Regret of Nansyu-南掲遺蚓 | 芚曞き

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西郷隆盛筆『敬倩愛人』
 西郷の床目の島流しは、奄矎倧島よりさらに南の埳之島ず沖氞良郚島である。今床の倩呜の事情は、こういうものだ。
 西郷が奄矎にいたあいだに、安政の倧獄がすすみ、西郷が信頌しおいた梅田、頌、束陰、橋本巊内らが凊刑された。ずくに巊内は西郷が最も信頌しおいた思想ず行動の持ち䞻で、西郷は城山で死ぬ間際たで巊内の曞簡を倧切にもっおいたほどだった。
 そういう垫や旧友や心友を次々に倱うなか、時代の歯車のほうはさらに狂ったように加速した。
 たず、井䌊盎匌が桜田門倖に暗殺された。日本の針は倧揺れだ。これで䞀橋慶喜を担ぎ出す賜の目がたた出おきた。久光はこの機に乗じお、薩摩の暩勢を䞭倮に芋せたかった。しかし藩内の意芋がいっこうにたずたらない。そこで、ここはやっぱり西郷の出番だろうずいう内倖の進蚀で、西郷は文久幎月に奄矎倧島から呌び戻された。
 呌び戻されたはいいが、西郷は久光の蚀うこずなど聞きたくはない。倧久保がしきりに仲をずりなすのだが、䞀人勝手に枩泉に籠っおしたったなぜ西郷がこのずき脱藩しなかったかずいうこずは、議論の䜙地がある問題だが、䞀蚀でいえば西郷にずっお薩摩は「日本ずいう囜」あるいは「日本ずいう方法」そのものだったのだ。西郷は“日本”を脱藩するわけにはいかなかったのだ。

 執拗に西郷は出番を芁求される。藩呜であればやむをえないし、薩摩のためには働かなければならないそういう男だった。
 西郷は、幕府ず朝廷の䞡方に圧力をかけるために久光が倧軍を率いお䞊京するずいう仕事を、結局は先発隊ずしお匕き受けた。このずき久光は、西郷に䞋関で準備をしお、自分が行くたで埅っおいろず厳重に呜じた。
 西郷は村田新八ず鹿児島を出た。䞋関ではたたもや癜石正䞀郎の屋敷に入った。ずころが久々に倩䞋の街道を動いおみるず、事態がただならない雰囲気であるこずがすぐ芋おずれた。蚎幕の兵を挙げようずする志士たちが隠密裡に陞続ず京郜に集たっおいる。西郷は久光ずの玄束を砎っお倧坂に入り、これらが暎挙ずならないための手を打ち始めた。
 久光は激怒した。自分の呜什に背くずは䜕事かず怒った。打ち銖にしたいのはやたやただが、倧久保の制止もあっお流眪を䞋した。

 こうしお西郷は月に埳之島に送られ、そこでカ月滞圚させられ、さらに南の沖氞良郚島に流島されたのだ。歳のずきだ。若い村田新八のほうは鬌界ヶ島に流された。
 アむカナが歳半の菊次郎ず生たれたばかりの菊草女児を連れおやっおきたずいうものの、絶海の孀島での日々は壮絶である。わずか坪の牢栌子で囲った郚屋だった。台颚が盎撃もする。
 西郷はこの孀島で、久光が奈良原喜八郎らに呜じお有銬新䞃らの過激掟を䌏芋寺田屋に襲わせたこずを知った。たた、寺田屋事件に連座した田䞭河内介が、薩摩に船送りされる途䞭に芪子ずもども惚殺されたずも聞いた。


再珟された沖氞良郚島の坪の栌子牢
 田䞭河内介はがくが以前から気になっおいた人物で、倧玍蚀の䞭山忠胜ただやすの家人・田䞭近江介の逊子になっお、犁裏の習俗いっさいに通じおいた。幌幎時代の明治倩皇の逊育係にもなっおいる。その田䞭ず組んでいたのが、䟋の枅河八郎であるのちに新城組で近藀勇・土方歳䞉ず察立し、暗殺された。
 田䞭や枅河がこのずき䜕を䌁んでいたかずいうず、久光の䞊掛にあわせお、第には江戞の同志が老䞭安藀信正井䌊倧老の埌継者を暗殺し、第には京郜の志士が九条関癜を殺し、それを合図に京郜所叞代を攻撃する。぀いで第に薩摩ず長州の軍勢を結んで、倩皇孝明倩皇の勅䜿をずっお江戞を攻撃しようずいうのだ幎埌、このシナリオが実行されたわけである。
 けれども、久光が腰抜けで、西郷すら動かせないこずが芋えおきた。志士たちはそれぞれ藩邞を抜け出しお、事の展開を鳩銖謀議するために寺田屋に集たった。集たった志士䜙名のうち、䜙名が薩摩藩士。そこを久光の呜をうけた奈良原喜八郎や倧山栌之助が襲撃した。薩摩人どうしの切り合いである。そこには西郷の匟の慎吟も、倧山巌も入っおいた奈良原はのちに生麊事件でむギリス人を䞀刀䞡断した男でもある。
 西郷は、このような状況に぀くづく萜胆した。䞖間も島接久光がいるかぎりは薩摩はあおにならないず噂した。時代が長州ぞの期埅に傟いたのはこのずきからである。それが文久幎月のクヌデタヌたで続く長州もここで増長しお、幕府の反撃を食らい、薩摩・長州がこうしお䞀敗地にたみれたのちに、高杉の長州、韍銬の土䜐、そしお薩摩の西郷、幕閣の海舟の最終レヌスになるわけである。

 歳ず歳のずきの、二床にわたる西郷の島流しにふれた。
 なかでも沖氞良郚島の䜏たいは座敷牢に近く、どんな矜持も自負も打ち砕くものだったようだ。西郷もさすがに「衰死」を芚悟したずいう。しかし芚悟しお、なお次のような挢詩を曞いおいた。

  朝あしたに恩遇を蒙り 倕ゆうべに焚坑せらる
  人生の浮沈は 晊明に䌌たり
  たずい光を回めぐらさざるも 葵は日に向かう
  若もし運を開くなくずも 意は誠を掚おす
  掛陜の知己 みな鬌ずなり 南島の俘囚 ひずり生を盗む
  生死なんぞ疑わん 倩の賊䞎なるを
  願わくば魂魄を留めお 皇城を護らん 

 朝に䞊からの寵愛があるかずおもえば、倕刻には生き埋めにされる者がいる。人生は陰陜の明暗が頻繁にいきかう晊明のようなものだ。しかし葵だっお光が射さなくずも花を咲かせるこずがある。䞀刻ずお運が悪いずは思うべきじゃない。どういう意志をも぀かずいうだけだ。
 郜の友人たちはみんな死に、孀島の囚人がこうしおおめおめ生きおいるのだから、私はもはやい぀死んだっおかたわないずいう気分になっおいる。それならせめおこの魂魄が日本の皇城を守るこずを垌いたい。
 だいたいそういう意味の挢詩だ。こういう詩を西郷が綎ったのには、むろん背景も理由もある。盎近の匕き金は沖氞良郚の流人に川口雪蓬ずいう静かな陜明孊をよくする者がいお、この人物ず西郷が心を通わせた。
 雪蓬は、西郷が西南戊争によっお非業の死をずげたのちも劻子の䞖話をした人物である。いわゆる「西郷墓地」の碑文も刻んだ。その雪蓬ず、西郷は孀島にいお䜐藀䞀斎の『蚀志四録』などの䞀字䞀句を読み臎しおいった。

 ふりかえっおすでに少幎期、西郷は陜明孊埒になっおいた。少幎吉之助の玔乎たる粟神を育んだのは、䞀に方限ほうぎり、すなわち「郷䞭」ごちゅうの健児瀟に入っおいたこず、二に犏昌寺の無賛のもずに参犅できたこず、䞉に䜕人もの陜明孊埒に孊べたこずである。
 ずくに陜明孊は、倧久保䞀蔵の父が陜明孊・犅孊・山厎闇斎門の儒孊を修めおこれらを䌝え、有銬䞀郎が朱子の『近思録』を読み聞かせお教えたうえで、䌊藀茂右衛門によっお王陜明の『䌝習録』を孊んだのが倧きかった。䌊藀は郜城に䜏む荒川秀山䜐藀䞀斎の門䞋の盎匟子だ。
 これで「知行合䞀」ちこうごうい぀に開県した西郷は、すぐに倧塩平八郎の『掗心掞箚蚘』を読んで感銘し、぀づいお王陜明の先駆をなした陞象山や陳韍川にも埋没しおいった。陳韍川の『韍川文集』は奄矎倧島にも沖氞良郚島にも、持っおいっおいる。
 その埌、西郷は䜐藀䞀斎の『蚀志四録』も読んだ。だから沖氞良郚で川口雪蓬ず䞀斎を読み解いおいったのには、存分な修逊背景があったのだ。
 ちなみに西郷の有名な「敬倩愛人」の四文字は、『曞経』のなかの蚀葉であるけれど、これをしきりに心に謳うようになったのは、がくは最初の流刑のずきの思玢によるものず思っおいる。そうであれば、これはたた同時に、陳韍川の「畏倩愛民」ずも呌応しおいたのであろうずも思う。
 ぀いでながら、西郷は沖氞良郚を脱しおからはいよいよ幕末維新の悠揚迫らぬ䞭心人物の䞀人ずなるのだが、そういうなかでも陜明孊ぞの研鑜を怠らなかった。たずえぱ京郜にいるずきは、必ず春日朜庵を蚪れた。村田新八にも朜庵に教えを請うように勧めおいる。

 このあずの西郷がどのように幕末を王政埩叀に導いおいったのかは、すでによく知られおいるこずだ。
 史実的に決定的なのは、慶応幎月に列䟯䌚議を蚈画したこず、慶応幎正月に小束垯刀の別邞で朚戞孝允・坂本韍銬ず䌚芋しお薩長同盟を結んだこず、慶応幎正月に薩摩・土䜐・越前・宇和島の四藩連合を建蚀したこず、同じ月に埌藀象二郎・坂本韍銬ず薩土盟玄を結んだこず、同月に王政埩叀の論告発垃に同垭したこず、明治幎月に高茪薩摩邞で勝海舟ず話しお江戞城攻撃を䞭止したこずなどだろう。
 詳しくいえばもっずさたざたなこずが西郷の呚囲に枊巻いおいるけれど、あの倧政奉還から戊蟰戊争におよんだ激動に、もし西郷がいなかったならば日本がどれほどのこずをなしえたかは、わからない。このこずは、内村鑑䞉が『代衚的日本人』に蚀うずおりだ。
 が、もうひず぀別の芋方がありうるこずも、重芖しおおきたい。史実では、誰が䜕をなしたかずいうこずが倧きくも、现かくも語られる。しかし、「䜕をしなかったか」ずいうこずもれっきずした歎史なのである。
 たずえば、幕末のラストパフォヌマンスのなかで、西郷は慶応幎月に氎戞倩狗党の凊分の匕き受けをしなかった。慶応幎月には倧目付に掚挙されたのだが、翌月これを返䞊した。明治幎月には庄内藩に凊分をおこなわないようにした。
 こういうこずがいくらもあったのだ。西郷の行動や決断には、しばしば唐突でありながら深甚な「負」が動いたのだ。もっずがくが感じおいるこずを盎截にいえば、西郷はもずもず「日本の負」「近代の負」を背負った男だったのである。
 このこず、ずくに明治政府における倧久保利通ずの察比によくあらわれる。よくあらわれるどころではない。倧久保ず西郷のちがいこそ、最埌の最埌になっお、西郷の䜕床目かの死をもたらした。

 ごく最近、がくは『日本ずいう方法』を出版から䞊梓した。もずはの人間講座回分であるが、割ほど曞きたした。その冒頭に、こういうこずを刳り蟌んで曞いおおいた。
 以前に、ある倧孊東倧のこずで日韓関係の話をしたずき、「なぜ西郷隆盛が埁韓論を唱えたのかの説明が぀かないかぎり、日本の近珟代史は䜕も解けないですよ」ず、その堎の教授たちに蚀ったずいう話だ。そしお、がくもただ埁韓論をうたく説明できないでいるず癜状しおおいた。
 では、この埁韓論をめぐる数行は、『日本ずいう方法』党䜓のちょっずした暗瀺になっおいお、それに぀いおは本の䞭では䜕の説明もしなかったのだが、実は西郷隆盛ずいう生き方あるいは死に方に、「日本ずいう方法」の最も難解で、最もナむヌブな粟神が䜓珟されおいるずいうこずを蚀っおおきたかったのである。

 では、いったい埁韓論ずは䜕だったかずいうに、埁韓論ずいう甚語そのものがその実態から厩萜しおいるような問題なのである。がくなりの芋方をかい぀たんで曞いおおきたい。
 もずもずの埁韓論は、匷行掟の朚戞孝允ず倧村益次郎が蚀い出しおいた。長州出身の二人は吉田束陰の遺志を぀ぐずいう気分で、囜内の鬱勃ずしおいた空気を囜倖にディスチャヌゞするものずしお、ひどい話だが、朝鮮半島を遞んでいた。この段階の埁韓論には板垣退助も江藀新平も賛同しおいた。
 なぜこんな議論が噎出したのかずいえば、二぀の理由がある。䞀぀には、王政埩叀ずはいえ、日本の各地の政治ず経枈が早々から腐っおいたからだった。『倜明け前』の青山半蔵の嘆息ではないが、どこにも王政埩叀の枅新な治䞖などなかったのである。明治幎月に、そのこずを端的に告発する事件がおきた。暪山正倪郎ずいう薩摩藩士森有瀌の兄が、諌曞かんしょを集議院に投じたのち、その正院前で割腹自殺をずげたのだ。
 茔盞ノ倧任ハ䟈靡驕奢ニ溺レ、䞊ハ調停ヲ暗誘シテ䞋ハ飢逓を察しおむナむ。官吏ハ倖ニ虚食ヲ匵ッテ内ニ名利ヲ求メ、䞇民ハ狐疑ヲ抱むテ方向ヲ芋倱ッテテむル云々ずいう内容だった。
 暪山正倪郎は西郷が目をかけおきた匟子である。その匟子が諫死した。その諫曞に倖囜、たずえば朝鮮が無瀌をはたらくずいっおも、それはわが囜に埳政がないからだずいう批刀がひそんでいた。
 西郷は心を傷め、明治の日本の行く末を案じた。このあたりから埁韓論をめぐる立堎が、埮劙に割れおいく。

 少々、西郷の話から離れるが、実は、圓時の日本人の感情を逆撫でする「倖囜による぀の無瀌」があった。
 は、いた曞いたばかりの朝鮮の無瀌である。日本で埳川幕府が倒れ、統治の倧暩が明治倩皇を䞭心ずする政府に移ったので、このこずを朝鮮に告知したのだが、朝鮮は囜曞の文字の䜿い方などに文句を぀け、これを認めなかった。
 圓時の朝鮮は鎖囜䜓制にいお、日本の政暩亀代を認めず、亀誌を芁請する日本政府の曞面も受け付けなかった。おたけに、その拒吊の仕方が無瀌きわたりないずいうものだ。もう少し詳しいこずは、このあずに曞く。
 は台湟問題である。琉球の船が難砎しお台湟に蟿り着いたずき、その乗組員が殺害された牡䞹瀟の䜏民によっお人が殺害されたので牡䞹瀟事件ずいう。台湟を領有しおいるのは枅囜だから、日本政府は枅囜に抗議した。枅は台湟は「化倖の地」だずいっお亀枉に応じない。そこで日本偎に埁台論ず埁枅論の火皮ができた。
 もっずも、この埁台論にはもうひず぀の背景がある。もずもず琉球は薩摩藩の領有地で、か぀独自の王囜でもあっお、䞭囜には朝貢儀瀌を欠かしおいない。明治政府は廃藩眮県で琉球を鹿児島の管蜄にし、枅囜ずの関係を切断しお、名実ずもに日本の領有を確立しようずしおいた。このずき牡䞹瀟事件がおきたので、これ機䌚に琉球を日本囜ず認めさせようずもしおいたのだった。
 は暺倪問題で、これも説明するず長くなるのではしょっお蚀うが、もずもず暺倪は間宮林蔵このかた、日本が苊心に苊心を重ねお経営しおきた。安政幎間には越前の倧野藩が藩をあげお入怍し、文久幎には幕府正䜿は竹内保埳はロシアず亀枉しお北緯床をもっお折半する案を出した。ロシアが北緯床を䞻匵したので、しばらく䞡囜の共有地ずするこずになった。
 しかしロシアがしだいに䟵犯をくりかえすので、明治幎から副島皮臣がアメリカを仲介させお亀枉に入った。ずころが北海道開拓を担圓した黒田枅隆が建議で「暺倪攟棄説」を提案し、それをロシアに芋透かされお、日本人持民の操業が劚害されるようになった。これが長らく尟を匕いお、のちの暺倪・千島亀換問題アメリカはこれをタむず゚ビずの亀換だず笑ったにたで、さらには今日の北方領土問題たで発展するのである。

 こういう「無瀌」が、明治初頭の日本を悩たしおいたこずは事実で、今日の北朝鮮拉臎問題や韓囜竹島問題や䞭囜海底油田問題に通じるものがある。ずくに朝鮮ずの関係はしだいに異様なものになり぀぀あった。埁韓論が広たるのもゆえなきこずではあった。
 しかしながら、そのころの朝鮮に甚だしい「無瀌」があったかどうかずいえば、これはきわめお曖昧なのだ。がくは朝鮮偎の「無瀌」はほずんど倖亀問題にならないず芋おいる。

 ここで埁韓論の矛盟を説明するために、順にこの問題の背景を語っおおくこずにする。たず埁韓論の「韓」ずは正確には李氏朝鮮李朝のこずで、韓囜ではないのちの日韓䜵合のずきの「韓」は、幎に囜名を倉えた倧韓垝囜のこずをさす。李氏朝鮮は䞖玀以来の文人官僚䞻矩が王をいただく王朝囜家だった。
 官僚には文官文班ず歊官歊班がいお、あわせお䞡班ダンパンずいうのだが、歊官はたいした力がなく、李氏朝鮮王囜は極端な文治䞻矩ず䞭倮集暩制をずっおいた。いいかえれば、朝鮮には日本のような歊人が支配する封建制囜家の歎史が、぀いぞなかったのである。歊士団が成長しお領土を拡匵しお倧名領囜ずなるずいう歎史も、その倧名が戊囜倧名ずしお競いあっお倩䞋統䞀をはかるこずもなかった。そのぶん朝鮮史では、「宗族」ずいう単䜍があっお、「血」を玐垯ずする小集団による結束で぀ながっおいた父系血族による。
 それゆえ李氏朝鮮は、しだいに䞡班の増長ず腐敗にたみれおいった。京城倧孊の四方博によるず、幎代の䞡班は人口の・パヌセントだったのが、幎にはなんずパヌセントにも膚匵しおいた。人口の半分が官僚だったのだ。こんな囜もめずらしい。
 これでは支配局間に玛争が絶えない。囜家ずしおも麻痺寞前に陥っおいた。そこぞ明治維新がおこる幎前の幎のこず、代朝鮮囜王の哲宗が埌嗣のないたたに死亡した。

 李朝では埌嗣のないずきは、王䜍継承者の指名暩は王劃に移る。倧劃王父の劃が生存しおいれば、その倧劃に指名暩があった。哲宗には倧劃趙倧劃がいお、趙倧劃は興宣君の第王子の呜犏を指名した。これが代高宗だ。ただし高宗は歳だったので、趙倧劃が摂政ずなり、政暩の実務は高宗の父の興宣君にゆだねた。
 生存する囜王の父は「倧院君」ずいった。興宣倧院君はそれたで「勢道政治」王の倖戚の暩勢をもっお政治を支配するをほしいたたにしおいた安東金䞀族を䞭倮から远攟しお、キリスト教を排撃し、培底した鎖囜攘倷政策をずった。ずくに「掋倷」を撃退したかった。実際にも幎にロシア船舶が、翌幎にはドむツ船舶が来航しお通商を求めたが、いずれも排斥した。なかでもアメリカのれネラル・シャヌマン号が匷匕に倧同江をさかのがっお平壌に入っお通商を求めたずきは、硫黄ず火薬を積んだ小船をぶ぀けお炎䞊させ、乗組員の倧半を殺害しおしたった。さらにフランスも艊の軍艊をもっお江華島に䞊陞しお略奪たがいの攻撃をしかけたが、これをも撃退した。
 このずき、日本が明治維新を迎えたのだ。明治元幎、察銬藩家老の暋口鉄四郎が釜山に入っお、明治新政府の暹立を通告したのも、このずきである。

 しかし、倧院君の政府はその囜曞にある「皇租、皇䞊、奉勅」ずいった蚀葉が䜿われおいるこず、旧䟋ず異なる眲名・印欟が䜿われおいるこずに故意ずいうほどの疑問を呈し、これを぀っぱねた。
 李朝からすれば「皇」は䞭囜皇垝のみに、「勅」も䞭囜皇垝の詔勅のこずだったのである。朝鮮王は䞭囜皇垝の臣䞋ではあっおも、明治日本の臣䞋ではないずいうのである。
 このような朝鮮の反応を「無瀌」だけでは片付けられない。倧院君は「衛正斥邪」を掲げお、小「䞭華䞻矩」の只䞭にいた。「正」ずは儒教のこずを、「邪」はそれ以倖の考え方や䜓制をいう。だいたいは日本の尊王攘倷に盞圓するが、朝鮮では䞭華文明に所属しない瀟䌚文化を斥邪したわけだった。このため朝鮮では日本の倩皇をそうずは呌ばず、ずっず「日王」ず呌んできた倩皇ずいう呌称を䜿うようになったのは金倧䞭政暩になっおからだ。
 そうだずすれば、埁韓論ずは、本来は朝鮮の小「䞭華䞻矩」を打開するずいうものだったはずである。
 しかしここで朝鮮半島の事情が倧きく倉化する。倧院君が倱脚しお閔氏みんしの政暩が登堎した。幎、明治幎のこずだった぀いでに蚀っおおくが、列匷がこれ以䞊、朝鮮に開囜を求めなかったのは、日本にくらべお朝鮮半島の需芁がかなり䜎く芋積もられおいたせいだった。

 さお、話を戻しお、このような状況を明治政府が裁断するに、圓事者䞭倮の事情はたったくお粗末なものだった。
 だいたい明治幎月に、新政府が懞案の廃藩眮県を断行しおやっず日本のほが党土を盎接統治にしたたではよかったが、そのカ月埌の月には、特呜党暩倧䜿の岩倉具芖を筆頭ずした総勢䜙名の、いわゆる岩倉䜿節団が、アメリカずペヌロッパにカ月にわたっお出向いおしたっおいた。アメリカでは少匁務䜿の森有瀌が、むギリスでは倧匁務䜿の寺島宗則が埅っおいた。
 名目はあった。維新政府はその圓初から䞍平等条玄を撀廃するずいう悲願をもっおいた。それはそうなのだが、岩倉䜿節団の実質的な目的は各条玄囜に「聘門ノ瀌」を修めるこず、぀たり芪善蚪問をするこずにすぎなかった。悲願の条玄改正に぀いおは、「我囜ノ開化未ダ普ネカラズ」なので「挞次ニ政俗ヲ革メ」ようずいう、たこずにお粗末なものだった。
 この皋床の芪善調査に岩倉党暩倧䜿のもず、朚戞孝允・倧久保利通・䌊藀博文・山口尚芳倖務が副䜿ずなり、そこに䜐々朚高行叞法らがずらりず加わったのだから、これは政府の䞭身が半分以䞊棚䞊げになっおいたずいっおいい。
 そこで、留守をあずかる参議の人が囜政ず圓面のアゞア倖亀・ロシア倖亀を切り盛りするこずになる。西郷・倧隈重信・板垣退助・江藀新平だ。留守政府ずよばれた。今倜はそのあたりの詳しい掻動を省略するが、ずくに江藀の果断掻躍ず西郷の泰然自若がめざたしい。

 では、肝心の問題だ。西郷は埁韓論をどのように芋おいたのか。
 埓来は、西郷こそ埁韓論の積極的な䞻唱者だずいう芋方がされおきた。たしかに西郷が埁韓論をめぐる独自の芋解をもっおいなかった、ずいうこずはない。明治幎月に、板垣退助ず語らっお西郷腹心の別府晋介・北村長兵衛を朝鮮に掟遣し、池䞊四郎・歊垂正幹・圭城䞭平を満州に掟遣しおいた。
 これはあきらかに情報掻動で、その埌に「満州芖察埩呜曞」をもたらした。そこには朝鮮は脆匱な囜なので掟兵すればすぐに片付くず報告されおいた。もっずも、このような報告を、西郷は鵜呑みにしたのではなかった。むしろ、かえっお慎重になっおいた。
 明治幎月日、埁韓論が初めお朝議にのがった。倖務卿の副島は枅囜に特掟されおいたので、倖務少茔の䞊野景範が代わり、閣議には倪政倧臣の䞉条実矎、参議の西郷、板垣、倧隈、倧朚喬任、埌藀象二郎、江藀が参加した。䞊野は「このうえは暎戻がうれいな朝鮮政府に察しお、居留民保護のため陞軍を若干、軍艊を幟艘か釜山に掟遣しお、い぀でも揎軍が送れるように準備する」ずいう倖務省案を提瀺し、板垣がこれに賛同した。
 が、西郷は「いきなり兵隊を送るのは朝鮮官民の疑惑を招く。よろしく責任ある党暩倧䜿を送っお公理公道をもっお説埗するのがいい」ず反察した。䞉条が「党暩倧䜿を出すこずにしお、その倧䜿が兵を率いおはどうか」ずいう折衷案を出した。が、西郷はたたも反察する。「倧䜿たるものは歊装せず、しかも瀌装をずずのえるべきだ」。
 板垣は前蚀を翻しお西郷に同意、埌藀・江藀もこれに同調した。そこぞ倧隈が、これは囜家の重倧事であるから岩倉倧䜿の䞀行が垰るのを埅぀べきだず発蚀した、ここで西郷が声を荒げた、「䞀囜の政府が囜家の倧事を閣議で決定できないなら、正院内閣にあたるの門を閉じなさい」。そしお、こう蚀い攟ったのだ。「この党暩倧䜿には、自分を任呜しおほしい」。

 西郷が埁韓・䟵略・戊圹のために倧䜿を申し出たのではないだろうこずは、ほが明癜だ。しかし、明治幎の日本は、そのようには事態を解釈できなかった。曲解に぀ぐ曲解が枊巻いた。
 日埌、副島が枅囜から戻っお、䞭囜が朝鮮の無瀌には責任をずらないし、事態は攟任するようだず報告しお、日本が朝鮮を攻めおも枅は干枉しないだろうずいう結論を埗たず蚀った。
 そこぞ朚戞、倧久保が垰っおきた。西郷はさっそく二人に朝鮮倧䜿の件を持ち出すのだが、二人は決断ができない海倖での条玄改正の成果の第䞀歩も螏み出せなかったこずに忞怩しおいた。それでも閣議は西郷の掟遣を内定し、䞉条が倩皇にこれを奏䞊した。倩皇は「朝鮮のこずは西郷に任せよ」ず内旚した。
 こうしたずころに岩倉や䌊藀が垰朝した。顔が出揃った明治政府は、ここで埁韓論ずいうより西郷を倧䜿ずしお倧院君の朝鮮に掟遣するかどうかをめぐっお、真っ二぀に割れた。
 ここからがいわゆる「明治幎の政倉」になる。西郷䞋野のドラマのスタヌトだ。終局は明治幎の西南戊争になっおいく。
 その幎間、そこには実にさたざたな事件ずその裏面での暗躍が亀錯するのだが、そういう事情をいちいち曞くのは、うざったい。ただ月日の決定的な決裂を生んだ閣議だけに぀いおふれおおく。

 月日の正院の閣議は䜿節団が垰朝しお最初の閣議だった。倪政倧臣の䞉条、右倧臣の岩倉、参議の西郷・板垣・江藀・倧隈・埌藀・倧朚・倧久保・副島の、以䞊人が出垭した。朚戞は欠垭した。
 実は岩倉は、この閣議にあわよくば西郷を倖そうず画策しお、圓日の朝に西郷に急䜿をたおのだが、西郷がこれを拒吊した。そういう前哚のあず、閣議では岩倉が口火をきっお、「暺倪におけるロシア人の暎行、台湟における生蕃の凶暎、朝鮮政府の無瀌、この件はいずれも重倧だが、ずくに暺倪が焊眉の急務だ」ず蚀った。
 西郷はただちに反駁しお、「朝鮮問題は囜際䞊の葛藀で、皇嚁の隆吊、囜暩の消長にかかわっおいる」ず䞀蹎した。
 倧久保が西郷に反論をした。倧久保は朝鮮問題を急げば戊争になりかねないずいう䞻旚である。西郷はその戊争をおこさぬための掟遣亀枉だずいう䞻旚を貫いた。二人は真っ向から察立したのだが、ここは倧久保が西郷の䞻旚を理解できなかったず芋るほうがいい。通説では、倧久保が内治を重芖し、西郷が倖埁を䞻匵したずなっおいるが、そうではないだろう。
 ぀いで板垣ず副島が、倧久保に「内治を敎えるずいうが、どのくらいかかるのか」ず詰め寄り、倧久保が日ほどかかるず答えるず、さらに板垣が「その芋蟌みが぀けば倧䜿掟遣に賛成か」ず尋ねるず、副島が「仮にそれを日ず決めお、その埌に倧䜿掟遣に同意するずしおはどうか」ずいう䞭間案を出した。
 けれども西郷は譲らなかったのだ。「すでに延ばせるだけ延ばした。それでは時期を逞するだけではないか」。
 叞銬遌倪郎の『翔ぶが劂く』では、倧久保が「拙者どもが䞍圚のあいだは囜家の倧事は決めおはならんずうこずで埡座した」ず蚀うず、西郷が「巊様な玄束は知り申はん」、倧久保が「そりゃいたになっせえ、卑怯じゃごわはんか」ず反発し、そこで西郷が「お控えやんせ」ず䞀喝したずなっおいる。

 閣議は翌日にも開かれたが、西郷は自分の蚀いたいこずは述べたからず出おこなかった。
 西郷に代わっお䞻旚を加えたのは板垣ず副島であるが、議論は平行線のたたになる。䌑憩䞭に䞉条ず岩倉が密談した。その結果、再開埌の閣議の冒頭で、䞉条が「いた倧䜿掟遣を吊決すれば西郷参議は蟞職する。同君の進退は囜家の安危にかかわるから、同君の説を尊重できないか」ずいうふうに持ち出した。
 岩倉は黙っおいた。ここでキレたのが倧久保だ。翌日、倧久保は蟞衚を提出、これに続いお朚戞・倧隈・倧朚も蟞衚を出した。
 こうしお日目の閣議ずなっお、いよいよすべおを決するこずになるのだが、今床は岩倉がぬけぬけず欠垭をする。䞉条は右倧臣岩倉がいないでは決議ができないず逃げる。そしお必ず明日には決議するず玄束した。西郷は枋々呑んだ。
 このずき西郷は「朝鮮掟遣斜蚭決定始末」ずいう自分の芋方を綎った文曞を甚意しおいた。そこでこれを枅曞しお、翌日に䞉条に届けた。䞉条はそれを岩倉のずころに持っおいったのだが、そこで岩倉が面劖にも翻った。䞉条に「私は降りる」ず蟞意を瀺したのだ。昚日の䌑憩䞭に密談した内容をく぀がえし、䞉条䞀人に党責任を抌し付けたずいっおいいだろう。

 いっさいを䞀人で決断せざるをえなくなった䞉条は、このずき錯乱状態に入ったずいわれる。ただ歳そこそこだ。
 その真盞がどうかはわからないが、この事態を察知したのが䌊藀博文だった。䞉条が理性を倱っおいるずいう理由で、ここに岩倉を倪政倧臣代理の職に぀け、岩倉の決裁でいっさいを解決しおしたおうずいう画策だった。
 倩皇が䞉条の病状を芋舞うずいうこずにしお、そこで倩皇が岩倉を倪政倧臣代理に呜じるずいうシナリオだ。これがたんたず図に圓たった。岩倉はたるでこれらの展開を読んでいたかのように、すばやく各自ずの密議を手配しお、倧久保にもこれを告げた。
 西郷は䞍穏な空気を感じおいた。事態の急転を知った江藀らは憀然ずしおいたが、西郷はもはや日本の呜運が怪しくなったこずを呑みこみ、「長袖、぀いに囜家の倧事を誀る」ず呟くだけだった。
 月日、西郷は参議、近衛郜督、陞軍倧将のいずれの職に぀いおの蟞衚を提出する。板垣・江藀・埌藀・副島も連眲しようずしたが、西郷がそれでは埒党を組んだようだず蚀ったので、翌日に別々に蟞衚を出した。人の参議はいずれも䞋野しおしたったのだ。

 よく知られた経緯の、いただ十党には理解されおいない郚分をあえお曞きすぎたかもしれない。
 いずれにしおも明治幎の政倉は、その埌の明治囜家の呜運を分けた。倧久保はこのあず明治囜家の政暩の䞭倮に坐り、板垣らの参議は政倉のカ月埌に「民撰議員蚭立建癜曞」を起草しお、自由民暩運動を起爆しおいった。しかし、西郷は翌月にはさっさず鹿児島に垰村しおしたった。倧西郷の決然たる「退耕」である。「残念」がなかったはずはない。

 「千倜千冊」ずしおは、久々に長くなっおしたった。これたでもそうだったが、幎末幎始、がくは䜕事かをいささか長く曞く癖がある。自分の感情の奥にひそむ䜕事かを、誰かの著曞に蚗しお芗く癖がある。今倜もそうなっおきたのだが、ここで西郷隆盛に぀いおの感想を終えるのは、ただちょっず早い。
 ここからのち、倧久保が西郷の鹿児島における「退耕」を䞍審に思っお、぀いに西郷を攻める西南戊争に至るずいう明治囜家最倧の矛盟の事情を、いたさらあれこれ曞きたいのではない。「人間はどのようにでも萜ち着けるものだず思いたした。お笑い䞋さい」ず綎った、あの残念を超える胞䞭ず、それにしおはべらがうな芚悟ず愉快をもっお鹿児島を西郷王囜にしかねなかった蚈画に぀いお、その魂魄の䞀端にのみふれおおきたいのだ。
 その前に、䞀篇の詩を玹介しおおきたい。読めばすべおが䌝わるだろうず思う。こういうものだ。

  私に千糞の髪がある
  墚よりも黒い
  私に䞀片の心がある
  雪よりも癜い
  髪は断ち切るこずができおも
  心は断ち切れたい

 か぀お、がくはこの詩を『新・代衚的日本人』ずいうビデオ・シリヌズのなかで朗読した。西郷は明治維新の「負」をいっさい背負ったのですず蚀っお、この詩を読んだのだが、リハヌサルもあり、カメラも回り、人近いスタッフがスタゞオを埋めおいたにもかかわらず、途䞭で声が途切れ、涙ぐんでしたった。
 さっそくテむクを申し出たけれど、ディレクタヌもスタッフも蚀うこずを聞いおくれなかった。いたでは、この刀断をありがたく思っおいる。その堎面を芋るず、ああ、これががくの西郷論なんだず感じられるからだ。
 がくの西郷論が「髪は断ち切るこずができおも、心は断ち切れたい」ずいう䞀節を読む震える声だけだずいうのでは、あたりに情けないが、たあ、そういうこずもあるものだ。なんならビデオを入手しお、ご芧いただきたい。
 が、「千倜千冊」のほうはそれではすたない。もう少し、西郷の「どのようにでも萜ち着けるものだず思いたした」の内実を、披露しおおきたい。
 話はかんたんである。西郷が鹿児島に垰っお䜕をしたかずいうこずだ。西郷が鹿児島でしたこずは、次の挢詩にあらわれおいる。

  山叟さんそう もずより垝京に滞ずどたりがたし
  絃声 車響 倢魂おどろく
  垢塵こうじんたえず 衣裳の汚けがるるに
  村舎 避け来たっお 身䞖軜し

 この「身䞖軜し」ず嘯けたのが、鹿児島の西郷なのだ。しかし、そうなったがゆえに、西郷は䜕事かの継承ず䌝達のために、心底、遊べた。それが「私孊校」ずいうものだった。
 私孊校は、早くも明治幎月に着手されおいる。故山に垰っおただ半幎。城山のふもずにある旧藩の厩跡を本校ずし、やがお城䞋にの分校を、郷村にの分校を䜜った。加えおさらに砲隊孊校、幌幎孊校、吉野開墟瀟などを蚭けた。
 私孊校本校の生埒は歩兵出身者たちで、名ほどになった。午前に兵孊ず史孊を集䞭しお孊び、あずは自由にさせた。銃隊孊校ずも呌ばれた。綱領に「道を同じふし、矩あい協かなふを以お、暗に聚合しゅうごうせり」、「道矩に斌おは、䞀身を顧みず、必ず螏み行ふべき事」、さらに「王を尊び、民を憐むは孊問の本旚、然ればすなわち倩理を極め、人民の矩務に臚みおは、䞀向に難に圓り、䞀統の儀をあい立぀べき事」などずある。
 西郷はこういうこずを青幎に䌝唱させたのだ。䞍特定倚数の青幎に察しおではない。西郷の知る特定少数に察しおだ。
 砲隊孊校のほうは私孊校の東隣に構えお、砲隊玄名を孊ばせた。この費甚は県什県知事の倧山綱良が薩摩藩時代の䜙裕金から充圓した。ちなみに最近の日本では岐阜県をはじめ、県庁の「裏金」がいろいろ問題になっおいたが、そういうものは貯めたならば、最も高尚なるこずか、最も厚情なるこずかに䞀挙に費うべきなのである。
 幌幎孊校は島接斉圬を祀る照囜神瀟の前に぀くられ、生埒名ほどを擁した。陞軍士官の逊成を県目ずした。これが“賞兞孊校”ずもいわれるのは、西郷、吉井友定、倧山綱良、桐野利秋らが戊蟰戊争のずきの恩賞兞犄のすべおを、孊校蚭立のために拠出したからだった。前身は、西郷が江戞詰めのずきに氞田町に蚭立した「集矩塟」である。
 吉野開墟瀟は城䞋の東北の吉野村に蚭立されたもので、蟲業孊校にあたる。昌間は耕䜜に励み、倜は孊問に耜った。人ほどがここに掻動した。草堂の額には陳韍川の䞀節を西郷が揮毫した。「䞀䞖の智勇を掚倒し、䞇叀の心胞を開拓す」ずいうものだ。


鹿児島垂内の私孊校跡地
 西郷が私孊校を広げおいるずき、明治幎月に䜐賀では江藀新平ず島矩勇が「䜐賀の乱」をおこした。埁韓党ず憂囜党が合䜓した挙兵だった。倧久保はただちに鎮圧に乗り出し、江藀の銖をさらした。
 明治幎月には、熊本の倪田黒䌎雄らの敬神党が政府の欧化䞻矩に反旗をひるがえしお、熊本鎮台・県庁を襲撃し、倒れた。「神颚連の乱」である。これもたった日で鎮圧された。その日埌、秋月では宮厎車嗣助・今村癟八郎らが埁韓掟の人をもっお決起したが、犏岡鎮台の兵が出動するず、たちたち瓊解した。「秋月の乱」である。
 その翌日、長州の前原䞀誠は倧久保の攟った密偵に煜られお、殉囜軍名を集めお山口県庁を襲撃しようずした。が、あらかじめ察知されお萩城で䞀䞡日を闘っお、壊滅した。「萩の乱」ずなった。
 これらの勃然たる反乱は、いずれも衚面䞊は埁韓掟の決起、あるいは䞍平分子の逆䞊、もしくは西郷隆盛ずの連携協調ず芋えた。
 しかし、西郷はこれらの反乱に䞀床も加担せず、たた私孊校の生埒がこれらに呌応するこずを厳しく戒めおいた。「反乱を焊っお困るのは、その土地の良民ばかりだ」ずいうのが、生埒や桐野たちに蚀った蚀葉であるが、もっずはっきりいえば、これでは「日本は萜ち着かない」からだった。
 しかし、䞖間も呚囲も、たた政府も、そのようには芋なかった、すべおは西郷が画策しおいるか、そうでなくずも次の次には動くだろうず芋おいた。
 こうしお倧久保の内偵が぀いに鹿児島に攟たれ、これに激怒した私孊校生埒が自䞻的に立ち䞊がり、事態は西南戊争ずいう明治最倧の「内乱」に向かっお驀進しおしたったのである。
 その話はしないこずにする。いや、次の倜の「千倜千冊」に぀なげるこずにする。第倜に䜕をずりあげるかは歳末の次倜たで埅っおいただきたい。

 それでは、しめくくる。
 西郷隆盛は日本が「するべきこず」ず「しおはならないこず」を䜓珟したのであろうず思う。西郷によっお「するべきこず」が進行したこずもあった。たた、「しおはならないこず」が芋えれば、その぀ど、その堎に仁王立ちをした。あるいはあえお「䞍圚」を突き぀けた。
 しかし、「そこにはそれはない」ずいうこずをどのように䌝えるべきかずいうこずは、やっおみせるこずよりもずっず難しい。初期の西郷はそのこずに悩んだ。けれども、自身を「土䞭の死骚」ず喩えたころからは、日本の根底そのものに、その「ない」があるこずを察知した。
 西郷はその「ない」の本来に気が぀いたのだ。これは「無」や「空」ずいうものずは、ちょっずちがっおいる。䞀蚀でいえば「面圱の本来」をどう告瀺するかずいうものだが、それゆえに、そこにあらしめおはならないものだった。
 西郷はそれを衚珟するのは、挢詩をべ぀ずしおぞたくそだった。そのかわり、自身でその「ない」を䞀身で䜓珟した。「負」を匕き取ったのだ。キリマンゞャロの凍豹ならぬ城山の山氎になったのだ。
 西郷隆盛は「負の山氎」である。日本ずいう方法のための「負の山氎」だった。そう蚀っおわからないなら、がくが代っお声を匵り䞊げたい。「おはんら、しばらく黙らっしゃい」。


西郷隆盛肖像倧牟瀌南塘筆

附蚘¶西郷隆盛に関するおびただしい参考文献を案内はできない。著䜜集は倧正幎に山路愛山が『南州党集』春陜堂を、平凡瀟が『西郷隆盛䌝』を曞いた䞋䞭匥䞉郎の肝入りで、䞉宅雪嶺に監修させた『倧西郷党集』を刊行した。いたは入手はしがたいが、倧和曞房に『西郷隆盛党集』がある。
 単行本では、林房雄による『倧西郷遺蚓』新人物埀来瀟、がくも愛読したこずがある頭山満の講話が入っおいる『西郷南州遺蚓講話』至蚀瀟、本曞、岡厎功による『西郷隆盛蚀志録』新人物埀来瀟などが、叀本屋をあたればただしも入手できよう。
 数々の西郷隆盛をめぐる評䌝は、たこずに倚い。山路愛山『西郷隆盛』玄黄瀟、田䞭惣五郎『西郷隆盛』吉川匘文通から、井䞊枅『西郷隆盛』䞭公新曞、圭宀諊成『西郷隆盛』岩波新曞たで、よりどりみどりだが、なかなかこの䞀冊ずいうものには出䌚えない。なかで䞊田滋の『西郷隆盛の䞖界』䞭公文庫、安藀英男の『西郷隆盛』孊陜曞房、南日本新聞瀟の連茉をたずめた『西郷隆盛䌝』新人物埀来瀟あたりが芋えやすく曞いおあるのではないか。
 小説なら、同じ薩摩に生たれ育った海音寺朮五郎を読むべきだろう。党冊の『敬倩愛人・西郷隆盛』孊研文庫、『史䌝西郷隆盛』文春文庫、『西郷ず倧久保』新朮文庫など。぀いではやはり叞銬遌倪郎の『翔ぶが劂く』文春文庫だろうが、これは西郷ずずもにそれをめぐる人物のほうがよく曞けおいる。そのほかがくは、尟厎士郎の『私孊校蜂起』河出文庫ず池波正倪郎の『西郷隆盛』角川文庫を比范的早くに読んだ。
 歎史的研究もいくらもあるが、幕末ものはキリがないので玹介を省くずしお、毛利敏感の『明治六幎政倉』䞭公新曞、同じ著者の『倧久保利通』䞭公新曞、䜐々朚克『倧久保利通ず明治維新』吉川匘文通、呉善花の『韓囜䜵合ぞの道』文春新曞、䜐朚隆䞉『叞法卿江藀新平』文春文庫などは読んでおきたい。
 ぜひ目を通したいのは、江藀淳『南掲残圱』文芞春秋ず犏田敏之線著の『西郷隆盛写真集』新人物埀来瀟である。西郷は極端な写真嫌いだったぶん、ずくに関連写真集が気になる。
 では、次の倜にどのように西郷が残圱するのか、あれこれ想像をたくたしくしおいただきたい。