなかった頃ですね。その頃は国を跨いだ神々の往来も比較的自由にできていた時代。アレの番が日本に落されていたとしても、不思議ではありませんね。」
「やはり、吉兆の神という言葉が示しているのは、白澤様の事でしょうか?」
「確定ではありませんが、可能性はあります。つい先日、アレの番がどれだけ探しても見つからない、という話を桃太郎さんから聞いたばかりですので。もしも蛇の山に囚われている一族にアレの番がいるとすれば・・・これは借りを作るいい機会だ。」
僅かに口角を持ち上げてそう口にする鬼灯に、獄卒は「こんな時には確執を持ち出すとは…」と若干呆れたが上司、それも本人を目の前にして口に出す失態は犯さなかった。 何はともあれ、上司はこの案件に腰を上げて自ら動くのだろうと悟った獄卒は、次の指示を待つ。
「ご報告、ありがとうございます。次の休みに私もこの集落に視察に行ってみようと思います。そこで貴方に頼みたいのですが、山が姿を消したと思われる百年の間の、この集落の亡者の履歴を洗い出してください。もし、本当に山ごと民が大蛇に囚われているとすれば・・・邪神とはいえ神ですからね。寿命を迎えて死んだ民の魂までもが囲われたまま、山から出れずにあの世に来れていない可能性があります。」
「かしこまりました。早急に資料を洗い出します。それにしても…もし九百年もあの世ともこの世とも断絶されていたとすると、こちらに出生の記録もなければ、山中の亡者の人口密度も凄い事になっていそうですね。」
「そこも含めて調整しましょう。その場合、亡者に逃亡の罪は科されないので、情状酌量の余地も裁量しなければなりません。それから倶生神の記録も、確認をお願いします。言い伝えが真実であれば、記録が途中で止まっている人間が多数いるはずですから。」
そこまで指示を出すと、鬼灯は重要な案件を仕入れてきた獄卒に「お疲れ様でした。」と労わりの言葉をかけ、携帯電話の発信ボタンを押した。
≪お前の探し人、もしかしたら蛇に囚われているのかもしれませんよ。まぁ、まだ憶測の域ではありますけどね。≫
「・・・っどういう事だよ!」
その電話がかかってきてすぐ、白澤は店を閉め、タンスをひっくり返しては現世の服を次から次へとベッドの上に放り投げていた。 そしてあらかた衣類などの荷物をまとめると、今度はノートに店の営業に必要な情報を乱雑に書き込んでいく。しばらく店を留守にするかもしれないからだ。だが薬剤師がだいぶ板についてきた優秀な弟子は、恐らくこのノートがあれば1週間程度は己がいなくとも店を回せるだろう。
≪蛇の邪神にその番が囚われているのだとしたら、何度生まれても蛇のトグロの中に囲われて、お前の知らぬ所で死に、また生まれてを繰り返しているとしても不思議ではないと思いませんか?ねぇ、知識の神サマ。≫
脳裏に蘇るのは、先ほど電話をかけてきた確執のある因縁の鬼の声。 それは愉悦を含んだような声色ではあったが、白澤をを騙そうとしているわけではなさそうだった。 人間を裁く者として、間違っても嘘はつかないからだ。
「もしそこに僕の番が囚われているとすれば、歌が届かないのも聞こえないのも当たり前じゃないか・・・!」
囚われているだけならまだしも、己の番が邪神に虐げられていたとすれば。 己の番一人救う事ができずにいただなんて、気づく事ができなかっただなんて、吉兆と知識の神の名が聞いて呆れるではないか。
「今度こそ、絶対に見つけてみせる…!」
見えぬ敵を射殺すかのような眼光で壁を睨みつけ、グッと拳を握った白澤の黒い瞳が、一瞬だけ黄色みを帯びた。しかし、それはすぐに黒へと戻り、唇からは深い息が吐かれる。 昂る己を落ち着けると、閉じたノートと荷物が詰め込まれた鞄を手に取り、白澤は店番をしている弟子の元へと向かった。
「で、私が来る何日前からお前はここにいる?電話をした日に山に行くのは1週間後だと伝えたはずですが?」
数日後、なぜか集落の高齢者と馴染んで畑仕事を手伝っている白澤を見て、擬態薬で人間となっている鬼灯がヒクリと頬を引きつらせた。そんな鬼灯に顔についた土を手の甲で拭いながら、白澤は先ほどまで高齢者達に浮かべていた笑顔を消して、仏頂面で口を開く。
「1週間も待てるわけないだろ。情報収集の為に先に来て、伝承やらなんやらを現地の人に聞いてたの。その間、家に泊めて貰ってるお礼に畑仕事の手伝いをちょっとな。で、地図は?」
「ちっ…ほらよ。コピーですが。一応、お前の番がそこにいるという確証を得るまで、余計なことはしないように。あくまで日本地獄と天国の管轄ですから。」
「でも、僕の番が囚われていたとすれば、これは中国の問題にもなる。だろ?何しろ僕の番を日本に落としたのは中国天帝だ。」
「だからお前にも一応教えたんだ感謝しろ。」
「はいはい。じゃあ、知り合い来たから調査に行ってくるねー。腰やらないように気をつけなよ。」
仲は悪そうだが旧知の知り合い、といった雰囲気で刺々しくも会話が成立している二人を、畑仕事中の高齢者達は面白そうに眺めていた。 そして鍬を置いた白澤は濡れタオルで汚れや汗を拭うと、小さなリュックを背負い、高齢者達に軽く挨拶をして先に歩きだした鬼灯の後を追う。 二人が歩く畦道の周りは山々に囲まれていた。
「今日はあの巣鴨の高齢者のような服ではないんですね。」
「山登りにあの服は不便だろ。」
お互いにTシャツとGパンという軽装で、古めかしい地図を手に歩く二人の姿は、傍から見ればただの観行者だ。無言になったり、たまにぼそぼそと嫌みの応酬をしながらも、普段のような喧嘩に発展する様子はない。一方は仕事で、もう一方は私用ではあるが真剣だからだ。
そして千年前の地図が示す場所にたどり着いたはいいものの、先に視察に訪れていた獄卒が話していたように、その場所には山はない。代わりにあるのは、供え物が置かれている小さな祠。そしてその祠の先は不自然な程の平地が広がっているのみだった。手入れのされていない平地は、草は伸び放題でただっ広い空地のようだ。
「ここが千年前には山だった場所ですね。左右を山に挟まれた平地・・・。そして神を祀っている祠。なるほど、何かありそうだ。」
祠に手を合わせて一礼した鬼灯は、辺りをぐるりと見渡して地図と交互に見やる。 しかし白澤はズボンのポケットに両手を突っ込み、不敬の態度で祠を睨みつけて口を開いた。
「集落に住んでる人に聞いたんだけど、この平地には絶対に建物を置けないらしい。庄屋だろうが家だろうが、施設だろうが、この土地に腰を据えると必ず災厄が降りかかるんだとさ。図書館で新聞を読みあさってみたけど、商用施設は大火に見舞われ、建設を行えば建設中の事故やそれによる死亡者の多発。なんとか複合住宅が建っても気をおかしくする住人が相次ぎ、とうとう曰く付きになったらしい。この祠はだいぶ年期の入っているものだけど、なぜ土地開発時に取り壊されていないのか。理由は取り壊そうとする者は、必ず蛇の模様が体に現れて苦しんだ後に死ぬからだとさ。」
「日本の曰く付きと呪を一つにギュッとまとめたような場所ですね。欲張り過ぎじゃありませんか。」
「今時珍しいぐらいの凶兆が溢れている場所だよ。そしてさっきお前が手を合わせたこの祠に祀られてる神は、道祖神でもなく蛇神。昔、山ごと集落の民を食った大蛇が再び姿を現さないように、鎮める為の祠なんだって。家に泊めてくれたじいちゃんの話だけどね。でも、確かに古い民俗資料にも、似たような昔話がいくつもあった。多少内容を変えて語り継がれてるようだ。」
この数日で集めるだけ集めた情報を元に、白澤は推測を立てていたらしい。 そして核心に近づきつつ、鬼灯が来るのを待っていたのだ。
「ならばこの場所で、大蛇に見入られた古の民が神域に囚われている可能性はかなり高い、と。」
「あぁ。それにね、これは大蛇を鎮めるための祠であり結界だ。この平地だけ外界とは交わらないように、結界で遮断されてる。気づいてるか?吉兆の神と地獄の鬼人がわざわざ訪れてやったというのに、さっきから祠の中から敵意と排除の意がただ漏れだ。」
そう顔を歪めて笑いながら白澤は指先をすり合わせる。それは鬼灯も同じようで、先ほどから指先や肌に感じる不快な痺れに苛立ちを感じていた。 祠の中を覗いてみると、祀られているのはトグロを巻いた蛇の抜け殻。なるほど、これが「入口」を守っているのかと思うと、やはり自分たちの推測は間違っていなかったのだと確信した。
「・・・あの獄卒はなかなか目の付けどころが違う。優秀な人材となりそうですね。」
鬼灯は薄い下唇を舌先でぺろりと舐めながら目を細める。恐らく今回の件の報告書を上げてきた獄卒は、今後鬼灯の中では管理者候補となるのだろう。そんな彼の体は擬態薬の効果が切れたのか、耳の先は徐々に尖り、額からは角が現れ始めた。 だがこの平地の周りに民家はなく、人もいないため気にする必要もない。
「あぁ、見つけてきてくれた獄卒クンには感謝だな。それじゃ、さっさと玄関を開けてもらおうか。」
すると白澤が「これ以上待てない」と言わんばかりに祠に手を伸ばし、トグロを巻いた蛇の抜け殻に掌をかざす。途端に彼らの周囲にはパチパチと静電気が発生し、蛇に触れんばかりの白澤の手にはビキッと血管が浮かんだ。そしてその血管に沿うようにして、まるで蛇が這っているような蠢く模様が現れ始める。
静電気が二人の髪を逆立て、白澤の腕には蛇が這う。 けれど鬼灯はそれを静観し、白澤も余裕の笑みを浮かべていた。
「呪詛か。これで此処に立ち入ろうとした人間を、何人も喰い殺してきたってわけだね。でも、」
そして白澤は蛇が這う腕の手を、何かを握り潰すかのように筋を立ててギュッと握りしめる。 その瞬間、二人の耳には小さな悲鳴と共にパキリと何かが折れるような音が聞こえ、煩わしい静電気は空に散った。
「門番としての仕事を全うしようとする姿勢は素晴らしいけど、末端の土地神が大妖の長である僕に噛みついて勝てるとでも思ったか?力量が違いすぎるよ。散れ。」
普段の彼とは縁遠い、地を這うような低い声で「散れ」と命ずると、呪詛もろとも結界を守る大蛇の僕(しもべ)は消滅した。そして祠の中の蛇の抜け殻は、今まで止まっていた時が急速に動き出したかのように、途端に乾き、砂となり、そして埃となってとうとう崩れ落ちてしまった。 そして三度瞬きをする間に、二人の目の前には今まで存在しなかった青々と茂る山が姿を現したのである。
「ご苦労様でした。」
「お前も見てるだけじゃなくて何かしろよ。」
「何のためにお前を連れてきたと思ってる。」
「うわ、僕の神通力目当て?ムカつく。」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、目の前にそびえたつ山を気だるげに見上げて、淡々と悪態の応酬を交わす二人。その姿はまるで、今から道場破りでもするチンピラのような佇まいだ。 覚悟はしていたつもりだった。けれど、いざ目の前にすると、やはりうんざりしてしまうのも事実だと鬼灯はため息をついた。隣の神獣は己の面倒とは違い、言葉とおり神に喧嘩を売りに行く面構えなのだが。
「登るか。」 「登るか。」
一人はため息と共に。 もう一人は怒りと共に。 二人の姿は山の中へと消えていった。
「蛇神様。小夜でございます。貴方様の元へお嫁に参りました。」
真白な襦袢は白無垢であり死に装束だ。 三日三晩、身を清めて脱俗した四日目の日の朝。 集落の人間達に見送られて、十回目に生まれた嫁御として蛇神の元を訪れた小夜は、苔の生える神社の中へと静かに入って行った。そして涙を流す祖父の手によって御本殿の扉が閉められると、窓のないその場所は朝といえど光が入らず真っ暗となる。 その闇の中で、気丈にも小夜は姿の見えぬ蛇神に向かって嫁入りの言葉を投げかけ、三つ指をついて頭を下げた。暗闇の中に音はなく、ただシンとした静けさだけが支配する中、己の心臓が脈打つ音だけが断続的に鼓膜を叩く。
(今度も歌は届かなかった) (蛇神はどのような姿なのだろうか) (喰われる痛みはどれほどか)
様々な思いが、小夜の中で交差しては消えていく。 覚悟を決めていても、落胆と恐怖はけして消えはしないのだ。 だから三つ指をついている手が震えているのも、仕方がない。
(まだ、御姿を現さない…)
神は気まぐれだ。すぐに現れないという事は、まだ気分ではないのだろうと、小夜は恐る恐る頭を上げた。鼓膜を叩く心臓の音は相変わらず忙しないが、徐々に暗闇に目が慣れ始め、落ち着ける為に息を吐く程の余裕が戻り始める。 広い板の間は埃にまみれ、湿った匂いが小夜の鼻を付く。 このまま無音の暗闇にいれば、気がおかしくなってしまいそうだと、小夜は緩く頭を横に振る。
(いや、気がおかしくなってしまったほうが楽かもしれない。)
そう思ってしまう小夜だったが、もし気狂いの女を嫁に出しでもしたら、蛇神は怒り狂って山に住まう者達を喰い殺してしまうのではないかと。そう考え直し、小夜は気を紛らわせる為の策を練る。 するととても自然に、小夜は目を閉じ、薄く開いた唇から長い吐息を息が続く限り吐き出した。
「これが、最期の歌になるのでしょうね。正しい人に届く事なく、私のための鎮魂歌だなんて。」
旋律も歌詞もない、小夜とたった一人の誰かにしか聞こえない歌は、結局最後は小夜のためだけの鎮魂歌として終えるのだろうと。小夜は魂が覚えている歌をひたすらに歌う。 その時だった。
「・・・え?」
パチン、と何かが弾かれるような音が山全体に響き渡り、続けて僅かに地面が揺れた。 それは何か大きな生き物が地面を踏んだ時のような、地響きのようなもので、小夜はとうとう蛇神が現れたのかと身構える。 しかしいくら待っても、御本殿の中には小夜一人の気配のみだった。 地面が揺れる地震と呼ばれる自然現象だったのだろうか?と、学びの時に教えてもらった自然現象かと小夜は考えたが、その前の何かが弾けるような音は一体なんだったのだろうかと小夜は首を傾げる。
にわかに騒がしくなった、己の住まう山の変化になど、未だ小夜は知る由もなかった。
「・・・歌だ。」
「は?」
ふと、白澤が顔を上げて小さな声で呟く。
無理やりに入口をこじ開けて蛇の山に入山した鬼灯と白澤は、人の手入れのされていない獣道をひたすらに昇っていた。やはり軽装で来て正解だったと、白澤は顎を伝う汗を手の甲で乱暴に拭う。しかし蛇神が支配する「蛇の山」だけあって、道中はそこかしこに蛇の姿が見受けられた。木の枝に絡まりジッとこちらを伺う金色の目をした黒い蛇、そして侵入者を排除すべく牙を見せて噛みつこうとする蛇。毒持ちは確実だろう。 それらを蹴散らしながら人が作ったであろう道にようやく出会い、その道に沿って山を昇っていた時、ふと白澤の足が止まり、歓喜の滲む声が彼の口から零れた。
「歌だよ。僕にだけ聞こえる番の歌だ。そうか、彼女はこんな声で歌うんだね。」
「・・・この先にお前の番がいるという事ですか。」
喜びが大きすぎるのか、今にも泣き出しそうな震える声でそう言いながら、白澤は彼にしか聞こえない歌声に誘われるように、ふらふらとまた歩きはじめる。まるで夢遊病のようなその姿に、鬼灯は「獣の本能か。」と小さく呟き、彼の後に続くが、ふと何かに気がついたかのように向こう側に視線を向けた。
「あぁ。どうしよう…とうとう会えるんだ…早く会いたいよ僕だけの番。僕だけの可愛い子。早く会ってはじめましてって、挨拶をして、それから・・・・。」
「夢を馳せるのは結構ですが、さっさと人がいる場所へと向かいましょう。入口の式神を破った事に蛇神も気付いているはずだ。蛇神がお前の嫁御もろとも民を喰らって、養分を蓄えようとする可能性も無きにしも非ず。急ぎますよ。ようやく「一人目」を見つけましたから。」
「わかってるよ。だから、邪魔をするな。」
早く行かねば嫁御が喰われると急かす鬼灯の言葉に、白澤は顔を引き締めるとぶっきらぼうに返事を返し、同時に足に噛みつこうとしていた色鮮やかな蛇を手で討ち払う。 そして目の前にふらりと現れた何かに目をつけると、二人顔を見合わせて頷き、驚いた様子のソレに手を伸ばす。
二人が歩いてきた道には、千切れていたり首を切り落とされた蛇の屍累々が、そこかしこに散らばっていた。
「山が揺れている・・・。」
「鳥の声と、聞いた事のない大きな音が通り過ぎたぞ。」
「井戸からは水ではなく蛇が湧いている!」
「何が起こっているんだ!?」
その頃、古の民が住まう村では異変が起こり始めていた。 上空を通過する低い轟音に女子どもは脅え、家畜以外の鳥の囀りが降り立ち、まるで何かが地面を踏みならすような地響きが断続的に続いている。 井戸や草むらからは大量の蛇が湧き溢れ、家の中にまで入り込んでくる始末。 ある者は赤ん坊を毒蛇に喰われそうになったと半狂乱だった。 今までこんな事は一度だって起こりはしなかったと、村人達は長である小夜の祖父の元へと集まってくる。。 小夜を蛇神への供物として神社の御本殿に置き去りにして、苦渋の思いで屋敷に戻った祖父は、少しずつ何かが変わり始めている異変を勿論その肌で感じ取っていた。
-人智を超えた何かが起こり始めている-と。
それは恐怖と微かな希望を伴って、少しずつ近づいてきている。 小夜の祖父は村人達に落ち着くように声をかけると、己の屋敷に全員集めるように指示を出す。 何が起こるか分からない今の現状で、村人達が散りじりになるのは危険だと判断したのだろう。
しばらくして小夜を除いた村人全員が己の屋敷に集合した事を確認すると、家の門を閉め、固く施錠した。
「長、いったい何が…、」
「わからん。だが、蛇神様のご意思か・・・。」
縋れるもののいない村人達は、長へと状況説明を乞うがもちろん長にも状況など分かりはしない。 彼にできる事は、ただ冷静になるように宥めるだけだ。 するとその時、一人の娘が小さな声でぽつりと呟いた。
「・・・小夜が蛇神様のお気に召さなかったのでは?」
その言葉に、喧噪がピタリと止まる。 すると娘はその目に疑いの色を浮かべて続けた。
「蛇神様が、小夜をお気に召さずに暴れていらっしゃるのではないですか?」
誰もがそのような事はずっとあり得ないと考えていたが、もしそうならばとんでもない事だと、娘の言葉を聞いた村人達は互い互いに不安げに顔を見合わせる。 そしてぽつりぽつりと違う者も疑いの声を上げ始めた。
「しかし、小夜の腹には確かに御印があった。」
「だが小夜はいつも「本当の誰かに会いたい」と口にしていた。あれはどういう意味だ?」
「本当の誰かとは誰か。」
「小夜は蛇神様に嫁ぐ気がなかったのでは。」
「あれだけ、どの子よりも優遇して何不自由なく育ててやったというのに。」
「他の子がひもじい思いをしていた時にも、小夜だけは食に困らなかった。」
「なぜ。」
「どうして。」
「私達を裏切ったのか。」
恐怖は疑念を生み、疑念は予想になり、予想は一人歩きをして憎悪へと育ち、そして憎悪は人の心を簡単に残虐なものへと変えてしまう。 それは御印を持って生まれた事で優遇されて生きてきた小夜に対し、僅かにでも不満を持っていた者にとって十分な火種だった。
蛇神への恐怖が小夜への憎悪に染まる村人達の様子を、小夜の祖父である長はもはや止める事はできなかった。小夜がどの村人達よりも優遇されていたのは確かだったからだ。衣食住を優遇され、畑仕事や家畜の世話をしないでも良い分、学を培う時間をたっぷりと授けられ、手が荒れる事なく常に清潔でいる事ができた。しかし、それは小夜の為ではなく、蛇神への供物となるための優遇であり、ひいてはその供物を蛇神に捧げて生き残っている村人達のためだ。 それを湧き立つ村人達に必死に声を上げて長が説明するも、憎悪に染まる彼らの耳にはもう届かなかった。
「小夜は蛇神のお気に召さなかった。」
「小夜を御本堂から引きずり出せ。」
「小夜を殺せ。」
「神のお気に召さなかった役立たずの生贄など、もはや不要。」
「殺してしまえ。」
長の止める声も届かず、怒りに染まった村人達は瞬く間に暴衆となり、屋敷の倉庫から鍬や鉈などの農具を手取り出すと、施錠されている門へと向かう。打ち破る気だ。
その時だった。
「はいはい、お邪魔しますよー。」
「一応ノックはさせて頂いたのですが、反応がなかったもので。」
「!?」
今まさに村人達が内側から打ち破ろうとしていた門が、二人の男性の声と共に外側から轟音を立てて打ち破られた。その衝撃はすさまじく、木材で作られていた門の破片が先頭にいた村人達をも巻き込み、四方へと飛び散る。そして村人達が穏やかではない突然の訪問者に身を固くしていると、視界を遮っていた土煙りが風に流されて晴れ、門を破壊した者達が姿を現わした。
TシャツにGパンという軽装だが、どこか異様な雰囲気を待とう二人の男達は、似たような顔つきをしてはいるものの、その顔に浮かんでいる感情は全くの別物だった。一人はただ冷静に、一人はこみ上げる怒りを必死に抑えているようで。二人の男、鬼灯と白澤は突然の出来事に呆気に取られている村人達を見渡すと、長い足を一歩前へと踏みだす。そして先に口を開いたのは白澤だった。
「・・・ご機嫌麗しゅう、古の民の皆さん。蛇神の呪から救いに来たよーっと言いたいところだったんだけど、門越しに聞こえちゃったんだよねぇ…。」
「な、何者だ貴様ら…!?」
笑みを浮かべてはいるものの、瞳はけして笑っていない白澤の異様な雰囲気に押され、村人達は引き攣った声で何者かを問う。だが白澤はその質問に答える事なく、じわじわと黄色になったり黒に戻ったりと忙しない瞳で、村人達を一人一人見渡してはその口元に軽薄な笑みを浮かべて続けた。
「そっかそっか。僕の番の名前、小夜ちゃんっていうんだ?小夜ちゃん。うん、良い名前だ。それで?僕の小夜ちゃんを今回も蛇神に捧げて生き延びようとしていた君達は、命綱の小夜ちゃんをどうするって?」
「は…番・・・?まさか、」
白澤の口から飛び出した「番」という言葉に、相も変わらず武器を手に怯えた様子の村人達とは反対に、村長だけが驚愕に目を見開く。まさに信じられない、といった表情だった。だがチリチリと静電気を纏いながらまた一歩前に足を踏み出した白澤は、村長を一瞥するのみで。
「蛇神の赦しを得られなければ、贄を殺しても厭わないと。しょうもない理由だ。自分達の仮初の安寧のために勝手に祭り上げ、叶わないとなれば全ての罪を擦り付けて、まるで災厄の権化として殺しても構わない?」
怒りを隠そうともせず、侮蔑の目で村人達を見やる白澤に一方的に罵られ、辛抱堪らなくなったのか一人の娘が口を開く。
「だ、だって小夜は…蛇神に嫁ぐために生まれたのに、神のお気に召さなかったから、」
「黙って。誰が誰に嫁ぐためだって?」
だがその娘の抗議の言葉を遮り、白澤は一層黄色みを帯びた瞳で睨みつける。 その瞬間、今までに体験したことがないような重圧がズンと村人達を襲った。呼吸がうまくできない、ま
るで何かに抑えつけられているような感覚だ。 その様子を鬼灯はただ冷静な瞳で見つめていた。
「あの子は蛇の餌になるために生まれてきたんじゃない。僕の番になるためだけに生まれてきた唯一だ。
なぁ、よく見ろ。あの子の腹に浮かんでいたのは、この印じゃないか?」
そう言うと、白澤は乱雑に前髪を持ち上げて、額に浮かぶその印を村人達に見せる。 その瞬間、村人達の間からかすかな悲鳴が上がり、村長は驚愕のあまり上がりそうになった声を、なんとか手で口を抑える事で飲みこんだ。白澤の額に浮かんでいる目を模した神格を証明する紋様は、小夜の腹に浮かんでいた御印とまったく同じだったのだ。
「なるほど、言い伝えは真実だったようですね。神獣白澤の嫁御がこの村に授けられた事。飢饉の際に邪神の蛇の甘言に乗せられ、嫁御を供物として差し出した事。そして、神に見放され蛇に囚われた古の一族は、絶滅しないように繰り返し生まれてくる嫁御を蛇に捧げてきていた、と。」
ざわめく村人達を見渡しながら、鬼灯はそう静かに話す。 その表情は白澤とは違い、酷く冷静なものだった。彼の頭の中では今後の対応しか巡っていないのだろう。そして無骨な手に握りしめているか細い手の主をチラリと見やり「ここまで案内をしてくださり、ありがとうございました。」と小さな声で呟いた。それは村人達の目には映ってはいない、既に肉体が滅び魂だけとなった元村人の一人で、髪の長い女の亡者だった。
「予想していた通り、この山にはあの世に行くことができずにいる無数の魂がさ迷っている。これは回収と今後の裁判に骨が折れそうだ。」
≪裁判でもなんでも受けよう。とにかく、一刻も早くあの子を。≫
女の亡者は必死の形相で鬼灯に乞う。 この女は鬼灯達が山を登っている道中で、自ら姿を現した山に囚われていた亡者だった。長い事山に囚われていた亡者は、鬼灯達の存在に気づいてすぐに「助けが来たのかもしれない」と、彼らの様子を蔭に隠れて伺っていたようで。 そしてそんな彼女の存在に気づいた鬼灯達に捕獲され、入山できた理由と「本来の神が御印の子を助けに来た」と聞くな否や、自ら集落への案内を買ってでた。 そして、最後の望みとばかりに彼らに縋りついたのだった。
≪私は三番目に御印の子を産んだ母親。御印の子を産んだ女は、なぜか子が蛇神に喰われると同時に命を落とすの。きっと罰なのだわ。神にお嫁に出さなければならない子を、蛇の餌になんてした罰。そして子を守り切れなかった母としての罰。あの子は蛇に喰われてもまた何度も生まれてくるの。今期のあの子の周りにも、たくさんの母の魂が傍についてる。お願い、私達母の魂全てを捧げても良いから、あの子を助けて。あの子が本当の神にお嫁入りして、今度こそ幸せになれるように。お願いよ。≫
涙ながらにそう懇願する三番目の御印の子を産んだという母の亡者に、白澤と鬼灯は事の角真を得たのだった。
「私達の行動があなた方にとっての救済となるのかは分りかねますがね。とにかく今の時代のあの世のルールでは、神による人間の神隠しは違法です。また、中国妖怪であり、神獣の嫁御を長い事日本の神が餌として喰らっていたとなると、ある種の国際問題。こちらの都合で申し訳ないですが、私達が今ここに訪れた理由は3つです。ルール違反を犯している蛇神の捕縛、吉兆の神へと授けられるはずだった嫁御の救出、そして山に囚われている亡者の回収。生者のあなた方には一切手を出す事はありませんので、ご安心ください。」
「さっきから知った顔をして一体貴様たちは何者なんだ!?なぜこの山に入る事ができた!?なぜ、小夜や蛇神様の事を、」
己たちがこの場所に来た理由を淡々と話す鬼灯に、村人の一人が武器を両手に構えたまま喉を震わせ怒号を上げる。村人達は一様に彼と同じ表情を浮かべている。異端者である、と。今までの生活を壊そうとする者。この生活から救ってくれるかもしれない者。仮初の安寧の崩壊は、常に心のどこかで望んでいたはずだったのだが、いざ変化が目の前に現れると酷く恐ろしかった。 そんな村人達に鬼灯は深くかぶっていたキャスケットを取ると、額に生えている一本角と尖る耳を露にする。その瞬間、集団からは恐怖の悲鳴が上がった。だが鬼灯は表情を変える事なく、フゥと一息つくと地を這うという表現がぴったりの低い声で、村人達に己の名を明かす。
「申し遅れました。私、あの世の地獄第一補佐官の鬼灯と申します。この度は日本の神が生者である皆様に、大変長らく神隠しでご迷惑をおかけしておりました事を、お詫び申し上げます。これより粛々と蛇神の捕獲、ご先祖の魂の回収、嫁御の救出を行いますので、生者の方々は事が済むまでこの場から動かれないよう、お願い致します。」
「おい、もう話はいいだろ。早く小夜ちゃんを助けに行かなきゃ。」
≪小夜はこの集落の先にある神社にいるはずです。お願いです、早く…!≫
だが、事務的に自分達が訪れた目的を説明し謝罪する鬼灯に、焦れた白澤は早々につま先を女の亡者が指し示す方向へと向けて、今にも走り出しそうだ。女の亡者も己が生んだ娘ではないにしろ、姿形や魂が同じ娘がまたも蛇神に喰われてしまう所など、もう見たくはないと先ほどから村人達の耳には届かない声で急かしている。 そんな2人に鬼灯はため息つを付くと、「わかりました」と頷き唯一事態を把握しているであろう、小夜の祖父である村長へと視線を向けて口を開いた。
「貴方は御印の嫁御の祖父君として、重々ご理解されていますね。」
「・・・先人より私達の代まで、嫁御を授けてくださった神の意に背いていた罪は、全てこの集落の長として私が受ける所存でございます。そして、吉兆の神よ。」
鬼灯の言葉を受けて、村長はその場に膝をつき、深く頭を下げてこれまで神の意に背いていた罪を謝罪する。そして土の上にぽたぽたと水玉模様を作りながら、肩を震わせて震える声でこう言った。
「千年の時を超えてなお、御自らお迎えに上がってくださった事、深くお礼申し上げます。私は可愛いあの子をこの手で殺さずに済むのだと・・・!お願い申し上げます。早う、早うあの子を迎えに・・・!日没を迎えると、蛇神様が降臨されあの子は・・・!」
今まで天帝の意に背いていた罪はすべて自分が受けると、責任を背負う意思を告げた村長は、今は一刻も早く孫娘である神の嫁御を迎えに行って欲しいと懇願する。 村長は自らの手で神社の御本殿に生贄として孫娘を置き去りにした事で、孫娘を自分で殺したも同然と罪の意に苛まれたようだ。けれど、夫となる神が自ら迎えに訪れてくれた事で、孫娘は蛇神に喰われずにすむかもしれない、またこの村の本来の責務を果たす事ができると、この村の誰よりも安堵していた。 白澤はチラリと村長を一瞥すると、「言われなくても」と小さく呟き、先に神社に向かって駆け出した女の亡者の後に続く。 そして鬼灯も帽子をかぶり直すと、彼の後を追った。
「・・・声が。」
閉じていた瞼がぴくりと動き、ゆっくりと持ち上がる。
集落に外からの侵入があった事など知らずに、未だ小夜は真っ暗闇の中で歌い続けていた。ズシンズシンという地鳴りは相変わらず断続的に続いている。しかし蛇神が降臨するお嫁入りの日なのだから、普段とは違う事が起こってもおかしくはない、と小夜は心を落ち着かせるためにひたずら声にならない声で歌い続けていた。 するとしばらくするうちに、小夜の耳に今まで聞いた事のない、けれどどこか懐かしさを感じる歌が聞こえてきたのだ。歌詞も旋律もない、弓を弾くような儚い歌。それは小夜の歌に合わせて共鳴するかのように、耳に溶けてまるでたゆたうような気持ちにさせてくれる。
パキリ
それは互いにしか聞こえない歌。 小夜は生まれて初めて・・・否、これまで喰われて朽ちていった過去の自分ですらも聞いた事のなかった、授けられるべき者の歌を聞いたのだった。
パキリ
「・・・そう、これが貴方の歌なのね。」
パキリ
両耳に手をかざし、その歌を少しも聞き漏らすまいと意識をそちらへと傾ける。初めて聞いた自分以外の歌うそれに、まるで蓋をされていた壺からあふれ出るように、とめどない愛しさが四肢から這い上がってくるような気がした。 己を求める歌。それはまるで雄鳥が雌鳥に捧げる求愛の歌のようで。
「よかった。」
パキリ
小夜の小さな囁きが、ゆっくりと近づいてくる板を割る音にかき消されると同時に、大きな影が視界を遮った。 歌に身を乗せるかのように、いつのまにか閉じていた瞼が、僅かに開く。 そして交差している睫の隙間から、涙が一滴また一滴と滲み溢れ出ては、頬を伝って落ちていった。
彼女の目の前には、鎌首をもたげ、裂けた大きな口から涎にまみれた舌をのぞかせた大蛇がトグロを巻いている。その大蛇の口から吐き出される生暖かい息が途端に小夜の体を湿らせた。 小夜は震える足を叱咤して大蛇と少しでも視線が近くなるように立ちあがると、顔も知らぬ運命の誰かに向けて微笑み、色を失った唇で囁く。
「今回の「私」の最期に貴方の歌を聞けて、本当によかった。でも、もう。」
(今回は間に合わない。)
そして次の瞬間、己の使命として嫁入りする大蛇へと向けたのは、愛しい人へと向けた微笑みとは対照的な、彼女が初めて見せる敵意の表情だった。 同時に、真白な襦袢に包まれている小夜の腹部の赤い紋様が発光し、襦袢越しに暗闇に浮かびあがる。 時が来たことを知らせるそれに、小夜はしばらく閉じていた喉を大いに鳴らした。
「神の威を借る大蛇よ。貴方にとっても、きっとこれが最期の晩餐だ。さぁ、先代より15年。待ちに待った横取りの獲物を、万を期して喰らうがいい!」
彼女の細くか弱い体から信じられない程、凛とした声が本殿の壁に反響する。 鎌首をもたげた大蛇の牙が振りかぶられたのは、同時刻だった。
「小夜ちゃん・・・?」
本殿の引き戸が開き、暗闇だった室内に光の線と影が射しこむ。 恐る恐る室内にいるであろう、これから大切な人となる女の名を呼ぶも、返ってきたのは鈴の鳴るような女の声ではなく、ツンと顔を歪めたくなるような鉄の匂いだった。 白澤はゾッと鳥肌を立てると、扉が外れる勢いですべて開き、本殿の中へと転がりこむ。
「小夜ちゃん、小夜ちゃ・・・。」
うわ言のように番の名を呼ぶも、未だ光が届かない部屋の奥からはクチャクチャと粘着質な咀嚼音が聞こえてくる。そして暗闇の中では赤い二つの目が、立ちつくしている白澤を見つめていた。
「あぁっ・・・小夜・・・!小夜・・・!嘘でしょう・・・!?日没にはまだ・・・ああっ!」
そして白澤を追うようにして部屋に入った女の亡者は、目の前に広がる光景に顔を抑えて崩れ落ちた。室内では、彼女と同じように体が朽ちて魂だけとなった女の亡者達が数人、それの周りでしくしくとすすり泣いている。 そして亡者達が囲み嘆いているその中心では、腰から上のみとなった無残な姿の小夜が、瞳孔が開いた瞳でぼんやりと天井を見つめていた。血の気を失った唇の端からは赤黒い血が滴り落ちている。 部屋の奥で未だクチャクチャと咀嚼をしている赤い目の怪物の、動く口元からは真白な細い足がはみ出していた。
「・・・・・っおまえ、それ、」
わなわなと震えている白澤の唇から、ひゅうと空気が漏れる音と共にかすれた声が零れる。 そして次の瞬間、噛みしめ過ぎた彼の前歯が自身の唇を裂き、鮮血が滴り落ちると同時に、瞳の色が黒から鮮やかな黄金色へと変化した。
「なにを、喰った・・・?お前が食べてるそれ・・・誰のものだと、思っている?」
黄金色の瞳で大蛇を射抜き、怒りの沸点を超えてその口元には笑みすら浮かんでいる白澤は、一歩また一歩と部屋の奥へと進んで行く。そしてつま先のすぐ目の前で、ぼんやりと天井を見つめて息絶えている小夜を見下ろし、ぎりっと歯が砕けるほど噛みしめる。腰を屈めて触れた柔らかな頬は、まだほんのりと温かかった。
(辿りついたと思ったら、またすり抜けて消えてしまった。)
噛みしめている彼の唇からは、絶えずボタボタと鮮血が零れ落ちている。こうして、唇が自身の歯で抉れる程噛みしめていなければ、絶望に染まった咆哮を上げてここら一帯の生き物を毒に当てて殺してしまいそうだからだ。
すると押し留められた怒りが体から零れ出し、パチパチと彼の周りに電気のようなものが走り、髪の毛がふわふわと立ち上がり始める。しかしそんな白澤を嘲うかの様に、大蛇は口からはみ出していた細い足まで喉を鳴らして飲み込むと、長い舌で周りについていた血を舐め取り、口を開いた。
-御印の付いた娘の、なんと美味な事か、次生まれる御印の子も我に捧げん。なんと愉快愉快。この村はもはや我のトグロの中。あな悲しや、トグロの中から出ることはできぬ-
-げに悲しきは、番を盗られた憐れな知と吉の神-
誰もが耳をふさぎたくなるような底気味悪い声で大蛇が歌う。 それはまるで血管を異物が這いまわるような、不快感と恐ろしさを与える歌だったが、その嘲笑を交えた蛇の歌がとうとう白澤の引き金を引いてしまった。
「黙れ。」
パチン、と電気が小さく弾けた瞬間、白澤の黄金色の瞳が残像を残してその場から消える。 だが次の瞬間には大蛇の赤い目に、息絶えている小夜と同じように瞳孔の開いた白澤の顔が映りこみ、息を飲んだ時には既に遅く、彼の爪先が己の瞳の薄い膜を突き破っていた。
ぐちゃり、と。 赤い瞳に鉤状に曲げられた節くれ立つ指が、林檎程もある赤い蛇の眼球を瞬く間に抉り出し、伸びた神経と血管を千切って床へと投げ捨てられる。 そして瞬きもできない間に肉体の器官と粘膜を強制的に抉り取られた大蛇は、衝撃と激痛に絶叫を上げながらのたうち、長い胴体をしならせて鎌首を滅茶苦茶に振り回し始めた。 眼球を取られて空洞となった両目からは滝のように血が溢れ出し、床にぼたぼたと落ちては板を腐食させていく。 だがまだ終わりではなかった。
「次は舌だ。」
-がっ・・・!?-
激痛にのたうち回っている大蛇の頬を、歪んだ笑みを浮かべた白澤は強かに蹴りつけると、その衝撃で大じゃの頭を床へと叩き落とす。 そしてそのまま足で大蛇の頭を踏みつけて抑えると、体の大きさは大蛇が優勢のはずなのに、もがく以外まったく動かす事ができなくなってしまった。相変わらず尻尾部分はぶんぶんと暴れ、本殿の壁を打ち付けては破壊している。 すると白澤は踏みつけている大蛇の口元に手を伸ばすと、はみ出している二股の舌を鷲掴みにして力任せてに引いてしまう。 ブチリ、と音を立てて舌根から千切られた大蛇は、狂ったように喉を鳴らして泣いている。 だが白澤は、そんな大蛇の頭を踏みつけたまま酷く冷めた目で痛みに悶える様子を見つめていた。そして唇の端をクッと持ち上げると、およそ吉の神とは到底思えないような笑みを浮かべて、口を開く。
「これでいい。耳障りな声が聞こえなくなって、丁度良いな。」
そして徐に人差し指の先で何かを持ち上げるような仕草を見せたかと思うと、次の瞬間には固い土で作られた大きな棘が、床を突き破って下から突き上げるようにして、大蛇の胴体を間隔をあけて串刺しにしていく。
目を抉られ、舌を抜かれ、胴体を串刺しにされた大蛇は既に虫の息で、身を捩る体力さえも残ってはいなかった。あの嘲うような歌を歌ってから、時間にして3分も経ってはいない。だが、追言を許さぬ程、息を継ぐ間も無く繰り出される白澤の攻撃に、大蛇は成す術もなく圧倒的な力の差を感じる事しかできなかったのだ。
「さぁ次はどうしようか。腹を割いて内臓を引き出すか。それとも背骨を粉々に砕いてしまおうか。死にはしないだろうが、この棘に串刺しにされている間は僕の神気が邪魔して回復もできないだろう?神の名を借りて悪食を繰り返していた下等の妖怪が。己の罪をその身を持って味わえばいいのさ。」
ぺろりと舌舐めずりをして大蛇に絶望を突きつける白澤の頭部には、獣の角が生えていた。 どうやら怒りで理性が揺らぎ、妖力を押さえる事ができなくなっているらしい。その証拠に瞳孔も人間の
丸いそれとは違い、鋭利な刃物のように細まっている。 対する大蛇は舌も目も失い、小さくうめき声を出す事しかできないでいた。 小夜の遺体を囲んでいる歴代の母達は、目の前で繰り広げられている残酷な神の裁きに、身を寄せ合って怯えている。 するとその時、コンコンと壁を叩く場違いに軽快な音が室内に響き、白澤は大蛇の腹に伸ばしかけていた手を止めて、音がした方へと視線を向けた。
「なに。」
そこには壁に背を預けて腕を組んでいる鬼灯の姿があり、白澤は低い声で「なに」とだけ尋ねる。そんな白澤に鬼灯は普段の無表情のまま口を開いた。
「そのあたりにしておいてください。この方は今後、地獄の烏天狗警察の取り調べのち収監となる予定の身です。下手にPDSDにでもなって事情聴取が行えなくなっては、元も子もない。国際問題にも触れているので然るべき刑罰は地獄で行います。」
「煩いな。僕の番を10回以上食べたのなら、それと同じ回数殺してやらなきゃ気が済まない。これは僕と蛇の問題だ。部外者は黙ってろ。」
「この蛇が日本の妖怪ならば地獄を管理する者の補佐として、私も関係者ですよ。それにこれ以上の私刑は貴方のためにも良くない。気づいていますか?今の貴方の体、とんでもない濃度の瘴気で汚れを生み出している。そのまま桃源郷に戻れば、一日で桃源郷全土を瘴気で汚染してしまうでしょうね。」
鬼灯の静止の言葉を粗暴な口調で切り捨てた白澤だったが、「瘴気」という言葉に目を瞬かせると、ふと己の両手を見下ろす。すると普段ならば薬草の香で染まっているはずの両手が、返り血とどす黒い瘴気で黒く靄がかってよく見えなかった。その瘴気の量は凄まじく、とてもじゃないが吉兆の神とはほど遠く、祟り神と例えた方が一致しているようにも見える。
「あぁ、しまったな。」
そんな己の両手と自身の周りに立ちこめる不浄な汚れに気がついた白澤は、一度目を閉じると大きく息を吸い、そして吐き出す。そして自身を落ち着けると半妖体となっていた獣の角も消し去り、ようやく蛇の体から離れた。 白澤の精神状態が落ち付き部屋に立ちこめていた瘴気が収まると、鬼灯は壁から背を離して瀕死の状態で悶え苦しんでいる大蛇へと歩み寄る。そして感情を感じさせない真っ黒な瞳でそれを見下ろすと、顎に手を当てて「ふむ」と首を傾げた。
「これは地獄に引きずって帰るにも骨が折れそうだ。申し訳ないが烏天狗警察に直接引き取りに来て頂きましょうか。」
「警察に引き渡す前にもういっぺん殺していい?」
「やめなさいって。それよりも貴方は嫁御の方へ行った方がよいのでは?」
無垢な顔で「もう一度殺して良いか」と訊ねる白澤に、大蛇の巨体がびくりと震える。 そんな白澤に鬼灯は呆れたように溜息をつき、顎でくいっと違う場所を差してそちらへ行けと促した。その視線の先の光景に、白澤は慌てて大蛇を跨いでそちらへと向かう。 その後ろ姿を一瞥すると、鬼灯は再び大蛇を見下ろして牙が覗く口を開いた。
「さて、最後の晩餐となった神の嫁御の味はいかがでした?悪食の魅力に取りつかれ、あの世の規則を破り千年弱時と空間を捻じ曲げて快楽を貪った代償を、とうとうその身で払う時が来ましたが。まったく・・・よりにもよって中国の神の番に手を出すなんて。面倒臭い国際紛争の原因を作り出した罪は重いですよ。これからの手続きと裁判、司法取引きで忙しくなりそうだ。あぁ、山に閉じ込められたままあの世に来る事ができなかった亡者達の裁判も・・・そのあたりの業務妨害も含め、もういっその事、死んだ方が楽だと思えるような刑罰と期間になりそうですね。まぁ、頑張ってください。」
仕事を増やしてくれやがって、とぶつぶつと私怨を零しながらも、思ってもいない今後の激励の言葉をかけると、鬼灯は力なく項垂れている大蛇に「念のため」と妖力封じの札を張り付ける。そして札が大蛇を縛り付けたのを確認すると、白澤の方へと視線を向けた。視線の先では下半身を喰われて絶命している小夜を抱いて、口元を汚している血を拭ってやる白澤の姿があった。その周りでは嫁御を産んでは短命のため亡くなった歴代の母達が、悲しみと愛しさを滲ませて小夜の顔を覗き込んだり、触れる事はできないが手を伸ばして髪を撫でてやったりしている。そして白澤は徐に小夜の腹部に手を伸ばすと、襦袢の襟を分けて素肌を露にさせて、そこに浮かんでいる自身と同じ紋様を見て悲しさと嬉しさを滲ませる目を細めた。
「ずっと痛かったよね。怖かったよね。ごめんね、迎えにくるのが遅くなって、本当にごめん。あのね、君に会えたらまず何から話そうって、ずーっと考えてたんだ。小夜ちゃんっていう名前、とても可愛くて、可憐で儚くて透明感のあるあの歌声にぴったりだねって。いくら番と言っても、はじめまして。僕と結婚してください、ってさすがに性急過ぎて小夜ちゃんが引いちゃうかな、とか。最初はお花を贈って、それから食事に誘って、たくさんデートして、僕に恋してもらえるように、いっぱい愛を注いで。おかしいよね。こうして会うのは初めてなのに、僕は顔も知らない君にずっと昔から恋していて、ずっと小夜ちゃんの名前を呼びたかっただなんて。君に白澤って、僕の名前を呼んで欲しかっただなんてさ。お互い顔も知らない相手なのに、おかしいよね。天帝によって作られた縁だとしても、僕の孤独を埋める傀儡にも似た番だったとしても、僕はこの歌を知った日から、ずっと君に恋してたんだ。」
初めて顔を見る事ができた番の体を両腕でぎゅうと抱きしめ、白澤は空っぽになってしまった小夜の体へ、想いの内を言葉にして囁く。腕の隙間から見える小夜の白い額には、しだいにぽたぽたと雫が滴り、肌を濡らしていった。
「やっと、やっと会えたのになぁ・・・!君が生まれた時の鼓動を、僕はちゃんと聞いてたんだよ。なのに、こうして君が囚われてる事を知るまでに千年もかかって・・・とんだ甲斐性なしの番だよね。でも、ごめんね。君がこんな役立たずな僕を嫌いになっても、僕は君が愛しいから、次の輪廻からの解放なんてしてあげられない。次は、すぐに迎えに行くから。ねぇ、次もまた歌を聞かせてくれるかな?聞かせてよ。今度は僕の隣で、歌って・・・。」
骸に話かける声にだんだんと嗚咽が混じり、最後には子どものように泣き出してしまった白澤の涙が、小夜の額のみならず髪や睫も湿らせていく。泣いているのは白澤のはずなのに、彼が零した涙が小夜の睫を湿らせて頬を伝い、まるで彼女自身も泣いているようだった。
その後、頑なに小夜の遺骸を抱いたまま離そうとはせず、涙をこぼし過ぎてとうとう山に雨雲を呼んでしまった白澤だったが。 痺れを切らした鬼灯によって遺骸を取り上げられ、そのまま小夜の葬儀から火葬が済むまで山から下りようとはしなかった。 そして山には鬼灯より連絡を受けた獄卒や烏天狗警察が入山し、亡者の整理や大蛇の拘束や移送で慌ただしく人が動いている。大蛇による支配は突如終わりを告げた。 しかし大蛇のトグロの中で細々と生活していた小夜の祖父達を含める兄弟や村人達は、突然の自由に戸惑っていた。この1000年間、時代の流れに置いて行かれた古の民だ。突然、文明開化し発達した見知らぬ世界に放り出されても、生きて行けはしないと、変化を恐れる村人達がほとんどだった。 そんな村人達の声を受け、鬼灯は「好きにすればよい」と縋りつく手を払うも、人とは違う物が人の世に関与してしまった事は間違いなく、今後の事については村人達の意思に任せるが、下山したくなければそのままでも生活できるよう、最善策を練ろうという事で落ち着いたようだ。
「この山はこれまで通り人間には見えないように隠す事にして、天国から山神ファミリーのどなたかを一人派遣して常駐して頂きましょう。出生届も出されず、日本国に存在の証明すらなく、時間にも置いていかれた村人達が、今さら外に出ても生きては行けないでしょうし。残りたい者は残って、これまでの自給自足の生活を営めばいい。」
「かしこまりました。では早急に天国に連絡を取って、山神系列の神を派遣できないか交渉してみます。」
慌ただしく動く獄卒達に指示を出しながら、鬼灯は今後の事を考える。 蛇のトグロに囚われていた村人達が突然に自由を手に入れても、それは自由という名の未知の世界に身一つで放り出されたに過ぎず、本人達にとってはどちらが幸せだったのだろうか、と首を傾げる結果となるだろう。だからこそ選択肢を与え、今までの環境はなるべく壊さないようにという鬼灯の配慮と、あの世の存在が1000年に渡り一方的に暴虐を振るっていた事に対する償いだった。
「鬼灯様、大蛇の移送が完了しました。」
「お疲れ様です。それで、あの豚は?」
「白澤様は・・・あちらに。」
作業の報告をしてきた獄卒に労りの言葉をかけた鬼灯は、続けて白澤の所在を問う。すると獄卒は少し茂みとなった場所の先を指さし、言いづらそうに言葉尻を濁した。
「火葬の火が完全に消えるまで傍にいる、と。」
「・・・・そうですか。ありがとうございます。では貴方も亡者達の整理にあたってください。」
「承知しました。」
茂みの先では2日に渡って煙が上がり続けている。 それは小夜の遺体を焼く炎の煙であり、肉体はすでに燃え尽きて灰となったが、未だに小さな火は消えず
に燻っている状態だった。
「随分と健気な事だ。あいつらしくもない。」
そう、鬼灯は小さな声で呟き、煙が立つ場所へと歩いて行く。 茂みを抜けた先では、小さく燻る火の前で胡坐をかいて腰を下ろし、ぼんやりとした瞳で火を見つめている白澤がいた。恐らくまたぐずぐずと泣いていたのだろう。鼻の頭は真赤になっている。
「どうせ、しばらくしたらまた生まれるのでしょう?神の番なのだから。貴方の元に嫁ぐまで輪廻は終われない。あの村人達の娘の誰かがまた嫁御を孕むでしょうから、」
力なく項垂れている白澤の背中にそう声をかければ、顔の見えない彼から鼻をすする音が聞こえた。
「わかってるよ、そんな事。けどな、結果として僕は小夜ちゃんを何度も何度も見殺しにしてたんだよ。そんな僕を次生まれてくる小夜ちゃんが許してくれるか分からないだろ。もしかしたら、今度生まれてきた小夜ちゃんは、僕の事を嫌いになってるかもしれない。無条件で愛してくれる確信なんて、」
「彼女の気持ちがどうであろうと、天帝によって貴方の番になるように作られた彼女は、出会ってしまえば貴方を愛するようになるのでは?大変都合の良い番制度ではありますが、何をそう怯える必要があるのです。」
「わかんねぇよ。僕だって番に会うのは初めてなんだから、わかんねぇよ・・・。もしかしたら、があるかもしれないだろ。何事にも絶対なんて無いんだ。」
どんな言葉をかけても、いつまで経ってもぐずぐずと嘆くのをやめない白澤に、鬼灯は僅かに苛立ちをあらわにしてため息をついた。
「面倒くさいですねぇ・・・それでもアンタ知識と吉兆の神ですか。らしくないんですよ。いつも通りヘラヘラ笑って女性と遊んで残りの自由時間を過ごせばいいじゃないですか。結婚したら女遊びできませんからね。」
「ふざけんなし。もう僕、小夜ちゃん以外に勃たないし。この状態で花街行ったら逆に恥かくわ。」
「・・・お前あの最悪の状況で彼女に勃ってたのか。」
「・・・歌を聞いた時と最後に彼女を抱きしめた時に、実は。でもそれは番としての本能だから僕の制御の範疇外。」
「きもい。」
「きもい言うなよ死ね。」
「もうとっくの昔に死んでます。」
「・・・・。」
「・・・・。」
淡々と鬼灯と言葉の応酬をしている間に、なんとなく普段の彼らしさが戻ってきたような気がするが、それでも通常の彼と比べると、どうにも破棄がない。 こればかりは時間が解決するしかないだろう、と鬼灯は彼らしくもない白澤に対する気遣いを終わりにした。
「あぁ・・・そろそろかな。」
燻っていた火種は、そろそろその寿命を終えそうだ。 白澤は風に煽られて今にも消そうな小さな火に手を伸ばすと、熱さなど知らないかのように灰ごと両手で
すくい取る。そして愛おしそうに橙色の火を見つめて、唇を寄せた。
「僕の番。僕の可愛い子。どうか、次生まれてくる君が健やかに育ち、そして僕の手を取ってくれますように。」
そう、言葉に願いを込めて囁いて揺らめく火に口づけると、まるで白澤の言葉に返事を返すように一瞬だけポッと火が大きくなり、そして静かにその命を終えた。白澤の手にはサラサラとした灰だけが残り、全て燃え尽きてしまった。 するとその時、木の枝をしならせる程の大きな風が吹き、白澤の手の中の灰も土の上の灰も風によって舞い上がる。
「うわっ・・・!」
「・・・・っ!」
突然の突風に鬼灯は髪を抑えて、舞い上がった灰が目に入らないように固く瞼を閉じた。。 だが彼と同じように瞼を閉じた白澤だったが、同時に微かに聞こえた、彼が欲してやまない声が聞こえた
ような気がして、思わず両耳に手をかざした。 それは風や木の葉がこすれる音でかき消されてしまいそうな程小さな声だったが、弦を弾くような円やか
で伸びやかさを感じさせ、そして同時に水面に雫が落ちた時のような高く儚い声。 彼が小夜に向けて歌った歌と、小夜が白澤に向けて歌った歌と、それは同じで。歌詞もなく、旋律もない、互いだけが知る他には聞こえない声で奏でる歌だった。 その歌が、確かに小夜の声で白澤の耳には今も届いていた。
「ふ・・・ふふっ・・・そっか。君の灰が歌ってくれているんだね。」
それは元は小夜の肉体だった灰が、今回の最後にと彼女の意思で歌う歌だった。 そしてその歌を最後に、彼女はしばし眠りについて、再びこの世に生まれてくるのだろう。 不安がる白澤に「大丈夫だよ」と安心させるように歌われるその歌に、白澤はスンと鼻を鳴らすと声にならない声を空気に乗せる。
「待ってるね。また君が生まれてくるのを、僕はずっと待ってるよ。」
とうとう小夜の歌が聞こえなくなる頃、二人は約束を交わした。 それは遠くて近い日の待ち合わせを約束する、番達が初めて交わす無邪気な契だった。
今日も桃源郷は晴れ晴れと太陽の光が差し、温かな陽気で風も心地よい。 洗濯物を干し終えた白澤は、近くの桃園から風に乗って訪れた瑞々しい桃の香りにスンと鼻を鳴らした。 そよ風にはためく彼の白衣からは、今日も薬草と太陽の香りがする。そんな彼の後ろから、弟子の桃太郎がザルを抱えて声をかけた。
「白澤様、高麗人参が切れたので採りに行ってきますね。他の生薬の採取もついでに。」
「うん、よろしく。あと棗(なつめ)も採ってきてくれるかな。」
「わかりました。」
必要な薬草のメモを確認しながら畑に向かう弟子の後ろ姿を見送り、白澤は大きく体を伸ばす。 あの日、番である小夜の火葬を終えてから五十年が経過していた。 山に閉じ込められていた古の民は、山に残って生活を続ける者、山を下りて現代の社会で生きる事を選択した者に分かれ、彼らにとっての転換期を逞しく乗り越えて生きているらしい。記録が途切れていた亡者達の裁判の手続き等、しばらくは忙しくしていた鬼灯だったが、ようやく落ち着いてきた頃にふと白澤の店を訪れ、その後の経過を淡々と報告していった。 一応、関わりを持った以上は最後の結末まで伝えておくべきだと、彼は判断したのだろう。 そして長年、中国天帝が遣わした白澤の番を喰らっていたあの大蛇はと言うと、地獄ではなく国際裁判にかけられ、執行猶予なしの禁固一千年と、その間中国地獄である●●(ほうと)で同胞である毒蛇に生きながら喰われ続けるという、呵責を受ける事となった。 だがその事を白澤に伝えると、彼は「あ、そう。」と大して興味もなさそうに、頷いただけだった。己の番が大蛇の領域から解放されたのなら、その後の大蛇の顛末など、彼にとってどうでも良い事なのだろう。
「もう五十年かぁ・・・今までの僕にとっちゃ五十年なんて数秒と同じぐらいの時間の感覚だったけど、君を待っている五十年は結構長く感じるよ。」
そう、はためく三角布を抑えながら寂しげに呟いた白澤だったが、その声はいつもの彼と違って少々力ない。
「下賤な話だけど、あの日君に触れてから誰に触れても反応できなくなっちゃってさ。それもあるんだけど、あの日から妓楼に行く回数もかなり減ったんだよ?たまにお酒飲みには行くけど、本当にそれだけ。信じられる?この僕がだ。なのに部屋の中には女の子が好きそうな贈り物の包みが溢れててさ、桃タロー君には「また女性に貢いで!」って怒られちゃった。でもね、箪笥いっぱいの贈り物は、全部君へのものなんだよ。」
街を歩けば目につく女性物の着物や装飾品、綺麗な飴細工、艶やかな紅。勿論それらは今まで何度も色んな女性に贈ってきて、目効きだって自信はある。けれど、煌びやかな簪を見れば頭に浮かぶのは君の顔で。美しい反物を見ればこの着物を着たら、あの白い肌がどんなに映えるだろうかとまた君の顔が浮かび。この繊細に光を反射する飴細工を手渡したなら、どんな表情を浮かべてくれるのだろうかと、また君の顔が浮かぶ。 けれど、どうしても目を閉じて眠る表情の君しか思い出せなくて、必死に笑顔浮かべる君を作り出そうとしても、知らないものを作り出す事はとても難しい。 笑顔を浮かべる君を作り出す事を諦め、それでも君に似合いそうだと思ったものは、軽率に包んでもらってこの部屋のあり様だ、と。
白澤はこの五十年の自分を振り返って「本当にらしくないな。」と、眉を八の字にして小さく笑った。 けれどこの五十年、辛くはなかった。なにしろ、彼には考えなくてはならない事が山ほどあったからだ。
「君に会えたらまず、えーっと、最初はやっぱり自己紹介でしょ?はじめまして、ってやっぱ言った方がいいのかな?僕は一応面識はある・・・って言っても、やっぱり君は僕の顔を見た事がないから、はじめましての方がいいよな。それから迎えに行くのがめちゃくちゃ遅くなった事をたくさん謝って、もし怒ってるならいくらでも叩いていいよって・・・・いや、ちょっとそれは引かれるかもしれないな。あぁもう、こんな風に言葉を選ぶのにこんなに頭をひねるの初めてだよ。」
女性の事で頭を悩ませるのは苦ではないが、どうやって声をかけようとか、どんな花を最初にあげたら自分の印象が良くなるだろうとか。こんなに初歩的な事で悩んでいる自分が酷く面白く思えた。数千年を生きているくせに、まるで初めて恋をした少年のようだ、と。
どのぐらいの時間をそこで過ごしていたのだろうか。 ふと生薬を採りに行っていた弟子の姿が見え、白澤は手を上げて「お帰り」と声をかける。 そんな白澤に生薬がいっぱいに積まれたカゴを背負った桃太郎は、驚いたように目を丸くして口を開いた。
「あれ、白澤様。あれからずっとここで佇んでたんですか?もしかして帰り道分からなくなっちゃいました?」
「店のすぐ目の前にいながらそれはさすがにないだろ。ちょっと考え事してただけさ。それより、ご苦労様。早速洗浄と仕分けしようか。」
桃太郎に労りの言葉をかけると、白澤は大きく伸びをして店の方へと向かう。 そんな彼の後ろ姿を、桃太郎は「仕方ないなぁ」と言わんばかりの、けれどどこか温かく見守るような瞳で見つめていた。 そして店に戻ると敷物の上に採取してきた植物を広げ、乾燥させるために二人で種類ごとに仕分けを始める。
「訶子に桔梗、荊芥に梔子・・・それと芍薬と柴胡か。棗(ナツメ)は薬膳料理用にしよう。あぁ桃タロー君、高麗人参は一年根を薬膳用、六年根は薬用にするから混ざらないようにね。一年根と六年根じゃ有効成分であるジンセノサイドの量が大きく変わるんだ。覚えておいて。」
「はい。」
仕分けをしながら時折零れる白澤の教授を、桃太郎は取りこぼす事なく紙に控えていく。こうして真面目に漢方についてを話す時の白澤は、知識の神として相応しい風貌なのにと。少しだけ残念に思う心は声には出さずに。 そうして漢方薬について話しながら手際よく仕分けをしていた白澤だったが、敷物の上で重なっている生薬の一番下から出てきた葉付きの茎に「おや」と手を伸ばす。
「これは、薄荷だね。それも細めの茎のものばかりだ。桃タロー君、目利きがうまくなったな。」
「できるだけ太い茎を含まないものがいいって、以前に教えてもらいましたからね。たしか薄荷、柴胡、梔子の組み合わせで逍遙散、でしたっけ。」
「そう。効能は胸部の炎症や煩悶感の緩和だね。更に芍薬、当帰、茯苓、蒼朮、牡丹皮、甘草、生姜を配合する事によって、加味逍遙散になるんだ。加味逍遙散は月経異常や更年期障害などの女性の病に使ったりもする。花街でよく女の子達が買う薬もコレだよ。」
「なるほど。なら需要が高い分、今後多めに作っておいても無駄にはならないですね。」
「そういうこと。」
作業の手を止めて手早く内容を控える桃太郎に師と店主の表情でにっこりとほほ笑みながら、白澤は茎から一枚だけ葉を千切り、鼻へと近づける。 そしてスンと軽く香りを楽しむと「香味が強いから、僕は直接香りを嗅いで酔い覚ましにも使ってるけどね。」と悪戯に桃太郎の鼻先に近づけた。
「あー・・・メントールって感じです。」
「そりゃ原料だからね。そうだ、桃タロー君、薄荷の花言葉って知ってる?」
「いや、俺そういうのには疎くて。」
ツンと鼻を通る誰もが嗅いだ事のあるその香りに、桃太郎がスンスンと鼻を鳴らしていると、白澤はふいに花言葉について話し始めた。
「薄荷の花言葉は美徳や貞淑、迷いから覚める、再び友となろう。紫や桃色を帯びた白の小さく慎ましやかな花を咲かせるんだ。あぁ、ほらこの茎には少しだけ咲いてるね。これは白い花の方。」
「確かに、可愛らしい小さな花ですよね。強い香りの主張とは相対するような・・・。」
「そう、距離が離れていてもその香りで存在感は大きい。けれど実際のその姿は酷く儚くて、小さくて、とても清楚なんだ。その姿はまるで、」
そう話しながら花が咲いている茎を一本手に取った白澤は、花を見るには少しだけ違う愛しさを込めた目で花を見つめている。まるで花の先に誰かを重ねているように。 その表情を見て、桃太郎は気づいてしまった。
(あぁ、そうか。)
「まるで、あの子みたいだなぁって。耳に心地の良い、けれど力強さを感じさせる愛の歌を最後に聞かせてくれた彼女なのに、抱いた体はとても小さくて、白い肌はすぐに誰かに汚されてしまいそうで、目を閉じて眠る表情はあまりにも無垢で、幼くて、けれど清楚な美しさを併せ持った女性だったんだ。相対するからこそ、美しい。まさにそれがあの子だったんだよ。」
まるで花を口説くかのように甘ったるい声に乗せて美しさを賛美する白澤に、桃太郎は願わずにはいられなかった。
(早く、会えますように。)
「素敵な方なんでしょうね。白澤様の番のその女性って。けど、こんなちゃらんぽらんに嫁ぐなんて大丈夫なんですかね?結婚した後に今まで通り花街に遊びに行ったりしたら、嫁は見過ごしても、そりゃあ周りから叩かれますよ。」
(ほら、実はこの人こんなに寂しがりやなんですよ。)
「あのねぇ、桃タロー君。この五十年、花街にはお金を落としには行くけど一度も女の子抱いてないからね。しかもお金を落としに行くのは、一人一人と縁を切りに行くため。あと30人ぐらいに菓子折り渡してさよならしたら、身の周りは綺麗になる。」
「遊女一人一人に菓子折り渡して縁切りしてんのか。アンタそういうところ律儀ですよね。」
口では悪態を付きながらも、桃太郎は白澤がしっかりと先を見据えて身の周りを整理している事に驚いていた。本気で腰を据えて嫁を迎えるつもりなのだ、と。
「僕が女の事達と縁を切り始めてるって、早々では噂でもちきりさ。中には男として機能しなくなったから、っていう不名誉なデマも混じってるみたいだけどね。さて、話はこれぐらいにして急いで仕分けして店を開けないとな。」
「あ、はい!俺の手持ちはもうこれで終わりますので、先に開店の準備に回ります。」
「うん、よろしく。」
時計を見れば開店時間が迫っていた。 桃太郎はあわてて椅子から立ち上がると、ばたばたと開店準備を始める。その姿を目で追いながら、白澤は手元の作業を終わらせるべく手を動かした。
「薄荷に霞草、薔薇にリナリア、スターチス、それに赤いアネモネ。酷く臆病な愛を捧げる花ばかりだけど、今の僕にはそれが相応しいな。」
彼女に会えた時に贈りたいと思っている花の名前を並べると、花言葉はとても彼らしくもない、謙虚なものばかりで。けれどいつか花言葉を彼女が知った時に、少しでも笑ってくれたらそれでいいと、白澤は今日も馴染みの花屋へと後で顔を出すつもりだ。 いつ彼女に会えてもすぐに花を渡せるように。
そして最後の薄荷の葉を手に取った時、突然白澤の目が大きく見開かれた。
「・・・!」
「白澤様?」
その勢いでガタッと椅子を倒して立ち上がると、椅子が倒れた音に驚いた桃太郎が肩を揺らし、慌てて白澤の方へと顔を向ける。 だが白澤は瞬きも忘れたように、目を見開いて立ち上がったまま微動だにせず、ただ一点を見つめたまま固まっていた。
「白澤様、どうしたんですか?」
「・・・・聞こえた。」
「え・・・?」
桃太郎が駆け寄り彼の肩に触れようとしたその時、白澤は小さく震える唇を動かして、かすれた声で呟いた。けれどその声はあまりにも小さく、消えてしまいそうなもので。桃太郎は眉を寄せて白澤の次の言葉を待つ。 すると硬直が解けた白澤が、バッと桃太郎の方へと顔を向けて口を開いた。
「・・・・っ生まれたんだよ!あの子が、小夜ちゃんが、僕の番が生まれ落ちた命の鼓動がっ・・・今聞こえたんだ!現世に小夜ちゃんが生まれたんだ!今!ナウ!」
「ままままままマジっすか!?え、ちょ、なら早く迎えに、あ、あの店番なら俺してるんで、白澤様は早くその人の所に・・・って、いやちょっと待てよ?生まれ落ちたって事はその人まだ赤子じゃ・・・!?」
「さすがにまだ連れては来れないけど、僕・・・う・・・うわぁ、どうしよう嬉しすぎてもう、泣きそうっていうか、とりあえずちょっと現世に行ってくる!間違っても他の神に見初められないように、マーキングとか健康に育つように祝福とか、え、え、どうしよう、桃タロー君、これって小夜ちゃんのお母さんに出産祝いとか持って行った方がいいのかな?お父さんには娘さんを僕にくださいって?」
「とりあえず落ち着け!あぁもう!わかりましたよ!早く嫁さんのところ行って祝福でもなんでもかけてきてください!あと母親は産後で色々大変ですしナイーブになってる時期でもあるでしょうし、そんな時に番といえどアンタが姿を見せたら卒倒しますよ!見るだけ!とりあえず今は見るだけにしといてやってください!俺はなんとなくそうした方が今後のためにもいいと思います!」
「っそそそそうだよね!と、とりあえず顔だけ見に行ってくる!ごめん!ちょっといってきます!」
「間違っても赤子のままの番を連れてくるんじゃねーぞ・・・・ってもういないし。」
ドタバタと途端に慌ただしくなった店内で、嬉しいやらなんやらで落ち着きなく店を飛び出した師に、桃太郎は「とうとうか。」と期待や緊張でゴクリと唾を飲む。 そして白澤は入口を乱暴に開けて、本性である獣の姿に戻ると手短かに暫く店を任せると告げると、これまで桃太郎が見てきた中で一番の早さで空を駆けて行った。 残像も残さずに飛び立ってしまった師を見送った桃太郎は、「帰ってきてしばらくは浮かれて大変だろうなぁ・・・。」と今後の白澤のハイテンションな様子を思い浮かべ、小さくため息をつく。嬉しさ半分でもあるが。 するとそんな彼の傍で草履が土を踏む音が聞こえ、空を見上げていた首を戻すと、そこには腕組みをして先ほどの桃太郎と同じく空を見上げている鬼灯の姿があった。
「行きましたか。」
「たった今番が生まれたー!って大騒ぎして飛び出して行きましたよ。もしかして鬼灯さんもその件で?」
「えぇ、例の山を管理している山神様よりご連絡がありまして。腹に神の印を持つ娘が生まれたと一報が入りましたので、奴も本能で気づいているは思いましたが、念のため知らせに来たんですよ。母子ともに健康とのことで・・・まぁ、どういった存在であれ子の誕生はめでたいことです。ただ、奴が我慢しきれずに赤子状態の番を連れて来て、そのまま若紫よろしく自分好みの妻に育てやしないかと。」
鬼灯は己が来た理由を話しながら空を見上げていた視線を桃太郎へと移し、腕組をしたまま顎に手を当てて首をかしげて見せる。だが彼の口から出てきた「若紫よろしく」という言葉に、桃太郎はヒクリと頬を引きつらせた。
「そ、そこはさすがに分別ついてるとは思いますよ・・・多分。万が一その時には俺が全力で母親の元に返すように説得するので。」
「いえ、その時には私が拡声器で「このロリコン変態ペド野郎が!」と奴を指差して大笑いしながら、桃源郷の警察に通報するので、大変楽しい事になります。」
「アンタも大概ひでぇなオイ。店主が小児性愛で逮捕となると、店にとっては大変よろしくない事になりますので、そこは全力で阻止しますよ。今さらニートは嫌なんで。」
律儀に番の誕生を報告しに来てくれたかと思えば、万が一の時には店主を刑務所送りにしかねない地獄の官吏に、桃太郎は全力で万が一の時には己のすべてを賭けてでも、最悪の事態を回避させようと心に決めた。 そんな桃太郎に「本当にできた弟子ですね、貴方って。」と、皮肉なのか感嘆しているのか分かりかねる言葉をかけた鬼灯は、少しだけ遠くを見るように目を細めて再び口を開く。
「あの日から番が生まれるまで五十年。生まれて落ちて十五年は母親の元から離す事はできませんからね。この五十年よりこれからの十五年の方が、アレにとっては長い時間となるのでは?」
「どうでしょう?あの人の事だから小夜さんが十五になるのを待てずに、ちょくちょく会いに行くとは思いますよ。この前も「まずはお友達からよろしくお願いします。」って壁に向かって予行練習してたので。信じられます?あのワンナイトラブから始まる爛れた恋愛ばかりしてそうな白澤様が、お友達から徐々に距離を詰めていくつもりなんですよ。初デートは恐らく公園ですね。片思いしてる中学生みたいな十五年間になるに一万円賭けれます。」
「なるほど、億年を生きる爺が童貞に逆戻りですか。それはそれで面白いですね。花街には「白澤は童貞に戻った」という噂も流しておきましょう。」
「・・・もしかして花街に「白澤は男として機能しなくなった」っていう噂流したのって・・・。」
「私です。」
「やっぱりアンタかよオイ!本当に仲悪いなアンタら!」
桃太郎は薄々感じていたようだが、花街で実しやかに囁かれている白澤にとって不名誉な噂話は、やはり鬼灯が意図的に流したものだったらしい。しれっとした表情で隠そうともせずに自白した鬼灯に、桃太郎はため息をつくが「まぁ、女が寄ってこない状況というのも必要だろう。」と無理やり良い方へと自分を納得させた。 すると白澤が番の誕生を知っているのならば、もう用はないとばかりに、鬼灯は草履で土を鳴らして踵を返す。
「あ、お帰りになるんですか?」
「えぇ。報告が必要ないとあらばもう用はありませんので。では。」
いつもどおりの無表情で淡々と挨拶をし、去っていく鬼灯だったが、去り際に彼の口から呟かれた言葉を桃太郎は聞き逃さなかった。
「“不本意ですが、結婚祝いぐらいは送りつけてやりますかね。”、だって。仲悪い癖にそういうところは律儀なんだよなぁ、鬼灯様って。」
鬼灯の背中が見えなくなって堪え切れず吹き出すと同時に、彼とは入れ違いにお客が数人こちらに向かってくるのが見え、桃太郎は慌てて店へと戻る。 今日の店主は戻ってきたとしても、浮かれて使い物にならないだろう。 その分己がしっかりと店を切り盛りしなければ、と。桃太郎は先ほど師から与えられた知識を書き留めた、メモが仕舞われた懐をトンと叩き腕を捲るのだった。
早く。早く。早く。
たてがみを靡かせて鼓動を頼りに地上に降り立てば、そこはいつか訪れた神に隠された山だった。長らく大蛇に囚われていたあの古の一族は、トグロから解放された今もこうして細々と命を繋いでいる。そして、今日ようやく生まれたのだ。
神獣白澤の番、小夜がしばらくの休息の後、再びこの世に生を受けた。
「僕に出会う為に。」
ふわりと人の形へと戻り、白衣の裾をはためかせて地上に足を付けた白澤は、前髪を持ち上げると神格の印を露わにさせる。そしてまるで勝手知ったような足取りで木々の間を歩き、しばらくして見えて来た屋根に目を輝かせた。 トンと地面を蹴り、軽やかな身のこなしで頭上の太い木の枝に飛び乗る。 視線が高くなった事で家の屋根から、部屋の中を覗き込む事ができるようになった彼の視線の先。そこには小さな小さな子ども用の布団の上に寝かせた、生まれたばかりの赤子の姿があった。 赤子の周囲には、たくさんの祝いの品やでんでん太鼓など玩具が置かれている。祝福されて生まれて来た事は、それらの祝いの品の数々で一目瞭然だ。そして何より、
「聞こえるかな?ちょっと早いかもしれないけど、生まれたばかりの君に、さっそく愛の歌を贈るよ。」
番にだけしか聞こえない、白澤の愛の歌。歌詞も旋律もない、空気中に存在しないその歌を歌えば、赤子はぱちくりと目を瞬かせて、まだ見えないであろう瞳を動かして何かを探すそぶりを見せた。 その様子を見て、白澤は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ふふ、ちゃんと聞こえたみたいだね。そうだよ、この歌は君だけにしか聞こえない。僕と君だけの、秘密の歌なんだ。」
するとその歌がまるで子守歌となったのか、赤子は「くあ」と可愛らしい欠伸を零し、瞼を閉じてすやすやと寝息を立て始めた。すると同時に、階段を上がってくる複数の足音と、女性の声が聞こえて来た。母親や親類が赤子の様子を見に来たのだろう。 白澤は部屋の中から見えない位置、しかし己からは赤子が見える場所へと移動すると、太い木の幹に背中を預けて枝に座り込んだ。そして膝を立てて組んだ腕に顎を預けると、嬉しくてたまらないと言わんばかりの表情で、赤子を見つめる。
「十五年かぁ・・・長いなぁ。君が生まれてくるまでの五十年より、これからの十五年の方がまるで蛇の生殺しだ。だって、手を伸ばせばすぐ触れる距離に君がいるのに、十五歳になるまで触れられないんだもの。いや、でもさすがに十五歳の君に手を出すわけにはいかないしな。」
そう届かぬ声で囁く白澤の表情は、心から焦がれるような切なげなものだ。姿が見えない相手を50年待つ時間よりも、すぐ目の前にいて触れられる距離にいながら、唇を噛んで待たなければならない15年の方がはるかに堪えるのだ、と。 しかしそれでいながら、胸の大半を占めているのは再び会えた嬉しさ。 白澤は母親の腕に抱かれてまどろんでいる小夜を見つめながら、そっと己の懐に手を差し入れる。そして取り出したのは、先ほど桃太郎と仕分けをしていた生薬の一つ、薄荷の花だった。
「君に初めて贈る花は何にしようってずーっと考えてたんだけど、生れたばかりの儚くとも力強い美しさと、庇護欲をそそられる君を見て、どんなに華美な花よりもこの薄荷が似合うと思ったんだ。」
そう言うと白澤は薄荷の小さな花弁に口づけて、続けてフウと息を吹きかける。すると彼の吐息によって薄荷はふわりと宙に浮き、そのまま風に流されるようにして窓を潜り、母親に抱かれている小夜の額へと落ちた。
「あら?花が・・・。」
飛んできた花に気づいた母親が窓の外に目を向けるも、視界に映るのは青々とした新緑と柔らかな木漏れ日のみ。きっと風に飛ばされてきたのだろうと、母親は柔らかく目を細めて、小夜の額に乗っている花をまだ薄く細い髪に飾ってやる。 そして小さな小さなその体にふさわしい、可愛らしいその花の存在に、母親は口元に笑みを浮かべて小夜の頭に頬を摺り寄せた。 その小さな花が意味するのは、
「迷いから覚めた僕たちは再び友となろう、か。まぁ、僕は友達じゃなくてお嫁さんとして君が欲しいんだけどね。長らく迷わされてた僕達だけど、今度は必ず15の年にたくさんの花と共に迎えに行くよ。」
そう囁いて白澤は窓辺の番へと歌い続けるのは、歌詞も旋律もない愛の歌だった。
神獣白澤の番の話。
その鳴き声は音ではなく旋律として互いへの愛を囁く。
※中盤に僅かにですがグロテスクな表現があります。