8A 2022/06/08版 

8回 

俗芸術 その4 

俗芸術としての世界のユースカルチャーとストリートカルチャー

カワイイ キッチュという美学

David Bowie – Space Oddity (Official Video)

Saturday Night Fever(サタデー・ナイト・フィーバー)-John Travolta


70年代後半のディスコ・カルチャーを取り上げ、NYのイタリア系移民の青春群像を描く名作。

カミナリ族(暴走族)スペクター

みゆき族

1970年代の新宿

77-97 西武セゾングループCM

「こげよマイケル」

学校の音楽の授業で歌われることもある。原曲は19世紀のトラディショナルフォークで、アフリカから奴隷としてジョージア諸島に送られた黒人たちが歌っていた曲。

Amazing Grace

1920s Jazz Songs

JIM JARMUSCH - STRANGER THAN PARADISE ( ストレンジャー・ザン・パラダイス )より、


Screamin Jay Hawkins / I Put A Spell On You 

The Beatles - Rock and roll music 


60年代初頭デビュー仕立てのビートルズ

エルビス・プレスリー

ヘビメタの元祖みたいなKISS

ロックンロールの元祖、チャック・ベリー『ジョニー・B。グッド』(1958年にシングルとして発売されたチャック・ベリーの楽曲)


19261018日、ミズーリ州セントルイスで生まれる。


チャック・ベリーは、6歳の頃から聖歌隊で歌い、高校時代初めて人前で演奏を始める。


1953年、ピアニストが率いるバンドにギタリストとして加入し、後にピアニストに代わって自分がバンドのリーダーとなった。


1955年、彼のステージを見たマディ・ウォーターズの紹介によって、チェス・レコードと契約。「メイベリーン」でデビューした。この頃すでに自身の代名詞である「ダックウォーク」を開発していた。


「ロール・オーバー・ベートーヴェン」、「ロックンロール・ミュージック」、「ジョニー・Bグッド」など数多くヒット曲を放ち、後にチャック・ベリーのイントロと呼ばれることになる偉大なフレーズを発明。


映画「Back tto the Futuer」で唄われるシーンは有名。

『さらば青春の光』予告


モッズとロッカーの対立を描く

The Who - Pinball Wizard - Tommy - 1969

キャロル、「ファンキー・モンキー・ベイビー」

セックス・ピストルズ 

アナーキー・イン・ザ・UK

多くのヴィジュアル系のバンドが、パンクや、グラムの影響を受けている。

Queen & Annie Lennox & David Bowie - Under Pressure - HD


デヴィッド・ボウイが大好きなのでたくさん貼る。


一緒に唄っているのはユーリズミックスの歌姫アニー・レノックス

ブレイク・ダンス

DJクール・ハーク

RUN DMC - Walk This Way (Official HD Video) ft. Aerosmith

●ユースカルチャー

 〜モッズ、パンク、ヒップホップ、クラブカルチャー


●カウンターカルチャー

 〜ヒッピーとフラワー・チルドレン、ギャル


世界の不良文化あるいは下層芸術 → 次週


●ヘアスタイル、ファッション(マレット、長髪、アフロ、パンチ、ロン毛、リーゼント、ギャル、JK、ヴィジュアル系、AGEHA)


●カワイイ


●キッチュ

 〜カスタマイズ、イミテーション、マンガとアニメ、ヤンキー、 

 〜自己批判とパロディー、



■初めに

前回、前々回の「砂漠芸術論」を終えて、再び「ヤンキー」という言葉で集約される「俗芸術」を論考する講義の4回目となります。


また、ちょっと長くなってしまいました。(すいまません!)


今回を、日本の俗芸術論考のいちおうの結論とします。


前回まで日本史・日本の美術としての「俗芸術」を考察してきましたが、今回は「ユース・カルチャー」(若者文化)と「ストリート

・カルチャー」(道ばたから始まる文化—巷、場末、あるいは都市の片隅で成立した文化)を基軸として「ユース・カルチャー」を論考します。


それぞれの「ユース・カルチャー」と切り離せないイメージ、すなわちヘアスタイルやファッションなどの身体における美意識や、音楽との関連性。さらに「タギング」や「グラフィティー」など、それらの「ユース・カルチャー」によって作り出しされたアート作品について論考を行います。


さらに、「カワイイ」という言葉に集約されて語られる、最近の日本のユースカルチャー、すなわちJKや、アイドルや、デコるなどを、前回まで論考してきた「ヤンキー的俗文化」の延長線上にある「ポスト・ヤンキー」カルチャーとどう接続されるものなのかを論考します。


最終的にはこれらの論考をとおして浮上してくる「キッチュ」という美意識、あるいは概念について考察を行います。


これまで続けてきた「俗の芸術」の論考に一応の結論を結びます。


※最初にお断りしておくと、今回のページのテキストでグレイの文字の部分はウイキペディアを参照して、リライトしています。ご了承ください。


0 はじめに ユースカルチャーと20世紀


20世紀はアメリカの時代だ。大量生産と大量消費。アメリカ的産業で生産アメリカ的商品が世界中に溢れ、資本主義の名のもとにアメリカ的な消費が推し進められた。


ディズニーランドとハリウッドの映画、ロックンロールを中心とするイギリスとアメリカの音楽、コカコーラとマクドナルド、自動車、そして兵器と戦争。様々なアメリカ的資本主義のプロダクトとコンテンツが世界中に溢れ、消費された。


モノだけではない。アメリカ中心の20世紀とは、資本主義的と民主主義的な文化と消費する思想、さらにアメリカの社会的風潮(風俗)が、世界中に流布していった時代であった。


日本もそうだが、そのようなアメリカ的な文化が、それぞれの国で地場的な事情と思想と結びついて、それぞれの特徴的な美意識や美学を成立させた。


自由志向、政治運動、人権や性の解放運動、アート&デザイン、あるいはドラッグといったものが、20世紀、とりわけ第二次世界大戦以降の20世紀後半を通して、おもに資本主義国、アメリカ経済圏、あるいは先進国を席巻した。


そんな20世紀とは、様々な若者文化—ユース・カルチャーが世界中で成立した時代であったが、それらも多分にアメリカ的なものであった。あるいは、対アメリカ的な、カウンター・カルチャーが、数多く成立した。

1 ユースカルチャー


20世紀はユースカルチャーの時代であった。


正確には20世紀中盤の大戦後の資本主義社会において様々なユースカルチャーが成立した。


アメリカ合衆国では、若者文化は、ティーンエイジ(teenage)という概念が成立した1950年代以降に成立したとされる。


日本も1950年代以後に若者文化が成立したと考えられる。


焼け跡世代の若者文化を示す語には「太陽族」があるが、1980年代前半までは、「カミナリ族」「みゆき族」「アンノン族」というように、行動様式を共有する青年を「○○族」というように民族(異文化)に例えた。


あえて他民族の「族」で括るというのは、既存文化に相容れない価値観が発生した事を、差別化して捉えていると思われる。


50年代以降に若者文化が定着した背景としては、通信や交通網の発達が挙げられる。


それまでは、この年齢層の青年が離れた地域に旅行することは経済的にも非常に困難であったし、また他の地域の青年がどのような生活を送っているかを知ることもまた困難であったため、同時多発的に広域で流行が進行することも無かった。


しかし、道路交通網や新幹線などの長距離移動手段が成立し、若者向けの雑誌や、若者を対象にしたテレビ・ラジオ番組が増え始めると、それらを利用して他地域の青年同士が強く影響を与え合い、独自の文化を形成することが可能になったと考えられる。


>資本主義により経済発展と流通と情報通信により成立した文化。それはそれ以前の文化とは確実に異なる。メディアが一端を担う文化である。



日本では、1970年辺りまでは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、新宿だった。しかし、1973年に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていく。


1980年代になると女子大生がもてはやされた。深夜には女子大生を集めたテレビ番組が毎夜放送されていた。蓮舫さんも出ていた。


これが時代が下がるにつれ女子高生、女子中学生に焦点があてられていった。


情報発信側が、活発で感受性の強い彼女らの動向から時代の方向を見出そうとする活動もみられた。


1990年代後半になると、インターネットにより、消費者から直接的に情報を収集するなどという活動も見られる。



>日本の族的なユースカルチャーを一覧としてあげてみる。

文化モボ・モガ(大正末期-昭和初期頃のムーブメント)、アイビー、ヒッピー、フラワーチルドレン、

モッズ、ロック、パンク・ファッション、ロッカーズ、ヴィジュアル系、ヒップホップ、(ヒップホップ系ファッション)、ヤンキー(+暴走族)竹の子族、渋谷系、ギャル、可愛い、など



いくつか代表的なユースカルチャーを紹介する。


1-A ロック 音楽とユースカルチャー


音楽ジャンルとしてのロック、もしくはロック・ミュージックとは、1950年代にアメリカ合衆国の黒人音楽であるロックンロールやブルース、カントリーミュージックを起源とする。


1960年代以降、特にイギリスやアメリカ合衆国で、ロックの音楽は幅広く多様な様式へと展開した。



>ロックは 黒人+白人の音楽である。クラシックと言われる西洋音楽の旋律やコードに、アフリカの音楽のビートや構成が融合して成立した音楽である。


アフリカから連れてこられた黒人奴隷—のちのアフリカ系アメリカ人と呼ばれる人たちが、本来は異教であったキリスト教の信者になって、ゴスペルなど独特の音楽を作り出す。


バンジョーやギターやドラムなどといった欧州からアメリカにもたらされた白人の楽器で黒人のアフリカ的音楽がアレンジされて演奏される。


そのような歴史がブルースやフォーク、さらにJAZZを成立させた。


誤解を怖れずにいうならロックとはJAZZの一端として成立したアメリカ独自の音楽である。



1950年代から1960年代初頭のラブ・ソング主体のポップスやロックンロールが主流であった。脳天気なダンス音楽である。


やがて「ロック」の歌詞は、70年代に入る直前から、セックス、体制に対する反乱、政治・社会的問題、芸術、哲学など、幅広いテーマを扱うようになる。



その種類は数え切れないくらい多用である。


ロックンロール、ロカビリー、スキッフル (1954年 - 1962年)、ビートグループ、サイケ(カウンター・カルチャー、ヒッピー、フラワー)、ブルース、フォーク(1963年 - 1969年)、ブルーズ・ロック、グラム・ロック、ハード・ロック、プログレ (1969年 - 1974年)、パンク、ニュー・ウェイブ、ヘヴィ・メタル、産業ロック(1975年 - 1985年)、グランジ、オルタナティブ・ロック、インディー、ミクスチャー(1986年 - 2000年)。


その他にもカントリーや、フォークなど様々な系統と関連性をもつ独自な種類がある。









>それぞれに個別な思想や美学(ファッションやライフスタイル)がある。



・モッズ



モッズ (Mod、Mods、Modernism or sometimes Modism) は、イギリスの若い労働者の間で1950年代後半から1960年代中頃にかけて流行した音楽やファッション、それらをベースとしたライフスタイル、およびその支持者を指す。ロンドン近辺で発祥した。


モッズファッションとしてよく連想されるものとして、髪を下ろしたMod Cut、細身の三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー、多数のミラーとヘッドライトで装飾されたスクーターなどがある。


1951年にアメリカ軍に採用されたミリタリーパーカー(M-51)は、モッズの人々に愛用され、「モッズコート」(「モッズパーカ」とも呼ぶ)として知られている。


> 刑事ドラマの衣装として使われたため、日本では若いサラリーマンが着るコートとなっていて 草


モッズが好んで聴いた音楽はアメリカのレアな黒人音楽、R&Bやソウル・ミュージック、ジャマイカのスカ。


イギリスのグループとしてはザ・フー(但し、実際にはザ・フーはエセ・モッズであったとされる…)、スモール・フェイセス、キンクス(ただしレイ・デイヴィスはモッズを嫌っていたという説がある)。ビートルズは、デビュー前は正反対のロッカーズファッションをしていたがマネージャーの指示によりモッズファッションでデビューした。


>デビュー当時のビートルズ 細目のネクタイ、タイトなスーツ…


>ケン・ラッセルの映画「トミー」は音楽をフーが担当。でも、ここではエルトン・ジョンが唄う「ピンボールの魔術師」を紹介。











・ロッカーズ 


ロッカーズ (Rockers) は、1950年代後半にイギリスで誕生したバイカーズの呼称である。


ロックンロールに影響を受け、黒の革ジャンに革パンを履いて単気筒エンジン/二気筒エンジンのバイクに乗った若者の集まりをロッカーズと称した。


革ジャンの背中にはマシンのロゴを白のペイントで描き59club 、サーキットやマン島TTレース、ツーリング先のご当地ワッペンを付け、七宝のバッチや丸鋲などで革ジャンを装飾していた。


>のちのパンクファッションへと繋がるファッションの萌芽だ。


1960年代の一般的な着こなしとしてAVIAKIT、KETT、Pride and Clarke などの革ジャケットにイギリス製、または香港製のジーンズ、インナーはTシャツではなく、ワイドスプレッド カラーのシャツ、そしてニットのセーターをまとい、髪はポマードで撫で付けた。(日本での呼称はリーゼント)いわゆるバイクファッション。


>矢沢永吉によるバンド「キャロル」や、その後のヤンキー御用達のロックンロールが、このロッカーズの系譜である。


彼らはクリフ リチャード、シャドウズ、ビリー フューリー、マーティ ワイルドなどのブリティッシュロックンロールやジーン ビンセントやエディ コクランなどのロカビリーの音楽を好んだ。


>暴走族 ヘルズ・エンジェルス。このようなイギリスのロッカーズのスタイルは、日本の暴走族、アメリカのバイカー(ヘルスエンジェル)などに転化された。



ヘルス・エンジェル

60年代から続く日本のヤンキーカルチャーと

ロックンロール

・パンク


パンク·ロックを中心に発生したサブカルチャー。


音楽、イデオロギー、ファッション、アート、ダンス、文学、映画などの表現形態がある。その一部はさらに発展してパンクとは異なる独自のサブカルチャーを形成するに至っている。パンクというサブカルチャーを体現する人々をパンクス (punks) と呼ぶ。本来は「不良、青二才、チンピラ、役立たず」などを意味する俗語。


パンクは1970年代中頃、アメリカ合衆国とイギリスで生まれた。具体的な発祥地ついては諸説ある。


初期のパンクは様々な影響から生まれたものとされる。

それゆえ、パンク・カルチャーは「安全ピンでまとめてとめた」ような「ブリコラージュ」だと言われた。


パンクは20世紀の様々な哲学的ムーブメント、政治的ムーブメント、芸術的ムーブメントがこのサブカルチャーに影響を与えた。


特にパンクはいくつかのモダンアートの系統に触発されている。



1970年代後半になると、パンクというサブカルチャーは2トーン、ニュー·ウェイヴ、ノー·ウェーブといった分派に分かれ、多様なものへと別れていった。


アメリカでは1980年代初めごろ、パンクに後から導入されてきた軽薄さやロックの形式を排除し、より過激なハードコア·パンクが生まれた。


同じころイギリスでも似たような動きがあり、こちらはストリートパンクと呼ばれた。


多くのパンク·ロックは1960年代のガレージロックや1970年代のパブロックを踏襲して歪みの激しいギターと騒々しいドラムの演奏が定番的である。


歌詞はパンク的価値とイデオロギーを表現しており、セックス·ピストルズの "No Future" のニヒリズム的な歌詞から、生真面目で反ドラッグ的メッセージを伝えるマイナー·スレットの "Straight Edge" まで、様々である。



パンクのイデオロギーは、個人の自由と反体制的視点に関係しているものが多い。


反権威主義、DIY主義、不服従、直接行動、反産業ロックなどが含まれる。


その他の傾向として、反人種差別、反ネオナチ、反ナショナル·フロント、戦争反対、ニヒリズム、アナキズム、社会主義支持、反軍国主義、反資本主義、反レーガン、反性差別、反民族主義、反ホモフォビア、環境保全主義支持などがあげられる。


>しかし、パンクであっても多くはロック愛好家のノンポリのパンクス(ファッション・パンクスという蔑称で呼ばれる連中)であった。


他に右翼的思想の者もいたし、絶望感が深まるにつれ、ネオナチ思想やキリスト教原理主義、リバタリアンのパンクスも目立ってきた。


パンク·ファッション


パンクスは、非常にわざとらしく衣服、髪型、化粧、入れ墨、宝石、身体改造などを使う。(後述する「キッチュ」的要素をもつ)


初期のパンク·ファッションでは、日用品を取り入れて美的効果を得ていた。例えば、破けた服を安全ピンで留めたり、テープを巻いたりする。


普通の服にはマーカーや塗料で装飾を加える。黒いゴミ袋をドレスやシャツやスカートに仕立てる。安全ピンや剃刀の刃を宝石代わりに身に付ける。また、一般にはボンデージやSMと見られるような皮革やゴムやビニール製の服を着用することも多い。




ニューヨーク·ドールズやデヴィッド·ボウイなどのグラムロックは、初期のパンク·ロックやプロトパンクやグラムパンクに大きな影響を与えたとされる。


パンクとヒップホップは1970年代後半のニューヨークでほぼ同時期に生まれており、両者は相互に何らかの影響を与えあった。


初期のヒップホップのMCは自分自身をパンク·ロッカーと呼んだ。パンク·ファッションはヒップホップの服装にも散見された。


マルコム·マクラーレンはイギリスにパンクとヒップホップの両方を紹介する役割を担った。ヒップホップはその後もパンクバンドやハードコアバンドに影響を与えた。












・ヒップホップ タギング、ブレイクダンス、ラップ、ヒップホップ系ファッション


ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で、アフロ・アメリカンやヒスパニック系の住民のコミュニティで行われていたブロックパーティから生まれた文化。ならびにこの文化から派生した音楽。


ヒップはかっこいい、とんでいる、ホップは跳躍するなどの意味がある。


主に80年代に、全世界(欧州圏、日本、南北アメリカ)で、広く普及した。


>B系といわれる日本のユーズカルチャーとも深い繋がりをもつ。


ヒップホップには三大要素があると言われた。DJ、ブレイクダンス、グラフィティがその構成要素である。(現在ではミュージシャンとしてのMCを加えた四大要素と言われている。)


オールドスクール・ヒップホップは、1970年代のニューヨークで、クール・ハークなどのブレイクビーツをプレイするDJの出現とともに始まった。オールドスクールの時代のDJやラッパーは、ディスコミュージック、ソウル、ファンクの音源を使用した。


ラップのライムの内容は、ほとんどがパーティや、地元ニューヨークに関する話題が中心だったが、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイブの「The Message」(1982)は例外で、そのメッセージ性は後のラップに大きな影響を与えた。


ラップ黄金時代というべきニュー・スクール (1988 – 1993)—ゴールデンエイジ・ヒップホップは、ニューヨークがシーンの中心で、Run D.M.C.の1986年のアルバム「レイジング・ヘル」の人気から始まり、1993年ごろまで続いた。


この時期、デフ・ジャム・レコーディングスが最初のヒップホップのインディ・レーベルとして登場した。


1989年にはデラ・ソウル、ビッグ・ダディ・ケイン、スリック・リックらの曲がソウル・チャートや黒人ラジオでヒットして、ラップはそのピークを迎えた。


デラ・ソウルらののラップは「ニュー・スクール」と名付けられた。またNWAのギャングスタ・ラップも、アルバム・チャートでビッグ・セールスを記録した。1993年以降は、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグらのGファンクが隆盛を誇る時代へと移っていった。


>だいたいみんな早死にした。その後もよく死ぬ。





Run-D.M.C.が、ハードロックバンドのエアロスミスとコラボレーションした曲「Walk This Way」は、ロックとヒップホップの融合の一例である。


この曲はビルボードのトップ5に入った最初のヒップホップの楽曲となった。









2 カウンターカルチャー


カウンターカルチャー(対抗文化)とは、サブカルチャー(下位文化)の一部であり、その価値観や行動規範が主流社会の文化(メインカルチャー/ハイカルチャー)とは大きく異なり、しばしば主流の文化的慣習に反する文化とされてきた。


しかし、カウンターカルチャーの価値はメインカルチャーに取って代わりうるポテンシャルを持つものも多い。(オルタナティブ・カルチャー)。


カウンターカルチャー運動は、ある時代の市井の人々の精神と願望を表現するが、カウンターカルチャーの力が大きくなると、劇的な文化の変化を引き起こす可能性がある。


ボヘミアン主義(1850-1910)、ビート・ジェネレーション(1950年代が中心)などフラグメント(断片的)、地域的なカウンターカルチャーと、1960年代の世界的カウンターカルチャー(1964-1974)がある。

 




2-A ヒッピー


ヒッピー(hippie)は、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場したカウンターカルチャーで、既成社会の伝統、制度など、それ以前の保守的な男性優位の価値観を否定するカウンターカルチャー(対抗文化)のムーブメントであった。


ヒッピーは、搾取的だった一部のキリスト教教派に批判的であり、インドなどの東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、左翼思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。


ベトナム反戦運動や、公民権運動、カウンター・カルチャーとしてのロック、野外フェス、性解放、フリーセックス、大麻等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちのヴィーガニズムへとつながる有機野菜の促進などを主張した。


>ベジ、ジェンダー、ナチュラル系、ゆるかわ系、よくよく考えてみると、現代の日本の一般的な若者のライフスタイルやファッションにも数多くのヒッピー(フラワー・チルドレン)的な要素が散見できる。

OK Google! 

バブリーダンス 登美丘高校ダンス部

ジュリアナ東京 1993年

アムラーな人

先に書いたとおり、都内私立女子が始めた純ギャル文化では、私服OK、髪染めもOKだったが、あえて他高校の制服を手に入れ、詰めたり、短くしたり、着崩ししたものを、着ていた。

その流れが、制服校に飛び火した。

ガーリー系 一巡するようにナチュラルなものになり、これから姫系とか展開されていく。

水原希子さんによる再現

上記しているギャル系雑誌以前に、出版されていた伝説のミニコミ誌「sibuya news」この雑誌が、ここに書いたギャル文化の火付け役的役割を果たしたといっていい。

2005年当時の「バービースタイル」


プリント倶楽部 ナムコ「花鳥風月3」

『「盛り」の誕生 女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識 』久保 友香 () 2019


今回記載したギャルカルチャーの歴史については久保友香さんのこの本に寄るところが大きい。ヤンキーやポップカルチャー以前の、東京渋谷に集っていた90年代JK世界のハイカルチャーの文脈からギャル文化の歴史を綴る良書。


ボカロは歌い上げない、少女的な稚拙さや危うさがなければ、カワイイの楽曲ではないのだ。

ジェンダーや、男女の不平等や性差別を生むジェンダーバイアスがテーマとして取り上げられる現代ですが、なぜアカデミズムでドラッグ文化がきちんと取り上げられないのか?


ちなみにドラッグードレスを引きずるが語源です。

ギャグマンガはその存在事態がキッチュだ!

ラーメン屋や居酒屋の人が着るサムイ。


いつのまにか定番化してしまい、当然のような衣装となっているが、もともとはツボ焼く職人や、華人など、孤高の芸術家や、職人的イメージのコスプレでしかない。なんか信用できそうな店を演じているという、キッチュの例といえる。


ロザリオ(十字架)は買ったのか、こしらえたのか?

意味がわからないが、それがキッチュの面白さ!

怖い業界のおじさんにしか見えない。

おじさんは腰履きしないほうがいい!

ブリンブリンで盛る!

デコって盛る!

テクノロジーで盛る!

コスプレで盛る!

この国の人たちは入学式はフォーマルで、卒業式や成人式はハレの日として、派手な和服で日本人のコスプレをする。

鮎が美味しい季節がまもなくやってくる。

コスメ、自然食、ヘルシー系として、多くの広告で使われるこれらのイメージ。日本のドラッグストアはヒッピーカルチャーの坩堝。

2-B 日本のカウンターカルチャー


・フーテン

1960年代後半の日本版ヒッピーの呼び名。吹けば飛ぶような軽い質量のものを指す「瘋癲」が「フーテン」とカタカナとして当てられている。


当時の永島慎二の漫画「フーテン」は、社会からドロップアウトした広い層の人々をフーテンと扱っていた。おもに新宿にたむろしていた若者を指す言葉であるが、当時の大学紛争などで、ドロップアウトしてしまった学生崩れや、葛飾柴又のテキ屋である映画「フーテンの寅さん」にも掲げられていた。


・ヤンキー、暴走族、竹の子族 

これまで論考してきた内容ゆえ割愛


・アイビー、プレッピー、渋カジ、コンサバ、おねぃ系、浜トラ

いずれにせよ、ファッションとライフスタイルが結びつき、大学や、横浜・渋谷など地域(ストリート)を中心に成立した数々のユースカルチャーである。

ヤンキーっぽいものいろいろ

・ギャル 


ギャルという言葉は、1972年(昭和47年)にラングラーから「Gals」という女性用ジーンズが発売された時から広まった。


1978年には少女向けファッション情報誌『ギャルズ·ライフ (GAL'S LIFE)』が創刊された。(この雑誌は当初パンク·ロックやニュー·ウェイヴ、インディーズ系のミュージシャンが頻繁に登場する内容であったが、のちに「ギャル文化」を牽引する紙面へと変貌した。)


当初ギャル的ファッションは「渋谷系ギャル」と「原宿系ギャル」の2つに大別された。


1973年(昭和48年)に渋谷PARCOが開店し、新宿に代わって渋谷が若者の街として流行の最先端を担うようになるという変化に伴い、渋谷を中心とした若者文化が成立していく。


その後、渋谷系ファッションのギャルを「109系」などファッションビルの名称を使用して細分化する例が見られ、特に地方のギャルファッションを取り扱う商業施設をこのように呼称する場合も多い。


この他に商業施設の名称を使用したギャルファッションの細分化に「丸井·パルコ系」などと呼ばれるものもある。


1970年代は世界的にファッションの変革が強かった時代で、ファッションの幅や自由性が広がった期間ともいえる。


また『anan』『non-no』といった女性ファッション雑誌が相次いで創刊したのが、この時代であり、ニューファッションに身を包んだ女性が多く登場した。


当時のファッションの最先端は女子大生や若手OLなど現在より年齢層が高い女性たちを指していた。



1980年代後半のバブル絶頂期には、ボディコンと呼ばれる非常にタイトでボディラインを強調したワンピースあるいはレディーススーツに身を包んだ女性が登場するようになる。


ボディコンは1980年代前半のヨーロッパ(イタリア発祥)のファッションであったが、日本経済が潤沢な時期でもあったため、日本でも受け入れられていった。


この時期までは、このようなニューファッションを着こなす女子大生やOLといった若い世代の女性を、ギャルという言葉で呼んでいた。


1990年代に入っても、ギャルという言葉は使用され続けた。


中尊寺ゆつこが描いた漫画『スイートスポット』に登場する「オヤジギャル」は流行語大賞を獲得するまでの知名度を得た。


オヤジギャルとは主に当時の若いOLを風刺した題材でもあり1980年代の末期より流行していたジュリアナ族のように企業の就業時間の定時時刻である17時頃を迎えるとこぞってOLの制服からボディコンに着替え、夜な夜な街に繰り出してはディスコで踊ったりするが、従来の中高年男性(オヤジ)のような性格を髣髴させるような(当時の価値感からすれば)ルーズで、大和撫子的要素が欠損した女性を表すような言葉であった。


この現象はギャルそのものファッションとはあまり関連がなく、ギャルのイメージを「見た目は最先端ながらも言動に秩序やマナーなどがどこか欠落している」といった軽蔑的な印象を誇張していた。


その後に流行するギャルやコギャルも、オヤジギャルを引き合いに出して語られていた。


この頃の渋谷では、109やPARCOなどのショップテナントが次第に10代向けのものに変移していった。


渋谷は90年代以降からティーンズファッションの最先端地区としての地位を確立していくこととなる。


この頃から、ストリートファッションなど「カジュアル」というキーワードをもったファッションが注目される。


また、10代の女性の間では安室奈美恵の登場により、彼女の装いに特に影響された者が続出した。(アムラー)


10代の女性の多くが彼女のファッションである1970年代風のサーファーファッション、LAファッション、リゾートファッションなど回帰的なファッションを取り入れるような流行がおきた。


この時期には、それまでの日本人にはあまり馴染みがなかった茶髪に染めるような流行がおきた。


安室は「初代ギャルのカリスマ」とされた。


このファッションの流れを汲むのが狭義でのギャルの原点であるというのが定説となっている。


しかし! 一方で、このような定説化した通説とは、裏腹に、これらの東京のギャル文化—JKを中心とする10代の女性たちが成立させたカウンターカルチャーのムーブメントの始まりには、都内の名門私立系高校の都内在住の裕福な女子高生たちの独自のコネクションがあぅた。


1995年時期に成立していた渋谷に集う彼女たちクローズドのコミュニティーの中で、影響力をもつ数名の「イケてる」女性たちが作り上げたファッションが一般へ広がっていった。


独自のプリコラージュするファッションセンス!を、周りの女性たちが真似するようになり、やがて—雑誌などで取り上げられると、(都内近郊、千葉、埼玉、さらに国内随所へと)このムーブメントがひろがり、現在知られている、ギャルカルチャー、さらにギャル産業が成立した。


ギャルの間で、アメリカ西海岸のリゾート系と呼ぶべき、コンサバを基調としながら、「着崩し」をテイストとしてとりいれるファッションが90年代の終わり頃の渋谷を中心とした東京でブームとなる。


この「着崩し」の妙は、JKの制服の着こなしにも、広く用いられ、そのテイストは現在(2020年代)にも受け継がれている。


2000年代後半には、ギャルのカリスマが西野カナ加藤ミリヤなどの歌手や、益若つばさなどのギャル系ファッションモデルが支持される傾向に変化した。東京ガールズショー


また、渋谷系ファッションと原宿系ファッションを融合した新しい考えとファッションとして「渋原系」という言葉も生まれ定着した。


渋谷系ギャルの衰退と入れ替わる形で、原宿系ギャルが台頭していった結果、きゃりーぱみゅぱみゅ藤田ニコルが原宿系ギャルのカリスマ、アイコンとなった。


それまでの原宿系も『KERA』や『Zipper』などの青文字系雑誌に代表される個性的なファッションを示していたが、原宿系ファッションを好む女性の多くはガーリー系などの比較的ナチュラルなもの(ヒッピー系)であった。


2009年頃より、原宿系が渋谷系ファッションを取り入れるようになった。


その影響により、それまで渋谷系ギャルを中心に構成していたファッション雑誌『Popteen』が、原宿系ギャルを中心にした構成になるなど、明らかにムーブメントに変化が起きた。


・ギャルファッションの多様性と分類


コギャル、ヤマンバ、マンバ、ビビンバ、白ギャル、お姉ギャル(オネギャル)、スポギャル、アルバカ、キグルミン、ロマンバ、サーフ系、サイケギャル(ヒッピーギャル)、age嬢(あげじょう)、姫ロリ、2010年代 - パギャル、ヤンギャル、ギャルママ、渋ギャル、etc… 


<これらギャルと呼ばれたカルチャーのカテゴリーで注目して欲しいのは、容姿、形状的な特徴を騰げてカテゴライズされているものばかりだということである。


つまり、ヤンキーや暴走族の人が「俺たちヤンキーとか暴走族とか」名乗ることはなく、むしろそう言われたなら怒るのと同じく、江戸時代の「かぶき者」などと同様に、第三者による蔑称として命名されたようなものがほとんどであるといえる。あるいはその様なものを追随する人が自虐的にそのカテゴリーを受け入れ、ある種の自己弁護として使われたと捉えるべきであろう。


<カウンターカルチャーでありながら、ギャル的カルチャーとは消費の文化である。以下に挙げるギャルカルチャーに関連するアイテムの多くが商品や製品(またはブランド名)であるということを確認しておきたい。


別ないい方をすると、渋谷に集まる都内の「イケてる」都立と私学の女子たちの「閉じた」コミュニティーから始まったギャル文化は当初は「カウンター的カルチャー」の特性を強くもっていた。しかし、メディアに取り上げられ、開いたコミュニティーとなって、地方へと拡がり、経済や、商品や、モードに結びついていった。いつしか、カウンター的文化から、消費文化へと、変調していったというべきかもしれない。


・ギャル・カルチャーの歴代アイテムをいくつかあげておく

ALBA ROSA、アムラー、ルーズソックス、ロングブーツ、厚底ブーツ、パレオドレス、LOVE BOATLDS(Love Drug Store[33])LB-03、LOVE GIRL MARKETなどを展開)、CECIL McBEE(セクシーカジュアル)、アイプチ(二重まぶたにするための糊)、目力(めぢから)、日焼けサロン(ガングロ)、アニマル柄、キャミソール+ブラストラップ(1998年)、メッシュ(1999年)、パラパラ、トラパラ、美白ブーム(2000~)、ミニ浴衣、アユラー(浜崎あゆみ)、ミュールサンダル(ヘップバーンサンダル)、メイベリン(マスカラ)、ストレッチファイバー メザイク(二重まぶた矯正)、エクステ、チューブトップ、ヌーブラ、「盛る」(2002.3年)→「映え」、ネイルアート、デコ電、エロカワ-倖田來未(2005年~)、ニーハイ丈、デカ目、age嬢、カラーコンタクトレンズ、ムートンブーツ(2007年~)、カラータイツ(2008年)、カリスマ店員、マルキュー(109)、韓国東大門市場、ココルル、エゴイスト、読者モデル、プリクラ(プリント倶楽部、1995年)、井部サー(イベント・サークル)、ストリート系、校則、制服、着崩し、イベサー、リゾート・ファッション、


※ポストヤンキー

オタクも、ギャルも基本は古式ゆかしい日本のヤンキーという件は前回までの講義で論証したので省略。



・まとめ カウンターカルチャーが作り出した美意識と表象


カウンターカルチャーとして、「ヒッピー」と、日本の「ギャル」を紹介した。これらは、


ユースカルチャーのひとつであり、思想や、社会システムへの反抗、あるいは趣向性にもとずいた美意識やファッションと深く結びつきをもっている。


一方で、当講義で取り扱う「俗芸術」という観点で読み解くと、ヒッピーには「自由主義」とは別に「サイケデリック」や「平和主義」—ラブ&ピースといった美意識があり、ギャルの文化も、同様にいくつもの美意識が見えてくる。


さらに、これらのカウンターカルチャー(およびユースカルチャー)によって培養された美意識とそのテイストがその後社会全体で認知され、流用し、共有されているものが、数多く散見される。


「ユルカワ」や、「ナチュラル系」などというのも、その代表的な美意識であろう。


一方で、ギャル文化にだけ関連性があるとはいえないが、日本的な価値感(美学)として、20世紀の最後から現代に至る時代に定着した美意識「カワイイ」とギャル文化は深く結びついている。


これまでの講義で紹介したとおり、江戸期の「イキ」は、味覚における「ウマミ」と同じように、他の国の言葉で表わせられない概念である。


「カワイイ」も、「イキ」と同様に、日本独特の美意識として、世界的に流用するものとなっている。


次の章では、「イキ」の美意識の系譜として、新たに読み直されて、現代に横たわる「カワイイ」について述べる。

3 カワイイ—カウンター的ギャル(若者)文化と日本のメイン・カルチャー


21世紀現代の日本語「かわいい(可愛い)」は他言語圏へ輸出されている。


日本のポップカルチャー研究家·櫻井孝昌によれば、2009年(平成21年)時点で「カワイイ」は「21世紀に入って世界に最も広まった日本語」である。


「かわいい」は解説不要なほどに、世界で周知されている。と櫻井は分析している。


海外では、辞書に載っている現代日本語「かわいい(可愛い)」のままではなく、それを含むかなり広い範囲の意味をもつ包括的概念として捉えられている。


実際、日本国外での用法を日本語話者向けに解説する場合には、日本語の用法と日本語以外での用法を明確に区別する目的をもって、日本語以外で借用語として用いられるものを「カワイイ」と片仮名表記する例が多い。


「カワイイ」を象徴するキャラクターの代表格としてはハローキティがある。


他方、日本国外製のもの──日本や東京のテイストを含まないものには、カワイイの形容詞は使われない。


漫画アニメなどの日本文化が輸出された際に、現地の読者·視聴者がそれらに登場する可愛いキャラクターに対してもこの語が用いられる。


スヌーピーのようなキャラクターに「カワイイ」は用いられない。


つまり、日本語由来借用語の「カワイイ」は、「日本」や「東京」を文化的背景とするものに対する評価が含まれていると、櫻井は言う。


一方で、日本語由来借用語の「カワイイ」は、10代から20代の若い女性の間で、現代日本的で小さくて愛らしいという意味で用いるのが主な用法であるといってよいだろうか。


※「カワイイ」は「イキ」と同じく、欧米の諸言語では、現代日本語の概念や、形容するものを、正しく対訳できる語が存在しない。



・まとめ「カワイイ」と「イキ」日本の美意識に通底するもの


日本人比較文学者 四方田犬彦が2006年(平成18年)に著した『「かわいい」論』など多くのカワイイ論がある。


これらの著作で、「カワイイ」は日本発の感性価値としたうえで、未成熟なものを不完全なものとみなす従来のヨーロッパの価値観に対して、それらを「カワイイ」ものとして、肯定的に評価する日本的な美意識が見いだせるとされる。


とある。


すなわち、「幼稚さ」や「未完成」、「不完全さ」、「フラジャイル」なものをよしとする美的感性によって、「カワイイ」は発動される、もっとも日本的で、他では類をみない美意識である。


 「カワイイ」は、江戸の「イキ」や「武士道」などと同じく、独特な日本的な感性によって導き出され、日本の社会、とりわけ(ギャルー若い女性たちの文化によって常に新しく更新され続けた美意識である。


— 



誤解がないように、付け加えておくと、


この「カワイイ」という文化は、消費社会におけるニーズと自由競争の中で、彼女たちの消費に、コミットするように、よりそい、新しい価値感を提供し続け、アート&デザイン、さらに産業構造と情報と商品の流通までを広く含んだ文化と呼ぶべきものとなっている。



19世紀以前の欧州の宮廷文化と芸術、あるいは江戸まで続く日本の「雅」の貴族文化は、サロン文化、もしくはパトロンやスポンサー的な貴族階級の庇護によって成立した受注芸術であった。


モーツアルトもバッハも、ダヴィンチも、狩野派も、若冲も、少なからず貴族階級の受註により成立した芸術である。


美術・芸術とは、そのようなものの芸術的価値を論じる学問であるが、20世紀以降になって文化の位相が、市井の者たち—俗の側に置き換えられ、その受容が拡大したことによって、我々の芸術表現、あるいはイメージのありようが大きく変わった。


一方で、21世紀に生きる我々、21世紀のアート&デザインを思考する者たちにとって、ごくあたりまえに、身の回りにあるものをどのように歴史的な位置付けで捉えるかは、重大な問題であろう。



古語としての「カワイイ」は「美しい」よりも古く重要な日本的な美学・美意識である。


「かわいい」といかなる起源をもっているのか?


「カワイイ」の基はむろん「かわいい」「可愛い」であるが、その語源は文語の「かはゆし」である。


「かはゆし」は「かをはゆし」という「顔」と「映ゆし」ばえる?が結合した言葉である。


「かはゆし」は、「映ゆし」は「おもはゆし」とか、「目映ゆし」といった言葉の語尾にも使われている。


原型は「映ゆ」である。「映ゆ」は、現代で言う「映える」(ばえる(驚!)であって、ものごとがいっそう鮮やかに見えたり、反映しあって美しく見えたりする状態を示している。 


「かはゆし」、「映ゆし」とは、活力に満ちて、いっそう盛んになったものと解釈してもいい。


したがって「かほはゆし」とは直訳するならば、顔が以前にも増して明確に引き立ったり、興奮のあまりに赤く色づいてしまうことを示すことになる。



今日でいう「萌え」という単語も古語であるが、その意味では祖先返り的なものが起きているようでもあって、興味深い。



「かはゆし」が最初に文献に登場するのは、十二世紀に編纂された『今昔物語集』の第二五巻六話においてである。「コノ児(ルビ:ちご)二刀ヲ突キ立テ、矢ヲ射立テ殺サムハ、ナホカハユシ」という下りに「かはゆし」が用いられている。


もっともここでの意味は現代とは大きく異なっていて、『古語大辞典』(小学館、一九九三)によるならば、「痛ましくて見るに忍びない。気の毒だ。不憫だ」という意味であった。


 この辞書は、他にも「かほはゆし」の意味をあげている。


            参照:四方田犬彦『「かわいい」論』30ページ




「うつく・し」とは「愛し」と「美し」という2つの概念であった。


枕草子「うつくしきもの。瓜(うり)にかきたるちごの顔」

[] かわいいもの。瓜に描いたこどもの顔。


この『枕草子』に書かれた例の通り、日本では「うつくしい」とは「かわいい」を表し、意味していた。


あるいは「愛し」−愛らしいの意味合いがあった。英語ではキュートやラブリーと同義語として「美しい」が使われていた。



輸入された概念としての「美しい」と、日本独自の「愛らしい」でもある「うつくしい」


「美しい」とは「姿・形・色・音などが、整っていて鮮やかで快く感じられるようなさま」である。風景や状況などに使われる。あるいは我々が創造する造形物に用いられる概念である。


明るく知的な美を「をかし」と呼び、しみじみとした、渋みを感じる情緒あるものを「もののあわれ」と呼んでいたように、様々な美的感性で、様々な「美」を尊んできた。「風流」もまたそのひとつであった。


そのような日本において、「大きなもの、力強いもの」よりも、「小さく、愛らしいもの」や「縮こまったもの」に対して「美」を感じてきたきらいがある。


そのような日本独特の「美意識」は、「盆栽」や、「箱庭」「弁当」(−キャラ弁!)などといった、「縮小された世界観」と「像造」を、文化の根底に抱えた。昭和の時代であれば「ウオークマン」や「トランジスター・ラジオ」などに代表されるソニーやパナソニックなどの電化製品、あるいは小型で高性能といわれた「日本車」なども、そのような美意識や創造性と無関係ではない。


「侘び」や「寂び」だけでなく、「可愛い」もまた、古くから、日本にねずいた美意識であり、「美しい」という言葉以上に、尊く、重要な価値感とされてきたのだ。


「美しい」が日本語としていつ頃から使われていたかは定かではないが、先の『枕草子』の例に見るとおり、本来は「愛らしい」や「カワイイ」と同じ意味をもっていて、現代の様に明確に「カワイイ」と「美しい」は使いわけられていなくて、むしろ、ずっと密接な概念であったのだ。



補足までに付け加えておくと…… 

我々が使う「美術」とは、明治期初期ににドイツ語の「クンスト」に対応するために作られた造語であって、それまで使われていなかった。「美しい」も今のような概念で使われていた言葉ではなかったのだ。



話を「カワイイ」に戻す。


先に書いたとおり、「小さく、愛らしいもの」や「縮こまったもの」さらに、「子供っぽいもの」や。「寸足らず」であったり、「未熟なもの」といった、それまでの西洋的な価値感では、批判される対象であって、認めるべきではないものや概念に対して、日本では「美」のひとつとして、古くから尊ばれてきた。


これこそ、日本独自の美意識であり、カワイイとはこれに準じた概念なのだ。



*「不思議のアリス」のイラストやディズニーのアニメを思い返してみて欲しい。現代で言うメイドみたいな、あの服は、服を汚す子供に着ける前掛けのようなものであり、青色のドレスも、(アレンジはされているが)大人の服と変わらないものを着せられている。


それは日本やアジアのように「子供とは大人とは違う尊いもの」という捉え方ではなく、「小さな、未熟な、大人」として扱われる対象であるからだ。


(この件は、ロリータや、少女−ギャルへの偏愛みたいなイメージの元兇でもあるのだが、ここでは触れない。)



そのような西洋的価値感の真逆にあるのが、もともとの「カワイイ」であった。


それは「小さい」や「フラジャイル」なものだけでなく、さらに「ウソっぽかったり」「いい加減」なものにさえ及ぶ美意識として扱われているのだ。







今回の講義では、最後に「キッチュ」を取り上げる。


「いい加減」や、「曲がりもの」、「嘘っぽさ」それらは、「カワイイ」だけでなく、20世紀に成立したほぼすべてのカウンターカルチャーやユースカルチャーにおける重要な要素のひとつである。




4 キッチュ 俗文化のメインターム あるいは接続と借り物とプリコラージュ



キッチュとは、「俗悪なもの」「いんちきなもの」「安っぽいもの」「お涙頂戴式の通俗的なもの」などを意味するドイツ語で、文化批評用語として用いられる。英語でも同じ綴りで浸透している。


1860年代のドイツで使われ始めた。方言であったkitschen (塗りたくる、かき集める、なでつける、ツルツルする)という動詞が形容詞化したものである。


美術とデザインの世界では、1960年代のポップ・アートのころからよく使われるようになる。


日本では1970年代ごろから一般的に使用されるようになり、従来の価値観の変化とともに、大衆芸術や大衆芸能が見直される機運や美と醜の二分法では分析できないほど複雑化した大衆文化の美的現象を包括的に説明する言葉として、独特の価値基準をもたらせるようになった。


当初はブルジョワの間での大衆文化の成立に伴って「通俗的」という意味で用いられた。


感傷的で通俗的な小説を中心とした文化について言われ、20世紀になると、ハリウッド映画や通俗小説が「キッチュ」とされた。


またクラシック音楽でも、「美しく青きドナウ」など、中産階級的な好みにあうものが「キッチュ」である。


しかしヴァルター・ベンヤミンヘルマン・ブロッホなど、キッチュに肯定的な意味あいを持たせて論考する者も現れた。


日本では1970年代前半に漫画評論家の石子順造が、風呂屋のペンキ絵のような俗悪なものを評価した。


>ようは、ひとつの概念、ひとつの美意識として、否定されるモノではないと捉えるべきという論考が進んだ。


>そして、これまでの美意識や美学ではない立場で、キッチュ的というものを、様々な表象に求める研究、さらにマンガやアニメなどを語る上で、重要な切り口として論考されるようになった。


キッチュは、芸術作品や、複製技術の発達した近代・現代の、大量生産された工芸品などに見いだせることがある(いわゆる芸術作品に対してのみ使われる言葉ではないことに注意)。


>考えてみて欲しい、なにかしらを写し取る美術、さらになにかしらのスタイルを摸倣するか、変容させることで美術は成立する。すなわち、その行為・技法において、美術、とくにマンガやファッショや大量生産されるもの、メディアに関連するアートとデザインは、常にキッチュ的か、キッチュ的要素を多分にもつ宿命にあるのだ。


キッチュの定義として「陳腐である」という表現もされるが、この点については注意する必要がある。


単に陳腐なだけでは、それをあえてキッチュと呼ぶ必然性はない。

むしろあまりにも陳腐であるがゆえに、周囲の注目を集め、独特の存在感を呈するもののみがキッチュたりうるのである。


>たとえばドラッグクイーンや、漫才などの大衆芸能、ギャグマンガがその例であろう。


キッチュとは、「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」によって発生する美意識なのだ。


もしくは、「見る者」にとって異文化に属するものであるか、時代を隔てたりしていて、ナンセンスであったり、役不足であると思わせる必要がある。


>江戸の庶民の俗芸術で成立した「うがち」や「見立て」は、300年も前から「キッチュ」的要素をもつものであった。


「見る者」の日常性に近すぎると、新鮮味のない、陳腐な存在でしかなく、そもそも注意を引くこともない。


キッチュの観点から言えば、「普通」であることは、キッチュとしての美的価値が不足していることを意味する。


また、キッチュは、時間的な隔たりという点では、レトロ、懐古趣味と関連していることがある。


>江戸の「かぶき者」や「歌舞伎」、あるいは昭和の「ヤンキー」や「ギャル文化におけるガングロ」、なぜか渋谷で「西海岸リゾート系」などが定着してしまうのも、キッチュ的な感性といえよう。


また、キッチュは、世界各地の伝統的・近代的な民芸品、人形、仮面、像、図像、幼児の玩具などにも見られる。


たとえば、マトリョーシカ、祭りの出店で売られるセルロイドのお面、庭に置かれるノーム(こびと)の人形、多神教の図像などがそれに該当する。


赤、緑、青、黄、ピンク、金、銀などのどぎつい色が特徴となる場合もある。


>「ヒッピー」のナチュラル思考が、中世の摸倣であったり、その思想に含まれる「インド的な思想」あるいは「ヨガ」なんてのも、実は事故的にとりいれられたアメリカにおける「キッチュ」であり、それが「エアロビクス」などへと展開されてしまったと捉えることも可能であろう。


あるいは前回紹介したヤンキーやアメリカの「ギャングスタ」や「ヒップホップ・カルチャー」と深く関連性をもつ「ブリン・ブリン」なんてのもこの例になるであろう。












●カスタマイズ、イミテーション


ヤンキー的なモノ、あるいは俗芸術とは、庶民の間で流通する美意識であり、そのテイストと支持層によってカテゴリーされる。


しかし、それだけではなく、その必修アイテムとされるものや事象が、どのようにして成立しているかが問われるべきだと思う。


すなわち、規制の流通品に手を加え、本来のデザインや美意識から、ずらしていくような、カスタマイズすることで作り出されるものが、ここでは重要と捉えるべきではないか。


かぶき者がもつ不要の長物と化した長すぎる刀や、歌舞伎の隈取りなどで表現される荒事がそれである。


明治のバンカラが被ったわざと壊してボロボロにしたか、それをよしとするグランジの学帽—番長の帽子、怒髪天の髪形


さらに昭和のヤンキーがもつ潰してなにも入らないカバンや、腰履きのズボンや、グランジのファッション。


そしてレコードを繋ぎスクラッチするヒップホップのスタイルなどがこれに相当する。


 —


あるいはかぶき者がぶら下げていたロザリオや、あえてイミテーションであることを強く主張するように巨大化したブリンブリンのアクセサリーなどの「ばった物」感をあえて主張するアイテムを用いるファッションなど、イミテーションであったり、プラスチックやセルロイドの安っぽい素材を強く主張するデザインなどに見られるダメダメ感や安っぽさをあえて前面においた「キッチュ的」な美意識も、俗芸術—ヤンキー的な美意識において重要な要素である。


「デコる」というギャル的なもの。さらに「盛り」なんてのも同様であろう。


これらは江戸期の「うがち」や「見立て」なんかと同じく、先の時代で、「カワイイ」を成立させる手法として語られるのかもしれない。




●ヤンキー的自己批判と自虐的パロディー 「やってられない」を「やる」


「キッチュ」という美意識が結びつくことで、俗芸術、あるいはヤンキー的な日本の芸術の総体が明らかになったと思われる。


日本的というのは、借り物を集め、摸倣し、カスタマイズすることで成立する芸術なのだ。


インド、中国から伝来した仏教が、日本的にアレンジされたり、日本古来の原始宗教(アニミズム)と結びついて成立した特殊な仏教芸術や、「風流」の芸術より受け継がれた、武家の文化をキッチュ的に摸倣したもの。


さらにアバンギャルド的であろうとした「かぶき者」もそうだが、さらにそれを摸した「歌舞伎」や、ギャルを描く浮世絵の美人画しかり、すべては摸倣における「ずらし」や、未熟さや、不確かさを尊ぶような芸術である。


それこそが日本の俗芸術に通底するもののひとつであるといってよい。


日本的な「俗悪のキッチュ」、「稚拙のキッチュ」とよべるような芸術的構造が、こららの事例から伺える。


例えば、アニメやマンガにおける「アホ毛」なんかも、そのような未熟さや、完全さを、よいものとする、代表的なものである。「美は細部に宿る」というが、このような表現にも、「稚拙のキッチュ」を読み取れる。



一方で摸倣とは、演技である。


「やったふり」であり「コスプレ」の「プレ」に値する「ごっこ」的な遊戯的精神によって成立する行為であり美意識なのだ。


そこには精神的な「キッチュ」が存在する。


ヤンキーやギャルが、自らが笑いの対象にするように、それが「おかしい」ものであるということを知りながら、自らそのものを演じる。


そのような「ゆるい」—遊びの精神が、日本的なユースカルチャーや、俗の芸術を成立させるのである。


 現代の日本には「卒業」という言葉が強く機能している。アイドルの卒業、卒乳、仕事の卒業など、ともかく生まれ変わり、過去をなかったものとするか、リスタートして過去を終わらせるような、特殊な社会的約束が常に機能している。


先に「カワイイ」が未熟さをよいものとして、「不完全であることを肯定的に了承する美意識」だと書いたが、日本のユースカルチャーや俗芸術が成立する構造には、そのような卒業するまでの間に限りモラトリアム的な子供の美意識を肯定する。


これはけっして悪いことではなく、この国と他の国々の社会や文化との違いである。


そのような「子供的な稚拙さ」や、「初モノ」「若者」を肯定する文化が、「カワイイ」や「イキ」を初めとする、この国独特の文化や芸術を成立させてきた。





5 まとめ というか、あとがき

表現として捉えた芸術—ミゼオロジーではなく、文化表象(風俗における現象としての美学)で語るデザインとアート


元来の「風俗」は、一般市民の日常生活の特色や世相などを表す言葉である。


土地ごとに存在する社会生活上のならわしやしきたりを「風俗習慣」と呼んだ。行為伝承のひとつであり、地理、歴史、その地域の産業の違いによって形成された「風俗」が、人々の行動や思考パターンに影響を与える。「風俗」は、学術的には歴史学、民俗学の研究対象とされてきた。


古くからの生活上の習わしやしきたりが失われていく中で、「風俗」という言葉は、性風俗に関しては、当初、業界内とその周囲だけで通用していたのが、いつしかマスコミでもその意味で用いられるようになって、社会的にも広く性的な行為、およびセックス産業を指す言葉として認知されている。それゆえ、単に「風俗」というと「性風俗」を意味することが多い。


「風俗嬢」という言葉さえ生まれている。


そうであったとしても、「風俗」とは、本来、より広義的で、日常生活の特徴や特性を指す言葉として重要である。


「風習」とは、「文化」という概念に比べ、より狭い地域での特徴を指す。


風習がより多くの人々に受け入れられて、様々な地域に通用する存在になると、それが「文化」と呼ぶべき対象である。


ゆえに「風俗」とは「文化」以前の地域性をたもつもの。あるいは「小さな文化」と捉えるべきモノであろう。


小さな文化である「風俗」は「校風」などと同じく、それはいつしか「地域性」や「状況」によって熟成されていく。


一般的に美術やデザインを紐解く美学では、その目的や、趣旨を問い、作家や制作者の意図を読み解くことを当然とする「ミュゼオロジー」的見解を尊ぶ性質をもつ。すなわち、国や時代性や、制作者やその所属する流派で分類して「作品」を捉え、論考するのであうる。


しかし、その論考には、限界があるのも事実であろう。


文化として現れる現象学的な表象は、こミュゼオロジー的見解の外に存在する。


ここで扱ってきた「俗の芸術」とは、まさしく作者がいないか、デザインされたのではなく、デザインさせられたというような「風俗的現象の芸術」なのだ。


当講義「俗芸術」とは、美学よりも現象学や、文化人類学的な視座で、論考を怒なってきた。


それゆえ、わかりにくかったり、多面的すぎる側面はゆがめないのだが、


なにより、美学の論考からどれだけ離れたところからアートとデザインを俯瞰するかが、重要である。


それゆえ、これまでの論考—「日本の俗芸術の歴史的考察」と今回の「ユースカルチャーとキッチュ」では、作者や作品の概念なんかより、どのようにそのアートとデザインが受容され、流行(流通)したかを論考することが重要なであると考える。


前回の「砂漠論」が作者(アーチストやデザイナー)などより、それを作らせた「風土」に着目していたのと同様に、この「俗芸術論」は、小さな文化としての「風俗」が、作り出した芸術を論考し、さらにその視座から歴史を俯瞰してきた。



ところで、この講義「メディア・イメージ論」における「メディア」とは「メディア・アート」でも「媒体」などでなく、「霊性」や「共有的意識」を指すといっていいだろう。


個々の人々が作る作品ではなく、それを作り出してしまう風俗や文化や風土とは、実のところ「人類」や「同時代人」という、同じ境遇を生きた人々自体が、作者のようなものであって、その端的な自体として作品が結ばれたというような、ダーウィンの「進化論」にも等しい客観的視座からアートとデザインを論考する試みである。


そのような論考が、アーチストやデザイナーになろうとするみなさんの役にたつとよいのだが、それがわかるのは、ずっと先かもしれない。





    ・レポート提出と質問に関して(内容、〆切、提出先)


       今回配信分(6/08)の授業の、小レポートの提出をお願いします。

  140文字以上で感想、質問、ご意見を書いて下さい。これで出席とします。


  簡単な文章で構いません。

  提出期限は、当講義公開日から5日後(6/12)日曜日24時までとします。


  トップページになるとおりのルールで、必ず、あなたの学籍情報を提出ファイルの冒頭に書いてください。

  学籍番号+学科とコーズ名(メ芸か情デか)+学年+氏名+氏名のカタカナ表記+「授業が配信された日付」 


  「」は、—6/08 とか、そのデータが公開された日付です。

         記載例 90417003-情報-情デ-5-佐々木成明-ササキナルアキ-6/02






     次回講義は「俗芸術概論 — ピースサインを考察する」を6/15配信予定です。


  当講義のメインであった「俗芸術論」もこれで一応の終わりとなります。

  次週からは、ずっとライトに、文字数も少なく、簡単な講義にしていこうと思います。