恐怖の魅力に酔える者は、強者のみ
-『悪の華』ボードレール
「生物学的性別」とは果たして本当に客観的で政治性のない指標だろうか。
中世の16~17世紀の学者アルドロヴァディの『蛇と龍の話』における「蛇」の記述は現在の生物学の記述と比べると奇異に映る(もっとも現在の生物学に則ったものではないから当然である)。蛇の種類、生態、身体の構造などを述べるに留まらず、蛇についての神話、蛇を使った魔術、食材としての利用など蛇にまつわることが様々に記載されている。
現在の学問として見れば民俗学や文化人類学、宗教学のような範囲のものが蛇というひとつの記号によってまとめられ、それがひとつの知を形作る。ある物は他のある物と類似によって無限に結び付けられ、結び付けられたものがまた他のものと結びつく。この広がる表徴の連鎖を丁寧に解きほぐし、絶え間ない連続性を秩序立てて整理してゆく行為こそがこの時代の真理であり、学問であった。
蛇や龍といったものから「記号」を取り出し、その記号が出現するものは解剖学的なものであれ寓話的なものであれ取り上げ、ひとつひとつのつながりを明確にしてゆく。このルネサンス的な記号の整理は当然、『鳥』や『植物』など様々なものが取り上げられ、ひとつひとつ明るみになっていった。
しかしアルドロヴァディから半世紀後のヨンストンスが著した書物を見てみるとその様相が変わっていることに気づく。ヨンストンスが込めた情報は明らかにアルドロヴァディより少ない。しかしそちらのほうが、現代の私たちからすれば(どちらかといえば)アルドロヴァディよりも学問的に正統であるかのように見える。ヨンストンスが取り上げたのは動物の生態や構造、死といったもので、今まであった寓話的なものは丁寧に取り除かれている。その欠如には「見る」こと以外を排除することによって成り立つ真理の形がある。
ある物を、人間が見ること。そこに特権性を与えて他のものを排除することで博物学はさらなる洗練を見ることとなる。寓話的なエピソード(聞くこと)の排除。生活におけるその利用法(味覚、触覚)の排除。ただひたすら「見る」ことに特権性を与え、それ以外は学問ではないと排除すること。
学問における正統性とは、何を採用し何を排除するかの取捨選択でしかない。
18世紀のリンネは物の味や感触、色彩すらも捨て去るべきであると主張し、自らの博物学を進めていった。物事の偶発的で個人的な経験や感じ方を排除し、誰が見てもそうとしか言えないもののみを抽出して分類してゆくこと。それがリンネにとっての知であった。植物の分類において雄蕊、雌蕊や葉や花の数、形、比率を記述し、それ以外の匂いや味やその植物を見たときの感動は記述から排除する。
そうすることで世界のどこにいても、どんな人でも同じ構造を抽出でき、それが構造として立ち顕れる。その構造の記述を積み重ねることで自然は全て体系化され、誰もが理解できるものとなる…
しかしこの「見る」ことに特権性を与えた知の体系も、崩壊を迎えることとなる。象徴的なエピソードをフーコーは引いている。
ジョルジュ・キュビエは多種多様な生物が分類・展示されていたパリの自然博物館においてガラスケースを持ち去り、叩き壊し、その中の生物を解剖してみせたのだ。フーコーは生物学の誕生をここに見る。平面的な座標に配置され「見る」ことで分類されていた生物たちが、今度はその内的な機能を分析されることとなる。
解剖してもその臓器の形状を見るのではなく、その臓器がどのように機能し他の部位と有機的に統一されるかが知の体系として正統性を得ることとなる。形状によって分類され形作られたタブローは進化の系列によって編み直される。「見る」ことの特権性により排除されてきた感覚もここにきて具体的な形をとるようになり、生や死といったリアリティは今までの博物学からすれば吐き気を催すような真理の形であったに違いない。
博物学が「見る」ことに特権性を与え他のものを排除し、生物学は「機能」に特権性を与え他のものを排除することで知としての正統性を構築してきた。
果たしてTERFの主張する「生物学的性別」は何に特権性を与えて他のものを排除しているのだろう。
「男性器を見せるのは加害である。ゆえにトランス女性は女性に危害を与えかねない脅威である」との言説が日々トランス女性に投げかけられているから、ルネサンス時代の「類似」によるトラウマの連想だろうか。男性器という身体の形状にこだわるのは古典主義時代の「見る」ことの特権性だろうか。あるいは「トランス女性を女性と呼ぶと女性のものとして議論されてきた月経や妊娠の話ができなくなる」とも喧伝されているから、それは「機能」に特権性を与えているのか。
どれも正解であり、どれも正確ではない。
キュビエによって立ち顕れた知の体系は機能の分析により生死というリアリティを生み出した。それは人間にも当てはまるものとなり、人間は二重の(分析する者であり同時にされる者であるとの)立場に置かれることとなった。 TERFたちは類似、目視、機能のすべてを動員しているが、分析する者でありされる者でもあるという人間の二重の立場に恐れおののき、拒否している。
全てを動員して分析する者でありたいが、分析される者ではありたくない。その権力の行使にあたって用いられるのが「恐怖」というタームだ。恐怖とはトランス女性に対する恐怖、男性器に対する恐怖でもあり、月経や妊娠という機能に対して(その機能の客観的な分析とは別の)主観的な恐怖でもある。
この「恐怖」が全ての語りにおける特権性を担保し、独占し、恣意的な排除の機能を持つ魔法の概念となる。TERFが様々な学問の知見を歪めた形で持ち出すとき、それ単体では全く機能しない。それらが「恐怖」による排他的な特権と結び付けられたときに初めて、それらがアジテーションとして威力を持ち、拡散されることとなる。
「生物学的性別」における基準として何を採用するかは権力と分かちがたく結びつく。出生時に医師から目視され、戸籍上の性別が決まる。ここには「親-子」「医師-被施術者」という権威の構造がある。その権威の上位者が下位者を「まなざす」という権力の行使があり、性別が決定される。「ペニスを見るのが恐怖なのだ」というとき、視線は外性器に向けられているが、ここでは権威を持つ者が「女性の外性器の形状を持つ」と判断した者の外性器から外れる形状を持った者のみが「まなざ」される。
そこでは機能は排除されることとなる。妊娠が可能であるか否か、月経が周期的に来るかどうかといった機能は考慮されない。ただ膣がありさえすればそこでは「女性」となり、ただペニスがありさえすれば「男性」となる。当然自身も医師からのまなざしの権力を振るわれて「女性」となるわけであるが、ここでは自らも医師のように外性器を「まなざす」構造に乗っかることで、常に権威構造において上位者たるポジションとなる。
女性として膣を持つ者の月経や妊娠といった身体的な機能はとりあえず棚上げされ、男性器を見るのが怖いという「恐怖」により「見る」ことの権力を一方的に行使できる立場を手に入れるのだ。
では「月経や妊娠を経験しないトランス女性は女性ではない」といった言説についてはどうだろう。月経や妊娠は機能の分野である。そしてそれを語るにあたって、トランス女性がいたって何も問題はない。なぜなら、月経がないシス女性も当然存在するし、妊娠しない・できないシス女性も然り。既に月経や妊娠を経験しない他者は同グループに存在するにも関わらず、特定の他者だけを標的にして「トランス女性がいると女性の定義が揺らぎ、女性特有の問題が語れなくなる」と言うのだ。
ここで紐帯の内と外を分けるのはやはり「恐怖」である。月経や妊娠を語るとは、それがないシス女性を排除するものではない。なぜならシス女性の無月経は恐怖の対象となるし、不妊症は治療の対象となる恐怖であるからだ。月経痛に悩まされるのも恐怖であるし、妊娠における身体の負担や妊婦への社会の冷たい目線や不十分な福祉もまた恐怖である。
しかしトランス女性はその恐怖を感じない。無月経のシス女性と月経痛を語るにあたっては、月経に対する「恐怖」を共有したまま語れるが、トランス女性と月経痛を語るのは、いくら親身に共感されようとも自分が外から分析される対象となる(つまり見られる者になる)嫌悪感からそれを拒む。常に自らが「語る場」の権威の関係において上位者であることを堅持するため、「恐怖」によるシスターフッドを強調する。
「男性器はジェンダーとして構築された恐怖ではなく、生物学的に組み込まれた本能的で根源的な恐怖である」というばかげた言説も「類似」によって構築された象徴的なファルスを生物学的な「恐怖」とやらに接続し、「恐怖」のシスターフッドの優位性を誇示しようとするイデオロギーである。
そもそも生物学や本能を持ち出すのであれば特定の種の生殖の構造を持って「根源的」とするのは無理があり滑稽ですらあるのだが(それはこの理屈をぶち上げた当人が「理系の大学生」であり院への進学を望んでいるのだからその分野を勉強していくうちに自らの考えが掃いて捨てられるようなデタラメであることは分かることだろう)、それは置いておく。
恐怖を感じる、というのは男性器にファルス的な象徴性を与えているからである。生物として子孫を残すのであれば男性器に根源的な恐怖は覚えず、恐怖を覚えるとすれば暴力性(体格の優位や直接的な行動)によってである。ペニスは男女の二元論が前提とする「ペニスを持つ者/持たない者」あるいは「ペニスを挿入する者/される者」という関係性への服従によりファルスとして機能し、その記号性を最大化させる。多産や豊穣としてのファルスではなく恐怖を投影したファルスもその二元論への徹底的な服従によりペニスを記号化させている。ここで「生物学」や「本能」という間違ったタームをわざわざ動員してまで強調したいのはやはり「恐怖」によるシスターフッドである。
ペニスを持つ者には持ちえない「恐怖」というものを措定することで、レイプされる側としての権威関係の下位者を受け入れることで、「語る場」においては上位者として振る舞う資格を得る。
しかしたくさんの人に何度も指摘されている通り、トランス女性だって性犯罪の被害を受ける。私もレイプをされたことはないがその一歩手前まで自分の身体を蹂躙されたことがある。その性暴力の被害を語った私にフェミニストたちが行ったセカンドレイプも、やはり「ゴリラのような腕力で抵抗しろ」「自分だけ語ってシス女性の被害を透明化するな」という生物学的(身体的)な区分けによる二次加害であった。
TERFにとってはファルスという象徴的な男性器への恐怖はトランス女性だって持ちうる、というのが不都合なのだ。それは象徴(つまりジェンダー)であるからセックスに関わらず誰もが持ちうると認めてしまえば「恐怖」によるシス女性だけのシスターフッドが崩れてしまう。ゆえに二次加害のスタイルでさえ腕力のある者やペニスを持つトランスジェンダーであること、そういった身体的な区分けを用いて行うことになる。
「類似」や「目視」や「機能」のそれぞれの分析を用いながら、自らは分析される者ではなく誰を分析し何を分析の軸として採用するか一方的に選べる立場を固持すること。そこにはあらゆる表象を総動員できる権力と、あらゆる表象を自分には決して向かわせない権力を「恐怖」によって担保し、さらにその権力を隠すための客観性として今度は逆に「恐怖」を生物学や解剖学や社会学、果ては本能といったところに接続してロンダリングを図る政治が行われている。
常にゴールポストは動かされる。何を「生物学的性別」とするのか。それを女子大やトイレといった個々の運用に全て適用してしまうのは正当であるのか。トランス女性側からのその問いはひらひらとかわされ、外性器の形状である、機能である、ファルスとしての象徴性であると常にゴールポストが動かされる。それぞれのゴールポストは断絶されている。共通するものであるならばひとつのゴールに向かい、そこからなし崩し的に全てのゴールを捉えてしまえばいいのだが、断絶されたゴールの全てに同時に答えることは原理的に不可能であり、TERFのみが断絶された階層を自由に行き来してこちらを嘲笑う。
なんとかその全てのゴールポストを綿密に分析し論駁したところで、今度は「同じ恐怖を共有しない者である」と試合からの除外、レッドカードを以て答えとされてしまう。
敗北が決定づけられたこの不条理な試合を強いられ、案の定理不尽に敗北した私たちは学びの場や排泄の場を奪われるだけではなく感情的なヘイトを向けられ、命を削ってゆく。
この八百長めいた試合に勝てるとは思わない。数々のマイノリティの死を乗り越えながら少しずつしか前進できないだろう。マイノリティが行う社会運動とはそういうものである。しかしひとつ言えることがある。
TERFたちのいう「生物学的性別」とはデタラメだ。学問的にもデタラメであるし、仮にそれが正当であっても、社会生活における全ての領域に生物学を採用するという権力の行使に付き合ってやる必要はない。
その権力に付き合わず、その権力の欺瞞を少しずつ暴いていくこと。私たちに残された道はそれしかないだろう。