謝罪

 ウナ(TwitterアカウントID @nu_1115)と申します。今回は私がTwitter上で新宿の飲食店・ベルクに対するデマの流布及び根拠のない誹謗中傷をしてしまったことを謝罪したいと思います。

 大変申し訳ありませんでした。

 

 デマの流布と誹謗中傷をしてしまった経緯を不十分ながら説明します。

 Twitterにおいてあるアカウントがベルクに訪れた感想をツイートした際、ベルクのオーナーである井野朋也さんがそこにリプライする形で、お店の方針が書かれたFacebookの投稿のURLを示しました。

 その一連の流れを受けて、私が当時フォローしていた複数のTwitterアカウントが「店の感想をツイートしたのが女性だから井野氏は反論のリプライをしたのだ」という趣旨で井野さんを批判するツイートを繰り返しました。それを見た私は、野間易通さんが議論に参加していたこともあり、C.R.A.Cに対する個人的な嫌悪感を抱いていたことから、きっとベルク(井野さん)側が悪いのだろうと決め付け、井野氏は女性差別者であるという趣旨のツイートを複数回にわたって投稿しました。

 しかし井野さんはリプライをした相手のアカウントが女性であるということも知らない状態であったことを何度も説明しており、井野さんが女性にのみ反論していたという事実はありませんでした。

 そのときに私が投稿したツイートの一部を、以下に画像で示します。これはあくまで一部であり、自身のツイートをいくつかのワードで検索した結果出てきたものだけを載せているため、他にもベルクに関する不適切な言及は多くあると思います。

 もちろん、周囲に流されただけである(ゆえに罪は軽い)と主張するつもりはありません。あのときの周囲の反応を冷静に検証すれば自分も誹謗中傷に参加することはなかったはずですが、ごく個人的な好悪の感情が冷静さを失わせ、その感情を全く別の事柄に結びつけてしまったことは完全に私の不明です。個人的な好悪で発言していたことで、むしろあのとき井野さんを批判していた複数のアカウントよりも積極的にベルクへの憎悪を煽ってしまいました。

 もちろんデマや誹謗中傷は誰に対しても許されるものではありませんが、飲食店を名指しで行うことで関係者に多大な悪影響を及ぼすことになるという認識も欠けていました。私の軽率な行為により、お店で働く井野さん・迫川さんに大きな負担をかけてしまったことをお詫びします。

 また、野間さんをはじめ、ベルクに対するデマ・誹謗中傷を抑えようと尽力していた方々にもお詫びします。

 2018年の出来事であるにも関わらず4年近く謝罪をせず態度を曖昧にしていたことについても猛省します。

 

 大変申し訳ありませんでした。

 

 

 ウナ(@nu_1115)

装飾の「失敗」と近代的自我

 この記事は以前私が措定した「クィア的装飾」概念を自己批判するものだ。とは言ってもジェンダーを撹乱する実践が無意味であるという諦めではない。「規範を撹乱する主体」を取り違えていたのだ。

una1115.hatenablog.com

 以前は「クィア的装飾」でジェンダー規範をかき乱す主体として、装飾をする者たちを想定していた。しかしジェンダー規範はかき乱すものではない。かき乱されるものだと気づいた。

 主体的にかき乱そうとする試みはいつも失敗に終わるが、失敗とその反復こそが事後的に規範をかき乱してきた。その歴史の蓄積が現在の価値観を形成している。

  私は以前、このようなツイートを投稿した。「クィア的装飾」にまつわる言説が主体性を過信しているのではないかと指摘を受け考えたことだ。

 そしてこれは今でも正しいと思う。が、取りこぼしているものがあった。

 人権など近代的な価値観の形成は個人が自由な主体として振る舞い、社会に参画することで達成されてきたことに間違いはない。しかし自由な主体の試みが現実にその通り実現することで進んできたわけではなく、自由な主体が実現しようとすることの「失敗」が差延として立ち現した諸問題を世間が捉えることで達成されてきたのだ。


 「クィア的装飾」もスタート地点は間違っていない。個々のファッションの実践によって規範は撹乱されうる。しかしそれは個々がファッションを通じて実現したかった目的が完全に達成されなかった「失敗」の部分こそが規範を撹乱する契機となるのだ。

 バトラーが再三指摘するように、規範を撹乱するパフォーマンスは主体的な行為であるが、それがパフォーマティブに発揮されるのは主体が意図しなかった部分においてである。

 女性が「おろしやすい女性」であることや「男性の従属的な客体」であることを拒むために真っ赤なルージュと挑戦的な露出をファッションとして選んだとする(これは以前私も具体例として出したものだ)。
 そして思惑通り、男性から敬遠され余計なしがらみから逃れられることにおおむね成功したとする。しかしそれでは個人の問題がひとつ解決したに留まり、規範は揺らいでいないだろう。既存の「強い女性」のイデアを自らに取り入れることで成功したそれだが、実際に化粧して服を着る者が「強い女性」のイデアを完全にコピーすることはできない。イデアイデアであり、現実の個々の人間が模倣するにも限界がある。
実はその装飾の失敗にこそ、規範を撹乱する契機がある。

 ドラァグクイーンは「女性らしい」とされることを過剰に演出してみせ、逆説的にその規範を撹乱してみせる。フィクションでしか使わないような女性のステロタイプ的な言葉遣い、所謂「オネエ言葉」で喋り、コルセットやドレスの裾など「女性らしい」とされるものを奇怪なほど過剰に取り込んでみせることで、それまでのジェンダーに関する思い込みを打ち破ってみせている…
 …が、ジェンダーの本質的な撹乱はそこで行われているのではない。主体的な試みがある程度成功している陰で差延的に起こる「失敗」こそが撹乱の本質たる部分なのだ。
 ドラァグクイーンが過剰に女性らしさを強調してみせてそれが規範を撹乱できる理由は「どれだけ女性らしさのイデアを取り入れてもそのイデアになるわけではない」という装飾の失敗にある。
 個々の人間は骨格も顔のパーツも声も性格も様々で、女性らしさのイデアを取り込んでみせても必ずイデアから外れる部分が残る。人はそこに実践の可能性を見るのではないか。

 青文字系やゴスロリファッションがお人形のように着飾るフィクションへの志向も、自分がお人形のようにつるつるした均質な存在ではないことに意味がある。ドールのようになりたくても個々の人間は肌荒れもするし均整のとれたプロポーションとは限らない。それは必ず失敗に終わり、その失敗が重要なのだ。

 

 「強い女性」のイデアも「女性らしさ」のイデアも「人形美」のイデアも完全に模倣されず個々の多様性によってズレが生じる。そのズレこそが規範が持つ欺瞞を逆説的に告発してみせるのだ。
 真っ赤なルージュを引いて胸元をざっくり開けたとしても、それで峰不二子のような生活ができるわけではない。結局のところ毎日の仕事に疲れ、弱さを見せることもあるだろう。
 女性らしさを過剰に演出したとしても、それは絵本や漫画の誇張された女性らしい女性を模倣することはできないし、所謂「オカマ」像すらも模倣できないだろう。

 ドールになりたくてファンデーションとカラーコンタクトにこだわっても、どうしても生活感は出てしまう。
 必ずある程度の成功とある程度の失敗に終わることで、「男に従属しない強い女性」が真っ赤なルージュとセクシーな露出と強気なハイヒールでは捉えられない次元にあること、「女性らしい女性」が世間で繰り返されてきた女言葉やきらびやかなドレスでは再現できない次元にあること、青文字系やゴスロリが志向する「おとぎ話の女性」も決して生気を消去することが目的ではないこと…そういった本質を暴き出すのではないだろうか。
 「強い‐弱い」「モテ‐自己流」「異性愛‐同性愛」といった規範を揺るがすのは、その逆を敢えてやってみせることで達成されるのではない。逆を敢えてやってみせたときにそこでは捉えられない差延があること、それが事後的に暴き出すのが既存のジェンダー規範の欺瞞性だ。

 「クィア的装飾」とは主体的に目指すものではないらしい。どうやら、主体的な実践の「失敗」がそれを実現するようだ。

 ありふれた結論になるが、私は改めて多様性と近代的な自我を称賛しようと思う。

 多様な個々の在り方がイデアを取り入れる実践に「失敗」したとき、そこに見えるものがある。そしてそれこそが我々の世界を動かす。

 近代的な自我の概念は、自我の概念が十全には達成されないからこそ意味を持つ。ここで先程あげた私自身のツイートに帰ってくるのだ。自我が欺瞞であるからこそ、その欺瞞を見るために自我を持ってみせよう。回り道はしたが、それで間違いはなさそうだ。

「#トランス女性は女性です」批判に抗して

「#トランス女性は女性です」というタグがある。


お茶の水女子大がトランスジェンダーの学生の入学を受け入れると発表した日から今日まで、苛烈なトランス差別がTwitter上で吹き荒れている。差別に心を痛めた方々が、このタグで差別反対を訴えてくれている。


一方でこのタグへの反発もある。差別の容認ではなく、差別に反対しながらもこのタグの表現には問題がある、とする意見をちらほら見る。そして言わんとしていることはよく分かる。
が、それらの意見が捉えそこねている部分こそ「#トランス女性は女性です」の核となる部分である。批判を潰したいわけではないが、トランス女性差別問題の核となる部分なので改めて私が表明しておきたいと思う。

https://twitter.com/ruriko_pillton/status/1107664067399802880

https://twitter.com/amnsmt/status/1107668421557125121

このタグへの批判はトランス女性を「女性です」と言い切ってしまうことで多様なあり方を持つトランス女性を二元論的な枠組みに押し込め、多様性を奪ってしまうという理路で行われている。


しかしここでは語の定義不足と恣意的な定義の入れ替えが行われてしまっている。それを誘発してしまうのはやはり「トランス女性」が未だに異質なものと見なされているからではなかろうか。

「#トランス女性は女性です」の最大の核心は、それが同語反復である、という点だ。誤謬または無意味な言明とされる同語反復を敢えて使い、マジョリティの勝手な常識を告発してみせるものだ。
「女性は女性です」というフレーズを聞けば、当たり前で何も意味していないために誰も見向きもしないだろう。AはAである。言うまでもない同語反復である。
「女性は女性です」は当たり前だと思えるのに、「トランス」が頭につくだけで反発が起こってしまう。その問題点を炙り出す機能が、このタグにはある。

同語反復ではなく女性という集合から任意の要素を取り出して説明しているのだ、と考えることも可能である。では、次のフレーズならどう考えるだろう。
「黒人女性は女性です」
「アジア人女性は女性です」
これを「多様な黒人女性・アジア人女性を画一的な女性の枠組みに回収している」と批判するだろうか(当然それが白人社会に迎合させる帝国主義的文脈で発話されたものならば「みんな同じ」という聞こえのいいフレーズでマイノリティを収奪してゆく欺瞞を指摘することは可能だろうが、フェミニズムが措定する「女性」の概念からも疎外されてきた女性たちを切り捨てるな、という連帯のメッセージをまず感じるはずだ)。


ではそれらと「トランス女性」は何が違ってこういう反応を引き出してしまうのだろうか。
それはトランス女性の実態が未だに社会に認知されず、「女装とか性同一性障害とかドラァグとかとにかく多様なんだな」程度のイメージを持つからではないか。よく分からないのに多様であることだけは知っているから、トランス”女性”だと言っているのに”女性”の枠組みに回収するなといったことが言えるのではないか。
そこでいう「トランス女性」の女性と「女性です」の女性が、批判者の中でそれぞれ違う定義で使われてしまっている明らかな誤謬がその原因だ。


同じ文章内で使われる同じ単語は、特別な注意がない限り同一のものとして扱う。これは文章を書く際の基本だ。
「トランス女性は女性です」というときの“トランス女性”の部分の“女性”は多様性のあるものとして、“女性です”部分の”女性”は画一的で規範的な女性ジェンダーを示すものとして批判者の中で解釈されてしまうから、このようなことが起こる。
トランス女性は女性です、としか言っていないのに「多様性のある“女性”を画一的な“女性”の枠に押し込めるな」と批判されてしまうなら、批判者が勝手に前段の女性と後段の女性を違う定義で捉えてしまっているということだ。

同語反復の構造を理解しやすくするため、「どちらの集合を基準にするか」を補助線として引いてみよう。
「トランス女性は女性です」タグはおそらく一般的には「女性」の集合から「トランス女性」を抽出したうえで「トランス女性は女性です」と説明しているように受け取られる。それは間違っていない。が、ここでもう少し踏み込んで、裏から見てみる。

トランスジェンダー」の集合から「女性」を抽出して「それらは女性です」と示したものだ、と解釈するのだ。

こうすれば同語反復がわかりやすい。元々「女性」を抽出したものを「女性です」と言っているだけなのだから、当たり前なのだ。そして女性が多様な形をとりうる以上、トランスジェンダーの集合から女性を抽出する際も多様な女性がカバーされ、多様な女性の多様性をそのままに表現するフレーズとして「トランス女性は女性です」が導ける。

 

タグ批判のバリエーションとして、上記とは違うものも散見された。
トランスジェンダーがアンブレラタームで様々な状態を示す、という(今トランス差別者の中でも排除の口実に利用されている)説明をおかしな方向に履き違えているものだ。
それを示すいい差別記事がある(ここで言う「いい」とは褒めているわけではなく、どう勘違いしてしまうかの理路を説明するのに「いい」という意味である)。こんな差別は紹介するのも憚られるが…
https://rapla.hatenadiary.jp/entry/2019/03/25/133319

トランス”女性”が”女性”であるという当然の同語反復の構造を理解しないのは、トランスジェンダーが多様であるという説明に引っ張られて「トランス”女性”」が女性でない場合もあるという捻れた結論を導いてしまっているからだろう。

そしてここでも「トランス女性」とは「トランスジェンダー」の集合から「女性」を抽出したものだという理解が為されないミスが犯されている。もはや「女性」を抽出することもせず、「トランス女性」を「トランスジェンダー」と同一の単語だとしている(あまりに雑な)ミスだ。

タグ批判者のふたつのパターンを取り上げたが、両者に共通するのは「トランスジェンダーが多様であることは分かるがその実態まではよく分からない」といったマジョリティ側の怠惰だ。

トランス”女性”だと言っているのに自分が「よく分からない」ことを自覚しているから「女性じゃないものもいるのではないか、多様性を毀損しているのではないか」と勝手に不安になり、多様性を毀損する者としての誹りを回避するために女性に回収されない者もいると言ってみせる(ずっとトランス”女性”だと言っているのにね…)。

それはマジョリティ側の気遣いであると好意的に受け取ることもできるが、そこまで好意的になってあげる義理もない。マジョリティの間違った気遣いは間違っていると指摘しなければ、私たちはいつまでも的外れなパターナリズムに甘んじることとなるだろう。

2.10

ジャニス・G・レイモンドが1979年に刊行した『トランスセクシャル帝国』は分離主義的なレズビアンフェミニズムにおけるトランス女性の排斥を目的に著された。当時から分離主義的なフェミニズムにおいてはトランス女性をそのメンバーとして認めるかどうかの議論が活発に起こっていたようで(当事者の声が届かないまま)トランスジェンダー当事者に現在のツイッターで行われているようなヘイトが繰り返しぶつけられていた。

分離主義的フェミニズムにおいては男性性・女性性の本質化に重きが置かれ、根拠の薄弱なままに男性は暴力的で女性は非暴力的であるとされ、そこで女性が分離を選ぶことは社会のルールの変革を目指すリベラル・フェミニズム的営みを放棄し自分たちだけの世界に引きこもることを意味していた。

逆に言えば男性が男性中心社会で持つ特権を解体し、女性も含めた平等なメンバーで再分配することは分離を解いて女性も社会へ参入することを意味する。

ジェンダーの本質化が為された分離主義的フェミニズムでは性差の画定こそがアイデンティティとなっており、男性中心社会から逃避した女性のみで社会を作ることが目指される。つまり現存の社会の変革よりも分離した女性たちによるメンバーシップの策定、またそのメンバーから外れる者の悪魔化をもって議論が進んでいった。

分離主義的フェミニズムにおけるレズビアンの存在については多くの議論が交わされてきた。男性は女性を暴力で支配する、というのは分離主義において男女の本質的な差異として共有されていたが、それがレズビアンのブッチにも投影され、女性を性的にまなざす脅威と見なされることもあったし、一方で男性を必要とせず女性のみで完結するシスターフッドヘテロセクシャルよりも分離主義の理念に沿った崇高な存在であると見なされることもあった。

ゆえにレズビアンフェミニズムのコミュニティに選択的レズビアンも含めるかどうかの議論も為され、性愛的な指向はレズビアンではないが理念としてレズビアンを掲げる者も多く現れた。分離主義のユートピアにおいてはレズビアンを崇高なものとし、男性的な性のイメージを脱色する(異性愛の女性バージョンではなく、独立したシスターフッドとしてそれまでの性のイメージを抜く)必要に迫られたし、男女の本質化が為されたフェミニズムにおいて性を刷新しなければレズビアンが立つ瀬はなかったのだ。

徹底的に男女が本質化された末のフェミニズムは家父長制に接近し、ときに共闘さえしてしまう。両者は真逆の思想のように見えて実は共通する論理に貫かれている。

純潔のために家父長制を要請するか、家父長制の打破のために純潔を要請するかの違いしかなく、両者のバイブルには必ず純潔が置かれている。分離主義のユートピアにおいてレズビアンは性のイメージを剥奪され純潔なものに仕立て上げられ、理念的なレズビアンとされた彼女らは家父長制の分析から全ての抑圧は男性の性的な欲望とそれを中心に出来上がった諸制度であると問題を設定し、やがて「男性のように」女性をまなざすレズビアンは存在を抹消され、トランスジェンダー女性も当然その「男性性」ゆえに排斥されることとなる。

リベラル・フェミニズムが現実的な闘争の末に公民権的な女性の権利などを(ときに血を流しながら)着実に勝ち取り社会を変革していった横で分離主義的なラディカル・フェミニズムの一派たちは耳目を集めるアジテーションを叫ぶものの現実の闘争には参加せず自分の手を汚さないスタンスを貫いたと言うこともできる。独自のユートピアを作ることで社会の諸問題から距離をとり、そのエクスキューズとして社会の諸問題について漸進してもそれが家父長制を温存するものならば意味がない、というある種のラディカルさを自身に規定した(自らが共闘する家父長制を仮想敵として!)。

それは自分の心身をすり減らして諸問題にコミットしていくよりも、分離された女性だけのコミュニティ内部で男性的レズビアンセックスワーカー等の「性的問題」について同じ女性に説教する(たとえば「あなたは自分で男性を慰撫することを選んだのかもしれないがそれは家父長制を内面化しているのだ、目を覚ませ!」と叫ぶ)ほうが楽だったから、と意地悪な見立てをすることも可能だ。

エクスキューズは既に用意されているのだから強大な男性相手に闘争するよりも「女性にしか聞こえない」声でコミュニティ内部の女性に目を覚ませと叫ぶほうが自分の手は汚れないし論敵を冷笑できるし、自身のユートピアで特権的な立ち位置を得ることができる。いとも簡単に。

口ではジェンダー規範の破壊を求めながらジェンダーを本質化すること(「オスガキは加害的な本性を持っているので間引かなければならない」等)で女性だけのコミュニティの正当性を担保してきた(そういえば一時期盛り上がった「女性だけの街」構想がいつの間にか「シス女性だけの街」であったかのように偽装されたり「男児持ちの母親」を締め出す方向の議論が登場したのは記憶に新しい)分離主義的フェミニズムにとっては、トランスジェンダーの存在が許されると自身の基盤が揺らぐことになってしまう。

現在GCF(Gender Critical Feminism)などと名乗るツイッターフェミニストたちがトランス女性にぶつける文言は目新しいように見えて、実際は1979年のレイモンドが出し尽くした、そしてその後のフェミニズムが論駁し尽くした、いわば出涸らしを引っ張ってきているにすぎない。

トランス女性を頑なに彼と呼び、トランス男性を彼女と呼び続けるミスジェンダリングであるとか、トランスジェンダリズムは男性が家父長制に都合がいいように精神医学と結束して捏造したものだとか、いかに外見を造りかえようと男性の加害性を秘めたY染色体が…とか、スポーツの世界で女性が築き上げてきた努力をトランス女性が破壊してしまうとか、TERFたちの言うことの殆どはレイモンドの二番煎じである。レイモンドは更に女性の定義を子宮や染色体に求めたり、それでいながら女性とはこうだという決定論に対して構築論で反論してみせたり、男性と結ばれ子を産む女性よりも産まない女性のほうが高潔であると主張するなどまるでツイッターを見ていると錯覚させる物言いを繰り返す。

男性性・女性性の本質化を唯一の根拠とする分離主義的フェミニズムは自らの根拠を守るために性差を極大化し、それでいてトランス排斥のために子宮や染色体等の生得的なものに助けを求め、かつ生得的な「女性らしさ」の決めつけに抗ってみせる(それならトランス女性だって女性たりうるということを場当たり的に無視し続ける)。

最初から矛盾した自らの立場の綻びを無様に世間に示したのがトランス排除フェミニズムであるが、そうして矛盾のもとに無理やり作られたトランス排除の論理はその矛盾を覆い隠すために教条化し、ある種の信仰となる。そこで力を持つのが陰謀論で、40年前にレイモンドがでっち上げた「トランスジェンダーは家父長制に従わない女性たちを潰すために男性が作り上げた女体を陳腐化するための装置であり、男性が『なにが男性でなにが女性かを決める』ことで女性に対して優位性を誇示するためのものだ」という地点から一歩も動けていない。半世紀近くこのふざけた陰謀論を大事に抱き続けているのがトランス排除フェミニズムであり、それを温存してしまうのが分離主義の悲しい定めである。その陰謀論を抱き続けてさえいれば男性を相手取ることなく同じ女性に目を覚ませと言うだけの怠惰に眠っていられる。

分離主義は自立した社会を指向しているように見えて、本当は自立性のない思想を内在しているのだ。その自立性のなさと半世紀にも渡ってレイモンドという愚か者を庇い続ける自己犠牲の精神は今後、過激な思想を持つ者たちの鉄砲玉としていいように利用されるだろう。

フェミニズムは分離主義から自立しないことには、今後の明るい展望も描くことはできない。

 

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 

「クィア的装飾」のすすめ

コルセットとは何か。脱コルセットとは何か。素人ながらファッションの歴史に興味を持ってきた私は「反ファッション」とでも言うべき脱コルセットの思想に何か引っかかるものを感じてきた。それは本当に普遍性のある有効な戦略だろうか、何を思想の根幹としているのか、と考えてきた。

 

1830年フィラデルフィアで創刊された女性ファッション誌『レディズ・ブック』。女性に向けた雑誌はそれまでもあったが、女性のファッションに目をつけたこの雑誌は当時のアメリカではヨーロッパの最新トレンドを紹介するなど異彩を放ち注目されていた。

(以下『レディズ・ブック』にまつわる記述は平芳裕子『まなざしの装置 ファッションと近代アメリカ』(青土社)の論述を参照・参考にしている)

『レディズ・ブック』で図版とともに紹介されているヨーロッパのファッションは「コルセット」と聞いて我々が真っ先に思い浮かべるような華美で装飾的、且つとても動きづらそうなドレスだ。

ある記事で紹介されるヨーロッパの女性は、高い教養、社交界での洗練された振る舞い、話術、センスのいいドレスに整った顔立ちなどが賛美されている。まさに男性社会で華やかにチヤホヤされる「コルセット」をつけた女性がその雑誌では憧憬の対象となる。

しかしヨーロッパとアメリカでは文化も違うし読者がみな社交界で男性と踊る上流階級の女性たちであるわけもない。社交界の華となる女性たちを取り上げながら、実際はその振る舞いや精神性、「着飾る」ことの美学を読者に説き、豪奢なドレスを真似るのではなく内面のエッセンスを身につけようと進言しているのだ。

ゆえにその雑誌では憧憬の対象となるヨーロッパ女性のファッションを否定しさえする。ドレスを美しく着るために欠かせないコルセットについても健康・出産への影響等を述べて文字通りの「脱コルセット」を推奨しているのだ。豪奢な装飾やコルセットを脱ぎ、慎ましくも瀟洒な生活を手に入れましょう、と。

 

「コルセット」をつけて華やかに着飾る女性たちを憧憬の対象としながら、一方で「脱コルセット」を説く。矛盾しているように見えるこのふたつがなぜここで両立しているのか。

それは結局のところ、(ここでいう)「脱コルセット」も「コルセット」が指定する思想に立脚しているからに他ならないだろう。

つまり「コルセットをつける」ことも「コルセットを脱ぐ」ことも家父長制が要請する概念だということだ。

コルセットをつける必要はない、豪奢に飾り立てる必要はない、大事なのは良き女性として内面から輝くことだ…雑誌で説かれた女性像はそのようなものであった。華美な装いをそっくり真似るのではなく、よき振る舞いを真似ること。それが豪華なサロンでなくとも構わない。各自の家庭でよき女性たる振る舞いをする。社交界の女性たちの作法を家庭で実践し、日々の生活に実用的な教養と家長を立てる包容力やしなやかな強さを持ち、ささやかな余暇をエレガントに過ごす美意識も…

家父長制が要求する、贅沢はせず慎ましく男を立てながらも内面の美意識は忘れない、そんな女性像を作り上げるには最早コルセットの有無など重要ではなかったのだ。

 

実際、洋の東西も時代も問わず、豪華に着飾る女性と同じくらいに「着飾らない」女性は男性にとって欲望の対象となってきた。見た目の好みを除いても、素朴な格好の女性は「自分でも卸せそう」だという目線を向けられ執拗な欲望を向けられるほか、まめまめしく家事育児に従事し男を立ててくれそうだというイメージを投影されやすい。

コルセットをつけて着飾る女性はトロフィーとして「強者男性」に重宝され、コルセットを脱いだ女性はこんな自分も立ててくれるケア要員として強者でない男性たちに重宝される。女性はどちらにせよ家父長制が要請する女性像の網目からは逃れられない、というわけだ。

 

では家父長制を壊すための戦略的なファッションの試みを女性は取りようがないのであろうか。

家父長制どうこうよりも好きな格好でいるのが最もよいというのは大前提として、仮に戦略的に家父長制を撹乱したいと思う場合の試みとして最も有効なのは「コルセット」でも「脱コルセット」でもなく「クィア的装飾」とでも名付けられよう(新しいようで実は日本の流行において常に前景となってきた)実践であると考えている。

当然ここでいうクィアは意味を広くとって欲しい、一種のメタファーである。規範をかき乱す存在たれ、ということだ。

日本の若者のファッションのトレンドは常にそういったクィア的な規範の撹乱によって齎されてきた。渋谷のコギャルブームがあり、原宿の青文字系ブームがあった。

 

渋谷の街を厚底ブーツで闊歩したギャルは「コルセット」をつけた女性のように華美ではない。高価なブランド品に身を包んでいるわけでも、上流階級にいるわけでもない。そして同時に「脱コルセット」しているとも言い難い。化粧は濃いし服装もこだわり、素朴さは一切ない。成功した男性がトロフィーとして横に連れるには俗っぽすぎるし、慰撫を求める男性が欲望を向けるにはあまりに強すぎる。

原宿の街をきゃりーぱみゅぱみゅのように奇抜なオブジェクトをつけて歩く女の子たちもそうだ。成功した男性がトロフィーとして横に連れるには世界観が違いすぎるし、慰撫を求める男性は彼女らのお洒落への探究心と我が道をゆくセンスについていけないだろう。

 

強者である男性がトロフィーとして向ける要求にも、慰撫を求める男性がケア要員として向ける要求にも颯爽と背を向け、自分のお洒落を楽しんで家父長制を撹乱してみせる。そんなファッションが日本の若者を惹き付け、意識を変えてきた。そこでは恋愛を捨てる必要もない。渋谷のギャルは「カレシ」と連絡を取り合うし、原宿の青文字ガールは「相方」と趣味について語り合う。家父長制を超えた付き合いがそこにある。

 

そんな貴重な文化が存在する日本において、「脱コルセット」の概念をそのまま輸入して工夫もなく根付かせようとしたところで限界があるし、その効果も発揮されない。

韓国で脱コルセットが強い影響力を持って一部に受け入れられたのは整形文化に代表される見た目の規範意識や宗教的な保守意識、学歴社会に見られる成り上がりの意識などが強い抑圧となり苦しむ若者に響いたからだろう。

日韓の文化の違いを無視してそのまま輸入するよりも、文化の違いを考慮して日本で最も効果のあるやり方に変えるほうがよい。幸い日本には家父長制を撹乱できるファッションの前例がある。女性を縛り続ける無用な抑圧は脱ぎ捨てながらも、全ての表象を捨て去って丸腰になるわけではなく武器を持つほうがいいのではないか。武器を持ち男性を牽制しつつ、動き回って男性からの不躾な欲求をのらりくらりとかわす。そんなファッションの形態があるのではないか。そしてそのいいところは体毛を剃らない等、抑圧から逃げる脱コルセット的実践とも並行して行うことが可能という点にもある。

抑圧から逃げ、不自由からも逃げ、家父長制の要求からも逃げる。そんな積極的な逃走のスタイルを自分らしく探っていこうではないか。

 

もちろん先述のとおり、男性からどう思われようと好きな格好をするのが一番だ。そのうえで戦術的に撹乱してゆくのなら、積極的に動き回ろう。「しない」ことで消極的に抵抗するよりも、「する」ことで積極的にかき乱してやるほうが家父長制に大きなダメージを与えられるのだ。

別にルールがあるわけじゃない。真っ赤なルージュを引いてみる。胸元をざっくり開けてみる。逆に肌を全く露出せずお人形のようになってみる。彼氏や彼女を何人も作って連れ回してみる。出会う人によって全く違うテイストの服を着てみる…何だっていい。とにかく動いてみることだ。

 

誰かが求めるものではない、規範に則らずに自分がこうありたいからこうしているのだと胸を張れるクィア(変態)的な生き方で全てを撹乱してみないか。その積極的な実践によって解放されるものが、きっとあるはずだ。

 

 

まなざしの装置 ―ファッションと近代アメリカ―

まなざしの装置 ―ファッションと近代アメリカ―

 

恐怖が全ての特権性を独占するとき

恐怖の魅力に酔える者は、強者のみ

悪の華ボードレール

「生物学的性別」とは果たして本当に客観的で政治性のない指標だろうか。

中世の16~17世紀の学者アルドロヴァディの『蛇と龍の話』における「蛇」の記述は現在の生物学の記述と比べると奇異に映る(もっとも現在の生物学に則ったものではないから当然である)。蛇の種類、生態、身体の構造などを述べるに留まらず、蛇についての神話、蛇を使った魔術、食材としての利用など蛇にまつわることが様々に記載されている。

現在の学問として見れば民俗学文化人類学、宗教学のような範囲のものが蛇というひとつの記号によってまとめられ、それがひとつの知を形作る。ある物は他のある物と類似によって無限に結び付けられ、結び付けられたものがまた他のものと結びつく。この広がる表徴の連鎖を丁寧に解きほぐし、絶え間ない連続性を秩序立てて整理してゆく行為こそがこの時代の真理であり、学問であった。

蛇や龍といったものから「記号」を取り出し、その記号が出現するものは解剖学的なものであれ寓話的なものであれ取り上げ、ひとつひとつのつながりを明確にしてゆく。このルネサンス的な記号の整理は当然、『鳥』や『植物』など様々なものが取り上げられ、ひとつひとつ明るみになっていった。

しかしアルドロヴァディから半世紀後のヨンストンスが著した書物を見てみるとその様相が変わっていることに気づく。ヨンストンスが込めた情報は明らかにアルドロヴァディより少ない。しかしそちらのほうが、現代の私たちからすれば(どちらかといえば)アルドロヴァディよりも学問的に正統であるかのように見える。ヨンストンスが取り上げたのは動物の生態や構造、死といったもので、今まであった寓話的なものは丁寧に取り除かれている。その欠如には「見る」こと以外を排除することによって成り立つ真理の形がある。

ある物を、人間が見ること。そこに特権性を与えて他のものを排除することで博物学はさらなる洗練を見ることとなる。寓話的なエピソード(聞くこと)の排除。生活におけるその利用法(味覚、触覚)の排除。ただひたすら「見る」ことに特権性を与え、それ以外は学問ではないと排除すること。

学問における正統性とは、何を採用し何を排除するかの取捨選択でしかない。

18世紀のリンネは物の味や感触、色彩すらも捨て去るべきであると主張し、自らの博物学を進めていった。物事の偶発的で個人的な経験や感じ方を排除し、誰が見てもそうとしか言えないもののみを抽出して分類してゆくこと。それがリンネにとっての知であった。植物の分類において雄蕊、雌蕊や葉や花の数、形、比率を記述し、それ以外の匂いや味やその植物を見たときの感動は記述から排除する。

そうすることで世界のどこにいても、どんな人でも同じ構造を抽出でき、それが構造として立ち顕れる。その構造の記述を積み重ねることで自然は全て体系化され、誰もが理解できるものとなる…

 

しかしこの「見る」ことに特権性を与えた知の体系も、崩壊を迎えることとなる。象徴的なエピソードをフーコーは引いている。

ジョルジュ・キュビエは多種多様な生物が分類・展示されていたパリの自然博物館においてガラスケースを持ち去り、叩き壊し、その中の生物を解剖してみせたのだ。フーコーは生物学の誕生をここに見る。平面的な座標に配置され「見る」ことで分類されていた生物たちが、今度はその内的な機能を分析されることとなる。

解剖してもその臓器の形状を見るのではなく、その臓器がどのように機能し他の部位と有機的に統一されるかが知の体系として正統性を得ることとなる。形状によって分類され形作られたタブローは進化の系列によって編み直される。「見る」ことの特権性により排除されてきた感覚もここにきて具体的な形をとるようになり、生や死といったリアリティは今までの博物学からすれば吐き気を催すような真理の形であったに違いない。

博物学が「見る」ことに特権性を与え他のものを排除し、生物学は「機能」に特権性を与え他のものを排除することで知としての正統性を構築してきた。

 

果たしてTERFの主張する「生物学的性別」は何に特権性を与えて他のものを排除しているのだろう。

「男性器を見せるのは加害である。ゆえにトランス女性は女性に危害を与えかねない脅威である」との言説が日々トランス女性に投げかけられているから、ルネサンス時代の「類似」によるトラウマの連想だろうか。男性器という身体の形状にこだわるのは古典主義時代の「見る」ことの特権性だろうか。あるいは「トランス女性を女性と呼ぶと女性のものとして議論されてきた月経や妊娠の話ができなくなる」とも喧伝されているから、それは「機能」に特権性を与えているのか。

どれも正解であり、どれも正確ではない。

キュビエによって立ち顕れた知の体系は機能の分析により生死というリアリティを生み出した。それは人間にも当てはまるものとなり、人間は二重の(分析する者であり同時にされる者であるとの)立場に置かれることとなった。 TERFたちは類似、目視、機能のすべてを動員しているが、分析する者でありされる者でもあるという人間の二重の立場に恐れおののき、拒否している。

全てを動員して分析する者でありたいが、分析される者ではありたくない。その権力の行使にあたって用いられるのが「恐怖」というタームだ。恐怖とはトランス女性に対する恐怖、男性器に対する恐怖でもあり、月経や妊娠という機能に対して(その機能の客観的な分析とは別の)主観的な恐怖でもある。

この「恐怖」が全ての語りにおける特権性を担保し、独占し、恣意的な排除の機能を持つ魔法の概念となる。TERFが様々な学問の知見を歪めた形で持ち出すとき、それ単体では全く機能しない。それらが「恐怖」による排他的な特権と結び付けられたときに初めて、それらがアジテーションとして威力を持ち、拡散されることとなる。

「生物学的性別」における基準として何を採用するかは権力と分かちがたく結びつく。出生時に医師から目視され、戸籍上の性別が決まる。ここには「親-子」「医師-被施術者」という権威の構造がある。その権威の上位者が下位者を「まなざす」という権力の行使があり、性別が決定される。「ペニスを見るのが恐怖なのだ」というとき、視線は外性器に向けられているが、ここでは権威を持つ者が「女性の外性器の形状を持つ」と判断した者の外性器から外れる形状を持った者のみが「まなざ」される。

そこでは機能は排除されることとなる。妊娠が可能であるか否か、月経が周期的に来るかどうかといった機能は考慮されない。ただ膣がありさえすればそこでは「女性」となり、ただペニスがありさえすれば「男性」となる。当然自身も医師からのまなざしの権力を振るわれて「女性」となるわけであるが、ここでは自らも医師のように外性器を「まなざす」構造に乗っかることで、常に権威構造において上位者たるポジションとなる。

女性として膣を持つ者の月経や妊娠といった身体的な機能はとりあえず棚上げされ、男性器を見るのが怖いという「恐怖」により「見る」ことの権力を一方的に行使できる立場を手に入れるのだ。

 

では「月経や妊娠を経験しないトランス女性は女性ではない」といった言説についてはどうだろう。月経や妊娠は機能の分野である。そしてそれを語るにあたって、トランス女性がいたって何も問題はない。なぜなら、月経がないシス女性も当然存在するし、妊娠しない・できないシス女性も然り。既に月経や妊娠を経験しない他者は同グループに存在するにも関わらず、特定の他者だけを標的にして「トランス女性がいると女性の定義が揺らぎ、女性特有の問題が語れなくなる」と言うのだ。

ここで紐帯の内と外を分けるのはやはり「恐怖」である。月経や妊娠を語るとは、それがないシス女性を排除するものではない。なぜならシス女性の無月経は恐怖の対象となるし、不妊症は治療の対象となる恐怖であるからだ。月経痛に悩まされるのも恐怖であるし、妊娠における身体の負担や妊婦への社会の冷たい目線や不十分な福祉もまた恐怖である。

しかしトランス女性はその恐怖を感じない。無月経のシス女性と月経痛を語るにあたっては、月経に対する「恐怖」を共有したまま語れるが、トランス女性と月経痛を語るのは、いくら親身に共感されようとも自分が外から分析される対象となる(つまり見られる者になる)嫌悪感からそれを拒む。常に自らが「語る場」の権威の関係において上位者であることを堅持するため、「恐怖」によるシスターフッドを強調する。

 

「男性器はジェンダーとして構築された恐怖ではなく、生物学的に組み込まれた本能的で根源的な恐怖である」というばかげた言説も「類似」によって構築された象徴的なファルスを生物学的な「恐怖」とやらに接続し、「恐怖」のシスターフッドの優位性を誇示しようとするイデオロギーである。

そもそも生物学や本能を持ち出すのであれば特定の種の生殖の構造を持って「根源的」とするのは無理があり滑稽ですらあるのだが(それはこの理屈をぶち上げた当人が「理系の大学生」であり院への進学を望んでいるのだからその分野を勉強していくうちに自らの考えが掃いて捨てられるようなデタラメであることは分かることだろう)、それは置いておく。

恐怖を感じる、というのは男性器にファルス的な象徴性を与えているからである。生物として子孫を残すのであれば男性器に根源的な恐怖は覚えず、恐怖を覚えるとすれば暴力性(体格の優位や直接的な行動)によってである。ペニスは男女の二元論が前提とする「ペニスを持つ者/持たない者」あるいは「ペニスを挿入する者/される者」という関係性への服従によりファルスとして機能し、その記号性を最大化させる。多産や豊穣としてのファルスではなく恐怖を投影したファルスもその二元論への徹底的な服従によりペニスを記号化させている。ここで「生物学」や「本能」という間違ったタームをわざわざ動員してまで強調したいのはやはり「恐怖」によるシスターフッドである。

ペニスを持つ者には持ちえない「恐怖」というものを措定することで、レイプされる側としての権威関係の下位者を受け入れることで、「語る場」においては上位者として振る舞う資格を得る。

しかしたくさんの人に何度も指摘されている通り、トランス女性だって性犯罪の被害を受ける。私もレイプをされたことはないがその一歩手前まで自分の身体を蹂躙されたことがある。その性暴力の被害を語った私にフェミニストたちが行ったセカンドレイプも、やはり「ゴリラのような腕力で抵抗しろ」「自分だけ語ってシス女性の被害を透明化するな」という生物学的(身体的)な区分けによる二次加害であった。

TERFにとってはファルスという象徴的な男性器への恐怖はトランス女性だって持ちうる、というのが不都合なのだ。それは象徴(つまりジェンダー)であるからセックスに関わらず誰もが持ちうると認めてしまえば「恐怖」によるシス女性だけのシスターフッドが崩れてしまう。ゆえに二次加害のスタイルでさえ腕力のある者やペニスを持つトランスジェンダーであること、そういった身体的な区分けを用いて行うことになる。

 

「類似」や「目視」や「機能」のそれぞれの分析を用いながら、自らは分析される者ではなく誰を分析し何を分析の軸として採用するか一方的に選べる立場を固持すること。そこにはあらゆる表象を総動員できる権力と、あらゆる表象を自分には決して向かわせない権力を「恐怖」によって担保し、さらにその権力を隠すための客観性として今度は逆に「恐怖」を生物学や解剖学や社会学、果ては本能といったところに接続してロンダリングを図る政治が行われている。

常にゴールポストは動かされる。何を「生物学的性別」とするのか。それを女子大やトイレといった個々の運用に全て適用してしまうのは正当であるのか。トランス女性側からのその問いはひらひらとかわされ、外性器の形状である、機能である、ファルスとしての象徴性であると常にゴールポストが動かされる。それぞれのゴールポストは断絶されている。共通するものであるならばひとつのゴールに向かい、そこからなし崩し的に全てのゴールを捉えてしまえばいいのだが、断絶されたゴールの全てに同時に答えることは原理的に不可能であり、TERFのみが断絶された階層を自由に行き来してこちらを嘲笑う。

なんとかその全てのゴールポストを綿密に分析し論駁したところで、今度は「同じ恐怖を共有しない者である」と試合からの除外、レッドカードを以て答えとされてしまう。

敗北が決定づけられたこの不条理な試合を強いられ、案の定理不尽に敗北した私たちは学びの場や排泄の場を奪われるだけではなく感情的なヘイトを向けられ、命を削ってゆく。

 

この八百長めいた試合に勝てるとは思わない。数々のマイノリティの死を乗り越えながら少しずつしか前進できないだろう。マイノリティが行う社会運動とはそういうものである。しかしひとつ言えることがある。

TERFたちのいう「生物学的性別」とはデタラメだ。学問的にもデタラメであるし、仮にそれが正当であっても、社会生活における全ての領域に生物学を採用するという権力の行使に付き合ってやる必要はない。

その権力に付き合わず、その権力の欺瞞を少しずつ暴いていくこと。私たちに残された道はそれしかないだろう。

  • 某小林 (id:gdbysyag)

    さながらトランス女性はパノプティコンの囚人のようだと思った。某理系の大学生は、ダーウィンの進化論を例に挙げながら「生物学的・歴史的事実」と人間社会を結び付けようとしているようだが、ソーシャルダーウィニズムとそれがもたらした歴史的事実をご存じないと見える。

  • dd

    ダーウィズムが差別 いわゆるユダヤ迫害につながったのはご存知ですか?
    ツイッターのミソジニーというわりにミサンドリーこじらせてる変態基地外きも女のツイカスからきましたが、
    あと リンネはそんなこといってませんね
    彼は 物事をすべて分類することで理解できるといったのであって
    あなたの文章はロックの白紙説です

    ただでさえ 差別偏見しかないバカな低能ゴキブリかすま~んが
    自分の根拠にとぼしいしょぼい意見に対して 正当性を持たせるために過去の偉人を悪用
    てk、ツイカスのくそま~んと同一人物ですかねえww

    で、反論されて被害者ぶるんですね
    犯罪者が刑務所とじこめられてもだれも相手しませんよ
    あげく昔の美術家にミソジニーとか言ってますけど あんた同一人物ですか?
    まあ もし自演でほめあってるならきもちわるさやばすぎますけど

    まったく根拠なく批判もできないからかんおうろんでわめきミソジニーとわめきたてる どこがですか?

    頭もおかしくきもちわるいブスが美人への嫉妬してるだけでしょ
    あなたたちこそ ミソジニーでしょ
    こんぽんにあるのは 自分たちが認められないという変態性欲
    汚物よりもおぞましい性犯罪者
    それがフェミくされまんこどもの招待でしょ ああきもちわるい

    ちかよってこないでくださいね
    あなたちくそ女は性犯罪者なんですよ
    防衛機制しってますよね
    そのなかの投影がまさにあなたでしょう

    じぶんたいの 変態性犯罪性欲を男性に投影することで自分は違うといいわけしてる だからフェミによる性犯罪がふえてるんですね 気持ち悪い
    女というのは子宮と腐ったマンコでしか物事を考えられないおぶつであり、
    相手にたいして脅迫と恐怖をあたえ
    それがかなわないと悲劇のヒロインぶる 性犯罪者

    女による冤罪のでっちあげ 自分が被害者ぶることによるメンヘラストーカーからも あなたこそが犯罪性欲を確立しておきながらそれを他社に投影してるのは町がンあいでしょう女こそ恐怖の対象であり 

    溝というのは元来恐怖の対象です
    女の性器がぐろくおぞましく醜いのも
    女という汚物にだまされないための
    神の試練です

    その性犯罪者がじぶんたちのおぞまし「へんたいせいよくをおおいかくしみずからがおぶつとせいはんざいしゃの小塗油であり万物から恐怖され嫌悪される汚物である 女こそが汚物のちょうてんであるといったことから にげている 性犯罪の中でも最底辺お雌ゴキブリそれがあなたたいくそまんこどもでうs
    音あんというのは 神からあたえられてしれんであり、
    汚物にも劣り雌ゴキブリにも下回る
    嫌悪と侮蔑の対象である性犯罪者にほかならないのです

    汝女を殺害せよ
    それこそが功徳なのです

    女とは汚物にも劣る存在であり、それをトサツするのは神への何よりの功徳に他ならないのであります
    女こそが何よりの犯罪者であり、嫌悪と侮蔑 巨富の対象であるためにそれを他社に投影すrことでにげる
    まさに女が汚物にもおとるそんざいなのだyと

    おぞましい女性器のおぞけのはしりきもちわるさみにくさきたならしさからも女こそが恐怖と侮蔑件おのたいそゆであることはあきらかです
    女とはこの世にうまえれてきてはいけない存在なのですわかりましたか

  • e

    これはひどい。頭の悪い人が頭が良いつもりになって書いた文章。

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