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世界貿易機関(WTO)で今、コロナワクチン特許の一時放棄に関する交渉が行われている。ワクチンを巡っては、「人命よりもワクチン利権による利益を優先して、製薬会社とその関係者が潤っている」という陰謀論がある。しかし事はそう単純ではない。特許放棄の実現で利益を得られる“黒幕”も存在する上、特許放棄で逆に人命に関わる事態まで起こりかねないのだ。(イトモス研究所所長 小倉健一)

コロナワクチン特許の放棄を巡る

「複雑な事情」の実態とは?

 6月12〜15日の日程で、世界貿易機関(WTO)の最高議決機関である閣僚会議が開催されている。その主要議題の一つに挙げられるのが、新型コロナウイルスワクチン特許の一時放棄で合意できるかどうかだ。

 合意に至った場合、特許技術を使えばワクチンを製造できる発展途上国は、制裁や罰金を心配することなくワクチンを製造できるようになる。

 特許放棄案が打ち出された背景には、世界に広がる「ワクチン格差」がある。米国では全ての人がワクチンの接種を受けることができるようになった一方で、発展途上国ではまだ十分に供給されていないというのが現状だ。

 昨年5月、ジョー・バイデン米大統領はこの放棄案を支持すると表明した。「人命優先」という大義名分がある以上、反対できなかった面もあるのだろう。

 ただ特許放棄には、さまざまな複雑な事情が横たわっている。「人命よりもワクチン利権による利益を優先して、製薬会社とその関係者が潤っている」という陰謀論がある。しかし一方で、特許放棄を実現することで利益を得られる“黒幕”も存在するという。

 さらに、特許放棄によって逆に人命に関わりかねない憂慮すべき問題が起きるリスクまであるのだ。外務省関係者は「特許放棄の危険性」について次のように指摘する。

外務省関係者が語る

「特許放棄の危険性」とは?

「知的財産保護という新しい枠組みで『中国排除』を狙ったのが、IPEF(インド太平洋経済枠組み)です。先日、来日したバイデン大統領が岸田首相にこの枠組みに入るよう強く求めました。他方、このワクチンの知的財産放棄で得をするのが中国といわれています」

「ほとんどの発展途上国には、権利の放棄が起きたところでワクチンを開発する技術はありません。一方、技術力がある国の中には、秘密裏に知的財産を無視してコピーしたワクチン開発を進めている国があってもおかしくない。権利放棄によってそれらの国が大っぴらにワクチンを製造できることになります」

「ワクチン特許の一時放棄は、IPEFでこれからつくり上げようとしている『知的財産をしっかり守る世界秩序』構築とは真っ向から対峙してしまう恐れがあるのです」

 では、特許の一時放棄案に対する賛否の状況はどうだろうか。

 ンゴジ・オコンジョ・イウェアラWTO事務局長は、各国がこの「権利放棄」の協定を承認するよう積極的に働きかけ、ワクチンへのアクセスの不公平を「道徳的に容認できない」と呼びかけている。そして、WTO加盟国のうちワクチンの投与量が少ない、または不足している発展途上国などを中心に支持を受けている。

 また、昨年5月には特許の一時放棄案に対してジョー・バイデン米大統領が支持を表明している。同時期、米国通商代表部のキャサリン・タイ代表は、「これは世界的な健康危機であり、COVID-19(新型コロナウイルス)のパンデミックを巡る異常事態には、特別な措置が必要だ」と声明で言及。バイデン政権の方針を説明した。

ワクチン特許放棄の反対派と

その「主張」は?

 一方、特許放棄に反対しているのが、ワクチンの投与量が多い国や、購入または生産している国だ。特に特許保有企業を自国内に抱えるドイツをはじめとした欧州連合(EU)や英国、スイスなどが挙げられる。

 また、米国も一枚岩ではなく、米国共和党は反対姿勢だ。加えて、バイデン政権が特許の一時放棄に対して支持を表明した際には、米国の製薬業界も猛反発した。

 特許放棄は医薬品分野における投資とイノベーションを損ない、企業と政府間の既存のパートナーシップを危うくする可能性があるというのが反対派の根拠だ。

 製薬会社には当然、自社の利益を確保したいという狙いもあるだろう。ただ、米紙「ワシントン・ポスト」によると、「安全で効果的なコロナワクチンを迅速に製造する方法を探求する動機がなくなると主張している」という。

 また、「たとえ製法があったとしてもコロナワクチンを製造する訓練を受けた人材がいる国はほとんどないため、この特許放棄はほとんど現実的な効果がないだろう」という製薬会社側の見立てを紹介している。

日本も特許放棄の“生殺与奪権”を持つ

どう立ち振る舞うべきか?

 WTOのルールでは、この特許放棄について164の加盟国全てが同意しなければならない。従って、いかなる理由であれ、たった一国でこの提案をつぶすことができる。当然、日本もその国の一つである。この際、日本はどう立ち振る舞うべきだろうか。先の外務省関係者はこう話す。

「日本政府は指をくわえて各国のやりとりを見ているつもりだろう。日本政府が莫大な税金を注ぎ込んで供給をしてきたコロナワクチンの価値を毀損するかのような特許放棄にそのまま賛成することもできず、人命を優先するという主張にも直接的に反対するようなことはしない」

「しかし、『知的財産が大事』『知的財産によって世界は発展する』という意思表示をきちんとしておくことは、IPEFの成否にも関わってくる大問題だ。途上国に対しては、政府開発援助(ODA)の枠組みを拡大して、国産を含むワクチンや治療薬を政府が買い上げた上で、人命救助に当たればいい。これまでの企業努力を無にし、特許放棄の『黒幕』とも目される中国が喜びそうなことをわざわざするのは得策ではない」

 同じように米国も、ワクチン特許の一時放棄が中国を利することにならないよう制限をかけようとしている。WTOの協定において、2021年のワクチン輸出に占める世界シェアが10%超の国は、特許放棄の対象から除外するというルールを盛り込もうとしているのだ。

 これが中国排除を念頭に置いていることは明らかで、当然ながら中国は大反対している。

 また、中国問題とは別の大きな懸念もある。米製薬会社のファイザー、モデルナのコロナワクチンの製造には、メッセンジャーRNA(mRNA)に関する技術が必要だ。もし特許放棄がなされたとしても、世界中でこの技術を安全に短時間で活用できるようになるのか疑問符がつく。つまり粗悪なワクチンの流通による薬害の心配もあるのだ。

「製薬会社は悪であり、人命を軽く扱っている。だから知的財産を放棄せよ」――。そんな陰謀論を唱えてワクチン特許の放棄を飲ませるだけでは、さらなる問題を生みそうだ。

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