遺訓
西郷隆盛
一
廟堂に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些とも私を挾みては濟まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を蹈み、廣く賢人を選擧し、能く其職に任ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程國家に勳勞有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸祿を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるゝに付、然らば尚書(○書經)仲※(「兀のにょうの形+虫」、第4水準2-87-29)ちゆうき之誥かうに「徳懋さかんなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相對するは此の義にて候ひしやと請問せいもんせしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。
二
賢人百官を總べ、政權一途に歸し、一格かくの國體定制無ければ、縱令たとひ人材を登用し、言路を開き、衆説を容るゝ共、取捨方向無く、事業雜駁にして成功有べからず。昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云樣なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。
三
政の大體は、文を興し、武を振ひ、農を勵ますの三つに在り。其他百般の事務は皆此の三つの物を助くるの具也。此の三つの物の中に於て、時に從ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し。
四
萬民の上に位する者、己れを愼み、品行を正くし、驕奢を戒め、節儉を勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤勞を氣の毒に思ふ樣ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創さうさうの始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文かざり、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りては、戊辰の義戰も偏へに私を營みたる姿に成り行き、天下に對し戰死者に對して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。
五
或る時「幾ビカ歴テ二辛酸ヲ一志始テ堅シ。丈夫玉碎愧ヅ二甎全ヲ一。一家ノ遺事人知ルヤ否ヤ。不下爲メニ二兒孫ノ一買ハ中美田ヲ上。」との七絶を示されて、若し此の言に違ひなば、西郷は言行反したるとて見限られよと申されける。
六
人材を採用するに、君子小人の辨酷べんこくに過ぐる時は却て害を引起すもの也。其故は、開闢以來世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を取り之を小職に用ひ、其材藝を盡さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才藝有りて用便なれば、用ひざればならぬもの也。去りとて長官に居すゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。
七
事大小と無く、正道を蹈み至誠を推し、一事の詐謀さぼうを用ふ可からず。人多くは事の指支さしつかゆる時に臨み、作略さりやくを用て一旦其の指支を通せば、跡は時宜じぎ次第工夫の出來る樣に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るゝものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる樣なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。
八
廣く各國の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我國の本體を居すゑ風教を張り、然して後徐しづかに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、國體は衰頽し、風教は萎靡ゐびして匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。
九
忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、萬世に亙り宇宙に彌り易かふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。
一〇
人智を開發するとは、愛國忠孝の心を開くなり。國に盡し家に勤むるの道明かならば、百般の事業は從て進歩す可し。或ひは耳目を開發せんとて、電信を懸け、鐵道を敷き、蒸氣仕掛けの器械を造立し、人の耳目を聳動しようどうすれ共、何に故電信鐵道の無くては叶はぬぞ缺くべからざるものぞと云ふ處に目を注がず、猥りに外國の盛大を羨み、利害得失を論ぜず、家屋の構造より玩弄物に至る迄、一々外國を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、國力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本身代限りの外有る間敷也。
一一
文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些ちとも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟つぼめて言無かりきとて笑はれける。
一二
西洋の刑法は專ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑒誡かんかいとなる可き書籍を與へ、事に因りては親族朋友の面會をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡かんくわ孤獨を愍あはれみ、人の罪に陷るを恤うれひ給ひしは深けれ共、實地手の屆きたる今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、實に文明ぢやと感ずる也。
一三
租税を薄くして民を裕ゆたかにするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐しひたげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧せうけいの俗吏を用ひ巧みに聚斂しうれんして一時の缺乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦惱に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐きつさ狡猾かうくわつに趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩ぶんぽう離析りせきに至るにあらずや。
一四
會計出納は制度の由て立つ所ろ、百般の事業皆な是れより生じ、經綸中の樞要なれば、愼まずばならぬ也。其大體を申さば、入るを量りて出づるを制するの外更に他の術數無し。一歳の入るを以て百般の制限を定め、會計を總理する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否らずして時勢に制せられ、制限を慢にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血かうけつを絞るの外有る間敷也。然らば假令事業は一旦進歩する如く見ゆる共、國力疲弊して濟救す可からず。
一五
常備の兵數も、亦會計の制限に由る、決して無限の虚勢を張る可からず。兵氣を鼓舞して精兵を仕立なば、兵數は寡くとも、折衝禦侮共に事缺ぐ間敷也。
一六
節義廉恥を失て、國を維持するの道決して有らず、西洋各國同然なり。上に立つ者下に臨で利を爭ひ義を忘るゝ時は、下皆な之に倣ひ、人心忽ち財利に趨り、卑吝の情日々長じ、節義廉恥の志操を失ひ、父子兄弟の間も錢財を爭ひ、相ひ讐視するに至る也。此の如く成り行かば、何を以て國家を維持す可きぞ。徳川氏は將士の猛き心を殺ぎて世を治めしか共、今は昔時戰國の猛士より猶一層猛き心を振ひ起さずば、萬國對峙は成る間敷也。普佛の戰、佛國三十萬の兵三ヶ月糧食有て降伏せしは、餘り算盤に精しき故なりとて笑はれき。
一七
正道を踏み國を以て斃るゝの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。
一八
談國事に及びし時、慨然として申されけるは、國の凌辱りようじよくせらるゝに當りては、縱令國を以て斃るゝ共、正道を踐み、義を盡すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一處に集め、唯目前の苟安こうあんを謀るのみ、戰の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也。
一九
古より君臣共に己れを足れりとする世に、治功の上りたるはあらず。自分を足れりとせざるより、下々の言も聽き入るゝもの也。己れを足れりとすれば、人己れの非を言へば忽ち怒るゆゑ、賢人君子は之を助けぬなり。
二〇
何程制度方法を論ずる共、其人に非ざれば行はれ難し。人有て後方法の行はるゝものなれば、人は第一の寶にして、己れ其人に成るの心懸け肝要なり。
二一
道は天地自然の道なるゆゑ、講學の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功きよくごうは「※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ意※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ必※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ固※[#「毋の真ん中の縦棒が下につきぬけたもの」、12-7]シレ我」(○論語)と云へり。總じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るゝぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其事大抵十に七八迄は能く成し得れ共、殘り二つを終る迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを愼み事をも敬する故、功も立ち名も顯るゝなり。功立ち名顯るゝに隨ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒愼かいしんの意弛み、驕矜けうきようの氣漸く長じ、其成し得たる事業を負たのみ、苟も我が事を仕遂んとてまづき仕事に陷いり、終に敗るゝものにて、皆な自ら招く也。故に己れに克ちて、睹ず聞かざる所に戒愼するもの也。
二二
己れに克つに、事々物々時に臨みて克つ樣にては克ち得られぬなり。兼て氣象を以て克ち居れよと也。
二三
學に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。去りとて唯此こにのみ偏倚へんいすれば、或は身を修するに疎に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては濟まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。
恢二宏スル其ノ志氣ヲ一者ハ。人之患ハ。莫シレ大ナルハレ乎下自私自吝。安ジテ二於卑俗ニ一。而不ル中以テ二古人ヲ一自ラ期セ上。
古人を期するの意を請問せしに、堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。
二四
道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。
二五
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを盡て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
二六
己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出來ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出來ぬも、功に伐ほこり驕謾けうまんの生ずるも、皆な自ら愛するが爲なれば、決して己れを愛せぬもの也。
二七
過ちを改るに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其事をば棄て顧みず、直に一歩踏出す可し。過を悔しく思ひ、取繕はんと心配するは、譬へば茶碗を割り、其缺けを集め合せ見るも同にて、詮せんもなきこと也。
二八
道を行ふには尊卑貴賤の差別無し。摘つまんで言へば、堯舜は天下に王として萬機の政事を執り給へ共、其の職とする所は教師也。孔夫子は魯國を始め、何方へも用ひられず、屡々困厄に逢ひ、匹夫にて世を終へ給ひしか共、三千の徒皆な道を行ひし也。
二九
道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔に、少しも關係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出來る人出來ざる人有るより、自然心を動す人も有れ共、人は道を行ふものゆゑ、道を蹈むには上手下手も無く、出來ざる人も無し。故に只管ひたすら道を行ひ道を樂み、若し艱難に逢うて之を凌んとならば、彌々いよ/\道を行ひ道を樂む可し。予壯年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出會ふ共、動搖は致すまじ、夫れだけは仕合せなり。
三〇
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个樣かやうの人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるゝに付、孟子に、「天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の氣象は出ぬ也。
三一
道を行ふ者は、天下擧こぞつて毀そしるも足らざるとせず、天下擧て譽るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟讀して會得せよ。
三二
道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也。司馬温公しばおんこうは閨中けいちゆうにて語りし言も、人に對して言ふべからざる事無しと申されたり。獨を愼むの學推て知る可し。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒む可し。
三三
平日道を蹈まざる人は、事に臨て狼狽し、處分の出來ぬもの也。譬へば近隣に出火有らんに、平生處分有る者は動搖せずして、取仕末も能く出來るなり。平日處分無き者は、唯狼狽して、中々取仕末どころには之無きぞ。夫れも同じにて、平生道を蹈み居る者に非れば、事に臨みて策は出來ぬもの也。予先年出陣の日、兵士に向ひ、我が備への整不整を、唯味方の目を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝ついて見よ、夫れは第一の備ぞと申せしとぞ。
三四
作略さりやくは平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、其迹あとを見れば善からざること判然にして、必ず悔い有る也。唯戰に臨みて作略無くばあるべからず。併し平日作略を用れば、戰に臨みて作略は出來ぬものぞ。孔明は平日作略を致さぬゆゑ、あの通り奇計を行はれたるぞ。予嘗て東京を引きし時、弟へ向ひ、是迄少しも作略をやりたる事有らぬゆゑ、跡は聊か濁るまじ、夫れ丈けは見れと申せしとぞ。
三五
人を籠絡ろうらくして陰に事を謀る者は、好し其事を成し得る共、慧眼けいがんより之を見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬とられぬもの也。
三六
聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、迚とても企て及ばぬと云ふ樣なる心ならば、戰に臨みて逃るより猶ほ卑怯なり。朱子も白刃を見て逃る者はどうもならぬと云はれたり。誠意を以て聖賢の書を讀み、其の處分せられたる心を身に體し心に驗する修行致さず、唯个樣かようの言个樣かようの事と云ふのみを知りたるとも、何の詮無きもの也。予今日人の論を聞くに、何程尤もに論する共、處分に心行き渡らず、唯口舌の上のみならば、少しも感ずる心之れ無し。眞に其の處分有る人を見れば、實に感じ入る也。聖賢の書を空く讀むのみならば、譬へば人の劒術を傍觀するも同じにて、少しも自分に得心出來ず。自分に得心出來ずば、萬一立ち合へと申されし時逃るより外有る間敷也。
三七
天下後世迄も信仰悦服せらるゝものは、只是一箇の眞誠しんせい也。古へより父の仇を討ちし人、其の麗かず擧て數へ難き中に、獨り曾我の兄弟のみ、今に至りて兒童婦女子迄も知らざる者の有らざるは、衆に秀でゝ、誠の篤き故也。誠ならずして世に譽らるゝは、僥倖の譽也。誠篤ければ、縱令當時知る人無く共、後世必ず知己有るもの也。
三八
世人の唱ふる機會とは、多くは僥倖の仕當しあてたるを言ふ。眞の機會は、理を盡して行ひ、勢を審かにして動くと云ふに在り。平日國天下を憂ふる誠心厚からずして、只時のはずみに乘じて成し得たる事業は、決して永續せぬものぞ。
三九
今の人、才識有れば事業は心次第に成さるゝものと思へ共、才に任せて爲す事は、危くして見て居られぬものぞ。體有りてこそ用は行はるゝなり。肥後の長岡先生の如き君子は、今は似たる人をも見ることならぬ樣になりたりとて嘆息なされ、古語を書て授けらる。
夫天下非レバレ誠ニ不レ動カ。非レバレ才ニ不レ治ラ。誠之至ル者。其動ク也速。才之周ネキ者。其治也廣シ。才ト與レ誠合シ。然ル後事ヲ可シレ成ス。
四〇
翁に從て犬を驅り兎を追ひ、山谷を跋渉ばつせふして終日獵り暮らし、一田家に投宿し、浴終りて心神いと爽快に見えさせ給ひ、悠然として申されけるは、君子の心は常に斯の如くにこそ有らんと思ふなりと。
四一 身を修し己れを正して、君子の體を具ふる共、處分の出來ぬ人ならば、木偶人も同然なり。譬へば數十人の客不意に入り來んに、假令何程饗應したく思ふ共、兼て器具調度の備無ければ、唯心配するのみにて、取賄ふ可き樣有間敷ぞ。常に備あれば、幾人なり共、數に應じて賄はるゝ也。夫れ故平日の用意は肝腎かんじんぞとて、古語を書て賜りき。
文ハ非ル二鉛槧ニ一也。必ズ有リ二處スルレ事ニ之才一。武ハ非ル二劒楯ニ一也。必ズ有リ二料ルレ敵ヲ之智一。才智之所レ在ル一焉而已。(○宋、陳龍川、酌古論序文)
追加
一
事に當り思慮の乏しきを憂ふること勿れ。凡思慮は平生默坐靜思の際に於てすべし。有事の時に至り、十に八九は履行りかうせらるゝものなり。事に當り率爾に思慮することは、譬へば臥床夢寐むびの中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し。
二
漢學を成せる者は、彌漢籍に就て道を學べし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も當時萬國對峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏傳を熟讀し、助くるに孫子を以てすべし。當時の形勢と略ぼ大差なかるべし。
問答
岸良眞二郎 問
一
事に臨み猶豫狐疑こぎして果斷の出來ざるは、畢竟憂國之志情薄く、事の輕重時勢に暗く、且愛情に牽さるゝによるべし。眞に憂國之志相貫居候へば、決斷は依て出るものと奉レ存候。如何のものに御座候哉。
二
何事も至誠を心となし候へば、仁勇知は、其中に可レ有レ之と奉レ存候。平日別段に可レ養ものに御座候哉。
三
事の勢と機會を察するには、如何着目仕可レ然ものに御座候哉。
四
思設ざる事變に臨み一點動搖せざる膽力を養には、如何目的相定、何より入て可レ然ものに御座候哉。
南洲 答
一
猶豫狐疑は第一毒病にて、害をなす事甚多し、何ぞ憂國志情の厚薄に關からんや。義を以て事を斷ずれば、其宜にかなふべし、何ぞ狐疑を容るゝに暇あらんや。狐疑猶豫は義心の不足より發るものなり。
二
至誠の域は、先づ愼獨より手を下すべし。間居即愼獨の場所なり。小人は此處萬惡の淵藪えんそうなれば、放肆はうし柔惰の念慮起さざるを愼獨とは云ふなり。是善惡の分るゝ處なり、心を用ゆべし。古人云ふ、「主トシレ靜ヲ立ツ二人極ヲ一」(○宋、周濂溪の語)是其至誠の地位なり、不レ愼べけんや、人極を立ざるべけんや。
三
知と能とは天然固有のものなれば、「無知之知ハ。不シテレ慮ヲ而知リ。無能之能ハ。不シテレ學バ而能クス」(○明、王陽明の語)と、是何物ぞや、其惟たゞ心之所爲にあらずや。心明なれば知又明なる處に發すべし。
四
勇は必ず養ふ處あるべし。孟子云はずや、浩然之氣を養ふと。此氣養はずんばあるべからず。
五
事の上には必ず理と勢との二つあるべし。歴史の上にては能見分つべけれ共、現事にかゝりては、甚見分けがたし。理勢は是非離れざるものなれば、能々心を用ふべし。譬へば賊ありて討つべき罪あるは、其理なればなり。規模きぼ術略吾胸中に定りて、是を發するとき、千仞に坐して圓石を轉ずるが如きは、其勢といふべし。事に關かるものは、理勢を知らずんばあるべからず。只勢のみを知て事を爲すものは必ず術に陷るべし。又理のみを以て爲すものは、事にゆきあたりて迫つまるべし。いづれ「當ツテレ理ニ而後進ミ。審ニシテレ勢ヲ而後動ク」(○陳龍川、先主論の語)ものにあらずんば、理勢を知るものと云ふべからず。
六
事の上にて、機會といふべきもの二つあり。僥倖の機會あり、又設け起す機會あり。大丈夫僥倖を頼むべからず。大事に臨では是非機會は引起さずんばあるべからず。英雄のなしたる事を見るべし、設け起したる機會は、跡より見る時は僥倖のやうに見ゆ、氣を付くべき所なり。
七 變事俄に到來し、動搖せず、從容其變に應ずるものは、事の起らざる今日に定まらずんばあるべからず。變起らば、只それに應ずるのみなり。古人曰、「大丈夫胸中灑々しや/\落落らく/\。如ク二光風霽月ノ一。任ズ二其ノ自然ニ一。何ゾ有ラン二一毫之動心一哉」(○明、王耐軒筆疇の語)と、是即ち標的なり。如レ此體のもの、何ぞ動搖すべきあらんや。
補遺
一 誠はふかく厚からざれば、自ら支障も出來るべし、如何ぞ慈悲を以て失を取ることあるべき、決して無き筈なり。いづれ誠の受用じゆようにおいては、見ざる所において戒愼し、聞かざる所において恐懼する所より手を下すべし。次第に其功も積て、至誠の地位に至るべきなり。是を名づけて君子と云ふ。是非天地を證據にいたすべし。是を以て事物に向へば、隱すものなかるべきなり。司馬温公曰「我胸中人に向うて云はれざるものなし」と、この處に至つては、天地を證據といたすどころにてはこれなく、即ち天地と同體なるものなり。障礙しやうがいする慈悲は姑息にあらずや。嗚呼大丈夫姑息に陷るべけんや、何ぞ分別を待たんや。事の輕重難易を能く知らば、かたおちする氣づかひ更にあるべからず。
二 剛膽なる處を學ばんと欲せば、先づ英雄の爲す處の跡を觀察し、且つ事業を翫味し、必ず身を以て其事に處し、安心の地を得べし、然らざれば、只英雄の資のみあつて、爲す所を知らざれば、眞の英雄と云ふべからず。是故に英雄の其事に處する時、如何なる膽略かある、又我の事に處すところ、如何なる膽力ありと試較し、其及ばざるもの足らざる處を研究勵精すべし。思ひ設けざる事に當り、一點動搖せず、安然として其事を斷ずるところにおいて、平日やしなふ處の膽力を長ずべし、常に夢寐むびの間において我膽を探討すべきなり。夢は念ひの發動する處なれば、聖人も深く心を用るなり。周公の徳を慕ふ一念旦暮止まず、夢に發する程に厚からんことを希ふなるべし。夢寐の中、我の膽動搖せざれば、必驚懼きようくの夢を發すべからず。是を以て試み且明むべし。
三 若し英雄を誤らん事を懼れ、古人の語を取り是を證す。
譎詐無クレ方。術略横出ス。智者之能也。去リテ二詭詐ヲ一而示スニレ之ニ以テシ二大義ヲ一。置イテ二術略ヲ一而臨ムニレ之ニ以テス二正兵ヲ一。此レ英雄之事。而智者之所レ不ルレ能ハレ爲ス矣。(○陳龍川、諸葛孔明論の語)
英雄の事業如レ此、豈奇妙不思議のものならんや。學んで而して至らざるべけんや。
https://1000ya.isis.ne.jp/1167.html
西郷隆盛
西郷隆盛語録
角川文庫 1974
ISBN:4043216084
[訳編]奈良本辰也・高野澄
私に千糸の髪がある
墨よりも黒い
私に一片の心がある
雪よりも白い
髪は断ち切ることができても
心は断ち切れまい
敬天愛人。西郷南州。
残念とは何かと思う。残念とは念が残ることをいう。残念無念は、その念すら見あたらないときをいう。本来の無念は覚悟そのもののことである。
誰からもとくに咎められたことがないからといって、自らに咎めがないとはかぎらない。誰しも人前では申し上げない咎めとともに生きている。ぼくには何十もの咎めが跋扈する。その跋扈と去来は止みそうもない。
さあ、これをいったいどうしたらいいか。時計の針を戻してその現場に自分を置いてみるのか。謝るべき相手に低頭してお伺いをたてにいくものか。自分の内奥の土蔵をひたすら清掃するべきか。しばしば迷ったものだ。キリスト者の「懴悔」というものが羨ましく感じられ、仏教者の「瞑目」に説得力を感じもした。
しかし、日々の体験はどういうものであれ、たえず激動なのである。どんなに小さな出来事も激動なのだ。それらは間髪をいれずに過去をつくっていく。そのうち、それらの堆積が新たな残念を生んでいく。さらにそのうち、自身の過剰や衰退がうとましくもなってくる。これではどうにも落ち着かない。自分でわざわざ落ち着かない境遇を選んでいるようだ。
過ぐる冬、西郷隆盛の書簡集をちょいちょい読んでいたとき(『西郷南州書簡集』実業之日本社・本書に一部収録)、明治8年4月5日に大山弥介に当てた手紙の、こんな文面に出会った。
明治8年といえば、西郷が下野して鹿児島に私学校をつくり、開墾に熱中していた「退耕」の時期である。かつての薩摩の盟友だった大久保利通は明治政権の中心の中心にいて、周囲から「西郷の勝手なふるまい」を問題にされ、盟友との対立を深めきっていた。そんな時期に、西郷の従弟で、のちに陸軍元帥となった大山巌に、西郷は手紙を書いていた。
フランスとプロシャのあいだに緊張が高まり、伝言が一発届いたらすぐお出掛けになられる予定とのこと、さぞお楽しみであろうと存じております。私も一緒にどうかとのことでございますが、今年は大作にとりかかりましたので、とても逃げ出すわけにはまいりません。お断り申し上げますので、左様にお含みおき下さい。
いまはまったくの百姓になりきって一心に勉強しております。はじめのころはずいぶん難渋していましたが、いまでは一日に二畝ぐらいなら鋤を使えるようになりました。もういまでは、きらずの汁で芋飯を食うのにも馴れましたから、困ることはありません。人間はどのようにでも落ち着けるものだと思いました。お笑い下さい。幸便に任せ、用事のみ。頓首。
うーん、と唸った。そうか、「今年は大作にとりかかりました」と言うのか、「とても逃げ出すわけにはまいりません」と自分に言い聞かせるのか。いや、それよりなにより、とりわけ「人間はどのようにでも落ち着けるものだと思いました」に、脳天をガツンとやられた。そして「お笑い下さい」なのである。
この文面は、その後もぼくの心のどこかにずっと引っ掛かっている。この文面が引っ掛かっている釘を、体のどこかでいつもごつんごつんと感じている。
ぼくはいまなお、「人間はどのようにでも落ち着けるものだ」という場面を、自分のなかにまったく作りきれていない。しかもそのことを、「このようにあらわせば何かの納得になるのかもしれない」という文脈として、これまでちゃんと書いてこなかった。最近になってとくにその残念を感じるのである。
では、「人間はどのようにでも落ち着けるものだ」と思った西郷は、どのように残念を捨てたのか。それとも残念を使いきったのか。
今夜は、まことに少々ながら西郷隆盛を思いたい。いつかは西郷その人のことを書かなければと思って、延ばしのばしにしていたのだから、これはいつかはそうしなければならない宿命だ。
断片的にはいろいろ感想を弾(はじ)いてきたけれど、そんなことでは西郷を掴むということはとうてい叶わない。また、多くの“西郷もの”も読み、名状しがたい感動も受けてきたけれど、それで西郷が見えたというわけにもいかない。だいたい、西郷隆盛という人物の思索と行動は日本近代の最大の謎であり、それゆえ今日の日本の根本の謎なのである。それゆえ西郷をめぐる周囲の毀誉褒貶にも甚だしいものがあった。
褒めちぎった者も多かった。勝海舟(338夜)が「世の中に本当におそろしい人物がいるものだ。横井小楠と西郷南州だ」と驚嘆し、中江兆民(405夜)が維新後のていたらくに接して「西郷さえいれば、日本はこんなふうにはならなかったろう」と嘆じ、新渡戸稲造(605夜)が「日本にリンカーンのような人物はいるのか」と問われて「それが西郷隆盛だ」と答えたという、そういう西郷隆盛像だ。
一方、反対のことを言う連中も少なくなかった。近代の歴史研究者たちは、たとえば比較的公平な目をもっていただろう井上清ですら、西郷は愛国的民族主義者だが、下級武士たちの士族大衆の代表から離れられずに矛盾に満ちた征韓論に走ったとみなした。圭室諦成(たまむろたいじょう)や石井孝は、「排他的な郷党意識」と「独善反抗的な政治理念」をもった野心家だとか、「討幕派に利用されただけの古い体質の器量」だとか断じたものだった。
西郷は、民主開明派とも保守反動とも、無私の者とも野心の者とも、そのような揺れのなかにいた人物とも思われてきた。ようするに、西郷隆盛は誰にとっても掴まえられない人物なのである。なかで坂本龍馬が、「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と評したのが、いかにも龍馬らしく、また西郷らしかった。また内村鑑三(250夜)が『代表的日本人』の5人の筆頭に西郷をあげ、「日本の維新革命は西郷の革命であった」と言い、そのうえで次のように書いたことも西郷にふさわしい。
新日本を西郷の日本であるなどと言うつもりはありません。それは、その事業に携わった大勢の立派な人達をまちがいなく無視することになります。
たしかに西郷の同志には、多くの点で西郷に勝る人物がいました。経済革命に関していうと、西郷はおそらく無能であったでしょう。内政については、木戸や大久保のほうが精通しており、革命後の国家の安定をはかる仕事では、三条や岩倉のほうが有能でした。今日の私どもの新国家は、この人々全員がいなくては実現できなかったでありましょう。
それにもかかわらず、西郷なくしては革命が可能であったかとなると疑問であります。木戸や三条を欠いたとしても、革命はそれほど上首尾ではないにせよ、たぶん実現をみたでありましょう。
しかし必要だったのは、すべてを始動させる原動力であり、運動を作り出し、天の全能の法にもとづき運動の方向を定める、西郷隆盛の精神であったのです。
ところで、こういう西郷についてのぼくの思いの一端を、年の瀬押し詰まる今夜にしたのは、前夜のヘミングウェイの「キリマンジャロの凍豹」との関連がないのかと問われれば、そういうことはいつだってあるでしょう、つまらんことを訊くもんじゃないと答えるしかあるまい。
その、そういうことはいつだってあるでしょうを、西郷はこう詠んでいる。「狂言妄語 誰か知り得ん。仰いで天に慚(はじ)ず、況んやまた人を」。
私も人だからときに狂言も綺語も弄するが、だからといって天にも人にも慚るところはない、という意味だ。ぼくもいまのところはこの言葉で返したい。なんら慚るものはないというふうに。けれども、ぼくの場合は、それでも心の内なる咎めは残るのだ。西郷はどうだったのだろうか。
今夜とりあげる一冊は奈良本辰也と高野澄が編訳した『西郷隆盛語録』であるが(遺訓・漢詩・書簡の3部に分かれている)、以下にはときどきその引用を入れるものの、とくに本書にこだわらないで、ぼくの感想を進めよう。おびただしい参考文献については、「附記」にその一部をしるす。海音寺潮五郎の『西郷隆盛』や司馬遼太郎の『翔ぶが如く』といった大作は、今回は振り返らなかった。
西郷は二度、流罪になっている。島流しされている。まず、そのことから話してみたい。
一度目は32歳のときで、安政5年のことだった。奄美大島に流されている。その直前には自害や心中も図った。自害や心中だなんて、豪胆磊落とみえる西郷にはふさわしくないと思う向きがあるかもしれないが、それこそは人を見る目がないというものだ。西郷にこそ、そういう大胆なフラジリティがあった。
この年の7月、西郷が敬愛しきっていた薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)が急死した。時代情勢は日本中が風雲急を告げている真っ最中、ハリスが下田に着任し、黒船の対応に全力を傾注した老中阿部正弘はあっけなく39歳で病没、彦根藩の井伊直弼が大老になって、日米修好通商条約を勅許を待たずに強引に締結してしまったばかり。西郷は斉彬の極秘の使命をもって江戸詰めを命じられた矢先だった。
日本の危機である。主君の斉彬と腹心の部下の西郷は何を相談していたのか。二人して、朝廷と薩摩藩を組みつなげて幕政改革を一挙になしとげようと計画していたのである。西郷はそのための協力要請を、ひそかに松平慶永(春獄・越前)、山内豊信(容堂・土佐)、伊達宗城(宇和島)らに託すため、密書を携えていた。
ところが、井伊大老の打つ手のほうが早かった。アメリカとの開国にいちゃもんをつける松平慶永・尾張慶勝・水戸(徳川)斉昭をただちに謹慎蟄居させ、斉彬らが次期将軍に画策推挙する一橋慶喜の登城を禁止してしまった。おまけに天皇を彦根に移し、京都に藩兵を差し向けようとしているらしい。
西郷のほうは、かくなるうえは一刻も早く斉彬の上京出兵を促すしかないと踏み切った。そこで、その旨を薩摩に戻って報告し、自身は先兵隊の頭目として再び上京して、相国寺を薩摩藩兵の拠点とした。ところが、その直後のこと、斉彬急死の訃報が届いたのだ。
計画のすべてがおじゃんになった。それだけではない。師とも親とも敬愛する斉彬の死は、西郷を痛哭断腸に追いこんだ。
呆然として殉死を心にした西郷だったが、朝廷側を仕切っていた近衛忠煕(ただひろ)や近衛家の顧問格の清水寺塔頭住職の月照らに、むしろあなたこそが主君の志を継ぐべきだと何度も諌められ、なんとか殉死は踏みとどまった。けれども西郷はここで1回、あきらかに“死んだ”のである。
近衛や月照が言うには、斉彬侯が亡くなったいまや、水戸の斉昭の押し込めを解いて江戸城に迎える以外はない(斉昭を第二の斉彬に仕立てる以外はない)。それには朝廷の御沙汰を仰いで斉昭の幕政復帰を推進するしかないだろう。そう、言うのだ。
たしかにすでに梅田雲浜(うんぴん)、頼(らい)三樹三郎、梁川星巌(やながわせいがん)らの急進的な勤皇派が、秘密裏に動き出していた。吉田松陰も壮絶なテロ計画を練っていた。西郷も悲嘆をはねのけ、意を決して事態の刷新にとりくもうとするのだけれど、周囲の盛り上がりのほどには心が及ばない。
そこへまたもや井伊大老の電光石火の鉄槌が、あたかも大鉈のように下っていった。安政の大獄が始まったのだ。
梅田や頼を捕縛した司直の手は執拗で、西郷にも伸びていく。逆上した西郷は、いっそ彦根に攻めて戦死するかと思うのだが、事態は前後左右が雁字搦めになっていて、なんらの動きもとりにくい。やむなく平野国臣を伴って、月照とともに身を隠しつつ、ひとまず薩摩に帰ろうとする。男ばかりの逃避行である。月照を下関の豪商・白石正一郎の屋敷に身をひそめさせ、西郷は一人で薩摩に戻って月照の庇護を申し出た。
しかし薩摩の地は名君斉彬を失って、実権は島津久光の手に移っていた。久光は悪女の名をほしいままにしたお由良が生んだ子で、そのお由良派が長らく主君の座を虎視眈々と狙っていた人物である(364夜『南国太平記』参照)。お由良が呪詛調伏をしてまでも斉彬を亡きものにしようとしていたのは有名な話、むろん西郷はそういう久光を心底嫌っていた(海音寺潮五郎は斉彬が久光・お由良に毒殺されたという仮説をたてている)。
一方、久光のほうは、面と向かって先代藩主お気に入りの西郷を排除できないものの、月照などという坊主は関係がない。とうてい薩摩には入れられないとして、西郷に月照の放逐を厳命した。
これで西郷は参ってしまった。どうにも窮した。すでに月照は下関から薩摩に向かっている。こうなれば月照もろとも死ぬしかないと覚悟して、夜陰の錦江湾に数人で舟を出すと、二人は乗合の者が寝静まるのを待って、ひしと抱き合い入水した。二人の辞世がのこされている。
大君のためには何か惜しからむ
さつまの瀬戸に身は沈むとも(中将坊月照)
ふたつなき道にこの身を捨て小舟
波立たばとて 風吹けばとて(西郷吉之助)
運命はいたずらなものだ。このとき月照は絶命し、西郷は間一髪で船頭らに助けられた。戻ってみると税所篤、大久保一蔵(利通)らが西郷を助けた。
しかしこのとき、西郷は永遠の「土中の死骨」となったのである。この言葉は西郷自身のもので、以来、西郷は月照との共死(ともじに)を遂げられなかったことをずっと悔いつづけている。残念は捨てられなかったのだ。西郷を語るにあたっては、この「未遂の死」のことを、この咎めのことを、放置してはおけない。
河上肇の『貧乏物語』に、清水寺にある西郷の詩碑を見るくだりがある(ぼくもしばしば眺めてきた)。月照を思う西郷の悔恨がうたわれている。河上は「西郷の、詩碑仰がむと今日もまた、五条坂を登り行くなり」と書いて、何度も西郷隆盛の万感を偲ぶためにそこを訪れたと告白した。
相(あい)約して淵に投じて 後先なし
豈に図らんや 波上再生の縁
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 十有余年の夢
空しく幽明を隔てて 墓前に哭(こく)す
こうして、冒頭に書いた西郷の最初の島流しになる。
薩摩藩は、西郷を奄美大島に流したのだ。幕府の目を憚ったのは言うまでもない。いや、そういう面子だけで西郷は流された。どんな事態であれ、面子には弱い西郷である。
奄美大島での流人西郷の日々は、実に3年におよんだ。そのあいだ、アイカナ(愛加那)という娘を島妻とし、アイカナは菊次郎という男子を身ごもった。西郷は約800冊の書籍を日がな読破し、島の子には手習いをさせ、ときにサトウキビの年貢未納者の解決に乗り出しもした。
このとき、おそらくは「敬天愛人」の思想が育まれたかと思う。少年期より朱子の『近思録』や王陽明の『伝習録』を読み耽り(996夜)、「天命」を知識にもっていた西郷であるけれど、主君の急死、二人しての入水、自分だけの助命、島流しの宿命などを3年にわたって直撃されてみれば、のちの西郷隆盛の大半はここで醸成されたとみなしていいだろう。が、これらはすべて「咎め」から出所したものだったのだ。「残念」との闘いだった。
かくて「敬天愛人」とは、裏を返せば「土中の死骨」なのである。ちなみにこのときの西郷は「菊地源吾」という変名になっている。幕府を憚り、藩内を憚ったからだった。