あの時、僕の名前を学校中が知った筈だった。
実際の所、あの一年間の殆どの期間、大多数の人間は僕を認識しては居なかっただろう。
だが、あの加点劇は、その状況を完全に一変させた。もっとも、グリフィンドールの英雄達が寮を問わず話を求められたのに対し、僕の方はスリザリンのみ──それもスネイプ寮監により堅く口止めされているという恐ろしい事実を口にした後は、誰も近付いて来る事は無かったのだが。
しかし、僕の事を知っているという点ではやはり変わらない。
寧ろ、逆に不気味な存在となったのかも知れない。賢者の石を護ったという彼等の行いは解りやすかったが、その裏で糸を引いていたスリザリンの方は、ハリー・ポッターが果たした役割以上に意味不明であっただろう。元々の蛇寮の悪評も加えれば余計にだ。
故に今日は家をあれ程早く出たのであり、その甲斐有って、僕は可能な限り端の方のコンパートメントを一人で占有する事に成功していた。今だ席取りにあぶれた人間が何とか座れる場所を探しに来るという事は無く、幸運であればこのまま一人で居られるかもしれなかった。
けれども僕が思い出すべきは、スリザリンの悪評を真に実感しているのはホグワーツ経験者のみであり、尚且つ先の加点劇について知っているのもまた、前年度のホグワーツ在学生だけであるという事だった。
プラットフォームから殆ど生徒が一掃された頃、その珍妙な闖入者は現れた。
「えーと、ここ開いてる、のかな?」
何処となく怖気付いている声に顔を上げる。そして、驚愕した。
その女の子は、明らかにぶっ飛んでいた。
グレートブリテンの魔法族が非魔法族基準で珍妙である事は慣れていたが、そうにしたってどうかしていた。彼女は、黄色い管と青い羽と赤い蕪がくっついた言語を絶するような髪飾りを頭に乗せた上で、絵ですら見たことのない不思議な生き物がぶら下がったイヤリングを片耳だけにぶら下げていた。一言で言えば、紛う事無き狂人だった。
「……取り敢えず、その頭の髪飾りは取った方が良い」
何とか言葉を絞り出した僕に、彼女は首を傾げた。
「そう、かな? とっても良いと思うンだけど。これは模型で、パパの試作品なんだ」
「……君の父親のセンスは否定しないが、それは恐らく校則違反だ」
実際そうかどうかは知らないが、幾らホグワーツの教授陣とてそれを是とする事は無いだろうと思う。そのくらいは、教授陣の良心を信じている。
そして、寡聞にもこれ程奇妙な同級生が居ると聞いた事は無いし、上級生であるようにも見えなかった。僕を見ても何も反応が無い所から見ても、新入生なのだろう。
その新入生は忠告を受け取る気は一応有るらしく、髪飾りを大事そうにゆっくりと外した後、荷物を引っ張ってきて僕の眼の前にポスンと座っていた。
……まあ、何も言うまい。
正直言って、ホグワーツ特急が目的地に到着するまでに、彼女が友人を見つけられるとも思えなかったし、そんな新入生に違う席を探せと言える程、僕は非情にもなれなかった。
「あたし、ルーナ・ラブグッド。今年から新入生なンだ」
「……ステファン・レッドフィールドだ。君と違って新入生ではない」
正しい名前を名乗ろうと思ったが、そうする気になれなかった。
そのような些細な違いなど、彼女が気に留める筈も無い事は予想出来たからだ。
現に彼女が関心を示したのは、僕が新入生でないという点であった。身長的にどう考えても同じ歳には見えなかったと思うが、一縷の望みをかけていたのかもしれない。微妙にガッカリした様子を見せて、けれどもやはり立ち去ろうとしなかった。
彼女はゴソゴソと荷物を漁った後、一冊の本を取り出して僕の前に突き出した。
「……何だ、これは」
その雑誌は、何と言うか表現に困る感じに前衛的過ぎて、そしてド派手だった。色合いがどうとかという話ではない。その雑誌を構成している全てがぶっ飛んでいた。
『ザ・クィブラー』。それが雑誌の名前らしい。
「読んだ事が有る? これ、あたしのパパが編集してるの。しわしわ角スノーカックの記事とか、とっても人気で話題なんだよ」
「……
「しわしわ角のスノーカック。スウェーデンに棲んでるの」
彼女は自信満々に言うが、僕は顔を歪めざるを得なかった。
一応『幻の動物とその生息地』は去年の指定教科書であり、尚且つ闇の魔術に対する防衛術の中で使用されたのだから、最低限の知識は有している。
まあ、当該授業は飼育が目的では無く対処が目的なので、『闇の力―護身術入門』と共に狼人間などの一部しか参照しなかった──そして授業の中では後者の方が当然活躍した。但し最終的に狼男には噛まれるなという教訓で終わっていた──ものの、目次に如何なる動物が上がっていたか程度は未だに記憶に残っている所だった。
しかし、そのような奇妙な生物は全く以って見た記憶が無かった。
「……わざわざ〝しわしわ角〟と付けるからにはそれが特徴的なのだろうが、その事が種の生存や繁殖にどう資するのか解りかねる。そもそも〝snor-kack〟という響きは僕には馬鹿々々しさしか感じないが、その名前は一体何に由来しているんだ?」
第一スウェーデンというのもざっくりし過ぎだ。
山に棲むのか、湖に棲むのか、雪原に棲むのか、さっぱり伝わって来ない。
けれども、僕の当然の疑問を聞いた彼女は、微妙に夢から覚めたような瞳をして、僕の方を大きな瞳で見上げた。
「……どうかしたか?」
「ううん。だって、そんな事を聞いてくれた人は初めてなンだもの」
別に興味を持ってそう聞いた訳では無かったが、彼女はそう取ったらしい。一度瞬きをした後、嬉々としてその謎生物について語り出した。
そして丁度その瞬間、コンパートメントの前を偶々一人の人間が通りかかった。
それはハーマイオニー・グレンジャーだった。
彼女はコンパートメント内に僕を見つけて微笑んだが、何かに気付いたような素振りを見せた後で、直ぐに身を翻して戻って行った。
……まあ、宣無き事である。彼女が最も優先し、また今捜している友人のハリー・ポッターとロナルド・ウィーズリーはここには居らず、目的が達せられなかった以上当然だった。多少気が沈むのは否定出来なかったが。
そして当然ながら、話に熱が入り始めたルーナ・ラブグッドは気付かなかった。
とはいえ、彼女のような通行人が通る事は──ひいては僕と奇妙な少女が同席している光景の目撃者は──少なかった。
僕が誰であるかに気付いた人間が例外なくギョッとした顔をするのは辟易したが、そのような人間は僕が思ったよりは少なかった。そもそも通行人自体が少ない事から見るに、殆どが既に空席を見つけたか、友達と合流を終えたのだろう。そして、僕の顔を見ても何ら気付かない者も少なからず居た。賢者の石の騒動はその程度でしかなく、自意識過剰だったのかもしれない。
何より幸運な事に、スリザリンは一人も通らなかった。彼等は社交が御好きなので、その点は驚くには値しないのだが。
そして、明らかに席からあぶれたような人間──つまり、何とか空席を探そうとしている人間が通りかかる気配もまた無かった。端の方は席が埋まっていると解りきっているからかもしれない。
まあそんな特急内での学生達の行動観察はさておき、ルーナ・ラブグッドの話は荒唐無稽で、空想に満ちていた。
一応話を先に振った以上、最初は真面目に聞いていた。が、聞けば聞く度に、彼女が話すその生き物は明らかに虚偽のように感じられたのだ。
専門家では無い以上、僕に実在を否定する材料も無い。彼女が探し続ければ、本当にその生き物が見つかるかもしれない。しかし、話の途中でも僕が迷わず本を取り出す事を選択する位には、彼女の話を素直に受け止めるのは困難だった。
勿論、流石の彼女もそんな僕の態度に多少機嫌を害したが、〝専門書〟──つまり今学年の教科書として指定された小説の内の一冊だが──を見せて、現魔法生物と比較したいと言えば直ぐに納得した。適当に頭に浮かんできた、記憶する価値も無い疑問を投げかけてやれば余計に上機嫌になった。どうやら余程周りに聞いてくれる人が居なかったらしい。
そして、小説としては出来が良い教科書モドキを多少読み進め、それでも彼女の独演会の熱が未だに治まる気配が見られず内心辟易し始めた頃、とうとう明らかに席にあぶれたらしい生徒が通りかかってしまった。
荷物が通路にぶつかる鈍い音。それによって、僕は視線を上げる。
そこに居たのは、外がそれなりに寒いにも拘わらず汗を掻いた丸顔の少年だった。僕が誰かと──それもスリザリン以外の人間と居る事に驚いてしまったのは疑いなかった。
ただ、驚愕するのは別に構わないのだが、出来れば静かにそうして欲しかった。その音によって、今まで話に夢中だった彼女は彼に気付いた上、余計な親切心を発揮したからだ。
「席、空いてるよ!」
多少なりとも僕と会話が成立していたのが嬉しかったのだろう。
最初の怖気付いた様子など忘れ去ったように弾んだ声は、逃げずに固まったままの人間へと声を掛けた。
けれども、声を掛けた人間が悪い。
その人間はグリフィンドール生、ネビル・ロングボトムだった。
「…………」
正直、何と言えば良いのか解らない。
スリザリンが嫌われている事くらいは彼女も知っているかも知れないが、彼がドラコ・マルフォイにしょっちゅう苛められており、尚且つ僕がその取り巻き──実態は微妙に違うが、外部から見ればそうだろう──である事を彼女は知らなかった。
そして、自分から申し出るのも何となく嫌だった。
だから彼が断わる事を望んでいたし、当然そうなると思っていたのだが、意外な事に彼は身を縮めながらコンパートメントの中へと立ち入ってきた。
明らかな新入生が陰気なスリザリンと二人で居るのは良くないと、余計な騎士道精神を発揮したのかもしれない。決意を秘めるように息を吸った後、僕へと声を掛けてきた。緊張で声が震えていなければ完璧だった。
「……ええと、レッドフィールド。座って良いかな」
「……好きにすれば良い」
少し迷いはしたが軽く頷いて、顎でルーナ・ラブグッドの側の席を示す。
男女の関係から考えれば僕の側にネビル・ロングボトムが座るのが妥当だったが、彼からすれば僕の隣に座りたくないに違いない。その読みは正しかったらしく、ネビル・ロングボトムは荷物を棚の上に乗せた後、彼女の隣の席に座った。
正直余り歓迎しかねる事態だったが……まあこれも已むを得ないだろう。
グリフィンドールとスリザリンが共に居るのは絶対的に不適切だったが、別にこの結果としてネビル・ロングボトムが獅子寮で仲間外れにされようとどうだって良かったし、スリザリンである僕とて一年目ではなく二年目だ。去年ならば断固として拒否しただろうが、あの期末の状況を見る限り、マルフォイは僕を切れまい。
何より、ロングボトムは疑いなく純血──聖二十八族だった。
闇の帝王。彼が未だ健在であると知った以上、情報を集めるのは当然の事だった。
『日刊予言者新聞』という愚かしい塵紙に金を払うのは癪だったが、一応の情報雑誌である事に変わりない。一番良いのは、過去の、つまり十一年前の闇の帝王失墜当時の記事だったが、それを求められるのは、ホグワーツの図書館しか僕には思い当たらなかった。あそこは古い記事を全て取ってあると聞いた事が有るからだ。そして当然、家に居る間はどうしようもない。出来るのはこれからである。
ただ、結論としてやはり塵紙は塵紙であり、ダイアゴン横丁で購入した書籍の方が遥かに役に立ったものだ。露骨に闇の帝王について語る物は無いが、しかし〝生き残った男の子〟について語る物は腐る程山積みされている。
そして、それらに当たれば必然的に、素晴らしき血筋のロングボトム家について知る事になるのも当然だった。加えて、何故彼がスリザリンで無いかも。
同時にネビル・ロングボトムという存在について興味が惹かれたのもまた事実であった。
つまり、果たしてドラコ・マルフォイ達疑いなき純血は、ネビル・ロングボトムのような〝出来損ない〟について、一体どのように考えているのかを。
彼等は魔法族のみの血を引いている事を誇りにしている。
けれども、その一方で、彼等は──スリザリン全体は、ネビル・ロングボトムを明らかに詰まらない者として馬鹿にしている。
彼等が純血の内にも〝外れ〟が生まれる事を認めるのか、はたまた彼等の拠り所である『純血一族一覧』を否定するのか。まあ、大本命はネビル・ロングボトムがロングボトム家の子供でないと主張する辺りだろうが、いずれにせよ興味深い物のように思えた。
そしてその辺りを突けば、ドラコ・マルフォイを誤魔化す事などどうにでもなるだろうと思えた。彼は親に深く愛され、〝純血〟という殻に護られている。自分で自分自身の事を疑った事が無い人間を煙に巻くのは、非常に容易い事だと言える。
もっとも、冷ややかな観察の目で見ている僕と、ネビル・ロングボトムは違うようだった。
ルーナ・ラブグッドと自己紹介を交わし合い、彼が荷物を置いて座席に着いた後、僕はてっきり彼女と会話を続けるものだと思っていた。僕の認識では、彼は不運な新入生を護る為に、彼はこんな状況にわざわざ突っ込まなければならなかった筈だからだ。
そして、それは別に僕にとって何ら問題は無い。如何に真実を語っていようと僕には
しかし、彼はあろう事か、僕と話がしたいようだった。
「えっと、レッドフィールド。……去年は言い損ねちゃったけど」
先程までの新入生と同レベルの力強さしかない声に、僕は本から視線を上げる。
彼は明らかにビビッていたが、しかし視線を逸らさなかった。
「トレバーを探してくれてありがとう。言ってみれば君の御蔭で見つかったようなものだけど、僕は喜んでた内に、君はさっさと行っちゃうし。そのままズルズルと言う機会が無くて……今更だと思うかもしれないけど」
そう言われて、何の事か解らなかった。全くもって思い当たる事は何も無い。
だが、僕の困惑が伝わったのだろう、彼は慌ててヒキガエルを取り出し、そこで漸く去年に在った出来事を思い出した。一年という時間は、やはり遠いものであった。
「……ああ、あれか。ハーマイオニー・グレンジャーが勇ましく探したペットか」
もっとも、ネビル・ロングボトムの言葉は正確では無い。
「僕は君の言葉を少しばかり代弁して、そこら辺の善良そうな上級生を捕まえて助力を求めたに過ぎない。言ってみれば、他ならぬ君が自ら探して見つけただけだ」
そしてアレは、ペットが見つからない事に泣き出した男の子と、それを慰める女の子を連れていたというのが一番大きい。明らかな下級生──そして話せば新入生だと解る──がそんな状況であるのにそれを無視出来る者は、スリザリンを除いて早々居ない。
発端はただ一人の上級生だったのだが、人伝に聞いた首席やら監督生やらがゾロゾロと名乗りを上げて大捜索が行われた結果、彼のペットである蛙は目出度く見つかったのだった。最後には拍手喝采だったのはある意味でノリが良く、そしてやはり馬鹿々々しかった。
但し、同じ配役でも二人では見つからなかったかもしれない。ハーマイオニー・グレンジャーは何でも自分でやりたがり、他人に物を頼む事を知らな過ぎた。そして何より、彼女は同級生に見える相手には声を掛けられても、明らかな上級生——魔法を使えるような人間──に声を掛けるには、少々怖がりだった。
ネビル・ロングボトムの方は……まあ言うまでもない。
しかし、いずれにしても僕の助力は小さいに違いない。
だが、ネビル・ロングボトムは善良だった。緩やかに彼は首を振る。
「それでも、君は確かにトレバーを探そうとしてくれただろう? そして、それにはやっぱり感謝すべきだよ。……と言っても、ここまで遅れちゃった僕が言えたものじゃないけど」
「……まあ、それは別段構わないが。会話する機会が一切無かったのは重々承知だ。合同授業で話掛けるなども論外だからな」
特に魔法薬学でそのような行為に及べば、現実で悪夢を見る事は間違いない。
「だが、スリザリン相手にグリフィンドールがそうする必要が有るとは思えないが。何も覚えていない振りをすれば良いだろう。現に僕は覚えていなかった」
「けど、僕は覚えて居たし、心残りだったんだ。そして君はスリザリンだけど、マルフォイと違って僕を揶揄ったりしないし、僕に魔法を掛けたりもしないもの。だから、僕は君が言う程悪い奴じゃないと思っている」
その言葉は、酷く真摯で、心を籠めた物だった。
そして、先の学年で聞いた誰かの言葉と、余りにも似すぎていた。
グリフィンドールとスリザリン。
戦争遺族と戦争加害者。その関係は、ここにも有る筈だった。
ネビル・ロングボトム。ハリー・ポッターと同日に生まれた少年は、やはり同日に闇の帝王の陣営から襲撃を受けて、やはり両親を事実上喪った。そんな余りにも数奇な運命を辿り過ぎている少年は、けれども、同様に僕へと一欠片の好意を示そうとする。ハリー・ポッターとは確かに違う理由でありながら、それでも全く同じように。
先程までの僕の興味は、言わばロングボトム家の子息に対する物でしかなかった。
けれども今僕に浮かび上がってきた興味は、間違いなくネビル・ロングボトム個人に対する物だった。
しかし、それは──その興味が導く質問は、決して為すべき事では無いと理性は判断していた。疑問を口に出すだけならば幼子にでも出来る。自制すべき、問うべきではない質問というのは世の中に存在する。何より、ここには
けれども、僕はその悪意の誘惑に耐え切れなかった。
開いていた本を閉じ、彼の方を真っ直ぐ見つめ、僕は問い掛けた。
「……ネビル・ロングボトム」
「? 何だい、改まったようにして?」
「両親は──僕の母は死んだ」
静かに告げられた言葉に一瞬呆けた後、その意味を理解した彼は酷く慄いた顔をした。
唐突な話題だ。突拍子もない展開だ。それは問わずとも己が解りきっている。
彼は何故僕がこんな話をするのか理解出来ていないに違いない。彼と僕は親しい訳では無く、親しい間柄で有っても、何の契機も無しに話をしようとしないだろう。本来ならば明らかに繊細さを要する、踏み込んだ質問だった。
しかし、僕にとってこれは確かな、そして逃す事の出来ない契機だった。
彼と話す機会など、恐らく二度と無い。そしてまた、御互いに破壊されるような関係など、決して形成されていないし、今後もそうされる事は有り得ない。永遠に訪れないであろう適切な機会を待つ意味など無いのだ。
だからこそ、今ここで聞こうが何も変わらなかった。たとえそれが非常識で、非人間的であろうとも、それを問わねばならなかった。
「僕は未だに納得しきれていない。僕の価値観においては、あれは不合理だった。そこまでする必要は無い筈だった。なのに、母は死んだ。己でそれを選択した。それが……僕には理解出来ない」
己の生存。それは至上命題の筈である。
生きていなければ、泣く事も笑う事も出来はしない。その筈だ。
「君の事は知っている。悲劇だったと。闇による尊い犠牲だったと。しかし、それ以上でも無かった。彼等は数字でしかなかった。ハリー・ポッターと違い、それらは儀礼的に讃えられるだけで、英雄視されるべきものでは無かった。その行いの価値など、何ら変わらない筈なのに」
ハリー・ポッターの両親の犠牲は、直接的では無くとも、闇の帝王の死をもたらすという唯一無二のものだった。
一方で、ネビル・ロングボトムの両親の犠牲は、子供を護って親が死ぬという戦争中では有り触れた一事件に過ぎなかった。寧ろ憐れまれる始末だ。もう少し襲撃が遅れたのであれば、〝生き残った男の子〟による闇の帝王の失墜の御蔭で無事で居られたかもしれないのに、と。
同じでありながら、そこには天と地程の差異が存在する。
けれども、当事者にとっては違う筈だった。
僕の母の死が、世界に何らの影響を齎さずとも、唯一無二であったのと同じように。
「だから、君に聞きたい。他ならぬ愛によって護られた君に。己の命を捨ててまで、己の輝かしき未来を投げ打ってまで、人は他人を護るべき価値が有るのかを。護られた人間は、その事を心の底から良かったのだと感じられるかを」
ネビル・ロングボトムは答えなかった。
彼は、その顔を嫌悪と不愉快さ、そして怒りに歪めた。視線を落ち着かなく動かし、最終的にコンパートメントの外へチラリと向けた。彼の右手は堅く強く握られ、彼の爆発の時が近い事を、僕は見て取った。
けれども、僕は彼を止める権利を持たなかった。
当然の権利行使を、僕なんかが止められる筈もなかった。
僕は目を瞑った。当然の結果だった。そして、報いを受ける覚悟は出来ていた。罵倒されようが殴り掛かられようが構わない。それは我を忘れた愚か者が当然に受けるべき代償だった。
故に、その空気を破ったのは、一人の新入生だった。
グリフィンドールでも、スリザリンでも無い人間だった。
「あたしのママも死んだンだ。二年前に」
思わず呆気に取られて、彼女の方を見た。ネビル・ロングボトムも同じだった。
「すっごい魔女だったんだ。でも、実験の最中に死んじゃった。呪文の失敗でね。ひっどい事故だった」
遠くを見る彼女の表情は、酷く透明だった。
まだ受け容れ切れていない事が、ありありと解る表情だった。
新入生だった。年下の筈だった。けれども、彼女が大きく見えた。
「寂しいよ。悲しいよ。そう思わない筈が無いもン。まあ、あたしはあんたみたいに護られた訳じゃないけど、それでもママはあたしを愛してくれた。ちょっと厳しかったけどね。でも、ママは見えないところに隠れて、あたしを見守ってくれてるもン。だから、あたしは今もそれなりに幸せだよ。良いパパも居るしね」
何も言えなかった。
どういう理屈で彼女がそれを語ろうと思ったかは解らない。
そもそも、彼女の言葉は、僕の疑問に何ら答えるものでは無い。彼女は彼女なりの死の受け止め方で、彼女の心中だけを述べた独白だった。
だがそれでも、その言葉は一つの真理を表しているようで、やはり言葉が何も出て来はしなかった。
だから、彼女の想いに応えたのは
彼は、少し微笑みながら穏やかに言った。その瞳には眩しくなるぐらいに、強い光が宿っていた。
「僕も酷く悲しく、惨めになる事が有る。何故、僕はこうなんだろうって」
「…………」
「別に、ばあちゃんに思う所が有る訳じゃないけど、ホグワーツ特急で自分の子供を見送る親を見る度に、どうしてそうならなかったんだろうって考える事が有る。馬鹿な話だよね、僕の両親は、僕がそうする為に──ホグワーツに行く為にああなったのに」
彼の両親の状態を、僕は紙面の上でしか知らない。
磔の呪文。肉体的な損傷が残らない禁呪。僕はそれを余りに不経済だと考えていた。
何故なら、人体の欠損というのは、それが自分の物であれ他人の物であれ、見る者に精神的衝撃を与えるのには効率的な手段と言えるからだ。にも拘わらず、それを発明した魔法族はその結果を無駄だとして切り捨てた。故に、禁呪というには、他の二つ──服従や殺人の魔法と並べるには余りに型落ちでは無いかと、そんな事すら考えていた。
けれども、やはりそれは許されざる呪文として並べられるだけの理由が有るのだろう。
彼は、まさしく地獄を見た筈なのだ。それが齎す、最悪の結果を。
「僕はルーナみたいに強くなれる気がしない。父さんと、母さんは、未だに僕を見てくれないもの。父さん達が僕をしっかり見てくれる日を何度も夢見て、心の何処かでそれが絶対に叶わない事だと信じちゃっている。でも、それでもやっぱり僕は、父さんや母さんの行いに心の底から感謝しているんだと思うし、本当に好きなんだと思う」
「…………」
「君はどうなんだい?」
「僕は──未だに答えが出ない。母を愛していたのは、間違いないが。誇れる気はしない」
卑怯な答えだった。
だが、ネビル・ロングボトムは軽く頷いた。
そして、ルーナ・ラブグッドは嬉しそうににっこりと微笑んだ。
僕が、彼が、そして彼女が、同類などでは無い事は明確だった。
いずれも肉親の死に対して異なる向き合い方をしており、その事について理解はすれども共感までは出来ない事は歴然としていた。だが、それでも、やはり御互いを尊重するべきであるという点においては、残念ながら一致してしまっていた。
別に伊達や酔狂で、彼等にこんな事を聞いた訳では無かった。
先の学年に起こった事。それは未だに忘れられない。
魔法戦争は終わってなどいない。あの教授が第一次と評したように、闇の帝王は未だ生存しており、復活を諦めていないのだ。百年後に復活するのならば、或いは僕がホグワーツを卒業した後であれば、別に好きにしてくれと言いたいくらいだった。けれども覚悟は決めておくべきであり、そしてそれは早いに越した事は無い。その点において、僕はあの老人とやはり気が合わなかった。
つまり、己の立ち位置を意識し、また自覚すべきだった。
僕はスリザリンであり、死喰い人の息子であるドラコ・マルフォイと一応近しい関係に有る。
仮に魔法戦争が再開された場合、スリザリンは当然のように支配下に置かれ、僕は立場の選択を迫られる事だろう。いや、迫られる選択など無い筈だ。肉親のしがらみが無く、魔法界への執着すらなく、そしてスリザリンに組分けされた僕は、どうするのが一番賢いのかを知っている。理解している筈なのだ。
だが──未だ答えが出ていないように思えて仕方がない。
母は僕がホグワーツに行く事を望み、その将来を祈り、僕を愛していたのだから。
しかし、二人はそれ以上余計な事を問わなかった。
ネビル・ロングボトムは、僕の愚かさを断罪しない強さを有していたし。
ルーナ・ラブグッドは、僕の迷いを追求しない賢明さを持っていた。
その上で、彼女は言った。
「満足した?」
僕は頷きはしなかったが、彼女はそれで十分だったらしい。
「じゃあ、ステファンが長々と話したから、今度は私の番ね」
そう言った後、その手に持った本を──『ザ・クィブラー』をまるで聖典のように掲げた。
その余りにもけばけばしくて馬鹿々々しい表紙にネビル・ロングボトムが目を丸くする。そう言えば、彼は未だそれを見ていなかった。当然それに圧倒される経験もしていなかった。
何時の間にか、先程までの暗く重苦しい雰囲気は吹き飛んでいた。
そして、ルーナ・ラブグッドは今まで見て来た通りの
「ネビルはさっき居なかったから最初から話してあげるね。ステファンも真剣に聞いてくれてたから、ネビルもきっと興味を持ってくれると思う。しわしわ角スノーカックはね、スウェーデンに棲んでるんだ」
「……えっと、何?」
「しわしわ角スノーカックだよ、ネビル」
困惑と共に助けを求める視線を無視して、僕は再度本を開いて視線を落とした。
流石にその不思議生物については聞き飽きたというのも有ったし、何より──考えを整理する時間が欲しかった。僕の余りに身勝手な問いに対して、それでも真摯に対峙してくれた彼女達について。
僕達を待っていたかのように汽笛が鳴った。出発の合図だった。
ホグワーツへの道中、彼女達の会話は多少ちくはぐでありながらも、何とか成立していた。ネビル・ロングボトムがその珍妙な生物群に興味が無いのは解りきっていたが、彼はそれを指摘するには推しが弱く、またルーナ・ラブグッドはそれに気付かない位に自分の世界に入り込んでいた。
そして僕は、本を読む振りをしたまま、思考に沈み、しかし確かに彼等の会話へと耳を傾けていた。
恐らく、これは今年だけだろう。
ルーナ・ラブグッドは、ホグワーツで友達を作る前の新入生で、知り合いも居なかったからこそ、一人で座っている──つまり、仲間内で楽しげに喋っているような声を掛けづらい者達ではない──人間に意を決して声を掛けようとしたのだろう。
ネビル・ロングボトムも同じ。似合わない騎士道精神を発揮しただけで、別に僕と友好的になろうとした訳では無い。今年のように陰気なスリザリンと座る羽目になった事で懲りて、来年は何とか他のコンパートメントを見つけようとするだろう。
だから、この賑やかさは今年限りのものになる。それは確信している。
ただ。
一人で居るのと同じ位には、この時間は不愉快では無かった。
・しわしわ角スノーカック
飛べないことと角は一人でに治ることとスウェーデンに棲んでいる以外良く解らない。
ルーナが度々韻を踏む事もあって、彼女が語る謎生物もまたネイティブには面白味の有るように聞こえる名前なのかもしれない。