茶經 1-5 | 覚書き

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茶経(ちゃきょう 茶經)は、中国唐代に陸羽(733?~803)が著し、世界最古の茶書とされ、建中元年(780)刊行された唐代と唐代以前の茶に関する知識を系統的にまとめたもので、「さけい」ともいいます。
茶経は、三巻十章よりなり、一之源(茶樹の原産地、特徴、名称、自然条件と茶の品質との関係、茶の効用など)、二之具(茶摘みと製茶道具及び使用方法)、三之造(茶摘みと製茶法、及び品質鑑別の方法)、四之器(茶道具の種類と用途)、五之煮(茶の煎じ方と水質)、六之飲(飲茶の方法、意義と歴史の沿革)、七之事(古代から唐代までの茶事に関する記載)、八之出(全国名茶の産地と優劣)、九之略(一定の条件で、茶摘み道具と飲茶道具で省略することが出来るもの)、十之圖(以上それぞれの図)に分かれ、唐代までの茶の歴史、産地、効果、栽培、採取、製茶、煎茶、飲用についての知識と技術を論じたものです。

 

陸羽

陸 羽(りく う、733年 - 804年)は、中国・唐代の文筆家。茶の知識をまとめた『茶経』3巻などを著述した。またの名を疾、字(あざな)は鴻漸(こうぜん)、季疵、号は桑苧翁と称した。(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。

日本の思想家岡倉覚三(天心)はその著書『茶の本』の中で陸羽を「茶道の鼻祖」と評した[1]。


春木南溟筆 陸羽像(部分) 天保12年
陸羽は捨て子であった可能性が高く出自は不明である[2]。そのため、確実ではないが生年733年、出身地を復州竟陵(きょうりょう)(現在の湖北省天門市)とする通説が知られている[2]。

陸羽の姓「陸」については彼を拾った僧侶の俗姓をもらい陸とした、又は易の卦(け)にしたがって名付けた、などの説が伝えられている[2]。

経歴
捨て子として3歳くらいの時に浜で竟陵龍蓋寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという。

幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。

逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間に、竟陵の長官の李斉物(りせいぶつ)(zh)の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)(zh)とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。

756年(至徳元年)、安禄山の乱を避けようと北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も760年(上元元年)の頃、湖州(現在の浙江省湖州市)に避難。庵(いおり)をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に780年(建中元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。

大暦年間に、湖州の長官として赴任してきた顔真卿(がんしんけい)のもとで、『韻海鏡源(いんかいきょうげん)』の編纂に加わった。御史大夫の李季卿に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。

 

静岡県茶業会議

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栄西と喫茶養生記

http://shizuoka-cha.com/files/1113/8924/4559/eisai.pdf

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E7%B5%8C

 

茶経

 

茶経』(ちゃきょう 茶經)は、8世紀中国の、陸羽によって著された書物である。当時のに関する知識を網羅している。10章3巻。

 

 

概要

 

茶に関する最古の典籍であり、760年前後に撰述されたものと考えられている。ここで取扱っている茶は、団茶であり、現代日本で飲用されている煎茶抹茶ではない。その内容には、単なる喫茶法を超え、茶道に至る精神性を垣間見ることができる。

 

内容

 

茶経は次に挙げる10章で構成されている。

上巻
  • 一之源・・・茶樹についての説明
  • 二之具・・・製茶器具の列挙・説明
  • 三之造・・・製茶する際の注意事項
中巻
  • 四之器・・・飲茶器具の列挙・説明
下巻
  • 五之煮・・・茶をたてる際の注意事項
  • 六之飲・・・茶の飲み方など
  • 七之事・・・茶の史料の列挙
  • 八之出・・・茶の産地
  • 九之略・・・省略してよい器具
  • 十之図・・・(茶経の本文を書き出したものを茶の席に掛けておくように勧めている)

 

  中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

茶経

参考文献[編集]
『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894
熊倉功夫・程啓坤編『陸羽「茶経」の研究』(世界茶文化学術研究叢書I)宮帯出版社、2012年、ISBN 978-4-86366-861-4
外部リンク[編集]
参考文献[編集]
『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894
熊倉功夫・程啓坤編『陸羽「茶経」の研究』(世界茶文化学術研究叢書I)宮帯出版社、2012年、ISBN 978-4-86366-861-4
外部リンク[編集]

 

 

一 茶の起源

茶は、南方の嘉木なり。
高さは一尺二尺から数十尺に至り、巴山や峡川には二人で抱えるほどのものがあり、その枝を伐って葉を摘む。 その木の幹は瓜蘆の如く、葉は梔子の如く、花は白薔薇の如く、実は栟櫚の如く、蔕は丁香の如く、根は胡桃の如くである。
 

(瓜蘆の木は広州に産し、茶に似ているが、いたって苦くて渋い。栟櫚は蒲葵の属でその実は茶に似ている。胡桃と茶は、根が皆地下で育ち、瓦礫に至ると種子が割れて、苗木が上に伸びる。)
 
その地は、上なるものは爛石に生じ、中なるものは櫟壤(櫟の字は石扁の礫とすべきである)に生じ、下なるものは黄土に生じる。
およそ種をまいても実らず、植えても茂るのはまれである。瓜の種をまくような方法でやれば、三年で採ることができるようになる。
野生のものが上、茶園のものが次ぐ。
陽のあたる崖の陰のできる林の、葉が紫のものが上、緑のものが次ぐ。筍の形のものが上、牙の形のものが次ぐ。葉の巻いたものが上、葉の延びたものが次である。
日陰の山や谷間に生えたものは、採るに値しないし、凝り滞る性があるので、飲むと腹のなかがしこりの病になる。

採る時期を誤ったり、製造が精巧でなかったり、他の野草を混ぜると、飲めば病気を引起す。
茶がわざわいとなることは、ちょうど人参と同様である。
人参の上等品は上党に産し、中等品は百済、新羅に産し、下等品は高麗に産する。
沢州、易州、幽州、檀州に生えるものもあるが、薬としては効能がない。ましてや本物でもないものならなおさらである。
薺苨を服用させたのでは、六疾のただ一つでも治せるものではない。
人蔘でもわざわいとなることがわかれば、茶がわざわいとなることを十分にわかるはずである。
 

 

二之具
    
二 製茶の道具
 

籝。一に籃といい、一に籠といい、一に筥という。
竹を編んで造り、五升入る。一斗・二斗・三斗入るものもある。茶採みの人が背負って葉を採む。
(籝は、音は盈(えい)で、『漢書』にいわゆる「黄金籝に満つるも一経に如かず」とあり、顔師古の注に「籝は竹器で、なかに四升入る」と云う。)
 

竈。煙突は用いない。
 

釜。羽のあるものを用いる。
 

甑。木か焼物で、腰をつけずに泥で塗り固める。 
籃をすのこにし、竹の皮でつなぐ。
茶の葉の蒸し始めに、箄を釜に入れて、蒸しあがったら箄を取出す。
釜の湯が涸れれば、甑の中へ注ぎ足す。(甑は帯をつけず泥を塗る)
また穀木の枝の三又になったものをつくり(亞の字は椏と書くべきで、木の椏枝である。)、蒸した若芽や葉をひろげ散らす。その膏の流れ出るのを畏れるからである。
 

杵臼。一名を碓という。ふだん使い慣れているものでよい。
 

 規。一に摸といい、一に棬という。
鉄で作られており、丸いものや、四角いものや、花形のものがある。
 

承。一に台といい、一に砧という。
石で作る。さもなければ、槐や桑の木を半ば地中に埋め込んで揺れ動かないようにする。
 

檐。一に衣という。
油絹や雨衣、単衣の敗れたもので作る。檐を承の上に置き、規を檐の上に置いて、茶を固める。
茶が固まれば、持ち上げて取換える。
 

芘莉。 一に贏子といい、一に蒡筤という。
二本の小さい竹で、長さ三尺、胴が二尺五寸、柄が五寸。
竹の皮で方眼に織る、農夫の箕のようなもので、幅は二尺、茶を並べる。
 

棨。一に錐刀という。
柄は堅い木で作る。茶に穴を開けるのに用いる。
 

撲。一に鞭という。
竹で作る。茶の穴をかきまぜて茶をほごす。
焙。鑿地深二尺、闊二尺五寸、長一丈。
上作短牆、高二尺、泥之。        焙。地面を、深さ二尺、幅は二尺五寸、長さ一丈、に掘る。
その上に低い墻を作り、高さ二尺に泥で塗り固める。
貫。削竹為之、長二尺五寸。
以貫茶焙之。        貫。竹を削って作る、長さ二尺五寸。
茶の穴に刺して焙る。
 

棚。一に桟という。
木で、焙の上に組み立てる。木を組んで二段にし、高さは一尺、そこで茶を炒る。
茶が半乾きになれば下の棚にのせ、乾ききれば上の棚にのせる。
 

穿。江東・淮南部では竹を割って作り、巴州・峡山では藁を撚り合せて作る。
江東では、一斤を上穿とし、半斤を中穿とし、四・五両を下穿とする。
峡中では、百二十斤を上穿、八十斤が中穿とし、五十斤を下穿とする。
穿は、もと釵釧の釧の字を書いたり、あるいは貫とも串とも書いたりした。
今はそうではなく、磨・扇・彈・鑚・縫の五字のように、文字は平声で書かれているが、意味は去声であるように、穿の字をもって名にしたものである。
 

育。木で枠を作り、竹で編み、紙を貼る。
中に隔りがあり、上に覆いがあり、下には床があって、横に入り口があり、一枚の扉で掩う。
中に容器を置いて、熱灰を貯えて、ほんのりと煖める。
江南の梅雨時には、火を焚く。
(育とは、蔵え養うところから名となった。)

 

 

三之造
三 茶の製造
 

およそ茶を採るのは、二月、三月、四月の間である。
茶の筍は、爛石の沃土に生え、長さは四・五寸、ちょうど薇や蕨が始めて伸ばしたようで、朝露をおかして採る。
茶の芽は、葉の叢らがる上に出て、三枝・四枝・五枝とかたまっている。 その中の枝の抜きんでたものを選んで採る。
      

その日、雨があれば採らない。晴れでも雲があれば採らない。晴れて採り、それを蒸し、それを杵と臼で搗き(型に入れて固め)、それを焙り、穴をあけて封をして、茶が乾けば出来上がる。
茶には、千万の形がある。大ざっぱに言えば、胡人の靴のようなものは、

縮んで小皺がよっている(京錐の文様である。)。
犎牛の胸のようなものは、角が整っている(犎は、音は朋で、野牛のことである。)、浮雲が山から出たようなものは、曲がりくねって、そよ風が水の面を払うようである。
また新たに開墾した土地のようなものは、俄かの大雨に遇って大水が流れたようなものがある。これらは皆、茶のすぐれて肥えたものばかりである。
竹の子の皮のようなものは、枝も幹も硬く、蒸すにも搗くにも難しく、

従ってその形は篩にかけたようである。
霜にあった蓮のようなのもは、茎や葉がしなびて、その形状が変わり、従ってその姿は萎み窶れている。
これらは皆、茶の瘠せ老いたものである。
採ってから封をするまで七経ある。
胡人の靴のようなものから、霜にあった蓮のようなものまで、八等ある。
あるいは、黒光りして、平らでさえあれば、佳いと言う者は、鑑定としては下である。
皺になり黄ばんででこぼこしたしたものを佳いと言う者は、鑑定としては中である。
もし皆佳いと言い、皆佳くないと言う者は、鑑定としては上である。
何故かといえば、膏の出たものは光るし、膏を含んでいるものは皺があり、寝かせたものは黒く、出来たてのものは黄いろく、蒸して圧しつければ平らになり、放っておけばでこぼこになる。これは茶も草木の葉も同じことである。
製茶の良し悪しは、口伝によるほかない。
 
 
 四之器
四 茶器
風爐(灰承)  筥 炭撾 火筴 鍑  交床 夾紙囊 碾拂末  羅 合 則 水方 漉水囊  瓢 竹筴 鹺簋揭 熟盂  盌 畚 劄 滌方  滓方 巾 具列 都籃


風炉は、銅や鉄で鋳る。昔の鼎の形のようである。
厚さは三分、縁の広さは九分、六分は中を虚にして、鏝塗りとする。
およそ足は三本あり、古文二十一字が書いてあり、一つの足には「坎が上に、巽が下に、离が中に」とあり、一つの足には「体は五行を均しくし、百疾を去る」とあり、一つの足には「聖唐が胡を滅ぼした明年に鋳る」とある。
 

その三本の足の間に、三個の窓を設け、底の一個の窓は、通風や燃えかすを落とす所である。
窓の上に古文で六字が書いてあり、一つの窓の上には「伊公」の二字を書き、一つの窓の上には「羮陸」の二字を書き、一つの窓の上には「氏茶」の二字を書いてある。すなわち「伊公は羮、陸氏は茶」となる。
火床を置き、その内に三個の格を設け、その一格には翟がある。翟は火の鳥で、離の一卦を画く。その一格には彪がある。彪は風の獣で、巽の一卦を画く。その一廓には魚がある。魚は水の虫で、坎の一卦を画く。
巽は風をつかさどり、離は火をつかさどり、坎は水をつかさどる。風はよく火を興し、火はよく水を暖める熱める、ゆえにその三つの卦を備えるのである。
その飾りは、連ねた葩、垂れた蔓、曲がっりくねった水の流れ、四角な文様の類がある。
その炉は、あるいは鉄を鍛えてつくり、あるいは泥をめぐらせてつくる。その灰承は、三本足の鉄拌をつくり、これを擡げる。
 
筥は、竹で編む。高さ一尺二寸、直径が七寸。
あるいは籐を用い、木型を作り、筥の形に編む。
六出円眼にする。
その底と蓋とは、きっちりした篋の口のように、目を詰ませる。
 

炭撾は、鉄で六角形につくる。
長さ一尺、上を尖らせ、中をふくらませる。
執は頭を細くし、一つの小さな鐶をかけ、撾の飾りとする。
ちょうど今の河隴の軍人の木吾のようである。
あるいは鎚の形に作り、あるいは斧の形に作り、その便に随えばよろしい。
 

火筴は、一名を筯という。常用のもののごとく、円くて真っ直ぐな一尺三寸のもの。
頂は平たくきってあり、蔥薹や句鏁の属は無い。
鉄か精銅でつくる。
   
鍑(音は輔、あるいは釜に作り、あるいは鬴に作る。)は、生鉄でつくる。
今の鍛冶をする者が、いわゆる急鉄とするもので、その鉄は鋤の壊れたものを精錬して鋳物にする。
内側は土を塗り、外側は砂を塗る。
土は内の滑りをよくし、摩して洗いやすくなり、砂は外をざらざらにして火焔を吸う。
その耳を四角くするのは、令を正しくするためである。
その緣を広くするのは、遠きを務めるためである。
その臍を長くするのは、中を守るためである。
臍が長ければ、湯が真ん中から沸き、真ん中から沸けば末まで揚り易く、その味は則ち淳である。
洪州では瓷器でつくり、莱州では石でつくる。
瓷と石は、みな風雅な器であるが、性質が堅実でなく、長持ちし難い。
銀を用いると、清潔この上ないが、ただ美しく立派にすぎる。
雅ならば雅でも、清潔ならば清潔でも、もし常用するのならば、結局の鉄に帰す。

交床は、十文字に組合わせ、その中を虚ろに刳りぬいて、鍑を支える。

夾は、小さい青竹でつくり、長さは一尺二寸。
一寸の所に節のあるようにし、節から上を割いて、これで茶を炙る。
その竹は、火で炙ると湿気が出て、その清らかな香が移り、茶の味を増す。
恐らく林谷の間でなければ、このようなことはできないだろう。
あるいは精鉄や熟銅の類を用いるのは、その耐久性を取るからである。
紙嚢は、剡藤紙の白く厚いもので、袋に縫い、

炙った茶を貯わえ、その香を泄らさないようにする。
 

碾は、橘の木でつくる。之に次ぐものは、梨、桑、桐、柘でつくる。
内を円く、外を四角にする。
内を円くするのは、動きをよくするためで、外を四角にするのは、ぐらつきを制するためである。
内には堕を入れ、外には何もない。
堕は、車輪のような形をし、輻はなく、軸がある。
長さは九寸、広さは一寸七分。
堕の直径は三寸八分、中の厚みが一寸、縁の厚みが五分。
軸の中央部は四角く、取手は円い。
払末は、鳥の羽でつくる。
 

羅合は、茶の粉末を篩にかけて、合に貯わえ、則を合の中へ置く。
大竹を割って曲げ、紗絹を衣せる。
その合は、竹の節でつくる。あるいは杉を屈げて、これに漆を塗る。
高さは三寸、蓋は一寸、底は二寸、口径は四寸。

 

 則は、海の貝、蝸・蛤の属、あるいは銅、鉄、竹の匙・策の類。
則は、量であり、准であり、度である。
およそ一升の水を煮て、茶の粉は一寸四方の匙に一杯を用いる。

もし薄いのを好む者は、減らす。ゆえに則というのである。
水方は、稠榜木(音は冑、木の名なり)槐、楸、梓などの木で、これを合せ、

その裏や外の隙間に漆を塗る。
一斗をいれる。
     
漉水嚢は、常用のものと同じ。
その格は生銅を鋳て、水の湿に備え、苔で穢れたり、錆びついたりしない。熟銅では苔で穢れ、鉄では錆ができる。林に隠栖する者は、あるは竹や木を用いる。
木と竹とは久しく持ち続け永遠に使える道具ではない。ゆえに生銅を用いる。

その嚢は青竹を編んで巻き、碧縑を裁って縫い、翠鈿を細くして綴じつける。

また油緑嚢を作り、これを入れておく。円径は五寸、柄は一寸五分。
 

瓢は、一に犠・杓という。瓠を割いてつくる。あるいは木を削ってつくる。
晋の舍人の杜毓の『荈賦』に「これを酌むに瓠を以てす」と云う。
瓠は瓢である。口は広く、脛は薄く、柄は短い。
永嘉中に、餘姚の人の虞洪が瀑布山に入り茶を採み、一人の道士に遇い云うことには「吾は丹丘子、お前にたのむ、他日、甌犠のあまりを、どうかわしにくれ。」
この犠は、木の杓である。
今、常用のものは、梨の木でつくる。
竹筴。或以桃、柳、蒲葵木為之、或以柿心木為之。
長一尺、銀裹兩頭。        竹夾は、桃、柳、蒲葵木でつくる。あるいは柿の木の蕊でつくる。
長さは一尺、銀で両頭を覆う。
 

鹺簋は、瓷器でつくる。円径が四寸、合の形である。
あるいは瓶、あるいは缶のものもある。
塩の花をいれるものである。
その掲は竹製で、長さ四寸一分、幅は九分。
掲は、策である。
熟盂。以貯熟水。
或瓷、或砂。
受二升。        熟盂は、熟水をいれる。
あるいは瓷器、あるいは素焼。
二升はいる。
 

碗は、越州が上、鼎州、婺州が次ぐ、岳州が上、寿州、洪州が次ぐ。
ある人は、邢州を越州の上とするが、そのようなことはない。
もし邢州の瓷器を銀にたとえるなら、越州の瓷器は玉にたとえられる、邢州が越州におよばない第一である。邢州の瓷器を雪にたとえるなら、越州の瓷器は氷にたとえられる、邢州が越州におよばない第二である。邢州の瓷器は白く、茶の色が丹くみえ、越州の瓷器は青く、茶の色は緑にみえる、邢州が越州におよばない第三である。
晋の杜琉の『荈賦』に謂う所の「器は択び、陶は揀び、東甌より出ず。」である。
甌とは、越州のことである。甌は、越州が上。
口唇が巻かず、底が巻いて浅く、半升以下しかはいらない。
越州の瓷器も岳州の瓷器もみな青い。青いのが茶にはよい。

茶が紅白色にみえるからである。
邢州の瓷器は白く、茶の色が紅くみえ、寿州の瓷器は黄色く、茶の色が紫にみえ、洪州の瓷器は褐色で、茶の色は黒くみえる。すべて茶に宜しくない。
 

畚は、白蒲を捲いて編み、盌十枚をいれることができる。あるいは筥を用いる。
その紙包みは、剡紙をかさねて、四角に縫い、これも十枚にする。
 

札は、栟櫚の皮をあつめ、茱萸を削った木に夾んで縛る。あるいは竹を截って束ねて管にし、おおきな筆の形にする。
滌方は、洗滌した水の余りをいれる。
楸の木を用いこれを合わせ、水方のようにつくり、八升はいる。
滓方。以集諸滓、制如滌方、處五升。        
滓方は、茶滓を集めていれる、滌方のようにつくる、五升いれる。

具列は、あるいは床と書き、あるいは架と書く。
あるいは木だけ、あるいは竹だけでつくる。あるいは木あるいは竹で、黄黒色にし、閂が掛けられるようにし、漆塗のものもある。
長さは三尺、幅は二尺、高さ六寸。
具列は、ことごとくすべての器物をおさめ、ことごとく陳列するのである。

高一尺五寸、底闊一尺、高二寸、長二尺四寸、闊二尺。        

都籃は、すべての器を、いれておくところから、そう名づけた。竹の皮で、内は三角形の方眼に作り、外は二枚の竹の皮のひろいものを経とし、一枚の竹の皮のほそいもので、それを縛り、交互に二枚の経の方を圧え、方眼に作り、すけてみえるようにする。
高さは一尺五寸、底の幅は一尺、高さ二寸、長さ二尺四寸、幅が二尺。
 

 

五之煮
五 茶の煮出し方

若火干者、以气熟止、日干者、以柔止。         およそ茶を炙るには、慎重にして、風のなかでは燃えさしで炙ってはならない。あがる炎が、鑚のようになり、冷たいところと炎のところとが均しくならないからである。
茶を持って火に近づけ、たびたびひっくりかえし、炙り加減をみて、小さな丘状のものが出て、

蝦蟇の背のようになったら、それから火より五寸離す。
巻いてのばし、始めのようにして、また炙る。
もし火で干したものは、気が熱したら止め、日で干したものは、柔かくなったら止める。
     
その始め、もし茶が至ってやわらかいものは、蒸しおわって熱いうちに搗く、葉は爛れて、牙や笋は残る。
たとえ力者が、千鈞の杵を持っても、爛すことはできない、漆科珠のように、壮士がこれに立向っても、その指を駐めることもできない。
できあがると、穰骨が無くなったようになる。
これを灸ると、その節がぐにゃりとして、嬰児の腕のようになる。
そこで、熱いうちに、紙嚢にいれると、精華の気が散逸することがない。ひえたのをみはからって粉末にする。
(粉末の上は、その屑が米の粉のようで、粉末の下は、その屑が菱の実のようである。)

その火には、炭を用い、次ぐのは勁い薪を用いる。
(桑、槐、桐、櫪の類がある。)
その炭は、以前に焼肉に使って羊の脂のかかったものや、膏木や、敗器は、これを用いない。
(膏木とは、柏・桂・檜のことである。敗器とは、朽ちたり廃された器のことである。)
古人が、労薪の味ありとしたが、もっともなことである。
 

その水は、山水を用いるのが上、江水は中、井水は下。
(『荈賦』に「水は則ち岷方の注、彼の清流をくむ。」とある。)
その山水は、乳泉や石池の緩やかに流れるものを揀(えら)ぶのが上、その瀑しく湧く急流の水は、飲んではいけない。
久しく飲むと、頸の病になる人がある。
また山谷を流れる水は、澄んだまま浸みこんで出ていくことがないから、火天から霜郊以前に至るまでは、あるいは潜んだ龍が毒をそのなかに蓄えているかもしれないから、飲む者は、堤を切って、悪水を流し、新たに涓々と水を湧きださせ、これをくむ。
その江水は、人里から遠く離れたものを取る。
井水は、よく汲むものを取る。
 

その沸きかげんは、魚の目のようで、微かな声がするのを、一沸とする。縁辺に湧泉の連なる珠のようなのを、二沸とする。波が騰がり浪をうつのを、三沸とする。これ以上は、水が老けて、飲んではいけない。
 

 初沸に、水の量に合せて、塩で味を調える。その啜め余しを棄てよ、と謂うのは(啜は、嘗めることである。音は市税の反(セイ)、または市悦の反(セツ)。)、味がなくて塩味だけがあつまっているからか。(〓(鹵舀)は古暫の反(カン)。〓(鹵監)は、吐濫の反(ラン)。味のないことである。)
 

第二沸に、湯を一瓢くみ出し、竹筴で湯の中心をくるくるかきまわし、茶の粉末を量って中心におとす。
しばらくして、湯の勢いが大きな波が飛沫をそそくようになると、くみ出しておいた湯で之を止め、茶の華を育てる。
 

およそ諸碗に酌むには、沫と餑を均しくする。
(『字書』ならびに『本草』に「沫・餑は均しく茗沫なり」とある。餑は蒲笏の反(ほつ)。) 
沫と餑とは、湯の華である。
華の薄いものを沫といい、厚いものは餑という。細やかで軽いものは花という。花は、棗の花がまるい池の上にふわふわと漂うようであり、また曲がりくねった潭や渚に青い浮草が始めて生えかけたようでもあり、また爽やかで朗らかな晴天に、鱗のような浮雲があるようである。
その沫は、緑のこけが水辺に浮かんでいるようで、また菊のはなぶさが酒器や膳の中へおちたようである。
餑は、滓を煮て、沸くに及び、華は重なり沫は累なり、白々と雪の積るようである。
『荈賦』 が「煥として、積む雪のごとく、燁として春のはなぶさのごとし。」と謂うのは、これである。
 

 第一煮は水が沸いたら、その上の水の膜が黒い雲母のようになったのを棄てる。これを飲むとその味は正くない。
その第一のものは、雋永である(徐県、全県の二反。至ってうまいものを雋永という。雋は、味である。永は、長である。史長を雋永といい、『漢書』に蒯通が『雋永』二十篇を著わしたとある。)、あるいは熟盂に留めこれを貯え、華を育て、沸くを救うために備える。最初の第一、第二、第三碗とこれに次ぐ、第四、第五碗以外は、甚だしく渇いているときのほかは飲んではいけない。
およそ水一升を沸かし、酌んで五碗に分け(碗の数は、少なくとも三まで、多くても五碗まで。もし人が多く十人にまでなれば、炉を二つにする。)、熱いうちにつづけてこれを飲む。
重い濁りが下に凝まり、精英がその上に浮くからである。
冷めると、精英は気とともになくなり、飲み啜ってよくないのも当然である。
 茶の性は倹である。たっぷりなのは宜しくない。たっぷりだと、その味は黯淡となる。
一碗を満たして、半分を啜っても味はうすい。ましてそれがたくさんであるときはなおさらである。
 その色は、浅黄色である。その馨はよろしい(香の至って美いことを〓(上必下土右欠)という。〓(上必下土右欠)、音は備(ヒ)。)、その味の甘いのは檟であり、甘くなくて苦いのは荈であり、啜れば苦くて喉で甘いのが茶である。

 

 

 

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喫茶養生記
きっさようじょうき

喫茶の効能や製法を述べた漢文体の書。上下2巻。禅僧栄西が承元5 (1211) 年著述。栄西が鎌倉下向の際,将軍源実朝に献上したもの。茶は仏教とともに中国から伝来したが,平安時代には上流貴族や僧侶の間で薬の一種と考えられ,長寿の妙薬とされていた。栄西も本書で茶の製法や効能を説き,喫茶による諸病の治療法を述べ,健康管理の必要を主張している。『群書類従』『大日本仏教全書』に収められている。

 

https://www.tau.ac.jp/outreach/TAUjournal/2012/09-nakayama.pdf

 

栄西と喫茶養生記
中 山 清 治

 

 

喫茶養生記においては養生の根源は肝・心・脾・肺・腎の五臓が調和を保ち,これら相互の間が健全に維持されることが大切である.

 

このために「導勝陀羅尼破地獄儀軌秘鈔」にもあるように,肝臓は酸味を好み,心臓は苦味を,脾臓は甘味を,肺臓は辛味を,腎臓は鹹味を好む.

 

故にこれらの食物を適宜摂取することが大切で,中国の人々はこれを適当に摂っているため五臓が調和を保ち,健全でよく長寿を保つことが出来るのである.

 

ところが日本人は,酸甘辛鹹の四味は適当に摂っているが,苦味を摂ることが少なく,その為,心臓が弱り若死にするものが多い.

 

苦味を含んだ食物といえば,そのさいたるものは茶である.中国人は常に茶を飲んでいるため長寿を保っているのである.

従って茶は養生の仙薬であり,長寿のための妙薬であると説いている.

 

 

 

喫茶養生記は以下の構成で成り立っている.

茶を喫することによっての養生の記 

序『茶は養生の仙薬なり.延齢の妙術なり.山谷之を生ずれば其の地神霊なり.人倫之を採れば其の人長命なり.



天竺,唐土,同じく之を貴重す.我が朝日本,亦嗜愛す.古今奇特の仙薬なり.

摘まずんばある可からず.謂く,劫初の人は天人と同じ.

今の人漸く下り,漸く弱く,四大五臓朽ちたるが如し.

然らば,鍼灸も並に傷り,湯治も亦或は応ぜざるか.

若し此の治方を好しとせば,漸く弱く,漸く竭きん.

怕れずんばあるか可からざるか.昔は医方添削ぜずして治す.

今人は斟酌すること寡きか.付して唯れば,天,万像を造るに,人を造るを貴しとなす.

人,一期を保つに,命を守るを賢しとなす.其の一期を保つの源は,養生に在り.

 

五臓を安んず可し,五臓の中心の蔵を王とせむか.

心の臓を建立するの方,茶を喫する是れ妙術なり.

厥れ,心の臓弱きときは,則ち五臓皆病を生ず.寔に印土の耆婆往いて二千余年,

末世の血脈誰か診むや.漢家の神農隠れて三千余歳,近代の薬味誰か理せむや.
然れば則ち,病相を詢とふに人無く,徒に患ひ徒に危うきなり.治方を請ふにも悞有り.

 

空しく灸し,空しく損ず.偸に聞く,今世の医術は則ち,薬を含みて,心地を損ず,病と薬と乖くが故なり.灸を帯して,身命を夭す.脈と灸を戦うが故なり.

 

如かず,大国の風を訪ねて,以って,近代の治方を示さむには,仍つて二門を立てて末世の病相を示し,留めて後昆に贈り,共に群生を利せむと云ふのみ.

時に建保二年甲戌歳春正月日叙す.』