性別違和の臨床において私が悩むこと 針間克己
こころの臨床現場からの発信ー“いま"をとらえ,精神療法の可能性を探る (精神療法 増刊第9号)
P145-149
こころの臨床現場からの発信(精神療法 増刊第9号) - 株式会社金剛出版 (kongoshuppan.co.jp)
はじめに
本誌の原稿の依頼にあたっては、「書きたいことをご自由に書いてください」との趣旨であった。私自身は、「これこれ、このようなテーマで、お書きください」という具体的指示に伴う原稿を書くことはなんとかできるのだが、「ご自由に」というのは、非常に苦手である。困った困った、と思ったが、せっかくの機会なので、普段は書くことが少ない臨床場面で日々悩んでいることを書くことにする。通常の具体的原稿依頼であれば、教科書的模範解答に近い原稿を書くように努めている。ただ実際の臨床場面では、教科書的模範解答では収まらないさまざまな難しい問題がある。周りに相談する仲間も乏しい開業医としては、一人で悩み続けて、答えが出ないままとなっている。悩みの多くがそうであるように、問題点が自分の中で明確に整理されていないので、文章化するにあたっても、あまり明晰に書けない恐れもある。ただ、そういう混沌とした思考の中にも、原石のように、今後の臨床において有用なヒントやテーマが隠されているのではないかと思う。思いつくままに原稿を書いていくので、読み苦しくなるかもしれないがご容赦いただきたい。
性別違和の臨床
本稿は、性別違和の臨床において筆者が悩んでいることを記す。筆者は性別違和(性同一性障害)の医学的関与が公に行われるようになった1997年頃より性別違和の臨床を開始し、今年で25年、性別違和の臨床に従事している。2008年からは、自分のクリニックを開設し、そこで主として性別違和を訴える患者の診療にあたっている。この間に医療環境、法制 度、社会的理解等はかなり変化した。変化に伴う悩みもあれば、ずっと続く悩みもある。以下、順次述べていきたい。
共感、受容と診断
最初に記したいのは、性別違和に限らず、精神科診療全般に言えることだと思うが、診療時における、患者の訴えに対する聞き手としての態度の問題である。患者が自分のつらいこと、悩みを訴えるとき、精神療法的態度としては、受容、共感といったものが当然、必要とされる。一方で診断にあたっては、客観的評価も必要とされる。たとえば「夜寝ようとすると、アパートの隣の住民がうるさい音を立てるので眠れない」と訴えた場合には、「眠れない」というつらさに共感しつつも、「それは実際の音ではなく、幻聴ではないか」と疑い、状況の詳細等を聞いていくという診断的な態度も必要である。この、共感・受容的態度と、診断的態度は、かならずしも相矛盾するものではなく、熟練した精神科医であれば、上手に両立しうるものであろう。
しかしながら、性別違和の臨床においては、この二つの態度の問題は、さらに難しいと感じる。というのも、性別違和を有する者は、対人関係や社会生活において、差別や偏見の対象になることが多い。またあからさまな差別や偏見でなくても「通りすがりにちらっとみられた」、「なんとなく避けられて、仲のいい友達がいない」といった、マイクロアグレッション(微小な攻撃)1)を受けることも多い。そういった性別違和を有するものにとって、精神科臨床における「受容・共感」はより一層の意味を持つ。「今まで誰に言ってもわかってもらえなかった」「ほかの精神科に行ったが、わからないといわれた」といった気持で、性別違和を訴える場合、それを受容し、共感することは、治療的意味がとても大きいと感じる。とはいうものの、やはりほかの精神医学的問題が隠れていないかの評価もまた大切である。「道を歩いていたら、すれ違った人が自分を見て笑うんです」と訴えた場合に、それは、典型的な男性像、女性像でないために、好奇の目で見られたのか。それとも被害関係妄想なのか。被害関係妄想であるならば、受容共感的態度だけでなく、薬物療法が有効であろう。しかしながら、妄想を疑い診察を掘り下げていくことは、「この先生も、私の言うことをまともに聞いてくれない。私を理解してくれる人はやはりいないのだ」と、患者にさらなるダメージを与えることになりかねない。さじ加減は、まことに難しい、といまだに思う。
中立的態度と身体治療適応の条件
精神療法においては、治療者は中立的態度が求められる。人生の様々な岐路においては、患者本人がその決定の主体者である。治療者は、何らかの助言をすることはあっても、ああしろ、こうしろと指示することはしない。このことは性別違和における臨床でも同様である。身体治療をするのかしないのか、男として生きるのか女として生きるのか、様々な選択肢の中で、決めるのは患者本人自身である。
しかしながら、性別違和の身体的治療にあたっては、その治療の適応があるかどうかを精神科医は判断しないといけない。この判断にあたっては、考慮すべきいくつかの条件がある。たとえば、望みの性別で可能な限り生活すること。これはたとえば、女性から男性へのホルモン療法や手術を希望する場合に、学校や職場で男性として生活し、適応できているかどうかを見るものである。実生活経験(real life experience)という。また必要に応じて、カムアウト、すなわち自分に性別違和があると周囲に話をするなどして、周囲の理解を得ることも条件である。
こういった、条件があることは、中立的態度と矛盾を生じる可能性がある。つまり、「職場で男性として働くか女性として働くかは、あなた自身が決めることです」という中立的態度をとりながら、「ホルモン療法をするにあたっては、職場で自分は性別違和があるとカムアウトし、男性として働く必要があります」という二つは、矛盾しうるということである。ホルモン療法や、手術療法を目指す場合には、精神科医は中立性を保ちにくく、
一定の方向に誘導しかねないのである。私自身は、身体治療を望む場合には、その条件を客観的に述べ、誘導しないように注意しているつもりではあるが、十分にできているかどうかは自信がない。どのようなスタンスで、精神療法に臨むかはやはり難しい。
性同一性障害者特例法の手術要件
最近、社会的に議論となっているのは、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下『特例法』と記す)2)の要件である。特例法においては、戸籍の性別の記載を変更するにあたって、いくつかの要件を示している。その要件の一つに「生殖腺がないこと又は永続的に欠く状態にあること」というものがある。これは実質上、精巣や卵巣といった生殖腺の除去手術を要件としていると解釈できる。この手術により、生殖能力を喪失するのだが、法的性別の変更手続きにおいて、こういった要件を定めるのは人権侵害であるとの考えが、近年欧米を中心に広がり、日本の特例法に対しても批判が向けられるようになった。
一方、1990年代後半からの、日本の性同一性障害治療の取り組みは、性別適合手術の社会的な承認を目指して進んできたという側面がある。すなわち、日本では1960年代に、性転換手術(性別適合手術)を行った医師が有罪判決を受け、その後30年近く手術がタブー視され続けた。1990年代後半になり、ようやく性別適合手術が公で認められるようになったのである。よって、医療現場でも性別適合手術を中心に、臨床が進められてきた現状がある。ところが、法的性別の変更において、手術要件を科すことが問題視されるようになると、医療現場はややこしい状況に置かれることになる。
もちろん精神科医自身が、手術を執刀するわけではないが、手術を行う適応の判断においては、精神科医が中心的な役割を果たす。戸籍を変更したい理由で手術を望むものに、手術を受けさせる場合、医療倫理に反する行為である可能性がある。理屈の上では、手術を望むものに対しては、手術を行えるようにする一方で、もっぱら戸籍の性別を変える目的で手術を受けようとするものには、手術をうけたりはしないように留意する、という態度でよいかとも思われる。しかし、臨床の現場ではそうすっきりと割り切れる問題ではない。「人間の意思決定とは何か」という問題に突き当たるからである。「手術をしたい」と望む場合に、それが身体的な性別違和感が著しく、手術により、その苦悩が軽減させたいからなのか、それとももっぱら戸籍の性別を変更するために、本来は望んでいない手術を、仕方なく望むのかは、明確に二分されるものではない。複数の選択肢があり、どれを選択しても、その選択が等しく尊重される場合に限り、人間の意思決定と言えるのではないだろうか。別の選択肢を選んだ場合に、それが尊重されないのであれば、その人に自由な意思決定の機会が与えられているとはいいがたい。すなわち、戸籍の性別変更を望むものに対して、手術を受ける以外に選択肢がないのであれば、それは自由意思による決定とはいいがたい。臨床の場面において、表面的には自由意思による自己決定にみえて、実情は本来望んでいない手術へ誘導しているのかという危惧を抱くのである。
病理化と脱病理化
性別違和を精神疾患と捉えるか否かについて、世界的な議論が続いてきた。日本で広く知られてきた「性同一性障害」という精神疾患名は、DSM-5で、「性別違和」と名称こそ変わったが、DSMに残ったということは、あいかわらず、精神疾患として扱われているということである。いっぽうで2022年に実効となったICD-11では、名称が「gender incongruence(性別不合)」と変更されただけでなく、分類される章が「精神及び行動の障害」から「conditions related to sexual health」へと移動した。すなわち、ICD-11では、もはや精神疾患ではなくなったのである3)。
このように精神疾患であった「性同一性障害」は、DSM-5では「性別違和」という名称変更があったが、精神疾患として残り、ICD-11では「性別不合」という名称変更とともに、精神疾患ではなくなったという、相反する扱いとなっている。
実際のところ、精神疾患であってもなくても、臨床の現場で行うことにそれほどの違いはない。性別についての悩みを聞き、診断をし、よりよい生活が送れるように一緒に考え、身体治療について検討していく。こういった流れに、いずれにせよ進んでいくだろう。しかしながら、やはりその前提とした、精神疾患であるかどうかはやはり大きな違いである。人間のある状態を、精神疾患として捉えるかどうかは、診療の土台となるべき、一番大事な部分だと思うからだ。そこがあいまいなまま、診療をしているのは、足元がぐらついているのに、上半身だけで、何かごまかしながら、診療をしている感じがする。精神疾患でなくなり、脱病理化を果たしたのであれば、そこからきちんと積み上げていく、診療の組み立てをしっかり構築すべきかと思う。
他の精神疾患と治療の適応
発達障害、知的障害、統合失調症等の精神病などがあり、性別違和を訴え、受診する者も多くいる。その場合もいろいろと悩ましいことが生じる。悩ましい点は大別すると以下の4点である。
第1には診断である。元の精神疾患の症状として、性別違和の訴えがあるのか。性別違和の症状としてほかの精神症状があるのか。他の精神疾患と性別違和がともにあるのか。この3つを明確に分けるのは困難なことが多い。たとえば、性別違和があり、他者とのコミュニケーションが苦手なものもいるが、発達障害があるのかどうなのか診断は悩ましい。
第2は、意思能力の問題である。性別違和を訴え、性別適合手術を希望する場合、手術を実施することは、本人に身体的に大きな影響をもたらす。その手術についての身体的メリットデメリットを判断する能力はどれくらい必要と考えるのが良いのか。また、改名や戸籍の性別の変更という、法的手続きを望むものもいる。こういった法的手続きに必要な能力はどれくらいなのか。特に軽度から中程度の知的障害で性別違和を訴えるものへの対応で悩むことになる。この問題は、法律の世界でも、医学界でもほとんどこれまで論じられていなく、妥当なラインを私個人が判断するのは、困難だと感じる。
第3は、身体治療適応の判断である。ホルモン療法や、手術療法といった身体治療にあたっては、その医学的適応があるかを判断する必要がある。この判断にあたっては、第2のところで述べた、意思能力の問題がまずある。意思能力があると考えられた場合でも、適応の判断にあたっては、現在の本人の生活状況も考慮の対象となる。望みの性別である程度生活できている場合や、カミングアウト等を通じて周囲からの理解を得られていることが望ましい。しかし、他の精神疾患があり、十分には社会生活が送られていない場合、どの程度の状況をもって、身体治療の適応があるといえるのか、そこにも明確な基準はなく、悩ましい問題となる。
第4は、「精神障害者の治療を受ける権利」をどう考えるかという問題である。私自身の臨床においては、たとえば、統合失調症で幻覚妄想を有する場合は、たとえ性別の違和感を訴えても「今の治療をしっかり続けてください」と述べ、性別違和についての治療はお断りし、現在治療中の主治医のもとにお返しすることが多い。ただ、そういう時に、患者さんから「精神的な病気があると、性別の治療を受ける権利はないのか。それは精神障害者への差別ではないか」と、問い詰められることもある。正直なところ、こういった訴えにも一理あると思う。ただ、ホルモン療法や手術療法は、精神的にも負担や影響が大きいため、元の疾患が悪化する可能性があるので、治療はやはり難しいとは思う。しかし、それでも患者が、治療を望む場合に、どのあたりに適応の線引きがあるのか悩ましいと感じている。
以上4つに分けて記したが、実際にはこの4つが混沌と頭の中に回りながら、診療をすることなる。あまりこれまで論じられていない問題であり、今後妥当な指針ができることを希望している。
成人年齢の引き下げ
令和4年4月より、成人年齢が20歳から18歳へと引き下げられることになった。このことは、性別違和の臨床においては、大きな意味を持つ。性別違和の治療の適応は、年齢による区切りがある。ホルモン療法と、乳房切除術は原則18歳以上である。性別適合手術は20歳以上である。また特例法で戸籍の性別が変更できるのはこれまで20歳以上であった。
この年齢の区切りにより、治療の長期的プランは一定の流れを持っていた。すなわち、18歳未満のものが受診しても、すぐには身体治療には進めない。経過を見つつ、高校生であれば高3の誕生日を過ぎ、ホルモン療法の開始となる。高卒後は、学校の制服から解放され、自分の好きな服装を着ることができる。大学や専門学校、あるいは仕事先で、望みの性別で生活してみる。そういった生活を2年過ごし、望みの性別として生きていくことが、本当に自分にとって適したことであるという、実績と確信をもって、20歳を迎え、性別適合手術を受ける。手術を受けた後、戸籍を変更し、法的にも望んだ性別で生きていく。こういった流れで進んでいっていた。16歳、17歳で受診してきても、その後の3,4年のスパンを踏まえて、対応していくことができた。思春期においては、一時的にジェンダー・アイデンティティが揺らぐものや、性別違和感が強まる者もいる。こういったタイプのものは、慌てて性別適合手術を受けると、その後に後悔する、という事態も招きかねない。しかし20歳までに3,4年の期間があれば、その間に、いろいろ考えたり経験を広げたりする余裕があり、術後の後悔を防ぐことができた。
しかし、令和4年4月より成人年齢が18歳に引き下げられた。これに伴い、性別適合手術及び戸籍の性別変更は18歳から可能となる。すると、ホルモン開始と同時に、手術を望むものも出てきそうだ。あるいは、十分に望みの性別での生活を試すこともなく、高校在学中に手術を望むものも出てきそうだ。また、現在、手術は保険適用が認められているが、ホルモン療法は保険適用が認められていない。そのため、ホルモン療法後に手術を行うことは、混合診療にあたり保険適用は認められなくなる。現状は、ホルモン療法をせず保険適用で乳房切除術を先に行うことはあるが、性別適合手術は、通常ホルモン療法後に行うため自費診療となっている。しかし、18歳で性別適合手術が可能となれば、ホルモン療法をやらずにいきなり、性別適合手術を望むものも増える可能性が高い。
このように、従来は数年のスパンで慎重に治療を進めていくことができたのだが、今後は18歳で一挙に治療を望むものが出てくるという可能性もある。ただ、それだと、手術を後悔する人もでてきそうなので、やはり慎重に進めていきたい、というのが治療者側の立場としての考えである。本人の望みとこちらの考えがぶつかる場面も増えそうである。
この問題は、4月から悩むことになりそうなテーマである。
おわりに
本稿は、性別違和の臨床において筆者が悩んでいることを記した。個人的悩みであっても、性別違和診療の構造的問題やあるいは、精神科診療全体にもかかわる普遍的問題も隠されているかと思い、書かせていただいた。まとまりのない文章となってしまったが、何かのヒントになれば幸いである。
文献
1)Derald Wing Sue(2010) Microaggressions in everyday life. John Wiley &Sons, Inc (マイクロアグレッション研究会訳(2020) 日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション,明石書店)
2)南野千恵子(2004) 【解説】性同一性障害者性別取扱特例法 日本加除出版
3)針間克己(2019) 性別違和・性別不合へ 2019 緑風出版